東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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第三章 守矢水利計画

 

 

 妖怪の山は、いつも音が多い。

 

 木々のざわめき。

 滝の音。

 鳥の声。

 天狗の羽音。

 河童の工房から聞こえる金属音。

 

 だが、その日の山には、もう一つ別の音が混じっていた。

 

 水車の音だ。

 

 博麗霊夢は山道の途中で足を止めた。

 

 谷の下に、見慣れない設備が組まれている。木の水路、鉄の管、回転する羽根、河童が作ったらしい測定器。その周囲を、守矢の信徒と河童たちが忙しく歩き回っていた。

 

 霊夢は眉をひそめる。

 

「思ったより進んでるじゃない」

 

 隣の魔理沙が、肩に箒を担いで笑った。

 

「正式に協議を申し入れる前から、下準備はしてたってことだな」

 

「そういうのを勝手にやってるって言うのよ」

 

「守矢らしいぜ」

 

 少し後ろを歩く咲夜が、静かに言った。

 

「紅魔館としても、無断の水利工事は見過ごせません」

 

「紅魔館は紅魔館で、勝手に湖の水を引いてたでしょ」

 

 霊夢が言うと、咲夜は一礼した。

 

「その件については、調査対象として受け止めております」

 

「便利な受け止め方ね」

 

 山道の先には、守矢神社の鳥居が見えた。

 

 鳥居の下に、東風谷早苗が立っていた。

 霊夢たちに気づくと、早苗は深く頭を下げる。

 

「お待ちしていました、霊夢さん」

 

「待たせたつもりはないわ」

 

「でも、来ると思っていました」

 

「そういうところ、守矢っぽくなってきたわね」

 

 早苗は少し困ったように笑った。

 

 前回の講の騒動以来、早苗は人里に対して慎重になっていた。だが慎重になったからといって、守矢の動きが遅くなるわけではない。むしろ、正面から話を通そうとする分、以前より厄介になっている。

 

 早苗は本殿の奥へ案内した。

 

 そこには、八坂神奈子がいた。

 

 大きな地図を前に、腕を組んで立っている。

 その横には洩矢諏訪子が座り、足をぶらぶらさせながら、にこにこと笑っていた。

 

 地図には、霧の湖、妖怪の山、人里、命蓮寺へ向かう水路、そして地底へ落ちる古い水脈まで描かれている。

 

 霊夢は地図を見て、目を細めた。

 

「ずいぶん詳しい地図ね」

 

 神奈子は堂々と答えた。

 

「水を管理するには、流れを知らなければならない」

 

「誰が管理するって?」

 

「必要なら守矢が」

 

 霊夢の表情が冷えた。

 

 魔理沙が横で小さく口笛を吹く。

 

「いきなり本題だな」

 

 神奈子は地図を指した。

 

「霧の湖の水位低下、人里の井戸の濁り、紅魔館の貯水槽異常、命蓮寺水運の停止。これらは別々の問題ではない。幻想郷の水の流れが、まともに管理されていないから起きた」

 

「管理されていないんじゃなくて、勝手に流れてるのよ」

 

 霊夢が言う。

 

「水は勝手に流れる。だから放っておく。それが古い幻想郷の考え方だ。だが、今は違う。人里は大きくなり、寺や神社も増え、河童の工房も増え、紅魔館は地下に水を引く。使う者が増えれば、管理が必要になる」

 

「それを守矢がやると?」

 

「守矢には治水の神がいる」

 

 神奈子は一歩も引かない。

 

「水を制するのは、神の仕事でもある」

 

 霊夢は地図を見た。

 

 確かに、計画自体はまともだった。

 

 霧の湖から流れる水を測り、妖怪の山の水路で調整し、人里の井戸と用水路を安定させる。余った水流は河童の装置で発電に使い、旱魃や水害に備える。古い排水路を調べ、地底への濁りを防ぐ。

 

 理屈は通っている。

 

 だからこそ厄介だった。

 

 正しい計画は、間違った利権よりずっと強い。

 

 霊夢は神奈子を睨んだ。

 

「その水路を守矢が押さえたら、人里は守矢に頭が上がらなくなる」

 

「人里が水に困らなくなるなら、それは悪いことか?」

 

「言い方を変えれば、信仰を水道代にするってことじゃない」

 

 早苗が口を挟む。

 

「霊夢さん、今回は信仰を集めるためではありません。人里の水が濁っているのは事実です。放っておけば、子供たちにも影響が出ます」

 

「だから守矢が入る?」

 

「博麗と人里の立ち会いの上で、です」

 

 早苗の声は真剣だった。

 

 霊夢は少しだけ黙った。

 

