またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです―― 作:ブンチョウ
夜明け前の町には、まだ商人の声がなかった。
荷車は動かず、店の扉も閉じたまま。石畳には夜露が残り、路地の隅には昨夜の酒と馬糞の匂いが沈んでいる。
請負人の男は、その町を走っていた。
走っているつもりだった。
実際には、何度も壁に手をつき、息を吸い、吐き、また数歩だけ進んだ。足に傷はない。骨も折れていない。剣も腰にある。
なのに、森から離れるほど、足が重くなった。
戻れば、また森が立つことをやめる。
その感覚だけが、靴底に残っていた。
男は領主館へ向かわなかった。
あの村に近づくなと命じられていたことは知っている。ならば、自分たちは何をしたのか。領主館の者に問われたところで、答えられることなど何もなかった。
彼が向かったのは、町外れの古い染物倉庫だった。
看板はない。窓には内側から板が打ちつけられ、壁の漆喰はところどころ剥がれている。染料の匂いはもうしない。ただ、雨水と古い紙の匂いだけが残っていた。
戸を叩く。
三度。
間を置いて、二度。
内側で錠が外れた。
「誰だ」
「俺だ。ローヴァンの組だ」
戸の隙間から、細い目がこちらを見た。
「名は」
「グレイヴ」
「帰還予定は」
「知らねえよ」
「では、なぜ戻った」
グレイヴは答えなかった。
答えられなかった。
しばらくして、戸が開いた。
*
倉庫の中には、染料の桶ではなく机が並んでいた。
机の上には帳簿がある。黒革で綴じられたもの。灰色の紙で巻かれたもの。背表紙に何も書かれていないもの。どれも厚く、古く、指で開けば乾いた音がしそうだった。
壁際の棚にも、帳簿が詰め込まれている。
人の住む場所ではない。
人の数を置く場所だった。
グレイヴは帳場の前に立たされた。
机の向こうには、痩せた男がいた。年は五十を越えているように見える。黒い袖をまくり、細い指に墨をつけていた。目の前には、開かれた台帳が一冊。
男は、グレイヴを見なかった。
「報告を」
それだけ言った。
グレイヴは唇を舐めた。
「村に行った」
「目的は」
「逃げた娘の回収。病人の確認。必要なら、まとめて連れて帰る」
「結果は」
グレイヴは少し黙った。
「失敗した」
帳場役の手が動く。
紙の上で、羽根ペンが一度だけ鳴った。
「回収失敗。一件」
「違う」
グレイヴは言った。
「違わねえ。あれは、普通の村じゃない」
「村落名は」
「知らねえ」
「所在は」
「東の街道から外れた――」
「確認済みです」
帳場役は、ようやく顔を上げた。
「逃亡女の名は」
「知らねえ」
「年は」
「知らねえ」
「病人の名は」
「知らねえ」
「年は」
「子どもだった」
「年は」
「……知らねえよ」
帳場役は、台帳の一行に細い線を引いた。
その横へ、短く書く。
未記入。
グレイヴは、その文字を見た。
「五人死んだんだぞ」
帳場役の手が止まる。
「死亡確認は」
「俺が見た」
「遺体は」
「森にある」
「では、死亡ではありません」
「は?」
「未帰還五名。損失扱いは保留です」
グレイヴの拳が机を叩いた。墨壺の蓋が跳ね、黒い雫が台帳の端へ落ちる。
「人間の話をしてる」
帳場役は、紙片で羽根ペンの先を拭いた。
「帳簿も同じです」
声は荒げなかった。
「帰る者は帰属欄へ。働く者は稼働欄へ。移す者は移送欄へ。戻らない者は帰還欄に残ります。死んだかどうかは、その後で確認すればよい」
「お前ら……」
「報告を続けてください」
帳場役は羽根ペンを持ち直した。
「村には、外部の戦力がいたのですね」
グレイヴは息を呑んだ。
「子どもみたいな奴が二人いた。女と、男だ。森を動かした。犬が伏せた。仲間は、触られただけで倒れた」
「人数は二」
「たぶん」
「武装は」
「女は短剣。男は杖」
「所属は」
「知らねえ」
「名は」
「知らねえ」
帳場役の羽根ペンが止まった。
「未記入が多い」
独り言のようだった。
グレイヴは、胸元の違和感を思い出した。
「これがあった」
木片を取り出し、机の上に置く。
帳場役の視線が、初めてそこへ落ちた。
木片の表には、炭で一本の線。
裏には、短い線がいくつも並んでいる。
「入れた覚えはない。森を出た後に気づいた。誰かが入れたんだ」
帳場役は、すぐには木片に触れなかった。
顔色は変わらない。
だが、墨のついた指が、机の端で止まった。
「これは、この帳場の印ではありません」
「何だと」
