熱波が肌を焼き、焦げた肉とガソリンの悪臭が鼻腔を粘りつくように塞ぐ。
炎を背にしたもう一人のロッシが、血に濡れたナイフを構えて地を蹴った。
その踏み込みは、先ほど私の喉元を狙った時よりもさらに深く、速い。
「来るよ、ロッシ!」
「はいっ!」
ロッシが私の隣に並ぶ。
彼女の息は細く震え、唇は強く噛み締められていたが、構えた武器の切っ先は迷いを断ち切るように真っ直ぐ前を向いている。
目の前の惨状を引き起こした「もう一人の自分」を、これ以上行かせるわけにはいかない、そんな覚悟が伝わってくる。
ガァンッ!
鋭い金属音が火の粉を散らした。
真正面から突っ込んできた彼女のナイフを、得物で受け止める。
手首に伝わるはずの重い衝撃がない。
刃が交わった直後、彼女の手首がぬらりと角度を変えた。
防御の支点を逸らされ、私の腕が不自然な方向へ滑り落ちる。
体勢が崩れた私を置き去りにし、彼女が間合いを詰めてくる。
そこへ、ロッシが側方からカバーに入るように鋭い一撃を見舞った。
同時に、後方から乾いた銃声が響く。
ウルフガードの援護射撃。
飛来する弾丸が、彼女の足元と退路を正確に削っていく。
だが、彼女の足取りは淀まない。
彼女はロッシの攻撃を刃の腹でいなしながら、すぐ横にあった横転した装甲車両へと跳躍した。
半開きになっていた重厚な鉄のドアの裏側に潜り込み、下から勢いよく蹴り開ける。
ガシャンッ!
ドアが開き、炎と土煙が舞う。
一瞬、視界が完全に遮られた。
「みんな気をつけて!」
銃弾がドアの装甲に弾かれる音が響く。
その金属音の余韻を縫うように、死角から音もなく彼女が飛び出してきた。
蹴り開けたドアを踏み台にし、装甲車両の上から急降下してナイフを突き立ててくる。
私は咄嗟にアーツの障壁を展開し、その刺突を弾き返した。
休む間はない。
着地と同時、彼女は地面のぬらぬらとした血だまりを滑るように間合いを詰め、乾いた地面で鋭く踏み込む。
低い姿勢から、嵐のような連撃が這い上がってきた。
上段へのフェイントから、足の腱を狙う下段の薙ぎ。
力ではなく、体重移動と遠心力を極限まで活かした、命を刈り取るためだけの軌道。
正面からの力勝負を避け、喉や頸動脈へ向けてのみ、的確に刃が跳ね上がる。
しかも彼女は、私とロッシの身体を常にウルフガードとの直線上に置き、後方からの射線を潰しながら立ち回っていた。
「はぁっ、はぁっ……!」
ロッシの荒い呼吸が耳を打つ。
彼女は必死に攻撃をいなし、隙を見て反撃を試みている。
背後では、ウルフガードが射線を見つけようと銃を構え直す衣擦れの音がかすかに聞こえる。
何度打ち合っても、彼女のペースを崩せない。
火花が散る至近距離で刃を交えながら、私の背筋を奇妙な寒気が這い上がった。
彼女の攻撃は苛烈だ。しかし、刃が交わるほんの一瞬。
視線が合わない。
刃を交えているはずの彼女の瞳の焦点は、私やロッシを突き抜け、真っ直ぐに後方――ウルフガードへと縫い付けられている。
ステップを踏む時のつま先の向き。刃を弾かれた直後の、前のめりな体重の乗せ方。
狙いは、私達じゃない。
「ウルフ――!」
喉が引き攣るよりも早く、彼女の右足が血だまりを蹴り砕いた。
私への牽制の動きがブレて消える。
私とロッシの陣形が交差し、ほんのわずかな隙間が生じた。
ウルフガードへと続く射線を、血に濡れた赤いマントが暴風のように駆け抜けていく。
慌てて振り返るが、思考より現実のほうが早い。
その切っ先が、一直線にウルフガードの喉元へと迫っていた。
***
刃が空気を切り裂く音に、私の心臓が跳ねる。
ウルフガードの呼吸は微塵も乱れていなかった。
迫る刃に対し、彼は瞬き一つせず両手で愛銃を横に構え、硬質な銃床の面でナイフの切っ先を寸分違わず受け止める。
ガァンッ!!
