聖女にカップ麺を出したら「それはあなたの料理ですか」と言われました 〜湯を入れただけの俺が、異世界で料理人になるまで〜   作:ブンチョウ

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第3話 保存食の研究という名の未練

 豆粥を作った翌朝、俺は少しだけ早く起きた。

 

 少しだけ、である。

 

 料理人を目指す者なら日の出前から厨房に立つべきなのかもしれないが、五十三歳の身体には五十三歳の事情がある。

 

 腰が痛い。

 

 腕も重い。

 

 昨日、鍋を洗いすぎた。

 

 黒く貼りついた焦げを落とすのに、思った以上に時間がかかった。布でこすり、水を替え、またこすり、指先がふやけるまでこすった。

 

 豆粥一杯でこの有様だ。

 

 料理人への道は、俺が思っていたよりもずっと筋肉質だった。

 

 厨房へ向かうと、すでにマルタ修道女が竈の前にいた。

 

「遅い」

 

 第一声がそれだった。

 

「昨日より早いです」

 

「昨日が遅かったんだよ」

 

「朝の鐘はまだ鳴ってません」

 

「鐘が鳴ってから腹が減るわけじゃない」

 

 強い。

 

 この人は論理で殴ってくるというより、生活で押し潰してくる。

 

 俺は作業台の上を見た。

 

 昨夜から水に浸けていた豆が、器の中でふっくらと膨らんでいる。

 

「これが今日の豆ですか」

 

「そうだよ。昨日より水を少し多めにした」

 

「なぜですか」

 

「昨日のあんたは、途中で水を足すのが遅かったからね。今日は多少は助けてやる」

 

「ありがとうございます」

 

「勘違いするんじゃないよ。豆を助けてるんだ」

 

 俺ではなかった。

 

 俺は豆以下だった。

 

 だが、不思議と腹は立たなかった。

 

 昨日、自分の豆粥がどれほどひどかったかを知っているからだ。

 

 俺は袖をまくり、豆を洗い始めた。

 

 昨日よりは石を見つけられる。

 

 昨日よりは水の濁りが分かる。

 

 昨日よりは灰汁の出方を気にできる。

 

 たった一日で上達したなどとは思わない。

 

 だが、昨日の失敗が、今日の手の中に少しだけ残っている。

 

 これは悪くない感覚だった。

 

「トーゴ殿」

 

 厨房の入口から声がした。

 

 見習い修道士のニコルだ。

 

 彼はいつものように息を切らしている。

 

 たぶん廊下を走ってきたのだろう。

 

「また走ったね」

 

 マルタ修道女が言った。

 

「走っていません!」

 

「息が走ってるよ」

 

「息だけです!」

 

「息だけ走る人間がいるかい」

 

 ニコルは言い返せず、俺の方へ逃げるように近づいてきた。

 

「トーゴ殿、少しお話が」

 

「なんだ」

 

「これは秘密なのですが」

 

 秘密。

 

 修道院でその言葉ほど信用ならないものはない。

 

 昨日、俺が聖女に湯を入れる名人として認識された件も、半日で厨房まで広まっていた。

 

「本当に秘密なのか」

 

「たぶん秘密です」

 

「たぶんか」

 

「少なくとも、聖女様は秘密にしたがっておられると思います」

 

 その言い方に、俺は手を止めた。

 

「聖女様が?」

 

「はい」

 

 ニコルは声を潜めた。

 

「昨夜、聖女様が護衛のイレーネ様にお尋ねになっていたそうです」

 

「何を」

 

「その……」

 

 ニコルは一度、マルタ修道女の方を見た。

 

 マルタ修道女は鍋をかき混ぜながら言う。

 

「聞いてないよ」

 

 完全に聞く姿勢だった。

 

 ニコルはさらに声を小さくした。

 

「昨日の紙の器の麺は、もう残っていないのでしょうか、と」

 

 俺は動きを止めた。

 

「……え?」

 

「それでイレーネ様が、トーゴ殿の荷物にはもう無いようです、と答えたそうです」

 

「誰が俺の荷物を確認したんだ」

 

「いえ、そこまでは」

 

「そこは大事だぞ」

 

「それでですね」

 

 ニコルは俺の疑問を棚に上げて続けた。

 

「聖女様はすぐに、こうおっしゃったそうです。『いえ、個人的に欲しているわけではありません。巡礼路の兵糧として研究価値があると思っただけです』と」

 

「なるほど」

 

「その少し後、またお尋ねになったそうです」

 

