地底へ向かう道は、いつも湿っている。
土の匂い。
古い石の匂い。
温い水の匂い。
それから、何かが長い時間をかけて腐ったような匂い。
博麗霊夢は、旧地獄へ続く縦穴の前で足を止めた。
穴の底から、風が上がってくる。
その風は冷たくない。むしろ、ぬるい。
地上の水がどこかで温められ、濁り、吐き戻されているようだった。
「嫌な風ね」
霊夢が言うと、霧雨魔理沙が箒を肩に担いだまま笑った。
「地底に爽やかさを求めるなよ」
「求めてないわよ」
今回、地底へ向かう顔ぶれは多かった。
霊夢。
魔理沙。
河城にとり。
東風谷早苗。
十六夜咲夜。
村紗水蜜。
鈴仙・優曇華院・イナバ。
命蓮寺の水運が止まり、永遠亭の薬用水にも異常が出た。
青筒組の管は、霧の湖、紅魔館、守矢、命蓮寺を通り、地底へ水を逃がしているらしい。
つまり、水の濁りの行き先は地底だった。
霊夢は鈴仙を見る。
「永琳は?」
「師匠は水質の分析をまとめてから来るそうです。地底で合流すると」
「一番面倒な登場の仕方をしそうね」
「否定できません」
鈴仙は困ったように耳を伏せた。
にとりは穴の縁にしゃがみ込み、古い配管を見つめている。
「ここにも青筒の痕がある。新しい傷だ」
「青筒組が通った?」
早苗が聞く。
「通ったというより、ここを排出口にした。地上から逃がした水が、下へ落ちるようになってる」
村紗の顔が険しくなる。
「地上の水を地底へ捨ててるってことか」
「ただ捨ててるだけならまだいい」
にとりは配管の内側に指を入れ、黒い粉をこすり取った。
「濁りをここで混ぜてる。地上から来た水に、地底の古い泥や錆を混ぜて、また別の水路へ流してる」
咲夜が静かに言った。
「つまり、濁りの製造場」
「そういうこと」
霊夢は穴の底を見下ろした。
「本当に趣味が悪いわね」
「水を濁らせるには、汚い場所がいる」
魔理沙が言った。
「地底の連中が聞いたら怒るぞ」
その声に答えるように、穴の奥から声がした。
「もう怒っていますよ」
古明地さとりだった。
いつの間に現れたのか、彼女は縦穴の内側の岩棚に立っていた。
いつもの無表情に近い顔。
しかし、その第三の目だけは、ひどく冷えていた。
霊夢は腕を組んだ。
「出迎え?」
「監視です」
さとりは静かに言った。
「地上の水が、勝手に地底へ流し込まれています。濁りも、疑いも、責任も」
「責任まで流れてきたの?」
「ええ。皆さん、困ると下へ捨てる癖がありますから」
誰もすぐには返せなかった。
地底は、幻想郷の底だ。
見たくないもの。
使い終わったもの。
汚れたもの。
地上で扱いに困ったものが、いつの間にか流れ着く場所。
さとりは、それをよく知っている。
村紗が言った。
「命蓮寺は捨てたつもりはない」
「あなたはそうでしょう」
さとりは村紗を見る。
「けれど、水路は正直です。地上で止められたもの、隠されたもの、濁らされたものは、下へ向かう。今回も同じです」
霊夢は肩をすくめた。
「説教は後。青筒組を探す」
「分かっています」
さとりは背を向けた。
「地霊殿へ案内します。もう一部は捕まえていますから」
魔理沙が目を丸くした。
「早いな」
「心は水より先に流れます」
さとりは淡々と答えた。
地底の道は暗かった。
岩肌から水が染み出し、ところどころで黒い筋を作っている。
足元には細い流れがあり、そこには霧の湖で見たものと同じ黒い粉が混じっていた。
早苗はその水を見て、顔を曇らせる。
「これが人里の井戸にも……」
「薄くなって流れていたのでしょう」
鈴仙が薬箱から小瓶を取り出し、水を採る。
「師匠の分析と合わせれば、流れた経路が分かるはずです」
咲夜は周囲を警戒していた。
