聖女にカップ麺を出したら「それはあなたの料理ですか」と言われました 〜湯を入れただけの俺が、異世界で料理人になるまで〜 作:ブンチョウ
異世界に来てから、俺が一番ありがたいと思ったものは、魔法でも女神の加護でもなかった。
カップ麺だった。
紙の容器。
乾いた麺。
粉末スープ。
ふたを半分まで剥がし、熱湯を内側の線まで注ぐ。
あとは三分待つだけ。
それだけで、人間は文明に帰れる。
「……やっぱり、すごいよな」
俺は巡礼宿の片隅で、湯気の立つ容器を見下ろしてつぶやいた。
窓の外には石畳の中庭があり、その向こうに古びた礼拝堂が見える。
俺が世話になっているのは、王都から北へ向かう巡礼路の途中にある、小さな修道院だった。
名を、サンクト・ルーメン修道院という。
たいそうな名前のわりに、食事は黒パンと豆の粥ばかりである。
いや、ありがたい。
拾ってもらった身で、文句を言う筋合いはない。
ただ、五十三年も日本で生きてきた舌には、少々修行が過ぎた。
薄い。
とにかく薄い。
塩も油も香辛料も、まるで悪徳のように避けられている。
この世界の人間は、もっと味というものを知った方がいい。
そんなことを考えながら、俺は小さな砂時計を見た。
砂が落ちきるまで、あと少し。
俺の名は日向透吾。
元の世界では、大手電機メーカーの系列会社で総務をしていた。
立派な肩書きはない。
偉大な発明もない。
世界を変えるような仕事もしていない。
けれど、日本の会社というものがどうやって回っているのかは、それなりに見てきたつもりだった。
品質管理。
納期。
改善。
効率。
こちらの世界に来てから、何度も思った。
現代日本は、やはり異常なほどよくできていたのだ、と。
このカップ麺ひとつ見てもそうだ。
三分で温かい食事ができる。
味は安定している。
容器は軽い。
保存が利く。
湯さえあれば、子どもでも作れる。
魔法などなくても、人間はここまでできる。
俺はふたを開けた。
むわっと、懐かしい匂いが立ち上がる。
醤油。
油。
合成的な、しかし抗いがたい香り。
「よし」
最後の一個だった。
異世界へ飛ばされた時、俺の通勤鞄に入っていた非常食の残り。
正直、もっと早く食べてもよかった。
だが、これを食べてしまえば、俺の手元から日本の味は完全に消える。
だから、ずっと取っておいた。
今日は特に何かあったわけではない。
ただ、朝から出された豆の粥が、あまりにも薄かった。
それだけで、人間は最後の宝に手を伸ばす。
「いただきます」
箸はない。
こちらの木匙で麺を引っかけるようにして口へ運ぼうとした、その時だった。
廊下の向こうから、ばたばたと足音が近づいてきた。
「トーゴ殿! トーゴ殿!」
扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、見習い修道士のニコルだった。
十五、六歳の少年で、いつも走っては院長に叱られている。
「どうした、ニコル。火事か」
「火事ではありません! 聖女様です!」
「聖女?」
「聖女セラフィナ様が、巡礼の途中でこちらへお立ち寄りになりました!」
俺は木匙を持ったまま固まった。
聖女セラフィナ。
その名は、俺でも知っている。
この国で最も尊敬される宗教者の一人。
病を癒やし、飢饉の地を巡り、戦場では負傷者の敵味方を問わず祈るという。
要するに、雲の上の人である。
「それは大変だな」
「大変です! それで、院長が食事のことで困っておられます!」
「食事?」
「はい! 急なことで、厨房には黒パンと豆の粥しかありません!」
「いつも通りじゃないか」
「いつも通りだから困っているんです!」
ニコルは泣きそうな顔で言った。
なるほど。
聖女様に、いつもの豆粥をそのまま出すわけにはいかない、ということらしい。
俺は手元のカップ麺を見た。
湯気が立っている。
食べ頃だ。
その瞬間、俺の中に妙な考えが浮かんだ。
この世界の聖女が、これを食べたらどうなるだろう。
黒パンと豆粥しかない修道院で、突然、日本のカップ麺が出てくる。
強い香りのスープ。
縮れた麺。
三分で完成する携帯食。
この世界の人間には、想像もつかない味のはずだ。
聖女様でも、驚くのではないか。
いや、驚くだろう。
俺は木匙を置いた。
「ニコル」
「はい!」
「これを出してみるか」
「それは?」
「俺の故郷の食べ物だ」
「トーゴ殿の故郷の……!」
ニコルの目が輝いた。
しまった。
少し得意になった。
「まあ、こちらでは珍しいだろうな。湯を入れて三分待つだけで食べられる」
「三分で!?」
「ああ」
「魔法ですか?」
「魔法じゃない。技術だ」
言ってから、胸の奥が少し膨らんだ。
技術。
俺が作ったわけでもないのに、その言葉は不思議と俺を大きく見せた。
ニコルは尊敬の目でカップを見つめている。
その視線が、少し気持ちよかった。
「分かりました! 院長にお伝えします!」
「待て。聖女様に出すなら、せめて器に移した方が――」
