(管理人視点)
帝江号を降り、ロッシから知らされた座標へ辿り着いた時、私は思わず足を止めて目の前の光景を凝視した。
「……これが、言っていた協約空間だね」
「はい。急に現れたと思ったら、どんどん大きくなっていて……」
ロッシの声音には、隠しきれない焦燥が滲んでいた。
彼女の言う通り、それは私がこれまで目にしてきたどの協約空間とも異なっていた。
目の前に広がるそれは、まるで熱気に当てられた陽炎のように輪郭が歪み、ドクン、ドクンと脈打つように不規則に広がっている。
時折、空間の表面にノイズのような鈍い紫色の光が走り、周囲の岩や枯れ草を静かに呑み込んでいた。
肌を撫でる風さえも、境界線の手前で不自然に淀んでいるように感じる。
私が観察を続けている間、背後ではロッシとウルフガードが武器に手をかけ、周囲に鋭い視線を配っていた。
狼群の危機を前に張り詰めているロッシの横顔と、熟練の動きで死角を潰すウルフガード。
彼らの頼もしい警戒態勢に背中を預け、私は手首に装着した端末を立ち上げた。
『――管理人、聞こえる?』
少しのノイズの後、エンドフィールドの連絡員であるフィオナの声が鼓膜に届く。
「フィオナ。無事に到着したよ。分析はどうなってる?」
『事前のデータと現在の観測結果を照合したよ。管理人、その協約空間は「超域」の侵蝕を受けているかもしれない』
「侵蝕か……なるほど」
その言葉に、私は一つ頷いた。
通常の枠組みから外れたこの不気味な脈動の理由に説明がつく。
「それなら、どこかに侵蝕コアがあるはずだ。ちょっと見てみるよ」
私は手首の機器を使って、侵蝕コアの場所をスキャンする。
しかし。
「……おかしいな」
『どうしたの?』
「コアの反応がない。これだけ空間が肥大化しているのに、中心となるはずの特異点が見当たらないんだ」
スキャン結果は空回りしているように、何も有意義なデータを示さない。
手首を下ろし、私は再び眼前の揺らめく空間を見据えた。
このまま放っておけば、狼群の拠点が呑み込まれるのは時間の問題だ。
外から干渉できないのであれば、方法は一つしかない。
「フィオナ、コアの反応は見られない。だけど、これだけ肥大化し続けている以上、見過ごすわけにはいかないかな。協約空間なら、中に入れば直接問題を特定できるかもしれない。突入するよ」
『分かったよ。管理人。超域が関わっている以上、何が起きてもおかしくない……気をつけてね』
通信を切り、私は振り返って二人を見た。
「ロッシ、ウルフガード。外からじゃ埒が明かない。中に入って原因を探ろうと思う」
「はい! もちろん、私も行きます!」
「ああ。俺も行こう」
ロッシは迷うことなく頷き、ウルフガードも突入の意思を示した。
「ありがとう。それじゃあ、行こうか」
私は二人の前に立ち、不気味に歪む境界線へと、躊躇うことなく足を踏み入れた。
***
一歩を踏み出した瞬間、ひどい目眩のような感覚が全身を突き抜けた。
通常、協約空間の中は空間そのものが不安定で、足元がおぼつかないような独特の浮遊感がある。
だが、視界がチカッと瞬いた直後、私のブーツは硬く、ひどく現実的な土を踏み締めていた。
「……ここは」
背後から追従してきたウルフガードとロッシも、周囲を見渡して息を呑む。
目に映る景色は、私たちがよく知る「四号谷地」の中枢エリア付近そのものだった。
まるで元の場所から、そのまま空間ごとワープしてきたかのような錯覚を覚える。
「四号谷地……ですよね? でも、協約空間の中のはずじゃ……」
ロッシが戸惑いながら私の顔を見た。
私も周囲を慎重に見渡す。
確かに地形は同じだ。だが、決定的な違和感がいくつもあった。
