東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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第五章 地底の濁り

 

 地底へ向かう道は、いつも湿っている。

 

 土の匂い。

 古い石の匂い。

 温い水の匂い。

 それから、何かが長い時間をかけて腐ったような匂い。

 

 博麗霊夢は、旧地獄へ続く縦穴の前で足を止めた。

 

 穴の底から、風が上がってくる。

 その風は冷たくない。むしろ、ぬるい。

 地上の水がどこかで温められ、濁り、吐き戻されているようだった。

 

「嫌な風ね」

 

 霊夢が言うと、霧雨魔理沙が箒を肩に担いだまま笑った。

 

「地底に爽やかさを求めるなよ」

 

「求めてないわよ」

 

 今回、地底へ向かう顔ぶれは多かった。

 

 霊夢。

 魔理沙。

 河城にとり。

 東風谷早苗。

 十六夜咲夜。

 村紗水蜜。

 鈴仙・優曇華院・イナバ。

 

 命蓮寺の水運が止まり、永遠亭の薬用水にも異常が出た。

 青筒組の管は、霧の湖、紅魔館、守矢、命蓮寺を通り、地底へ水を逃がしているらしい。

 

 つまり、水の濁りの行き先は地底だった。

 

 霊夢は鈴仙を見る。

 

「永琳は?」

 

「師匠は水質の分析をまとめてから来るそうです。地底で合流すると」

 

「一番面倒な登場の仕方をしそうね」

 

「否定できません」

 

 鈴仙は困ったように耳を伏せた。

 

 にとりは穴の縁にしゃがみ込み、古い配管を見つめている。

 

「ここにも青筒の痕がある。新しい傷だ」

 

「青筒組が通った?」

 

 早苗が聞く。

 

「通ったというより、ここを排出口にした。地上から逃がした水が、下へ落ちるようになってる」

 

 村紗の顔が険しくなる。

 

「地上の水を地底へ捨ててるってことか」

 

「ただ捨ててるだけならまだいい」

 

 にとりは配管の内側に指を入れ、黒い粉をこすり取った。

 

「濁りをここで混ぜてる。地上から来た水に、地底の古い泥や錆を混ぜて、また別の水路へ流してる」

 

 咲夜が静かに言った。

 

「つまり、濁りの製造場」

 

「そういうこと」

 

 霊夢は穴の底を見下ろした。

 

「本当に趣味が悪いわね」

 

「水を濁らせるには、汚い場所がいる」

 

 魔理沙が言った。

 

「地底の連中が聞いたら怒るぞ」

 

 その声に答えるように、穴の奥から声がした。

 

「もう怒っていますよ」

 

 古明地さとりだった。

 

 いつの間に現れたのか、彼女は縦穴の内側の岩棚に立っていた。

 いつもの無表情に近い顔。

 しかし、その第三の目だけは、ひどく冷えていた。

 

 霊夢は腕を組んだ。

 

「出迎え?」

 

「監視です」

 

 さとりは静かに言った。

 

「地上の水が、勝手に地底へ流し込まれています。濁りも、疑いも、責任も」

 

「責任まで流れてきたの?」

 

「ええ。皆さん、困ると下へ捨てる癖がありますから」

 

 誰もすぐには返せなかった。

 

 地底は、幻想郷の底だ。

 見たくないもの。

 使い終わったもの。

 汚れたもの。

 地上で扱いに困ったものが、いつの間にか流れ着く場所。

 

 さとりは、それをよく知っている。

 

 村紗が言った。

 

「命蓮寺は捨てたつもりはない」

 

「あなたはそうでしょう」

 

 さとりは村紗を見る。

 

「けれど、水路は正直です。地上で止められたもの、隠されたもの、濁らされたものは、下へ向かう。今回も同じです」

 

 霊夢は肩をすくめた。

 

「説教は後。青筒組を探す」

 

「分かっています」

 

 さとりは背を向けた。

 

「地霊殿へ案内します。もう一部は捕まえていますから」

 

 魔理沙が目を丸くした。

 

「早いな」

 

「心は水より先に流れます」

 

 さとりは淡々と答えた。

 

 地底の道は暗かった。

 

 岩肌から水が染み出し、ところどころで黒い筋を作っている。

 足元には細い流れがあり、そこには霧の湖で見たものと同じ黒い粉が混じっていた。

 

 早苗はその水を見て、顔を曇らせる。

 

「これが人里の井戸にも……」

 

「薄くなって流れていたのでしょう」

 

 鈴仙が薬箱から小瓶を取り出し、水を採る。

 

「師匠の分析と合わせれば、流れた経路が分かるはずです」

 

 咲夜は周囲を警戒していた。

 

