またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです――   作:ブンチョウ

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 第1話 またソロ攻略ですか?

 村を焼くことに、特別な意味はなかった。

 

 少なくとも、ナザリック地下大墳墓の玉座の間で交わされる議題としては、そうだった。

 

 その村の名は、報告書の三行目に記されている。

 

 人口。

 家屋数。

 家畜数。

 井戸の数。

 周辺集落までの距離。

 逃亡者が流れるであろう街道。

 火災発生から最初の噂が隣村へ届くまでの推定時間。

 

 そこには、村人の名前はなかった。

 

 必要がないからだ。

 

「焼却は夜明け前が最適かと存じます」

 

 デミウルゴスは、いつも通り穏やかに言った。

 

 その声には怒りも高揚もない。冷えた紅茶を飲み終えた者が、次の一杯を求める程度の自然さだった。

 

「住民の二割を意図的に逃がします。逃亡経路は西街道に限定し、追跡は行いません。恐慌状態にある証言者は、我々が手を加えた宣伝役よりも効率よく恐怖を広めるでしょう」

 

 玉座に座すアインズ・ウール・ゴウンは、黙っていた。

 

 デミウルゴスの説明は続く。

 

「残る八割のうち、四割は焼死体として放置。二割はアンデッド化の素材に。残り二割は、領主館前に配置する案を考えております。これにより、領主への圧力と周辺貴族への示威を同時に達成できます」

 

 実に効率的だった。

 

 ナザリックの守護者たちは、誰一人として眉をひそめない。

 

 アルベドは、アインズの返答を待っている。

 

 シャルティアは、少し退屈そうに爪を眺めている。

 

 ここで問われているのは、村を焼くべきかどうかではない。

 

 どのように焼けば、最も効果が高いか。

 

 それだけだった。

 

「ふむ」

 

 アインズは、低く声を出した。

 

 支配者の沈思。

 

 玉座の間の者たちは、そう受け取っただろう。

 

 実際には、鈴木悟が頭の中で必死に言葉を探していた。

 

 ええと。

 

 この場合、何と言えばいい。

 

 承認するのは簡単だ。

 

 だが、簡単すぎる。簡単すぎる命令は、逆に浅く見えないだろうか。

 

 いや。

 

 村を焼く命令に、深いも浅いもあるのか。

 

 そこまで考え、アインズは思考を止めた。

 

 余計なことを考えるな。

 

 ナザリックを守る。

 アインズ・ウール・ゴウンの名を広める。

 それが最優先だ。

 

 この世界は敵に満ちている。まだ見ぬ強者も、世界級の脅威も、プレイヤーの可能性もある。甘さは隙になる。隙はナザリックを危険に晒す。

 

 そうだ。

 

 これは必要な処置だ。

 

「実行せよ」

 

 玉座の間に、静かな服従が満ちた。

 

 デミウルゴスが恭しく頭を下げる。

 

「御意」

 

 その一言で、村は焼かれることになった。

 

 村人たちはまだ知らない。

 

 夜が明ける前に、自分たちの家が燃え、家族が分けられ、名前のない数字として処理されることを。

 

 知らないまま眠っている。

 

 そのことについて、玉座の間で考える者はいなかった。

 

 アインズもまた、考えなかった。

 

 考えれば、玉座に座っていられなくなるからだ。

 

     *

 

 部隊は、夜半に出た。

 

 編成は小規模だった。

 

 偵察用アンデッド三体。

 隠密行動に適した悪魔二体。

 火災誘導用の下級精霊。

 逃亡者の流路を制限するための召喚魔物数体。

 

 過剰戦力ではない。

 

 むしろ、ナザリック基準では控えめだった。

 

 村を焼くのに、守護者を出す必要はない。

 

 人間の小村など、蝋燭の火を消すより簡単に消える。

 

 そのはずだった。

 

 数時間後。

 

 部隊は、全員帰還した。

 

 欠員なし。

 損傷なし。

 消耗なし。

 戦闘痕なし。

 

 そして、任務未達成。

 

「……どういうことでありんす?」

 

 シャルティアの声が、玉座の間で甘く響いた。

 

 甘いが、そこに含まれているものは砂糖ではない。

 

 帰還した悪魔が、床に額を擦りつける。

 

「申し訳ございません。対象村落に到達できませんでした」

 

 玉座の間の空気が止まった。

 

 アインズは動かなかった。

 

 いや、動けなかった。

 

 到達できなかった?

