聖女にカップ麺を出したら「それはあなたの料理ですか」と言われました 〜湯を入れただけの俺が、異世界で料理人になるまで〜 作:ブンチョウ
翌朝、厨房に入ると、作業台の上に緑の束が置かれていた。
細く、柔らかい葉。
指で触れると、少しだけ湿っている。
鼻を近づけると、青い香りがした。
薬草のようでもあり、野菜のようでもある。
昨日、マルタ修道女が言っていたリュネ草だ。
「今日はそれを使う」
竈の前で火を見ていたマルタ修道女が言った。
「はい」
「入れすぎると薬臭い」
「はい」
「少なすぎると意味がない」
「はい」
「刻み方でも変わる」
「はい」
「入れるタイミングでも変わる」
「……はい」
俺の返事が少し弱くなった。
単純に、葉っぱを入れればいいのだと思っていた。
違うらしい。
料理は俺が思っているより、いちいち細かい。
豆を洗う。
石を取る。
水を吸わせる。
火を見る。
灰汁を取る。
焦がさない。
塩を迷う。
そして今日は、草である。
五十三年生きてきて、草一枚にこんな緊張を覚える日が来るとは思わなかった。
「マルタさん」
「なんだい」
「リュネ草は、どのくらい入れればいいんですか」
「豆に聞きな」
「また感覚ですか」
「量だけ知りたいなら、あんたの国の帳面にでも聞きな。ここにあるのは今日の豆と、今日の草だよ」
また生活で殴られた。
俺はリュネ草を一本手に取った。
葉をちぎって、指でこする。
青い香りが強くなる。
少し苦い。
日本で言えば何に近いだろう。
セリ。
春菊。
あるいは、よく知らない西洋ハーブ。
考えたところで、ぴたりとはまるものがなかった。
当たり前だ。
これはリュネ草だ。
俺の世界にはなかった草である。
俺はそのことに、少し遅れて気づいた。
この世界に来てから、俺はずっと日本に似たものを探していたのかもしれない。
この豆は大豆に近い。
この香りは春菊に近い。
このパンはライ麦パンに近い。
そんなふうに、元の世界の棚に無理やり分類しようとしていた。
でも、目の前の草は、リュネ草だった。
何かの代用品ではない。
この世界で生え、この世界の人間が摘み、この世界の粥に入れてきた草だった。
「何を難しい顔してるんだい」
マルタ修道女が言った。
「いえ。この草、俺の国にはなかったなと思って」
「そりゃそうだろう。ここは、あんたの国じゃないからね」
あっさり言われた。
その通りすぎて、返す言葉がなかった。
「まずは刻みな」
マルタ修道女が短い包丁を渡してきた。
俺は作業台に葉を置き、慎重に包丁を入れた。
ざく。
幅が広すぎた。
もう一度。
ざく、ざく。
今度は細かくしようとして、葉がまな板に貼りついた。
さらに切ると、青い汁が出た。
「潰してるね」
「切ってるつもりです」
「つもりと結果は違うよ」
「料理って厳しいですね」
「食べる人の腹に入るからね」
マルタ修道女は、俺の手元を見ながら言った。
「押しつぶすんじゃない。刃を滑らせる。葉の香りを出したい時と、残したい時で切り方が変わる」
「香りを出すのと、残すのは違うんですか」
「違う。全部出したら鍋に入れる前に逃げる。全部残したら食べた時に草が勝つ」
難しい。
だが、少し面白かった。
リュネ草は、ただの葉ではなかった。
切り方で香りが変わる。
鍋に入れる前から、もう料理が始まっている。
俺は何本かを細かく刻み、何本かを少し大きめに残した。
「それでいいんですか」
「知らないよ」
「知らない?」
「あんたが食べるんだろう。あんたが覚えな」
突き放された。
けれど、昨日よりは冷たく聞こえなかった。
覚えな。
つまり、覚えられるものだと見られている。
そう思うことにした。
◆
三度目の豆粥作りは、昨日より少しだけ落ち着いていた。
豆を洗う手つきは、まだぎこちない。
石を見逃して、マルタ修道女に一つ指摘された。
灰汁も、最初の泡を少し逃した。
それでも、昨日よりは鍋の中を見ていられる。
火が強くなりすぎる前に、薪を動かす。