「紅魔館の地下水路と同じ匂いがします」

 

「つながっているのでしょうね」

 

 さとりが言った。

 

「地上の館も寺も神社も、それぞれ別の顔をしていますが、水の下ではよく似ています」

 

 魔理沙が笑う。

 

「嫌な言い方だな」

 

「嫌なものを見ているので」

 

 地霊殿に着くと、入口の前に火車がいた。

 

 火焔猫燐。

 お燐は黒い水で濡れた車輪を転がしていた。中には金属管や壊れた水門部品が積まれている。

 

「お、来た来た。地上組ご一行さんだね」

 

 霊夢は車輪の中を覗き込んだ。

 

「何これ」

 

「地底の排水路から拾ったガラクタ。青筒の連中が置いていったやつだよ」

 

 にとりが駆け寄り、部品を確認する。

 

「これは……地上の古い管じゃない。新しく作ったものだ」

 

「青筒組の?」

 

「印はある。でも、全部が本物とは限らない。偽装も混じってる」

 

 お燐は肩をすくめた。

 

「偽物だろうが本物だろうが、こっちは迷惑だよ。水に変なもの混ぜられると、死体より扱いが面倒なんだから」

 

 鈴仙がぎょっとする。

 

 霊夢は聞かなかったことにした。

 

 地霊殿の奥、広い部屋に案内されると、そこには数人の河童が縛られていた。

 

 青い作業着。

 水に濡れた道具袋。

 目元を布で覆っている者もいる。

 

 にとりの顔が強張る。

 

「青筒組……」

 

 縛られた河童の一人が顔を上げた。

 

「にとりか。地上の連中に尻尾振ってるのか」

 

「黙れ」

 

 にとりの声には怒りがあった。

 

 さとりが椅子に座る。

 

「彼らは旧排水路で作業していました。地上の水をこちらへ落とし、濁りを混ぜ、別の水路へ流す役目です」

 

 霊夢は河童たちを見た。

 

「命蓮寺で青島って河童に会ったわ」

 

 縛られた河童が少し笑った。

 

「細管の青島か。あいつは口が軽い」

 

「仲間?」

 

「仲間だった。今は知らん」

 

 さとりが静かに言った。

 

「嘘ですね。まだ連絡を取っています」

 

 河童の顔が歪む。

 

 さとりは続ける。

 

「青筒組は三つに分かれています。水を止める者。濁りを作る者。交渉する者。あなたたちは濁りを作る者」

 

 霊夢が眉をひそめる。

 

「交渉する者?」

 

「博麗神社へ向かう準備をしているようです」

 

 霊夢の目が冷たくなる。

 

「やっぱり来るのね」

 

 河童は開き直ったように笑った。

 

「当然だ。水を戻すには、管理者が必要になる。博麗が正式に認めれば、誰も文句は言えない」

 

「認めると思う?」

 

「認めるさ」

 

 河童は地面の水を顎で示した。

 

「霧の湖、人里の井戸、紅魔館、守矢、命蓮寺、永遠亭。全部が困っている。今すぐ水を戻せるのは青筒だけだ」

 

 にとりが怒鳴る。

 

「戻せるのは、止めたのがお前らだからだろ!」

 

「そうだ。だから価値がある」

 

 部屋の空気が一段冷えた。

 

 早苗が拳を握る。

 

「人里の水まで濁らせておいて」

 

「少しだけだ。死にはしない」

 

 その一言で、霊夢が一歩前に出た。

 

 河童は一瞬、口を閉じた。

 

 霊夢の表情は静かだった。

 だが、静かすぎた。

 

「水を止めるのは交渉。濁らせるのは宣伝。人が困るのは値段の一部。そういう考え?」

 

 河童は答えない。

 

「分かった」

 

 霊夢は御札を一枚取り出した。

 

「青筒組とは、まともに交渉しない」

 

 河童が笑う。

 

「強がっても、水は戻らない」

 

「戻すわよ」

 

 霊夢はにとりを見た。

 

「こいつらの管、読める?」

 

 にとりは少し驚いた顔をしたが、すぐ頷いた。

 

「読める。全部じゃないけど、構造は分かる」

 

「さとり、心は読める?」

 

「読めます」

 

「鈴仙、水質は追える?」

 

「はい。師匠の分析があれば、もっと正確に」

 

「村紗、水の流れは?」

 

「船乗りを舐めるな」

 

「早苗、守矢の水路は止められる?」

 

「神奈子様と諏訪子様に伝えれば、監視と封鎖は可能です」

 

「咲夜、紅魔館の地下は?」

 

「すでに封鎖準備を進めています」

 

 霊夢は河童へ視線を戻した。

 

