またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです――   作:ブンチョウ

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第12話 追跡欄

 リーネは、眠っていなかった。

 

 村外れの空き小屋は、夜になると壁の隙間から冷気が入った。床板は傾き、戸は内側から押さえても少し鳴る。だが、リーネにとって、それはまだ小屋だった。屋根があり、壁があり、外から見えない角がある。道ではない。それだけで、眠れるはずだった。

 

 だが、眠れなかった。

 

 彼女は布袋を抱えたまま、戸口のそばに座っていた。奥へは行かない。逃げ道を背にしない。それは昨日と同じだった。違ったのは、村の外を見ていることだった。

 

 あの道の先に、弟がいる。いるはずだった。まだ生きているかどうかは、分からない。分からないから、行かなければならなかった。

 

 リーネは、そっと立ち上がった。床板が小さく鳴る。彼女は息を止めた。誰も来ない。村は静かだった。静かすぎた。

 

 リーネは戸に手をかける。

 

「どこへ行く」

 

 声がした。

 

 リーネの手が止まる。戸口の外に、ハーゲンが立っていた。眠っていた顔ではない。最初から来ると思っていた顔だった。少し離れたところに、ベルトもいる。手には明かりを持っていない。夜の中で、ただ黒い影のように立っていた。

 

「逃げるのか」

 

 ハーゲンは聞いた。

 

 リーネは首を横に振った。

 

「戻ります」

 

「同じことだ」

 

「違います」

 

 リーネは、初めて強く言った。その声は小さかった。だが、弱くはなかった。

 

「逃げるなら、遠くへ行きます。戻るなら、来た道を行きます」

 

 ハーゲンは黙った。その違いを否定できなかった。

 

「薬がいるのか」

 

 ベルトが言った。

 

 リーネは布袋を抱え直した。

 

「……はい」

 

「誰に」

 

 リーネは答えない。ハーゲンが目を細めた。

 

「昨日も答えなかったな」

 

「答えたら」

 

 リーネは言葉を止めた。

 

 言えば、その人もここに来る。言えば、その人の名前が紙に乗る。言えば、その人は誰かの欄に入る。昨日、領主館の者たちは自分の名を聞いた。聞いて、出身を聞いた。答えなければ、隠していることになる。答えれば、戻される理由になる。

 

 名前は、どこへでも歩いていく。

 

 リーネは、それを知った。

 

「弟です」

 

 ようやく言った。声は、ほとんど息だった。

 

「熱があります。歩けません。私が戻らないと、水も……薬も」

 

「どこにいる」

 

「言えません」

 

 ベルトが一歩出た。

 

「言わなきゃ助けられねえだろ」

 

「助けてほしいとは言っていません」

 

 ベルトは止まった。リーネは布袋を強く抱いた。

 

「私が行きます」

 

「昨日、領主館が来た」

 

 ハーゲンは低く言った。

 

「お前を置いただけで、あれが来た。今度はお前が出ていくのか」

 

「行かないと」

 

「行けば、戻れないかもしれん」

 

「戻らなければ、あの子が死にます」

 

 ハーゲンは口を閉じた。その言葉を責めることはできなかった。だが、許すこともできなかった。

 

 村は、リーネ一人を置くだけで揺れた。弟がいるとなれば、もう一人分の名前が来る。名前だけではない。出身。家族。追手。病。領主館。逃げてきた理由。連れて行かれる理由。小さな村には、入れただけで壊れるものがある。

 

 それでも、追い返せば壊れるものもある。

 

 ハーゲンは、その間に立っていた。

 

     *

 

 ナザリックの監視網は、外部個体E-01の移動準備を捉えていた。

 

 外部個体E-01、滞在場所より離脱の兆候。時刻、夜半。移動方向、対象村落外。目的、薬品搬送の可能性。未確認対象の存在示唆。外部個体E-02の可能性。

 

 アインズは、その報告を見ていた。

 

 リーネが出ていく。許可していない。だが、理由はある。薬。弟。未確認対象。外部個体E-02。放置すれば、外部個体E-01を失う可能性がある。追跡経路も不明になる。領主館、あるいは別勢力に捕捉される恐れもある。

 

 止める理由は十分にあった。

 

 助ける理由ではない。

 

 観測対象の喪失を防ぐ理由である。

 

「デミウルゴス」

 

「はい、アインズ様」

 

「どう見る」

 

「外部個体E-01を単独で戻せば、追跡者、あるいは接触者を誘引できる可能性がございます」

 