「紅魔館の地下水路と同じ匂いがします」
「つながっているのでしょうね」
さとりが言った。
「地上の館も寺も神社も、それぞれ別の顔をしていますが、水の下ではよく似ています」
魔理沙が笑う。
「嫌な言い方だな」
「嫌なものを見ているので」
地霊殿に着くと、入口の前に火車がいた。
火焔猫燐。
お燐は黒い水で濡れた車輪を転がしていた。中には金属管や壊れた水門部品が積まれている。
「お、来た来た。地上組ご一行さんだね」
霊夢は車輪の中を覗き込んだ。
「何これ」
「地底の排水路から拾ったガラクタ。青筒の連中が置いていったやつだよ」
にとりが駆け寄り、部品を確認する。
「これは……地上の古い管じゃない。新しく作ったものだ」
「青筒組の?」
「印はある。でも、全部が本物とは限らない。偽装も混じってる」
お燐は肩をすくめた。
「偽物だろうが本物だろうが、こっちは迷惑だよ。水に変なもの混ぜられると、死体より扱いが面倒なんだから」
鈴仙がぎょっとする。
霊夢は聞かなかったことにした。
地霊殿の奥、広い部屋に案内されると、そこには数人の河童が縛られていた。
青い作業着。
水に濡れた道具袋。
目元を布で覆っている者もいる。
にとりの顔が強張る。
「青筒組……」
縛られた河童の一人が顔を上げた。
「にとりか。地上の連中に尻尾振ってるのか」
「黙れ」
にとりの声には怒りがあった。
さとりが椅子に座る。
「彼らは旧排水路で作業していました。地上の水をこちらへ落とし、濁りを混ぜ、別の水路へ流す役目です」
霊夢は河童たちを見た。
「命蓮寺で青島って河童に会ったわ」
縛られた河童が少し笑った。
「細管の青島か。あいつは口が軽い」
「仲間?」
「仲間だった。今は知らん」
さとりが静かに言った。
「嘘ですね。まだ連絡を取っています」
河童の顔が歪む。
さとりは続ける。
「青筒組は三つに分かれています。水を止める者。濁りを作る者。交渉する者。あなたたちは濁りを作る者」
霊夢が眉をひそめる。
「交渉する者?」
「博麗神社へ向かう準備をしているようです」
霊夢の目が冷たくなる。
「やっぱり来るのね」
河童は開き直ったように笑った。
「当然だ。水を戻すには、管理者が必要になる。博麗が正式に認めれば、誰も文句は言えない」
「認めると思う?」
「認めるさ」
河童は地面の水を顎で示した。
「霧の湖、人里の井戸、紅魔館、守矢、命蓮寺、永遠亭。全部が困っている。今すぐ水を戻せるのは青筒だけだ」
にとりが怒鳴る。
「戻せるのは、止めたのがお前らだからだろ!」
「そうだ。だから価値がある」
部屋の空気が一段冷えた。
早苗が拳を握る。
「人里の水まで濁らせておいて」
「少しだけだ。死にはしない」
その一言で、霊夢が一歩前に出た。
河童は一瞬、口を閉じた。
霊夢の表情は静かだった。
だが、静かすぎた。
「水を止めるのは交渉。濁らせるのは宣伝。人が困るのは値段の一部。そういう考え?」
河童は答えない。
「分かった」
霊夢は御札を一枚取り出した。
「青筒組とは、まともに交渉しない」
河童が笑う。
「強がっても、水は戻らない」
「戻すわよ」
霊夢はにとりを見た。
「こいつらの管、読める?」
にとりは少し驚いた顔をしたが、すぐ頷いた。
「読める。全部じゃないけど、構造は分かる」
「さとり、心は読める?」
「読めます」
「鈴仙、水質は追える?」
「はい。師匠の分析があれば、もっと正確に」
「村紗、水の流れは?」
「船乗りを舐めるな」
「早苗、守矢の水路は止められる?」
「神奈子様と諏訪子様に伝えれば、監視と封鎖は可能です」
「咲夜、紅魔館の地下は?」
「すでに封鎖準備を進めています」
霊夢は河童へ視線を戻した。