「また?」

 

「『病人でも食べられる柔らかさでした。医療食としても検討の余地があるのではないでしょうか』と」

 

 俺は黙った。

 

「さらに三度目に」

 

「三度目」

 

「『香りの強さが疲労した者の食欲を刺激する可能性があります。これはあくまで神殿の救済活動に関わる考察です』と」

 

 マルタ修道女が、鍋の前で肩を震わせていた。

 

 笑っている。

 

 完全に笑っている。

 

「……聖女様は、そんなに聞いていたのか」

 

「はい。イレーネ様は『聖女様、食べたいなら食べたいとおっしゃればよいのでは』と返されたそうです」

 

「護衛の人、けっこう踏み込むな」

 

「すると聖女様は、『食べたいのではありません。確認です』とおっしゃったそうです」

 

「確認」

 

「はい。確認です」

 

 俺は、昨日のセラフィナを思い出した。

 

 不味いです、と豆粥を切り捨てた顔。

 

 それでも最後まで食べてくれた姿。

 

 そして一昨日、カップ麺を食べた時の、ほんのわずかに開いた目。

 

 美味しいです。

 

 あれは嘘ではなかった。

 

 いや、嘘ではないと分かっていた。

 

 ただ、その後の問い詰めが強すぎて、彼女が確かに美味しいと言ったことを、俺はどこかで脇へ追いやっていたのかもしれない。

 

「……そうか」

 

 俺は小さく言った。

 

「あれ、もう無いんだよな」

 

「無いのですか?」

 

「無い。最後の一個だった」

 

 ニコルは本気で残念そうな顔をした。

 

「そうですか……」

 

「お前も食べたかったのか」

 

「いえ、研究です」

 

「お前もか」

 

「保存食としての」

 

「分かった分かった」

 

 俺は苦笑した。

 

 そして、苦笑したまま、少しだけ黙った。

 

 聖女は、あれをもう一度食べたがっていた。

 

 少なくとも、忘れてはいなかった。

 

 あの人は俺の上から目線を見抜いた。

 

 俺を逃がさなかった。

 

 けれど、カップ麺そのものは否定しなかった。

 

 美味しいものは美味しい。

 

 便利なものは便利。

 

 人を救えるものは救える。

 

 ただ、それを俺の手柄にするなと言っただけだ。

 

 なら。

 

 ならば、いつか。

 

「作れないかな」

 

 口から出た。

 

 ニコルが首をかしげる。

 

「何をですか」

 

「あの麺を」

 

 言った瞬間、自分でも無茶だと思った。

 

 豆粥すら焦がした男が、何を言っているのか。

 

 けれど、言葉は続いた。

 

「あの紙の器の麺を、この世界の材料で作れないかな」

 

 厨房が静かになった。

 

 竈の火が、ぱち、と鳴る。

 

 マルタ修道女が、鍋をかき混ぜる手を止めた。

 

「豆粥もまともに作れない男が、ずいぶん遠くを見たね」

 

「自分でもそう思います」

 

「麺なんて打てるのかい」

 

「打てません」

 

「スープは」

 

「作れません」

 

「紙の器は」

 

「作れません」

 

「保存は」

 

「分かりません」

 

「三分で戻る麺は」

 

「まったく分かりません」

 

 マルタ修道女は、呆れたように息を吐いた。

 

「全部分からないじゃないか」

 

「はい」

 

「なのに作るのかい」

 

 俺は、水を吸った豆を見た。

 

 昨日の夜から水に浸けておいた豆。

 

 昨日なら、豆は煮ればいいと思っていた。

 

 今は少しだけ違う。

 

 乾いたものを柔らかくするには、時間がいる。

 

 火を通すには、火を知らなければならない。

 

 味をつけるには、塩を入れる前に素材を見なければならない。

 

 俺はまだ何も知らない。

 

 でも、知らないことを知った。

 

 そこからなら、始められるかもしれない。

 

「作りたいです」

 

 そう答えると、マルタ修道女は少しだけ目を細めた。

 

「なぜだい。聖女様に美味しいと言わせたいのかい」

 

 俺はすぐには答えられなかった。

 

 たぶん、それもある。

 

 あの人に、もう一度美味しいと言わせたい。

 

 今度は、胸を張って。

 

 今度は、借り物ではなく。

 

 だが、それだけではない。

 

「一昨日のカップ麺は、俺の料理じゃありませんでした」

 

「ああ」

 

「でも、聖女様は美味しいと言った。もう一度食べたいと思ってくれた。俺を叱ったあの人が、です」

 

