東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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第四章 命蓮寺の船

 

 

 命蓮寺の鐘は、いつもより低く響いていた。

 

 山を下りた霊夢たちが人里の外れへ差しかかった時、その音は風に混じって聞こえてきた。

 晴れた日の鐘は、澄んでいる。けれど今日は違った。水を含んだ布を叩いたように、どこか重く、鈍い。

 

 霧雨魔理沙が箒を肩に担ぎ直す。

 

「鐘まで湿ってるな」

 

「縁起でもないこと言わないで」

 

 博麗霊夢はそう返しながら、空を見た。

 

 雲が低い。

 雨が降りそうで降らない。

 空気の中に水気があるのに、人里の井戸は濁り、霧の湖は減り、山の水車は止まった。

 

 水があるのに、水がない。

 

 それは、ただの渇きよりも質が悪い。

 

 命蓮寺は、普段より人が多かった。

 

 境内には荷車が並び、米俵、薬樽、木材、布袋が積まれている。

 だが、それらは動いていない。荷役たちは腕を組んで水路の方を見つめ、僧たちは困った顔で帳面を確認していた。

 

 寺の裏手には、湖と川をつなぐ小さな船着き場がある。

 普段なら村紗水蜜がそこを仕切り、命蓮寺の荷は水路を使って人里、永遠亭、妖怪の山方面へ運ばれていた。

 

 だが今、その船は岸に縛られたままだった。

 

 水が足りない。

 

 船底が浅瀬に触れ、進めないのだ。

 

 霊夢たちが境内へ入ると、村紗が真っ先に振り返った。

 

「遅い」

 

「最近そればっかり言われるわね」

 

 霊夢が答える。

 

 村紗は腕を組み、不機嫌を隠そうともしなかった。

 

「水路が死んでる。船が出せない。荷が動かない。米も薬も木材も寺の中で腐る。これで怒るなって方が無理だ」

 

 東風谷早苗が一歩前に出た。

 

「守矢の水路でも異常が出ています。命蓮寺の水路にも、青筒組の関与があるかもしれません」

 

 村紗の目が細くなる。

 

「守矢か」

 

 その一言だけで、空気が硬くなった。

 

 早苗はすぐに頭を下げた。

 

「今回、守矢の神紋に似せた札が使われました。ですが、守矢が水路を止めたわけではありません。調査のために来ました」

 

「そうか。前も似たようなことを聞いた気がするな」

 

 村紗の声は冷たい。

 

 前回の人里抗争で、守矢は名簿を使われ、講を利用された。

 今回は水路で名を使われている。

 

 早苗は言い返さなかった。

 

 代わりに、霊夢が口を開く。

 

「守矢を責めるのは後にしなさい。今は水路を見る」

 

「博麗がそう言うなら見るさ」

 

 村紗はそう言ったが、その顔にはまだ納得していない色が残っていた。

 

 十六夜咲夜は、境内に積まれた荷を見ている。

 

「ずいぶん多いですね」

 

「水路が止まれば荷が溜まる。紅魔館にも分かるだろう?」

 

 村紗が言うと、咲夜は静かに頷いた。

 

「ええ。紅魔館も水が止まれば館内設備が滞ります。物流も同じということですね」

 

「命蓮寺は救済を掲げている。けれど、救済なんて綺麗な言葉だけじゃ腹は膨れない」

 

 村紗は荷の山を指した。

 

「米を運ぶ。薬を運ぶ。衣を運ぶ。怪我人を運ぶ。そういう泥臭いものが止まれば、救済も止まる」

 

 その声には、船乗りの怒りがあった。

 

 命蓮寺の表の顔は、妖怪も人間も救う寺。

 だがその裏側には、水運、荷運び、港、帳面、人足、通行料がある。

 

 聖白蓮は理想を語る。

 村紗はその理想を船に積んで運ぶ。

 

 だから水路が止まることは、命蓮寺の心臓を締め上げるのと同じだった。

 

 河城にとりは水路の縁へ走った。

 

 水位を測り、泥を指でこすり、管の音を聞く。

 そして顔をしかめた。

 

「水が足りないだけじゃない。底に何か沈んでる」

 

「泥か?」

 

 魔理沙が聞く。

 

「泥ならまだいい。もっと細かい。紅魔館の貯水槽や人里の井戸にあった黒い粉と同じかもしれない」

 

 早苗が表情を曇らせる。

 

「守矢の水門でも見つかりました」

 

「青筒組の濁し粉だろうね」

 

 にとりは吐き捨てるように言った。

 

「水をただ止めるんじゃない。濁らせて、誰かのせいにするための粉だ」

 

 霊夢は水路を見下ろした。

 

