またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです――   作:ブンチョウ

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第9話 呼び名

 朝になっても、村に死体はなかった。

 

 鶏はいつも通り鳴いた。

 

 井戸へ水を汲みに出た女が、桶を落とした。

 

 水の音ではない。

 

 桶が地面に転がる、乾いた音だった。

 

 井戸の脇に、短剣が一本落ちていた。

 

 村の誰のものでもない。

 

 広場の端に積まれた物資箱の位置が、わずかにずれている。

 

 泥の上には、膝をついた跡がいくつも残っていた。

 

 引きずられたような跡もある。

 

 血はない。

 

 焼け跡もない。

 

 壊された家もない。

 

 ただ、誰かが来た跡だけがあった。

 

 そして、誰かがそれを止めた跡だけがあった。

 

 村長ハーゲンは、短剣を拾わなかった。

 

 拾ってよいものかどうか、分からなかったからである。

 

 村人たちは広場に集まった。

 

 誰も大声を出さない。

 

 何かが起きた。

 

 だが、誰も死んでいない。

 

 それは幸運のはずだった。

 

 それなのに、誰の顔にも安堵はなかった。

 

 ここ数日で、彼らは覚えていた。

 

 何も奪われないこと。

 

 何も壊されないこと。

 

 それが必ずしも、許されたという意味ではないことを。

 

「……昨夜、誰か見た者はいるか」

 

 ハーゲンが尋ねた。

 

 村人たちは顔を見合わせた。

 

 誰も答えない。

 

 答えれば、何かに名前をつけてしまう気がした。

 

 名前をつければ、それは村の中に入ってくる。

 

 その沈黙の中で、小さな声がした。

 

「見た」

 

 ミラだった。

 

 まだ顔色は悪い。

 

 母親マルナの服の端を握ったまま、広場の端からこちらを見ている。

 

 ハーゲンは表情を変えないようにして、しゃがんだ。

 

「何を見た」

 

「白い手袋の人」

 

 村人たちが、わずかに動いた。

 

「白い手袋?」

 

「うん。髪が白くて、背が高くて、黒い人たちじゃなかった」

 

「何をしていた」

 

 ミラは少し考えた。

 

 子どもが夜に見たものは、夢と混ざる。

 

 ハーゲンはそう思おうとした。

 

 だが、ミラは短剣の方を指した。

 

「あの人たちを、静かに止めてた」

 

「止めていた?」

 

「うん。叫ばないようにしてた。痛そうだったけど、死んでなかった」

 

 村人たちの沈黙が、さらに重くなった。

 

 死んでいなかった。

 

 ミラのその言い方が、かえって怖かった。

 

 死んでいないことを確認できるほど、何かが起きていたということだった。

 

「その人は、お前に気づいたか」

 

 マルナが震える声で尋ねる。

 

 ミラは首を振った。

 

「分かんない。でも、こっち見なかった」

 

「見なかった?」

 

「うん。見ないようにしてた」

 

 その答えに、ハーゲンは言葉を失った。

 

 見えなかったのではない。

 

 見ないようにしていた。

 

 子どもの言い方にすぎない。

 

 だが、その違いは村長にとって大きかった。

 

 白い手袋の人。

 

 ミラはそう呼んだ。

 

 ただ見たままの呼び名だった。

 

 名前ではない。

 

 称号でもない。

 

 祈りでもない。

 

 ただ、怖いものを誰かに伝えるための、仮の形。

 

 それでも、一度口に出された呼び名は、村の中をゆっくりと歩き始めた。

 

「白手袋の人が」

 

「黒い兵とは違うのか」

 

「井戸を直した者たちの仲間か」

 

「薬を置いた女と同じ側か」

 

「では、あの方々の主は誰なのだ」

 

「名乗らない主か」

 

 ハーゲンは顔を上げた。

 

「やめろ」

 

 声は強くなかった。

 

 だが、村人たちは口を閉じた。

 

「勝手な呼び名をつけるな。誰が聞いているか分からん」

 

「でも、村長」

 

 鍛冶屋ベルトが低く言った。

 

「呼び名がなけりゃ、何が起きたのかも話せねえ」

 

 ハーゲンは反論できなかった。

 

 正体が分からないものほど、呼び名が必要になる。

 

 名がなければ、恐怖を分けることもできない。

 

 だが、名をつければ、その何かに一歩近づくことになる。

 

 近づいてよいものなのか、誰にも分からない。

 

 マルナがミラの肩を抱いた。

 

「白手袋の人、か」

 

 誰かが小さく呟いた。

 

