聖女にカップ麺を出したら「それはあなたの料理ですか」と言われました 〜湯を入れただけの俺が、異世界で料理人になるまで〜 作:ブンチョウ
その夜、俺はほとんど眠れなかった。
寝台が硬いせいではない。
毛布が薄いせいでもない。
聖女セラフィナの声が、耳の奥に残っていたからだ。
――これは、あなたの料理ではありません。
怒鳴られたわけではない。
侮辱されたわけでもない。
カップ麺をまずいと切り捨てられたわけでもない。
むしろ彼女は、あれを最後まで食べた。
美味しいとも言った。
優れた食べ物だとも認めた。
それなのに、痛かった。
たぶん、彼女が間違っていなかったからだ。
俺は、湯を入れただけだった。
紙の容器を作ったのも俺ではない。
麺を乾燥させる技術を考えたのも俺ではない。
粉末スープを調合したのも俺ではない。
工場を動かしたのも、店に並べたのも、俺ではない。
俺はただ、それを買った。
異世界に持ってきた。
湯を入れた。
三分待った。
それだけだった。
「……それだけ、なんだよな」
暗闇の中でつぶやくと、余計に情けなくなった。
会社員だった頃も、似たようなものだったのかもしれない。
取引先の前で、うちの品質は違いますから、と言ったことがある。
胸を張っていた。
だが、その品質を作っていたのは工場の人間だった。
設計の人間だった。
検査の人間だった。
俺は会議室で資料を配っていただけだ。
もちろん、それも仕事だった。
無意味だったとは思わない。
けれど、異世界に来て、俺が差し出せたものは最後のカップ麺だけだった。
しかも、それは俺の料理ではなかった。
眠れないまま、夜が明けた。
◆
朝の鐘が鳴る前に、俺は修道院の厨房へ向かった。
厨房は礼拝堂の裏手にある。
石造りの床。
大きな竈。
煤で黒ずんだ壁。
吊るされた鍋と、よく研がれた包丁。
棚には豆、干した根菜、固い黒パン、塩壺、香草の束が並んでいた。
薄暗い厨房の中で、すでに一人の修道女が働いていた。
マルタ修道女である。
年齢は六十前後だろうか。
背は低いが、肩と腕が妙にしっかりしている。
手が大きい。
指も太い。
祈る手というより、鍋を持つために作られた手だった。
俺の足音に気づいたのか、マルタ修道女は鍋をかき混ぜたまま言った。
「湯を入れる名人が、朝から何の用だい」
逃げ場のない挨拶だった。
「……もう広まってるんですか」
「修道院ってのはね、祈りと噂だけはよく回るんだよ」
マルタ修道女は振り向きもしない。
俺は厨房の入口で立ち止まった。
「料理を教えてください」
鍋をかき混ぜる音が、ぴたりと止まった。
マルタ修道女が、ゆっくりこちらを見る。
「料理を?」
「はい」
「聖女様に何か言われたね」
「言われました」
「だろうね。あの方は刃物を使わずに人を切る」
ひどい言い方だ。
しかし、否定できなかった。
「それで、あんたは料理人になりたいのかい」
「そこまでは、まだ」
「じゃあ何になりたい」
何になりたい。
五十三歳にもなって、そんな質問をされるとは思わなかった。
しかも、修道院の厨房で。
「……自分で作ったものを、出せる人間にはなりたいです」
マルタ修道女はしばらく俺を見ていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らす。
「なら、まずは豆粥だね」
「豆粥、ですか」
「毎朝、あんたが不景気な顔で食べてるやつだよ」
「そんな顔してましたか」
「してたね。味が薄い、物足りない、こんなもの食事じゃないって顔だ」
俺は視線をそらした。
していた。
たぶん、していた。
「作ってみな」
「今からですか」
「今からだよ。料理ってのは、腹が減ってから考えるもんじゃない」
マルタ修道女は棚から乾いた豆の入った袋を出し、作業台の上に置いた。
「まず、洗う」
「はい」
「石を取る」
「石?」
「畑から来るんだ。豆だけが袋に入ってると思ったかい」
言われて、俺は豆を手に取った。
確かに小さな石が混じっている。
