死んだ者に、借金があった。
そう聞かされた時、人里の古道具屋は、最初笑った。
「冗談でしょう。あの人は三年前に亡くなってますよ」
店先に立っていた男は、笑わなかった。
薄い灰色の羽織。
目深にかぶった笠。
手には古びた証文。
人里では見ない顔だった。
だが、妖怪とも言い切れない。
生きているのか、死んでいるのか、その境目が妙に曖昧だった。
男は、証文を店の台に置いた。
「なら、なおさら精算していただきたい」
「精算?」
「死者の名義で残った借りは、遺された財で返す。それが筋でしょう」
古道具屋の主人は、証文を手に取った。
紙は古い。
だが、古すぎるわけではない。
墨はまだ黒く、印もはっきり残っている。
借主の名は、たしかに三年前に死んだ男だった。
保証人の名も、すでに亡くなった商人。
担保には、人里の東にある古い倉庫の名が書かれている。
主人の顔から、少しずつ笑みが消えた。
「こんなもの、無効だ。死んだ人間が新しく借金なんてできるわけがない」
「新しく、とは書いておりません」
男は静かに言った。
「生前に交わされたものが、今になって見つかっただけです」
「嘘だ」
「嘘かどうかは、印を見れば分かる」
男が証文の末尾を指差した。
そこには、薄墨色の印が押されていた。
丸い印。
桜の紋。
そして、冥界を示す古い文字。
古道具屋の主人は、息を止めた。
「白玉楼……」
その名が出た瞬間、店の中の空気が冷えた。
白玉楼。
冥界にある西行寺家の屋敷。
幽霊たちが集い、死者の名と記憶が静かに眠る場所。
人里の者にとって、そこは遠い。
しかし、決して無関係ではない。
死んだ者の行き先。
供養。
名義。
遺品。
誰にも引き取られなかった物。
それらは、いつかどこかで白玉楼の名に触れる。
男は証文を畳んだ。
「三日待ちます」
「待て。誰に払えと言うんだ」
「倉庫の現在の使用者に」
「そんな理屈があるか」
「理屈はあります。死者の名が残っている限り」
男はそれだけ言うと、背を向けた。
店の主人は慌てて外へ出た。
「おい、待て!」
しかし男はもう、路地の角へ消えていた。
追いかけようとした時、店の前に一人の少女が立っていた。
上白沢慧音だった。
寺子屋の帰りらしく、手には帳面と筆箱を抱えている。
「今の男は?」
主人は青ざめた顔で答えた。
「分かりません。ただ、変な証文を持ってきました」
「証文?」
慧音は店の中に入り、主人が震える手で差し出した写しを受け取った。
紙面を見た瞬間、慧音の表情が変わった。
借主の名。
保証人の名。
担保の倉庫。
日付。
印。
どれも、もっともらしく整っている。
だが、整いすぎていた。
「この借主は、三年前に死んでいる」
「はい」
「保証人も、二年前に死んでいる」
「そうです」
「担保の倉庫は、今は人里の共同保管庫だ。個人の担保にはできない」
「では、偽物ですか」
「偽物だ」
慧音は即答した。
だが、すぐに言葉を続けた。
「ただし、厄介な偽物だ」
主人は喉を鳴らした。
「白玉楼の印が……」
「それも気になる」
慧音は印をじっと見た。
現在、人里で見かける白玉楼の印とは違う。
だが、単なる落書きではない。
古い資料で見たことがある。
西行寺家の古印。
今は使われていないはずの、古い桜の印。
「なぜ、こんなものが」
慧音は低く呟いた。
その時、外で誰かが叫んだ。
「また出たぞ!」
店の外に人が集まり始めていた。
別の商家にも、同じような証文が持ち込まれたらしい。
死んだ父親の借金。
亡くなった祖母が保証人になっている証文。
供養したはずの者の名で残る未払い。
担保にされた畑。
死者名義の倉庫。
白玉楼の印。
噂は、水に墨を垂らしたように広がった。
白玉楼が死者の借金を取り立てている。
死んでも借りは消えないらしい。
供養した名前まで、証文に使われている。
人里の空気がざわつく。
死者の名は、普段は静かなものだ。
墓に刻まれる。
寺で読まれる。
家の中で語られる。
寺子屋の記録に残る。
だが、そこに金の匂いが混じった瞬間、死者の名は急に重くなる。
慧音は証文の写しを握りしめた。
「妹紅を呼んでくれ」
近くにいた若者が頷き、走り出した。
ほどなくして、藤原妹紅が現れた。
いつものように気だるげな顔をしている。
だが、慧音の顔を見ると、すぐに空気を読んだ。
「何が出た」
「死者の借金だ」
「冗談か?」
「冗談ならよかった」
慧音は証文を渡した。
妹紅は一目見て、顔をしかめる。
「死んだ奴の名前で金を取るのか。趣味が悪いな」