 前回の早苗なら、善意で押し切ろうとしたかもしれない。

 だが今は違う。彼女は、守矢の言葉だけでは人里に届かないことを知っている。

 

 それでも、霊夢は頷かなかった。

 

「正しくても、全部任せる理由にはならないわ」

 

 神奈子が笑う。

 

「では、博麗が水を管理するのか?」

 

「博麗は水道屋じゃない」

 

「なら、誰がやる」

 

 霊夢は答えなかった。

 

 神奈子はそこを逃さない。

 

「水を管理できない巫女に、幻想郷は管理できない」

 

 空気が張り詰めた。

 

 魔理沙が小声で言う。

 

「言うねえ」

 

 咲夜は黙っている。

 

 霊夢は神奈子を見据えた。

 

「幻想郷は、水路の図面だけで動いてるわけじゃない」

 

「それは知っている。信仰、力、恐れ、土地、記憶。色々なものが流れている。だが、今回止まったのは水だ」

 

「その水を止めた奴がいる」

 

「だからこそ、管理者が必要だ」

 

「違うわ」

 

 霊夢の声が低くなる。

 

「水を止めた奴を捕まえるのが先よ」

 

 その時、本殿の外から足音がした。

 

 河城にとりが入ってくる。

 その顔は険しい。

 

「霊夢、ちょっとまずい」

 

「何」

 

「青筒組の倉庫が空になってた」

 

 神奈子の表情が動いた。

 

「空?」

 

「工具も、古い管も、水圧計も、測量図も、ほとんど消えてる。残ってたのは、使い古しの部品と偽の発注書だけ」

 

 魔理沙が眉を上げる。

 

「逃げたってことか?」

 

「逃げたというより、移した。大きな工事をやる準備だ」

 

 にとりは地図の上に、一枚の紙を広げた。

 

 それは青筒組の内部で使われる古い工事符号表だった。

 

 霊夢には読めない。

 だが、にとりの顔を見れば、良くないことは分かる。

 

「何が書いてあるの」

 

「霧の湖の底、水門跡、紅魔館の地下排水路、命蓮寺の水運路、人里の古井戸。それぞれを一時的に閉じたり開いたりするための符号」

 

「つまり」

 

「青筒組は、幻想郷の水をかなり広い範囲で動かせる」

 

 咲夜の目が細くなった。

 

「紅魔館の地下水路も含まれているのですね」

 

「古い水路ならね。紅魔館が建つ前からあったやつだ」

 

 神奈子が低く言った。

 

「なぜそれを今まで黙っていた」

 

 にとりは神奈子を睨んだ。

 

「河童の古い水路図は、河童のものだ。守矢に全部渡す義理はない」

 

「守矢の計画に協力していたのではないのか」

 

「私は協力してた。でも青筒組は別だ」

 

 霊夢が二人の間に入るように言った。

 

「その青筒組って、河童の中でどんな立場なの」

 

 にとりは少し考えてから答えた。

 

「古い工事屋だよ。水路、排水、冷却管、地下設備。汚い仕事も請ける。表に出ないけど、山の工房や湖畔の施設は、昔からあいつらの世話になってる」

 

「裏方ね」

 

「そう。だから強い。水が流れてる時は目立たない。でも詰まった時、みんな青筒を呼ぶ」

 

 諏訪子が足を止めずに言った。

 

「詰まらせた本人を呼ぶわけだ」

 

 にとりは黙った。

 

 神奈子が腕を組む。

 

「水不足を作り、水の管理権を売るつもりか」

 

「たぶんね」

 

 にとりは苦い顔をした。

 

「水は流れてる時は誰のものでもない。でも、止めた瞬間に値段がつく。青筒の連中は、それをよく知ってる」

 

 霊夢は地図を見下ろした。

 

 霧の湖。

 紅魔館。

 守矢。

 命蓮寺。

 永遠亭。

 人里。

 地底。

 

 全てが線で繋がっている。

 

 線の上には、水が流れている。

 だが、その線を止める者がいれば、幻想郷全体の首根っこを掴める。

 

 魔理沙が地図を覗き込んだ。

 

「青筒組はどこにいるんだ」

 

「そこが分からない」

 

 にとりは悔しそうに言う。

 

「倉庫は空。工房にもいない。水路の中に潜ってる可能性が高い」

 

「水路の中?」

 

「古い地下水路を移動してる。河童ならできる」

 

 早苗が不安そうに言った。

 

「では、今もどこかで水を操作している可能性が」

 

「ある」

 

 にとりは頷いた。

 

 その瞬間、外から河童の叫び声が聞こえた。

 

「水車が止まったぞ!」

 

 神奈子が顔を上げる。

 

 一同は本殿を飛び出した。

 

 谷の下の水力設備が、音を失っていた。

 