 

 何を言っている。

 

 対象は村だ。動くわけがない。村が回避行動を取るはずもない。いや、そういう魔法もあるのかもしれないが、普通はない。たぶんない。

 

 少なくとも、村を焼きに行った部隊が「村に到達できませんでした」と帰ってくる状況は想定していない。

 

 想定していない報告が上がるのは、いつでも胃に悪い。

 

 胃はないが。

 

「続けろ」

 

 アインズは言った。

 

 声は低く、よく響いた。

 

 中身の鈴木悟が混乱していることを、誰も知らない。

 

「はっ。地図に記された街道を進行。目標地点までの距離、方角、周辺地形に誤りはありませんでした。しかし、対象村落の手前にある廃水車小屋を通過後、進路が再び同地点へ戻りました」

 

「幻術か?」

 

 アルベドの声音が低くなる。

 

 報告者の身体が震えた。

 

「確認しましたが、幻術反応は検出されておりません。精神干渉、空間転移、強制帰還、いずれの痕跡も確認できませんでした」

 

 デミウルゴスが前へ出た。

 

 その表情から、いつもの柔らかな微笑が消えている。

 

「つまり、君たちは通常の道を進んだと認識していながら、何度も同じ地点へ戻ったということかね」

 

「はっ。三度試みました。方角を変え、森を抜け、空路も使用しました。しかし、いずれも水車小屋の前へ戻りました」

 

「村の存在は確認できているのか?」

 

「遠方からの視認では確認済みです。煙、家畜の声、見張りの火、すべて通常通りでした。ですが接近できません」

 

 玉座の間に、沈黙が広がった。

 

 アインズはその沈黙の中で考える。

 

 この世界の魔法か。

 未知のアイテムか。

 プレイヤーか。

 罠か。

 法国か。

 竜王か。

 

 候補はいくつもある。

 

 だが、どれもぴたりとはまらない。

 

 敵意が薄すぎる。

 

 攻撃されていない。

 部隊は殺されていない。

 武装も奪われていない。

 情報も抜かれていない。

 

 ただ、目的だけが達成できなかった。

 

 村を焼く。

 

 その一点だけが、許されなかった。

 

「現場に痕跡は」

 

 アインズは問うた。

 

「一つだけ、ございます」

 

 銀の盆が運ばれてきた。

 

 盆の上には、羽ペンが一本置かれていた。

 

 折れている。

 

 中央から斜めに、きれいに。

 

 それだけだった。

 

 アインズは、羽ペンを見た。

 

 何の変哲もない、ただの羽ペン。

 

 魔力の気配はない。

 呪いもない。

 細工も見当たらない。

 

 だが、彼の内側で、何かが小さく音を立てた。

 

 折れた羽ペン。

 

 馬鹿馬鹿しい。

 

 そんなはずがない。

 

 記憶の底から、文字の断片が浮かぶ。

 

『説明なげーよ』

 

『じゃあ折るわ』

 

『またかよ』

 

『続きは察して、モモンガさん』

 

 チャット欄。

 夜更け。

 誰かの笑い。

 攻略予定。

 いつもの脱線。

 

 意味のない冗談だった。

 

 外の人間が知るはずのない、ギルド内の小さな符丁だった。

 

 アインズは、羽ペンを見続けた。

 

 偶然だ。

 

 羽ペンは折れる。

 村の近くに落ちていてもおかしくない。

 斜めに折れることもある。

 たまたま水車小屋にあったのだ。

 

 そうだ。

 

 たまたまだ。

 

 では、なぜ部隊は帰ってきた。

 

 なぜ村は焼かれなかった。

 

 なぜ誰も傷つけられていない。

 

 なぜ、こんな物を残した。

 

「アインズ様」

 

 アルベドの声がした。

 

 アインズは返事をしなかった。

 

 一拍。

 

 遅れた。

 

 しまった。

 

 玉座の間の全員が、その一拍を聞いたような気がした。

 

「……問題ない」

 

 アインズは言った。

 

 平坦な声だった。

 

 だが、自分の中では平坦ではなかった。

 

 冷たいものが、骨の隙間に入り込むような感覚がある。

 

 アンデッドに寒気などあるはずがない。

 

 ないはずなのに、ある。

 

「デミウルゴス」

 