「少し違うみたいだ。よく見てみて。私たちが設置したはずの協約コアがない。それに……エンドフィールドの設備も、物資のコンテナも、タイヤの跡すら何一つない」
私たちが築き上げてきた工業の成果が、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗に消え去っている。
さらに背後を振り返ると、私たちがくぐり抜けてきたはずの「空間の歪み」すらも消滅し、ただ大地が続いているだけだった。
「出口がない……閉じ込められたみたいだね」
「そんな……! じゃあ、どうすれば……」
ロッシの耳が不安げに伏せられる。
ウルフガードは愛銃の弾倉を弾き出し、残弾を確かめてからカチャリと戻した。
「道がないなら探せばいい」
彼は周囲に警戒を広げながら、冷静に言い放つ。
「大丈夫。落ち着こう。ここは協約空間の中だ。何が起きても不思議じゃない」
私は二人に微笑みかけ、努めて穏やかな声を出した。
焦りは判断を鈍らせる。
「まずは人がいるところに、中枢基地に向かおうか。この空間が四号谷地を模倣しているなら、基地の立地も同じはずだ。何か大事な情報が掴めるかもしれない」
方針を決め、私たちは警戒を解かずに基地への道を歩み始めた。
しかし、進めば進むほど、違和感は濃厚な「異様さ」へと変わっていった。
本来なら資材が積まれているはずの道沿いには、焼け焦げた廃車を積み上げたバリケードが築かれていた。
鉄条網が張り巡らされ、死角には即席の銃座まで設置されている。
「……様子がおかしい」
ウルフガードが目を細め、低い声で呟く。
「工業団の基地ってより、なにかと戦うための陣地になってるみたいだ」
彼の言う通り、ひどく血生臭い気配が漂っている。
やがて、巨大な防壁に囲まれた中枢基地の入り口が見えてきた。
バリケードの隙間から、見張りらしき工業団の人間の姿が確認できる。
彼らは重武装で、ピリピリとした緊張感を漂わせていた。
私たちが物陰から歩み出た瞬間、見張りの一人がこちらに気づいた。
彼の視線が私を通り越し――ロッシとウルフガードの姿を捉えた。
その瞬間、見張りの男の顔が、恐怖と憎悪に歪むのを私ははっきりと見た。
「――ッ!! 出たぞォォッ!!」
男が喉が裂けるような悲鳴を上げながら、手元のスイッチを乱暴に叩く。
耳をつんざくような、けたたましい警告音が荒野に鳴り響いた。
直後、防壁の上部に据え付けられていた複数の巨大な投光器が一斉に点灯し、目を焼くような光の柱が私たち――正確にはロッシの姿を容赦なく照らし出した。
「な、なに……!?」
ロッシが眩しさに目を細め、立ちすくむ。
その小さな影が大地に長く伸びた瞬間、基地の防衛設備が狂ったように咆哮を上げた。
鉄条網の奥に設置された銃座が、激しい火線を引いて一斉に掃射を始める。
さらに、バリケードの隙間に組み込まれていた設置型のアーツランチャーが青白い閃光を放ち、私たちの足元の地面を抉り飛ばした。
「危ない!気をつけて!」
私は咄嗟に前に躍り出た。
両手を前にかざし、アーツの障壁を広範囲に展開する。
固定砲台から降り注ぐ弾丸とアーツの爆撃が、次々と障壁に激突しては弾け飛ぶ。
強烈な衝撃が腕を伝い、障壁の表面にひび割れが走る。
さらに、基地の内部からは地鳴りのような足音が響いてきた。
数十、いや、百は超える工業団の人間たちが、武器を手に取り集結していく。
彼らの目は血走り、恐怖を怒りで塗り潰したような異様な熱に包まれていた。
全員の殺意が、ただ一点ロッシに向けられている。
「撃て! 殺せ!! ランドブレーカーが攻めてきたぞ!!!」
誰かの絶叫を合図に、人の波が私たちの障壁目掛けて雪崩れ込んでくる。
「……っ、ランドブレーカー!?」
工業団と狼群は、共に戦ったこともあるはずだ。
それなのに、彼らはロッシたちを明確に「ランドブレーカー」と呼んだ。
