またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです―― 作:ブンチョウ
アルベドは、羽ペンが嫌いだった。
敵の証拠だからではない。
罠の可能性があるからでもない。
アインズ様がそれを見る時だけ、自分の知らないものを見るからだ。
折れた羽ペン。
ただの羽ペン。
魔力もなく、呪いもなく、細工もないと報告された物。
だが、それを見た時のアインズ様は、玉座に座す絶対者ではなかった。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ、どこか遠くを見ていた。
アルベドの知らない場所。
アルベドの知らない時間。
アルベドの知らない名。
それが不快だった。
敵が強大であることは、問題ではない。
アインズ様に害をなすなら滅ぼせばよい。
ナザリックに敵対するなら粉砕すればよい。
世界の果てに隠れようとも、いずれ見つけ出し、跪かせ、許しを乞う声すら踏みにじればよい。
しかし、敵はそういう形をしていなかった。
敵は刃を向けない。
城壁を破らない。
守護者を殺さない。
ただ、アインズ様の視線を奪う。
それが許せなかった。
アインズ様は、敵がアインズ・ウール・ゴウンの名を知っていた可能性がある、と仰った。
それは嘘ではない。
あの御方が嘘を仰るはずがない。
ただ、語られなかった事実がある。
アルベドは、そう判断した。
そして、その判断は彼女の胸の内で、忠誠という名を与えられた。
*
アインズ・ウール・ゴウンは、対象村落への攻撃行動を凍結している。
水車小屋周辺への調査も、デミウルゴスの管理下で慎重に行われている。
それは正しい。
敵の能力が不明である以上、軽率な行動は避けるべきだ。
アルベドも、その判断に異を唱えるつもりはなかった。
ないはずだった。
だが、確認するだけならばよい。
調査班の報告に不備がないか、守護者統括として現地を検める。
万が一、アインズ様に害をなす痕跡があるなら、即座に除去する。
それは独断ではない。
忠誠である。
そう分類した。
アルベドは部下を伴わなかった。
余分な者がいれば、敵に与える情報が増える。
守護者統括である自分ならば、多少の異常には対処できる。
それに、アインズ様を揺さぶるものを、他の者の目に触れさせる必要はない。
そう考えた時点で、彼女は自分の判断にわずかな濁りが混じったことを理解していた。
理解していたが、無視した。
ナザリックの転移機能を使い、監視網の外縁へ出る。
そこから先は徒歩で進んだ。
森は静かだった。
夜気は湿り、土の匂いが濃い。
遠くに村の灯が見えた。
水車小屋は、その手前にあるはずだった。
朽ちた屋根。
泥の溜まった水路。
黒い骨のように残る水車の軸。
調査報告にあった通りの景色が、木々の向こうに見えている。
アルベドは足を止めた。
視界の中央に、黒い板が浮かんでいた。
薄い。
書類板ほどの大きさ。
金属にも石にも見えない。
魔力はない。
呪いもない。
ただ、そこにある。
アルベドは即座に警戒態勢を取った。
翼がわずかに広がる。
黒い板に、白い文字が浮かんだ。
『単独行動申請:却下』
アルベドは眉を動かさなかった。
申請。
却下。
意味は分かる。
だが、自分は申請などしていない。
許可を求めた覚えもない。
自分はアインズ様のために動いている。
続けて、二行目が浮かぶ。
『理由:目的欄に虚偽の疑いあり』
森の中に、音はなかった。
虫の声も、風の音も、遠い獣の気配も、その瞬間だけ消えたように感じられた。
「不敬な」
アルベドの声は低かった。
怒鳴らなかった。
叫ばなかった。
ただ、その一言で周囲の空気が沈む。
目的欄に虚偽。
何を知っている。
何を見たつもりでいる。
私はアインズ様のために動いている。
それ以外に、何がある。
アルベドは黒い板へ手を伸ばした。
攻撃というほど大きな動作ではない。
ただ、払いのける。
それだけで、並の魔法障壁なら砕ける。
黒い板は、あっさり割れた。
抵抗はなかった。
手応えも薄い。
破片が、乾いた音を立てて足元に落ちる。
次の瞬間、破片が地面の上で、ひとりでに並び替わった。
文字になる。
『追記者は、追記の責任を負う』
アルベドは動きを止めた。
追記者。
追記。
責任。
意味は分かる。