 さっきまで回っていた水車が止まっている。

 水路の流れは細くなり、ところどころ逆流していた。河童たちが慌てて水門を開けようとしているが、動かない。

 

 にとりが走る。

 

「どけ!」

 

 彼女は水門の横に飛びつき、工具で蓋を外した。

 

 中を見た瞬間、顔色が変わる。

 

「やられた」

 

「何が」

 

 霊夢が近づく。

 

 水門の内部には、小さな青い筒が差し込まれていた。

 第一章の最後に見つかったものと同じ、青筒組の印が刻まれた部品。

 

 だが、それだけではない。

 

 青い筒には、守矢の神紋に似せた小さな札が巻きつけられていた。

 

 早苗が息を呑む。

 

「また……」

 

 霊夢は札を剥がして見た。

 

 守矢の神紋に似ている。

 しかし本物ではない。

 

「守矢が水車を止めたように見せたいわけね」

 

 神奈子の目が鋭くなる。

 

「下手な挑発だ」

 

「でも効くわよ」

 

 霊夢は言った。

 

「人里でこれが見つかったら、また守矢が疑われる」

 

 早苗は唇を噛んだ。

 

「前回と同じです。誰かが守矢の名前を使って、人里を不安にさせる」

 

「今度は守矢だけじゃない」

 

 咲夜が静かに言った。

 

「博麗、紅魔館、守矢。次は命蓮寺か永遠亭でしょう」

 

 魔理沙が帽子を直す。

 

「いや、もう出てるぜ」

 

 魔理沙は水門の奥に手を伸ばし、濡れた荷札を拾い上げた。

 

 命蓮寺の印に似せた札だった。

 

 霊夢は舌打ちした。

 

「本当に次から次へと」

 

 にとりは水門の内部を調べながら言った。

 

「これ、ただ止めてるだけじゃない。流れを別の水路に逃がしてる」

 

「どこへ」

 

「下流……いや、違う。横に逃がしてる。古い地下管だ」

 

 神奈子が地図を持ってくる。

 

 にとりは指で線を辿る。

 

「ここからなら、命蓮寺の水運路に近い。さらに先で、永遠亭へ向かう薬用水の荷運びにも影響が出る」

 

 霊夢は空を見た。

 

 流れが見えた気がした。

 

 霧の湖で水を吸い、紅魔館の地下で逆流させ、守矢の水車を止め、命蓮寺へ疑いを向ける。

 

 青筒組は、ただ水を盗んでいるのではない。

 

 水の流れに、疑いの流れを重ねている。

 

 神奈子は低い声で言った。

 

「霊夢。守矢の水利計画は一時止める」

 

 早苗が驚いて神奈子を見る。

 

「神奈子様」

 

「今、無理に進めれば、こちらが火種になる」

 

 神奈子は霊夢を見る。

 

「だが、治水そのものを止めるつもりはない。青筒組を止めた後、改めて協議する」

 

「今はそれでいいわ」

 

 霊夢は頷いた。

 

 神奈子は続けた。

 

「守矢は、水車と水路をこれ以上触らない。ただし、異常箇所の監視は続ける」

 

「勝手に工事しないなら許す」

 

「偉そうに」

 

「博麗だから」

 

 神奈子は少し笑った。

 

「それを言われると腹が立つな」

 

「お互い様よ」

 

 その時、諏訪子が水門の上にしゃがみ込んだ。

 

「ねえ、これさ」

 

 彼女は青い筒の内側を覗いている。

 

「水を逃がしてるだけじゃないよ。何かを流し込んでる」

 

「何か?」

 

 にとりが慌てて調べる。

 

 筒の内部には、細かな黒い粉が付着していた。

 

 霊夢はそれを見て、紅魔館の水槽を思い出した。

 人里の井戸に沈んでいたもの。

 紅魔館の貯水槽に混じっていたもの。

 

 同じ黒い粉。

 

 にとりは顔をしかめた。

 

「古い管の錆と、粘土と、魔力を混ぜたものだ。水を濁らせるために使ってる」

 

 早苗が青ざめる。

 

「人里の井戸も、それで?」

 

「たぶん」

 

 霊夢の目が冷えた。

 

 水を止める。

 水を濁らせる。

 疑いを流す。

 

 青筒組は、水を商品にするだけではない。

 人々の不安まで、水に混ぜて流している。

 

 咲夜が静かに言った。

 

「このままでは、命蓮寺の水運が次に止まります」

 

 魔理沙が頷いた。

 

「偽荷札もあるしな」

 

 霊夢は決めた。

 

「命蓮寺へ行く」

 

 早苗が一歩前に出る。

 

「私も行きます」

 

「守矢の監視は?」

 

「神奈子様と諏訪子様が残ります。私は、偽の守矢札が使われた件を説明しなければなりません」

 