日本の袋入り食材に慣れた目には、なかなかの衝撃だった。
「それから、水に浸ける」
「どのくらいですか」
「本当は一晩」
「一晩?」
「驚くほどのことかい」
「いや、その……粥って、煮ればできるものだと」
マルタ修道女の目が細くなった。
「豆を馬鹿にしてるね」
「いえ、そういうわけでは」
「馬鹿にしてるよ。豆は硬い。乾いた豆はもっと硬い。人間の都合で急に柔らかくなったりしない」
朝から豆に人生を説かれている気分だった。
「昨日のうちに浸けてある豆がある。今日はそれを使う」
マルタ修道女は別の器を出した。
水を吸った豆が、ふっくらと膨らんでいる。
「これを鍋に入れる。水はこのくらい。最初は強く火を入れる。沸いたら灰汁を取る。あとは火を落として待つ」
「分かりました」
「分かってない顔だね」
「いや、分かりましたよ」
「じゃあやってみな」
俺は袖をまくった。
その時点では、まだ少し甘く見ていた。
豆を煮るだけだ。
料理初心者でも、さすがに豆粥くらいは作れる。
そう思っていた。
結論から言う。
作れなかった。
◆
まず、火が難しかった。
日本のガスコンロなら、つまみを回せば火力が変わる。
弱火。
中火。
強火。
言葉にすれば、それだけで済む。
だが、竈の火はそうではなかった。
薪の太さ。
乾き具合。
置き方。
風の入り方。
灰の量。
全部で火が変わる。
強火にしたつもりが、ただ煙が増えただけだった。
弱火にしたつもりが、火が消えかけた。
慌てて薪を足すと、今度は鍋底が焦げた。
「目が泳いでるよ」
マルタ修道女が言った。
「火が一定じゃないんです」
「一定にするんだよ」
「どうやって」
「見る。聞く。匂いを嗅ぐ」
「説明が感覚的すぎませんか」
「火なんて感覚の塊だよ。帳面を読んでも煮えやしない」
その通りだった。
湯を入れて三分待つだけなら、砂時計を見ればよかった。
だが、豆粥は違う。
鍋の音を見る。
湯気の匂いを嗅ぐ。
豆の硬さを確かめる。
水が減れば足す。
焦げそうなら混ぜる。
混ぜすぎれば豆が潰れる。
放っておけば鍋底に貼りつく。
「灰汁」
「え?」
「灰汁が出てる」
「あ、はい」
俺は慌てて匙で泡をすくった。
勢い余って、豆までいくつか捨てた。
「豆を捨てるんじゃないよ」
「すみません」
「塩はまだ」
「え、まだですか」
「早い」
「でも味が」
「味の前に豆を煮な」
正論の暴力だった。
昨日は聖女に切られ、今日は厨房で豆に殴られている。
ニコルがいつの間にか入口から覗いていた。
「トーゴ殿」
「なんだ」
「湯を入れる時とは、違いますね」
「それはもう、かなり違うな」
「でも、湯加減はお上手だったのに」
「ニコル、その話はしばらく禁止だ」
「はい」
素直にうなずかれるのも、それはそれでつらかった。
どうにか豆が柔らかくなってきた頃には、俺の額は汗だくだった。
煙で目が痛い。
腰も痛い。
手には豆の匂いがついている。
鍋底からは、うっすら焦げの匂いがした。
「焦げてますか」
「少しね」
「どうすれば」
「今さら消えないよ。混ぜすぎると全部に焦げ臭さが回る。上の方だけすくいな」
なるほど。
失敗にも、被害を広げないやり方があるらしい。
会社員時代にも聞いたことがあるような話だった。
完成した豆粥は、見た目だけならいつもの豆粥に近かった。
だが、よく見ると違う。
豆の一部はまだ硬い。
一部は潰れすぎている。
粥というより、豆と濁った水の間に何かが起きている。
塩を入れて味見した。
「……薄い」
少し塩を足した。
もう一度味見する。
「……今度はしょっぱい」
マルタ修道女が鼻で笑った。
「味ってのはね、足せば足すほど戻れなくなる」
「人生みたいですね」
「料理の話をしてるんだよ」
「すみません」
マルタ修道女は俺の豆粥を一口味見した。
顔色ひとつ変えない。
「どうですか」
「焦げ臭い。豆が硬い。塩が立ってる。水が少ない」
「全部ダメじゃないですか」
「全部じゃない」
「どこが大丈夫ですか」