誤解だ、と言葉を投げかける隙など一秒たりともない。
彼らは正気を失うほどに、ロッシたちの存在そのものを危険視し、徹底的に殲滅しようとしている。
「管理人! 一体どうして……!」
「今は考えている暇はないよ! 相手は正気じゃない!」
前衛の男たちが障壁の端を回り込んでこようとする。
私は障壁を維持したまま、近寄ってきた男の鳩尾を武器の柄で突き上げ、気絶させては次の相手の足を払った。
その時、私の背後で鋭いアーツの光が瞬いた。
「なにか誤解があるのかもしれない。だけど、ここには管理人がいるんだから!」
彼女は素早い身のこなしで死角からの奇襲を避け、手にした武器とアーツを的確に連携させて前衛の男たちを次々と無力化していく。
その動きには迷いがなく、私やウルフガードとの連携も完璧だった。
「管理人、ここは一度撤退しよう」
私はウルフガードのその言葉にうなずく。
私が頷いたのを確認すると、ウルフガードは私の死角から飛び出してきた男の顔面を銃のストックで容赦なく殴りつけ、気絶させる。
そして手慣れた様子で暴徒の波を捌いていく。
だが、拠点の防衛設備と人の波を同時に相手にするのは限界がある。
奥では、さらに火力の高い据え置き型の重火器を準備しようとする者たちの姿が見えた。
「一旦退くよ!」
私はアーツを使って障壁を出すのと同時に、足元の土を大きく跳ね上げ、視界を奪う広範囲の土煙の壁を作り出した。
銃座からの無差別な射撃が土煙を引き裂く中、私たちは来た道を全力で駆け出した。
***
どれくらい走っただろうか。
工業団のけたたましい警報音が遠ざかり、岩肌の陰に身を隠したところで、私たちはようやく足を止めた。
「……ここまで来れば、追ってはこないはずだ」
ウルフガードが周囲を警戒しながら、低く息を吐く。
ロッシも肩で息をしながら、信じられないものを見たというように耳を伏せていた。
「管理人……さっきの人たち、私たちを見て『ランドブレーカー』って……」
「うん。工業団と狼群はいっしょに戦ったこともあるはずなのに、彼らの目には明確な敵意――いや、異常なほどの恐怖が宿っていた」
私は手首の端末を再び操作した。
しかし、画面はノイズに塗れたままだ。
「帝江号とも通信が途絶えている。入ってからずっとだ。君たちも同じだね?」
ロッシとウルフガードが頷く。
私は、消えたエンドフィールドの痕跡、出口のない空間、そして工業団の異常な反応を脳内で繋ぎ合わせた。
「推測に過ぎないけれど……ここは私たちの知る四号谷地とよく似ていても、全く違う場所なのかもしれない。エンドフィールドの介入がなく、工業団と狼群が……互いを憎み合う関係にある。そんな別の現実が、この協約空間の中に広がっているとしたら」
私の言葉に、重い沈黙が落ちる。
「……厄介だな。もしそうなら、少なくとも四号谷地での活動はしずらくなる」
ウルフガードが銃の安全装置をかけ直し、冷徹に現状を分析する。
「ひとまず、身を隠せる拠点を確保しよう。工業団にこれだけ敵視されている以上、外を歩き回るのは危険だ。ウルフガード、心当たりはある?」
「ああ。以前、四号谷地で任務にあたった時、いくつか身を隠せそうな場所を見繕ってある。世界が違っても、立地が同じなら使えるはずだ。順番に見ていこう」
***
岩肌に沿って進むうち、ウルフガードが立ち止まり、巨大な岩の裏側へと私たちを促した。
一見するとただの岩の裂け目だが、身を屈めて進むと、その奥には人工的に補強された洞窟の入り口が隠されていた。
ひんやりとした湿った空気が頬を撫でる。
「……この奥は、地下の貯蔵庫に繋がってる」
ウルフガードが低い声で言い、ライトを点灯させた。
「キャトロ、こんな場所知ってたんだ。……でも」
