武力だけは自信があります   作:GSP

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3試合目

『Precision beats power,』(精度はパワーに勝り、)

『and timing beats speed.』(タイミングはスピードを凌駕する)

 

――Conor McGregor(コナー・マクレガー)

 

 

 

 

夜。入学して間もないこの時期、綾小路清隆は同じクラスの獅童大和と共に、敷地内のコンビニエンスストアからの帰り道を歩いていた。

 

「――そういえばさ。Bクラスの一之瀬に『今度カラオケでもして親睦深めようよ』って提案したら、あっさりオッケーもらったぞ」

 

「……一之瀬って、この前お前が話していた、Bクラスの一之瀬帆波か」

 

「そうそう」

 

確かに以前、大和が一之瀬と親しげに言葉を交わしているところを綾小路は見たことがあった。

だが、入学早々から他クラスにもその名が轟いているほどの美少女を相手に、もう休日のカラオケまで取り付けてくるとは。

相変わらず、獅童大和という男の行動力とコミュニケーション能力の高さには驚かされるばかりだった。

 

「だからさ、一緒に行こうぜ清隆」

「……俺も、いいのか?」

「もちろん。というか、俺は最初から清隆と行く予定だったからな。……なんだ、あんまり乗り気じゃない?」

「いや。喜んで行かせてもらう」

 

綾小路は表情に出すことこそなかったが、即答していた。

放課後のカラオケ。他クラスの女子たちとの親睦会。

それはまさに、彼が夢にまで見た『普通の高校生としての青春イベント』そのものだ。

断る理由など彼には一つもなかった。

 

「なら良かった」

 

「でも、本当にいいのか? せっかくお前が一之瀬を誘ったのに、俺が混ざって邪魔にならないか」

 

「あー、ごめんごめん。言ってなかったけど、向こうも一之瀬だけじゃなくて女子も複数人来るかもしれないんだってさ。……ん? 俺と清隆の二人だけじゃ、ちょっと人数合わないか? 関係ないかな?」

 

「あっちが何人来るかにもよるだろう」

 

 

なるほど、実質的な合コンのようなものなのだろうか? 綾小路は内心でそう納得した。

 

 

「間違いない……。あと一人か二人、うちのクラスから男を誘うか?……平田とか声かけたら来てくれるかな?」

「平田なら、クラスの親睦という名目なら喜んで協力してくれるだろうな」

 

 

そんな他愛のない、いかにも男子高校生らしい平和な会話を交わしながら夜道を歩いていた――まさにその時のことだ。

 

 

 

特別棟の裏手へと差し掛かった際、二人の足が同時にピタリと止まった。

 

「……ん?」

 

暗がりから、ただならぬ気配と、底冷えするような声が漏れ聞こえてきたのだ。

 

「お前がこの学校にいるという事実が、私にとっての汚点だ。今すぐ退学しろ」

 

声の主は、この高度育成高等学校を束ねる生徒会長・堀北学。

そして彼に壁へと押し付けられ、恐怖に顔を歪めているのは、綾小路の隣の席であり、彼の実の妹でもある堀北鈴音だった。

 

「……っ、兄さん!」

 

妹をすげなく突き放した学の右腕が、無慈悲に高く振り上げられる。

顔面へ向け、一切の手加減がない鋭利な手刀が振り下ろされようとした、その瞬間――。

 

綾小路がわずかに重心を動かそうとしたのと同時に、隣を歩いていた影が、弾かれたように暗がりへと飛び出していった。

 

ドゴッ! と、重い打撃音が夜の闇に響く。

堀北鈴音の前に割り込んだ獅童が、振り下ろされた手刀をあえて躱さず、自身の肩口で強引に受け止めていた。

 

「……いて」

 

骨の芯まで響くような重撃。だが、獅童は小さく顔をしかめると、自身の肩に食い込んだ生徒会長の腕をガシッと掴んで固定したまま、背後の綾小路へ向けて振り返った。

 

「なあ清隆。これって『正当防衛』ってことで戦えそう?」

 

唐突な乱入者の、あまりにも空気を読まない第一声。

呆然とする堀北鈴音と、氷のような視線を向けてくる生徒会長を前にして、綾小路はやれやれと内心でため息をつきつつ、淡々とした声で答えた。

 

