またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです―― 作:ブンチョウ
デミウルゴスは、敵の正体を断定していなかった。
断定できないものを、断定したかのように扱うのは危険である。
だが、仮説は立てられる。
仮説を立て、検証し、不要なものを捨て、残ったものを利用する。
それが知性ある者の仕事だった。
作戦室の長卓には、これまでの報告書が並べられていた。
対象村落焼却作戦の未達成報告。
水車小屋周辺の調査記録。
折れた羽ペンの解析結果。
アルベドが遭遇した黒い板の記録。
ただし、そこに記されていないものもあった。
モモンガ。
観客。
変更者。
その三つの言葉は、ナザリックの正式記録から外されていた。
デミウルゴスは、その空白にも気づいていた。
気づいていたが、問わなかった。
問うべき時ではない。
アインズ・ウール・ゴウンが記録しないと判断されたのならば、それは記録しないことに意味がある。
それ以上は、分析対象ではない。
デミウルゴスは眼鏡の位置を直した。
「現時点で確認できるのは、敵が我々に対し、直接的な破壊行動を取っていないという点です」
作戦室には、アインズ、アルベド、シャルティアがいる。
コキュートスは別任務に就いているため、遠隔で報告を受ける手配になっていた。
アインズは長卓の上座に座り、黙っている。
その姿は、いつも通り絶対者そのものだった。
少なくとも、そう見えた。
「村落焼却作戦では、部隊は無傷で帰還しました。水車小屋調査では、記録と観測に干渉がありましたが、調査班に損害はありません。アルベドの遭遇した現象も同様です」
アルベドの眉がわずかに動いた。
それが不快によるものなのか、自分の独断行動が議題に含まれたことによるものなのか、デミウルゴスは判断しなかった。
判断する必要がなかった。
「敵は、我々を殺すことを目的としていない。あるいは、殺せない。少なくとも、現段階ではそのように振る舞っております」
「殺せないのではなく、殺さないだけかもしれないでありんす」
シャルティアが、やや不満そうに言う。
デミウルゴスは頷いた。
「その可能性もあります。ですが、重要なのは結果です。敵は、我々の戦力を削っていません。削っているのは、我々の行動選択です」
アインズの指が、長卓の上で一度だけ動いた。
デミウルゴスはそれを見た。
だが、何も言わない。
「敵には制限があるものと思われます」
「制限?」
アインズが言った。
「はい」
デミウルゴスは、地図の一点を指した。
焼かれるはずだった村。
いまだ焼かれていない村。
「まず、敵は対象村落を保護しました。次に、我々の調査を妨害しました。しかし、村落そのものを移動も隠蔽もしていません。こちらに見せたままです」
「誘っている、と?」
「その可能性はございます。ただし、もう一つの見方があります」
デミウルゴスの声は、静かだった。
「敵は、村落の保全を優先している」
作戦室に、わずかな沈黙が落ちた。
その言葉だけならば、敵の目的を分析しているだけに聞こえる。
だが、デミウルゴスの口から出ると、意味が変わる。
「であれば、利用可能です」
アインズは黙っていた。
鈴木悟は、その言葉の先を聞く前から嫌な予感を覚えていた。
デミウルゴスが「優先順位」を見つけた時、彼はそれを尊重しない。
そこに指をかける。
引けば動くか、押せば止まるかを試す。
「続けろ」
アインズは言った。
声は平静だった。
「対象村落を焼却する案は、現時点では凍結が妥当です。代わりに、保護下に置きます」
「保護、でありんすか?」
シャルティアが眉をひそめる。
「はい。食糧、薬、布、工具を支給します。周辺の盗賊、ならびに領主側の不当な圧迫からも守ります。必要であれば、井戸の修繕、道の整備、病人の治療も行いましょう」
アルベドが静かに問う。
「それは、施しですか」
「いいえ」
デミウルゴスは即答した。
「実験です」
その言い方には、ためらいがなかった。
「敵が村落の保全を重視するならば、我々が村を保護することで、敵の反応を制御できます。敵が特定の対象を損なわせまいとするなら、その対象は制限条件です。制限条件であれば、利用できます」