 デミウルゴスは、淡々と言った。

 

「餌としては、有効です」

 

 アインズは答えなかった。餌。正確な表現である。だが、採用するには危険が高すぎる。外部個体E-01は、俗称拡散、領主館干渉、外部流入初例、いずれにも関わる重要な観測対象である。ここで失うのは、得策ではない。

 

 得策ではない。

 

 そう処理する。

 

「アウラ、マーレ」

 

 アインズが名を呼ぶと、双子は同時に一歩前へ出た。

 

「はっ!」

 

「は、はい」

 

 アウラは背筋を伸ばし、マーレは杖を抱え直した。

 

「外部個体E-01を村外へ出すな。ただし、現地住民の前で強制的な拘束は避けろ」

 

「了解です!」

 

「未確認対象を確認せよ。必要であれば薬品を配置。敵性存在との接触は、可能な限り痕跡を残さず処理しろ」

 

「処理、ですね」

 

 アウラが短く確認する。

 

「殺害を優先する必要はない。ただし、外部個体E-01および対象村落への危険がある場合は、判断を許可する」

 

「はい」

 

 マーレの返事は小さかった。

 

「対象の移送は、現地判断では行うな。未確認対象の状態を報告せよ」

 

「かしこまりました」

 

 アインズは一度、二人を見た。子どもの姿をした守護者。任務を待つ者。その姿に、別の何かを重ねかけたが、すぐに欄を閉じた。

 

 これは年齢の問題ではない。

 

 任務である。

 

「行け」

 

 二人は頭を下げた。

 

     *

 

 リーネは、村の外へ出られなかった。出ようとした瞬間、森の方から小さな影が二つ現れたからだ。

 

 一人は、明るい髪を揺らした少女。もう一人は、杖を持った少年。村の子どもではない。服も違う。立ち方も違う。それに、夜の森から来たのに、息一つ乱れていない。

 

 リーネは後ずさった。ハーゲンもベルトも動けなかった。

 

 少女――アウラは、リーネを見て言った。

 

「戻る必要はないよ」

 

 リーネの顔が強張る。

 

「行かないと」

 

「場所は分かる」

 

 リーネの息が止まった。アウラは、森を指した。

 

「足跡が残ってる。途中で何度も止まってるし、膝もついてる。あと、同じ道を戻るつもりなら、最初から村の入口で後ろを見てる」

 

 リーネは何も言えなかった。

 

 マーレが困ったようにアウラを見る。

 

「戻るつもりじゃないのに、戻ろうとしてたんですか」

 

「戻らなきゃいけない場所と、戻れる場所は違うでしょ」

 

 アウラは当然のように答えた。その声は子どものものだった。だが、言っていることは、子どもの慰めではなかった。

 

「薬が必要な相手を確認する。あなたはここにいなさい」

 

「私が行きます」

 

「邪魔」

 

 アウラは即答した。

 

 リーネの顔が青くなる。だが、アウラは続けた。

 

「あなたの足だと遅い。追手がいたら捕まる。罠があったら踏む。道案内としても足跡で十分。だから、ここにいて」

 

 優しくはない。だが、嘘もない。

 

 リーネは布袋を抱きしめたまま、動けなかった。マーレが小さく頭を下げた。

 

「だ、大丈夫です。確認してきますので」

 

 大丈夫。その言葉は、リーネには軽すぎた。けれど、誰かが行く。自分より速く。自分より静かに。自分より強く。それだけは分かった。

 

     *

 

 夜の森は、アウラにとって道だった。

 

 人間には暗闇でも、彼女には情報が多すぎるほどだった。折れた草。湿った土。小枝の角度。革靴の底。片足を庇った歩幅。布袋を抱えていたせいで、腕の振りが少ない足跡。

 

 リーネは走っていない。走れなかったのではない。走ると音が出るからだ。何度も止まっている。振り返っていない。膝をついた場所が二つ。転んだ場所が一つ。だが、転んでも道から逸れていない。

 

「まっすぐですね」

 

 マーレが呟く。

 

「まっすぐじゃないよ。何度も迷ってる」

 

「でも、道は外れてません」

 

「だから、迷ってるのは足じゃないんでしょ」

 

 アウラは鼻を鳴らした。

 

 その時、森の奥で、犬が一度だけ鳴いた。アウラの足が止まる。マーレも止まった。

 

「犬、ですね」

 

「うん。三匹。人間は……五人かな。いや、六人」

 

「追手ですか」

 

「待ち伏せ」

 