「一応言っておくが、やめておいた方が……」

「戦えそう?」

「……ノーコメントだ」

「いいね、いいね。清隆が止めないなら……」

 

綾小路から実質的な『黙認』を得た獅童は、ひどく機嫌良さそうに口角を吊り上げる。

 

「……何者だ」

 

生徒会長が、手刀を受け止めた獅童の拘束から自身の腕をゆっくりと引き抜くと、重々しい声で夜の空気を凍らせた。

暗がりから一歩踏み出した獅童の顔から足元までを一瞥し、眼鏡の奥の瞳を微かに細める。

 

「……お前は、獅童大和か」

 

「初めまして。俺のこと知ってくれてるんです?」

 

「新入生の秘匿資料にはすべて目を通している。特に、中学の大会で重大な暴走事故を起こした問題児の名前はな」

 

淡々と言い放たれた学の言葉に、獅童が「……お?」と短く声を漏らした。

 

そのやり取りの意図を、綾小路は隣で静かに咀嚼していた。

 

彼が『不良品』の集まりであるDクラスに配属された理由を知らなかったが今初めて理由を聞いた。

 

学の厳しい視線は、わずかに表情を変えた獅童から外れなかった。

 

「少しは自分の感情をコントロールする術を学ぶべきだ。同じ過ちを繰り返したくないのならばな」

 

獅童の瞳の奥に、仄かな熱が灯る。

過去の汚点を正確に突かれたというのに、怯える素振りすら見せない。

だが、生徒会長の警告はそこで終わらなかった。

 

「ただ腕力が強いだけでは、この学校では生き残れないぞ」

 

高度育成高等学校という特殊な環境下における、総合的な『強さ』の欠如の指摘。

しかし、そんな言葉を受け流すように、獅童は悪びれることもなく飄々と笑い返した。

 

「間違いないですね。でも……弱くても生き残れないんじゃないですか?」

 

純粋な『武力』しか念頭にない、いかにも彼らしい極端な解釈。

その致命的なまでの話の通じなさに、綾小路は静かに口を挟んだ。

 

「獅童。会長は、そういう意味で言ったんじゃないと思うぞ」

「ん? そうなのか?」

 

獅童は不思議そうに小首を傾げた後、どうでもいいとばかりにニッと歯を見せて笑った。

 

 

「まぁ、その辺は終わってから教えてくれよ」

 

 

対話による解決など最初から放棄している獅童へ向けて、生徒会長が探るように問いを投げる。

 

「獅童、お前にとって『武』とはなんだ」

「…………」

 

獅童は両腕をだらりと下げたまま、不敵に口元を歪めた。

 

「『戈(ほこ)』を『止める』と書いて『武』の一文字――と崇高なことを言いたいところですけど」

 

獅童の纏う空気が、凄まじいプレッシャーを纏い、変貌していく。

 

 

「俺にとっては『戈を持って歩を進む』と書いて、武の一文字、ということで」

 

 

争いを止めるという建前ではなく、武器を持って侵攻するという、武の真の成り立ち。

生徒会長は否定も肯定もせず、ただ底知れない沈黙で獅童を見据えている。

 

トンッ、と。

 

獅童は一切の遠慮もなく間合いを詰め、生徒会長が下げていた右手に、勝手に自身の拳を軽く打ち合わせた。

 

スポーツマンシップに則った、試合開始のグローブタッチのつもりなのだろう。

 

 

「やりませんか? 会長」

「......すでにやる気だろう」

 

その瞬間。綾小路の耳の奥で、カァンッ!と高らかな喧嘩のゴングが鳴り響いた気がした。

 

だが、獅童はすぐに飛びかかるような真似はせず、周囲の暗闇をぐるりと見渡して口を開いた。

 

 

「カメラの位置は……あそこと、あれか? 清隆、広さはどんなもん?」

 

「自由に動ける広さはおよそ六メートル四方ってところじゃないか。背後の植え込みから二歩下がれば、たぶん死角になる。だいぶ雑な計算だから合ってはないぞ?」

 

「さすが。ぱっと見でそれだけわかるんだから助かる、サンキューな」

 

綾小路からの推測通りの答えを聞くと、獅童は親友(未承認)の的確なサポートに感謝するように笑った。

防犯カメラの死角と、戦えるフィールドの立体的な把握。

こんな常軌を逸した確認作業を息をするように行い、互いに疑問すら抱かない時点で、彼らの関係性は一般的な高校生のそれから大きく逸脱していた。

 

生徒会長は、そんな二人のやり取りを鋭い瞳で見据えていた。

 

 

「獅童。お前の過去の試合映像は見た――」

 

 

だが、生徒会長の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

 

 

――ヒュッ!

