妖怪の山は、いつも音が多い。
木々のざわめき。
滝の音。
鳥の声。
天狗の羽音。
河童の工房から聞こえる金属音。
だが、その日の山には、もう一つ別の音が混じっていた。
水車の音だ。
博麗霊夢は山道の途中で足を止めた。
谷の下に、見慣れない設備が組まれている。木の水路、鉄の管、回転する羽根、河童が作ったらしい測定器。その周囲を、守矢の信徒と河童たちが忙しく歩き回っていた。
霊夢は眉をひそめる。
「思ったより進んでるじゃない」
隣の魔理沙が、肩に箒を担いで笑った。
「正式に協議を申し入れる前から、下準備はしてたってことだな」
「そういうのを勝手にやってるって言うのよ」
「守矢らしいぜ」
少し後ろを歩く咲夜が、静かに言った。
「紅魔館としても、無断の水利工事は見過ごせません」
「紅魔館は紅魔館で、勝手に湖の水を引いてたでしょ」
霊夢が言うと、咲夜は一礼した。
「その件については、調査対象として受け止めております」
「便利な受け止め方ね」
山道の先には、守矢神社の鳥居が見えた。
鳥居の下に、東風谷早苗が立っていた。
霊夢たちに気づくと、早苗は深く頭を下げる。
「お待ちしていました、霊夢さん」
「待たせたつもりはないわ」
「でも、来ると思っていました」
「そういうところ、守矢っぽくなってきたわね」
早苗は少し困ったように笑った。
前回の講の騒動以来、早苗は人里に対して慎重になっていた。だが慎重になったからといって、守矢の動きが遅くなるわけではない。むしろ、正面から話を通そうとする分、以前より厄介になっている。
早苗は本殿の奥へ案内した。
そこには、八坂神奈子がいた。
大きな地図を前に、腕を組んで立っている。
その横には洩矢諏訪子が座り、足をぶらぶらさせながら、にこにこと笑っていた。
地図には、霧の湖、妖怪の山、人里、命蓮寺へ向かう水路、そして地底へ落ちる古い水脈まで描かれている。
霊夢は地図を見て、目を細めた。
「ずいぶん詳しい地図ね」
神奈子は堂々と答えた。
「水を管理するには、流れを知らなければならない」
「誰が管理するって?」
「必要なら守矢が」
霊夢の表情が冷えた。
魔理沙が横で小さく口笛を吹く。
「いきなり本題だな」
神奈子は地図を指した。
「霧の湖の水位低下、人里の井戸の濁り、紅魔館の貯水槽異常、命蓮寺水運の停止。これらは別々の問題ではない。幻想郷の水の流れが、まともに管理されていないから起きた」
「管理されていないんじゃなくて、勝手に流れてるのよ」
霊夢が言う。
「水は勝手に流れる。だから放っておく。それが古い幻想郷の考え方だ。だが、今は違う。人里は大きくなり、寺や神社も増え、河童の工房も増え、紅魔館は地下に水を引く。使う者が増えれば、管理が必要になる」
「それを守矢がやると?」
「守矢には治水の神がいる」
神奈子は一歩も引かない。
「水を制するのは、神の仕事でもある」
霊夢は地図を見た。
確かに、計画自体はまともだった。
霧の湖から流れる水を測り、妖怪の山の水路で調整し、人里の井戸と用水路を安定させる。余った水流は河童の装置で発電に使い、旱魃や水害に備える。古い排水路を調べ、地底への濁りを防ぐ。
理屈は通っている。
だからこそ厄介だった。
正しい計画は、間違った利権よりずっと強い。
霊夢は神奈子を睨んだ。
「その水路を守矢が押さえたら、人里は守矢に頭が上がらなくなる」
「人里が水に困らなくなるなら、それは悪いことか?」
「言い方を変えれば、信仰を水道代にするってことじゃない」
早苗が口を挟む。
「霊夢さん、今回は信仰を集めるためではありません。人里の水が濁っているのは事実です。放っておけば、子供たちにも影響が出ます」
「だから守矢が入る?」
「博麗と人里の立ち会いの上で、です」
早苗の声は真剣だった。