 水面は低い。

 底が見える。

 底の泥の上に、黒い筋が何本も流れている。

 

 まるで、誰かが水の底に汚い文字を書いたようだった。

 

 そこへ、本堂の方から聖白蓮が現れた。

 

 穏やかな顔。

 柔らかな声。

 だが、その目はいつもより厳しい。

 

「霊夢さん。来てくださって助かりました」

 

「助けに来たっていうより、面倒を見に来たのよ」

 

「どちらでも構いません。面倒を見る者がいなければ、面倒は悪意に変わります」

 

 白蓮はそう言って、境内の荷を見た。

 

「水運が止まったことで、人里への薬の樽も動いていません。永遠亭への薬用水も、こちらで預かっていた分が止まっています」

 

 霊夢は目を細めた。

 

「永遠亭の水もここを通るの?」

 

「一部は。薬草を洗う水、冷却用の水、精製前の水。全てではありませんが、命蓮寺の水運を通すものもあります」

 

 咲夜が言った。

 

「紅魔館の地下排水路で、命蓮寺に似せた荷札が流れてきました」

 

 白蓮の顔が少しだけ曇る。

 

「やはり、こちらの名も使われましたか」

 

 霊夢は濡れた荷札を取り出した。

 

 命蓮寺の印に似せたもの。

 しかし本物ではない。

 

 白蓮はそれを受け取り、静かに見つめた。

 

「偽物です。ですが、寺の外の者には分からないでしょう」

 

「分からせるために作ったんじゃない。疑わせるために作ったのよ」

 

「そのようですね」

 

 白蓮は荷札を村紗へ渡した。

 

 村紗はしばらく見つめ、舌打ちした。

 

「船乗りの荷札を汚すとは、いい度胸だ」

 

 その時、水路の奥から、軋むような音がした。

 

 ぎい、と、古い木が曲がる音。

 船着き場に繋がれた小舟が、不自然に揺れる。

 

 村紗が即座に反応した。

 

「下がれ」

 

 次の瞬間、水路の底から泡が上がった。

 

 水が引く。

 

 水路の水位が、目に見えて下がり始めた。

 

 荷役たちがざわめく。

 

「おい、さらに下がってるぞ!」

 

「船が完全に座る!」

 

「荷を下ろせ!」

 

 村紗が怒鳴る。

 

「慌てるな! 船を押さえろ! 荷は動かすな!」

 

 にとりは水路の縁に飛びつき、工具を差し込んだ。

 

「底の横穴が開いてる! 水が横へ逃げてる!」

 

「どこへ?」

 

 霊夢が聞く。

 

「分からない。でも、人工的な開き方だ!」

 

 早苗が御幣を構え、水の流れを探ろうとする。

 

「下流ではありません。横……地中へ」

 

 咲夜が水路の壁を見た。

 

「紅魔館の地下と同じですね。流れるべき方向ではなく、別の古い水路へ引かれている」

 

 村紗の顔が険しくなる。

 

「古い水路なら、寺の下にもある」

 

 白蓮が頷いた。

 

「命蓮寺が建つ前からあったものです。かつては湖や川の流れを逃がすために使われていたと聞いています」

 

 魔理沙が霊夢を見る。

 

「また古い水路か」

 

「どこもかしこも、古いものを放置しすぎなのよ」

 

「幻想郷だからな」

 

「言い訳に使わないで」

 

 にとりが水路の底から何かを引き上げた。

 

 青い金属筒。

 青筒組の印が刻まれている。

 

 だが今回は、その筒に紙が巻かれていた。

 

 白い紙。

 そこには、命蓮寺の経文に似せた文字が書かれている。

 

 白蓮の目が静かに細くなった。

 

「これは、経ではありません」

 

「偽物?」

 

「ええ。形だけ真似たものです」

 

 村紗が拳を握る。

 

「博麗の札、紅魔館の封印、守矢の神紋、今度は命蓮寺の経文か」

 

 霊夢は青い筒を見た。

 

「青筒組は、各勢力の“効きそうな名前”を水に巻きつけてる」

 

 魔理沙が言う。

 

「名前を貼れば、水がそっちの問題に見えるってわけだな」

 

「そう」

 

 霊夢は水路を見下ろした。

 

「でも、全部同じ水に繋がってる」

 

 その時、境内の外から馬鹿にしたような声が聞こえた。

 

「いやあ、ずいぶん賑やかだねえ」

 

 全員が振り返る。

 

 寺の門の上に、河童が一人座っていた。

 

 にとりとは違う。

 やせた体に、青い作業着。

 手には細い管のような道具。

 目元には濡れた布を巻いている。

 

 にとりが低く言った。

 

「青筒組……」

 

