東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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終章 流れるもの、残るもの

 

 

 博麗神社の境内に、これほど多くの勢力が集まることは滅多にない。

 

 紅魔館。

 守矢神社。

 命蓮寺。

 永遠亭。

 河童。

 人里。

 八雲。

 地霊殿。

 

 それぞれが、別々の顔をしていた。

 

 怒っている者。

 黙っている者。

 計算している者。

 疲れている者。

 知らないふりをしたい者。

 それでも来ざるを得なかった者。

 

 夜の博麗神社は、静かだった。

 

 だが、その静けさは平和の静けさではない。

 全員が水面の下で足を動かし、次に誰が何を言うかを待っている。

 

 賽銭箱の前に、博麗霊夢が立っていた。

 

 濡れた袖はまだ乾いていない。

 髪も少し乱れている。

 地底から戻ってきたばかりの顔だった。

 

 それでも、霊夢は誰よりも真ん中にいた。

 

 博麗神社の境内。

 ここでは、霊夢が裁く。

 

 上白沢慧音は縁側の端に座り、帳面を開いていた。

 隣には藤原妹紅が立っている。妹紅は腕を組み、青筒組の河童たちを睨んでいた。

 

 青筒組の頭領、筒守玄水は、境内の中央に座らされている。

 両脇には地霊殿の燐と、河童側のにとり。

 逃げる様子はない。

 

 いや、逃げられないのだろう。

 

 さとりが少し離れた場所に立っている。

 その第三の目は、静かに玄水を見ていた。

 

 霊夢は境内を見回した。

 

「始めるわ」

 

 その一言で、ざわめきが止まった。

 

 最初に口を開いたのは、レミリア・スカーレットだった。

 

「その前に一つ。紅魔館の名を騙ったことについて、説明を求めるわ」

 

 咲夜はレミリアの後ろに控え、静かに玄水を見ている。

 

 神奈子も腕を組んだ。

 

「守矢の神紋も使われた。水車を止めた件もある」

 

 白蓮が続ける。

 

「命蓮寺の荷札と経文も偽造されました。水運が止まり、人里への荷も遅れています」

 

 永琳は小瓶を並べた。

 

「永遠亭の薬用水にも濁りが入りました。薬そのものに被害が出る前に止まったのは幸いでしたが、見過ごせるものではありません」

 

 慧音が筆を走らせる音だけが響く。

 

 霊夢は玄水を見た。

 

「言い分は?」

 

 玄水は少し笑った。

 

「水の価値を教えただけだ」

 

 妹紅が一歩前に出かける。

 

 慧音が手で制した。

 

 霊夢は表情を変えずに聞いた。

 

「それで?」

 

「幻想郷の水は、誰も責任を持っていなかった。紅魔館は囲い、守矢は計画し、命蓮寺は運び、永遠亭は使い、人里は求め、八雲は隠し、博麗は裁くだけだった」

 

 玄水は境内に集まった者たちを見回した。

 

「我々は止めた。濁らせた。そうして初めて、全員が水を見た」

 

 早苗が唇を噛んだ。

 

 村紗は碇を握りしめる。

 にとりは玄水を睨んでいた。

 

 玄水の言葉は汚い。

 だが、全部が嘘ではない。

 

 それが一番腹立たしかった。

 

 霊夢は言った。

 

「あんたの言ってることは、一部だけ正しい」

 

 境内が少し揺れた。

 

 玄水は霊夢を見る。

 

「なら」

 

「でも、やったことは全部間違ってる」

 

 霊夢の声は冷たかった。

 

「水を止めた。濁らせた。偽札を貼った。人里を不安にさせた。紅魔館、守矢、命蓮寺、博麗の名を使った。水を戻す代わりに、管理権を寄こせと言った」

 

 霊夢は一歩前に出る。

 

「それは管理じゃない。脅しよ」

 

 玄水は黙った。

 

 霊夢は続けた。

 

「水を止めた奴に、水は任せない」

 

 その言葉は、境内に静かに落ちた。

 

 慧音の筆が、その一文を書き留める。

 

 霊夢は手元の札を賽銭箱の上に置いた。

 

「博麗水裁定を下す」

 

 誰も口を挟まなかった。

 

「青筒組に、水利管理権は認めない。水を止めて交渉材料にした時点で失格。組としての水路工事請負は停止。青筒組の図面、管、道具、帳面は、河童側、博麗、人里の立ち会いで確認する」

 

 にとりが短く頷いた。

 