「はっ」

 

「この現象をどう見る」

 

「複数の可能性がございます」

 

 デミウルゴスは、すぐに答えた。

 

 だが、その声にはわずかな硬さが混じっている。

 

「第一に、未知の空間系魔法。第二に、世界級アイテムに類する効果。第三に、我々に対する限定的な行動阻害。第四に、精神干渉の可能性を偽装した別種の認識操作」

 

「敵の目的は」

 

「現時点では、村落の保護と推測されます」

 

 デミウルゴスは一度言葉を切った。

 

「ただし、我々の部隊を無傷で返したことには意味があるかと」

 

「言え」

 

「敵対意思の不在を示した、あるいは、我々の行動のみを選択的に制限できるという示威。いずれにせよ、極めて不快です」

 

 不快。

 

 デミウルゴスがその言葉を使った。

 

 アインズは、そこで初めて事態の重さを別の角度から理解した。

 

 これは単なる作戦失敗ではない。

 

 ナザリックの手が、払われたのだ。

 

 しかも、傷つけることなく。

 

 まるで、子どもの手から刃物を取り上げるように。

 

「加えて」

 

 デミウルゴスが、眼鏡の位置をわずかに直した。

 

「敵が真に測っているものは、我々の戦力ではない可能性があります」

 

「何?」

 

「部隊を殲滅せず、村も隠さず、ただ目的の達成だけを阻害した。であれば、敵は戦闘能力の誇示よりも、こちらの判断の変化を観測しているのではないかと」

 

 デミウルゴスの視線は、床に伏せたまま動かない。

 

 動かないのに、アインズにはその言葉が自分へ向けられているように聞こえた。

 

「つまり、標的は村でも部隊でもない。ナザリックの次の行動……あるいは、アインズ様の御判断そのもの」

 

 やめろ。

 

 アインズは内心で呟いた。

 

 その可能性を口に出すな。

 

 玉座の間で、誰も息をしなかった。

 

 いや、息をする必要のない者も多いが、とにかく空気が動かなかった。

 

「対象村落への第二次作戦を」

 

 アルベドが言いかけた。

 

 声が冷たい。

 

「許可いただければ、私が直接参ります。村そのものを更地にしてでも、敵の正体を」

 

「不要だ」

 

 アインズは即答した。

 

 早すぎた。

 

 まただ。

 

 まずい。

 

 アルベドの目が揺れる。

 

 その揺れは、心配だけではない。

 

 怒り。

 嫉妬。

 疑念。

 

 彼女は折れた羽ペンを見ていなかった。

 

 それを握ろうとして止まった、アインズの骨の指を見ていた。

 

「……アインズ様」

 

 アルベドの声は静かだった。

 

「その羽ペンに、何か意味があるのでしょうか」

 

 玉座の間が、さらに静かになる。

 

 アインズは一瞬、答えを失った。

 

 ある。

 

 意味はある。

 

 だが、説明できない。

 

 説明すれば、「モモンガ」という名が出る。

 

 ギルド時代の話になる。

 

 かつての仲間たちの話になる。

 

 アルベドの知らない、NPCたちの知らない、アインズ・ウール・ゴウンになる前の自分の話になる。

 

 そんなものを、この場で語れるはずがない。

 

「罠の可能性がある」

 

 アインズは言った。

 

「敵はこちらの反応を見ている。意味があるように見える物を置き、我々の思考を誘導しようとしているのだろう」

 

 半分は嘘ではなかった。

 

 半分は、ほぼ願望だった。

 

 そうであってほしい。

 

 誰かの罠であってほしい。

 

 その方が、まだ楽だ。

 

「なるほど」

 

 デミウルゴスが頭を下げる。

 

「我々の心理を試すための餌。アインズ様はすでに、その意図を見抜かれていたのですね」

 

 違う。

 

 見抜いてなどいない。

 

 ただ、見たくないだけだ。

 

「その通りだ」

 

 アインズは答えた。

 

 言葉とは便利なものだ。

 

 内心がどれほど乱れていても、声さえ整えれば、支配者に見える。

 

「第二次作戦は延期する。対象村落は監視に留めよ」

 

 シャルティアが不満そうに唇を尖らせた。

 

「焼かないのでありんすか?」

 

「今はな」

 

 アインズは言った。

 

