ご注意ください。
ぽたり、と冷たい水滴が頬に落ちて、アタシは目を開けた。
視界に入るのは、ひび割れた天井と、そこから覗く鉛色の空。
雨漏りすら防げなくなったこの半壊した家が、いまのアタシの居場所だ。
体を起こすと、頭の奥でガンガンと鈍い痛みが鳴り、耳鳴りがキーンと響いた。
まともな睡眠なんて、もうずっと取れていない。
目を閉じても、開けていても、アタシの視界には常に死んだ同胞たちの姿が焼き付いているからだ。
崩れかけた壁の隙間から、鉛色の雨に打たれる外の景色を見下ろす。
泥にまみれ、破れたテント。
雨風を避けるように身を寄せ合っている同胞たちの目には、明らかな怯えと絶望の色が濃く張り付いていた。
少し前とはぜんぜん違う。
やかましいほどの笑い声と、獲物を巡るときの絶えない熱気。
いつもふらふらと出歩いては黙々と銃の手入れをするキャトロや、静かだが圧倒的な存在感を放つロザンじいたち精鋭がいた。
理不尽に晒されても「狼群」にはそれを跳ね除ける力と誇りがあった。
だけど。
あの日のランドブレーカーとの戦闘。そして同盟の裏切りがすべてを奪った。
いま目の前にいるのは、戦う力を持たない幼い子どもたちと、未来を諦め、ただ死を待つようにうつむく同胞たちだけ。
かつての熱は冷え切り、誇り高かった狼の面影はもうない。
『走れ、ロッシ!振り返るな!』
『ウルフパールを守れ!俺たちの宝を!』
キーンという耳鳴りに混じって、彼らの最後の声が頭の奥で何度も反響する。
みんな、アタシを守って死んだ。
キャトロも、ロザンじいも、アタシの前に立ったんだ。
脳裏に浮かぶ彼らの顔は、誰もアタシを責めていない。
血を吐きながら、ただ命を懸けてアタシを生かした、あの時のままだ。
それが、たまらなく苦しい。
彼らの後ろ姿と、こびりついて離れない声が、ずっと離れない。
アタシは無意識のうちに、身にまとったマントを両手で強く握りしめていた。
染み込んだ同胞の血と、敵の血。黒ずんだ布に顔を押し当て、深く息を吸い込む。
濃密な鉄と死の匂い。
みんな、アタシのことを「ウルフパール(狼群の宝)」って呼んでくれた。
そう言って頭を撫でてくれた人たちのほとんどは、もう死んでしまったけれど。
でも、怯えきった今の群れの惨状と、耳の奥で響き続ける彼らの声こそが、アタシが「いま」を生きる意味をはっきりと教えてくれる。
アタシが、狼群をまとめなければ。
彼らが命を賭して守り抜いた、「狼群」を存続させるために。
生き残ったアタシたちの「牙」が、まだ相手の喉笛を噛み千切れるほど鋭いのだと、知らしめるために。
アタシは血の匂いのするマントを翻し、冷たい雨の降る外へと歩き出した。
***
冷たい雨に打たれながら、無気力に身を寄せ合う同胞たちを見つめて、アタシはずっと考えていた。
この先、彼らが理不尽に襲われないようにするためにはどうするべきか。
未来を諦めきった彼らに、もう一度前を向いてもらうためには、どうすればいいのか。
どこか大きな群れや勢力に庇護を求める?
…ダメ。今の同胞たちには、理不尽に立ち向かえるだけの力なんてない。
ただ都合よく搾取されて、絶望が深まるだけ。
息を潜めて、ひっそりと逃げ隠れしながら暮らす?
定期的に拠点を変えて目立たないようにすれば、うまくいくはず。
けど「狼群」の未来は変えられない。
同胞たち未来を諦めてしまっているのだとしても、アタシが、それを肯定しちゃいけない。
どうして、みんなが生きていた時の「狼群」はあんなにも強かったんだろう。
どうして、今の「狼群」はこんなにも弱いんだろう。
キャトロがいて、ロザンじいがいて……あの頃の狼群には誇りがあって、未来はあんなにキラキラとしていたのに。
「ああ、そっか」
みんな、強かったんだ。
圧倒的な暴力や理不尽が襲いかかってきても、それを跳ね除ける力があった。
たとえ自分が死ぬことになろうとも、「狼群」の未来のために命を賭けられる人たちだった。
その覚悟があったから、狼群は強かったんだ。
だったら、アタシも命を賭けなきゃ。
狼群に、同胞たちに未来を見てもらうために。
「いま」を見てもらわなきゃ。力ずくにでも。
***
「お、おれが悪かった!頼む、もうやめてくれ!!」
雨上がりのぬかるんだ地面に額をめり込ませ、震えながら涙と鼻水にまみれて懇願する男がいた。
アタシはその男の周囲へと視線を滑らせる。
そこにあるのは、赤く染まって原型を留めなくなった人間の山。
すべてアタシがやったものだ。
アタシはいま、人間達に連れ去られた同胞を助けるためにここに来た。
狼群の精鋭たちが死んだ話は、あっという間に広まった。
それを聞きつけた人達が、生き残った戦えない同胞たちを「金になる商品」として、あるいは「過去の恨みを晴らすための的」として狙うようになった。
アタシたちの敵は、ボーンクラッシャーやランドブレーカーだけじゃない。
いま目の前で命乞いをしているような人間たちすべてになった。
「うるさい」
これ以上の言葉は必要ない。