「河童側は私が見る。逃げ道は塞ぐ」

 

 玄水は何も言わない。

 

 霊夢は神奈子を見た。

 

「守矢の水利計画は凍結」

 

 早苗の肩が少し震えた。

 神奈子は黙って霊夢を見ている。

 

「ただし、治水と災害対策まで否定するわけじゃない。次に出す時は、博麗、人里、河童、命蓮寺、永遠亭、必要なら紅魔館も含めて、全部説明してからにしなさい。勝手に工事したら止める」

 

 神奈子は静かに言った。

 

「守矢は、その裁定を受ける」

 

 諏訪子が横で笑う。

 

「ずいぶん丸くなったねえ」

 

 神奈子は返事をしなかった。

 

 霊夢は次にレミリアを見た。

 

「紅魔館」

 

 レミリアは堂々と胸を張る。

 

「何かしら」

 

「地下貯水槽、申告制」

 

 レミリアの顔が少しだけ不満そうになる。

 

「私の館の中よ」

 

「湖の水を引いてるなら、館の中だけの話じゃない」

 

 咲夜が小さく頭を下げた。

 

「紅魔館は、貯水量と水路の位置を博麗に提出します」

 

「咲夜」

 

「お嬢様、ここは受けるべきです」

 

 レミリアは不満そうにしながらも、最後には笑った。

 

「いいわ。景色を守るためなら、少しぐらい帳面に載ってあげる」

 

 霊夢は呆れたように言った。

 

「偉そうに載らないで」

 

 次に白蓮と村紗へ向く。

 

「命蓮寺の水運は維持。ただし、荷の記録は一部開示。水路を使って何を運んでいるか、博麗と人里が確認できるようにする」

 

 村紗は不服そうだった。

 

「船乗りの荷を全部見せろってのか」

 

「全部じゃない。水路が止まった時、人里に影響する分」

 

 白蓮は頷いた。

 

「命蓮寺は受けます。救済が物流に支えられている以上、その流れも見られるべきです」

 

 村紗は白蓮を見て、ため息をついた。

 

「分かったよ。船の帳面も、たまには日向に出すさ」

 

 霊夢は永琳を見る。

 

「永遠亭」

 

 永琳は涼しい顔をしている。

 

「はい」

 

「薬用水は保護対象。ただし、水質検査の結果を一部公開。人里に関わる分は慧音にも渡す」

 

「ずいぶん踏み込むのね」

 

「薬と水を握ってる側が、黙ってる方が怖いのよ」

 

 永琳は少しだけ笑った。

 

「いいでしょう。必要な範囲で開示します」

 

 鈴仙がほっと息をつく。

 

 霊夢は慧音を見る。

 

「人里の井戸は、人里が管理する。博麗は調停権を持つけど、日常管理は慧音たちに任せる」

 

 慧音は筆を止め、霊夢を見た。

 

「本当にいいのか」

 

「井戸まで博麗が見てたら、私は過労で倒れるわ」

 

「そういう理由か」

 

「それも理由」

 

 妹紅が少し笑った。

 

「まあ、井戸の前に立つくらいなら私がやる」

 

「燃やさないでよ」

 

「水を燃やすほど器用じゃない」

 

 霊夢は最後に、八雲紫を見た。

 

 紫は縁側の端で、いつものように扇を持っていた。

 何もしていない顔をしている。

 だが、何もしていない者の顔ではない。

 

「八雲」

 

「はいはい」

 

「境界水脈について、人里と博麗に説明。隠していた図面も提出。全部とは言わない。でも、水と井戸に関わる範囲は出しなさい」

 

 紫は目を細めた。

 

「それを出せば、欲しがる者が増えるわ」

 

「隠しても欲しがる者は出たでしょ」

 

「手厳しい」

 

「今回は、甘くする理由がない」

 

 紫はしばらく霊夢を見ていた。

 

 やがて、扇を閉じる。

 

「分かったわ。必要な範囲で出しましょう」

 

 慧音が即座に筆を走らせる。

 

 紫はそれを見て苦笑した。

 

「本当に怖い教師ね」

 

「あなたが怖がるなら、いい教師だ」

 

 妹紅が言った。

 

 境内に、わずかな笑いが起きた。

 

 だが、裁定はまだ終わっていない。

 

 霊夢は玄水へ向き直った。

 

「青筒組は解体。水路技術を持つ者は、にとりの監督下で再登録。勝手に水を止めた者、濁りを混ぜた者、偽札を作った者は、地霊殿と博麗が順番に調べる」

 