「灰汁は途中から少しマシに取れてた」
「そこですか」
「そこだよ。料理なんて最初は、失敗の中から一つだけ拾うもんだ」
俺は鍋の中を見た。
これを聖女に出すのか。
昨日のカップ麺の方が、百倍うまい。
いや、百倍どころではない。
あれは工場の知恵と時間が詰まっていた。
こちらは俺の焦りと煙と塩の迷走が詰まっている。
「……やっぱり、出すのはやめます」
俺がつぶやくと、マルタ修道女は即座に言った。
「出しな」
「でも、これは食べ物として」
「食べ物として作ったんだろう」
「そうですけど」
「なら出しな」
「聖女様に失礼では」
「昨日、湯を入れただけのものを得意げに出したんだ。今日だけ急に恥を知るんじゃないよ」
ぐうの音も出なかった。
マルタ修道女は木椀に豆粥をよそった。
焦げの少ない上の方を選んでくれたらしい。
「持っていきな」
俺は椀を受け取った。
重かった。
豆粥一杯が、昨日のカップ麺より重かった。
◆
聖女セラフィナは、中庭の回廊にいた。
朝の祈りを終えた後らしい。
白い巡礼服の裾が、石床にかすかに触れている。
護衛の女性騎士が少し離れた場所に立っていた。
俺が近づくと、セラフィナはこちらを見た。
「トーゴ様」
「……おはようございます」
「おはようございます。その椀は?」
「豆粥です」
「あなたが?」
「はい」
声が小さくなった。
五十三歳の男が、豆粥一杯を持って緊張している。
冷静に考えると、なかなか情けない絵面である。
「食べていただけますか」
「もちろん」
セラフィナは近くの石卓に座った。
俺は椀を置いた。
木匙も添える。
「先に言っておきます。うまくはできていません」
「なぜ先に逃げ道を作るのですか」
「……すみません」
「いただきます」
彼女は、昨日と同じように丁寧に匙を取った。
豆粥を少しすくい、口に運ぶ。
俺は思わず息を止めた。
セラフィナは静かに飲み込んだ。
そして言った。
「不味いです」
即答だった。
俺の心は、思ったより深く沈んだ。
「……ですよね」
「はい。焦げた匂いがあります。豆の煮え方も揃っていません。塩も少し強い」
「全部マルタ修道女にも言われました」
「マルタが?」
「はい」
「なら、よい先生に当たりましたね」
不味いと言われた直後に、先生を褒められた。
俺はどういう顔をすればいいのか分からなかった。
「すみません。やっぱり、こんなものを出すべきでは」
「いいえ」
セラフィナは、もう一口食べた。
俺は驚いた。
「食べるんですか」
「食べます。あなたが食べ物として作ったのでしょう」
「でも、不味いと」
「不味いものは、食べてはいけないのですか」
「いや、そういうわけでは」
「昨日のものより不味いです」
追撃が来た。
「ただし」
セラフィナは匙を置かずに続けた。
「昨日のものより、あなたの味がします」
俺は黙った。
その言葉が、すぐには理解できなかった。
「俺の味、ですか」
「はい」
「焦げ臭くて、豆が硬くて、塩が強いのが?」
「そうです」
「それ、褒めてますか」
「事実を申し上げています」
聖女様は、やはり優しく逃がしてくれない。
けれど、不思議と昨日ほど痛くはなかった。
痛いのは痛い。
恥ずかしい。
情けない。
今すぐ椀ごと持って逃げたい。
だが、それでもこれは俺の失敗だった。
誰かの研究でも、工場でも、物流でもない。
俺の手が洗った豆。
俺の目が見誤った火。
俺の鼻が気づくのに遅れた焦げ。
俺の舌が迷った塩。
俺の失敗だった。
「昨日の食べ物は、完成されていました」
セラフィナは言った。
「ですが、あなたの顔は見えませんでした」
「俺の顔」
「はい。今日は見えます。ずいぶん困った顔ですが」
俺は思わず頬を触った。
「そんな顔してますか」
「はい」
護衛の女性騎士が、また少し顔を背けた。
たぶん笑っている。
「聖女様」
「はい」
「これを出してよかったんでしょうか」
「それは、あなたが決めることです」
「俺が?」
