またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです―― 作:ブンチョウ
村を焼くことに、特別な意味はなかった。
少なくとも、ナザリック地下大墳墓の玉座の間で交わされる議題としては、そうだった。
その村の名は、報告書の三行目に記されている。
人口。
家屋数。
家畜数。
井戸の数。
周辺集落までの距離。
逃亡者が流れるであろう街道。
火災発生から最初の噂が隣村へ届くまでの推定時間。
そこには、村人の名前はなかった。
必要がないからだ。
「焼却は夜明け前が最適かと存じます」
デミウルゴスは、いつも通り穏やかに言った。
その声には怒りも高揚もない。冷えた紅茶を飲み終えた者が、次の一杯を求める程度の自然さだった。
「住民の二割を意図的に逃がします。逃亡経路は西街道に限定し、追跡は行いません。恐慌状態にある証言者は、我々が手を加えた宣伝役よりも効率よく恐怖を広めるでしょう」
玉座に座すアインズ・ウール・ゴウンは、黙っていた。
デミウルゴスの説明は続く。
「残る八割のうち、四割は焼死体として放置。二割はアンデッド化の素材に。残り二割は、領主館前に配置する案を考えております。これにより、領主への圧力と周辺貴族への示威を同時に達成できます」
実に効率的だった。
ナザリックの守護者たちは、誰一人として眉をひそめない。
アルベドは、アインズの返答を待っている。
シャルティアは、少し退屈そうに爪を眺めている。
ここで問われているのは、村を焼くべきかどうかではない。
どのように焼けば、最も効果が高いか。
それだけだった。
「ふむ」
アインズは、低く声を出した。
支配者の沈思。
玉座の間の者たちは、そう受け取っただろう。
実際には、鈴木悟が頭の中で必死に言葉を探していた。
ええと。
この場合、何と言えばいい。
承認するのは簡単だ。
だが、簡単すぎる。簡単すぎる命令は、逆に浅く見えないだろうか。
いや。
村を焼く命令に、深いも浅いもあるのか。
そこまで考え、アインズは思考を止めた。
余計なことを考えるな。
ナザリックを守る。
アインズ・ウール・ゴウンの名を広める。
それが最優先だ。
この世界は敵に満ちている。まだ見ぬ強者も、世界級の脅威も、プレイヤーの可能性もある。甘さは隙になる。隙はナザリックを危険に晒す。
そうだ。
これは必要な処置だ。
「実行せよ」
玉座の間に、静かな服従が満ちた。
デミウルゴスが恭しく頭を下げる。
「御意」
その一言で、村は焼かれることになった。
村人たちはまだ知らない。
夜が明ける前に、自分たちの家が燃え、家族が分けられ、名前のない数字として処理されることを。
知らないまま眠っている。
そのことについて、玉座の間で考える者はいなかった。
アインズもまた、考えなかった。
考えれば、玉座に座っていられなくなるからだ。
*
部隊は、夜半に出た。
編成は小規模だった。
偵察用アンデッド三体。
隠密行動に適した悪魔二体。
火災誘導用の下級精霊。
逃亡者の流路を制限するための召喚魔物数体。
過剰戦力ではない。
むしろ、ナザリック基準では控えめだった。
村を焼くのに、守護者を出す必要はない。
人間の小村など、蝋燭の火を消すより簡単に消える。
そのはずだった。
数時間後。
部隊は、全員帰還した。
欠員なし。
損傷なし。
消耗なし。
戦闘痕なし。
そして、任務未達成。
「……どういうことでありんす?」
シャルティアの声が、玉座の間で甘く響いた。
甘いが、そこに含まれているものは砂糖ではない。
帰還した悪魔が、床に額を擦りつける。
「申し訳ございません。対象村落に到達できませんでした」
玉座の間の空気が止まった。
アインズは動かなかった。
いや、動けなかった。
到達できなかった?