「そうだね」

 

「なら、いつか作りたいんです。日本から持ってきた残り物じゃなくて、この世界の麦や塩や油で。誰かの仕事を横取りするんじゃなくて、誰かに教えてもらって、手を借りて、ちゃんと頭を下げて」

 

 言いながら、俺は自分でも驚いていた。

 

 昨日まで、俺はこの世界を少し下に見ていた。

 

 薄い粥。

 

 固いパン。

 

 不便な竈。

 

 遅れた暮らし。

 

 だが、あのカップ麺をこの世界で作ろうとした瞬間、そんな見方では何もできないことが分かった。

 

 麦を作る人がいる。

 

 豆を育てる人がいる。

 

 塩を取る人がいる。

 

 鍋を作る人がいる。

 

 火を扱う人がいる。

 

 麺を打つ人が、どこかにいるかもしれない。

 

 保存食を作る知恵も、修道院にはあるはずだ。

 

 俺一人では何もできない。

 

 だが、それは絶望ではなかった。

 

 最初からそうだったのだ。

 

 日本でも、この世界でも。

 

「俺の料理にしたいんです」

 

 俺は言った。

 

「誰かの仕事をなかったことにするんじゃなくて、誰かの仕事に頭を下げた上で、最後に俺の手で出せるものにしたい」

 

 マルタ修道女は、しばらく黙っていた。

 

 ニコルも黙っている。

 

 俺は急に恥ずかしくなった。

 

 五十三歳にもなって、朝の厨房で夢を語っている。

 

 しかも、目標はカップ麺の再現である。

 

 冷静に考えると、なかなかひどい。

 

 だが、マルタ修道女は笑わなかった。

 

「大きく出たね」

 

「はい」

 

「まずは豆粥だよ」

 

「はい」

 

「豆粥を焦がす男に、麺もスープも器も保存もない」

 

「はい」

 

「けれど」

 

 マルタ修道女は、作業台の上の豆を指さした。

 

「遠くへ行きたいなら、最初の一鍋をちゃんと見な」

 

 俺はうなずいた。

 

「はい」

 

「今日の目標は、昨日より少しだけ焦がさないこと」

 

「目標が低いですね」

 

「昨日のあんたには高いよ」

 

 何も言い返せない。

 

 俺は鍋の前に立った。

 

 火を見る。

 

 薪の位置を見る。

 

 鍋の中の水を見る。

 

 豆が沈んでいる。

 

 昨日より少し多めの水。

 

 昨日より少し早く気づける灰汁。

 

 昨日より少しだけ、火の音が聞こえる気がした。

 

 料理人になるには、遠すぎる。

 

 カップ麺を再現するには、もっと遠い。

 

 でも、昨日より一歩だけ前に立っている。

 

 その一歩は、三分では作れなかった。

 

     ◆

 

 昼前、俺の二度目の豆粥ができた。

 

 結論から言う。

 

 不味かった。

 

 ただし、昨日よりは少しだけ不味くなかった。

 

 豆の硬さはまだ残っている。

 

 水加減も安定していない。

 

 塩は昨日より控えめにしたせいで、今度はややぼんやりしている。

 

 だが、焦げは少なかった。

 

 少なくとも、鍋底から黒い匂いが立ち上ることはなかった。

 

 マルタ修道女は一口味見して、短く言った。

 

「昨日よりは食べ物に近い」

 

「昨日は何だったんですか」

 

「反省材料」

 

 厳しい。

 

 しかし、少し褒められた気もした。

 

 俺は木椀によそった豆粥を持って、中庭へ向かった。

 

 聖女セラフィナは、今日も回廊にいた。

 

 彼女の護衛であるイレーネがそばに立っている。

 

 長身の女性騎士で、表情の変化が少ない。

 

 だが、昨日から分かってきた。

 

 この人は笑う時、顔を背ける。

 

「トーゴ様」

 

 セラフィナが俺に気づいた。

 

「また豆粥ですか」

 

「はい。昨日より少しだけ不味くない予定です」

 

「それは楽しみです」

 

 本当に楽しみなのか、この人の声からは判別しにくい。

 

 俺は椀を置いた。

 

 その時、イレーネが静かに口を開いた。

 

「トーゴ殿」

 

「はい」

 

「聖女様は、昨夜の麺について三度お尋ねになった」

 

「イレーネ」

 

 セラフィナの声が、ほんの少しだけ鋭くなった。

 

 俺は思わず二人を見た。

 