 アウラは地面に膝をつけ、指で土をなぞる。

 

「リーネの足跡を追ってるんじゃない。戻ってくるのを待ってた。ここ、踏み跡が多い。何度も同じところを歩いてる」

 

「弟さんのところに?」

 

「たぶんね」

 

 アウラは立ち上がった。その顔に怒りはない。ただ、任務の形が変わったことを確認した顔だった。

 

「マーレ、音を閉じて」

 

「は、はい」

 

 マーレが杖を握る。森の空気が、少しだけ沈んだ。風が止まったのではない。風の通る場所が、変わった。枝の擦れる音が奥へ流れず、地面に落ちる。小石が転がっても、音が膝の高さで消える。虫の羽音だけが残り、人間の耳では何も起きていないように聞こえる。

 

 その中を、二人は進んだ。

 

     *

 

 徴発請負人たちは、古い炭焼き小屋の周囲にいた。

 

 領主館の正式兵ではない。だが、領主の名を使う。税の取り立てには向かない仕事をする。逃げた者を戻す。病人を数える。孤児を集める。労役に回す。保護という言葉を使うこともある。その方が、連れて行きやすいからだ。

 

 小屋の中には、少年が一人寝かされていた。年は七つか、八つ。熱がある。水壺はそばにあるが、手が届く位置ではない。届かない場所に置かれているのではない。届きそうな場所に置かれていた。手を伸ばせば届くかもしれない。だが、届かない。

 

 そういう距離だった。

 

 少年は、ときどき目を開けた。戸口の方を見る。姉が戻ってくると信じているのか。誰かに連れて行かれると知っているのか。そのどちらでもない顔だった。

 

 請負人の一人が、小屋の外で欠伸をした。

 

「戻ると思うか」

 

「戻るさ。弟を置いてったんだ」

 

「薬なんか持ってくるかね」

 

「持ってきたら薬ごと回収する。持ってこなきゃ、娘だけ回収する」

 

「領主館は面倒なことを言ってたぞ。あの村には近づくなとか」

 

「領主館は領主館だ。こっちはこっちで仕事がある」

 

 男は笑った。

 

「逃げた分は、数を戻さねえとな」

 

 犬が唸った。

 

 男たちの声が止まる。

 

「誰か来たか」

 

 返事はなかった。犬が、森の奥を見ている。吠えない。怯えたのではない。もっと大きな獣が、森の奥で息をしていることを知ってしまったからだ。

 

「どうした」

 

 男が犬の首縄を引く。犬は動かない。その足元の土が、わずかに沈んだ。沼ではない。穴でもない。ただ、その場所だけが、立つことをやめた。

 

 男の体が傾く。

 

「なっ――」

 

 声は最後まで出なかった。

 

 木の枝から、黒い影が落ちた。アウラだった。彼女の足は男の肩に触れただけだった。だが、男は地面に倒れた。倒されたのではない。立っている理由を奪われたように崩れた。

 

「一人」

 

 アウラが言う。

 

 別の男が短弓を構えようとした。弦に指をかけた瞬間、足元の根が動いた。根ではない。マーレが動かした土だ。男の足首だけが沈む。膝が遅れて折れる。短弓は上を向き、矢は空へ消えた。

 

「二人、です」

 

 マーレが小さく言った。

 

 森の奥から、低い唸り声が広がる。請負人たちは、そこで初めて気づいた。自分たちは囲まれている。逃げ道は、最初から一つもなかった。木々の間に、いくつもの目があった。狼。大きすぎる狼。あるいは、狼に似た何か。犬たちは腹を地面につけていた。

 

 三人目が剣を抜く。

 

「化け物が!」

 

 その剣は、誰にも届かなかった。

 

 マーレが杖を少しだけ傾ける。男の足元が盛り上がり、踵が浮く。体重が前へ流れる。剣を振るための腰が、剣より先に崩れる。アウラが横を通り抜けた。肘。顎。喉の下。必要な場所だけを、必要な強さで打つ。

 

 男は倒れた。死んでいない。だが、声は出ない。

 

 四人目と五人目が逃げようとした。走り出した先で、木の間隔が変わった。いや、変わったように見えた。さっきまで道だった場所に、根がある。枝がある。土の盛り上がりがある。足を置く場所が、一歩ごとに少しずつ消える。

 

 男たちは、自分が森を走っているのか、森に押し戻されているのか分からなくなった。

 

 一人が転んだ。

 