言いかけたが、ニコルはすでに走り去っていた。
「……まあ、いいか」
どうせ、この世界にカップ麺の作法などない。
紙の容器ごと出した方が、むしろ驚きがあるかもしれない。
俺はそう思った。
思ってしまった。
◆
聖女セラフィナは、思っていたより若かった。
二十歳前後に見える。
銀に近い淡い金髪を、首の後ろでゆるく結んでいる。
白い巡礼服には、飾り気がほとんどない。
宝石も、派手な刺繍もない。
それなのに、礼拝堂の小部屋に彼女が座っているだけで、空気が静かに整って見えた。
美しい、というより、乱れていない人だった。
俺は両手で盆を持ち、彼女の前にカップ麺を置いた。
院長とニコル、それから護衛の女性騎士が部屋の隅に控えている。
なぜか俺が料理人のような立場になっていた。
「聖女様。こちらは、トーゴ殿の故郷の食事だそうです」
院長が緊張した声で言う。
セラフィナは紙の容器を見下ろした。
ふたは完全に剥がしてある。
湯気とともに、醤油スープの匂いが広がる。
「珍しい器ですね」
「ええ。軽くて、持ち運びに便利です」
俺はつい説明した。
「保存も利きます。湯を注いで三分待てば食べられるんです」
「三分で」
セラフィナは静かに繰り返した。
「はい。俺の故郷では、珍しくもない食べ物ですが」
言ってから、自分の声に少し余分なものが混じっていたことに気づいた。
珍しくもない。
つまり、この世界では珍しい。
そう言いたかったのだ。
セラフィナは何も言わず、木匙を手に取った。
俺は少し慌てた。
「あ、熱いので気をつけてください」
「ありがとうございます」
彼女は麺を少しだけすくい、息を吹きかけてから口に運んだ。
部屋中の視線が、その口元に集まった。
俺も見ていた。
聖女様が、俺の故郷の食べ物を食べる。
その光景に、妙な高揚があった。
セラフィナは静かに咀嚼した。
そして、ほんのわずかに目を開いた。
「……強い味ですね」
来た。
俺は心の中で思った。
「塩と油の輪郭が、とてもはっきりしています。香りも強い。麺は柔らかく、汁をよく吸っています」
「お口に合いませんか」
院長が不安そうに尋ねる。
セラフィナは首を横に振った。
「いいえ。美味しいです」
その一言で、部屋の空気が緩んだ。
ニコルが小さく拳を握る。
院長は胸を撫で下ろす。
俺も、ほっとした。
ほっとしただけではなかった。
胸の奥に、ふわりと温かいものが広がった。
どうだ。
この世界の聖女でも、現代日本の食品技術には驚くだろう。
黒パンと豆粥の世界にはない味だ。
俺の故郷では普通のものでも、ここでは十分に奇跡になる。
そんな言葉が、口に出さないまま顔に浮かんでいたのだと思う。
セラフィナは、木匙を置いた。
「トーゴ様」
「はい」
「いま、少し嬉しそうなお顔をなさいましたね」
「え?」
俺は間の抜けた声を出した。
「いえ、気に入っていただけたなら、そりゃ嬉しいですが」
「違います」
セラフィナの声は穏やかだった。
怒っているようには聞こえない。
だが、その穏やかさが逆に逃げ道を塞いでいた。
「あなたは、私が美味しいと言ったことを喜んだのではありません」
「……どういう意味ですか」
「私がこれを知らなかったことを、喜んだのです」
部屋が静かになった。
ニコルの拳が、ゆっくり下がる。
院長が俺と聖女の顔を交互に見る。
護衛の女性騎士だけが、表情を変えなかった。
「そんなつもりはありませんよ」
俺は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「これは本当に便利な食べ物なんです。保存も利くし、誰でも作れる。味も安定している。俺の故郷の技術は――」
「優れているのでしょう」
セラフィナは遮らず、受け止めるように言った。
「この食べ物は、確かに優れています。携行性、保存性、調理の簡便さ。飢えた旅人に配れば、多くの者を救うでしょう。兵糧としても価値があります」
「なら――」
「ですが」
その一言で、俺の言葉は止まった。
「それは、あなたが優れている理由にはなりません」
胸の中に、冷たいものが落ちた。
「この料理を作ったのは、あなたですか」
「……いえ」
「この器を考えたのは」
「違います」
「この香りを調えたのは」
「違います」
「この麺を、長く保存できるよう工夫したのは」
「違います」
「では、あなたは何をなさったのですか」
俺は答えられなかった。
だが、答えない方がみっともない気がした。
「……湯を、入れました」
ニコルが気まずそうに目を伏せた。
院長が小さく咳払いをする。
セラフィナは、責めるような顔をしなかった。
ただ、事実を確認するようにうなずいた。
「はい。あなたは湯を注ぎ、三分待ちました。そして、私の前にこれを置きました」
「……」
「それ自体は、もてなしです。珍しいものを分けてくださったことには感謝します」
彼女は紙の容器に視線を落とした。