「青筒組だけが水を戻せると思ってるのが間違いよ。あんたたちが全部の水を知ってるなら、幻想郷中の面倒な連中もそれぞれ一部は知ってる」
魔理沙が笑った。
「全員怪しいってのは、全員使えるってことでもあるな」
「そういうこと」
霊夢は御札を袖にしまった。
「博麗が裁定する。青筒組抜きで水を戻す」
河童の表情が初めて崩れた。
「無理だ。水路は複雑だ。古い図面もない。地底の流れまで」
「図面ならあるわ」
声がした。
部屋の入口に、八意永琳が立っていた。
隣には因幡てゐもいる。
てゐは面倒そうな顔をしているが、手には古い巻物を抱えていた。
鈴仙が驚く。
「師匠!」
「遅れてごめんなさい。水は嘘をつかないけれど、帳面は隠れるのが上手いのよ」
永琳は部屋の中央に進み、古い巻物を広げた。
そこには、水脈図が描かれていた。
霧の湖。
紅魔館の地下。
命蓮寺の水路。
竹林の井戸。
人里の古井戸。
地底の排水脈。
そして、さらに深い場所へ伸びる細い線。
にとりが目を見開く。
「何で永遠亭がこんな図面を持ってるんだ」
永琳は涼しい顔で答えた。
「薬を作るには水が必要だから」
「それで済ませる気かよ」
「済ませる気よ」
霊夢は図面を覗き込んだ。
「これは本物?」
「かなり古い。正確ではない部分もある。でも、水の流れを追うには十分」
さとりが図面を見つめる。
「地底側の線も合っています。今は使われていない古い排水路が多いですが」
永琳は小瓶を並べた。
「水質から見て、濁りの中心はここ」
彼女が指したのは、地底のさらに奥。
旧地獄の熱水脈と、霧の湖の地下水脈が交わる場所だった。
「青筒組はそこに濁りを混ぜている。地上の水を一度下へ落とし、黒い粉と魔力残渣を混ぜて、別の水路へ戻している」
村紗が顔をしかめる。
「水の洗浄場じゃなくて、汚染場か」
「そう」
永琳は頷いた。
「しかも、薄く混ぜている。すぐに毒にはならない。けれど、不安にさせるには十分な濁り」
早苗が低く言った。
「人を困らせるための水」
「水そのものより、反応を作っているのね」
咲夜が言った。
霊夢は図面を見たまま黙っていた。
濁りの中心。
そこを押さえれば、水質は戻る。
だが、同時に青筒組の本隊もそこにいる可能性が高い。
魔理沙が覗き込む。
「行くしかないな」
「行くわよ」
霊夢は即答した。
その時、部屋の空気が裂けた。
紫色の隙間が開き、八雲紫が現れる。
扇で口元を隠し、いつものように笑っている。
「ずいぶん楽しそうね」
霊夢は即座に睨んだ。
「出たわね」
「出たわよ」
「知ってたのね」
「何を?」
「水脈」
紫は目を細めた。
部屋の空気がまた重くなる。
永琳は何も言わない。
さとりは紫を見ている。
にとりは工具を握り、早苗は御幣を構えかけている。
紫はゆっくりと言った。
「霧の湖の下には、古い境界水脈がある。水の流れと、幻想郷の境界が重なる場所。知っていたわ」
「なぜ言わなかったの」
「言えば、みんな欲しがるから」
「言わなくても欲しがってるじゃない」
「そうね」
紫はあっさり認めた。
霊夢の目が鋭くなる。
「また見てたの?」
「見極めていたの」
「その言い方、前にも聞いたわ」
「便利な言葉なのよ」
霊夢は一歩前に出た。
「見極めるために、人里の井戸を濁らせたの?」
紫は答えなかった。
その沈黙に、霊夢は苛立った。
「紫」
「私は濁らせていない」
「止めなかった」
「止める前に、どこまで伸びているか知る必要があった」
「だから、放っておいた」
紫は扇を閉じた。
「境界水脈は不用意に触れば幻想郷全体に影響する。誰が、どの水路を、どこまで把握しているのか。それを知らずに叩けば、もっと壊れる」
