またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです――   作:ブンチョウ

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第13話 未記入

 夜明け前の町には、まだ商人の声がなかった。

 

 荷車は動かず、店の扉も閉じたまま。石畳には夜露が残り、路地の隅には昨夜の酒と馬糞の匂いが沈んでいる。

 

 請負人の男は、その町を走っていた。

 

 走っているつもりだった。

 

 実際には、何度も壁に手をつき、息を吸い、吐き、また数歩だけ進んだ。足に傷はない。骨も折れていない。剣も腰にある。

 

 なのに、森から離れるほど、足が重くなった。

 

 戻れば、また森が立つことをやめる。

 

 その感覚だけが、靴底に残っていた。

 

 男は領主館へ向かわなかった。

 

 あの村に近づくなと命じられていたことは知っている。ならば、自分たちは何をしたのか。領主館の者に問われたところで、答えられることなど何もなかった。

 

 彼が向かったのは、町外れの古い染物倉庫だった。

 

 看板はない。窓には内側から板が打ちつけられ、壁の漆喰はところどころ剥がれている。染料の匂いはもうしない。ただ、雨水と古い紙の匂いだけが残っていた。

 

 戸を叩く。

 

 三度。

 

 間を置いて、二度。

 

 内側で錠が外れた。

 

「誰だ」

 

「俺だ。ローヴァンの組だ」

 

 戸の隙間から、細い目がこちらを見た。

 

「名は」

 

「グレイヴ」

 

「帰還予定は」

 

「知らねえよ」

 

「では、なぜ戻った」

 

 グレイヴは答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 しばらくして、戸が開いた。

 

     *

 

 倉庫の中には、染料の桶ではなく机が並んでいた。

 

 机の上には帳簿がある。黒革で綴じられたもの。灰色の紙で巻かれたもの。背表紙に何も書かれていないもの。どれも厚く、古く、指で開けば乾いた音がしそうだった。

 

 壁際の棚にも、帳簿が詰め込まれている。

 

 人の住む場所ではない。

 

 人の数を置く場所だった。

 

 グレイヴは帳場の前に立たされた。

 

 机の向こうには、痩せた男がいた。年は五十を越えているように見える。黒い袖をまくり、細い指に墨をつけていた。目の前には、開かれた台帳が一冊。

 

 男は、グレイヴを見なかった。

 

「報告を」

 

 それだけ言った。

 

 グレイヴは唇を舐めた。

 

「村に行った」

 

「目的は」

 

「逃げた娘の回収。病人の確認。必要なら、まとめて連れて帰る」

 

「結果は」

 

 グレイヴは少し黙った。

 

「失敗した」

 

 帳場役の手が動く。

 

 紙の上で、羽根ペンが一度だけ鳴った。

 

「回収失敗。一件」

 

「違う」

 

 グレイヴは言った。

 

「違わねえ。あれは、普通の村じゃない」

 

「村落名は」

 

「知らねえ」

 

「所在は」

 

「東の街道から外れた――」

 

「確認済みです」

 

 帳場役は、ようやく顔を上げた。

 

「逃亡女の名は」

 

「知らねえ」

 

「年は」

 

「知らねえ」

 

「病人の名は」

 

「知らねえ」

 

「年は」

 

「子どもだった」

 

「年は」

 

「……知らねえよ」

 

 帳場役は、台帳の一行に細い線を引いた。

 

 その横へ、短く書く。

 

 未記入。

 

 グレイヴは、その文字を見た。

 

「五人死んだんだぞ」

 

 帳場役の手が止まる。

 

「死亡確認は」

 

「俺が見た」

 

「遺体は」

 

「森にある」

 

「では、死亡ではありません」

 

「は?」

 

「未帰還五名。損失扱いは保留です」

 

 グレイヴの拳が机を叩いた。墨壺の蓋が跳ね、黒い雫が台帳の端へ落ちる。

 

「人間の話をしてる」

 

 帳場役は、紙片で羽根ペンの先を拭いた。

 

「帳簿も同じです」

 

 声は荒げなかった。

 

「帰る者は帰属欄へ。働く者は稼働欄へ。移す者は移送欄へ。戻らない者は帰還欄に残ります。死んだかどうかは、その後で確認すればよい」

 

「お前ら……」

 

「報告を続けてください」

 

 帳場役は羽根ペンを持ち直した。

 

「村には、外部の戦力がいたのですね」

 

 グレイヴは息を呑んだ。

 

「子どもみたいな奴が二人いた。女と、男だ。森を動かした。犬が伏せた。仲間は、触られただけで倒れた」

 

「人数は二」

 

「たぶん」

 

「武装は」

 

「女は短剣。男は杖」

 

「所属は」

 

「知らねえ」

 

「名は」

 

「知らねえ」

 

 帳場役の羽根ペンが止まった。

 

「未記入が多い」

 

 独り言のようだった。

 

 グレイヴは、胸元の違和感を思い出した。

 

「これがあった」

 

 木片を取り出し、机の上に置く。

 

 帳場役の視線が、初めてそこへ落ちた。

 

 木片の表には、炭で一本の線。

 

 裏には、短い線がいくつも並んでいる。

 

「入れた覚えはない。森を出た後に気づいた。誰かが入れたんだ」

 

 帳場役は、すぐには木片に触れなかった。

 

 顔色は変わらない。

 

 だが、墨のついた指が、机の端で止まった。

 

「これは、この帳場の印ではありません」

 

「何だと」

 

「上の印です」

 

 グレイヴは眉をひそめた。

 

「上?」

 

「未記入のものに置かれます」

 

「何のために」

 