火花が散り、金属と強化樹脂が激突する甲高い音が耳をつんざく。
その衝撃でウルフガードの腕が僅かに沈むが、筋肉の強張りも、後退の予備動作もない。
その重心は、反撃のためだけに低く沈み込んでいた。
受け止めた銃床をそのまま捻り、刃を外側へ弾き飛ばす。
反動を利用して銃身を鞭のようにしならせ、彼女の側頭部へと重い打撃を放つ。
「ハッ……!」
血に染まったロッシは身を屈め、その一撃を髪の毛一本の差で躱す。
そのまま地面に手をつき、獣のように跳ね上がって下から上へナイフを振り上げた。
ウルフガードが一歩退いてそれを躱し、再び銃床で牽制する。
激しい打撃音と、刃が空を切る風切り音が連続して響く。
「……戦い方まで、同じ」
火花が散る至近距離で刃を交えながら、彼女の抑揚のない声が炎の爆ぜる音に混じって響く。
「ほんとに、そっくり。……アタシを止めに来たみたい」
その均衡は、突如として不気味な歪みを見せ始めた。
避けない。
ウルフガードの放った鋭い蹴りが、ロッシの太ももに深くめり込む。鈍い音が響いた。
普通なら体勢を崩す重い一撃。
だが、彼女は表情筋一つ動かさない。
打撃の衝撃を強引に飲み込み、足を引きずりながら、さらに一歩、前へ踏み込んでナイフを突き出す。
自分の肉体が削られることなど気にかけていない、ただ相手の命だけを求める這うような前進。
銃床で距離を作ろうとしていたウルフガードのブーツが、一歩、後ろの土を踏んだ。
ナイフの先端が彼の頬を薄く切り裂き、血の筋が走る。
「援護するよ!」
私とロッシが、二人の死闘に割り込む。
アーツの障壁を血に濡れた彼女の足元に展開し、ステップを阻害する。
同時に、ロッシが得物を振るって彼女の退路を塞ぐように横から打ち込んだ。
彼女の猛攻に一瞬の淀みが生じた。
ウルフガードは銃を力強く押し出し、彼女の胸のど真ん中へ、骨を砕く勢いで銃床を真っ直ぐに突き出す。
避けられないタイミング。
血に染まるロッシの瞳が、僅かに揺れた。
防御すらしない。
突き出される重厚な銃床に対し、彼女は自ら前のめりに踏み込み、無防備な左肩を突き出した。
ゴッ!
鈍く、重い音が響く。
銃床が彼女の左肩の関節を真正面から打ち据え、肉を潰し、骨を軋ませる。
しかし、彼女の口元は微かに弧を描いていた。
「……それでも」
ひどく静かな、底の抜けたような声が耳に届く。
打撃を受けた反動で身体を強引に捻り、密着するような超至近距離で、右手のナイフをウルフガードの脇腹へと突き立てる。
「……アタシは止まれない。止まっちゃいけない」
私とロッシが間一髪でもう一人のロッシの右腕を弾き飛ばす。
ズバァッ!
