俺の転生先、13歳女子で人生ハードモードなんだが 作:観測班
合同記者会見の翌日、
場所はニューヨークの
目的は女子ボクシング大会に参加して、とある女性選手と対戦すること。
きっかけはぶいけんっに届いた一本の動画だった。
映っていたのは女子無差別級の試合。
いや、それは試合とは言えない。公開処刑だ。
身長190センチ。体重88キロ。
相手選手は体格差だけでなく、明らかに医学的検査の不備が疑われる状態でリングに立っていた。
安全管理も杜撰。
レフェリーも止めない。主催者も止めない。
結果として挑戦した女性選手が重傷を負った。
いかに体重制限のない無差別級の大会だからって、これはない。
多くの選手が勝負にならないと棄権するが、ただ一人、勇気ある女性選手がこんな理不尽に負けてたまるかと挑んでしまい、頚椎損傷と眼底骨折で緊急搬送。治療費20万ドルの大惨事に。
これらの内容をあーちゃんから報告されたちはやさんは、サーニャさんを通して事の真偽を確認。
事実であると判明するや当該選手の治療費を振り込み、止める間もなくアメリカに“飛んで”しまった。
そして何故か顔パスのホワイトハウスに入り、面倒な参加手続きを丸投げすることで、めでたくこの大会にエントリーしたというのが一連の経緯だ。
そうして俺たちは、柔道界の“怪物”の急遽参戦に沸く会場入りを果たしたわけだ。
いま、目の前ではお目当ての彼女が嗤っている。
実にいやらしく、侮蔑的な挑発を繰り返すことをやめない──。
「Hey, you fucking girl. I hear you’re a judo champion with that tiny body of yours? I don’t know what you’re thinking, coming at me like this, but don’t worry—I’ll take good care of you, whether it’s in the ring or in bed, you masochistic bitch」
だから俺は「可哀想に」と思った。
だって、すべてが悪手だ。
今のちはやさんは完全な戦闘状態。
その眼は光の粒子すら捉えている。
このまま放置すれば炸裂するのは光速のストレートか。
それとも秒間一億発の光速ジャブか。
そのいずれにしろ、人類は初めて人力の核融合を目撃することになるだろう。
だから俺は介入した。
ちはやさんを説得して、この子が納得できるプランを提示した。
『ちはやさん、分かってるよね?』
『うん。おじさんとの約束通り、わたしは手出しないよ』
ちはやさんは変わらず怒っている。
こんな理不尽を許してはならない、と。
その怒りは
しかし彼女が手を出した瞬間から、それは正義という怪物の所業となる。
だから俺たちは何もしないと決めた──。
リーチに優れる対戦相手はジャブから入った。
牽制の意図などなく、小柄なちはやさんに尻餅を突かせて、恥を掻かせることを目的としたような一撃。
むろんそれは当たらない。両者の生息速度領域はあまりにかけ離れている。
易々と行われる反撃も、しかし当てない。
相手選手の身体にボクシングクローブを触れさせるだけにとどめる。
「Not bad at all」
余裕の笑みを浮かべた相手選手は、それでもちはやさんの動きを警戒するようになったのか、巧みなコンビネーションを駆使するようになった。
ジャブ。
フック。
アッパー。
すべて当たらず。
反撃のワンタッチだけが刻まれていく。
そうして2分も経つ頃には相手選手が追い込まれていた。
コーナーポストを背負って疲労困憊。
気力と体力を使い果たしながらも、渾身の──そして破れかぶれのストレートを繰り出す。
これに対して、ちはやさんは初めて本気で拳を握った。
相手の攻撃をかい潜ってのカウンターだったが、これをあえてコーナーポストに炸裂させた。
まるで熱線で焼き切られたように、嫌な匂いをさせながらコーナーポストが脱落する。
