またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです―― 作:ブンチョウ
薬師風の女は、見つからなかった。
盗賊団から得られた証言は、曖昧だった。
口の悪い薬師風の女。
荷車を直し、子どもに薬を飲ませ、足音なく消えた女。
仕事と趣味、身内の悪趣味について語った女。
どれも無視するには具体的で、断定するには足りなかった。
ナザリックの報告書には、こう記された。
薬師風の女、所在不明。
荷車の修繕痕、確認。
使用工具、不明。
周辺聞き込み、継続。
敵性干渉痕跡、限定的。
アインズは、その報告書をしばらく見ていた。
白紙は出ない。
黒い板も出ない。
羽ペンもない。
拘束具に文字が浮かぶこともない。
ただ、報告書がある。
通常の形式で作成された、通常の報告書だった。
それが、かえって落ち着かなかった。
異常がない。
追記がない。
敵は沈黙している。
ならば、次に何をするべきか。
デミウルゴスは、引き続き周辺調査を提案した。
アルベドは、対象村落への警戒強化を提案した。
シャルティアは、盗賊団への追加尋問を望んだ。
どれも間違っていない。
どれも妥当だった。
だからこそ、足りなかった。
「現地確認を行う」
アインズが言うと、作戦室の空気がわずかに変わった。
「アインズ様自ら、でございますか」
アルベドが問う。
声は穏やかだった。
ただし、その穏やかさの下に、はっきりとした拒絶があった。
「危険ではございませんか。敵はアインズ様の御判断そのものに干渉しております。御身を直接晒される必要は――」
「魔導王として行くとは言っていない」
アインズは言った。
アルベドが黙る。
デミウルゴスの眼鏡が、わずかに光を返した。
「モモンとして、でございますか」
「そうだ」
モモン。
その名を口にした時、アインズの中で奇妙な重さが動いた。
魔導王ではない。
アインズ・ウール・ゴウンでもない。
冒険者モモン。
かつて情報収集と名声獲得のために用意した仮面。
必要があれば、いくらでも使える仮面だった。
仮面。
その言葉は、少しだけ引っかかった。
薬師風の女。
盗賊が見たという、口の悪い女。
もし、敵が現地に実働要員を置いているなら。
もし、その者もまた何かを隠しているなら。
仮面をかぶった者を探すには、こちらも仮面を使うのが合理的である。
そう処理できた。
「単独で向かう。ナザリック勢を伴えば村人の反応が歪む。モモンとしての偽装が有効かどうかも確認する」
「ナーベラルを同行させては」
「不要だ」
アインズは短く答えた。
アルベドの表情が動かない。
ただ、長卓の端に置かれた彼女の指が、わずかに握られた。
「単独の方が、観測対象に与える影響が少ない」
その言葉は、報告書に載せられる種類の理由だった。
アルベドはそれ以上反対しなかった。
デミウルゴスは深く頷いた。
「なるほど。アインズ様ご自身が仮面を用いることで、敵の仮面を引き出す。さらに、対象村落住民の自然反応も得られる。実に合理的でございます」
「そうだ」
アインズは頷いた。
そういうことにしておいた。
*
モモンは、昼過ぎに村へ入った。
黒い鎧は目立つ。
だが、ナザリックの兵とは違う。
村人たちは警戒したが、逃げはしなかった。
武装した旅人。
あるいは冒険者。
そう見えたのだろう。
村は、焼けていなかった。
井戸の滑車は新しい金具で補強されている。
橋板には、まだ白い木肌が残っている。
広場の端には、空になった物資箱が積まれていた。
乾燥肉の匂いがかすかに残っている。
薬草を煮た匂いもあった。
村は救われている。
その言葉は正確ではない。
村は観測されている。
その言葉は、記録上は正確だった。
だが、目の前の井戸から水を汲む女にとっては、どちらでも同じかもしれない。
水は出る。
それだけは事実だった。
モモンが広場を歩くと、数人が顔を上げた。
視線が合うと、すぐに逸らす。
恐怖。
警戒。
好奇心。
そして、何かを言いたそうにして、飲み込む表情。
モモンは、それを観察した。
対象村落住民の心理反応。
支援後の警戒水準。
外部武装者への反応。
いくつもの欄が頭の中に並ぶ。
その欄に入れればよい。
そうすれば、ただの資料になる。
「旅の方かね」
村長が近づいてきた。
以前、羊皮紙を読めないまま頷いた男だった。
モモンは軽く頷く。
「そうだ。少し話を聞きたい」
「この村には、何もありませんが」
「最近、薬師風の女を見た者がいると聞いた」
村長の顔が、わずかに強張った。
「……あの方を探しておいでで?」
「あの方?」
「名は聞いておりません。ただ、薬を置いていきました。荷車も直してくれた。口は悪い方でしたが」
「どのように悪い」
村長は困ったように視線を伏せる。
「怖いなら怖い顔をしておけ、と」