右手に握った愛用のナイフを逆手に持ち直し、男の髪を掴んで無理やり顔を上げさせる。
そして、一切の躊躇なく、露出した喉笛へ冷たい刃を深々と滑らせた。
「ガッ、ヒュ……っ」
肉を裂き、気管を断ち切る確かな感触。
次の瞬間、切断された動脈から熱く粘り気のある血が噴き出し、ナイフを握るアタシの両手を真っ赤に染め上げた。
生温かい液体が指の隙間を伝い、手首へと流れ落ちる。
アタシが手を離すと、男は痙攣しながら血と泥の混じった赤い湖へと倒れ込み、二度と覚めない眠りについた。
手についた血を払うこともせず、アタシは少し離れた場所に停められていた輸送用の鉄檻へと向かった。
太い鉄格子の中には、人買いに捕らえられていた同胞たちが身を寄せ合っている。
みな一様に生気がなく、未来を諦めきったような虚ろな目をしていた。
南京錠をナイフの柄で叩き壊し、重い扉を開け放つ。
さあ、外へ。
そう促すために、アタシは彼らに向かって手を差し伸べた。
「ヒッ……」
短い悲鳴が上がり、同胞たちは弾かれたように檻の奥へと後ずさった。
差し出したアタシの手が、宙に浮いたまま止まる。
彼らの視線は、アタシの顔ではなく、熱い血が滴るアタシの両手と、死の匂いを色濃く纏った黒ずんだマントに向けられていた。
恐怖。怯え。
同胞から向けられたその感情に、アタシは自分が彼らの目にどう映っているのかを理解した。
でも、それでいい。
優しくて温かい手なんて、もう狼群(ここ)にはない。
いまの狼群にそんなもの必要ない。
アタシが彼らに希望を見せるんだ。アタシたちの血が絶えていないことを、狼群にはまだ敵を噛み殺せる「牙」があることを、この身で証明するんだ。
「……すぅ……」
肺いっぱいに、まとわりつく血の匂いを吸い込む。
同胞にバケモノだと恐れられようと。
彼ら自身の手でアタシの首が討ち取られる日が来ようと、構わない。
狼群を存続させるためなら、アタシは喜んで地獄の底を歩く。
それがアタシを守ってくれた彼らの手向けになるはずだから。
アタシは振り返り、足元に転がっていた人買いの死体の胸ぐらを掴むと、力任せに同胞たちのいる檻の鉄格子へと投げつけた。
鈍い音とともに死体がぶつかり、檻の中にいた同胞たちがビクッと肩を跳ねさせて硬直する。
「アタシに従え。従えないなら……ここで死んで」
ひどく冷たく、静かな声が自分の口から出た。
血に濡れた手からナイフの血糊を払い落とし、アタシは怯える同胞たちを真っ向から見下ろした。
***
「特殊な協約空間?」
帝江号の静かな一角で、私は目の前の少女の言葉を繰り返した。
私の前に立っているのは、「狼群」の少女、ロッシだ。
エンドフィールドでは、特殊技術部に所属してもらっている彼女は小さな眉をハの字に潜め、ひどく困ったような表情を浮かべて私を見上げている。
「はい……私たち狼群の拠点の近くに、協約空間が急にできちゃって。それだけだったらまだよかったんですけど……」
ロッシは小さな手を顎に当て、どう説明したらよいか考えを整理するような素振りを見せた。
いつもなら元気いっぱいに声を響かせる彼女が、今日ばかりは少し困惑気味に言葉を選んでいる。
「その協約空間、どんどん大きくなってるんです。数日前までは普通くらいの大きさだったんですけど、それがいまは、アタシたちの拠点を丸ごと呑み込んでしまいそうになるくらい大きくなっていて……」
たしかに、そんな話は聞いたことがない。
協約空間とは、源石の中に記録された情報からできる空間のようなもの。
空間内部はともかく、その入口が肥大化しつづけているなんてこと、これまでになかった。
「いまは、キャトロ達がその協約空間の周囲を調べて警戒してくれてるんですけど、中に入って原因を解決するためには、どうしても管理人の力が必要だって話になって……管理人!お願いです!アタシ達に力を貸してください!」
真っ直ぐに差し出されたロッシの純粋な瞳。そこには、仲間を想う優しさと私への絶対的な信頼が宿っていた。
私は少しだけ口元を綻ばせ、かつて一緒に冒険したことを思い出して、わざと芝居がかったトーンで答えた。
「もちろん。赤騎士のお願いを断るほど、この黒騎士は落ちぶれてないからね」
以前、「積み木の国」の子どもたちにもらった称号。
それを口にした瞬間、ロッシは「わっ」と声を上げて顔を真っ赤に染めた。
お気に入りの赤いマントの裾を両手でぎゅっと掴んで、恥ずかしそうに身体を縮める。
その背後では、隠しきれない喜びを表すように、彼女の尻尾が左右にぱたぱたと忙しなく振られていた。
「もう!管理人ったら……! からかわないでくださいっ!」
ロッシは顔の赤さを隠すようにぷくっと頬を膨らませた後、すぐに嬉しそうな笑顔を弾けさせた。
「でも、ありがとうございます!黒騎士、いっしょに行きましょう!」
恥ずかしさが限界を迎えたのか、それとも一刻も早く事態を解決したいからか、ロッシは私の手を小さな両手でぎゅっと引いた。
私たちは、異常な協約空間へと向けて足を進めた。