その光景に相手選手はリングにへたり込み、両手で顔を覆ってしまった。
その姿はさながら「こんな怪物と戦わされることになるなんて聞いていない」と全力で嘆いているかのようであった。
「Yeah, you're right—it's the system that's at fault(うん、貴女の言うとおり悪いのは制度だよ)」
そこでちはやさんはよく透る声で、静まり返った会場に呼びかけた。
「This ring isn’t made for someone like me. So I’ll step down(このリングは、わたしのような人間のために作られたものじゃない。だからわたしはここから去ることにします)」
それだけ伝えると、ちはやさんは
その道すがら、この大会を棄権した女性選手たちがしきりに謝罪してきた。
こんなことに巻き込んでごめんなさい、と──。
ちはやさんは彼女たちを一人ずつ抱きしめてから
「It's okay now. But if the same thing happens again, give me a call. I'll keep pushing for improvements as many times as it takes(もう大丈夫。でも同じことが起きたらまた呼んで。何度だって改善を呼びかけてあげる)」
それは子供の安請け合いじゃない。
彼らもこんなしょっぱい試合はもう懲り懲りだろう。
だからきっと変わる。
ちはやさんはそう信じて、めずらしく飛行機を使って帰国するのだった。
……そして翌日の昼に、ぶいけんっのオフィスは爆笑の渦に包まれた。
上記の顛末を知っていると、俺たちのやらかしが大ウケしたのかと思うかもしれないが、実はそうではない。
この日の主役はゆー君。
彼がこれまでの修行の成果を披露したことが直接の原因である。
「も、もうやめてっ!? あたしホント、本当に死んじゃうから……っ!!」
「う、ククッ……なによ、悠二? 貴方、いつから、そんなデフォルメを履修したの……?」
「いやっ、もうこれで行きましょうよ! 認めます、傑作ですよこれは!!」
フフンッ、と勝ちを誇ったように鼻を鳴らすゆー君のAiPadには、ふたつの愉快なデザインが並んでいる。
ひとつは“猫背怪獣チハゴン“。
もうひとつは“地上最強生物ちは次郎”である。
うん。これは完全に数日前のおじさんの問題発言への報復だね。
なので、もう一人の被害者であるちはやさんは納得できないご様子だ。
「ゆー君?」
「なんだよ、そんな恨みがましい目つきをしやがって。あんな猫背を全国を広めたお前が悪りぃんだろ?」
「そうだけど、金メダルも11個も首から下げたら、おっぱいが潰れそうだったから仕方なくああしたのに……」
その発言に全員が「あっ(察し)」となる。
「──まぁ、新海くんの成長ぶりが確認できたということでこの話は終わりにして、そろそろ情報共有に移りますか」
「──そうね。前回の配信から色々あったから、情報共有は大事だわ」
「──そうだね。ぶいけんっの記念すべき第63回作戦会議の、始まり始まり〜〜!!」
そして、なんという切り替えの迅速さよ。
自分の胸を抑えるちはやさんと、赤面するゆー君を置いてきぼりにして場が完成されてしまった。
だもんで、俺はみんなの話を記憶するためちょっと引き気味に構えたんだが、これが良くなかった。
「まずはちはやさん、合同記者会見お疲れ様でした。アメリカの女子ボクシング大会も常識の範囲内に収めてくれて助かりましたよ」
「うん。とりあえず“おじさん”の言う通りにしてみたけど、あんな感じで良かったのかな?」
ちはやさんの口からとんでもないワードが飛び出したことで、俺は脳内のソファーからずり落ちてしまったのである。
「? ちはやさん、その“おじさん”というのは、もしかして渡米した際に何かしらの指示を?」
「ううん、違うの。たぶん前世のわたしだと思うけど、頭に物知りなおじさんがいてね。色々とアドバイスをしてくれるんだ」
……馬鹿ッ!!
馬鹿莫迦バカ何言ってくれてんのちはやさん!?