 帳場役は、木片を見たまま答えた。

 

「それ以上は、私の欄ではありません」

 

 やがて、帳場役は木片を指先で持ち上げた。

 

「村落確認、前倒し」

 

 羽根ペンが、台帳の端を走る。

 

「外部介入あり」

 

「俺は戻った」

 

 グレイヴは言った。

 

 帳場役が顔を上げる。

 

「戻りましたね」

 

「なら、次は何だ」

 

「次の欄を確認します」

 

「何の欄だ」

 

 帳場役は、グレイヴの名が記された頁を開いた。

 

 そこには、いくつかの欄が並んでいる。

 

 所属。

 

 稼働。

 

 帰属。

 

 回収。

 

 帳場役は、そのうちの一つに筆を入れた。

 

 帰属:保留。

 

「待て」

 

 グレイヴの声が裏返った。

 

「俺は戻ってきた」

 

「戻ったことと、戻る場所があることは違います」

 

 帳場役は、そこで初めて羽根ペンを置いた。

 

「回収に失敗し、仲間を五名残し、外部勢力の詳細も把握できていない。現時点で、あなたをどこへ戻すべきかは未定です」

 

「俺はローヴァンの組だ」

 

「ローヴァンの組が、あなたを戻すと判断すれば」

 

「……」

 

「それまでは保留です」

 

 グレイヴは、机の上の木片を見た。

 

 一本の線。

 

 短い線の群れ。

 

 自分も、あの中の一本になった気がした。

 

     *

 

 倉庫の屋根には、獣がいた。

 

 暗い毛並みが夜に溶け、爪だけが瓦の端を掴んでいる。

 

 アウラが放った追跡獣だった。

 

 獣は、倉庫の中から流れる声と匂いを聞いていた。

 

 村。

 

 回収。

 

 危険。

 

 そして、森で残された木片と同じ炭の匂い。

 

 帳場役が木片を机の端へ置く。

 

 別の男が入ってきて、黒い台帳を一冊、棚から抜き出した。頁が開かれる。

 

 そこには、村の記録があった。

 

 正確な名ではない。

 

 地図上の番号と、街道からの距離だけで記されている。

 

 所在:確認済み。

 

 逃亡個体:二。

 

 病者:一。

 

 外部介入者:不明。

 

 年齢:未記入。

 

 帰属:未記入。

 

 移送先:未記入。

 

 回収:保留。

 

 頁が開かれた時、帳場役たちの声がわずかに低くなった。

 

 獣は、その変化を覚えた。

 

 夜明け前、帳場役たちが奥の部屋へ消える。

 

 獣は音を立てずに梁から落ち、机の端へ寄った。

 

 黒い台帳には近づかない。

 

 木片だけを口にくわえる。

 

 そして、来た時よりも静かに、屋根の闇へ戻った。

 

     *

 

 報告を受けたアインズは、しばらく何も言わなかった。

 

 卓上には、回収された木片が置かれている。

 

 その横には、アウラの獣を通じて得られた記録が並んでいた。

 

 黒い帳簿。

 

 所在。

 

 年齢。

 

 帰属。

 

 移送先。

 

 回収。

 

「領主館の徴税台帳とは異なります」

 

 デミウルゴスが静かに言った。

 

「分かるのか」

 

「はい。徴税は土地と収入を押さえます。しかしこれは、人を村から切り離し、必要な場所へ移すための帳簿です」

 

 デミウルゴスは、木片を見た。

 

「逃亡者、病者、孤児、労役可能者。立場の異なる者を、同じ基準で扱っている。行政記録ではありません」

 

「何だ」

 

「流通のための帳簿でしょう」

 

 アインズは目を閉じた。

 

 森の声は、こちらの判断を遅らせた。

 

 任務欄に、年齢を記入せよ。

 

 だが、この帳簿は違う。

 

 年齢がなければ、記録にならない。名がなければ、移せない。帰属がなければ、回収できない。

 

「同じ相手ではない」

 

 アインズは言った。

 

「森の干渉は、こちらの判断を止めた。帳簿の側は、村人の判断を奪う」

 

 デミウルゴスが頭を下げる。

 

「目的が異なります」

 

「対象村落へ向かう者を監視しろ」

 

「名目を問わず、でございますか」

 

「徴発、移送、保護、監査。何を名乗っても構わん。確認が済むまで、村内へ入れるな」

 

 デミウルゴスは一瞬だけ目を細めた。

 

「拘束を」

 

「不要だ。まず、誰の指示で動いているかを知る」

 

 アインズは続けた。

 

「ただし、村人に触れさせるな」

 

 デミウルゴスは返答を待った。

 

 アインズは、続けなかった。

 

「承知いたしました」

 

 デミウルゴスは、深く頭を下げた。

 

     *

 

 染物倉庫の帳場で、黒い台帳が再び開かれた。

 

 村の頁には、空欄が多い。

 

 年齢、未記入。

 

 帰属、未記入。

 

 移送先、未記入。

 

 帳場役は、その頁の下に新しい欄を増やした。

 

 監査。

 

 倉庫の奥には、誰かがいた。

 

 姿は見えない。

 

 靴音もしない。

 

 ただ、革の手袋をはめる、かすかな音だけがした。

 

 帳場役は、初めて椅子から立ち上がった。

 

「未記入の村があります」

 

「逃亡個体が二。病者が一。外部介入者は不明」

 

 奥から、声がした。

 

「年齢は」

 

 帳場役は答える。

 

「まだ、埋まっておりません」

 

 黒い台帳の監査欄に、出発予定の印が置かれた。

 

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