「はい。あなたが誰かのために作り、誰かに差し出した。それをよかったことにするかどうかは、次に何を作るかで決まると思います」
次に何を作るか。
俺は空を見上げた。
青い。
日本の空と同じようで、少し違う青だった。
「……もう一度、豆粥からやります」
「よいと思います」
「カップ麺より不味いですけど」
「当然です」
「当然ですか」
「三分で積み上げられるものと、一生をかけて身につけるものは違います」
セラフィナは、また豆粥を一口食べた。
無理をしている様子はない。
美味しそうでもない。
ただ、食べ物として扱ってくれていた。
それが少し救いだった。
「トーゴ様」
「はい」
「昨日、私はあなたを責めました」
「はい」
「ですが、私はあなたに料理人になれと言ったわけではありません」
「え?」
「あなた自身でもてなしてください、と言いました。料理は、その一つの道です」
「……じゃあ、やめてもいいんですか」
「もちろん」
セラフィナは静かにうなずいた。
「ただし、やめるなら、昨日の悔しさも一緒に手放すことになります」
俺は黙った。
それは嫌だった。
なぜか、嫌だった。
五十三年生きてきて、悔しいことならいくらでもあった。
出世で抜かれた。
企画が通らなかった。
若い社員に煙たがられた。
家庭も、まあ、うまくいったとは言えない。
けれど、その多くは時間と一緒にぼやけていった。
昨日の悔しさは違った。
まだ熱かった。
自分の手の中にあるような気がした。
「……手放したくないです」
そう言うと、セラフィナは初めて少しだけ目を細めた。
「では、明日も作ってください」
「明日も」
「はい。できれば、今日より少しだけ不味くないものを」
「目標が低いですね」
「最初の目標としては、十分に高いと思います」
それもそうだった。
俺は椀を下げようとした。
すると、セラフィナが止めた。
「まだ残っています」
「いや、でも」
「いただきます」
「無理しなくていいですよ」
「無理ではありません。これは、あなたが作った最初の食事ですから」
そう言って、彼女は焦げ臭い豆粥を最後まで食べた。
俺は何も言えなかった。
◆
厨房へ戻ると、マルタ修道女が鍋を洗っていた。
俺の顔を見るなり、彼女は言った。
「泣いたかい」
「泣いてません」
「泣けばよかったのに」
「修道院の厨房は厳しいですね」
「厨房が甘かったら、腹を壊すからね」
俺は空になった椀を作業台に置いた。
「聖女様、全部食べてくれました」
「そうかい」
「不味いと言われました」
「正直で結構」
「でも、昨日のものより俺の味がする、と」
マルタ修道女は鍋を洗う手を止めた。
それから、短く笑った。
「いい言葉をもらったじゃないか」
「いい言葉なんですかね」
「借り物じゃないってことだろう」
俺は椀を見た。
内側に、豆の欠片が少し残っている。
焦げの匂いも、まだかすかにあった。
昨日のカップ麺の容器は、空になった瞬間に役目を終えた。
今日の椀は、洗えば明日も使える。
明日、また何かを入れられる。
「明日も、豆粥を作らせてください」
俺が言うと、マルタ修道女は棚を指差した。
「明日の豆は、もう水に浸けてあるよ」
「……また、やらせてもらえるんですか」
「料理ってのはね、一回でうまくなる人間より、二回目に戻ってくる人間を信用するんだよ」
俺は袖をまくった。
「まず何をすればいいですか」
「鍋を洗いな。あんたが焦がした鍋だ」
「そこからですか」
「そこからだよ。焦げを落とせない人間に、焦げない火加減は分からない」
俺は鍋を受け取った。
重い。
底には、俺の失敗が黒く貼りついていた。
それを水に浸し、布でこすり始める。
すぐには落ちない。
力を入れすぎると、手が痛む。
少し待ち、またこする。
料理は、食べる前から始まっていて、食べ終わった後にも続くらしい。
湯を入れるだけなら三分で済んだ。
けれど、料理人になるには、明日の豆を今夜から水に浸けなければならない。
俺は黒い鍋底をこすりながら、初めてそのことを知った。