 河童は軽く手を振った。

 

「元、青筒組と言ってほしいね」

 

「名前は」

 

「青島。まあ、現場では“細管”って呼ばれてた」

 

 霊夢はその河童を睨む。

 

「水路を止めたのはあんた?」

 

「全部じゃない。私は一部を開けただけ」

 

「同じでしょ」

 

「違うね。止める奴、流す奴、濁す奴、売る奴。水利は分業なんだ」

 

 青島は笑った。

 

「命蓮寺の水路は、ちょっと古いからね。軽く触ればすぐ横へ逃げる。良い構造だよ。悪い意味で」

 

 村紗が飛び出そうとする。

 

 白蓮が手で制した。

 

「なぜ命蓮寺を狙ったのです」

 

「狙った? 違う違う。水は繋がってる。湖を動かせば、寺も動く。寺が動けば荷が止まる。荷が止まれば人が困る。人が困れば、誰かが管理者を求める」

 

 霊夢の声が冷えた。

 

「その管理者が青筒組?」

 

「そう言うと悪く聞こえるね」

 

「悪いからでしょ」

 

 青島は肩をすくめた。

 

「水を止めたのは悪い。でも、止まって初めて分かるだろ? 誰も水を管理していなかったって」

 

 神奈子と同じことを言っている。

 

 霊夢はその事実に、わずかに腹が立った。

 

 青島は続ける。

 

「紅魔館は湖を囲う。守矢は水力を狙う。命蓮寺は物流を握る。永遠亭は薬用水を隠す。人里はただ使う。博麗は裁くだけ。誰も流れそのものに責任を持ってない」

 

「だから止めた?」

 

「止めたら値段がつく」

 

 にとりが歯を食いしばった。

 

「青筒の古い教えを、そんなふうに使うな」

 

「古い? 違うね。水利の基本だよ」

 

 青島は門の上から、水路を見下ろした。

 

「水は流れている間は誰のものでもない。止めた瞬間、交渉できる。濁らせれば不安になる。足りなくなれば、金を出す。管理してやると言えば、頭を下げる」

 

 早苗が強い声で言った。

 

「人里の井戸まで濁らせたのですか」

 

「井戸は少しだけだよ。あまりやると本当に人が困るからね」

 

 妹紅がいれば、その場で殴りかかっていたかもしれない。

 霊夢でさえ、一瞬足が出そうになった。

 

 だが、白蓮が先に言った。

 

「少しだけ困らせることを、あなたは許されると思っているのですか」

 

 青島は笑みを崩さない。

 

「寺の人は綺麗だね。でも、あなたたちだって荷を握ってる。米も薬も木材も、命蓮寺の船がなければ動かないものがある。困った人を助けるには、困っている人が必要だ」

 

 村紗の顔色が変わった。

 

「取り消せ」

 

「おっと、船長が怒った」

 

 青島が腰を上げる。

 

「でも事実だろ。救済も物流も、流れを握る商売だ。水と同じだよ」

 

 その瞬間、村紗が水を蹴った。

 

 水路の水が大きく跳ね、青島へ向かって伸びる。

 だが青島は管をひと振りし、水の流れを横へ逃がした。

 

 門の上の瓦が濡れるだけで、青島には届かない。

 

「水を扱うのは船乗りだけじゃない」

 

 青島は笑った。

 

 霊夢が御札を構える。

 

「逃げるなら今のうちよ」

 

「逃げるさ。今日は顔見せだからね」

 

 魔理沙が箒に乗って飛び出す。

 

「逃がすか!」

 

 しかし青島は門の裏へ飛び降り、そのまま排水溝の中へ滑り込んだ。

 

 にとりが叫ぶ。

 

「追うな! あそこは旧水路だ!」

 

 魔理沙はぎりぎりで止まった。

 

 排水溝の奥から、青島の声だけが響く。

 

「博麗に伝えておいてくれ。水を戻したければ、青筒組と正式に話をしろってね」

 

 霊夢は排水溝の前に立った。

 

 奥は暗い。

 水音だけが続いている。

 

「正式に話?」

 

 霊夢の声は低かった。

 

「水を止めておいて、よく言うわ」

 

 青島の気配は、もう消えていた。

 

 水路の水位は、さらに下がっている。

 命蓮寺の船は完全に動けなくなった。

 

 白蓮は静かに言った。

 

「霊夢さん。これはもう、命蓮寺だけでは収まりません」

 

「分かってる」

 

「水運が止まれば、永遠亭への薬用水も届きません。食料も、人里への荷も止まります」

 

 咲夜が続ける。

 

「紅魔館の地下水路とも繋がっています。放置すれば、館の水もさらに引かれるでしょう」

 