保護。
制限条件。
利用。
言葉が、一つの線でつながっていく。
アインズは内心で小さく唸った。
実にデミウルゴスらしい。
この悪魔は、誰かの優しさを見つけて感動することはない。
そこに機構を見る。
条件を見る。
利用できるかどうかを見る。
「具体案を示せ」
「御意」
デミウルゴスは、地図の横に一枚の羊皮紙を広げた。
「まず、支援物資を搬入します。量は村が一月生存できる程度。過剰に与えれば依存が早すぎます。少なすぎれば感謝ではなく不信を招く。適量がよろしいでしょう」
適量。
人の命をつなぐ食糧について語っているはずなのに、その声は薬品の分量を述べるようだった。
「次に、村長および主要家族から保護同意を得ます。書面により、ナザリックの保護下に入ることを承認させます」
「その村人たちは、書面を理解できるのかしら」
アルベドが問う。
「理解できる必要はありません。理解したと認めさせればよいのです」
シャルティアが小さく笑った。
アルベドは笑わなかった。
「保護条件として、外部接触の報告、不審な現象の通報、支給物資の移動記録、周辺村落への証言を義務付けます。違反した場合は、保護停止の可能性を明示します」
村を守る。
確かにそう言える。
だが、それは同時に、村をナザリックの観測装置に変えることだった。
村人たちは助けられる。
食糧を受け取り、薬を受け取り、盗賊から守られる。
そして、そのたびに記録される。
何を受け取ったか。
誰と話したか。
何を見たか。
何に怯えたか。
何に感謝したか。
生きたまま、報告書にされる。
「敵が村を守るなら、村をこちらの手で守ればよいのです」
デミウルゴスは穏やかに言った。
「そうすれば、敵は村を損なう行動を取りにくくなる。我々が保護に見える行為を行えば、敵はそれを妨害する理由を失う。仮に妨害したなら、敵の優先順位には矛盾が生じます」
アインズは、深く考えているふりをした。
実際には考えていた。
だが、その中身は部下たちが想像するものとは違っていた。
この案なら、村を焼かずに済む。
その考えは、すぐに別の欄へ押し込めた。
この案は合理的だ。
敵の反応を観測できる。
周辺地域への影響も測れる。
支配効率の検証にもなる。
対象村落を残す価値が、より明確になる。
そうだ。
慈悲ではない。
合理性だ。
「妥当だ」
アインズは言った。
デミウルゴスが深く頭を下げる。
「御意」
「ただし、実施前に契約書と支援計画の全文を確認する。敵は記録媒体への干渉を行う。文書管理は厳重にせよ」
「すでに複数の記録術式を重ねております」
「それでもだ」
アインズは言った。
「この敵に対して、十分という言葉は使うな」
その場の全員が頭を下げた。
支配者の慎重さ。
そう受け取られた。
アインズ自身も、そうであってほしいと思った。
*
焼かれるはずだった村に、黒い馬車が来た。
夜ではない。
昼だった。
太陽がまだ高く、畑仕事をしていた者たちが顔を上げる時間だった。
村人たちは逃げなかった。
逃げられなかった、と言う方が正しい。
馬車を引くものが馬ではなかったからだ。
馬の形をしている。
だが、生き物の気配がない。
黒い甲冑をまとった兵たちは、村の入口で止まった。
怒鳴らない。
笑わない。
武器を振り上げない。
ただ、荷を下ろす。
穀物の袋。
乾燥肉。
薬草。
布。
工具。
井戸の修繕に使うらしい金具。
村長は、膝をついた。
そうしろと言われたわけではない。
そうしなければならないと分かった。
黒い兵の一人が、羊皮紙を差し出した。
村長は文字を読めなかった。
読めないまま、頷いた。
頷かなければならない書面だということだけは分かった。
村の子どもが、布の束を見て一歩前に出かけた。
母親が、その肩を掴んで引き戻す。
誰も声を出さない。
荷は整然と積まれていく。
施しというより、配置だった。
祈りに対する答えではない。
誰かの指示書に従った作業だった。
*
契約書は、作戦室で最終確認されていた。
デミウルゴスが作成したものだ。
無駄がなかった。
対象村落名。
支援物資の種類。