 

 

風を裂く音。

生徒会長が喋り終えるその刹那、獅童の身体がブレた。

 

恐ろしく遠い距離から、常人の視神経では追いつかない神速の踏み込み。

瞬きをする間に間合いを瞬時にゼロにし、相手に喋らせる暇すら与えない左の突きが生徒会長の顔面へと襲いかかる。

 

 

「――ッ!」

 

 

あまりの理不尽なスピードに、常に冷静沈着な生徒会長の顔に隠しようのない驚愕が浮かんだ。

武術で鍛え抜かれた彼の反射神経をもってしても、ギリギリで上体を後方へ反らして躱すのが精一杯の絶対的な一撃。

 

 

だが、体勢を立て直した生徒会長がすぐさま反撃の蹴りを放とうとした時には――獅童はすでに大きく後方へと跳躍し、元の位置へと戻っている。

 

(……これだ。これが厄介だ)

 

綾小路は冷静な目で、獅童の足元を観察していた。

独特のステップ。相手を幻惑する視線と、構えた手の微細な動き。

何度もその場で体が沈み、跳ねるように前後にステップを踏み続けている。

 

獅童大和のバックボーンである伝統派空手。

極真空手などに代表される直接打撃制とは異なり、寸止め、あるいは極めて軽い接触でポイントを奪い合う競技だ。

 

素人目には実戦向きではないと映るかもしれない。だが、それは全くの逆だ。

 

『一撃をいかに速く、正確に相手の急所に届けるか』。

そして『いかに相手の攻撃を被弾せずに離脱するか』。

 

それらを極限まで突き詰めた、尋常ではなくシビアな世界。

最大のメリットは、相手の攻撃が絶対に届かない遠い間合いから一瞬で懐に飛び込む、ゼロから百への爆発的な加速力にある。

 

打撃、投げ、寝技が入り乱れるMMAという何でもありの盤面において、この伝統派空手の技術を完璧に組み込む。それは獅童の持つ天賦の才だった。

 

綾小路は改めて、目の前でステップを踏む獅童のスペックを分析する。

遠い間合いからの神速の踏み込みは強力無比だが、その分、足腰や肉体への負荷は凄まじい。

しかし獅童は、それを何ラウンドも継続できる無尽蔵のスタミナと、打・投・極のすべてを高水準でこなすフィジカルを持ち合わせていると思われる。

 

――だが、本当の武器はそこではない。

 

獅童の真の恐ろしさは、並外れて高い『格闘IQ』にある。

 

常に『自分だけが一方的に攻撃を当てられ、相手の攻撃は決して届かない距離』をミリ単位で計算し、維持し続ける空間把握能力。

絶対に捕まらない安全圏から一方的な暴力を押し付け、相手がフラストレーションから不用意に踏み込んできた瞬間を、完璧なカウンターやタックルで狩り取る。

 

だからこそ、獅童大和との戦いでは、常に防御側のセオリーが根本から崩壊する。

 

「……ふぅーっ」

 

獅童は細かくステップを踏みながら、肺の空気を細く吐き出した。

自身の挨拶代わりの一撃をギリギリで躱してみせた生徒会長に対し、その顔には純粋な歓喜が浮かんでいる。

 

「イイな」

 

そこから、獅童の恐るべきラッシュが始まった。

頭を左右に振って的を絞らせず、ショートフックとアッパーを回転させる。

そして相手の意識が上段のパンチに釘付けになった瞬間、スッと姿勢を落とし、前足、ふくらはぎを正確に蹴り抜くカーフキックを打ち込んだ。

 

打撃から下段への散らし。相手の思考をパンクさせる理詰めの猛攻。

 

このまま打撃に付き合うのは分が悪いと判断したのか、生徒会長が動いた。

獅童のフックを外側にいなし、腕を巻き込むようにして懐に飛び込む。

 

合気や柔術に通じる見事な崩しからの『投げ』。

 

相手の姿勢を完全に崩し、アスファルトに叩きつけるための完璧な技術――の、はずだった。

 