「敵の能力が不明なまま、同じ目的で再度動くのは愚策だ。村は残す。生きたまま観測する。誰が外部と接触し、誰が守られ、誰が何も知らぬふりをしているのか。焼け跡より、生きた村の方が情報は多い」

 

 それらしい。

 

 実にそれらしい理屈だった。

 

 アインズ自身、今の言葉に少し感心した。

 

 デミウルゴスは、さらに深く頭を垂れる。

 

「御意。恐怖を与えるだけなら焼却は有効。しかし、未知の敵を釣る餌としては、村を残す方が上策。私の浅慮、恥じ入るばかりでございます」

 

 また勝手に補強された。

 

 だが今回は助かった。

 

「羽ペンは私が預かる」

 

 アインズは言った。

 

 今度は迷わなかった。

 

 それを聞いたアルベドの目が、かすかに細くなる。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 他の者なら見逃しただろう。

 

 だが、アインズは見てしまった。

 

 彼女は、この羽ペンを敵の証拠としてではなく、自分の知らない何かとして見ている。

 

「畏まりました」

 

 デミウルゴスが盆を差し出す。

 

 アインズは折れた羽ペンを手に取った。

 

 軽い。

 

 あまりにも軽い。

 

 それなのに、ワールドアイテムより重い気がした。

 

「この件は、私が直接確認する」

 

 玉座の間に緊張が走った。

 

 アルベドがすぐに一歩進む。

 

「お供いたします」

 

「不要だ」

 

 また、早かった。

 

 アインズは、内心で顔を覆った。

 

 落ち着け。

 

 急ぐな。

 

 支配者らしく、余裕を持て。

 

「敵は、私に対して何らかの誘導を行っている可能性がある。側近を伴えば、反応の幅を増やすだけだ」

 

「しかし」

 

「アルベド」

 

 名を呼ぶ。

 

 それだけで、彼女は口を閉じた。

 

 アインズは言葉を続ける。

 

「ナザリックの守りを任せる」

 

 アルベドは、胸に手を当てて頭を下げた。

 

「御意」

 

 その声音は従順だった。

 

 だが、完全な納得ではない。

 

 アインズはそれを理解していた。

 

 理解してしまった。

 

 私の知らないアインズ様。

 

 彼女の沈黙が、そう言っているようだった。

 

 違う。

 

 君たちが知らないのは、アインズではない。

 

 モモンガだ。

 

 そう思い、アインズはすぐにその思考を消した。

 

 考えるな。

 

 その名を、今考えるな。

 

「私は、アインズ・ウール・ゴウンである」

 

 玉座の間の空気が変わった。

 

 その名は、ナザリックの絶対だった。

 

 守護者たちが、下僕たちが、畏敬をもって頭を下げる。

 

 アインズはその視線を受けながら、玉座を降りた。

 

 王として。

 

 絶対者として。

 

 折れた羽ペンを握る骨の指だけが、わずかに強張っていた。

 

     *

 

 私室に戻ると、アインズは扉を閉じた。

 

 外部からの遮断を確認する。

 

 探知魔法。

 盗聴対策。

 転移阻害。

 精神干渉への備え。

 

 念のため、さらに重ねる。

 

 それでも不安は消えなかった。

 

 ナザリックの守りは完璧だ。

 

 完璧であるはずだ。

 

 完璧でなければならない。

 

 アインズは机の上に羽ペンを置いた。

 

 折れた羽ペン。

 

 何も起きない。

 

 魔力反応はない。

 隠された文字もない。

 ただの羽ペンだ。

 

「偶然だ」

 

 アインズは呟いた。

 

 部屋の中で、自分の声が妙に小さく聞こえた。

 

「偶然でなければ、罠だ」

 

 もう一度、言う。

 

「罠でなければ、プレイヤーだ」

 

 言葉を並べる。

 

 論理的に。

 

 可能性を潰すために。

 

「プレイヤーであっても、ギルドメンバーとは限らない」

 

 そこで止まった。

 

 限らない。

 

 その言い方は、可能性を残している。

 

 アインズは自分の言葉に苛立った。

 

 違う。

 

 ギルドメンバーではない。

 

 彼らは来ていない。

 来るはずがない。

 

 サービス終了のあの時、自分一人だけが残った。

 

 皆は去った。

 

 仕事。

 家庭。

 体調。

 現実。

 仕方のない理由。

 

 誰も悪くない。

 