「証文を持ち込んだ男がいる。無縁塚方面へ逃げたらしい」
「追えばいいんだな」
「捕まえられるなら」
妹紅はすでに歩き出していた。
「死人の名前で飯を食う奴の顔を見てくる」
「無茶はするな」
「努力する」
「その返事は信用できない」
妹紅は振り返らず、片手を上げただけだった。
人里の騒ぎは、さらに広がっていく。
慧音はその場で聞き取りを始めた。
どの家に証文が来たのか。
誰の名が使われているのか。
日付はいつか。
担保は何か。
印は同じか。
持ち込んだ者の特徴は。
一つずつ、帳面に書き留める。
生きている者の不安。
死んだ者の名前。
偽りの証文。
それらが混ざると、歴史は簡単に汚れる。
慧音は筆を止めずに呟いた。
「死者の記録を消す者は、生者の歴史も奪う」
同じ頃、冥界の白玉楼では、桜が静かに散っていた。
季節に関係なく、白玉楼の桜はどこか夢のように咲き、夢のように散る。
広い庭を、魂魄妖夢が歩いていた。
腰には楼観剣と白楼剣。
表情はいつも通り真面目だったが、今日は少し落ち着かない。
庭の幽霊たちが、妙な噂をしていたからだ。
死んだ後に名前を貸せと言われた。
知らない証文に印が押されていた。
自分の名で、生きている者が揉めている。
冥界へ来たのに、まだ借りが残っていると言われた。
妖夢は幽霊たちの話を聞き、眉をひそめた。
「誰に言われたのですか」
幽霊はふわふわと揺れた。
「笠をかぶった男」
「無縁塚の方から来た」
「白玉楼の者だと言っていた」
「名前を預かるだけだと」
妖夢の顔が険しくなる。
「白玉楼の者が、そのようなことをするはずがありません」
そう言いながらも、妖夢は不安を覚えた。
白玉楼には、死者の名に関わる古い帳面がある。
遺された名。
供養された名。
冥界に留まる名。
生者の記録からこぼれ落ちた名。
それらを扱うのは、決して表向きの仕事だけではない。
古い証文。
遺品。
死者名義の道具。
どこにも行けなかった幽霊の引き取り。
妖夢も、それらの一部を見てきた。
だが、それは死者を静かに眠らせるためのものだと思っていた。
死者の名前で、生者から金を取るためではない。
妖夢は白玉楼の奥座敷へ向かった。
西行寺幽々子は、縁側で茶を飲んでいた。
桜の花びらが一枚、湯呑みの縁に落ちる。
幽々子はそれを見て、楽しそうに微笑んでいる。
「幽々子様」
「あら、妖夢。そんな顔をして。庭の剪定で桜に負けたの?」
「違います」
「では、お腹が空いた?」
「それも違います」
「私は空いたわ」
「幽々子様」
妖夢の声がいつもより強くなった。
幽々子は湯呑みを置いた。
その動作はゆっくりだった。
だが、空気が少し変わった。
「何があったの」
「幽霊たちが妙な噂をしています。死んだ後も名前を貸せと言われた、と」
幽々子は笑わなかった。
妖夢は続ける。
「人里でも、死者名義の証文が出回っている可能性があります。白玉楼の名を使っている者がいるようです」
幽々子は庭の桜を見た。
風もないのに、花びらが一枚、また落ちた。
「死者の名を食べる者がいるのね」
その声は柔らかかった。
しかし妖夢は、そこに冷たさを感じた。
幽々子が本当に怒る時、声は荒くならない。
むしろ、静かになる。
「妖夢」
「はい」
「人里へ行きなさい。証文を見てくるの」
「承知しました」
「それと」
幽々子は妖夢を見た。
「白玉楼の名を使った者がいるなら、連れてきなさい」
妖夢は深く頭を下げた。
「必ず」
その時、庭の端から、ひときわ古い幽霊が漂ってきた。
顔も名も薄れかけた、無縁の魂。
言葉を持つことさえ難しそうな霊だった。
その幽霊が、かすかに震えながら言った。
「名前を……返して……」
妖夢は息を呑んだ。
幽々子は立ち上がった。
桜の下に、薄い影が落ちる。
「誰に取られたの?」
幽霊は答えられない。
ただ、同じ言葉を繰り返す。
「名前を……返して……」
幽々子はそっと目を細めた。
「妖夢」
「はい」
「急ぎなさい」
妖夢は白玉楼を出た。
冥界の道を抜け、人里へ向かう。
その足取りは速い。
けれど心は重かった。
死者の名を奪う者。
白玉楼の印を使う者。
無縁塚へ逃げた取立屋。
その全てが、一つの線で繋がっている気がした。
一方、人里の外れでは、妹紅が路地を抜けていた。
証文を持ち込んだ男を追っている。
男は速い。
人混みに紛れ、角を曲がり、古い倉庫の間を抜ける。
足音はある。
だが、妙に軽い。
妹紅は舌打ちした。
「逃げ足だけは生きてるな」
