またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです―― 作:ブンチョウ
調査は、即座に開始された。
ナザリック地下大墳墓において、アインズ・ウール・ゴウンの命令が未達成に終わるなど、あってはならない。
まして、部隊は壊滅していない。
損傷もない。
消耗もない。
敵の姿すら見ていない。
ただ、目的だけが達成されなかった。
それは敗北よりも、なお不快な事態だった。
玉座の間ではなく、作戦用の一室に守護者たちが集められていた。
長卓の上には、南部村落周辺の地図が広げられている。
村。
街道。
林。
廃水車小屋。
沢。
見張りの火が確認された地点。
部隊が三度戻された位置。
すべてが記録されていた。
ただし、記録されているからといって、理解できているわけではない。
「現時点をもって、対象村落への攻撃行動は凍結する」
アインズは言った。
低い声だった。
室内の者たちが一斉に頭を下げる。
「ただし、これは撤退ではない。調査である。対象村落、水車小屋、折れた羽ペン、帰還した部隊の記憶、すべてを洗え」
「御意」
デミウルゴスが深く一礼した。
その横で、アルベドは無言だった。
いつもならば、アインズの命令に即座に陶酔じみた称賛を添えることもある。だが今は違った。
彼女は地図を見ていない。
地図の横に置かれた、折れた羽ペンを見ている。
いや、正確には違う。
羽ペンそのものではなく、それに視線を向けるアインズを見ていた。
アインズは、その視線に気づいていた。
気づきたくなかった。
「デミウルゴス」
「はっ」
「調査班の編成は」
「現地調査にはシャドウデーモンを主軸とした隠密班を。魔法痕跡の解析にはアンデッド術者を。帰還した部隊の記憶検査には、精神干渉耐性を持つ者を立ち会わせます。加えて、パンドラズ・アクターには羽ペンの解析を命じるのがよろしいかと」
その名が出た瞬間、アインズの内心に別種の不安が湧いた。
パンドラズ・アクター。
自分が作ったNPC。
性能は申し分ない。
知識もある。
忠誠も疑いない。
だが、それ以外の部分が少々、いや、かなり厄介だった。
ここで彼を呼ぶのか。
いや、アイテムやプレイヤー痕跡の分析という意味では適任だ。
適任だが、あの口調でこの空気に入ってこられると、こちらの精神が削られる可能性がある。主に自分の。
アインズは一瞬だけ悩み、すぐに頷いた。
「よい。パンドラズ・アクターにも調べさせろ」
「御意」
デミウルゴスはさらに続けた。
「現地への再接近については、攻撃目的ではなく観測目的に限定します。村そのものには干渉せず、水車小屋周辺の異常を調べます」
「村人の捕獲は?」
シャルティアが問うた。
その声は軽い。まるで夕食の献立を尋ねるようだった。
「現時点では許可しない」
アインズは答えた。
「敵が村落の保護を目的としているならば、村人への直接干渉は反応を誘発する。まずは敵の能力範囲を測る」
「残念でありんす」
シャルティアは唇を尖らせたが、それ以上は言わなかった。
アインズは内心で小さく息をつく。
いや、息はない。
それでも、ついた気はした。
すべて合理的な判断だ。
村を襲わないのは慈悲ではない。
敵を測るため。
能力を知るため。
アインズ・ウール・ゴウンの名を守るため。
それ以上でも以下でもない。
そうだ。
そうでなければならない。
「アインズ様」
アルベドが静かに口を開いた。
「確認してもよろしいでしょうか」
「許す」
「敵は、アインズ様のお名前を知っていたのでしょうか」
室内の空気がわずかに硬くなる。
アインズは返答を遅らせなかった。
遅らせれば、また見られる。
「その可能性はある」
「アインズ・ウール・ゴウンの名を、ですか」
アルベドの声は変わらない。
変わらないからこそ、怖い。
「そうだ」
アインズは答えた。
嘘だった。
正確には、完全な嘘ではない。
敵がアインズ・ウール・ゴウンの名を知っている可能性はある。