水が減る前に、少し足す。
塩を入れる前に、豆を一粒取り出して噛んでみる。
まだ硬い。
もう少し待つ。
待つ。
ただ待つだけなのに、これが難しい。
カップ麺の三分は、砂時計を見ていればよかった。
豆の時間は、数字だけでは進まない。
豆が水を吸う。
火が豆に入る。
鍋の中で、少しずつ形が変わる。
俺はそれを見ていなければならない。
「リュネ草はいつ入れますか」
俺が聞くと、マルタ修道女は少しだけ眉を上げた。
「入れたい時に入れな」
「そういうのが一番困るんです」
「料理は困るもんだよ」
俺は鍋の中を見た。
豆はだいぶ柔らかくなっている。
だが、まだ粥全体はぼんやりしている。
昨日、セラフィナに言われた言葉を思い出した。
――味がぼやけています。
ぼやけている。
寝ぼけた豆。
マルタ修道女の言葉では、リュネ草は豆を起こす草だ。
なら、起こすのは最後でいいのか。
それとも、早めに声をかけるべきなのか。
分からない。
分からないが、いつまでも迷っていると豆が煮崩れる。
俺は刻んだリュネ草の半分を鍋に入れた。
青い香りが、湯気と一緒に立ち上がる。
「あ」
思わず声が出た。
豆粥の匂いが変わった。
昨日までの、ただ薄いだけの匂いではない。
青く、少し苦く、しかし腹の奥を起こすような香り。
これは、効いているのではないか。
「入れすぎたね」
マルタ修道女が言った。
「え」
「たぶんね」
「今、いい匂いだと思ったんですが」
「匂いが立った時点で喜ぶのは早い。食べる時にどうなってるかだよ」
俺は鍋を見た。
さっきまで希望に見えたリュネ草が、急に不安の塊に見えてきた。
香草というのは、味方なのか敵なのか。
その後、塩を入れた。
昨日よりは慎重に。
ほんの少し。
味見する。
薄い。
もう少し足す。
味見する。
まだ足りない気がする。
だが昨日、ここで足しすぎた。
俺は手を止めた。
「迷ってるね」
「はい」
「迷ったら、一度待ちな」
「待つんですか」
「口の中の味が消えるまで待つ。何度も味見すると、舌が馬鹿になる」
「舌も疲れるんですね」
「人間だからね」
俺は匙を置いた。
少し待つ。
水を飲む。
もう一度味見する。
やはり少し薄い。
だが、不足というほどではない。
リュネ草の青い香りがあるぶん、塩を足しすぎなくても食べられそうだった。
「このくらいで」
「決めたかい」
「はい」
「じゃあ、それが今日のあんたの味だ」
責任が重い。
塩ひとつでここまで重い。
俺は残しておいたリュネ草を見た。
全部入れるか。
入れないか。
香りを強くしたい気もする。
だが、マルタ修道女の「入れすぎたね」が頭に残っている。
俺は半分だけ、さらに細かく刻んで最後に散らした。
「小細工を覚えたね」
「駄目ですか」
「さあね。食べる人に聞きな」
マルタ修道女はそう言って、竈の火を落とした。
◆
出来上がった豆粥は、見た目だけなら昨日よりだいぶましだった。
焦げはない。
豆の形もある程度残っている。
粥の表面に、細かく刻んだリュネ草の緑が浮かんでいる。
少し料理らしい。
問題は味だった。
俺は一口食べた。
「……草」
第一印象がそれだった。
悪くはない。
悪くはないが、草だ。
豆粥のぼんやりした味は確かに起きている。
しかし、起きた豆の横でリュネ草が大声を出している。
薬草というほどではない。
だが、口の奥に青い苦味が残る。
昨日よりはうまい。
いや、うまいと言っていいのか。
少なくとも昨日よりは食べられる。
ただし、これはこれで失敗している。
マルタ修道女も味見した。
「草が勝ってるね」
「やっぱり」
「でも、焦げてない」
「はい」
「塩も昨日よりはまし」
「はい」
「豆も少しは煮えてる」
「はい」
「三つ拾えたね」
「三つ?」
「焦げてない。塩が暴れてない。豆が昨日より豆だ」
「豆が昨日より豆」
「いいことだよ」
褒められている。
たぶん。
かなり独特な褒め方だが、褒められているはずだ。