ロッシが感心したように周囲を見回してから、ふと鼻をヒクつかせた。彼女の耳が、警戒するようにピンと立つ。
「……血の匂いがする」
「昔、俺が見つけて物資の隠し場所に使っていた場所だ。ここなら、そう簡単には見つけられないはずだが……ロッシの言う通り、警戒したほうがいい」
2人の言う通り、洞窟の奥から、冷たい空気とともに、鉄錆のような……むせ返るような血の匂いが漂ってきていた。
「……行ってみよう」
ウルフガードを先頭に、私たちは慎重に地下へと下っていった。
やがて視界が開け、コンクリートで固められた広い貯蔵庫にたどり着いた。
だが、そこは「隠れ家」と呼べるような状態ではなかった。
「ひどい……」
背後でロッシが息を呑み、口元を手で覆う。
ライトが照らし出したのは、徹底的に蹂躙された惨状だった。
木箱は無残に砕かれ、非常用のバッテリーや寝袋らしきものは引き裂かれている。
そして何より異様なのは、床や壁にこびりついた大量の血痕だった。
すでに乾いて黒ずんでいるが、それが人間の血であることは明白だった。
奇妙なことに、これだけの出血量にもかかわらず、死体は一つも残されていない。
「……工業団がやったの?いやそんなわけない。それなら……」
ロッシは考えをまとめて、状況を分析しようとしている。
床の痕跡を丹念に調べていたウルフガードが、こちらを向いて報告する。
「このやり方は、ボーンクラッシャーや工業団のものじゃない」
彼は壁に深く刻まれた刃物の傷跡を指でなぞった。
「ボーンクラッシャーなら、もっと無駄に力任せに破壊する。鈍器で叩き潰したような痕が残るはずだ。だが、ここにある傷は違う……」
ウルフガードの視線が、壁の切り傷から、床に飛び散った血の飛沫の角度へと移る。
彼の手がピタリと止まった。
「……鋭利な刃物で、急所だけを的確に狙い澄ました軌道。下から上へえぐるような一撃……アーツによる焼け焦げの痕……」
荒野で数え切れないほどの戦いをくぐり抜けてきた彼の目が、大きく見開かれる。
彼はゆっくりと立ち上がり、振り返った。
そして、信じられないものを見るような目で、私の隣に立つロッシをじっと見つめた。
「え……どうしたの、キャトロ?」
突然向けられた兄の鋭い視線に、ロッシが戸惑い、一歩後ろに下がる。
私も違和感を覚えた。
ウルフガードの目は、敵に向ける警戒というより、理解不能な謎に直面したような「混乱」に満ちていた。
彼は、現場に残された戦闘の痕跡と、目の前にいるロッシの姿を交互に見比べている。
まるで、彼女の背中に別の誰かの影を重ね合わせているかのように。
ウルフガードが見ていた痕跡を私もじっくりと見てみる。
そして、私もウルフガードの視線の意味に気づき、背筋に冷たいものが走った。
壁に刻まれたその戦闘の痕跡は、ロッシが見せていた、彼女特有の身のこなしやアーツの連携と、酷似していた。
いや、彼女のものよりもはるかに無駄がなく、冷酷で、殺意に満ちてはいる。
だが、その根底にある「癖」は、兄である彼から見れば紛れもなく妹のものだったのだろう。
「……いや。なんでもない」
やがて、ウルフガードは小さくかぶりを振り、まるで自分に言い聞かせるようにライトの光を別の方向へと向けた。
「他の候補も見て回ったほうがよさそうだ。次に行くぞ」
彼が背を向け、私たちが地上へ戻ろうと足を向けた、その瞬間だった。
「――っ! 誰か! 誰か助けてくれェッ!!」
静寂を切り裂くような男の悲鳴が、『上』から降ってきた。
くぐもった地下の反響ではない。
外、すぐ近くからだ。
「悲鳴……! 管理人、外からです!」
ロッシが私を振り返る。
その瞳には、助けを求める声に応えようとする強い意志が宿っていた。
「行こう!」