 早苗も言う。

 

「守矢の水車も止まりました。人里の井戸も濁っています」

 

 にとりは青筒を握りしめた。

 

「青筒組は、水路の中にいる。地上を探しても見つからない。水の流れを追うしかない」

 

 魔理沙が言った。

 

「じゃあ、次は地底か」

 

 霊夢は頷いた。

 

「水が逃げてる先を追う」

 

 白蓮は村紗へ指示した。

 

「動かせる荷を陸路に切り替えてください。人里への食料と薬を優先。多少遅れても構いません」

 

「分かった」

 

 村紗はすぐに動き出した。

 

 水運が止まっても、命蓮寺は止まらない。

 ただし、代償は大きい。人手も時間もかかる。救済は遅れる。

 

 霊夢はその様子を見ていた。

 

 命蓮寺は綺麗な寺ではない。

 荷を握り、船を動かし、人の流れを管理する。

 だが、綺麗なだけでは人は助けられない。

 

 青島の言葉は不愉快だった。

 だが、完全な嘘ではない。

 

 白蓮は霊夢に向き直った。

 

「命蓮寺は、青筒組との交渉を認めません」

 

「交渉なんてする気ないわ」

 

「ですが、彼らは博麗神社に話を持ち込むでしょう」

 

「でしょうね」

 

 霊夢は排水溝の奥を見る。

 

「博麗が認めれば、青筒組は正式な水利管理者になれる」

 

 魔理沙が苦い顔をする。

 

「水を人質にして、許可を取るつもりか」

 

「そういうこと」

 

 咲夜が言った。

 

「水を止めた者が、水を戻す条件を売る。実に分かりやすい」

 

「分かりやすく汚いわね」

 

 霊夢は袖の中の札を確認した。

 

 本物の博麗札。

 水路の流れを一時的に整えることはできる。

 だが、全ての水路を一人で塞ぎ直すことはできない。

 

 それを青筒組は知っている。

 

 だから挑発している。

 

 博麗は裁けるだけで、水は直せない。

 そう言いたいのだ。

 

 霊夢は静かに息を吐いた。

 

「にとり」

 

「何」

 

「地底へ続く水路、分かる?」

 

「分かる。命蓮寺の裏の旧水路から、いくつか繋がってる。危ないけどね」

 

「危ないのはいつものことよ」

 

「水の中で札は使いにくいよ」

 

「水の外で殴る」

 

「雑だなあ」

 

 魔理沙が笑った。

 

「霊夢らしい」

 

 その時、寺の奥から一輪が駆けてきた。

 

「白蓮様! 永遠亭から使いが来ています!」

 

 白蓮の表情が変わる。

 

「永遠亭から?」

 

 現れたのは鈴仙だった。

 

 彼女は息を切らし、薬箱を抱えていた。

 耳は伏せられ、顔には焦りがある。

 

「慧音さんのところにも伝えました。永遠亭の薬用水が、急に使えなくなりました」

 

 霊夢は目を細めた。

 

「命蓮寺の水運が止まったせい?」

 

「それもあります。でも、それだけじゃありません。竹林の井戸にも濁りが出ています。師匠が、水脈の下流に異常があると言っています」

 

「下流?」

 

「はい」

 

 鈴仙は霊夢を見た。

 

「水は、地底の方へ引かれています」

 

 全員が黙った。

 

 地底。

 古い水脈。

 排水。

 後始末。

 濁りの行き先。

 

 霊夢は空を見上げた。

 

 命蓮寺の鐘が、再び鳴った。

 

 今度はさらに低く、鈍く、湿っていた。

 

「次は地霊殿ね」

 

 魔理沙が呟く。

 

 霊夢は頷いた。

 

「水の流れを追う。青筒組がどこで何を止めてるのか、全部見つける」

 

 鈴仙が不安そうに言った。

 

「永遠亭も協力します。師匠が、水質の分析結果を持ってくると」

 

「永琳が出てくるなら、いよいよ面倒ね」

 

「すみません」

 

「謝らなくていいわ。面倒なのは最初からよ」

 

 霊夢は寺の水路をもう一度見た。

 

 水は細く、濁って、横へ逃げている。

 船は動かない。

 荷は止まっている。

 人々は不安になり始めている。

 

 青筒組は言った。

 

 水を戻したければ、正式に話をしろ。

 

 霊夢は小さく笑った。

 

「話なら聞いてあげるわ」

 

 魔理沙が見る。

 

「珍しいな」

 

「聞くだけよ」

 

 霊夢は排水溝の奥へ向かって、低く言った。

 

「その後で殴る」

 

 命蓮寺の船は、まだ動かない。

 

 だが、博麗は動き始めた。

 

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