何を言っている。
対象は村だ。動くわけがない。村が回避行動を取るはずもない。いや、そういう魔法もあるのかもしれないが、普通はない。たぶんない。
少なくとも、村を焼きに行った部隊が「村に到達できませんでした」と帰ってくる状況は想定していない。
想定していない報告が上がるのは、いつでも胃に悪い。
胃はないが。
「続けろ」
アインズは言った。
声は低く、よく響いた。
中身の鈴木悟が混乱していることを、誰も知らない。
「はっ。地図に記された街道を進行。目標地点までの距離、方角、周辺地形に誤りはありませんでした。しかし、対象村落の手前にある廃水車小屋を通過後、進路が再び同地点へ戻りました」
「幻術か?」
アルベドの声音が低くなる。
報告者の身体が震えた。
「確認しましたが、幻術反応は検出されておりません。精神干渉、空間転移、強制帰還、いずれの痕跡も確認できませんでした」
デミウルゴスが前へ出た。
その表情から、いつもの柔らかな微笑が消えている。
「つまり、君たちは通常の道を進んだと認識していながら、何度も同じ地点へ戻ったということかね」
「はっ。三度試みました。方角を変え、森を抜け、空路も使用しました。しかし、いずれも水車小屋の前へ戻りました」
「村の存在は確認できているのか?」
「遠方からの視認では確認済みです。煙、家畜の声、見張りの火、すべて通常通りでした。ですが接近できません」
玉座の間に、沈黙が広がった。
アインズはその沈黙の中で考える。
この世界の魔法か。
未知のアイテムか。
プレイヤーか。
罠か。
法国か。
竜王か。
候補はいくつもある。
だが、どれもぴたりとはまらない。
敵意が薄すぎる。
攻撃されていない。
部隊は殺されていない。
武装も奪われていない。
情報も抜かれていない。
ただ、目的だけが達成できなかった。
村を焼く。
その一点だけが、許されなかった。
「現場に痕跡は」
アインズは問うた。
「一つだけ、ございます」
銀の盆が運ばれてきた。
盆の上には、羽ペンが一本置かれていた。
折れている。
中央から斜めに、きれいに。
それだけだった。
アインズは、羽ペンを見た。
何の変哲もない、ただの羽ペン。
魔力の気配はない。
呪いもない。
細工も見当たらない。
だが、彼の内側で、何かが小さく音を立てた。
折れた羽ペン。
馬鹿馬鹿しい。
そんなはずがない。
記憶の底から、文字の断片が浮かぶ。
『説明なげーよ』
『じゃあ折るわ』
『またかよ』
『続きは察して、モモンガさん』
チャット欄。
夜更け。
誰かの笑い。
攻略予定。
いつもの脱線。
意味のない冗談だった。
外の人間が知るはずのない、ギルド内の小さな符丁だった。
アインズは、羽ペンを見続けた。
偶然だ。
羽ペンは折れる。
村の近くに落ちていてもおかしくない。
斜めに折れることもある。
たまたま水車小屋にあったのだ。
そうだ。
たまたまだ。
では、なぜ部隊は帰ってきた。
なぜ村は焼かれなかった。
なぜ誰も傷つけられていない。
なぜ、こんな物を残した。
「アインズ様」
アルベドの声がした。
アインズは返事をしなかった。
一拍。
遅れた。
しまった。
玉座の間の全員が、その一拍を聞いたような気がした。
「……問題ない」
アインズは言った。
平坦な声だった。
だが、自分の中では平坦ではなかった。
冷たいものが、骨の隙間に入り込むような感覚がある。
アンデッドに寒気などあるはずがない。
ないはずなのに、ある。
「デミウルゴス」
「はっ」
「この現象をどう見る」
「複数の可能性がございます」
デミウルゴスは、すぐに答えた。
だが、その声にはわずかな硬さが混じっている。
「第一に、未知の空間系魔法。第二に、世界級アイテムに類する効果。第三に、我々に対する限定的な行動阻害。第四に、精神干渉の可能性を偽装した別種の認識操作」
「敵の目的は」
「現時点では、村落の保護と推測されます」
デミウルゴスは一度言葉を切った。
「ただし、我々の部隊を無傷で返したことには意味があるかと」
「言え」
「敵対意思の不在を示した、あるいは、我々の行動のみを選択的に制限できるという示威。いずれにせよ、極めて不快です」
不快。
デミウルゴスがその言葉を使った。
アインズは、そこで初めて事態の重さを別の角度から理解した。
これは単なる作戦失敗ではない。
ナザリックの手が、払われたのだ。
しかも、傷つけることなく。
まるで、子どもの手から刃物を取り上げるように。
「加えて」
デミウルゴスが、眼鏡の位置をわずかに直した。
「敵が真に測っているものは、我々の戦力ではない可能性があります」
「何?」