俺が木椀に粥をよそおうとした時、厨房の入口から小さな声が聞こえた。
「あの……少し、よろしいでしょうか」
見習い修道士のニコルだった。
いつもなら走ってくる彼が、今日は珍しく静かに立っている。
その後ろには、年配の女性がいた。
腰が曲がり、頬がこけている。
頭に薄い布を巻き、片手で腹のあたりを押さえていた。
巡礼者だろうか。
顔色が悪い。
「どうしたんだい」
マルタ修道女が尋ねる。
ニコルは困ったように女性を振り返った。
「昨夜から胃が痛むそうです。聖女様の診療を受けたあと、何か少し食べた方がよいと言われたのですが、黒パンは硬くて食べられないと」
女性が申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。贅沢を言うつもりはないんです。ただ、噛むと胸がつかえてしまって」
「昨日の豆粥は?」
「匂いで、少し……」
俺は自分の鍋を見た。
リュネ草の香りが立つ豆粥。
草が勝っている。
薬湯に片足を突っ込んでいるかもしれない豆粥。
だが、焦げてはいない。
塩も暴れていない。
豆も昨日より豆だ。
マルタ修道女が俺を見た。
「どうする」
「え」
「食べる人が来たよ」
俺は固まった。
昨日までなら、聖女に出すことだけ考えていた。
聖女に評価されること。
聖女に美味しいと言われること。
聖女に認めてもらうこと。
だが、目の前にいるのは聖女ではない。
名も知らない巡礼者の老婆だ。
腹を押さえ、黒パンを食べられず、何か温かいものを必要としている人だった。
俺は木椀を持ったまま、情けなくマルタ修道女を見る。
「俺のこれで、大丈夫ですか」
「知らないよ」
「知らないんですか」
「あんたが食べ物として作ったんだろう」
それは昨日から何度も聞いた言葉だった。
だが、今は重さが違った。
聖女に出すのは、緊張する。
けれど、この老婆に出すのは怖かった。
評価されるからではない。
腹に入るからだ。
もし塩が強すぎたら。
もし草が強すぎたら。
もし豆が硬すぎたら。
この人の体に、俺の失敗が入る。
料理は、食べる人の腹に入る。
マルタ修道女の言葉が、急に現実になった。
「少し、薄めます」
俺は言った。
鍋に湯を少し足す。
リュネ草の香りが和らぐ。
豆を匙で軽く潰し、喉を通りやすくする。
塩味も、少し丸くなる。
見た目は、さっきよりさらに地味になった。
けれど、老婆にはこの方がいい気がした。
マルタ修道女は黙って見ている。
何も言わない。
俺は木椀に少なめによそい、老婆の前に置いた。
「……まだ、うまくありません。でも、焦げてはいません。たぶん、喉は通ると思います」
自信のない説明だった。
しかし、これ以上のことは言えなかった。
老婆は木椀を両手で受け取った。
「あたたかいですね」
「はい」
「それだけで、ありがたいです」
その言葉に、俺は少しだけ息を詰まらせた。
老婆は匙で豆粥をすくい、ゆっくり口に運んだ。
飲み込む。
もう一口。
また、飲み込む。
「……草の匂いがしますね」
「強すぎますか」
「いいえ」
老婆は小さく首を振った。
「口が、起きるようです」
俺は何も言えなかった。
マルタ修道女が、わずかに眉を上げる。
ニコルが嬉しそうに笑った。
「黒パンは、今日は無理だと思っていました」
老婆は、少しずつ食べながら言った。
「でも、これは食べられます」
食べられます。
美味しい、ではなかった。
感動した、でもなかった。
けれど、その言葉は、昨日セラフィナに言われた「昨日より不味くありません」よりも、さらに深いところへ落ちた。
食べられる。
体が弱っている人が、俺の作ったものを食べている。
それは嬉しいというより、怖かった。
怖くて、ありがたかった。
俺は初めて、料理が人の体に入るものだと、本当に理解し始めた気がした。
「トーゴ殿」
ニコルが小声で言った。
「これ、ほかの病み上がりの方にも出せるかもしれません」
「いや、まだそんな」