肉を裂く音。
致命的な深さには至らないが、ナイフの切っ先はウルフガードの脇腹の肉を無残に切り裂いていた。
ウルフガードがくぐもった声を漏らし、後方へよろめく。
服がみるみるうちに赤黒く染まり、地面に生々しい鮮血が滴り落ちる。
「キャトロ!!」
ロッシが叫びを上げ、ウルフガードの盾になるように立ち塞がる。
弾き飛ばされた彼女は右腕をだらりと下げ、肩で荒い息をしている。
左肩は不自然な方向に傾いていた。
それでも、彼女は血に濡れたナイフを握り直し、血を流すウルフガードを虚ろな目で見据え、さらなる追撃のために地を蹴ろうと身を沈める。
その瞬間。
「撃てェッ!! 奴をここから逃がすな!!」
怒号と共に、頭上から凄まじい閃光と爆音が降り注いだ。
数発の閃光弾と、アーツによる攻撃。
それらが血に染まった彼女の足元で次々と炸裂し、強烈な光と衝撃波が戦場を大きく揺らす。
私は咄嗟に腕で顔を覆い、ロッシと共に負傷したウルフガードを庇いながら後退する。
もう一人のロッシも、追撃を諦めて後方へと大きく飛び退いた。
土煙が晴れるより早く、周囲に重々しい足音が殺到してくる。
「エンドフィールドの方々はお下がりください! ここは我々が引き受けます!」
分厚い装甲服に身を包み、アーツの光を帯びた武装をした集団。
私たちが中枢基地に向かったときに遭遇した、工業団の精鋭部隊だった。
彼らは私たちを庇うように立ち、残る半数が、土煙の向こうで着地したもう1人のロッシへと一切の躊躇なく突進していく。
「殺せェッ!!奴の首を死んでいった仲間の手向けにするぞ!!」
血走り、憎悪に染まった怒号が響き渡る。
瞬く間に彼女を取り囲み、逃げ場のない包囲網が完成する。
包囲されたロッシは、片腕が使えない状態でも、一人が振り下ろした大斧を右手のナイフでいなし、その刃の軌道を逸らして隣の男の装甲に叩きつける。
だが、ステップを踏む足取りには微かなブレが生じ、ぶら下がったままの左腕が隙を生み出していた。
精鋭たちは、彼女のその消耗を決して見逃さない。
「ここだァッ!!」
一人の精鋭が、大斧を振りかぶる隙すら捨て、武器を手放して彼女へと飛びかかる。
彼女は冷静にその男の胸元へナイフを突き立てた。
ズブッ、と肉を裂く鈍い音が響き、男の口から鮮血が吐き出される。
だが、男は止まらない。
胸に刃を突き立てられたまま、歯を剥き出して笑い、彼女の右腕に両手でしがみつき、自らの体重をかけてその動きを完全に封じ込めた。
「……っ!」
彼女の顔が、わずかに歪む。
「よくやった!! そのまま押さえてろォッ!!」
動きが止まった彼女に対し、背後と側面から別の精鋭たちが一斉に襲いかかる。
右腕は男の死体に固定され、左腕は砕けている。
それでも。
彼女は、自分に組み付いている男の腹部を思い切り蹴り上げ、負傷を厭わずナイフを強引に引き抜く。
そして、背後から迫る攻撃を、「使えない左腕」を盾にして受け止めた。
バチバチィッ!!