 玄水が低く言った。

 

「青筒なしで、水路は詰まる」

 

「詰まったら呼ぶわ」

 

「我々を?」

 

「水を止めて脅さない河童を」

 

 にとりが小さく息を吐いた。

 

「きついな」

 

「そういう役をやるのよ。河童代表」

 

「勝手に代表にしないでよ」

 

「他にいる?」

 

 にとりは黙った。

 

 玄水は笑った。

 

「若い河童一人に任せるのか」

 

 霊夢は玄水を見下ろした。

 

「一人じゃない。博麗も、人里も、守矢も、命蓮寺も、永遠亭も、紅魔館も、八雲も、全部が見張る」

 

「それは管理ではない。寄せ集めだ」

 

「そうよ」

 

 霊夢は言った。

 

「幻想郷は、だいたい寄せ集めでできてるのよ」

 

 その言葉に、玄水は初めて黙った。

 

 慧音の筆が止まる。

 そして、また動き出す。

 

 博麗水裁定。

 水利管理権、青筒組に認めず。

 水を止めた者、水を濁らせた者、水に名を偽った者、いずれも調査対象。

 人里の井戸は人里のもの。

 ただし、水は誰のものでもない。

 

 裁定が終わる頃、夜は深くなっていた。

 

 だが、不思議と境内の空気は少し軽くなっていた。

 

 問題が消えたわけではない。

 誰も完全には納得していない。

 むしろ、これから面倒な帳面と説明と監視が始まる。

 

 それでも、水を止めた者が勝つ夜にはならなかった。

 

 それだけで十分だった。

 

 翌朝、人里の井戸には人が集まっていた。

 

 慧音が立ち会い、妹紅が井戸の横に立つ。

 鈴仙が水を採り、永琳が簡単な検査をする。

 にとりは井戸の縁に小さな測定器を取り付けていた。

 

「勝手に外すなよ。あと叩くなよ。水を測るやつだから」

 

 妹紅がそれを見下ろす。

 

「壊れたら?」

 

「壊したら弁償」

 

「勝手に付けておいて?」

 

「博麗公認だよ」

 

 妹紅は面倒くさそうに霊夢を見た。

 

 霊夢はそっぽを向いた。

 

「私は知らない」

 

「今、公認って言ったぞ」

 

「聞こえなかった」

 

 慧音は井戸から汲んだ水を見た。

 

 まだ完全に澄んではいない。

 けれど、昨日よりずっとましだった。黒い粉は沈んでおらず、油膜のような光も消えかけている。

 

 子供たちが遠巻きに見ている。

 

 一人が聞いた。

 

「先生、水、飲める?」

 

 慧音は永琳を見る。

 

 永琳は小さく頷いた。

 

「念のため、今日は煮沸してから。明日にはもっと良くなるでしょう」

 

 慧音は子供に言った。

 

「今日は沸かしてからだ。すぐに元通りではない」

 

「いつ戻るの?」

 

「少しずつだ」

 

 子供は少し不満そうだったが、頷いた。

 

 妹紅が小さく呟く。

 

「水も信用も、戻るのは遅いな」

 

 慧音はその言葉を聞き逃さなかった。

 

「記録しておく」

 

「やめろ」

 

「良い言葉だ」

 

「やめろって」

 

 その頃、霧の湖でも水位が少し戻っていた。

 

 チルノが湖の上で大騒ぎしている。

 

「見て! 水が戻った! あたいの湖が戻った!」

 

 大妖精が困ったように笑う。

 

「チルノちゃんの湖じゃないよ」

 

「じゃあ誰の?」

 

 大妖精は少し考えて、答えられなかった。

 

 そこへ咲夜が紅魔館側の水路を確認しに来る。

 少し離れた場所では、にとりの工房の河童たちが、青筒組の管を外していた。

 

 咲夜は湖を見て、小さく言った。

 

「お嬢様の景色も、少しは戻りましたね」

 

 その言葉を、誰も聞いていなかった。

 

 命蓮寺では、船がようやく浅瀬を離れた。

 

 村紗は船底を確認し、荷役たちに指示を出す。

 

「薬と食料を先に積め! 木材は後! 帳面は白蓮に見せてからだ!」

 

 荷役の一人が嫌そうな顔をする。

 

「全部見せるんですか?」

 

「全部じゃない。けど、隠して疑われるよりましだ」

 

 白蓮は本堂の前で、それを静かに見ていた。

 

 救済は綺麗な言葉だけでは動かない。

 船が要る。

 荷が要る。

 帳面が要る。

 