しかし、白紙に浮かんだ名は違った。
モモンガさん。
その呼び名を、この場で出すことはできない。
出せば、何かが崩れる。
アルベドはしばらくアインズを見ていた。
やがて、ゆっくりと頭を下げる。
「御意」
その一言で、会話は終わった。
終わったはずだった。
アルベドは、もう一つ問いを持っているようだった。
だが、それは忠誠の形をしていなかったため、口にはしなかった。
*
現地調査班は、夜明け前に水車小屋へ到着した。
今回は村へ接近することを目的としていない。
地点の確認。
残留魔力の測定。
認識阻害の検証。
帰還した部隊の証言との比較。
すべては手順通りに進められた。
水車小屋は古かった。
屋根の半分が落ち、壁板は湿気を吸い、かつて水路だった溝には泥が溜まっている。水車そのものは朽ち、軸だけが黒い骨のように残っていた。
異常はない。
少なくとも、最初の報告はそうだった。
『第一班、外周確認。魔法反応なし』
『第二班、地表痕跡確認。前回部隊の足跡以外、明確なものなし』
『第三班、方位測定。北北東、誤差なし』
『第四班、廃屋内部へ進入。生体反応なし』
報告は整っていた。
整いすぎていた。
デミウルゴスは、遠隔通信越しの報告を黙って聞いていた。
アインズも同席している。
アルベドもまた、わずかに離れた位置に控えていた。
彼女は現地報告よりも、やはりアインズを見ていた。
『第四班より追加報告。内部に異常なし。ただし、机が一つ残されています』
「机?」
デミウルゴスが反応した。
『はい。古い木製の机です。上には何もありません』
「記録しろ。触れるな」
『はっ』
しばらく沈黙が続いた。
そして、別の声が入る。
『第一班より報告。外周に設置した測量杭の一本が消失しました』
デミウルゴスの目が細くなる。
「消失?」
『はい。三十秒前に設置した杭です。設置地点に戻ったところ、杭のみがありません』
「周囲の痕跡は」
『なし。土の乱れも、魔法反応もありません』
『第二班より報告』
別の声が割り込む。
『こちらの地図が裏返っております』
「どういう意味だ」
『地図そのものが、いつの間にか裏返しに置かれていました。周辺に接近した個体は確認されておりません』
デミウルゴスは沈黙した。
アインズも黙っていた。
嫌な予感がする。
というより、もう嫌な予感しかしない。
『第三班より報告。方位測定に異常』
「言え」
『方位魔法は北を示しております。しかし、携行羅針盤は南を示しています。星位計測は西です。術者の体感では東となります』
「再測定せよ」
『はっ。再測定します』
数秒。
『結果、変化なし』
報告室に沈黙が落ちた。
空間操作か。
認識阻害か。
道具への干渉か。
いや、すべて同時か。
だが、そんな雑な分類で片づけるには、現象があまりにも嫌な形をしている。
敵は調査班を壊していない。
追い払ってもいない。
ただ、調査結果だけを信用できないものにしている。
デミウルゴスが口を開いた。
「アインズ様」
「何だ」
「これは、空間そのものを歪めているというより、我々の観測結果を編集している可能性がございます」
観測結果を編集。
嫌な言葉だった。
アインズはその言葉を、口の中で転がすように考えた。
ナザリックは情報で動く。
報告で動く。
報告を元に、デミウルゴスが策を立て、アルベドが配置を組み、アインズが判断する。
その報告そのものを歪められるなら、戦力差の問題ではない。
意思決定の問題になる。
まただ。
また、判断に触れてくる。
『第四班より報告』
通信が入る。
『廃屋内部の机上に、紙片を確認しました』
「先ほどは何もなかったはずだ」
『はい。ありませんでした』
「誰が置いた」
『不明。侵入反応なし。魔力反応なし。音、振動、気配、いずれも検出されておりません』
アインズは、動かなかった。
動かなかったが、内心では完全に止まっていた。
また紙か。
いや、落ち着け。
ただの紙だ。
ただの紙に動揺する支配者などいない。