だが、何のことかは分からない。
分からないはずなのに、その言葉は彼女の内側のどこかに触れた。
自分に関係がある。
そう直感した。
なぜそう感じたのかは、分からない。
だからこそ不快だった。
さらに、割れた破片の隅に、小さな文字が浮かぶ。
『過剰設定は、空欄よりましだ』
アルベドは、その一文を見た。
奇妙な言葉だった。
侮辱にも、忠告にも、冗談にも見える。
だが、そこには妙な湿度があった。
単なる敵の挑発ではない。
長く、細かく、偏執的な記述を残した者の影。
創造主。
その言葉が、アルベドの内側でかすかに揺れた。
タブラ・スマラグディナ。
自らを創造した至高の御方。
その名を思い浮かべた瞬間、アルベドは破片を踏み砕いた。
今度は完全に。
土が抉れ、周囲の草が圧に潰れる。
黒い破片は粉になった。
粉になり、消えた。
何も残らない。
魔力反応もない。
痕跡もない。
ただ、森だけが戻ってきた。
虫の声がした。
風が葉を揺らした。
遠くで村の犬が吠えた。
アルベドは、水車小屋を見た。
そこへ進むことはできる。
おそらく。
少なくとも、進めないという感覚はない。
だが、彼女は進まなかった。
踏み出さなかった。
敵を恐れたのではない。
あの文言を、これ以上見たくなかった。
そう考えかけて、彼女はすぐに訂正した。
違う。
アインズ様へ報告すべき事態が発生したため、帰還する。
そう分類した。
*
報告しなければならない。
それは当然だった。
守護者統括が未知の干渉を受けた。
その事実を主へ隠すなど、あってはならない。
あってはならないが、アルベドはわずかに遅れた。
ナザリックへ戻り、報告のために歩く廊下で、足が一度だけ止まった。
報告すれば、アインズ様はまた見る。
自分ではない何かを。
自分の知らない過去を。
自分の知らない名を。
自分の知らない創造主たちを。
その思考を、アルベドは握り潰した。
忠誠に不要なものだった。
廊下の先に、アインズの私室へ続く扉がある。
その前で、アルベドは姿勢を整えた。
許可を得て入室する。
アインズは机の前に立っていた。
折れた羽ペンを、また見ていた。
アルベドの胸の奥で、何かが細く鳴った。
その音を、彼女は聞かなかったことにした。
「アルベド」
アインズが言った。
「はっ」
「何を見た」
問いは短かった。
叱責ではない。
確認でもない。
まるで、すでに何かを察していたような声だった。
アルベドは頭を下げる。
「申し訳ございません。独断にて、水車小屋方面の確認へ向かいました」
「それは後で聞く」
アインズの声は変わらない。
「何を見た」
アルベドは、わずかに顔を上げた。
アインズ様は怒っておられるのか。
それとも、恐れておられるのか。
そんな思考が浮かび、即座に消した。
至高の御方に恐れなどない。
あるはずがない。
「黒い板のようなものが現れました。魔力反応はありません。そこに文字が」
「内容は」
「最初に、『単独行動申請:却下』と」
アインズは動かなかった。
「続けろ」
「次に、『理由:目的欄に虚偽の疑いあり』と」
部屋の空気がわずかに重くなる。
「私はそれを破壊しました。すると、破片が文字を作りました」
アルベドは一度、言葉を止めた。
なぜ止めたのか、自分でも分からなかった。
言いたくない。
それだけは分かった。
「読め」
アインズが命じた。
アルベドは従った。
「『追記者は、追記の責任を負う』」
沈黙。
アインズは、完全に動きを止めていた。
アルベドは、その沈黙を見た。
見てしまった。
あの御方は、意味を知っている。
そう理解した。
理解した瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
「他には」
アインズの声は低かった。
「破片の隅に、小さくもう一文」
「言え」
「『過剰設定は、空欄よりましだ』と」
アインズは何も言わなかった。
その沈黙は、先ほどより長かった。
過剰設定。
空欄。
追記。
それらの言葉を、アインズは一つずつ聞いていた。
聞きながら、別のものを見ていた。
アルベドには、そう見えた。
「アインズ様」
アルベドは言った。
言ってから、自分が問いを発したことに気づいた。
「追記とは、何のことでございましょうか」
その問いは、忠誠の形をしていなかった。
だからこそ、彼女の声は静かだった。