霊夢は少しだけ黙った。
前回の早苗なら、善意で押し切ろうとしたかもしれない。
だが今は違う。彼女は、守矢の言葉だけでは人里に届かないことを知っている。
それでも、霊夢は頷かなかった。
「正しくても、全部任せる理由にはならないわ」
神奈子が笑う。
「では、博麗が水を管理するのか?」
「博麗は水道屋じゃない」
「なら、誰がやる」
霊夢は答えなかった。
神奈子はそこを逃さない。
「水を管理できない巫女に、幻想郷は管理できない」
空気が張り詰めた。
魔理沙が小声で言う。
「言うねえ」
咲夜は黙っている。
霊夢は神奈子を見据えた。
「幻想郷は、水路の図面だけで動いてるわけじゃない」
「それは知っている。信仰、力、恐れ、土地、記憶。色々なものが流れている。だが、今回止まったのは水だ」
「その水を止めた奴がいる」
「だからこそ、管理者が必要だ」
「違うわ」
霊夢の声が低くなる。
「水を止めた奴を捕まえるのが先よ」
その時、本殿の外から足音がした。
河城にとりが入ってくる。
その顔は険しい。
「霊夢、ちょっとまずい」
「何」
「青筒組の倉庫が空になってた」
神奈子の表情が動いた。
「空?」
「工具も、古い管も、水圧計も、測量図も、ほとんど消えてる。残ってたのは、使い古しの部品と偽の発注書だけ」
魔理沙が眉を上げる。
「逃げたってことか?」
「逃げたというより、移した。大きな工事をやる準備だ」
にとりは地図の上に、一枚の紙を広げた。
それは青筒組の内部で使われる古い工事符号表だった。
霊夢には読めない。
だが、にとりの顔を見れば、良くないことは分かる。
「何が書いてあるの」
「霧の湖の底、水門跡、紅魔館の地下排水路、命蓮寺の水運路、人里の古井戸。それぞれを一時的に閉じたり開いたりするための符号」
「つまり」
「青筒組は、幻想郷の水をかなり広い範囲で動かせる」
咲夜の目が細くなった。
「紅魔館の地下水路も含まれているのですね」
「古い水路ならね。紅魔館が建つ前からあったやつだ」
神奈子が低く言った。
「なぜそれを今まで黙っていた」
にとりは神奈子を睨んだ。
「河童の古い水路図は、河童のものだ。守矢に全部渡す義理はない」
「守矢の計画に協力していたのではないのか」
「私は協力してた。でも青筒組は別だ」
霊夢が二人の間に入るように言った。
「その青筒組って、河童の中でどんな立場なの」
にとりは少し考えてから答えた。
「古い工事屋だよ。水路、排水、冷却管、地下設備。汚い仕事も請ける。表に出ないけど、山の工房や湖畔の施設は、昔からあいつらの世話になってる」
「裏方ね」
「そう。だから強い。水が流れてる時は目立たない。でも詰まった時、みんな青筒を呼ぶ」
諏訪子が足を止めずに言った。
「詰まらせた本人を呼ぶわけだ」
にとりは黙った。
神奈子が腕を組む。
「水不足を作り、水の管理権を売るつもりか」
「たぶんね」
にとりは苦い顔をした。
「水は流れてる時は誰のものでもない。でも、止めた瞬間に値段がつく。青筒の連中は、それをよく知ってる」
霊夢は地図を見下ろした。
霧の湖。
紅魔館。
守矢。
命蓮寺。
永遠亭。
人里。
地底。
全てが線で繋がっている。
線の上には、水が流れている。
だが、その線を止める者がいれば、幻想郷全体の首根っこを掴める。
魔理沙が地図を覗き込んだ。
「青筒組はどこにいるんだ」
「そこが分からない」
にとりは悔しそうに言う。
「倉庫は空。工房にもいない。水路の中に潜ってる可能性が高い」
「水路の中?」
「古い地下水路を移動してる。河童ならできる」
早苗が不安そうに言った。
「では、今もどこかで水を操作している可能性が」
「ある」
にとりは頷いた。
その瞬間、外から河童の叫び声が聞こえた。
「水車が止まったぞ!」
神奈子が顔を上げる。