「でも、黒パンが食べられない人は多いんです。豆粥も、焦げた匂いがすると戻してしまう人がいて」
戻してしまう。
俺は昨日の自分の豆粥を思い出した。
焦げ臭く、塩が立ち、豆の硬さも揃っていない粥。
あれを病人に出していたらどうなったか。
背中に冷たいものが走る。
「マルタさん」
「なんだい」
「病人用の粥って、今まではどうしてたんですか」
「薄く煮る。塩を減らす。食べられそうなら豆を潰す。それだけだよ。うちは薬院じゃないからね」
「リュネ草は?」
「薬草棚にあるけど、料理にはあまり使わない。入れすぎると嫌がる人もいる」
「少しなら」
「少しなら、腹が落ち着くこともある」
聖女セラフィナが、カップ麺を病人食として考えていたことを思い出した。
あの時は、言い訳だと思った。
カップ麺がもう一度食べたいだけだろう、と。
でも、彼女は本気でもあったのだ。
柔らかい麺。
温かい汁。
食欲を起こす香り。
それらは、弱った人間を救うかもしれない。
俺は、ただ聖女にもう一度「美味しい」と言わせたいと思っていた。
だが、その手前に、食べられない人がいる。
黒パンを噛めない人がいる。
焦げた匂いで戻してしまう人がいる。
料理は、俺と聖女の間だけにあるものではなかった。
「もう少し、作れますか」
ニコルが言った。
「今朝、診療を受けた巡礼者があと二人います。どちらも、食事を残していて」
俺は鍋を見た。
量はある。
ただし、味はまだ不安定だ。
草が勝っている。
豆も完全ではない。
けれど、薄めて、潰して、少しずつ出すなら。
「マルタさん」
「何度も私を見るんじゃないよ」
「すみません」
「でも、悪くない」
「え?」
マルタ修道女は、鍋の中を見た。
「聖女様に出すには草がうるさい。元気な巡礼者に出すにも物足りない。でも、腹が弱ってる人間に少し出すなら、今日のこれは使える」
「使える」
「そうだよ。料理はね、いつも一番うまいものが正解とは限らない」
その言葉に、俺は動けなくなった。
一番うまいものが正解とは限らない。
カップ麺は強かった。
香りも味も強かった。
疲れた人間の食欲を殴り起こす力があった。
だが、今の老婆には、あれは強すぎたかもしれない。
今日のリュネ草豆粥は、料理としてはまだ半端だ。
けれど、この人には食べられる。
食べる人によって、正解が変わる。
そんな当たり前のことを、俺は五十三歳で初めて学んでいた。
◆
昼前、聖女セラフィナが厨房に来た。
護衛のイレーネを伴っている。
いつもは中庭か礼拝堂にいる彼女が厨房に来るのは珍しいらしく、ニコルが目を丸くしていた。
「トーゴ様」
「はい」
「リュネ草入りの豆粥を、診療後の巡礼者に出したと聞きました」
「はい。勝手なことをしましたか」
「いいえ」
セラフィナは首を横に振った。
「一人、食事を取れずにいた方が、半椀ほど食べられたそうです」
「あの方ですね」
「はい。もう二人も、少量ですが食べられました」
俺はほっとした。
それと同時に、膝から力が抜けそうになった。
失敗しなかった。
少なくとも、悪くはしなかった。
それだけで、こんなに疲れるのか。
「聖女様」
「はい」
「正直、怖かったです」
「でしょうね」
「でしょうね、ですか」
「食べ物を弱った方に出すのです。怖くない方が危ういと思います」
セラフィナは厨房の鍋を見る。
それから、リュネ草の束に視線を移した。
「リュネ草は、胃を落ち着かせるために使われることがあります。ただし、入れすぎると薬湯に近づきます」
「今日のは?」
「薬湯に片足を入れていました」
「片足ですか」
「ですが、今日はその片足が役に立ったようです」
少しだけ、笑いそうになった。
いや、泣きそうにもなった。
どちらか分からない。
セラフィナは続けた。
「トーゴ様。昨日、あなたはあの麺を作りたいと言いましたね」
「はい」
「私は、あの食べ物を保存食として考えていました。巡礼路で倒れる者を減らせるかもしれない、と」
「はい」
「ですが、今日の豆粥を見て、もう一つ分かりました」