「ですが、私がこれを美味しいと言った瞬間、あなたは私より高い場所に立ちましたね」
「そんなことは――」
「ありませんか」
静かな問いだった。
怒りでもない。
疑いでもない。
ただ、見られていた。
「私が驚き、あなたの故郷の品をありがたがる。異世界の女が、あなたの知っている安価な食べ物に目を開く。その姿を見て、あなたは少し満たされました」
喉が乾いた。
反論の言葉はいくつか浮かんだ。
日本の技術がすごいのは事実だ。
この世界より進んでいる部分があるのも事実だ。
珍しいものを出して喜んでもらいたかっただけだ。
悪意はない。
見下したつもりもない。
そう言える。
言えるはずだった。
だが、言えば言うほど、自分の顔がみっともなくなる気がした。
「トーゴ様」
セラフィナは、俺の名前を丁寧に呼んだ。
「私はこの食べ物を貶しているのではありません」
「……はい」
「あなたの故郷を軽んじているのでもありません」
「はい」
「私が尋ねているのは、あなたがなぜ、他者の知恵と労働を自分の高さとして扱ったのか、ということです」
痛かった。
思ったよりもずっと痛かった。
会社にいた頃のことを思い出した。
取引先の前で、うちの品質は違いますから、と言ったことがある。
その品質を作っていたのは、工場の人間だった。
設計の人間だった。
検査の人間だった。
俺は会議室で資料を配っていただけだ。
それでも、相手が感心すると、少し誇らしかった。
俺が褒められたような気がした。
日本の製品はすごい。
うちの会社はすごい。
だから、そこにいる俺も少しはすごい。
そう思いたかったのかもしれない。
異世界に来ても、俺は同じことをしていた。
紙の容器ひとつで。
粉末スープひとつで。
湯を入れただけで。
「……俺は、ただ」
「はい」
「喜んでもらえたら、いいと思って」
「それも本当でしょう」
セラフィナは即座に否定しなかった。
それがさらに苦しかった。
「人の心は、一つだけではありません。喜んでほしかったのも本当。驚かせたかったのも本当。少し見上げてほしかったのも、本当ではありませんか」
俺は何も言えなかった。
ニコルが、おずおずと口を開いた。
「あ、あの、聖女様」
「はい」
「でも、トーゴ殿の湯加減は……その、見事だったのでは」
俺は思わずニコルを見た。
助け舟のつもりなのだろう。
ありがたい。
だが、沈みかけの船に重石を載せるような助け舟だった。
セラフィナは真面目な顔でうなずいた。
「ええ。湯加減は適切でした」
やめてくれ。
「三分という時間も、よく守られていました」
本当にやめてくれ。
護衛の女性騎士が、わずかに顔を背けた。
笑ったのかもしれない。
俺は額を押さえた。
「……聖女様」
「はい」
「これは、俺への説教ですか」
「いいえ」
セラフィナは静かに首を振った。
「対等に話すための確認です」
「対等に?」
「はい。あなたが私を、見慣れぬ餌に喜ぶ幼子として扱うなら、私はあなたを大人として扱えなくなります」
その言葉は、怒鳴られるよりも堪えた。
「私はあなたを嫌いになりたいわけではありません」
彼女は木匙をもう一度手に取った。
そして、少し伸びた麺をすくい、口に運んだ。
「美味しいです。これは本当に」
俺は顔を上げた。
「ですが、美味しいことと、あなたが私の上に立ってよいことは、別です」
セラフィナは最後まで食べた。
汁も少し飲んだ。
その仕草は上品で、紙の容器さえ聖杯のように見えた。
空になった容器を、彼女は静かに盆の上へ戻す。
「これは優れた食べ物です。神殿にも報告しましょう。巡礼路で飢える者を救えるかもしれません」
「……ありがとうございます」
「ただし」
来ると思った。
来た。
「これは、あなたの料理ではありません」
俺は小さく息を吐いた。
反論はなかった。
もう、なかった。
セラフィナはまっすぐに俺を見た。
「トーゴ様」
「はい」
「もう一度、私をもてなしてください」
「え?」
「今度は、あなたの故郷ではなく、あなた自身で」
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
俺自身で。
会社の看板ではなく。
日本の看板でもなく。
食品メーカーの研究でもなく。
工場のラインでもなく。
物流の奇跡でもなく。
俺自身で。
「……俺、料理なんてまともにできませんよ」
「では、失敗なさればよいのです」
セラフィナは少しだけ微笑んだ。
それは甘い笑みではなかった。
慰めでもなかった。
逃げるな、と言っている顔だった。
「失敗は、借り物ではできませんから」
俺は、空になった紙の容器を見つめた。
三分で作れる奇跡は終わっていた。
湯を注いだだけの俺も、そこで終わっていた。
五十三年生きてきて、俺は初めて、自分の手で何を差し出せるのかを問われていた。
不思議なことに、腹は立たなかった。
ただ、少しだけ悔しかった。
そしてその悔しさは、異世界に来てから初めて、誰のものでもない、俺自身のものだった。