「何?」
「黒い兵に助けられたからといって、礼まで差し出すな、と。怖いなら怖いままでいい。助かったことまで嘘にする必要はない。そう言っておりました」
モモンは黙った。
怖いなら怖いままでいい。
助かったことまで嘘にする必要はない。
言葉の形が、妙に耳に残った。
ぶくぶく茶釜。
その名を思い出しかけて、すぐに別の欄へ押し込める。
まだ確定ではない。
似た言葉を使う者など、いくらでもいる。
この世界は広い。
偶然は存在する。
そう処理できる。
「その女は、どこへ行った」
「分かりません。気づけばおりませんでした。荷車の下にいたはずなのですが」
「足跡は」
「ありませんでした」
村長は、そこで口をつぐんだ。
明らかに、言うか迷っていた。
「何かあるのか」
「いえ。ただ……」
「話せ」
モモンの声が少し硬くなった。
村長は肩を震わせた。
それを見て、モモンは一瞬だけ自分の声量を調整する。
威圧の必要はない。
自然反応が歪む。
これは観測である。
「見たままを言えばいい」
村長は小さく頷いた。
「その方は、黒い兵のことを知っているようでした」
「何と言った」
「怖がっていい、と。けれど、あれが何をしなかったかも見ておけ、と」
村長の声は低い。
「何をしなかったか」
「取らなかった。殴らなかった。連れて行かなかった。礼を言えとも言わなかった」
村長は、井戸の方へ視線を向けた。
「だから、余計に怖いのです」
モモンは、わずかに動きを止めた。
「余計に?」
「はい。何を望まれているのか、分かりません。罰が欲しいなら、罰だと分かります。税が欲しいなら、税だと分かります。命が欲しいなら……それも、恐ろしいですが、まだ分かります」
村長は唇を湿らせた。
「けれど、何も取らず、ただ置いていかれると、こちらは何を差し出せばいいのか分かりません」
モモンは、村長の顔を見た。
老人というほどではない。
だが、疲れた顔だった。
怯えと責任でできた顔。
記録にするなら、村落代表者。
年齢、五十前後。
識字能力なし。
支援勢力への恐怖あり。
敵性勢力への警戒あり。
薬師風の女との接触あり。
書ける。
いくらでも書ける。
だが、その顔は、欄に入れるには少し狭かった。
*
熱を出していた子どもは、村の端の家にいた。
モモンが訪ねると、母親は警戒した。
それでも追い返さなかった。
黒い鎧を着た男を追い返せるほど、彼女は愚かではなかった。
小さな家の中には、薬草の匂いが残っていた。
寝台の上で、子どもが上半身を起こしている。
顔色は悪い。
だが、呼吸は落ち着いていた。
母親は、入り口近くで立ったままだ。
逃げ道を塞がれない位置にいる。
モモンはそれを確認した。
警戒反応。
正常。
合理的。
「薬師風の女が、ここへ来たと聞いた」
母親は頷いた。
「薬を、飲ませてくれました」
「どのような女だった」
「口の悪い方でした」
同じ答え。
「でも、子どもが泣いたら、変な歌を歌ってくれました」
「歌?」
「聞いたことのない歌です。調子外れで、ひどい歌でした。でも、この子は笑いました」
寝台の子どもが、モモンを見た。
大きな鎧の男を見て、少しだけ布団を握る。
「黒い人?」
子どもが言った。
母親の顔が青くなる。
「やめなさい」
モモンは手を上げて制した。
「構わない」
子どもは、まだモモンを見ていた。
「黒い人たち、また来る?」
「怖いのか」
モモンは問う。
子どもは少し考えた。
その考える間が、奇妙に長く感じられた。
「怖い」
正直な答えだった。
母親が目を伏せる。
子どもは続けた。
「でも、薬くれた」
モモンは、何も言わなかった。
怖い。
でも、薬くれた。
たったそれだけの言葉だった。
分類は可能だ。
恐怖反応と利益認識の併存。
支援行動による敵対度低下の初期兆候。
統治上、有用な心理データ。
そう書ける。
書けるのに、なぜか少し遅れた。
「黒い人たちは、悪い人?」
子どもが聞いた。
母親が息を呑む。
モモンは答えなかった。
悪い。
良い。
その二つの欄は、この村では役に立たない。
黒い兵は怖い。
黒い兵は薬をくれた。
盗賊は悪い。
盗賊はまだ殺されていない。
薬師風の女は助けた。
薬師風の女は消えた。
どれも、簡単な欄に収まらなかった。
「分からない」
モモンは言った。
言ってから、自分の声にわずかに意識が向いた。
モモンとしての返答。
観測者としての返答。
あるいは、答えられなかった者の返答。
子どもは首を傾げた。
「おじさんでも?」
「そうだ」
「ふうん」
子どもは、それ以上聞かなかった。
母親が、小さく頭を下げた。
深い礼ではない。
感謝でも服従でもない。
ただ、これ以上踏み込まないでほしいという願いに近かった。
モモンは家を出ようとした。
その背に、母親の声がかかった。