 誰も悪くないが、自分は一人だった。

 

 その事実だけは残った。

 

「……だから、違う」

 

 羽ペンは答えない。

 

 当然だ。

 

 羽ペンは喋らない。

 

 そのはずだった。

 

 机の上に置かれていた白紙が、わずかに揺れた。

 

 風はない。

 

 アインズは即座に魔法を走らせる。

 

 反応なし。

 侵入なし。

 呪詛なし。

 

 それなのに、白紙の上に文字が浮かび上がっていく。

 

 インクではない。

 

 焼け焦げでもない。

 

 まるで、紙そのものが昔のログを思い出したように、薄い線を作る。

 

『モモンガさん』

 

 アインズは、動かなかった。

 

 動けなかった。

 

 続きが浮かぶ。

 

『またソロ攻略ですか?』

 

 部屋が遠くなった。

 

 ナザリックの私室ではない。

 

 豪奢な調度も、完璧な防衛も、アンデッドの身体も、すべてが一瞬だけ薄くなる。

 

 見えたのは、かつてのギルドホールだった。

 

 誰かが笑っている。

 

 誰かが文句を言っている。

 

 誰かが攻略手順を間違え、誰かがそれを茶化す。

 

 モモンガさん、また一人で行くんですか。

 待ってくださいよ。

 準備くらい手伝わせてください。

 ソロ攻略は悪い癖ですよ。

 

 そんな声が、あった気がした。

 

「誰だ」

 

 アインズは問うた。

 

 返事はない。

 

「誰なんだ」

 

 文字は増えない。

 

 ただ、その一文だけがある。

 

 またソロ攻略ですか?

 

 責めているのか。

 からかっているのか。

 心配しているのか。

 

 分からない。

 

 分からないのに、ひどく聞き覚えがあった。

 

 アインズは、紙へ手を伸ばした。

 

 破り捨てればいい。

 

 罠だ。

 

 敵の心理攻撃だ。

 

 モモンガという名を使って、自分を揺さぶっている。

 

 ならば、破棄すべきだ。

 

 骨の指が紙の端に触れる。

 

 そのまま、止まった。

 

 破れなかった。

 

 理由はない。

 

 理由がないから、アインズは別の理由を作った。

 

 証拠品である。

 解析が必要だ。

 敵の手掛かりを破棄するのは愚策だ。

 

 そうだ。

 

 これは冷静な判断だ。

 

 文字は、やがて薄れて消えた。

 

 白紙だけが残る。

 

 アインズは長い間、机の前に立っていた。

 

 やがて、机の端に置かれた命令書を見た。

 

 南部村落焼却命令。

 

 すでに延期を命じた。

 

 記録上は、未知存在の観測と能力解析のためである。

 

 その判断は正しい。

 

 間違っていない。

 

 アインズは命令書を手に取った。

 

 そこには、作戦の詳細が簡潔に記されている。

 

 焼却開始時刻。

 逃亡者比率。

 死体利用区分。

 報告書提出先。

 

 村人の名前は、なかった。

 

 アインズはそれを見た。

 

 見て、何も感じなかった。

 

 感じない。

 

 感じないはずだった。

 

 アンデッドの精神抑制は、常に彼を平静に戻してくれる。

 

 戻してくれるはずだった。

 

 だが、その命令書を見ている間、なぜか紙の上に別の文字が重なって見えた。

 

 またソロ攻略ですか?

 

 アインズは命令書を破った。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

 細かな紙片になったそれを、机の上に置く。

 

 記録上、理由はある。

 

 敵の能力が不明な以上、同じ行動を繰り返すのは愚策。対象村落は観測対象として保存。部隊を無傷で返した敵の意図も解析対象。

 

 分類するなら、作戦変更。

 

 処理するなら、保全。

 

 慈悲ではない。

 

 そう記録される余地はない。

 

「私は、アインズ・ウール・ゴウンだ」

 

 声に出す。

 

 その名は、部屋の中で静かに響いた。

 

 沈黙が残った。

 

 アインズは、折れた羽ペンを見た。

 

 ただの羽ペンだ。

 

 魔力もない。

 呪いもない。

 細工もない。

 

 それでも、命令書は破られていた。

 

 その夜、南部の村は焼かれなかった。

 

 ナザリックの記録には、こう残された。

 

 対象村落、観測のため一時保全。

 

 それ以上の記述はなかった。

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