一同は本殿を飛び出した。
谷の下の水力設備が、音を失っていた。
さっきまで回っていた水車が止まっている。
水路の流れは細くなり、ところどころ逆流していた。河童たちが慌てて水門を開けようとしているが、動かない。
にとりが走る。
「どけ!」
彼女は水門の横に飛びつき、工具で蓋を外した。
中を見た瞬間、顔色が変わる。
「やられた」
「何が」
霊夢が近づく。
水門の内部には、小さな青い筒が差し込まれていた。
第一章の最後に見つかったものと同じ、青筒組の印が刻まれた部品。
だが、それだけではない。
青い筒には、守矢の神紋に似せた小さな札が巻きつけられていた。
早苗が息を呑む。
「また……」
霊夢は札を剥がして見た。
守矢の神紋に似ている。
しかし本物ではない。
「守矢が水車を止めたように見せたいわけね」
神奈子の目が鋭くなる。
「下手な挑発だ」
「でも効くわよ」
霊夢は言った。
「人里でこれが見つかったら、また守矢が疑われる」
早苗は唇を噛んだ。
「前回と同じです。誰かが守矢の名前を使って、人里を不安にさせる」
「今度は守矢だけじゃない」
咲夜が静かに言った。
「博麗、紅魔館、守矢。次は命蓮寺か永遠亭でしょう」
魔理沙が帽子を直す。
「いや、もう出てるぜ」
魔理沙は水門の奥に手を伸ばし、濡れた荷札を拾い上げた。
命蓮寺の印に似せた札だった。
霊夢は舌打ちした。
「本当に次から次へと」
にとりは水門の内部を調べながら言った。
「これ、ただ止めてるだけじゃない。流れを別の水路に逃がしてる」
「どこへ」
「下流……いや、違う。横に逃がしてる。古い地下管だ」
神奈子が地図を持ってくる。
にとりは指で線を辿る。
「ここからなら、命蓮寺の水運路に近い。さらに先で、永遠亭へ向かう薬用水の荷運びにも影響が出る」
霊夢は空を見た。
流れが見えた気がした。
霧の湖で水を吸い、紅魔館の地下で逆流させ、守矢の水車を止め、命蓮寺へ疑いを向ける。
青筒組は、ただ水を盗んでいるのではない。
水の流れに、疑いの流れを重ねている。
神奈子は低い声で言った。
「霊夢。守矢の水利計画は一時止める」
早苗が驚いて神奈子を見る。
「神奈子様」
「今、無理に進めれば、こちらが火種になる」
神奈子は霊夢を見る。
「だが、治水そのものを止めるつもりはない。青筒組を止めた後、改めて協議する」
「今はそれでいいわ」
霊夢は頷いた。
神奈子は続けた。
「守矢は、水車と水路をこれ以上触らない。ただし、異常箇所の監視は続ける」
「勝手に工事しないなら許す」
「偉そうに」
「博麗だから」
神奈子は少し笑った。
「それを言われると腹が立つな」
「お互い様よ」
その時、諏訪子が水門の上にしゃがみ込んだ。
「ねえ、これさ」
彼女は青い筒の内側を覗いている。
「水を逃がしてるだけじゃないよ。何かを流し込んでる」
「何か?」
にとりが慌てて調べる。
筒の内部には、細かな黒い粉が付着していた。
霊夢はそれを見て、紅魔館の水槽を思い出した。
人里の井戸に沈んでいたもの。
紅魔館の貯水槽に混じっていたもの。
同じ黒い粉。
にとりは顔をしかめた。
「古い管の錆と、粘土と、魔力を混ぜたものだ。水を濁らせるために使ってる」
早苗が青ざめる。
「人里の井戸も、それで?」
「たぶん」
霊夢の目が冷えた。
水を止める。
水を濁らせる。
疑いを流す。
青筒組は、水を商品にするだけではない。
人々の不安まで、水に混ぜて流している。
咲夜が静かに言った。
「このままでは、命蓮寺の水運が次に止まります」
魔理沙が頷いた。
「偽荷札もあるしな」
霊夢は決めた。
「命蓮寺へ行く」
早苗が一歩前に出る。
「私も行きます」
「守矢の監視は?」
「神奈子様と諏訪子様が残ります。私は、偽の守矢札が使われた件を説明しなければなりません」