 それでも、流れが戻れば人は動ける。

 

 守矢神社では、水車がまだ止まっていた。

 

 神奈子はそれを見上げている。

 早苗は横で、凍結された水利計画の書類を抱えていた。

 

「神奈子様、本当に最初から説明会を?」

 

「やるしかないだろう」

 

「反対されると思います」

 

「されるだろうな」

 

「それでも?」

 

 神奈子は水車を見た。

 

「水は必要だ。だが、必要だから黙って進めていいわけではない。前にも学んだことだ」

 

 諏訪子が笑う。

 

「神様も大変だねえ」

 

 神奈子は苦笑した。

 

「大変だから、神なのだろう」

 

 紅魔館では、レミリアが地下貯水槽の報告書を見ていた。

 

 咲夜が隣で説明している。

 

「こちらが申告用の水路図です」

 

「細かすぎるわ」

 

「細かくなければ、また博麗に怒られます」

 

「怒らせておけばいいじゃない」

 

「後始末をするのは私です」

 

 レミリアはつまらなそうに頬杖をつく。

 

「湖の水を引くのに、博麗へ申告する日が来るとはね」

 

「時代が変わったのでしょう」

 

「幻想郷に時代なんてあるの?」

 

「水位くらいは変わります」

 

 レミリアは少し笑った。

 

「うまいことを言うようになったわね、咲夜」

 

 永遠亭では、永琳が水質検査の結果を書類にまとめていた。

 

 鈴仙はその横で、人里へ出す簡易版の説明を書いている。

 

「師匠、どこまで公開しますか」

 

「人里が知っておくべき範囲まで。薬の製法に関わる部分は伏せる」

 

「霊夢さんに怒られませんか」

 

「怒られるでしょうね」

 

「いいんですか」

 

「怒られながら調整するのが、今回の裁定でしょう」

 

 鈴仙は少し困った顔をしながらも、筆を動かした。

 

 地霊殿では、青筒組の一部が拘束されたままだった。

 

 さとりは彼らの心を読み、逃げ道と隠し帳面の場所を確認している。

 お燐は退屈そうに車輪を転がし、空はまだ「燃やしたら早いのに」と言って、さとりに止められていた。

 

 地底の水も、すぐには澄まない。

 

 けれど濁りの中心は止まった。

 

 残るのは、後始末だった。

 

 そして博麗神社では、小さな祭りの準備が始まっていた。

 

 霊夢は賽銭箱の前で、境内に並ぶ桶を見ていた。

 

 水桶。

 柄杓。

 簡単な屋台。

 河童が修理した神社の井戸。

 

 魔理沙が団子を食べながら言う。

 

「水に感謝する祭りか」

 

「そういう名目にした方が、みんな賽銭入れるでしょ」

 

「相変わらずだな」

 

「神社は金がいるのよ」

 

「水裁定料でも取ればよかったのに」

 

「取ったわよ」

 

 魔理沙が眉を上げる。

 

「どこに?」

 

 霊夢は神社の井戸を指差した。

 

「井戸の修理、河童持ち」

 

 にとりが遠くから叫んだ。

 

「聞こえてるぞ!」

 

 霊夢は聞こえないふりをした。

 

 魔理沙は笑った。

 

「ちゃっかりしてるぜ」

 

「当然よ。博麗をただで使おうなんて甘いのよ」

 

 その時、慧音が帳面を持って境内へ上がってきた。

 

 妹紅も一緒だ。

 

「霊夢」

 

「何」

 

「博麗水裁定の写しだ」

 

 慧音は一枚の紙を差し出した。

 

 霊夢はそれを受け取る。

 

 そこには、今回の一件が簡潔に記されていた。

 

 霧の湖水位低下。

 人里井戸濁り。

 紅魔館貯水槽異常。

 守矢水車停止。

 命蓮寺水運停止。

 永遠亭薬用水異常。

 青筒組による水路操作、偽札、濁り混入。

 博麗水裁定により、水利管理権の独占を否認。

 人里井戸は人里管理。

 水は誰のものでもない。

 ただし、使う者には責任がある。

 

 霊夢は最後の一文を見て、少し黙った。

 

「余計なこと書くわね」

 

「必要なことだ」

 

「水は誰のものでもない、だけでよかったのに」

 

「それだけだと、また誰かが勝手に使う」

 

 霊夢は紙を畳んだ。

 

「本当に怖い教師ね」

 

「前にも聞いた」

 