「あの黒い方々の主を、ご存じなら」
モモンは振り返らなかった。
「伝えてください」
母親の声は震えていた。
「助かった者もいる、と」
家の中は静かだった。
子どもの呼吸。
薬草の匂い。
外から聞こえる、井戸の滑車の音。
モモンは答える。
「可能ならば」
それだけ言って、家を出た。
*
村の外れには、修繕された荷車があった。
車輪は古い。
だが、軸の噛み合わせが妙に正確だった。
村人の仕事ではない。
この世界の一般的な工具で行ったものとも、少し違う。
モモンはしゃがみ、車輪の根元を見る。
小さな削り跡があった。
工具痕。
規則的。
だが、使用された道具が分からない。
ナザリックの報告書通りだった。
そこに文字はなかった。
黒い板もない。
羽ペンもない。
白紙もない。
何も出ない。
モモンは、しばらく待った。
何を待っているのか。
自分でも分からなかった。
また誰かが何かを書くのではないか。
また身内にしか分からない言葉が浮かぶのではないか。
その期待は、敵の干渉を待つ行為である。
支配者として、不適切である。
そう処理した。
何も起きなかった。
風が吹いた。
荷車の影が、少しだけ揺れた。
それだけだった。
*
ナザリックへ戻ったアインズは、現地観測の報告をまとめさせた。
モモンとして得た情報は、モモンとしての記録には残さない。
ナザリック内部資料として処理する。
作戦室には、デミウルゴスとアルベドが控えていた。
シャルティアはいない。
別命令で待機中である。
「薬師風の女は確認できず。だが、証言は増えた」
アインズは報告する。
口が悪い。
薬を扱える。
子どもの扱いに慣れている。
荷車を修理した。
足跡なし。
黒い兵への恐怖を否定しなかった。
礼を強制するな、という趣旨の発言。
デミウルゴスは、静かに聞いていた。
「敵の実働要員である可能性は上がりましたね」
「そうだな」
「しかし、今回、明確な干渉は確認されておりません」
「そうだ」
アインズは頷いた。
「敵性干渉なし」
その言葉を口にした時、作戦室の空気が少しだけ乾いた。
敵性干渉なし。
ならば、今回の観測結果は、敵の追記によるものではない。
黒い板によるものでもない。
白紙によるものでもない。
ただ、見た。
ただ、聞いた。
それだけだった。
「対象村落への支援方法を一部変更する」
アインズは言った。
アルベドが視線を上げる。
「変更、でございますか」
「支援物資搬入時の兵数を減らす。村内での武器露出を最低限に抑えよ。物資配布時、礼や服従を要求する行動を禁止する。村人の反応は引き続き記録。ただし、過度な接近は避ける」
アインズは一度、言葉を切った。
「恐怖で黙られては、反応が取れん」
デミウルゴスはすぐに頷いた。
「恐怖反応を過剰に高めれば、支援効果の測定に歪みが生じる。適切な判断かと」
「そうだ」
アインズは答えた。
その理由でよい。
支援効果の測定。
心理反応の精度向上。
支配効率の最適化。
名目はいくらでもある。
「また、記録上の表記を一部変更する」
「表記、でございますか」
「対象村落、という表記は維持する。ただし、個別記録では対象村落住民という語を試験的に使用せよ」
住民。
その語は、少し余分に見えた。
だが、個別反応を記録するには必要だった。
そう処理できる。
アルベドの目がわずかに動いた。
デミウルゴスも、ほんの一瞬だけ沈黙した。
「対象村落住民、でございますか」
「そうだ。個別反応を記録する際、対象のみでは識別精度が落ちる。住民単位での反応差を記録する必要がある」
「なるほど」
デミウルゴスは、深く頭を下げた。
「群体としてではなく、個体ごとの反応傾向を把握する。統治資料としても有用です。さすがでございます」
アインズは頷く。
そういうことだ。
統治資料。
識別精度。
反応傾向。
それで十分である。
十分でなければならない。
「薬師風の女への追跡は」
アルベドが問う。
「継続。ただし、村内への過剰な聞き込みは禁止する。住民の証言が歪む」
「御意」
「盗賊団の処分は引き続き保留。追加情報が必要だ」
「御意」
命令は整った。
記録に載せられる。
理由もある。
問題はない。
アインズは、ふと子どもの声を思い出した。
黒い人たちは、悪い人?
分からない。
そう答えた。
モモンとして。
あるいは、答えられなかった者として。
その記録欄は、まだ作られていなかった。
*
夜、ナザリックの記録には、現地観測任務、完了、と記された。
薬師風の女、所在不明。
荷車修繕痕、再確認。
敵性干渉、確認されず。
対象村落住民反応、記録済み。
支援時警戒水準、調整予定。
個別反応記録、試験運用開始。
追記現象はなかった。
黒い板も出なかった。
白紙も、羽ペンも、謎の文字もなかった。
ただし、礼への回答欄は空白のままだった。