 イレーネは表情を変えない。

 

「一度目は巡礼路の兵糧として。二度目は病人食として。三度目は疲労回復時の食欲刺激として」

 

「イレーネ」

 

「私は、個人的関心も含まれていたと判断しております」

 

「イレーネ」

 

 三回目は少しだけ低かった。

 

 聖女様にも、こういう声が出るらしい。

 

 俺は笑いそうになって、必死でこらえた。

 

 こらえた。

 

 たぶん、少し漏れた。

 

 セラフィナはこちらを見た。

 

「トーゴ様」

 

「はい」

 

「誤解のないよう申し上げますが、私はあの食べ物を個人的に欲したわけではありません」

 

「はい」

 

「巡礼路における保存食として、極めて高い研究価値を感じただけです」

 

「はい」

 

「病人や疲労した者にも提供できる可能性があります」

 

「はい」

 

「……香りが強く、食欲を刺激する点も、無視できません」

 

「はい」

 

「なぜ笑っているのですか」

 

「笑ってません」

 

「笑っています」

 

「すみません」

 

 俺は素直に謝った。

 

 だが、不思議だった。

 

 昨日まで、セラフィナは俺を裁く人のように見えていた。

 

 正しく、静かで、逃げ道を塞ぐ人。

 

 もちろん、それは今も変わらない。

 

 でも、あのカップ麺をもう一度食べたいかもしれない聖女は、少しだけ人間に見えた。

 

 人を見下すなと言った人が、自分の欲もまた簡単には認められない。

 

 聖女という役割の中で、自分の食欲にまで理由をつけている。

 

 それは、どこか俺と似ているのかもしれなかった。

 

 俺が日本や会社の看板を着ていたように。

 

 彼女も、聖女という白い衣を着ている。

 

「聖女様」

 

「はい」

 

「あのカップ麺は、もうありません」

 

「そうですか」

 

 セラフィナは静かに言った。

 

 静かすぎて、少しだけ残念そうに聞こえた。

 

「でも」

 

 俺は続けた。

 

「いつか、作ります」

 

 セラフィナの目が、ほんのわずかに動いた。

 

「作る?」

 

「はい。この世界の材料で。俺の手で」

 

「昨日、豆粥を不味く作った方が?」

 

「今日もたぶん不味いです」

 

「正直ですね」

 

「正直にならざるを得ない出来です」

 

 イレーネがまた顔を背けた。

 

 セラフィナは椀を見た。

 

 それから、俺を見る。

 

「なぜ、その麺を作りたいのですか」

 

「一昨日のあれは、俺の料理じゃありませんでした」

 

「はい」

 

「でも、あなたは美味しいと言ってくれた」

 

「言いました」

 

「だから、今度は俺の料理として出したいんです」

 

 言ってから、俺は少し恥ずかしくなった。

 

 だが、逃げなかった。

 

「もちろん、一人で作れるとは思っていません。麦も、塩も、油も、器も、保存の方法も、何も分かりません。だから、この世界の人に教わります。頭を下げます。手を借ります」

 

「それでも、あなたの料理と呼ぶのですか」

 

 セラフィナは静かに聞いた。

 

 昨日の問いの続きだった。

 

 俺は今度こそ、少しだけ答えられる気がした。

 

「はい」

 

 俺は言った。

 

「誰かの知恵を借りたことを忘れなければ。誰かの仕事を自分の手柄みたいに扱わなければ。最後に、俺が責任を持って差し出せるものなら」

 

 セラフィナは黙っていた。

 

 俺の言葉が正解だったのかは分からない。

 

 たぶん、そんな簡単に正解になる話ではない。

 

 けれど、昨日よりは逃げていないと思った。

 

「では」

 

 セラフィナは木匙を取った。

 

「まずは、今日のあなたをいただきます」

 

「その言い方は少し怖いですね」

 

「豆粥の話です」

 

「分かっています」

 

 彼女は二度目の豆粥を口に運んだ。

 

 咀嚼する。

 

 飲み込む。

 

 俺はまた息を止めていた。

 

 セラフィナは言った。

 

「昨日より、不味くありません」

 

 俺は、なぜか少しだけ泣きそうになった。

 

「……ありがとうございます」

 

「ただし、美味しくもありません」

 

「そこは分かっています」

 

「豆の硬さが残っています。塩は控えめですが、味がぼやけています。香草を少し使ってもよいかもしれません」

 

「香草」

 

「マルタなら知っているでしょう」

 