「青筒組だけが水を戻せると思ってるのが間違いよ。あんたたちが全部の水を知ってるなら、幻想郷中の面倒な連中もそれぞれ一部は知ってる」

 

 魔理沙が笑った。

 

「全員怪しいってのは、全員使えるってことでもあるな」

 

「そういうこと」

 

 霊夢は御札を袖にしまった。

 

「博麗が裁定する。青筒組抜きで水を戻す」

 

 河童の表情が初めて崩れた。

 

「無理だ。水路は複雑だ。古い図面もない。地底の流れまで」

 

「図面ならあるわ」

 

 声がした。

 

 部屋の入口に、八意永琳が立っていた。

 

 隣には因幡てゐもいる。

 てゐは面倒そうな顔をしているが、手には古い巻物を抱えていた。

 

 鈴仙が驚く。

 

「師匠!」

 

「遅れてごめんなさい。水は嘘をつかないけれど、帳面は隠れるのが上手いのよ」

 

 永琳は部屋の中央に進み、古い巻物を広げた。

 

 そこには、水脈図が描かれていた。

 

 霧の湖。

 紅魔館の地下。

 命蓮寺の水路。

 竹林の井戸。

 人里の古井戸。

 地底の排水脈。

 そして、さらに深い場所へ伸びる細い線。

 

 にとりが目を見開く。

 

「何で永遠亭がこんな図面を持ってるんだ」

 

 永琳は涼しい顔で答えた。

 

「薬を作るには水が必要だから」

 

「それで済ませる気かよ」

 

「済ませる気よ」

 

 霊夢は図面を覗き込んだ。

 

「これは本物?」

 

「かなり古い。正確ではない部分もある。でも、水の流れを追うには十分」

 

 さとりが図面を見つめる。

 

「地底側の線も合っています。今は使われていない古い排水路が多いですが」

 

 永琳は小瓶を並べた。

 

「水質から見て、濁りの中心はここ」

 

 彼女が指したのは、地底のさらに奥。

 旧地獄の熱水脈と、霧の湖の地下水脈が交わる場所だった。

 

「青筒組はそこに濁りを混ぜている。地上の水を一度下へ落とし、黒い粉と魔力残渣を混ぜて、別の水路へ戻している」

 

 村紗が顔をしかめる。

 

「水の洗浄場じゃなくて、汚染場か」

 

「そう」

 

 永琳は頷いた。

 

「しかも、薄く混ぜている。すぐに毒にはならない。けれど、不安にさせるには十分な濁り」

 

 早苗が低く言った。

 

「人を困らせるための水」

 

「水そのものより、反応を作っているのね」

 

 咲夜が言った。

 

 霊夢は図面を見たまま黙っていた。

 

 濁りの中心。

 そこを押さえれば、水質は戻る。

 だが、同時に青筒組の本隊もそこにいる可能性が高い。

 

 魔理沙が覗き込む。

 

「行くしかないな」

 

「行くわよ」

 

 霊夢は即答した。

 

 その時、部屋の空気が裂けた。

 

 紫色の隙間が開き、八雲紫が現れる。

 

 扇で口元を隠し、いつものように笑っている。

 

「ずいぶん楽しそうね」

 

 霊夢は即座に睨んだ。

 

「出たわね」

 

「出たわよ」

 

「知ってたのね」

 

「何を?」

 

「水脈」

 

 紫は目を細めた。

 

 部屋の空気がまた重くなる。

 

 永琳は何も言わない。

 さとりは紫を見ている。

 にとりは工具を握り、早苗は御幣を構えかけている。

 

 紫はゆっくりと言った。

 

「霧の湖の下には、古い境界水脈がある。水の流れと、幻想郷の境界が重なる場所。知っていたわ」

 

「なぜ言わなかったの」

 

「言えば、みんな欲しがるから」

 

「言わなくても欲しがってるじゃない」

 

「そうね」

 

 紫はあっさり認めた。

 

 霊夢の目が鋭くなる。

 

「また見てたの?」

 

「見極めていたの」

 

「その言い方、前にも聞いたわ」

 

「便利な言葉なのよ」

 

 霊夢は一歩前に出た。

 

「見極めるために、人里の井戸を濁らせたの?」

 

 紫は答えなかった。

 

 その沈黙に、霊夢は苛立った。

 

「紫」

 

「私は濁らせていない」

 

「止めなかった」

 

「止める前に、どこまで伸びているか知る必要があった」

 

「だから、放っておいた」

 

 紫は扇を閉じた。

 

「境界水脈は不用意に触れば幻想郷全体に影響する。誰が、どの水路を、どこまで把握しているのか。それを知らずに叩けば、もっと壊れる」

 