 神奈子は何も言わず頷いた。

 

 霊夢は早苗を見た。

 

「逃げないのね」

 

「前に逃げたつもりはありません」

 

「でも、知らないまま使われた」

 

 早苗は少しだけ表情を曇らせた。

 

「だから今回は、知らないままでいたくありません」

 

 霊夢は短く息を吐いた。

 

「なら来なさい」

 

 にとりも工具を背負い直した。

 

「私も行く。青筒の管なら、私が見た方が早い」

 

 咲夜も前に出る。

 

「紅魔館の偽封印紙と命蓮寺の荷札が繋がるなら、私も同行します」

 

 魔理沙が笑った。

 

「ずいぶん大所帯になってきたな」

 

「水が全員を繋げたのよ」

 

 霊夢は言った。

 

「嫌な繋がりだけどね」

 

 出発の前、神奈子が霊夢を呼び止めた。

 

「霊夢」

 

「何」

 

「水を管理する者は、いずれ必要になる」

 

「今その話をする?」

 

「今だからする」

 

 神奈子は霊夢をまっすぐ見た。

 

「青筒組を潰しても、水はまた揉める。紅魔館は水を囲う。命蓮寺は運ぶ。永遠亭は使う。人里は求める。河童は売る。博麗は裁く。だが、誰も流れそのものを見ていない」

 

 霊夢は少し黙った。

 

 神奈子の言葉は、気に入らない。

 だが間違ってはいない。

 

「じゃあ、流れを見てるあんたたちに全部任せろって?」

 

「そうは言っていない」

 

「珍しいわね」

 

「前回で学んだ。信じさせたいなら、先に見せなければならない」

 

 神奈子は谷の水車を見た。

 

「守矢の計画は、博麗と人里に見せる。隠して進めることはしない」

 

 霊夢は神奈子をしばらく見た。

 

「それ、記録されるわよ」

 

「構わん」

 

「慧音が細かく書くわよ」

 

「構わんと言っている」

 

 霊夢は少しだけ笑った。

 

「なら、少しは信用してあげる」

 

「少しか」

 

「少しで十分でしょ」

 

 神奈子も笑った。

 

 だが、その笑みはすぐに消えた。

 

「水を止めた者は、水だけを狙っていない。おそらく、次は荷だ」

 

「分かってる」

 

「命蓮寺の船が止まれば、薬も食料も動かない。永遠亭にも波及する」

 

「つまり、もっと面倒になる」

 

「そういうことだ」

 

 霊夢は肩をすくめた。

 

「本当に、水って面倒ね」

 

「だから神がいる」

 

「だから博麗が裁くのよ」

 

 二人の視線がぶつかった。

 

 敵ではない。

 味方でもない。

 

 だが、今は同じ方向を見ている。

 

 霊夢たちは山を下りた。

 

 空は曇り始めていた。

 雨の匂いがする。

 だが、その雨もまた、どこか濁っているように感じられた。

 

 道中、魔理沙が霊夢に言った。

 

「守矢、今回は意外とまともだったな」

 

「正しいことを言う奴が、一番面倒なのよ」

 

「悪党より?」

 

「悪党は殴ればいい。でも正しい奴は、殴る前に考えなきゃいけない」

 

 魔理沙は笑った。

 

「霊夢が考えるなんて珍しいな」

 

「殴るわよ」

 

「それは早いな」

 

 早苗が後ろで小さく笑った。

 咲夜は表情を変えず、にとりは工具箱の中を確認している。

 

 それぞれが違う理由で動いている。

 

 博麗は名を使われたから。

 守矢は疑いを晴らすため。

 紅魔館は面子を守るため。

 河童は内部の不始末を追うため。

 人里は水を取り戻すため。

 

 水は誰のものでもない。

 

 けれど、水が止まれば、全員が自分のものだと言い始める。

 

 霊夢は山の下に広がる人里を見た。

 

 井戸はまだ濁っているだろう。

 慧音はそれを記録し、妹紅は井戸の前に立っているだろう。

 

 次に向かうのは命蓮寺。

 

 水が止まれば、船が止まる。

 船が止まれば、荷が止まる。

 荷が止まれば、人の暮らしが止まる。

 

 霊夢は袖の中の偽札を握った。

 

 博麗の名を使って水を止めた者。

 守矢の名を使って流れを濁らせた者。

 紅魔館の名を使って疑いを残した者。

 

 その全てが、青い筒の向こうに繋がっている。

 

 霊夢は低く呟いた。

 

「水を止めた奴に、水は任せない」

 

 山の下から、かすかに鐘の音が聞こえた。

 

 命蓮寺の鐘だった。

 

 その音は、いつもより少し濁っていた。

 

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