「部隊を殲滅せず、村も隠さず、ただ目的の達成だけを阻害した。であれば、敵は戦闘能力の誇示よりも、こちらの判断の変化を観測しているのではないかと」
デミウルゴスの視線は、床に伏せたまま動かない。
動かないのに、アインズにはその言葉が自分へ向けられているように聞こえた。
「つまり、標的は村でも部隊でもない。ナザリックの次の行動……あるいは、アインズ様の御判断そのもの」
やめろ。
アインズは内心で呟いた。
その可能性を口に出すな。
玉座の間で、誰も息をしなかった。
いや、息をする必要のない者も多いが、とにかく空気が動かなかった。
「対象村落への第二次作戦を」
アルベドが言いかけた。
声が冷たい。
「許可いただければ、私が直接参ります。村そのものを更地にしてでも、敵の正体を」
「不要だ」
アインズは即答した。
早すぎた。
まただ。
まずい。
アルベドの目が揺れる。
その揺れは、心配だけではない。
怒り。
嫉妬。
疑念。
彼女は折れた羽ペンを見ていなかった。
それを握ろうとして止まった、アインズの骨の指を見ていた。
「……アインズ様」
アルベドの声は静かだった。
「その羽ペンに、何か意味があるのでしょうか」
玉座の間が、さらに静かになる。
アインズは一瞬、答えを失った。
ある。
意味はある。
だが、説明できない。
説明すれば、「モモンガ」という名が出る。
ギルド時代の話になる。
かつての仲間たちの話になる。
アルベドの知らない、NPCたちの知らない、アインズ・ウール・ゴウンになる前の自分の話になる。
そんなものを、この場で語れるはずがない。
「罠の可能性がある」
アインズは言った。
「敵はこちらの反応を見ている。意味があるように見える物を置き、我々の思考を誘導しようとしているのだろう」
半分は嘘ではなかった。
半分は、ほぼ願望だった。
そうであってほしい。
誰かの罠であってほしい。
その方が、まだ楽だ。
「なるほど」
デミウルゴスが頭を下げる。
「我々の心理を試すための餌。アインズ様はすでに、その意図を見抜かれていたのですね」
違う。
見抜いてなどいない。
ただ、見たくないだけだ。
「その通りだ」
アインズは答えた。
言葉とは便利なものだ。
内心がどれほど乱れていても、声さえ整えれば、支配者に見える。
「第二次作戦は延期する。対象村落は監視に留めよ」
シャルティアが不満そうに唇を尖らせた。
「焼かないのでありんすか?」
「今はな」
アインズは言った。
「敵の能力が不明なまま、同じ目的で再度動くのは愚策だ。村は残す。生きたまま観測する。誰が外部と接触し、誰が守られ、誰が何も知らぬふりをしているのか。焼け跡より、生きた村の方が情報は多い」
それらしい。
実にそれらしい理屈だった。
アインズ自身、今の言葉に少し感心した。
デミウルゴスは、さらに深く頭を垂れる。
「御意。恐怖を与えるだけなら焼却は有効。しかし、未知の敵を釣る餌としては、村を残す方が上策。私の浅慮、恥じ入るばかりでございます」
また勝手に補強された。
だが今回は助かった。
「羽ペンは私が預かる」
アインズは言った。
今度は迷わなかった。
それを聞いたアルベドの目が、かすかに細くなる。
ほんの一瞬だった。
他の者なら見逃しただろう。
だが、アインズは見てしまった。
彼女は、この羽ペンを敵の証拠としてではなく、自分の知らない何かとして見ている。
「畏まりました」
デミウルゴスが盆を差し出す。
アインズは折れた羽ペンを手に取った。
軽い。
あまりにも軽い。
それなのに、ワールドアイテムより重い気がした。
「この件は、私が直接確認する」
玉座の間に緊張が走った。
アルベドがすぐに一歩進む。
「お供いたします」
「不要だ」
また、早かった。
アインズは、内心で顔を覆った。
落ち着け。
急ぐな。
支配者らしく、余裕を持て。
「敵は、私に対して何らかの誘導を行っている可能性がある。側近を伴えば、反応の幅を増やすだけだ」
「しかし」
「アルベド」
名を呼ぶ。
それだけで、彼女は口を閉じた。
アインズは言葉を続ける。
「ナザリックの守りを任せる」
アルベドは、胸に手を当てて頭を下げた。
「御意」
その声音は従順だった。
だが、完全な納得ではない。
アインズはそれを理解していた。
理解してしまった。
私の知らないアインズ様。
彼女の沈黙が、そう言っているようだった。
違う。
君たちが知らないのは、アインズではない。
モモンガだ。
そう思い、アインズはすぐにその思考を消した。
考えるな。
その名を、今考えるな。
「私は、アインズ・ウール・ゴウンである」
玉座の間の空気が変わった。
その名は、ナザリックの絶対だった。
守護者たちが、下僕たちが、畏敬をもって頭を下げる。
アインズはその視線を受けながら、玉座を降りた。