そんなこと言ったら君、完全に頭の残念な子扱いだよ──って、カケラも聞いちゃいねえッ!!
「ああ、そうなの。そのおじさんも大変だよね。自分の来世がとんでもない人生でさ」
「ていうか、完全に罰ゲームだろ。
「一度、専門家に診ていただきましょうか。もちろん極秘で……」
「ダメよ。宇宙人よろしく解剖されるのは確実だから、サーニャさんが許さないわ」
まぁそんな話、全国模試の双璧が揃ってるこの子らがまともに取り合うわけないが、さすがに肝が冷えたよ。
あらためて、ちはやさんは油断ならない。
そのことを痛感した俺は、なおも前のめりなちはやさんを背後のソファーに座らせて、敗戦処理の投手を志願するのだった。
「なるほど。ならばこの件は保留にして、女子ボクシングの大会ですが、さっそく運営が動いてくれましたね。こちらに声明が出ていますがご覧になりますか?」
「見る見る! 見せて見せて!!』
俺は早速ちはやさんを納得させるためにみっちゃんの操作するパソコンに齧りつき、英文で書かれたそのサイトを読み漁った。
「日本の勇気ある少女によって、私たちは恥を知りました。今後は途轍もないモンスターをリングに上げぬよう、ボクシング憲章の改訂に着手します、か──ところでこの途轍もないモンスターって誰のこと?」
あえてとぼけて見せると、ゆー君が「コイツ心底どうしようもねえな」と嘆いたが、他のみんなは笑ってくれた。
ちはやさんも確かな手応えが得られたのか、若干ドヤ顔でふんぞり返ってらっしゃる。
実にいいことだとひとしきり笑った後、ぶいけんっの関心は次へ移った。
「で、僕の祖父に動いていただいた結果なんですが、こちらも概ね良好で、みなさんもご存知のとおりちはやさん単独の国民栄誉賞が日本柔道代表全員に変わりました」
「ええ。ようは名誉を分散することで、ちはやの悪目立ちを避ける形ね」
「でもなんか可哀想。こんなモンを背負わされて、警察内部でどう生きてけって話じゃない?」
「まぁしばらくは同僚や上司にからかわれたり、警邏中に支障が生じるかもしれませんが、彼らの金メダルも本来は大変な栄誉ですからね。それが正当に評価されたということで納得いただくしかありません」
「それも
うん、俺もそう思う。警視庁のお仲間さんたちは強く生きてほしい。
「その辺は僕も申し訳なく思いますが、祖父は割り切っていましたね。それも公僕の務めだと仰られて」
「で、両陛下との食事会も全員参加かしら?」
「いえ、そちらは授与式のご挨拶に変更を。もともとこの辺りは陛下の政治利用を懸念する向きもありましたので、割とすんなり通りました」
「良かったじゃん。この子の食いっぷりにドン引きする陛下の姿がテレビで放映されなくなって」
まぁこの辺はちはやさんも関心がないし、俺も黙って聞くことができた。
しかし、問題はこの次だった。
「それで次はセレスタ関連になりますが、こちらは幾つか嬉しい誤算がありまして」
その一言にちはやさんがスクッと立ち上がる。
俺の脳内の出来事ではなく、現実の肉体を奪取して──。
「どうもセレスタ内部でも受け入れの動きがあったらしく、本人の名誉のために誰とは断定しませんが、その情報を内部のDScordサーバーではなく、外部の匿名掲示板に書き込むという形で露見させてしまいまして……」
……うん。そんなポンコツ挙動をするのは、セレスタ内部に一人しかいない。
俺も大好きでちはやさんも一推しだという、セレスタの月星コンビの一角。ポンコツ姫こと月代かぐらしかおるまい──ってダメだ。凄い力だ!!