「何がですか」
「すべての人に、同じ強さの食事を出せばよいわけではありません」
俺は黙った。
セラフィナは俺ではなく、鍋を見ていた。
「飢えた者には腹に残るものを。疲れた者には香りを。病み上がりには喉を通るものを。巡礼者には持ち運べるものを。兵には塩と力を」
それは祈りの言葉のように聞こえた。
だが、祈りだけではなかった。
献立だった。
人を救うための、具体的な食事の話だった。
「あなたが目指す麺も、ただ強い味を再現するだけでは足りないのかもしれません」
セラフィナは俺を見た。
「誰に食べさせるのか。それを考えなければ、料理はただの味になります」
俺は深くうなずいた。
「はい」
まったく、その通りだった。
俺は、あのカップ麺の味を再現したいと思っていた。
強い香り。
塩味。
油。
麺。
だが、それだけでは足りない。
誰に出すのか。
聖女に出すのか。
巡礼者に出すのか。
病人に出すのか。
子どもに出すのか。
同じものを出せばいいわけではない。
「トーゴ様」
「はい」
「この豆粥を、しばらく診療後の食事として試してみてもよろしいですか」
俺は驚いた。
「俺の豆粥を、ですか」
「もちろん、マルタの監督のもとで」
「それはそうですね」
そこは大事だ。
俺一人に任せると、巡礼者が草に襲われる。
「量、刻み方、塩、豆の潰し具合。毎日少しずつ変えて、食べられた量と体調を見ます」
「それは……」
俺は言葉を失った。
これはもう、聖女に食べてもらうための試作ではない。
修道院の食事が、少し変わろうとしている。
俺の失敗した豆粥から。
リュネ草を入れすぎた粥から。
黒パンを噛めない巡礼者のための食事が、始まろうとしている。
「トーゴ様」
セラフィナは静かに言った。
「これは、あなた一人の料理ではありません」
「はい」
「マルタの知恵があります。リュネ草を育てた者がいます。豆を作った者がいます。食べてくださった巡礼者がいます」
「はい」
「その上で、あなたが今日、鍋の前に立ったことにも意味があります」
俺は息を吸った。
胸が少し熱かった。
第1話――いや、この世界に来て以来、俺はずっと借り物で立とうとしていた。
日本の技術。
会社の看板。
カップ麺。
でも今日は違う。
俺一人の手柄ではない。
けれど、俺が鍋の前に立ったことには意味がある。
その違いが、少しだけ分かった。
イレーネが横から静かに言った。
「聖女様」
「何でしょう」
「この豆粥が診療後の食事として有効なら、巡礼路の他の修道院にも伝える必要があります」
セラフィナはうなずいた。
「まだ早いです。まずは三日、ここで試します」
「記録を?」
「取ります」
「では、私が食べた量と体調の聞き取りを」
「お願いします」
話が、急に仕事になった。
豆粥の話が、記録になった。
記録が、他の修道院への伝達になるかもしれない。
俺は呆然とした。
鍋の中身が、厨房の外へ出ようとしている。
小さすぎる変化だ。
けれど、確かに何かが動き始めていた。
「トーゴ様」
「はい」
「明日の豆粥は、今日より少しだけ草を控えめにしましょう」
「はい」
「病み上がりの方には、豆をもう少し潰した方がよいと思います」
「はい」
「塩は、もう少し薄くてもよいかもしれません」
「はい」
完全に指導が始まった。
俺は必死で覚える。
マルタ修道女が腕を組み、横で聞いていた。
「聖女様」
「はい、マルタ」
「この男は一度に三つ以上言うと、鍋を焦がします」
「では、明日は草と豆の潰し具合だけにしましょう」
「それがよろしい」
「俺の処理能力を厨房で共有しないでください」
ニコルが笑った。
イレーネも顔を背けた。
セラフィナは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その空気の中で、俺は思った。
いま、この世界の人間が、俺の作った半端な豆粥を囲んで話している。
どうすれば食べられるか。