――巨岩。大木。

 

そう錯覚するほどに、獅童の腰はぴくりとも動かない。

生徒会長の崩しをもってしても微動だにしない、規格外の腰の重さと強固な重心。

 

だが次の瞬間。獅童は自らその強固なベースを解き、まるで蟻地獄に獲物を引きずり込むようにして、背中からアスファルトへと倒れ込んだ。

一見すれば、不恰好にお互いがもつれ合い、生徒会長が力任せに獅童を押し倒したような格好に見える。

 

「……!?」

 

上になったはずの生徒会長の顔に、再び驚愕が浮かんだ。

 

「……兄さんっ、やめて……っ!」

 

その時、背後でへたり込んでいた堀北鈴音が、震える声で微かに言葉を絞り出した。

絶対的な存在であるはずの兄がアスファルトに倒れ込み、同級生と死闘を繰り広げている。戸惑いと恐怖で声が掠れているが、止めに入ろうと弱々しく地面に手を突いた。

 

「邪魔をするな、鈴音」

 

だが、上に跨がられようとしている不利な体勢でありながら、生徒会長は妹へ向けて鋭く言い放った。

 

「……っ」

 

その絶対的な兄の命令に、堀北の身体が弾かれたように震え、完全な硬直へと沈む。

綾小路は前に出るのをやめ、ただ静かに戦況を見守ることにした。

 

(……やはりな)

 

綾小路はどこか確信していたとはいえ、先ほどまでの精密かつ強力な打撃を見せられた直後だからこそ、あらためて微かに、驚きを覚えていた。

 

獅童は今、自ら進んで実戦におけるリスクしかない体勢――自分が下になる『ボトムポジション』を選択したのだ。

 

格闘技の知識がない者から見れば、上に乗った生徒会長が圧倒的に有利に見えるだろう。事実その通りである。

こんな体勢は、格闘技をやっている人間や喧嘩慣れしている人間なら絶対に選ばない。

コンクリートの上で無防備に背中をつくなど、ただの自殺行為だからだ。

 

もし、それを自ら進んで行う者がいるとすれば。

それは『恐ろしいほどに自分の寝技に自信がある者』だけだ。

 

あれだけの打撃技術のキレと威圧感。

誰が見ても、彼を純粋なストライカーだと錯覚するだろう。

だが、綾小路は直感で獅童の真のスタイルを予想していた。

 

要するに、獅童大和という男の正体は、恐ろしく打撃が強い『寝技師』。

極めて高度なMMAグラップリングの使い手なのだと。

 

アスファルトの上で、生徒会長は獅童の胴体を跨ぐようにして上体を起こそうとする。

だが、獅童の両脚がすでに生徒会長の腰回りを強固にロックし、密着状態を作り上げていた。

 

 

獅童の狙いは明確だった。

下から生徒会長の片腕を抱え込み、もう一方の手で後頭部を引き寄せる。

姿勢を完璧にコントロールされ、生徒会長は上から有効な打撃を落とすことができない。

 

長時間に及ぶ膠着を嫌ったのか、次のコンマ数秒、獅童のロックしていた両脚がスッと解け、這い上がるようにして生徒会長の首と右腕を挟み込んだ。

両脚で三角形を作り、相手の頸動脈を締め上げる――『三角絞め』の凄まじく速い神業のようなセットアップ。

 

首に強烈な圧迫を受けた生徒会長の顔が、わずかに歪む。

これ以上深く極まれば終わる。そう本能で悟った生徒会長は、自身の首に獅童の脚が巻き付いた状態のまま、強靭な背筋と下半身のバネを使って、獅童の身体ごと強引に立ち上がったのだ。

 

「――ッ!」

 

そして、空中に持ち上げられた獅童の背中を、自らの体重を浴びせるようにして地面へと激しく叩きつける。

 

ガンッ! と、深夜の特別棟裏に鈍い衝撃音が響き渡った。

 

地面への直撃をギリギリで受け身を取って殺したとはいえ、凄まじい衝撃により獅童の脚のロックが外れる。

生徒会長はその一瞬の隙を見逃さず、瞬時に後方へと飛び退いて強引にグラウンド状態から脱出した。

 

 

獅童も痛みを一切顔に出さず、すぐさま跳ね起きて再び打撃戦へと移行しようとする。

 