「それで!? それで
「……ちょうどちはやさんはリングの上だったからご存知ないかと思いますが、おそらく向こうも炎上騒ぎとなる前に決着を図ってるのでしょうね。一度正式にお会いしてからぶいけんっとコラボしたいと、相方の星見せりなさんが配信中に」
そこで、みっちゃんの言葉が途切れる。
俺もこの動きは完全に予想外だった。
ちはやさんが子供のように泣きじゃくる。
そんな光景は誰にとっても意外だったのである。
……いや。
俺だけは予測してしかるべきだった。
ちはやさんにとってセレスタ入りは、単なる推し箱への所属じゃない。
もしかしたら普通の女の子になれるかもしれない。
そんな諦め半分に仰ぎ見た、自分にも出来そうな普通の人生そのものなのだから。
「たくっ、アンタはいきなり泣き出すなんて……駆け出したら足を引っ掛けてやろうと思ったあたしの常識的な反応をどうしてくれんのよ」
「だって、なんか嬉しいと思ったら、涙と鼻水が止まらなくって……」
「ダメね。ティッシュじゃ追いつかないわ。悠二、そっちのタオルを取ってちょうだい」
「あいよ。でもどっちにしろ雑巾がいるな。それと着替え。まったく漫画じゃあるまいに、こんな水害をおこすヤツがあるか」
「まぁ、非常に申し上げにくいのですが、メイドさんたちに連絡しないわけにはいきませんね。ちょっと内線でエミリアさんを呼び出してみます」
温かい友人たちに囲まれるちはやさんは、やはり諦めていなかったのだ。
ちはやさんはある種の生きづらさを抱えた女の子だった。
生来の異常な身体能力と、およそ人類にあるまじき完璧のな容姿がもたらす大小さまざまなトラブルだけなら、おそらく彼女は諦観に支配などされなかった。
しかし、あまりにも突然すぎる両親の死が彼女にひとつの命題を突きつけた。
なぜ生きてる。どうあってもまともに生きられない自分がのうのうと生きているのに、なぜ自分よりもまともに生きていた両親が死ななければならなかったのか──。
そんな苦悩。俺が生み出した超人の悲哀がちはやさんから生きる気力を奪った。
今なら理解できる。ちはやさんがなぜ自分の人生を俺に預けようとしたのか。
それは依存じゃない。
俺という“異物”の存在承認と引き換えになる自己否定の極致なのだと。
……だから、俺はつくづく安心したよ。
エミリアさんに着替えさせられて両親の仏壇の前に立つちはやさんは、紛れもない生きた女の子の顔をしていたから。
「──お父さん、お母さん」
両親の遺影に手を合わせたちはやさんが見惚れるような笑顔になる。
「なんか最近ね、生きるのが楽しいんだ。前はどうしたら普通になるのかわからなかったけど、今は“みんな”が教えてくれる。だからもう大丈夫だよ。安心して見守ってね」
良かった。これならもう、俺が心配するようなことには────ならないから、安心して肩の荷を下ろせるって言うんだ?
『────』
その言葉に、忘れたふりをしていたモノを思い出す。
気が付けば、俺は仏壇の前でかつての“妹”と対峙していた。
『お兄ちゃんって何でもかんでも“ちはやさんのため”って言うから心配してたら、やっぱりだ。ちはやさんがまともに生きられるようにすることが目的なんだ?』
『別におかしかないだろ? 俺だって他人事じゃないから、なんとかしてやろうと思ったって……』
『それがちはやさんになった自分のためならね。本当にお兄ちゃんっていつもそう。お母さんに新しいパソコンの購入を却下されたって伝えたら、あんなゲーミングPCを借金してまで買ってきて……そんなふざけた自己犠牲、あたし絶対認めないから。見てなさい。いつか現実のあたしが、お兄ちゃんの本音を────』
そこまで言いかけて、俺だけが認識できる妹は音もなく消えてしまった。
「あれ? どうしたのおじさん。すごい汗」
ああ、何でもないよちはやさん。
それと俺と話をするのは、頭の中だけにとどめてくれると助かる……。
『なんかよく分からないけど、おじさんがそうしてほしいんだったらそうするね』
サンキュー。物分かりのいいちはやさん、おじさん好きよ。
『またおじさんってば、そんなことを言ってわたしをからかって……ところでみんなはまだ部室?』
ああ、うん。
ゆー君はちょっと出かけてくるって言ってたけど、他のみんなは例のオフィスに残ってるから、俺たちも戻ろうか。
『そうだね。……でもなんか、泣いてるところを見られて照れくさいから、おじさん変わってよ』
こらこら、そういう所からも逃げちゃダメだぞって言いたいけど、今回は特別にいいよ。お手本にしな。
『やった、おじさん大好き』
おや?