 もう一人は転ばなかった。転ばないまま、首筋に冷たいものを感じた。アウラの短剣ではない。獣の息だった。

 

「戻るなら、戻してあげる」

 

 アウラが言った。

 

 男は震えながら振り返る。

 

「ただし、何を見たかは言わなくていいよ。言っても、たぶん信じてもらえないから」

 

「な、何者だ」

 

「任務中」

 

 アウラはそれだけ答えた。

 

 男の膝が落ちる。自分で跪いたのではない。そういう形になった。

 

 六人目。

 

 主犯だけが、まだ動けた。彼は倒れた仲間を見なかった。犬も見なかった。小屋も見なかった。森の奥だけを見ていた。

 

 逃げ道を知っている者の目だった。

 

 その時だった。

 

 森の音が戻った。

 

 戻った、と思った。違う。マーレが閉じていた音ではない。別の音が、上から重ねられた。木の葉が鳴る。枝が鳴る。虫が鳴る。犬が鳴る。請負人の呼吸が鳴る。小屋の中の少年の咳が鳴る。すべての音が、一斉に戻り、ほんの少しだけ位置をずらして聞こえた。

 

 マーレの顔色が変わった。

 

「アウラ、何かいます」

 

「分かってる」

 

 アウラは即答した。だが、その声は少し硬かった。

 

 森の奥に、誰かがいた。見えない。匂いも薄い。魔力反応はない。だが、いる。それは請負人ではない。犬でもない。獣でもない。ただ、森の中に、森ではないものが混じっていた。

 

 マーレが杖を握る。足元の土を動かそうとした。動かなかった。いや、動いた。動いたはずの土が、半呼吸遅れて元の形に戻った。

 

「……え?」

 

 マーレが声を漏らす。

 

 アウラは木の上を見た。何もいない。見えない。でも、配置されている。森全体が、誰かの手で並べ直されたようだった。

 

『索敵範囲が広すぎる』

 

 声がした。

 

 女の声に聞こえた。だが、声というより、誰かが残した注意書きを森が読み上げているようだった。

 

 アウラが固まった。マーレも固まった。

 

『速い方が、先に行きすぎている。強い方が、守る対象を見すぎている』

 

「誰」

 

 アウラが低く言った。

 

 声は答えない。

 

『その動きでは、二人で受けた任務が一人ずつの失敗になる』

 

 マーレの杖が震えた。アウラは歯を食いしばる。

 

「姿を見せなさい」

 

 返事の代わりに、森が動いた。

 

 小屋の横の土が沈む。わずかに。ほんの少し。だが、炭焼き小屋は古い。壁は傾いている。床は弱い。そこに寝ている少年は熱で動けない。このまま地面がもう一度沈めば、小屋の柱がずれる。

 

 マーレは反射的に土を支えた。

 

 その瞬間、主犯が走り出した。アウラが追おうとする。だが、小屋の中で少年が咳き込んだ。犬の一匹が錯乱し、小屋へ走りかける。

 

 アウラは、主犯と犬と小屋を同時に見た。

 

 全部は取れない。

 

 この距離なら主犯を仕留められる。犬も止められる。小屋も守れる。普段なら。だが、今は森の位置がずれている。枝の高さが違う。足場の沈み方が違う。獣たちが反応を待っている。マーレは小屋を支えている。

 

 アウラが一歩踏み出した。

 

 踏み出した足元に、枯れ枝があった。さっきまでなかった枝だ。踏めば鳴る。鳴れば主犯は走る。走れば犬が小屋へ向く。犬を止めれば、主犯が消える。主犯を追えば、小屋が沈む。

 

「くっ……!」

 

 アウラは足を止めた。止めさせられた。

 

 力で負けたのではない。

 

 選択肢を置かれたのだ。

 

『判断が遅い』

 

 声が言った。

 

「うるさい!」

 

 アウラが叫んだ。

 

 叫びながら、指を鳴らす。森の獣たちが一斉に動く。主犯へではない。犬へ。錯乱した犬の前に、大きな影が滑り込む。犬は腹から地面へ落ちた。噛まれたわけではない。押し潰されたわけでもない。ただ、自分より上の命令を理解したように伏せた。

 

 アウラは主犯を追わなかった。

 

 追えなかった。

 

 その言い換えだけが、喉の奥でひっかかった。

 

 マーレが小屋を支える。だが、支えた土が、また戻ろうとする。

 

「戻らないで……!」

 

 マーレの声が震えた。

 