だが、ただの羽ペンが命令書を破らせた夜のことを、彼は覚えている。
「内容は」
デミウルゴスが問う。
『文字が一行』
「読め」
『……悪役を名乗るなら、観客くらい疑え』
報告室の空気が凍った。
アインズは、声を出さなかった。
悪役。
観客。
その言葉の並びに、また別の記憶が浮かぶ。
ユグドラシル。
ギルドの広間。
誰かが悪役ロールについて延々と語っていた。
正義の味方は分かりやすい。
悪役には美学が要る。
観客を意識しない悪など、ただの迷惑行為だ。
そんなことを、熱を入れて話していた者がいた。
アインズは、その名を考えなかった。
考えないことにした。
考えたら、そこに行き着く。
それはまずい。
「ウル――」
言いかけて、アインズは止まった。
ほんの一音。
だが、止まった。
アルベドの視線が、すぐに向いた。
デミウルゴスも、わずかに顔を上げる。
まずい。
非常にまずい。
今、何を言いかけた。
誰の名を言いかけた。
「ウル、とは?」
アルベドの声が静かに落ちた。
アインズは、即座に答えを作った。
「迂闊だ、と言おうとした」
沈黙。
「敵はこちらを挑発している。迂闊な反応は避けるべきだ」
通ったか。
通ってくれ。
デミウルゴスが深く頷いた。
「なるほど。敵の文言に反応すること自体が、敵の望む情報となる。まさにその通りでございます」
助かった。
いや、本当に助かったのか。
アルベドはまだ見ている。
彼女の目には、納得とは別のものが残っていた。
「紙片を回収させますか」
デミウルゴスが問う。
「待て」
アインズは言った。
「触れるな。まず周辺の記録を固定しろ。映像、音、魔力、温度、空間座標、すべてだ」
「御意」
『第四班、記録固定を開始します』
通信の向こうで、術式が発動する気配があった。
次の瞬間、通信が途切れた。
音が消える。
映像も消える。
魔力反応も消える。
報告室に、完全な無音が落ちた。
「復旧しろ」
デミウルゴスの声が低くなる。
別の術者たちが動く。
通信網の確認。
転移座標の確認。
存在情報の照合。
結果は、すぐに出た。
「現地班、全員健在。水車小屋周辺に存在しています」
「では、なぜ通信が切れた」
「不明です」
その答えは、ナザリックではあまり好まれない。
だが、今はそれ以外に言葉がなかった。
数十秒後、通信が復旧した。
『第四班より報告』
声は平静だった。
平静すぎた。
『紙片は消失しました』
デミウルゴスの眉がわずかに動いた。
「消失前の記録は」
『ありません』
「記録固定を開始したはずだ」
『はい。ですが、記録媒体には何も残っておりません』
「映像は」
『白紙です』
「音声は」
『無音です』
「魔力変動は」
『平常値です』
「紙片を見た者の記憶は」
『内容は記憶しております。ただし、紙片の形状、材質、置かれていた正確な位置については、記憶が曖昧です』
デミウルゴスは黙った。
アインズも黙っていた。
これは、現象ではない。
会話だ。
敵はこちらに語りかけている。
武力ではなく、報告書を通して。
術式ではなく、手順を通して。
悪役を名乗るなら、観客くらい疑え。
観客。
誰が見ている。
誰が、こちらを見ている。
アインズは自分の手元を見た。
そこには何もない。
それなのに、折れた羽ペンの感触が、まだ指に残っているような気がした。
*
羽ペンの解析結果は、何もなかった。
魔力なし。
呪詛なし。
特殊素材なし。
情報封入なし。
空間座標の固定痕なし。
世界級アイテムの反応なし。
ただの羽ペン。
その報告を持って現れたパンドラズ・アクターは、入室した瞬間から、いつも通りだった。
「我が創造主よ!」
片膝をつき、腕を大きく広げる。
「このパンドラズ・アクター、御身の御前に、解析結果を携えて参上いたしました!」
アインズは、内心で天井を仰いだ。
やめてくれ。
いや、やめなくていい。
忠誠心の表れだ。
自分がそう作ったのだ。
そう作ったのだが、なぜ自分はあの時こんな動きを設定したのか。