アインズは、すぐには答えなかった。
ほんの一拍。
羽ペンを見た時と同じ、わずかな遅れ。
だが今度は、アルベドも見逃さなかった。
「敵の挑発だ」
アインズは言った。
支配者の声だった。
「君の創造主に関わる情報を利用し、君を揺さぶろうとしている。目的はナザリックの分断だ」
「私の創造主を」
アルベドの声に、冷たいものが混じる。
「その名を利用していると」
「可能性は高い」
アインズは続けた。
「敵は、こちらの記憶や情報に干渉している。先の調査でも、報告と観測に異常が発生した。今回も同系統の現象と見るべきだ」
アインズは、ほんのわずかに言葉を急いでいた。
アルベドはそれを聞いた。
聞いて、頭を下げた。
「御意」
その返答は完璧だった。
忠誠としては、完璧だった。
だからこそ、アインズはそれ以上聞けなかった。
「独断行動については、後ほど処分を検討する」
「いかなる罰も」
「今はよい」
アインズは遮った。
「今後、敵の痕跡を単独で追うことを禁ずる。これは君だけではない。守護者全員に通達する」
「御意」
アルベドは頭を下げた。
深く。
深く。
顔を上げた時には、いつもの守護者統括の表情に戻っていた。
少なくとも、そう見えるようにしていた。
「下がれ」
「はっ」
アルベドは退室した。
扉が閉じる。
足音が遠ざかる。
アインズは、その音が完全に消えるまで動かなかった。
*
追記者。
アインズは、その言葉を反芻した。
あり得ない。
あれを知っている者はいない。
あの場にいたのは自分だけだ。
サービス終了直前。
ギルドの誰もいない玉座の間。
アルベドの設定画面。
タブラ・スマラグディナが残した長大な記述。
その最後。
自分が消した一文。
自分が書き加えた一文。
指が止まる。
あの時は、冗談のつもりだった。
いや、冗談だったのか。
サービス終了を前にした、最後のいたずら。
誰も見ていない。
誰も困らない。
ゲームは終わる。
すべて消える。
そう思っていた。
だが、消えなかった。
アルベドはここにいる。
ナザリックもここにある。
自分もここにいる。
そして、追記も残った。
アインズは手を握った。
骨の指が鳴る。
これは、設定情報の漏洩だ。
ナザリックの根幹への攻撃だ。
アルベド個人への挑発ではない。
私への断罪でもない。
そう考えるべきだ。
そう考えなければならない。
だが、先の報告書に残された言葉が、頭の奥で動いた。
観客。
悪役を名乗るなら、観客くらい疑え。
誰も見ていなかったはずの行為。
それを見ていた者がいる。
あるいは、見ていなかったはずなのに、知っている者がいる。
アインズは机に向かった。
白紙を一枚置く。
探知魔法。
盗聴対策。
転移阻害。
精神干渉への備え。
記録改竄への対策。
すべて重ねた。
それでも、何かが起きるだろうと思っている自分がいた。
その予感が、すでに敗北のようで不快だった。
白紙は、しばらく何も示さなかった。
ただの紙だった。
アインズはそれを見ていた。
見続けた。
何も起きるな。
そう思った。
何も起きなければ、まだ言い訳ができる。
アルベドが見たものは、敵による心理攻撃。
追記という言葉も、こちらの情報を推測しただけ。
設定に関する単語を並べた偶然。
そう処理できる。
そう処理する。
紙が、わずかに揺れた。
風はない。
魔力反応もない。
それでも、白紙に一行が浮かんだ。
『変更者:モモンガ』
アインズは、動かなかった。
アインズ・ウール・ゴウンではない。
魔導王でもない。
ナザリックの支配者でもない。
モモンガ。
あの時、設定を書き換えた者の名。
逃げ場のない表示だった。
アインズは、その文字を消さなかった。
消せなかったのではない。
消せるかどうかを、試さなかった。
試して、消えなかった場合。
試して、消えた場合。
どちらも、記録に残せない。
白紙の一行は、しばらくそこにあった。
やがて、薄れて消えた。
紙は元に戻る。
何もなかったように。
アインズは長い間、その白紙を見ていた。
その夜、アルベドへの追加命令は出されなかった。
水車小屋への攻撃命令も出されなかった。
対象村落への処分も、保留されたままだった。
ナザリックの記録には、こう残された。
設定情報漏洩の可能性あり。
原因不明。
調査継続。
変更者の名は、記録されなかった。