――だが、ここで初めて生徒会長・堀北学が培ってきた武術の真骨頂を見せつけた。

 

寝技の攻防から、立ち技へ。戦う次元を切り替える際に生じる、脳内のコンマ数秒のラグ。

生徒会長の練り上げられた動きには、そのラグが存在しなかった。

 

「――ッ」

 

無音の歩法。獅童が間合いと攻防のスイッチを再計算しようとした一瞬の空白を、極限まで研ぎ澄まされた洗練された中段突きが正確に打ち抜こうとする。

並みの格闘家であっても、反応すらできずに肺を潰さんとばかりの必殺の奇襲。

 

だが――直撃の数ミリ手前。獅童の身体が、理屈を無視した野性的な反応を見せた。

 

「……お?」

 

獅童は声をもらすと同時、自身の腹に突き刺さる寸前だった拳を、スッと下ろした手で弾き落とす。

 

(……あれを防ぐのか)

 

綾小路は、静かに目を細めた。

それでも生徒会長の連撃は止まらない。中段を囮にしたのが本命だったと言わんばかりに、完璧な体重移動と遠心力が乗った上段回し蹴りが獅童の側頭部へ向けて一閃される。

 

バチンッ! と、空気を破裂させたような恐ろしい打撃音が響いた。

 

だが、蹴りを放った生徒会長の顔に、この戦闘で最も深い驚愕が浮かんだ。

獅童は、完璧なフォームから放たれたフルスイングの蹴りを片腕のガード一つでいとも容易く受け止める。

 

(……生徒会長も強いが。獅童のフィジカルは、規格外すぎるな)

 

未知の寝技から強引に脱出する生徒会長の対応力も凄まじい。

並の相手であれば、今の一連のカウンターで確実に意識を刈り取られているだろう。

だが、獅童大和という男の肉体は、そんな洗練された技すらも力ずくでねじ伏せるほどの怪物だった。

 

「最高」

 

獅童はガードした腕をだらりと下げ、ただ淡々と、事実を噛み締めるように呟いた。

針の穴を通すような自分の隙を正確に突いてきた強者に対する、純粋な歓喜がその顔に浮かんでいる。

 

獅童は短く息を吐き、これまでの軽快なステップをぴたりと止めた。

そして、べったりと両足の裏をアスファルトに密着させる。

 

伝統派空手特有の遠い間合いから、互いの拳が容易に届く近距離へと歩を進める。

先ほどまでの『当てさせず、自分だけが当てる』アウトボクシングから一転。

ガードすら捨てて、正面から相手を完膚なきまでに打ち砕くための構え。

 

逃げ道を塞ぐようにじり、と半歩距離を詰めるだけで、周囲の空気がミシミシと軋むほどの凄まじいプレッシャーが膨れ上がっていく。

 

「…………ッ」

 

自身の最高の一撃をノーダメージで凌がれた事実と、その常軌を逸した打撃の圧力に呑まれ、生徒会長の足が思わずジリッと後方へ下がった。

 

 

 

――ここが限界点だ。

 

 

止めようと、綾小路が口を開くよりもほんの一瞬早く。

獅童が、構えをとる生徒会長の前手へ、そっと自らの手をかけようと伸ばした――まさにその瞬間だった。

 

「……やめなさい……!!」

 

夜の空気に、震えを帯びた声が響いた。

背後でへたり込んでいた堀北鈴音が、己の恐怖とプライドの狭間で葛藤しながら、必死に言葉を絞り出していた。

 

「これ以上はもう、……やめて……っ」

 

それは悲鳴というよりも、強がりな彼女がようやく絞り出した、これ以上自身の惨めな姿を晒したくないという切実な制止だった。

 

その声が響いた、次の瞬間。

 

「っと。わり、わり」

 

ピタリ、と。

獅童の全身から立ち上っていた圧力が、まるでスイッチを切ったように霧散する。

 

獅童は両手をパッと上げて降参のポーズをとると、自らアスファルトを蹴って、生徒会長から大きく距離を取った。

 

(……なるほどな)

 

綾小路は内心で、深く感心していた。

あそこまで血が上っていても、彼は自分が誰のために戦い始めたのかを決して見失っていなかった。

 

当事者である堀北からの「ストップ」がかかれば、どんなに闘争本能が燻っていようと、未練なく一瞬で矛を収める。

 