なんか好きから大好きに昇格してしまったが、まぁヨシとするか。
どうかちはやさんの人生に幸多からんことを。
それだけが俺の願いなのだから、最初から否と言うことはなかったのである。
燕のように身を翻すちはやさんの向こうで猫が鳴いた。
愛猫のパムさんとポムさんがちはやさんを追いかけようとしたところで、サーニャさんに阻止される。
二人はしばらく嫌がるそぶりをしたが、耳元でエミリアさんに「観念なさい。爪切りとブラッシングの時間よ」と言われるとおとなしくなった。
そんなやりとりを耳にちはやさんが手を振りながら退室する。
俺は猫たちの情けない顔に笑みをこぼしてから後を追うのであった。
◇◆◇
外に出ると詰めかけるマスコミの多さに辟易させられる。
相変わらず鬱陶しいが、道隆の爺さんに何か言われたのだろうか。
今日は俺からコメントを引き出そうとはせず素通りさせて、
俺は張るなら屋上にしねえと意味ねえぞと思いつつ、混雑する路上を掻き分けてコンビニへと急いだが。
……その過程で。
なんというか不審な女を発見しちまったんだよな。
歳の頃は俺たちとほぼ同年代に見えた。
どこか気合の入った服装の、こまっしゃくれた印象の女だ。
俺は
このマスコミ連中を見ればあいつに会えないのはわかるだろうに、わざわざ落胆することかと足を止めたのがいけなかった。
あいつのファンなら、俺の顔も知ってて当然──迂闊にも目を合わせてしまい、ぺこりと挨拶されてしまったのである。
こうなるとぶいけんっのブランディング的に無視するのはよろしくない。俺は仕方なしに挨拶を返して近寄ろうとする。
するとその女は明らかに狼狽して
……さすがにその反応はどうかと思うが、用がないならいいやと振り向こうとすると引き留めるような顔をする。
俺はどっちだよとぼやいてから口を開くのだった。
「よう。見てのとおり、
するとその女は驚いたように目を丸くした。
しまった。これは向こうも声をかけられるとは思ってなかったパターンか。
俺は面倒なことになったと思いながらも、おずおずと近づいてきてもう一度頭を下げた女の相手をするハメになった。
「あの、ぶいけんっのゆー君、ですよね?」
「やっぱり定着してやがんのか、
「あ、すみません。実は新海君にひとつだけ聞きたいことがあって……」
「おう、ひとつぐらいならいいぞ。それもファンサービスだって、姉貴の奴がうるせえからな」
「あ、ありがとうございます。それでは──」
そこでその女は一度言葉を区切った。
胸に手を当てて静かに息を吸い、両目を開く。
その顔は不安と確信が奇妙に同居していて、俺はなぜか居心地が悪くなった。
そして──。
「あの。最近のちはやさんって、何か変じゃないですか?」
俺はその言葉に、自分でも気付かなかった“不審”をまざまざと思い知らされた。
……たしかに最近の
ボクシングの件を見るに直情径行なのは変わらないが、それでも無用な騒ぎをおこさないように自重した節もある。
他にも配信中の態度もそうだし、合同記者会見もそうだ。あんなにお行儀のいい葛葉ちはやを見るは世間様も初めてのことだっただろう。
それに何より例の“キモい”や、おちゃらけメイドが用意した紙袋の中身を見たときの反応。あれは今までのアイツにはなかったもので……。
「……気のせいだろ」
「気のせい、ですか」