配布量。
受領者名。
保護対象範囲。
外部接触報告義務。
不審事象通報義務。
保護停止条件。
証言協力条項。
すべて整っている。
整いすぎている。
アインズは、その羊皮紙を見ていた。
アルベドは隣に控えている。
シャルティアは少し離れた位置から覗き込み、退屈そうにしていた。
デミウルゴスは、完成した計画を提出する者の落ち着いた顔をしている。
「この契約により、村は我々の保護下に入ります。同時に、情報収集拠点として機能します。敵が介入するなら、その条件を絞り込めるでしょう」
「ふむ」
アインズは羊皮紙に視線を落とす。
書面としてはよくできている。
村人にとっては、ほとんど理解不能だろう。
だが、理解不能であることも含めて、よくできている。
恐怖。
感謝。
依存。
義務。
観測。
すべてが一枚にまとめられている。
そこへ、文字が一行増えた。
誰も筆を持っていない。
魔力反応はない。
記録術式は、異常を示していない。
それなのに、契約書の中央、支援条項と保護条件の間に、黒い文字が浮かんだ。
『救助と取引を同じ欄に書くな』
作戦室の空気が、止まった。
シャルティアが目を細める。
アルベドの手が、わずかに動く。
デミウルゴスは、表情を変えなかった。
ただ、眼鏡の奥の瞳が細くなる。
アインズは、その文字を見ていた。
救助と取引。
同じ欄に書くな。
妙な言葉だった。
命令のようでもある。
注意書きのようでもある。
ただ、そこには、ひどく見覚えのある堅さがあった。
ゲームの中。
まだギルドが賑やかだった頃。
誰かが、初心者狩りをした者に向かって言った。
それは仕様だ。
ルール上は可能だ。
罰則はない。
だから何だ。
弱い相手を踏みつけて、楽しいか。
あの人は、そういうことを言う人だった。
たっち・みー。
その名が、アインズの内側で光のように浮かび、すぐに痛みに変わった。
眩しすぎる。
昔から、そうだった。
得をするわけでもない。
効率が良いわけでもない。
それでも、弱い者を踏みつける遊び方を嫌った。
正義の味方。
その言葉を、冗談にできない人だった。
アインズは、その名を口にしなかった。
口にすれば、また見られる。
誰に。
アルベドに。
デミウルゴスに。
それとも、観客に。
「解析を」
アルベドが言いかけた。
「お待ちください」
デミウルゴスが静かに制した。
彼は羊皮紙に近づき、文字を観察する。
「……興味深い」
その声には、怒りよりも知的好奇心があった。
「興味深い、でありんすか?」
シャルティアが不機嫌そうに言う。
「ええ。敵の制限条件が、一つ明確になりました」
デミウルゴスは、黒い文字を指す。
「敵は、救助行為と取引行為の混在を嫌う。つまり、保護対象に対して条件を付与することを、介入条件の一つとしている可能性があります」
デミウルゴスの分析は、正しい。
少なくとも、ナザリックの報告書に記すならば、それで足りる。
たっち・みーの名を、この場に置く必要はない。
「であれば」
デミウルゴスは続けた。
「保護行為と取引行為を分離して配置すれば、反応の差異を測定できます。支援のみを行った場合、契約のみを提示した場合、支援後に契約を提示した場合。それぞれに対する敵の反応を比較すれば、制限条件をさらに細分化できるでしょう」
アインズは黙っていた。
悪魔の分析としては正しい。
恐ろしいほど正しい。
たっち・みーが何を嫌ったかを、デミウルゴスは知らない。
知らないまま、その嫌悪を実験項目に変換している。
それが、ひどく嫌だった。
嫌悪そのものも、記録に残す必要のないものだった。
これは敵の能力解析である。
個人的な感傷を混ぜるべきではない。
「契約条項を一時凍結する」
アインズは言った。
デミウルゴスが顔を上げる。
「支援物資の配布は継続。医療、井戸修繕、盗賊排除も実施せよ。ただし、村人に対する強制契約、外部接触の義務報告、証言協力条項、保護停止条件は保留する」
アルベドが、わずかにアインズを見る。
デミウルゴスは、少し考えてから頭を下げた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「敵の介入条件を絞るためだ」