私たちは弾かれたように駆け出し、薄暗い坂を一気に駆け上がった。
***
地上の眩しい光が洞窟の入り口から差し込んでくる。
私がアーツを練り上げながら外へ飛び出そうとした、まさにその時。
「ひっ、あ、あああっ……!!」
岩の裂け目から、這いつくばるようにして一人の男が転がり込んできた。
ひどい有様だった。
工業団の厚手の作業着は鋭利な刃物で何箇所も引き裂かれ、剥き出しになった肩や太ももからどくどくと血が流れ出ている。
彼は武器を杖代わりにしながら、背後の『何か』から逃れるように必死で足を引きずっていた。
「危ない!」
私は咄嗟に足を止め、転がり込んできた男を受け止めるようにしゃがみ込んだ。
「大丈夫! 落ち着いて!」
「あ、ああ、あ……っ!」
男は過呼吸のように喘ぎながら、焦点の合わない目で私を見た。
そして、私の背後に追いついてきたロッシの姿を視界に捉えた瞬間――男の顔から、さっと血の気が引いた。
彼の目は、彼女が羽織っている特徴的な『赤いマント』に釘付けになっていた。
「ヒッ……!! や、やめてくれ! 頼む、俺達が悪かった!」
男は錯乱したように叫び、私の腕を振り払って、岩肌に背中を擦り付けながら後ずさる。
顔を両手で覆い、まるで死神を前にしたかのようにガチガチと歯を鳴らして泣き叫んだ。
「殺さないでくれッ! 頼む!!家族がいるんだ!!」
「えっ……? ち、違うよ、アタシじゃない!誰かと勘違いしてるんじゃ…」
突然向けられた明らかな『恐怖』に、ロッシはひどく困惑し、一歩前に出ようとした。
「来ないでくれェッ!!」
「ロッシ、止まって」
私は片手でロッシを制し、ゆっくりと男の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
ウルフガードが銃を下ろし、無言で周囲の警戒に当たる。
私は努めて穏やかな、そしてはっきりとした声で男に語りかけた。
「君が見たのは、彼女によく似た『別の誰か』だね。安心して。私たちはエンドフィールドだ。君を傷つけたりはしない」
「え……?」
私の静かな声に、男はわずかに顔を上げた。
震える目で、改めてロッシを見る。
「あ、あんたたち……本当に、あのバケモノの仲間じゃないのか……?」
「違うよ。君を助けに来た。……何があったか教えてくれる?」
私の問いかけに、男は現状を思い出し、再び顔を絶望に歪ませた。
「な、仲間が……ランドブレーカーに、ほとんど殺されたんだ……! 突然襲ってきて……俺は、なんとか逃げ出せたけど、あともう一人が……まだ、あそこに……!」
「わかった。その人は私たちが助け出す」
私は男の肩を力強く叩いた。
「君はここから離れて、安全な所に行くんだ。私たちに任せて」
「あ……ああっ。頼んだ、どうかアイツを……!」
男がよろけながら駆け出していくのを見送り、私は立ち上がった。
血の匂いは、洞窟のすぐ外から風に乗って流れてきている。
「管理人、行きましょう! 早くしないと、その人が……!」
ロッシが武器を握り直し、切迫した声で私を見た。
ウルフガードも無言のまま、銃のセーフティを解除する。
彼の横顔には、地下の惨状を見た時以上に、険しい緊張が張り詰めていた。
「うん。急ごう」
私たちは頷き合い、血の匂いが濃く漂う現場へと駆け出した。
***
血の匂いを辿り、岩陰を抜けた瞬間――強烈な熱波と黒煙が私たちの頬を打った。
「これは……」
言葉を失うロッシの横で、私も思わず息を呑んだ。
そこは、文字通りの地獄だった。
工業団の人間たちが乗っていたであろう重装甲の車両が何台もひっくり返り、激しい炎を上げて燃え盛っている。
空を焦がすオレンジ色の光が、足元に広がる惨状を容赦なく照らし出していた。