「ああ。もしくはアイツも両親の葬儀とか、色々と鋼鉄のメンタルにやすりを掛けられるような出来事もあったからな。乗り越える過程で成長したかもしれねえし、俺たちがどうこう言うのもな」
「そう、ですよね。それが“普通”ですから」
そう。普通じゃない女が普通になろうと努力していることを、俺だけは知っているつもりだ。
「そんじゃ、俺はもう行くけど、アイツに会いたいんだったら、
ただ、そういった事情を知らないこの女が心配なのもわかる。
無関係な外野の心配と割り切ることもできず、俺は自分でも余計だと思うお節介を働いちまった。
要はこんな泣きそうな顔をしている女を放っておけなかったわけだ。
「ほらよ。これあの家にいるメイドさんの携帯の番号な。あれこれ駄菓子の賄賂を要求してくるかもだが、一応聞く耳は付いてるから、どうしても心配なら連絡してみりゃいいさ」
「ッ──ありがとうございます!!」
俺は何度も頭をさげてくる女を適当にあしらってから、その場を後にする。
……なんていうか、悪い気はしない。
その一方で、俺はアイツが泣きだす前に漏らした妄言を思い出して眩暈を覚えた。
『ううん、違うの。たぶん前世のわたしだと思うけど、頭に物知りなおじさんがいてね。色々とアドバイスをしてくれるんだ』
……自分の前世はお釈迦様と言い出さなかっただけまだマシか。
頼むからお前はこれまで通り獅子座の黄金聖闘士をやっててくれ。
まぁアイツの誕生日は山羊座だから、もしかしたらエクスカリバー繋がりで前世はアーサー王かもしれんが、どっちにしろ今は関係ないから好きにしやがれ。
俺はそんなふうに冗談めかして乗り切ろうとしたが、自分でも意外なことに胸の中のざわつきは容易に消えてくれないのであった。
◆◆◆
別に他意はない。
ちはやが子供の頃に拾ってきた猫の世話をしたのも、当家のメイド長である私の仕事です。重ねて他意はありません。
「さて、出来ましたよ。ちはやを追うなら好きになさい。この件に関して私から申し上げることはありません」
そう言って整えた毛皮を撫でると猫が鳴いた。
ただしそれはちはやが“パムさん”と呼ぶ茶色い毛皮のマンチカンだけ。
もう一方の白銀の毛並みのマンチカンはじっと私を見るだけだった。
「もし私が動かないのを不審に思っているなら、答えは簡単。それがヒトの意思に他ならないからですよ」
そう。助けを求められたわけでもないのに私が動くのはやりすぎだ。
子供たちは自分たちで考え、答えを出そうとしている。
ならば保護者の役目は温かく見守ること以外あり得ない。
「ありうべからざる今ばかりを見てもどうしようもありません。私は主命を受託するのみ。それがメイドの美学というものです」
そう口にする頃には、もう一匹の猫の関心も私から離れたようだ。
二匹の飼い猫はエミリアの開けた扉を潜り抜けて廊下の向こうへと消えていった。
「相変わらず意味深な発言ばっかりね。もしかして狙ってやってるの?」
「おや、そう聞こえましたか。猫を愛でる上司の独り言に意味を求めるとは、よほど手が空いているのですね。貴女の仕事を見直しましょうか」
「げっ、藪蛇」
そそくさと退散する娘をあえて引き留めず、私は猫の爪切りとブラシを片しました。
世界がどうあろうと私の仕事は変わらない。
その理由は誰が知らずとも構わない。
私を見送った母のような少女だけが知っていればいい。