王として。
絶対者として。
折れた羽ペンを握る骨の指だけが、わずかに強張っていた。
*
私室に戻ると、アインズは扉を閉じた。
外部からの遮断を確認する。
探知魔法。
盗聴対策。
転移阻害。
精神干渉への備え。
念のため、さらに重ねる。
それでも不安は消えなかった。
ナザリックの守りは完璧だ。
完璧であるはずだ。
完璧でなければならない。
アインズは机の上に羽ペンを置いた。
折れた羽ペン。
何も起きない。
魔力反応はない。
隠された文字もない。
ただの羽ペンだ。
「偶然だ」
アインズは呟いた。
部屋の中で、自分の声が妙に小さく聞こえた。
「偶然でなければ、罠だ」
もう一度、言う。
「罠でなければ、プレイヤーだ」
言葉を並べる。
論理的に。
可能性を潰すために。
「プレイヤーであっても、ギルドメンバーとは限らない」
そこで止まった。
限らない。
その言い方は、可能性を残している。
アインズは自分の言葉に苛立った。
違う。
ギルドメンバーではない。
彼らは来ていない。
来るはずがない。
サービス終了のあの時、自分一人だけが残った。
皆は去った。
仕事。
家庭。
体調。
現実。
仕方のない理由。
誰も悪くない。
誰も悪くないが、自分は一人だった。
その事実だけは残った。
「……だから、違う」
羽ペンは答えない。
当然だ。
羽ペンは喋らない。
そのはずだった。
机の上に置かれていた白紙が、わずかに揺れた。
風はない。
アインズは即座に魔法を走らせる。
反応なし。
侵入なし。
呪詛なし。
それなのに、白紙の上に文字が浮かび上がっていく。
インクではない。
焼け焦げでもない。
まるで、紙そのものが昔のログを思い出したように、薄い線を作る。
『モモンガさん』
アインズは、動かなかった。
動けなかった。
続きが浮かぶ。
『またソロ攻略ですか?』
部屋が遠くなった。
ナザリックの私室ではない。
豪奢な調度も、完璧な防衛も、アンデッドの身体も、すべてが一瞬だけ薄くなる。
見えたのは、かつてのギルドホールだった。
誰かが笑っている。
誰かが文句を言っている。
誰かが攻略手順を間違え、誰かがそれを茶化す。
モモンガさん、また一人で行くんですか。
待ってくださいよ。
準備くらい手伝わせてください。
ソロ攻略は悪い癖ですよ。
そんな声が、あった気がした。
「誰だ」
アインズは問うた。
返事はない。
「誰なんだ」
文字は増えない。
ただ、その一文だけがある。
またソロ攻略ですか?
責めているのか。
からかっているのか。
心配しているのか。
分からない。
分からないのに、ひどく聞き覚えがあった。
アインズは、紙へ手を伸ばした。
破り捨てればいい。
罠だ。
敵の心理攻撃だ。
モモンガという名を使って、自分を揺さぶっている。
ならば、破棄すべきだ。
骨の指が紙の端に触れる。
そのまま、止まった。
破れなかった。
理由はない。
理由がないから、アインズは別の理由を作った。
証拠品である。
解析が必要だ。
敵の手掛かりを破棄するのは愚策だ。
そうだ。
これは冷静な判断だ。
文字は、やがて薄れて消えた。
白紙だけが残る。
アインズは長い間、机の前に立っていた。
やがて、机の端に置かれた命令書を見た。
南部村落焼却命令。
すでに延期を命じた。
記録上は、未知存在の観測と能力解析のためである。
その判断は正しい。
間違っていない。
アインズは命令書を手に取った。
そこには、作戦の詳細が簡潔に記されている。
焼却開始時刻。
逃亡者比率。
死体利用区分。
報告書提出先。
村人の名前は、なかった。
アインズはそれを見た。
見て、何も感じなかった。
感じない。
感じないはずだった。
アンデッドの精神抑制は、常に彼を平静に戻してくれる。
戻してくれるはずだった。
だが、その命令書を見ている間、なぜか紙の上に別の文字が重なって見えた。
またソロ攻略ですか?
アインズは命令書を破った。
一度。
二度。
三度。
細かな紙片になったそれを、机の上に置く。
記録上、理由はある。
敵の能力が不明な以上、同じ行動を繰り返すのは愚策。対象村落は観測対象として保存。部隊を無傷で返した敵の意図も解析対象。
分類するなら、作戦変更。
処理するなら、保全。
慈悲ではない。
そう記録される余地はない。
「私は、アインズ・ウール・ゴウンだ」
声に出す。
その名は、部屋の中で静かに響いた。
沈黙が残った。
アインズは、折れた羽ペンを見た。
ただの羽ペンだ。
魔力もない。
呪いもない。
細工もない。
それでも、命令書は破られていた。
その夜、南部の村は焼かれなかった。
ナザリックの記録には、こう残された。
対象村落、観測のため一時保全。
それ以上の記述はなかった。