 土は戻る。押し返される。魔力ではない。力ではない。最初から、そう崩れるように組まれていた。マーレが支える場所を、読まれていた。柱。床。少年の寝ている位置。水壺。薬草の束。全部が、少しずつずれている。

 

 誰かが、先にここを見ていた。

 

 誰かが、二人がどう動くか知っていた。

 

 マーレの足元の土が、杖の先ではなく、靴の下から割れた。自分の立つ場所まで支えに使っている。それに気づいて、アウラの顔色が変わった。

 

「マーレ、小屋じゃない! 少年の下!」

 

「は、はい!」

 

 マーレは小屋全体を支えるのをやめた。少年の体の下だけを支えた。床がわずかに沈む。壁が鳴る。だが、少年の体は傾かなかった。

 

 マーレは、それでも杖を離さなかった。

 

 離せば、小屋ではなく、少年の体が傾く。

 

 アウラは主犯を見た。もう森の奥へ走っている。追える。まだ追える。だが、追えばマーレの視界から外れる。

 

 アウラは短く息を吸った。

 

「一匹、追跡。接触はしない。見失うな」

 

 獣が一体、影のように森へ消えた。

 

 主犯は逃げた。逃がした。いや、追跡対象として残した。そう処理するしかなかった。

 

『少しは考えた』

 

 声が言った。

 

 アウラの顔が怒りで歪む。

 

「何なのよ、あんた」

 

『二人で任務を受けたなら、二人分の視界で見なさい』

 

 その声に、マーレの肩が震えた。アウラは何も言わなかった。言えば、声の主を認めることになる気がした。

 

 森の奥に、白いものが一瞬だけ見えた。布か。髪か。仮面か。分からない。次の瞬間には、何もなかった。

 

 森は元に戻った。

 

 だが、アウラには、元に戻った場所と、最初からそうだった場所の区別がつかなかった。

 

 木の幹に、小さな傷が残っていた。刃物で刻んだような傷ではない。爪で引いたようでもない。ただ、そこに文字のような形があった。アウラは近づいた。マーレも小屋を支えながら見る。

 

 そこには、こう刻まれていた。

 

『任務欄に、年齢を記入せよ』

 

 アウラは黙った。

 

 マーレも黙った。

 

 小屋の中で、少年が咳をした。

 

 その声で、二人は動き出した。

 

     *

 

 炭焼き小屋の中で、少年は目を開けた。

 

 戸口に、二つの影が立っている。一人は少女。一人は少年。どちらも、自分と大きく違わない年に見えた。だから、熱に浮かされた少年は言った。

 

「迎え?」

 

 マーレの手が止まった。アウラは答えなかった。

 

 迎え。

 

 その言葉が、何を意味しているのかは分からない。だが、子どもが夜に知らない相手を見て、最初にそう言った。それだけで十分だった。

 

「違うよ」

 

 アウラは短く言った。

 

「確認」

 

「確認……?」

 

「名前は」

 

 少年は少しだけ首を動かした。答えようとして、咳き込む。

 

 マーレが慌てて水壺を見た。

 

「水が、届かないところにあります」

 

「わざとだね」

 

 アウラは水壺を取って、少年の近くに置いた。飲ませはしない。マーレが膝をつき、少年の呼吸を確認する。熱。乾き。意識の濁り。痙攣はない。搬送は危険。薬は必要。水も必要。

 

 小屋の隅には、古い布が置かれていた。乱暴に畳まれている。だが、少年の体が冷えない位置にある。水壺も、届かない場所にあったが、倒れない場所に置かれていた。

 

 請負人たちの仕事ではない。

 

「誰か、先に来てる」

 

 アウラが呟いた。

 

 柱の影に、小さな薬草の束があった。結び目は雑だった。だが、種類は正しい。量も、ぎりぎり間違っていない。薬師の仕事ではない。薬師のふりをする者の仕事でもない。ただ、必要なものだけを置いて、去った者の仕事だった。

 

「口が悪そうな置き方ですね」

 

 マーレが小さく言った。

 

 アウラが横目で見る。

 

「何それ」

 

「い、いえ、なんとなく……」

 

 少年が、もう一度口を開いた。

 

「姉ちゃん……」

 

 アウラは少年を見る。

 

「リーネ?」

 

 少年の目が少しだけ動いた。それが答えだった。

 

「外部個体E-02、確認」

 

 アウラは通信に乗せた。

 

「推定年齢、六から八。武装なし。病状あり。E-01との血縁可能性、高。搬送は危険。敵性個体六名、五名制圧。一名追跡中。それから」

 