過去の自分を小一時間問い詰めたい。
だが、ここで顔に出すわけにはいかない。
顔はないが。
「報告せよ」
「はっ!」
パンドラズ・アクターは勢いよく立ち上がると、折れた羽ペンを収めた箱を掲げた。
「結論から申し上げます。この羽ペンは、ただの羽ペンでございます!」
室内が静かになった。
アインズは思った。
それをそんなに堂々と言わないでほしい。
「ただし!」
パンドラズ・アクターは続けた。
「折れ目に、一点だけ奇妙な特徴がございます」
「言え」
「角度です。折れ目は偶発的な破損に見えますが、完全に一定の角度を保っています。自然に折れたものではなく、意図して折られたものと判断します」
「それだけか」
「いえ。折れた二つの軸を重ねると、ある形状に近づきます」
パンドラズ・アクターは、机上に羽ペンの模型を置いた。
折れた軸を組み替える。
それは完全な図形ではない。
しかし、アインズには分かった。
ギルドの紋章。
その一部。
本当にわずかな、角度の一致。
知らない者には意味がない。
知っている者には、偶然に見えない。
アインズは無言だった。
無言でなければならなかった。
「アインズ様?」
アルベドが声をかける。
アインズは答えた。
「続けろ」
声は平静だった。
少なくとも、そう聞こえたはずだ。
パンドラズ・アクターは胸に手を当てる。
「はっ。以上を踏まえ、この羽ペンは敵からの暗号、あるいは象徴的挑発である可能性がございます。ただし、その意味を読み解く鍵は、現時点では不明です」
不明。
そうだ。
不明でいい。
分からないことにしておけ。
アインズはそう思った。
だが、分かっている。
分かってしまっている。
これは、外からの挑発ではない。
内側を知る者の手つきだ。
ナザリックの構造ではない。
守護者の能力でもない。
アインズ・ウール・ゴウンという王でもない。
モモンガを知っている者の手つき。
「解析を継続せよ」
「御意!」
パンドラズ・アクターが大仰に頭を下げる。
アインズは、それ以上見ないようにした。
見れば、また別の意味で精神が削られる。
*
その日の終わりに、報告書が上がった。
現地異常、原因不明。
空間干渉、未確定。
精神干渉、未確定。
世界級アイテム関与、否定不能。
敵対勢力、正体不明。
対象村落、監視継続。
対象廃水車小屋、観測継続。
折れた羽ペン、解析継続。
すべてが未確定だった。
それだけなら、まだよかった。
問題は、報告書の最後だった。
アインズは、自室でそれを読んでいた。
作成者はデミウルゴス。
確認者はアルベド。
記録術式による改竄検査済み。
それでも、末尾に一行だけ、誰の筆跡でもない文字があった。
『悪役を名乗るなら、観客くらい疑え』
同じ文言。
水車小屋の紙片にあったはずの言葉。
記録には残らなかったはずの言葉。
それが、ナザリックの報告書にある。
アインズは報告書を閉じた。
ゆっくりと。
破らなかった。
燃やさなかった。
証拠品だからだ。
解析が必要だからだ。
敵の手掛かりを失うわけにはいかないからだ。
そういうことにした。
「調査を継続する」
部屋には誰もいなかった。
だから、その声は誰にも届かない。
アインズは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
悪役。
観客。
その言葉を考えないようにした。
考えれば、思い出す。
悪の美学を語っていた誰かを。
ゲームの中の悪役と、現実の支配者の違いを。
いや、違う。
これは罠だ。
敵は、こちらの記憶を利用している。
だからこそ、反応してはならない。
アインズは報告書を机の上に置いた。
骨の指が、紙の端に触れる。
一枚だけ、下の白紙が粉になっていた。
力を入れた覚えはなかった。
ナザリックの記録には、この日の調査結果がこう残された。
原因不明。
調査継続。
攻撃行動、保留。
ただ、アインズの机には、原因ではなく、観客という言葉だけが残っていた。