その理性の強さこそが、獅童大和という男の根幹なのかもしれない。

 

綾小路はすっかり戦意を解いた獅童の横に並び立つと、改めて生徒会長へ向けて告げた。

 

「そこまでにしよう、大和。……当事者が止めに入った以上、これ以上の正当防衛の言い訳は苦しい」

 

ジャッジとして、この場を終わらせるための最後の一押し。

その綾小路の言葉を聞いた獅童は、少しだけ目を丸くした後、普段の等身大の高校生らしい笑顔を浮かべた。

 

「……おっ?」

「?」

「清隆、お前今……初めて俺のこと、下の名前で呼んでくれたな?」

 

言われてみれば、そうだったかもしれない。

この場を最も自然に収めるための声かけだったが、綾小路の口から無意識のうちについて出ていたのだ。

 

「嬉しいからここでやーめた。生徒会長、ご指導ありがとうございますッ」

 

獅童は何事もなかったかのように軽く頭を下げた。

先ほどまでの死闘が嘘のような気の抜けっぷりだ。

 

生徒会長は眼鏡のブリッジを押し上げると、全く戦意のない獅童を、確かな評価を含んだ瞳で見据えた。

 

 

「かまわん。それにしてもこと『武力』という一点において、お前ほど純度の高い人間を俺は知らない」

 

 

それは、誇り高き生徒会長・堀北学の口から出た、紛れもない最大の賛辞だった。

 

 

「同世代の中でも、頭一つ、いや二つは抜けている」

 

「……」

 

 

その圧倒的な評価の言葉を受け、獅童は当然のように――隣に立つ綾小路の方へと視線を向けてきた。

 

(……おいこっちを見るな)

 

綾小路は表情に出すことこそなかったが、断固たる拒絶の意志を込めて、鋭い視線を獅童へと突き刺した。

 

『自分を巻き込むな。これ以上、余計な面倒を起こされたくない』という無言の圧力。

 

獅童の聡明さなら、綾小路のその意図を正確に読み取っているはずだった。

 

だが、この男は、致命的なまでに空気を読まないことがある。

 

「ありがとうございます、生徒会長。でも……清隆の方が俺な――」

 

その最悪な爆弾が投下される直前の、コンマ数秒の世界。

綾小路は完璧なタイミングで、極めて自然に会話へ割り込んだ。

 

 

「――大和。これ以上面倒を起こすなら、週末の一之瀬たちとの親睦会は諦めるんだな」

「……お?」

「停学にでもなれば、カラオケどころじゃない。俺も付き合いきれないぞ」

 

 

それは、戦闘狂の頭を急速冷却させる、凡人の高校生としての極めて真っ当な『正論』だった。

 

獅童はぽかんと口を開けた後、思い出したようにポンと手を叩いた。

 

「おっと、そりゃマジでマズい。せっかくの青春イベントが飛んじまうところだったわ」

 

獅童の思考が、死闘から日常へと一瞬で切り替わる。

 

(……危ないところだった)

 

綾小路は表情一つ変えずに、内心で深い安堵のため息をついた。

獅童のマイペースな暴露を、直前で提示された『カラオケの予定』という至極平和な餌で見事に上書きし、はぐらかすことに成功した。

 

生徒会長の視線が、きょとんとしている獅童と、やれやれとわざとらしく呆れたように振る舞う綾小路へと向けられる。

 

 

「……フッ」

 

 

生徒会長の口から、微かな、しかし確かな感心の吐息が漏れた。

彼は二人から視線を外し、今度こそ、へたり込んでいる妹の鈴音へと目を向けた。

 

 

「……そうか。お前自身の力ではないにせよ、これほどのイレギュラーが介入する運だけはあったということか」

 

 

厳しい態度で遠ざけていたはずの妹が引き寄せた得体の知れない存在に対する、ほんの微かな興味。

 

 

「勘違いするなよ、鈴音。お前が未熟であることに変わりはない」

 

 

冷たく突き放すような響きの奥に、単なる拒絶や失望だけではない何かを滲ませて。

生徒会長は踵を返すと、足音一つ立てずに暗闇の中へと消えていった。

 

 

 

皆さんの「格闘技への関心・知識」はどれくらいですか?

  • 国内外の試合を日常的に見ている
  • 国内の有名団体を見ている
  • 漫画やニュースでなんとなく知っている程度
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