 アウラは、木の幹の傷を見た。

 

「正体不明の干渉がありました」

 

 通信の向こうで、空気が止まった。

 

『詳細を述べよ』

 

 アインズの声は、静かだった。

 

 アウラは短く報告した。森の音がずらされたこと。マーレの地形操作が読まれたこと。小屋、少年、犬、逃走者を同時に動かされたこと。木の幹に文字が残されたこと。

 

 任務欄に、年齢を記入せよ。

 

 通信の向こうで、沈黙が続いた。アインズは答えない。マーレは水を持ったまま、動けないでいた。アウラも黙っていた。

 

 アインズは、その一文をもう一度、頭の中で読み返していた。

 

 任務欄に、年齢を記入せよ。

 

 年齢。

 

 アウラとマーレに、その欄を作ったことはなかった。

 

 これは敵の挑発である。

 

 そう分類するまでに、わずかに時間がかかった。

 

 やがて、アインズの声が返る。

 

『薬品を配置。水分摂取を可能にしろ。搬送は保留。敵性個体は、追跡経路と所属確認を優先。正体不明干渉については、痕跡を保全せよ』

 

「了解」

 

『救助ではない。経過観測だ』

 

「はい」

 

 アウラは、あっさり返事をした。救助かどうかに興味はなかった。任務内容は分かった。それで足りる。

 

 マーレは、薬を準備しながら少年を見ていた。子どもだった。小さい。熱がある。水を待っていた。迎え、と言った。

 

 マーレは杖を握り直した。

 

「飲めますか」

 

 少年は答えない。マーレは少し迷ってから、水を口元へ運んだ。少年は、少しだけ飲んだ。それだけで、呼吸がほんのわずかに変わった。

 

 助かったわけではない。

 

 死ななかっただけだった。

 

     *

 

 戻された請負人は、一人だった。

 

 それは、主犯だった。彼は朝になる前に、街道脇で目を覚ました。手足は縛られていない。骨も折れていない。剣も腰にある。だが、森へ戻ろうとは思わなかった。戻れば、また森が立つことをやめる。そう思った。

 

 彼の胸元には、木片が一つ入っていた。

 

 文字はない。ただ、炭で一本の線が引かれている。

 

 戻れ。

 

 そう書かれているわけではない。だが、それ以外に読みようがなかった。

 

 男は木片を握りしめた。その裏側にも、線があった。今度は一本ではない。短い線が、いくつも並んでいる。数を数えるための傷に似ていた。誰かを、何かを、まだ空いている欄へ移すための印にも見えた。

 

 男には読めなかった。

 

 だから、余計に怖かった。

 

     *

 

 リーネの空き小屋の前に、朝までに小さな布切れが置かれていた。

 

 リーネは、それを見て固まった。布切れは、弟の袖の端だった。間違えるはずがない。何度も縫った場所だ。布切れには、薬草の匂いがした。血の匂いはしない。土の匂いと、水の匂いがした。

 

 リーネは布切れを両手で持ったまま、座り込んだ。泣かなかった。泣けば、何かが終わってしまう気がした。

 

 ミラが近づく。

 

「リーネ?」

 

 リーネは答えなかった。ただ、布切れを胸に当てる。弟は、ここにはいない。連れてこられたわけではない。助かったとも言えない。

 

 それでも。

 

 まだ死んでいない。

 

 リーネは、ようやく息を吸った。

 

     *

 

 ナザリックの記録には、未確認対象一名、確認済み、と記された。

 

 外部個体E-02。識別名、未確認。推定年齢、六から八。武装、なし。病状、あり。外部個体E-01との血縁可能性、高。

 

 敵性個体六名、確認。敵性個体五名、制圧。敵性個体一名、帰還処理。追跡経路、記録済み。

 

 薬品配置、実施。水分摂取、確認。移送、保留。

 

 正体不明干渉、一件。干渉内容、地形操作妨害、索敵阻害、判断誘導。木幹部に文字状痕跡あり。

 

 別件。

 

 帰還処理個体より、炭線入り木片を回収。用途、不明。文字ではない。ただし、数量記録に類似。

 

 患者欄は、作成された。

 

 その下に、アウラとマーレの報告ではない一行が残っていた。

 

 任務欄に、年齢を記入せよ。

 

 年齢欄は、外部個体E-02のためのものだった。

 

 そう処理された。

 

 ただし、その欄が誰を指していたのかは、記録されなかった。

 

 救助欄は、空白のままだった。

 

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