 ハーゲンは、その声を止められなかった。

 

 呼ぶなと言うためにも、呼び名が必要だった。

 

     *

 

 領主館へ戻された者は、一人だけだった。

 

 下級吏員である。

 

 他の者たちは戻らなかった。

 

 死んだわけではない。

 

 少なくとも、戻された下級吏員はそう証言した。

 

 全員、生きていた。

 

 意識もあった。

 

 声も出せた。

 

 ただ、動けなかった。

 

 そして、自分だけが朝方、村の外れで目を覚ました。

 

 胸元には、封蝋のついた命令書が挟まれていた。

 

 命令書は、領主館のものだった。

 

 持ち出したはずの書類袋から抜かれ、折り目一つなく戻されていた。

 

 領主館の小部屋で、下級吏員はそのことを何度も説明した。

 

 説明するたびに、少しずつ声が小さくなった。

 

 彼は逃げ帰ったのではない。

 

 それを、説明している途中で理解してしまったからだ。

 

 返されたのだ。

 

 報告するために。

 

「白い手袋の男がいました」

 

 声は掠れていた。

 

「老執事のような男です。ですが、人間ではありません」

 

「人間ではないとは、どういう意味だ」

 

 上役が問う。

 

 下級吏員は首を振った。

 

「剣が抜けなかったのです」

 

「押さえられたのか」

 

「はい。いえ、違います。押さえられたと言えば、そうなのですが……力を入れているようには見えませんでした。こちらの力が、先へ進まないのです」

 

「魔法か」

 

「分かりません」

 

「分からないでは、報告にならん」

 

 上役の声が強くなる。

 

 下級吏員は反射的に頭を下げた。

 

 その時、首筋に汗が流れた。

 

 昨夜も、同じように頭を下げた。

 

 いや、違う。

 

 下げさせられたのではない。

 

 膝が落ちた。

 

 立っている形を、自分の体が忘れた。

 

 その感覚が戻ってきて、下級吏員は椅子の縁を握った。

 

「おい」

 

 上役が眉をひそめる。

 

「聞いているのか」

 

「はい」

 

「何をされた」

 

 何をされた。

 

 その問いに、下級吏員は答えられなかった。

 

 斬られていない。

 

 殴られていない。

 

 骨も折れていない。

 

 痛みは、ほとんど残っていない。

 

 だから、何をされたのか説明できない。

 

 ただ、抵抗するという考えだけが、体の中から抜かれた。

 

「殺されかけたのか」

 

「……いいえ」

 

「では、なぜ震えている」

 

 下級吏員は、自分の手を見た。

 

 震えている。

 

 確かに震えている。

 

 だが、その理由を言葉にできなかった。

 

 殺されかけたからではない。

 

 殺されなかったからだ。

 

 あの白い手袋の男は、殺す必要がなかった。

 

 自分たちを殺さずに止められる。

 

 声を奪える。

 

 剣を奪える。

 

 逃げ道を奪える。

 

 そして、命だけを残せる。

 

 命だけを残された者は、何を持ち帰ればいいのか。

 

「白い手袋の怪物です」

 

 下級吏員はようやく言った。

 

 書記が羽ペンを止めた。

 

「怪物?」

 

「はい」

 

「老執事ではなかったのか」

 

「見た目は、そうです」

 

 下級吏員は唇を噛んだ。

 

「でも、あれは怪物です。殺さなかっただけです」

 

 上役は黙った。

 

 殺されたなら分かりやすい。

 

 逃げ帰ったなら処罰もできる。

 

 だが、殺されず、命令書だけを戻され、証言だけを持ち帰らされた。

 

 それは、警告としてあまりに丁寧だった。

 

 丁寧すぎる警告は、粗暴な脅しよりも扱いに困る。

 

「他には何を見た」

 

 上役が問う。

 

 下級吏員は息を吸った。

 

 答える前に、昨夜の暗がりを思い出した。

 

 白い手袋の男は、怒っていなかった。

 

 楽しんでもいなかった。

 

 自分たちを見下しているようにも見えなかった。

 

 ただ、必要なものを拾い、必要な者を止め、必要な書類を抜き取った。

 

 そして、自分だけを残した。

 

 選ばれたのではない。

 

 使われたのだ。

 

「私は」

 

 下級吏員は言った。

 

「戻されたのだと思います」

 

「何のために」

 

「報告のために」

 

 小部屋の空気が冷えた。

 

 上役は、しばらく何も言わなかった。

 

 報告のために生かされた。

 

 その言葉は、命令書よりも重かった。

 

     *

 