どうすれば腹に優しいか。
どうすれば他の修道院でも作れるか。
カップ麺の再現には、まだ遠い。
麺どころか、粉にも届いていない。
だが、料理が世界を少し動かすとは、こういうことなのかもしれない。
◆
その日の夕方、厨房の隅に小さな板が置かれた。
イレーネがどこからか持ってきたものだ。
そこに、ニコルが炭で文字を書く。
俺は横で読み上げた。
「リュネ草入り豆粥。診療後の巡礼者、三名。食べた量、一名半椀、二名三分の一椀。腹痛の悪化なし。香り、やや強い」
「やや強い、ですか」
ニコルが聞く。
「かなり強い、にするか?」
「聖女様は片足とおっしゃっていました」
「薬湯に片足、とは書かない方がいいな」
「では、やや強いで」
ニコルは真面目な顔で書いた。
厨房の記録板。
たった一枚の板だ。
それでも、昨日までここにはなかった。
俺の豆粥が、記録になっている。
失敗も、改善点も、食べた人の反応も。
マルタ修道女が板を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「料理を帳面にするのは好きじゃないけどね」
「駄目ですか」
「駄目じゃないよ。忘れるよりはましだ」
それは、かなり大きな許可のように聞こえた。
「明日は、草を半分」
「はい」
「豆はもう少し潰す」
「はい」
「塩は控えめ」
「はい」
「焦がすな」
「はい」
「返事だけは一人前だね」
「明日は鍋も少しは一人前に近づけます」
マルタ修道女は笑った。
俺は鍋を洗う。
今日は焦げが少ない。
そのかわり、リュネ草の青い香りが鍋に残っている。
強すぎた香り。
けれど、誰かの口を起こした香り。
黒パンを食べられなかった老婆が、半椀だけ食べられた香り。
「そういえば」
木椀を洗っていたニコルが、ふと思い出したように言った。
「南の修道院では、病み上がりの粥に火房茸を少し入れるそうです」
「ひぶさだけ?」
聞いたことのない名前だった。
「はい。火に近づけると香りが強くなる茸です。干すと、肉を入れていないのに汁に力が出るとか」
「肉を入れていないのに?」
俺は手を止めた。
肉を入れずに汁に力が出る。
それはつまり、旨味ではないのか。
干すと強くなる茸。
火に近づけると香りが出る茸。
俺の世界で言えば、干し椎茸のようなものかもしれない。
いや、違う。
また同じことをしている。
これは火房茸だ。
この世界の茸だ。
「この辺りにもあるのかい」
マルタ修道女がニコルに聞いた。
「巡礼者の話では、北の林で採れるそうです。ただ、焼きすぎると苦い煙が出るので、扱いが難しいとか」
「また難しいものを」
マルタ修道女は呆れたように言った。
だが、俺の胸は少しだけ高鳴っていた。
リュネ草。
火房茸。
俺の世界にはなかった食材。
この世界でしか出会えない味。
俺はずっと、日本の味をこの世界に持ち込むことばかり考えていた。
だが、この世界には、この世界の舌を起こす草がある。
この世界の汁に力を与える茸がある。
ならば、俺がいつか作る麺は、あのカップ麺の写しでは終わらないのかもしれない。
「マルタさん」
「なんだい」
「火房茸、見てみたいです」
「豆粥も安定しない男が、もう茸かい」
「はい」
「明日の豆粥が焦げなかったら考えてやる」
「分かりました」
俺は鍋底をこすりながら、明日の豆粥のことを考えた。
湯を入れるだけなら三分で済んだ。
だが、弱った人の腹に届く一椀を作るには、三分では足りない。
豆を浸す夜がいる。
草を刻む手がいる。
食べた量を書き残す板がいる。
そして何より、食べる人を見る目がいる。
俺はまだ料理人ではない。
豆粥もまともに安定しない。
それでも今日、俺の鍋は少しだけ厨房の外へ出た。
巡礼者の腹へ。
聖女の記録へ。
たぶん、この修道院の明日の献立へ。
料理が世界を変えるなんて大げさなことは、まだ言えない。
けれど。
寝ぼけた豆を起こす草は、俺の中で眠っていた何かも、少しだけ起こした気がした。