 聖女様、普通に助言をくれた。

 

 俺は真面目にうなずいた。

 

「聞いてみます」

 

「それから」

 

「はい」

 

「昨日より、焦げが少ないです」

 

 その一言が、思った以上に嬉しかった。

 

 たったそれだけ。

 

 料理としては最低限の一歩。

 

 だが、昨日の俺にはできなかったことだった。

 

「火を少し見られるようになったのですね」

 

「たぶん、少しだけ」

 

「よいことです」

 

 セラフィナはまた豆粥を口に運んだ。

 

 美味しそうではない。

 

 だが、昨日より少しだけ安心して食べているように見えた。

 

 それが、今の俺には十分だった。

 

「トーゴ様」

 

「はい」

 

「その麺ができたら、最初に私へ出してください」

 

 俺は顔を上げた。

 

 セラフィナは真面目な顔をしている。

 

「研究のためですか」

 

「巡礼路の保存食として、神殿に報告する責任があります」

 

「病人食として?」

 

「その可能性もあります」

 

「疲労時の食欲刺激として?」

 

「重要な観点です」

 

「個人的関心は?」

 

「ありません」

 

 即答だった。

 

 イレーネが顔を背けた。

 

 今度は肩も少し震えていた。

 

 俺は笑った。

 

 セラフィナは、わずかに眉を寄せた。

 

「何か」

 

「いえ」

 

 俺は首を横に振った。

 

「必ず、最初に出します」

 

 そう言うと、セラフィナは小さくうなずいた。

 

「では、それまでに私は、今日の豆粥を忘れないでおきます」

 

「忘れてくれてもいいんですが」

 

「忘れません。最初の味ですから」

 

 最初の味。

 

 焦げ臭く、不揃いで、塩が迷っていた昨日。

 

 少しだけ焦げが減り、代わりに味がぼやけた今日。

 

 そんなものを覚えられるのは、なかなか恥ずかしい。

 

 けれど、ありがたかった。

 

     ◆

 

 厨房へ戻ると、マルタ修道女が香草の束を作業台に置いて待っていた。

 

「聖女様に言われたね」

 

「なぜ分かるんですか」

 

「豆粥の味がぼやけてたからね」

 

「全部お見通しですか」

 

「料理は隠せないよ。性格より正直だ」

 

 マルタ修道女は香草を一本取った。

 

 細い葉を指でこすり、俺の鼻先へ差し出す。

 

 青く、少し苦い香りがした。

 

「これは?」

 

「リュネ草。入れすぎると薬臭い。少しなら豆のぼんやりした味を起こす」

 

「味を起こす」

 

「寝ぼけた豆に声をかけるんだよ」

 

 相変わらず説明が独特だった。

 

 だが、少し分かる気がした。

 

「明日はこれを使う」

 

「はい」

 

「その前に、今日の鍋を洗いな」

 

「やっぱりそこからですか」

 

「もちろん」

 

 俺は鍋を受け取った。

 

 昨日ほど焦げてはいない。

 

 黒く貼りついたものも少ない。

 

 それだけで、少し誇らしかった。

 

 鍋底を水に浸しながら、俺は言った。

 

「マルタさん」

 

「なんだい」

 

「いつか、麺を作りたいんです」

 

「聞いたよ。馬鹿みたいに遠い目標だ」

 

「ですよね」

 

「けど、悪くない」

 

 俺は顔を上げた。

 

 マルタ修道女は、香草の束を棚に戻しながら言った。

 

「人間、遠くに鍋を置かないと、明日の豆を洗う理由を忘れるからね」

 

 俺は笑った。

 

「鍋なんですね」

 

「料理の話だからね」

 

 俺は鍋底をこすり始めた。

 

 昨日より焦げは少ない。

 

 けれど、汚れは確かにある。

 

 今日の失敗。

 

 今日の手応え。

 

 今日の一歩。

 

 それを落として、明日の鍋にする。

 

 湯を入れるだけなら三分で済んだ。

 

 だが、俺が作りたい麺には、たぶん三分では足りない。

 

 一晩でも足りない。

 

 一年でも足りないかもしれない。

 

 けれど、いつか。

 

 この世界の麦で麺を作り、この世界の塩でスープを作り、この世界の器に湯気を立てる。

 

 その時、聖女セラフィナが「美味しい」と言ったなら。

 

 俺は今度こそ、胸を張らずに言おう。

 

 これは、俺一人の手柄ではありません。

 

 けれど。

 

 俺が、あなたのために作りました、と。

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