 領主館の記録には、こう書かれた。

 

 対象村落周辺に正体不明の人型存在あり。

 

 白手袋の怪物との証言。

 

 武装解除能力、不明。

 

 殺害意思、不明。

 

 敵対意思、不明。

 

 生存者一名、意図的に帰還させられた可能性あり。

 

 調査継続、要検討。

 

 上役は、その末尾にしばらく羽ペンを置いたままにした。

 

 要検討。

 

 便利な言葉だった。

 

 何も決められない時にも、報告書を閉じられる。

 

 ただし、その日、領主館から対象村落へ向かう者はいなかった。

 

     *

 

 ナザリックにも、同じ現象が報告された。

 

 報告書の題目は簡潔だった。

 

 対象村落および領主館側における俗称発生。

 

 アインズは、しばらくその題目を見ていた。

 

 俗称。

 

 名乗っていない。

 

 名乗らせてもいない。

 

 それでも呼び名は発生する。

 

 村内呼称。

 

 白手袋の人。

 

 黒い方々。

 

 名乗らない主。

 

 領主館側呼称。

 

 白手袋の怪物。

 

 未確認呼称。

 

 井戸を直した者たち。

 

 薬を置く影。

 

 白手袋の人の主。

 

 セバス・チャンは、報告書の端に立っていた。

 

 表情は静かである。

 

 自分が「白手袋の人」と呼ばれたことに、特別な反応は見せない。

 

 ただ、報告を聞いている。

 

 アルベドは不快そうだった。

 

「不遜です」

 

 彼女は言った。

 

「名も知らぬ人間どもが、勝手に呼び名をつけるなど。しかも、アインズ様に関わる存在へ、名乗らない主などと」

 

 アインズは答えなかった。

 

 名乗らない主。

 

 その呼び名は、間違っている。

 

 アインズ・ウール・ゴウン。

 

 魔導王。

 

 ナザリック地下大墳墓の支配者。

 

 名はいくらでもある。

 

 だが、対象村落に対しては、まだ名乗っていない。

 

 ならば、彼らから見れば名乗らない主である。

 

 間違いではない。

 

 それが不快だった。

 

 名は、勝手につけられるものではない。

 

 少なくとも、アインズはそう思っていた。

 

 自分がアインズ・ウール・ゴウンを名乗った時でさえ、それは勝手な名ではなかった。

 

 残されたものを守るための名。

 

 仲間の名を、墓標にしないための名。

 

 そう処理してきた。

 

 だから、村人の口から生まれた名乗らない主という呼び名は、ひどく軽く見える。

 

 軽いのに、消せない。

 

「訂正いたしますか」

 

 アルベドが問う。

 

 声には、訂正というより処罰に近い色があった。

 

「訂正はしない」

 

 アインズは言った。

 

「訂正すれば、こちらの輪郭を与えることになる。現段階では不適切だ」

 

「では、放置でございますか」

 

「観測する」

 

 放置ではない。

 

 観測。

 

 そう処理する。

 

 デミウルゴスが頷いた。

 

「俗称の発生は、興味深い現象です。恐怖を共有するための記号であり、支配導線にもなり得ます」

 

「支配導線?」

 

「はい。村内では、恐怖を和らげる呼称が発生しております。白手袋の人、黒い方々。これらはまだ怯えを含んでおりますが、完全な敵性呼称ではありません」

 

 デミウルゴスは、報告書を指で示す。

 

「一方、領主館側では白手袋の怪物。こちらは恐怖を増幅する呼称です。同一対象に対し、村と領主館で異なる印象を形成できる可能性があります」

 

「つまり、利用できると」

 

「はい。村内では接近可能な恐怖として、領主館側では接近困難な脅威として。俗称を誘導すれば、双方の反応を制御できます」

 

 理にかなっている。

 

 恐怖の濃度を調整する。

 

 呼び名を使って印象を分ける。

 

 村には近すぎず、領主館には遠すぎる存在として認識させる。

 

 統治上、有効である。

 

 そう判断できる。

 

 だが、アインズは即答しなかった。

 

 呼び名を利用するということは、その呼び名を認めることでもある。

 

 白手袋の人。

 

 黒い方々。

 

 名乗らない主。

 

 それらを使えば、外部が勝手につけた名に、ナザリック側が意味を与えることになる。

 

 危険である。

 

 そう分類できる。

 

 分類できるが、それだけではなかった。

 

「現段階では、利用も保留する」

 

 アインズは言った。

 

 デミウルゴスはすぐに頭を下げた。

 