「それで今は壊れてないって言うの?」

 

 霊夢の声は低い。

 

 紫は少しだけ視線を逸らした。

 

「壊れかけている」

 

「なら十分よ」

 

 霊夢は言った。

 

「今度は先に動く。後始末じゃなくて、止めるために」

 

 紫は霊夢を見た。

 

「あなた、変わったわね」

 

「うるさい」

 

「前なら、ここまで記録も説明も気にしなかった」

 

「気にしないと、後で慧音がうるさいのよ」

 

 魔理沙が横で笑った。

 

「いい言い訳だな」

 

 霊夢は咳払いをした。

 

「紫。境界水脈の図面を出しなさい」

 

 紫は微笑む。

 

「出すと思う?」

 

「出さないなら、あんたも青筒組と同じ扱いにする」

 

「怖いわね」

 

「怖がりなさい」

 

 紫はしばらく霊夢を見ていた。

 

 やがて、扇を開き、小さな巻物を隙間から取り出した。

 

「完全なものではないわ。古すぎて、今とは違う箇所もある」

 

「言い訳は後」

 

 霊夢は巻物を永琳の図面の横に広げた。

 

 二つの図面が重なる。

 

 永遠亭の水脈図。

 八雲の境界水脈図。

 

 そこに、にとりが青筒組の管の印を加える。

 さとりが捕らえた河童の心から読んだ地点を示す。

 村紗が水運路の実際の流れを書き足す。

 咲夜が紅魔館地下の封鎖位置を記す。

 早苗が守矢の水門位置を加える。

 

 初めて、幻想郷の水の全体像が見え始めた。

 

 魔理沙が感心したように言った。

 

「こうして見ると、すごいな。みんな勝手に水を使ってたんだな」

 

「その通りです」

 

 さとりが言った。

 

「心と同じです。自分の流れだけは正しいと思っている」

 

 霊夢は図面を見下ろした。

 

 水は誰のものでもない。

 しかし、誰もが自分の都合で使っていた。

 青筒組は、その隙間を狙った。

 

 そして、博麗の名を使った。

 

 それが一番気に入らなかった。

 

 霊夢は図面の一点を指した。

 

 濁りの中心。

 

「ここへ行く」

 

 紫が目を細める。

 

「危険よ。地底の熱水脈と境界水脈が重なっている。無理に封じれば、水だけではなく、境界も歪む」

 

「だから、あんたも来るのよ」

 

「私が?」

 

「当然でしょ。境界の話なんだから」

 

 永琳が静かに言う。

 

「私も行くわ。水質を戻すには、現地で調整が必要」

 

 にとりが工具箱を閉める。

 

「私も。管を止めるには河童がいる」

 

 村紗が碇を肩に担ぐ。

 

「水の流れは私が見る」

 

 早苗が御幣を握る。

 

「守矢の水門操作も必要です」

 

 咲夜がナイフをしまう。

 

「紅魔館の地下封鎖と同時に動く必要があります」

 

 鈴仙は少し不安そうに、それでも頷いた。

 

「私は負傷者と薬の対応を」

 

 魔理沙が笑った。

 

「派手になってきたな」

 

 霊夢は呆れたように言う。

 

「水一つで、よくここまで面倒にできるわね」

 

 その時、地霊殿の奥から低い音が響いた。

 

 ごう、と水が唸る音。

 

 さとりの表情が変わる。

 

「動きました」

 

「何が」

 

「濁りの中心です。青筒組が、排水量を増やしています」

 

 永琳が図面を見る。

 

「このままなら、地上の濁りが一気に強くなる。人里の井戸だけでは済まないわ」

 

 紫が言った。

 

「霧の湖の水位もさらに下がる」

 

 にとりが青ざめる。

 

「命蓮寺の水路は完全に干上がるかもしれない」

 

 霊夢は立ち上がった。

 

「行くわよ」

 

 捕らえられた青筒組の河童が笑った。

 

「間に合わない。水はもう止まってる」

 

 霊夢はその河童を見下ろした。

 

「水は流れるものよ」

 

 彼女は本物の博麗札を取り出した。

 

「止めた奴が偉いんじゃない。戻した奴が裁くの」

 

 地底の奥から、濁った水音が響いていた。

 

 それは水の音であり、金の音であり、疑いの音でもあった。

 

 霊夢たちは、地霊殿のさらに奥へ向かった。

 

 地上では、霧の湖がまた少し水位を下げている。

 人里の井戸は濁り、命蓮寺の船は止まり、紅魔館の地下水路は震え、守矢の水車は沈黙し、永遠亭の薬用水は揺らいでいる。

 

 水は止まっている。

 

 だが、抗争は流れ始めた。

 

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