大地は、どろりとした暗赤色の『血』に沈んでいる。
炎の照り返しを受けてぬらぬらと光る地面には、工業団の人間たちが無数に転がっていた。
ある者は喉元を鋭利な刃で深く切り裂かれ、ある者は急所を正確に貫かれ、絶望の表情を浮かべたまま事切れている。
パチパチと車が爆ぜる音と、鼻の奥を焼くようなガソリンと焦げた肉の匂い。
その死の気配の中で、微かなうめき声が耳に届いた。
「う……あ……」
炎を背にした死角。
倒れた車両の陰で、一人の男が虫の息でうめいていた。
そしてその男の胸ぐらを掴み上げ、今まさにトドメを刺そうとしている『小柄な影』があった。
「――ロッシ、行くよ!」
私が叫ぶと同時、ウルフガードが、一切の躊躇なく愛銃を構え、引き金を引いた。
鋭い銃声が戦場に轟く。
だが、信じられないことが起きた。
男の胸ぐらを掴んでいた影は、銃声が鳴ったその『瞬間』に首をわずかに傾け、初弾の軌道を紙一重で躱したのだ。
さらに続く連射に対し、手にしたナイフを凄まじい速度で振るい、避けきれない弾丸を刃の腹でカァンッと弾き落とした。
「なっ……!?」
「ロッシ、彼を救助して! 私が抑える!」
ウルフガードの射撃で影の意識が逸れた隙を突き、私とロッシが近接距離へと一気に踏み込む。
ロッシが風のように滑り込み、男の襟首を掴んで強引に後方へと引きずり出した。
男から離れた影に対し、私は武器を構え、その動きを封じ込めるようにして真正面から制圧にかかる。
「これ以上はやめるんだ!」
声と共に放った制圧の一撃。
しかし影は、私の攻撃を力で受け止めることはしなかった。
流れるような足運びで私の武器の軌道を逸らすと、そのまま滑るように私の懐へと入り込んでくる。
(――速い!)
ゾッとするほどの殺気。
影が逆手に握ったナイフが、下から上へ、私の喉元を正確に抉り取る軌道で跳ね上がった。
「っ……!」
私は間一髪で首をのけぞらせ、刃を躱した。
刃先が私の首の皮一枚を掠め、空を切る冷たい風圧が走る。
私は即座に距離を取り、体勢を立て直してその『事件の犯人』と対峙した。
燃え盛る炎の光が、犯人の姿をはっきりと照らし出す。
その瞬間、私とロッシ、そして後方で銃を構えたままのキャトロは、全員が驚きのあまり声を出せずに絶句した。
「……嘘……でしょ……?」
背後で、男を庇いながらロッシが震える声を漏らす。
そこに立っていたのは、私たちがよく知る少女――ロッシと、まったく同じ顔をした存在だった。
だが、同じなのは顔の造作だけ。
彼女が羽織っている赤いマントは、どす黒く変色している。
露出した腕や脇腹には無数の生々しい傷跡や火傷が刻まれ、その小さな身体がどれほどの地獄をくぐり抜けてきたかを物語っていた。
そして何より違うのは、その『目』だ。
感情が一切感じられない、底知れぬ虚無と冷酷さを宿した双眸が、私を静かに見据えていた。
「……薬を盛ったみたいだけど。これを使ってみんなを惑わせたんだ」
ナイフについた血をゆっくりと振り払い、ひどく冷たい、氷のような声で呟いた。
「え……?」
ロッシが戸惑いの声を上げる。
ロッシに似た少女の焦点は、私たちに合っているようで、合っていなかった。
「……キャトロがいて、アタシがいて。近くにいるのは管理人。……早く幻覚から抜け出さないと」
その呟きは、私たちへ向けられたものではなかった。
炎の粉が舞い散る中、血に染まった少女が、再びその刃の切っ先を私たちへと向ける。
迷いのないその構えは、明確に私たちの命を刈り取るためのものだ。
私は息を深く吸い込み、むせ返るような血と焦げた肉の匂いを肺に感じながら、武器を静かに構え直した。
このまま見過ごすわけには行かない。
「彼女を止めるよ」
私の言葉を合図に、血に染まった少女との戦闘が始まった。