「上の印です」
グレイヴは眉をひそめた。
「上?」
「未記入のものに置かれます」
「何のために」
帳場役は、木片を見たまま答えた。
「それ以上は、私の欄ではありません」
やがて、帳場役は木片を指先で持ち上げた。
「村落確認、前倒し」
羽根ペンが、台帳の端を走る。
「外部介入あり」
「俺は戻った」
グレイヴは言った。
帳場役が顔を上げる。
「戻りましたね」
「なら、次は何だ」
「次の欄を確認します」
「何の欄だ」
帳場役は、グレイヴの名が記された頁を開いた。
そこには、いくつかの欄が並んでいる。
所属。
稼働。
帰属。
回収。
帳場役は、そのうちの一つに筆を入れた。
帰属:保留。
「待て」
グレイヴの声が裏返った。
「俺は戻ってきた」
「戻ったことと、戻る場所があることは違います」
帳場役は、そこで初めて羽根ペンを置いた。
「回収に失敗し、仲間を五名残し、外部勢力の詳細も把握できていない。現時点で、あなたをどこへ戻すべきかは未定です」
「俺はローヴァンの組だ」
「ローヴァンの組が、あなたを戻すと判断すれば」
「……」
「それまでは保留です」
グレイヴは、机の上の木片を見た。
一本の線。
短い線の群れ。
自分も、あの中の一本になった気がした。
*
倉庫の屋根には、獣がいた。
暗い毛並みが夜に溶け、爪だけが瓦の端を掴んでいる。
アウラが放った追跡獣だった。
獣は、倉庫の中から流れる声と匂いを聞いていた。
村。
回収。
危険。
そして、森で残された木片と同じ炭の匂い。
帳場役が木片を机の端へ置く。
別の男が入ってきて、黒い台帳を一冊、棚から抜き出した。頁が開かれる。
そこには、村の記録があった。
正確な名ではない。
地図上の番号と、街道からの距離だけで記されている。
所在:確認済み。
逃亡個体:二。
病者:一。
外部介入者:不明。
年齢:未記入。
帰属:未記入。
移送先:未記入。
回収:保留。
頁が開かれた時、帳場役たちの声がわずかに低くなった。
獣は、その変化を覚えた。
夜明け前、帳場役たちが奥の部屋へ消える。
獣は音を立てずに梁から落ち、机の端へ寄った。
黒い台帳には近づかない。
木片だけを口にくわえる。
そして、来た時よりも静かに、屋根の闇へ戻った。
*
報告を受けたアインズは、しばらく何も言わなかった。
卓上には、回収された木片が置かれている。
その横には、アウラの獣を通じて得られた記録が並んでいた。
黒い帳簿。
所在。
年齢。
帰属。
移送先。
回収。
「領主館の徴税台帳とは異なります」
デミウルゴスが静かに言った。
「分かるのか」
「はい。徴税は土地と収入を押さえます。しかしこれは、人を村から切り離し、必要な場所へ移すための帳簿です」
デミウルゴスは、木片を見た。
「逃亡者、病者、孤児、労役可能者。立場の異なる者を、同じ基準で扱っている。行政記録ではありません」
「何だ」
「流通のための帳簿でしょう」
アインズは目を閉じた。
森の声は、こちらの判断を遅らせた。
任務欄に、年齢を記入せよ。
だが、この帳簿は違う。
年齢がなければ、記録にならない。名がなければ、移せない。帰属がなければ、回収できない。
「同じ相手ではない」
アインズは言った。
「森の干渉は、こちらの判断を止めた。帳簿の側は、村人の判断を奪う」
デミウルゴスが頭を下げる。
「目的が異なります」
「対象村落へ向かう者を監視しろ」
「名目を問わず、でございますか」
「徴発、移送、保護、監査。何を名乗っても構わん。確認が済むまで、村内へ入れるな」
デミウルゴスは一瞬だけ目を細めた。
「拘束を」
「不要だ。まず、誰の指示で動いているかを知る」
アインズは続けた。
「ただし、村人に触れさせるな」
デミウルゴスは返答を待った。
アインズは、続けなかった。
「承知いたしました」
デミウルゴスは、深く頭を下げた。
*
染物倉庫の帳場で、黒い台帳が再び開かれた。
村の頁には、空欄が多い。
年齢、未記入。
帰属、未記入。
移送先、未記入。
帳場役は、その頁の下に新しい欄を増やした。
監査。
倉庫の奥には、誰かがいた。
姿は見えない。
靴音もしない。
ただ、革の手袋をはめる、かすかな音だけがした。
帳場役は、初めて椅子から立ち上がった。
「未記入の村があります」
「逃亡個体が二。病者が一。外部介入者は不明」
奥から、声がした。
「年齢は」
帳場役は答える。
「まだ、埋まっておりません」
黒い台帳の監査欄に、出発予定の印が置かれた。