アインズは即答した。
即答できた。
今回は、理由がある。
「支援と取引を同時に行えば、敵がどちらに反応したのか判別できない。まずは支援のみを実施し、敵の反応を測る。契約は後日、別条件として提示する。その方が変数を減らせる」
作戦室に沈黙が落ちる。
デミウルゴスが、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「なるほど。支援行動単体に対する敵の反応を確認した後、契約行動との比較を行う。段階的検証というわけですね」
「そうだ」
デミウルゴスの解釈は、正しい。
少なくとも、ナザリックの報告書に記すならば、それで足りる。
「さすがでございます、アインズ様。敵の挑発文を逆に利用し、検証手順をより精密化されるとは」
アインズは、頷いた。
その称賛は、今はありがたくなかった。
だが、ありがたくないと思う理由も、記録できるものではなかった。
「契約書は破棄せず保管する。文字の変化を含め、写しを作れ。ただし、村へは持ち出すな」
「御意」
「支援は本日中に継続。村人への命令は禁止する。必要最低限の接触に留めよ」
シャルティアが、少し首を傾げた。
「それでは、ただ助けるだけでありんす」
室内の空気が、一瞬だけ固まった。
シャルティア自身に悪意はない。
彼女はただ、当然の疑問を口にしただけだった。
ただ助けるだけ。
その言葉が、妙に鋭かった。
「ただではない」
アインズは言った。
「観測する」
シャルティアは納得したように笑った。
「なるほどでありんす」
デミウルゴスも深く頷く。
アルベドだけが、少しだけアインズを見ていた。
その視線に、何が含まれているのか。
アインズは考えなかった。
考えれば、また別の欄が増える。
*
村では、支援物資の配布が続いていた。
契約書は出されなかった。
黒い兵たちは、ただ荷を置いた。
井戸の壊れた滑車を直し、腐りかけた橋板を替え、熱を出した子どもの家に薬を置いた。
礼を言え、とも言わない。
名前を記せ、とも言わない。
従え、とも言わない。
村人たちは、それが何を意味するのか分からなかった。
怖かった。
助かったはずなのに、怖かった。
黒い兵の一人が、空になった木箱を馬車へ戻そうとした時、箱の内側に文字があった。
誰が書いたのかは分からない。
墨でもない。
焼き印でもない。
傷でもない。
ただ、木目の中に浮かぶように、一行だけ。
『救助結果欄:対象者の顔を確認せよ』
黒い兵は、その意味を理解しなかった。
記録だけを行った。
*
報告は、夜に上がった。
支援物資配布完了。
医療処置、三件。
井戸修繕、一件。
橋板交換、二箇所。
盗賊の斥候と思われる者、村外で捕縛。
村人への命令、なし。
契約書提示、なし。
敵性反応、限定的。
ただし、空の木箱に文字あり。
アインズは、その報告書を読んだ。
木箱にあった一文も、写し取られていた。
『救助結果欄:対象者の顔を確認せよ』
アインズは、その文字を見た。
先の契約書の一文よりも、さらに事務的だった。
だが、逃げにくい。
救助と取引を同じ欄に書くな。
救助結果欄。
対象者の顔。
確認せよ。
どちらも、命令ではない。
どちらも、魔法ではない。
それなのに、命令書より重かった。
アインズは報告書を閉じた。
見る必要はない。
村人の顔など。
ただ、心理状態は統治上の指標になる。
ならば、見る価値はある。
そう処理できる。
そう処理する。
アインズは、机の上で指を組んだ。
しばらく動かなかった。
やがて、短く命じた。
「次回の支援時、遠隔映像を接続しろ」
側に控えていたアンデッドが頭を下げる。
「御意」
「村人の反応を記録する。泣いた者、笑った者、怯えた者、すべてだ。統治資料として保存する」
声は平静だった。
理由もある。
統治資料。
心理傾向の把握。
支配効率の検証。
いくらでも名目は作れる。
アインズは、それで十分だと思った。
十分でなければならなかった。
ナザリックの記録には、対象村落への支援行動、試験的継続、と記された。
契約書は作成された。
ただし、契約欄は空白のままだった。