「それで今は壊れてないって言うの?」
霊夢の声は低い。
紫は少しだけ視線を逸らした。
「壊れかけている」
「なら十分よ」
霊夢は言った。
「今度は先に動く。後始末じゃなくて、止めるために」
紫は霊夢を見た。
「あなた、変わったわね」
「うるさい」
「前なら、ここまで記録も説明も気にしなかった」
「気にしないと、後で慧音がうるさいのよ」
魔理沙が横で笑った。
「いい言い訳だな」
霊夢は咳払いをした。
「紫。境界水脈の図面を出しなさい」
紫は微笑む。
「出すと思う?」
「出さないなら、あんたも青筒組と同じ扱いにする」
「怖いわね」
「怖がりなさい」
紫はしばらく霊夢を見ていた。
やがて、扇を開き、小さな巻物を隙間から取り出した。
「完全なものではないわ。古すぎて、今とは違う箇所もある」
「言い訳は後」
霊夢は巻物を永琳の図面の横に広げた。
二つの図面が重なる。
永遠亭の水脈図。
八雲の境界水脈図。
そこに、にとりが青筒組の管の印を加える。
さとりが捕らえた河童の心から読んだ地点を示す。
村紗が水運路の実際の流れを書き足す。
咲夜が紅魔館地下の封鎖位置を記す。
早苗が守矢の水門位置を加える。
初めて、幻想郷の水の全体像が見え始めた。
魔理沙が感心したように言った。
「こうして見ると、すごいな。みんな勝手に水を使ってたんだな」
「その通りです」
さとりが言った。
「心と同じです。自分の流れだけは正しいと思っている」
霊夢は図面を見下ろした。
水は誰のものでもない。
しかし、誰もが自分の都合で使っていた。
青筒組は、その隙間を狙った。
そして、博麗の名を使った。
それが一番気に入らなかった。
霊夢は図面の一点を指した。
濁りの中心。
「ここへ行く」
紫が目を細める。
「危険よ。地底の熱水脈と境界水脈が重なっている。無理に封じれば、水だけではなく、境界も歪む」
「だから、あんたも来るのよ」
「私が?」
「当然でしょ。境界の話なんだから」
永琳が静かに言う。
「私も行くわ。水質を戻すには、現地で調整が必要」
にとりが工具箱を閉める。
「私も。管を止めるには河童がいる」
村紗が碇を肩に担ぐ。
「水の流れは私が見る」
早苗が御幣を握る。
「守矢の水門操作も必要です」
咲夜がナイフをしまう。
「紅魔館の地下封鎖と同時に動く必要があります」
鈴仙は少し不安そうに、それでも頷いた。
「私は負傷者と薬の対応を」
魔理沙が笑った。
「派手になってきたな」
霊夢は呆れたように言う。
「水一つで、よくここまで面倒にできるわね」
その時、地霊殿の奥から低い音が響いた。
ごう、と水が唸る音。
さとりの表情が変わる。
「動きました」
「何が」
「濁りの中心です。青筒組が、排水量を増やしています」
永琳が図面を見る。
「このままなら、地上の濁りが一気に強くなる。人里の井戸だけでは済まないわ」
紫が言った。
「霧の湖の水位もさらに下がる」
にとりが青ざめる。
「命蓮寺の水路は完全に干上がるかもしれない」
霊夢は立ち上がった。
「行くわよ」
捕らえられた青筒組の河童が笑った。
「間に合わない。水はもう止まってる」
霊夢はその河童を見下ろした。
「水は流れるものよ」
彼女は本物の博麗札を取り出した。
「止めた奴が偉いんじゃない。戻した奴が裁くの」
地底の奥から、濁った水音が響いていた。
それは水の音であり、金の音であり、疑いの音でもあった。
霊夢たちは、地霊殿のさらに奥へ向かった。
地上では、霧の湖がまた少し水位を下げている。
人里の井戸は濁り、命蓮寺の船は止まり、紅魔館の地下水路は震え、守矢の水車は沈黙し、永遠亭の薬用水は揺らいでいる。
水は止まっている。
だが、抗争は流れ始めた。