またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです―― 作:ブンチョウ
木片を嗅いだ獣は、伏せなかった。
卓上のそれへ鼻先を寄せ、短く息を吸うと、そのまま扉へ向かった。
「待て」
アウラが呼ぶ。
獣は止まらない。
森で嗅いだ炭。染物倉庫の古い紙。馬の汗。藁。川霧。
そして、夜のうちに新しく重なった、湿った土の匂い。
「追える?」
「うん」
アウラは獣の背を見やった。
「倉庫から来た匂いじゃない。倉庫を通って、どこかへ出ていった匂い」
デミウルゴスが、卓上の木片へ視線を落とす。
「監査とは別に、移送が動いている可能性がありますな」
染物倉庫の帳場で、監査欄に出発予定の印が置かれたのと、ほとんど同じ頃。
別の車列が、町から人間を運び出していた。
黒帳側は、一つの手だけでは動いていない。
アインズは立ち上がった。
「アウラ、マーレ、セバス。出る」
「はい」
「うん」
「承知いたしました」
デミウルゴスが一歩前へ出る。
「村の監視は、私にお任せください。外周にはすでに配下を置いております。監査の動きが見えれば、村へは入れません」
「頼む」
アインズは木片を見た。
「追え。相手が次の受け渡しを終える前に」
*
夜の街道は、月の光をほとんど返さなかった。
両側には黒い森が続き、遠くでは川の流れる音がしている。道は峡谷へ入り、やがて古い石橋へ繋がっていた。
石橋の向こうは三叉路だった。
北へ行けば町。
東へ行けば山越え。
南へ行けば、地図に名も載らない湿地帯へ入る。
道端には、腰ほどの石標が三つ立っている。
苔に覆われ、旅人なら見落とす程度のものだった。
先にいたアウラの獣が、橋の手前で低く唸った。
その先を、幌馬車が走っている。
一台。
二台。
三台。
四台。
どれも黒い幌を被せ、車体に紋章はない。
御者の背には革の外套。護衛は馬上に二人ずつ。鎧は揃っていないが、全員が腰に同じ形の短剣を差していた。
そして馬車の車輪には、木札が結ばれている。
炭で引かれた、短い線の群れ。
「見つけた」
アウラが小さく言った。
その横で、マーレは橋を見ていた。
「橋、古いですね」
「落とせるか」
アインズの問いに、マーレはすぐには答えなかった。
石橋の厚み。
川の流れ。
馬車の速度。
幌の重さ。
そして、その中にいるかもしれない人間。
「落とせます。でも……落としたら、中の人も落ちます」
「橋は落とすな」
「はい」
セバスが、静かに一礼した。
「中に人がいるかどうか、私が確認いたします」
「待て」
アインズは前方を見る。
四台の車列は、橋の手前でわずかに間隔を空けた。
先頭と二台目。
三台目と四台目。
それぞれが、妙に離れている。
偶然ではない。
「アウラ。匂いはどうだ」
アウラは目を閉じた。
獣たちが、街道の左右へ散る。草を踏み、泥を嗅ぎ、車輪の跡を追う。
しばらくして、一匹が橋の北側へ走り、別の一匹が南側の林へ入った。
「変だ」
「何がだ」
「四台とも、人の匂いがする。でも……同じじゃない」
アウラは馬車を見比べる。
「一台目は、怖がってる匂いが薄い。二台目は濃い。三台目は……よく分からない。四台目は、子どもがいる」
セバスの目が、わずかに細くなる。
「分散させていますね」
黒帳側は、ナザリックの存在を知っているわけではない。
それでも、強者に止められることを前提に動いている。
一箇所を押さえられても、全部を失わない。
一台を止められても、残りが進む。
人間を荷物として扱う者なら、当然の発想だった。
「マーレ」
「はい」
「二台目を止めろ。馬を傷つけるな。幌を倒すな」
「分かりました」
「セバスは二台目へ。中の者を確認しろ」
「承知しました」
「アウラは、三台目と四台目の動きを見ろ。先頭は後回しでいい」
「うん」
アウラは一瞬だけ、先頭馬車を見る。
速い。
だが、速さに切迫がない。
逃げている者の匂いではない。
「了解」
アインズは橋の中央へ出た。
幌馬車の御者が、ようやくこちらへ気づく。
「何者だ!」
返答はしなかった。
馬車は止まらない。
護衛が馬を走らせ、アインズへ向かう。
剣が抜かれた。
その瞬間、石橋の上で地面が沈んだ。
崩れたのは橋全体ではない。
二台目の前輪が乗った、石畳一枚分だけだった。
車輪が半ばまで沈み、馬車が大きく傾く。
御者が悲鳴を上げ、手綱を引いた。
馬は転ばない。
だが、荷車は止まった。
「止まりました」
マーレの声は、小さかった。
その直後、セバスが動く。
護衛の一人が馬車へ飛び移ろうとした。
セバスはその足首を掴み、引いた。
相手の身体が宙で止まる。
次の瞬間には、石橋の上へ静かに置かれていた。
剣は落ちた。
腕は折れていない。
だが、起き上がれない。
もう一人が短剣を振るう。
セバスは半歩だけずれた。
短剣は空を切る。
白手袋の手が、相手の肘を押さえる。
護衛の肩が沈み、膝が石畳へ落ちた。
音はほとんどしなかった。
「無駄な抵抗は、おやめください」
セバスは言った。
「あなた方が持つ情報も、命も、現時点では必要です」
幌の中から、弱い咳が聞こえた。