「御意。敵性干渉条件が不明な以上、こちらから俗称操作を行うのは時期尚早ということですね」

 

「そうだ」

 

 その理由でよい。

 

 敵性干渉条件。

 

 追記現象。

 

 創造主情報。

 

 すべて未解明である。

 

 ならば、保留でよい。

 

 保留は逃避ではない。

 

 判断の延期である。

 

 アインズはそう処理した。

 

     *

 

 セバスの記録には、白手袋の人という呼称が付記された。

 

 本人の称号ではない。

 

 対象村落内俗称。

 

 そう注釈が付けられている。

 

 セバスはそれを見た。

 

 白手袋の人。

 

 白手袋の怪物。

 

 同じ自分への呼び名でありながら、村と領主館では違う。

 

 人。

 

 怪物。

 

 どちらも、セバス・チャンではない。

 

 だが、どちらも完全な誤りではなかった。

 

 侵入者たちから見れば、あの夜の自分は怪物だっただろう。

 

 村の子どもから見れば、人に見えたのだろう。

 

 では、自分はどちらなのか。

 

 答えは簡単だった。

 

 セバス・チャン。

 

 ナザリックの執事。

 

 アインズ様の命を受ける者。

 

 そう記録すればよい。

 

 だが、前夜の問いが、まだ残っている。

 

 その拳は、誰を守るために作られた?

 

 問いを発した男に、呼び名はない。

 

 報告書では、正体不明者一名。

 

 アインズの分類では、創造主情報への干渉。

 

 デミウルゴスの推測では、敵性存在。

 

 セバスの記憶では、拳の軌道を半歩ずらした男。

 

 どれも正しい。

 

 どれも、名ではなかった。

 

「白手袋の人、ですか」

 

 パンドラズ・アクターが、なぜか感慨深げに言った。

 

 セバスは静かに視線を向ける。

 

「何か」

 

「いえ。実に外部視点らしい呼称かと。創造主の意図を知らぬ者たちは、目に見える特徴で名をつける」

 

 パンドラズ・アクターは、自分の手を大げさに広げた。

 

「彼らにとって重要だったのは、あなたの名ではなく、手だったのでしょう」

 

 セバスは、自分の手袋を見た。

 

 白い手袋。

 

 侵入者の手首を止めた手。

 

 剣を抜かせなかった手。

 

 肺から声を奪った手。

 

 小石を弾いた手。

 

 それらを行っても、手袋には汚れ一つなかった。

 

 そして、あの男の丸盾に半歩だけ案内された手。

 

 守る拳。

 

 制圧する拳。

 

 従う拳。

 

 白手袋の人。

 

 セバスは、手を下ろした。

 

「任務に必要な呼称であれば、記録すべきでしょう」

 

「ごもっとも」

 

 パンドラズ・アクターは大げさに頷いた。

 

 その仕草はいつもの通りだった。

 

 だが、セバスはほんの少しだけ、呼び名というものの軽さと重さを考えた。

 

     *

 

 村では、呼び名が少しずつ定着していた。

 

 もちろん、大声で呼ぶ者はいない。

 

 祈る者もいない。

 

 感謝を捧げる者もいない。

 

 ただ、誰かが井戸の金具を見て言う。

 

「黒い方々が直したんだろう」

 

 誰かが薬壺を見て言う。

 

「薬を置く影も、同じ側かね」

 

 子どもたちは、小声で言う。

 

「白手袋の人、また来るかな」

 

 大人たちは、それをたしなめる。

 

 呼ぶな。

 

 近づくな。

 

 期待するな。

 

 だが、そのたしなめる声の中にも、もう呼び名は混じっている。

 

 呼ぶなと言うためにも、呼び名が必要だった。

 

 ハーゲンは、それに気づいて深く息を吐いた。

 

 名づけてはいけないものに、名がついた。

 

 ただ、それだけのことだった。

 

 それだけのことが、村を少し変えていた。

 

     *

 

 その夜、ナザリックの記録には、対象村落内における支援勢力への俗称発生、と記された。

 

 村内呼称、白手袋の人。

 

 村内呼称、黒い方々。

 

 村内呼称、名乗らない主。

 

 領主館側呼称、白手袋の怪物。

 

 正体不明者呼称、未設定。

 

 訂正、保留。

 

 利用、保留。

 

 呼称誘導、現段階では実施せず。

 

 セバス・チャンの記録には、対象村落内俗称、白手袋の人、と付記された。

 

 アインズ・ウール・ゴウンの記録には、該当俗称なし、と記された。

 

 ただし、支援勢力の正式名称欄は空白のままだった。

 

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