男は人里の外へ出た。
向かう先は、無縁塚方面。
そこで妹紅は追いついた。
「待てよ」
男は振り返る。
笠の下の顔は、やはりはっきりしない。
影が濃く、目元だけが妙に暗い。
「何者だ」
妹紅が聞く。
男は証文を懐にしまった。
「ただの取次ぎです」
「誰の」
「死者の」
「死者はそんな紙を持って歩かない」
「では、生者の」
「なお悪い」
妹紅が一歩踏み出す。
男は後ろへ下がった。
「無理に止めると、名が傷つきますよ」
「名前が傷つく?」
「死者の名は繊細です。乱暴に扱えば、残された者が困る」
妹紅の目が細くなる。
「脅しか」
「忠告です」
男は袖から、小さな紙片を落とした。
妹紅がそれに気を取られた一瞬、男の姿が薄れた。
霧のように。
いや、灰のように。
妹紅が手を伸ばすより早く、男は無縁塚へ続く道の向こうへ消えた。
残された紙片を拾う。
そこには、墨で短く書かれていた。
**灰帳会**
妹紅はそれを握り潰しかけて、思いとどまった。
慧音に見せる必要がある。
「灰帳会、ね」
妹紅は無縁塚の方角を見た。
風が吹く。
そこからは、古い紙と土の匂いがした。
夕方、人里の寺子屋には、慧音、妹紅、そして妖夢が集まっていた。
机の上には、証文の写しが並んでいる。
十枚。
二十枚。
それ以上。
どれも死者の名を使っている。
妖夢は一枚ずつ確認した。
「この印は、現在の白玉楼のものではありません」
「では偽物か」
慧音が聞く。
妖夢はすぐには頷かなかった。
「完全な偽物とも言い切れません」
慧音の目が鋭くなる。
「どういうことだ」
「この形は、古い西行寺家の印に似ています。今は使われていないはずのものです」
妹紅が腕を組んだ。
「つまり、本物の古い印を誰かが持ち出したか、写したか」
「その可能性があります」
妖夢の声には、悔しさが混じっていた。
「白玉楼の管理の問題でもあります」
慧音は妖夢を見た。
「それを認めるのか」
「認めます」
妖夢はまっすぐ答えた。
「ただし、白玉楼が死者の名を使って人里を脅したわけではありません」
「それは記録する」
慧音は筆を取った。
「白玉楼、関与を否定。ただし、古印流出の可能性を認める」
妖夢は少しだけ顔をしかめた。
「細かいですね」
「細かくなければ、名前は守れない」
その言葉に、妖夢は黙った。
名前を守る。
妖夢はその言葉を胸の中で繰り返した。
白玉楼は死者の名を預かる。
命蓮寺は死者を供養する。
彼岸は死者を裁く。
人里は死者を記録する。
だが、預かることと守ることは同じなのか。
その違いを、妖夢はまだはっきり言葉にできなかった。
その時、寺子屋の戸が開いた。
博麗霊夢が入ってくる。
隣には魔理沙もいた。
「また面倒なことになってるわね」
霊夢は机の上の証文を見て、すぐに顔をしかめた。
「死者の借金?」
慧音が頷く。
「白玉楼の印が使われている」
妖夢が霊夢を見る。
「白玉楼は関与していません」
「でしょうね」
霊夢は即答した。
妖夢が少し驚く。
「信じるのですか」
「幽々子がこんな雑なことするなら、もっと優雅にやるわ」
魔理沙が笑う。
「褒めてるのか、それ」
「半分くらい」
霊夢は証文を一枚手に取った。
「でも、白玉楼の名が使われてるなら、白玉楼の問題でもある」
「分かっています」
妖夢は静かに答えた。
その時、外から冷たい風が入った。
寺子屋の灯りが少し揺れる。
机の上の証文の一枚が、ふわりと浮いた。
そこに、薄い影が重なる。
死者の名が、紙の上で震えているように見えた。
慧音は筆を止めた。
霊夢も黙る。
妖夢はその証文を見つめた。
紙に書かれた名前は、誰かの人生だった。
生きて、働き、失敗し、誰かに覚えられ、そして死んだ者の名だった。
それが今、金の担保として並べられている。
妖夢は静かに言った。
「必ず取り戻します」
霊夢が見る。
「何を?」
「名前を」
妹紅は口元を少しだけ歪めた。
「いいね。分かりやすい」
慧音は帳面の最初の行に、こう書いた。
**幽冥証文騒動、発端。
人里にて死者名義の証文が流通。
白玉楼古印の使用を確認。
無縁塚方面に、灰帳会の名あり。**
その夜、人里では誰もが戸締まりを早めた。
死者が怖いのではない。
死者の名を持って、生者が訪ねてくることが怖かった。
そして冥界では、幽々子が桜の下に立っていた。
花びらが静かに落ちる。
その一枚を手のひらに受け、幽々子は小さく呟いた。
「死んだ後まで働かせるなんて、無粋ね」
白玉楼の奥で、古い印箱がひとつ、空になっていた。