神奈子は何も言わず頷いた。
霊夢は早苗を見た。
「逃げないのね」
「前に逃げたつもりはありません」
「でも、知らないまま使われた」
早苗は少しだけ表情を曇らせた。
「だから今回は、知らないままでいたくありません」
霊夢は短く息を吐いた。
「なら来なさい」
にとりも工具を背負い直した。
「私も行く。青筒の管なら、私が見た方が早い」
咲夜も前に出る。
「紅魔館の偽封印紙と命蓮寺の荷札が繋がるなら、私も同行します」
魔理沙が笑った。
「ずいぶん大所帯になってきたな」
「水が全員を繋げたのよ」
霊夢は言った。
「嫌な繋がりだけどね」
出発の前、神奈子が霊夢を呼び止めた。
「霊夢」
「何」
「水を管理する者は、いずれ必要になる」
「今その話をする?」
「今だからする」
神奈子は霊夢をまっすぐ見た。
「青筒組を潰しても、水はまた揉める。紅魔館は水を囲う。命蓮寺は運ぶ。永遠亭は使う。人里は求める。河童は売る。博麗は裁く。だが、誰も流れそのものを見ていない」
霊夢は少し黙った。
神奈子の言葉は、気に入らない。
だが間違ってはいない。
「じゃあ、流れを見てるあんたたちに全部任せろって?」
「そうは言っていない」
「珍しいわね」
「前回で学んだ。信じさせたいなら、先に見せなければならない」
神奈子は谷の水車を見た。
「守矢の計画は、博麗と人里に見せる。隠して進めることはしない」
霊夢は神奈子をしばらく見た。
「それ、記録されるわよ」
「構わん」
「慧音が細かく書くわよ」
「構わんと言っている」
霊夢は少しだけ笑った。
「なら、少しは信用してあげる」
「少しか」
「少しで十分でしょ」
神奈子も笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「水を止めた者は、水だけを狙っていない。おそらく、次は荷だ」
「分かってる」
「命蓮寺の船が止まれば、薬も食料も動かない。永遠亭にも波及する」
「つまり、もっと面倒になる」
「そういうことだ」
霊夢は肩をすくめた。
「本当に、水って面倒ね」
「だから神がいる」
「だから博麗が裁くのよ」
二人の視線がぶつかった。
敵ではない。
味方でもない。
だが、今は同じ方向を見ている。
霊夢たちは山を下りた。
空は曇り始めていた。
雨の匂いがする。
だが、その雨もまた、どこか濁っているように感じられた。
道中、魔理沙が霊夢に言った。
「守矢、今回は意外とまともだったな」
「正しいことを言う奴が、一番面倒なのよ」
「悪党より?」
「悪党は殴ればいい。でも正しい奴は、殴る前に考えなきゃいけない」
魔理沙は笑った。
「霊夢が考えるなんて珍しいな」
「殴るわよ」
「それは早いな」
早苗が後ろで小さく笑った。
咲夜は表情を変えず、にとりは工具箱の中を確認している。
それぞれが違う理由で動いている。
博麗は名を使われたから。
守矢は疑いを晴らすため。
紅魔館は面子を守るため。
河童は内部の不始末を追うため。
人里は水を取り戻すため。
水は誰のものでもない。
けれど、水が止まれば、全員が自分のものだと言い始める。
霊夢は山の下に広がる人里を見た。
井戸はまだ濁っているだろう。
慧音はそれを記録し、妹紅は井戸の前に立っているだろう。
次に向かうのは命蓮寺。
水が止まれば、船が止まる。
船が止まれば、荷が止まる。
荷が止まれば、人の暮らしが止まる。
霊夢は袖の中の偽札を握った。
博麗の名を使って水を止めた者。
守矢の名を使って流れを濁らせた者。
紅魔館の名を使って疑いを残した者。
その全てが、青い筒の向こうに繋がっている。
霊夢は低く呟いた。
「水を止めた奴に、水は任せない」
山の下から、かすかに鐘の音が聞こえた。
命蓮寺の鐘だった。
その音は、いつもより少し濁っていた。