セバスは幌を開ける。
中にいたのは、女が三人。
子どもが二人。
そして、毛布に包まれた病人らしい老人が一人。
全員の手首に、木札が結ばれていた。
名前は書かれていない。
短い線だけが並んでいる。
「外してください……」
女の一人が、震える声で言った。
「お願いです。これを、外して……」
セバスは木札へ手を伸ばした。
だが、触れる寸前で止まる。
札の縁に、薄い黒い光が走った。
「アインズ様」
声が低くなる。
「木札に術式がございます」
アインズは視線を向けた。
単純な呪縛ではない。
木札。
車列。
石橋。
進行方向。
そして、おそらく次の受け取り地点。
複数の条件が繋がっている。
「切るな」
アインズは言った。
「無理に外せば、何が起きるか分からん」
女は唇を噛んだ。
「じゃあ、私たちは……」
セバスは答えなかった。
その時だった。
「アインズ様!」
アウラの声が飛ぶ。
三台目が、橋の手前で急に止まった。
御者が荷台から何かを投げる。
小さな黒い筒。
石橋の上で割れた。
中から、濃い煙が広がる。
煙は人間の目を潰すためのものではない。
馬だけが激しく暴れ始めた。
四台目が、横道へ向きを変える。
「分かれた!」
アウラが叫ぶ。
三台目は北の街道へ。
四台目は南の湿地帯へ。
先頭馬車は、東の山越えへ向けて、そのまま橋を越えようとしていた。
三方向。
全てを同時には追えない。
アウラの獣が、三台目へ走る。
別の獣が四台目の馬へ飛びかかる。
だが、先頭馬車も止まらない。
木札の術式が、外から加えられる強い魔力にどう反応するかは、まだ分からない。
広く巻き込む魔法は、救出ではなく移送を早める可能性があった。
「アウラ!」
「四台目に子どもがいる!」
「マーレ、先頭を止めろ!」
「はい!」
橋の向こうの地面が持ち上がる。
馬車の前に土の壁ができる。
先頭の御者が手綱を引く。
馬が前脚を上げ、馬車が止まった。
だが、幌の中から人の声はしなかった。
アウラが舌打ちする。
「やっぱり!」
先頭馬車の幌を切る。
中にいたのは、石。
藁。
そして黒い帳簿が一冊。
「囮だ!」
三台目は北道へ走り抜ける。
四台目は南の林へ入る。
アウラの獣が追う。
マーレは橋の上に残る。
セバスは二台目の馬車を守っている。
アインズは一瞬だけ、全ての方向を見る。
先頭は空。
二台目には六人。
三台目は不明。
四台目には少なくとも子ども。
敵は、こちらに選ばせている。
誰を先に救うか。
「アウラ、四台目だ!」
「うん!」
アウラが飛び出す。
木々の間へ、獣たちが雪崩れ込む。
その少し後ろで、三台目の車輪が北道の石標を越えた。
苔に覆われていた石の側面に、炭で引かれた短い線が並んでいる。
石標の線が、木札の縁へ走った。
木札が一斉に黒くなる。
その一瞬で、アインズは理解した。
石標が鍵だ。
だが、木札を走った黒い光は、すでに消えていた。
術式は終わっている。
幌の隙間から、小さな手が一度だけ出た。
誰かの声がした。
「母さん」
荷台の内側が、大きく膨らんだ。
次の瞬間、そこから気配が消えた。
馬車も、御者も、馬も残っている。
幌の中にいた人間だけが、いなくなった。
車輪は、空の荷台を引いたまま走り続ける。
御者は笑わなかった。
ただ、木札を握り潰す。
「回収は失敗ではない」
その声は、夜の街道に落ちた。
「分けて終えただけだ」
アインズの魔法が、馬車の後輪の下だけを持ち上げた。
車軸が傾き、荷台は道端の土手へ倒れ込む。
馬の前には見えない壁が立ち、前脚を跳ね上げたまま、石橋の上で踏みとどまった。
御者だけが荷台から引き剥がされ、地面へ落ちた。
だが、遅かった。
三台目にいた者は、もういない。
*
四台目は、湿地へ入る前に止まった。
アウラの獣が馬の前へ回り込み、進路を塞いだ。
御者が鞭を振るう。
獣は避けない。
鞭を噛み切る。
馬が立ち止まり、車輪が泥へ沈む。
アウラが荷台へ飛び乗った。
幌を開ける。
中にいたのは、子ども四人。
女が二人。
全員、手首に木札を結ばれている。
子どもの一人が、声を殺して泣いていた。
「大丈夫」
アウラは言った。
言ってから、自分で少し驚いた。
何が大丈夫なのか。
札はまだ外せない。
道も安全ではない。
それでも、子どもがこちらを見ている。
「……今は、こっちにいる」
それだけ言った。
*
夜が明ける頃、石橋の手前には二台の馬車が残っていた。
二台目と四台目。
救い出せた者は、合わせて十二人。
三台目から消えた者は、七人。
先頭馬車は囮だった。
捕らえた御者と護衛は、石標の順番と、木札を渡す相手の合図しか知らなかった。
第七保管所の場所も、そこに誰がいるかも知らない。
だが、横転した三台目の荷台から、一枚の紙片が見つかった。
黒い帳簿の切れ端。
そこに人名はない。
短い線が七つ。
その下に、送り先だけがあった。
――第七保管所。
セバスが紙片を見る。
「追いますか」
アインズは、七本の線を見た。
人の名ではない。
だが、七人分だ。
それだけは分かる。
「追う」
アインズは言った。
「回収先を、相手にだけ決めさせるな」