「何度でも言うわよ」

 

 妹紅は井戸の方を見た。

 

「で、祭りは本当にやるのか」

 

「やるわよ」

 

「また揉めるぞ」

 

「揉めるに決まってるでしょ」

 

 魔理沙が笑う。

 

「分かっててやるのか」

 

「祭りをやめたら、あいつら裏で集まるだけだもの。だったら表で屋台でも出させた方がまし」

 

 霊夢は境内を見回した。

 

 紅魔館の使いが水菓子を運んでいる。

 守矢の早苗が水みくじを用意している。

 命蓮寺の一輪が荷を下ろしている。

 永遠亭の鈴仙が煮沸した飲み水を確認している。

 にとりは井戸の修理代を数えながら不満を言っている。

 紫はいつの間にか縁側で茶を飲んでいる。

 

 全員、少しずつ図々しい。

 

 全員、少しずつ後ろ暗い。

 

 それでも、水は流れている。

 

 霊夢は賽銭箱の横に札を貼った。

 

 そこには、こう書かれていた。

 

 **水を粗末にする者、博麗が裁定する。**

 **揉め事禁止。**

 **ただし、賽銭は歓迎。**

 

 魔理沙がそれを読んで笑った。

 

「最後の一行が本音だな」

 

「全部本音よ」

 

 夕方になると、境内には人が集まり始めた。

 

 人里の子供たちが水みくじを引き、チルノが氷を作っては大妖精に怒られ、河童が水車の模型を売り、守矢が治水のお守りを出し、紅魔館は涼しげな菓子を並べ、命蓮寺は水運再開の知らせを配っている。

 

 見た目だけなら、ただの平和な祭りだった。

 

 だが、慧音の帳面には違うものが残る。

 

 誰が水を止めたか。

 誰が水を囲ったか。

 誰が水を運んだか。

 誰が水を隠したか。

 誰が水を戻したか。

 

 そして、博麗が何を裁いたか。

 

 夜になり、祭りの灯りが湖の方角へ滲んだ。

 

 霊夢は一人、神社の石段の上に立った。

 

 遠くに霧の湖が見える。

 水位はまだ完全には戻っていない。

 けれど、月明かりを受けて、湖面は静かに揺れていた。

 

 魔理沙が隣に来る。

 

「終わったな」

 

「終わってないわよ」

 

「そうか?」

 

「水路の確認、青筒組の残党、守矢の説明会、紅魔館の申告、命蓮寺の帳面、永遠亭の検査、人里の井戸。まだ山ほどある」

 

「じゃあ、一区切りだな」

 

「それならまあ」

 

 魔理沙は湖を見た。

 

「水って、面倒だな」

 

「今さら?」

 

「でも、流れてると綺麗だ」

 

 霊夢は少し黙った。

 

 流れていれば、誰のものでもない。

 止めた瞬間、値段がつく。

 濁らせれば、不安になる。

 囲えば、利権になる。

 運べば、力になる。

 使えば、暮らしになる。

 

 水はただの水ではなかった。

 

 幻想郷のあらゆるものを、静かに繋いでいた。

 

 霊夢は呟いた。

 

「流れてるうちは、誰のものでもないのよ」

 

 魔理沙は笑った。

 

「じゃあ、止める奴が出たら?」

 

 霊夢は賽銭箱の方を見た。

 

 そこには、今日の祭りで入った小銭が少しだけ光っている。

 

「博麗が裁く」

 

 遠くで、寺子屋の子供たちの笑い声が聞こえた。

 

 その声に混じって、井戸の水を汲む音がする。

 命蓮寺の船が進む音がする。

 守矢の水車が試運転で小さく回る音がする。

 紅魔館の庭園に水が戻る音がする。

 永遠亭で薬瓶が満たされる音がする。

 

 全部、違う場所の音だった。

 

 けれど、どこかで繋がっていた。

 

 慧音の帳面の最後には、こう記された。

 

 **霧湖水利抗争。**

 **水を止めた者、水を売ろうとした者、水を隠した者、水を守った者、すべて記録する。**

 **博麗神社、水利調停権を保持。**

 **ただし、人里の井戸は人里のものとする。**

 **水は誰のものでもない。ゆえに、誰もが責任を負う。**

 

 その夜、霧の湖には静かな霧が戻った。

 

 白く、薄く、いつものように。

 

 水は流れていた。

 まだ濁りを少し残しながら。

 それでも、止まらずに。

 

 博麗神社の灯りは、夜更けまで消えなかった。

 

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