焼け焦げた肉の匂いが辺りに充満する。
激しい電流と衝撃が彼女の身体を貫くが、悲鳴すら上げない。
その強烈な衝撃と男を蹴り飛ばした反動を利用し、右足だけで地面を蹴り上げる。
炎と土煙を巻き上げながら、彼女の小さな身体が後方へ跳躍した。
空中で半回転し、精鋭たちの追撃をかわすと、彼女は燃え盛る装甲車のさらに奥、黒煙の立ち込める暗がりへと着地する。
ズサァァッ、とブーツが土を擦る音。
彼女は肩で激しく息をし、黒こげになった左腕を引きずりながら、獲物を狙う獣のようにこちらを睨みつけている。
距離を取られ、精鋭たちの包囲網は突破された。
それでも、工業団の男たちは退かない。
武器を構え直し、炎の向こうの彼女へと追撃するために、足を踏み出す。
その時だった。
「エンドフィールドのみなさん……! ご無事ですか!」
背後から、擦れ枯れた叫び声が上がる。
振り返ると、先ほど私たちが地下拠点の近くで助けた作業員が、息を切らしながら駆け寄ってくるのが見えた。
作業員は追撃に向かう精鋭たちの背中を見送りながら、私の前までやってくると、深く頭を下げた。
「間に合って本当によかった……。あんたたちに何かあれば、取り返しがつかないところだった」
男は荒い呼吸を整えながら顔を上げる。
そして、私に肩を貸されて血を流しているウルフガードと、その傍らで武器を握り締めているロッシの姿を視界に捉え、息を呑んだ。
彼の視線が、目の前のロッシと、数十メートル先の炎の奥で息を潜める「もう1人のロッシ」を忙しなく往復する。
「あ、あんた……」
作業員の顔からサッと血の気が引いていく。
「本当に……人違いだったんだな。あのバケモノとそっくりだったから、てっきり……。本当にすまない、疑ったりして」
作業員はロッシに向けて、深く、何度も頭を下げる。
ロッシは肩をビクッとすくませ、耳を伏せた。
「……ううん、気にしないで。それより、あの人を……」
彼女の視線が、炎の向こうを気遣うように泳ぐ。
作業員はロッシの視線に気づかず、ウルフガードの脇腹から滴る血を見て、顎を引いた。
「ひどい怪我をしている。これ以上の無理は危険だ。どうか、ここは我々工業団に任せて、安全なところへ下がってください」
ウルフガードの出血はひどく、早急な手当てが必要だ。
私は小さく息を吸い込み、ロッシと顔を見合わせる。
ウルフガードも、痛みに顔を歪めながらも、銃を下ろそうとはしなかった。
あそこで孤立している彼女は、工業団の人間を虐殺している危険な存在だ。
ウルフガードの命すら奪おうとした。
しかし、あの底知れぬ虚無を抱えた瞳と、負傷を厭わず戦い続ける姿。
あれをただのバケモノとして切り捨てることなど、できない。
違う道を歩んでいるとはいえ、私たちは彼女を知っているのだから。
沈黙が落ちる。
作業員は、その間をまったく別の意味に受け取ったようだった。
「……ああ、ご心配なく」
作業員は、安堵の笑みを浮かべる。
「あいつがどれだけ異常なタフさを持っていようと、対応策は十分に練ってありますから。精鋭部隊の装甲はあいつの刃を通さないように調整済みですし、何より……」
男は声を潜め、炎の向こうで追い詰められつつある小さな影を、冷たく見据える。
「あのバケモノを確実に殺すために、我々も『命を捨てる』覚悟で訓練を積んできたんです。先ほどの連係を見ていただけたでしょう? 腕の一本や二本を犠牲にしてでも組み付き、確実に息の根を止める」
たった一人の少女を殺すためだけに、異常なリソースと覚悟が注ぎ込まれている事実。
つい先ほど、涙と鼻水にまみれて「家族がいるから殺さないでくれ」と命乞いをしていた彼が、狂信者のような熱を帯びて仲間の「捨て身の戦法」を誇っている。
胸の奥が急速に冷えていく。
目の前にいる彼らは、根本的に何かが狂っているのではないか。
そんな考えがよぎる。
「でも、よかったです」
男が再び私に向き直り、希望を見出したような明るい声で、決定的な言葉を放つ。
「エンドフィールドの方々がこうしてこちらにいらっしゃるということは、あの化物を――我々の『狼群の殲滅作戦』に、協力してくださるということですよね?」
「――っ!?」
ロッシが短く息を呑み、目を見開く。
ウルフガードの身体が、強張るのが腕越しに伝わってきた。
『狼群の殲滅作戦』
その言葉が、熱波の渦巻く戦場に響き渡る。
炎の爆ぜる音が、やけに大きく鼓膜を叩く。
私は男の顔を静かに見据え、胃の底に落ちた冷たい重さを押さえ込みながら、ゆっくりと口を開いた。
「……ちょっと、詳しく聞かせてくれるかな」