白玉楼へ向かう道は、いつも静かだった。
静かすぎるほどだった。
人里のざわめきも、博麗神社の風鈴の音も、命蓮寺の鐘も、ここまでは届かない。冥界へ近づくほど、音は薄くなり、足音だけがやけに大きく聞こえる。
魂魄妖夢は、その道を先に歩いていた。
後ろには博麗霊夢と霧雨魔理沙がいる。
妖夢の歩幅はいつもより少し速い。
霊夢はそれを見て、軽く息を吐いた。
「急いでるわね」
「急いでいます」
「隠さないのね」
「隠す理由がありません」
妖夢の声は硬かった。
寺子屋で確認した証文。
死者名義の借金。
白玉楼の古印。
無縁塚へ逃げた取立屋。
そして、幽々子の印箱から消えていた古い印。
それらが、妖夢の背中を押していた。
魔理沙は箒を肩に担ぎながら、周囲を見回す。
「しかし、白玉楼の印が盗まれるなんてな。冥界にも泥棒はいるんだな」
妖夢が振り返った。
「白玉楼には泥棒など入りません」
「でも印は消えてるんだろ」
「……管理の問題です」
「それを泥棒って言うんじゃないのか?」
「魔理沙さんにだけは言われたくありません」
魔理沙は笑った。
「正論だな」
霊夢は白玉楼の門を見上げた。
大きな門。
その奥に、静かな庭と、どこまでも続くような桜がある。
ここは死者の場所だ。
けれど、今日の白玉楼はいつもより少し重かった。
桜は咲いている。
花びらも舞っている。
だが、花の白さの中に、薄い灰色が混じっているように見えた。
妖夢は門を開けた。
「幽々子様。お連れしました」
奥座敷に、西行寺幽々子はいた。
いつものように優雅に座り、茶を飲んでいる。
その隣には、小さな木箱が置かれていた。
箱の蓋は開いている。
中は空だった。
霊夢はその箱を見た瞬間、眉をひそめた。
「それ?」
「ええ」
幽々子は穏やかに答えた。
「昔の印をしまっていた箱よ」
「空ね」
「空なの」
「のんびり言うことじゃないでしょ」
「慌てても、印は帰ってこないもの」
幽々子の声は柔らかい。
だが、妖夢は知っていた。
これは、幽々子が怒っていない声ではない。
怒りを奥に沈めている声だった。
霊夢は座敷に上がり、寺子屋から持ってきた証文の写しを広げた。
「人里で出回ってる。借主は死者。保証人も死者。担保は人里の倉庫や畑。最後に白玉楼の印」
幽々子は証文を手に取った。
しばらく眺める。
何も言わない。
それがかえって、部屋を冷たくした。
魔理沙が小声で言った。
「本物か?」
幽々子は微笑んだ。
「今の白玉楼の印ではないわ」
「じゃあ偽物?」
「完全な偽物でもない」
幽々子は空の木箱を指先で撫でた。
「これは、古い西行寺家の印。今は使っていないものよ。昔、死者の名義や遺された品を整理する時に使われていた」
妖夢は拳を握る。
「幽々子様。私は、その印が今も残っていることを知りませんでした」
「そうね。妖夢にはまだ見せていなかった」
「なぜですか」
「使うことがないと思っていたから」
幽々子は証文を畳んだ。
「でも、使う者が出た」
霊夢は座敷の柱にもたれた。
「白玉楼の古印が押されてるなら、人里は信じるわよ。死者の名義なんて、普通の人間には確かめようがない」
「だから、白玉楼の名を使ったのでしょうね」
「誰が」
幽々子は妖夢を見る。
「それを妖夢が探すの」
妖夢は顔を上げた。
「私が」
「ええ」
幽々子は柔らかく笑った。
「死者の名前を勝手に使った者を、連れてきなさい」
妖夢はすぐに頭を下げた。
「承知しました」
だが、霊夢が口を挟んだ。
「待ちなさい。白玉楼だけで動く気?」
妖夢が霊夢を見る。
「白玉楼の問題です」
「人里に証文が出回ってる時点で、人里の問題でもある。博麗も関わる」
「白玉楼を疑っているのですか」
「疑ってるわよ」
妖夢の目が鋭くなる。
霊夢は平然としていた。
「完全に犯人だとは思ってない。でも、古印を盗まれたのか、写されたのか、使われたのか。それを白玉楼が知らなかったなら、管理責任はある」
妖夢は言葉に詰まった。
その通りだったからだ。
幽々子は茶を一口飲んだ。
「霊夢の言う通りね」
「幽々子様」
「死者の名前を預かるということは、奪われた時の責任も預かるということよ」
妖夢は下を向いた。
白玉楼は、死者の場所だ。
死者が静かに眠る場所。
行き場のない幽霊が留まる場所。
名前を失いかけた者が、最後にたどり着く場所。
そう思っていた。
だが、その名前を預かる場所であるなら、名前を奪われた時の責任もある。
妖夢は、その重さを初めてはっきり感じた。
魔理沙が証文の一枚を持ち上げた。
「この紙、無縁塚の匂いがするな」
霊夢が見る。
「分かるの?」
「古道具屋と古紙の匂いは分かる。無縁塚の市でたまに見る紙だ。湿ってて、妙に灰っぽい」
妖夢は反応した。
「灰帳会」
「それ、妹紅が拾った紙に書いてあったやつか」
霊夢が頷く。
「無縁塚方面に逃げた取立屋が落とした」
幽々子はその名前を聞いて、少しだけ目を細めた。
「灰帳会……」
「知ってるの?」
霊夢が聞く。
「名前だけは」
幽々子は庭の桜を見た。
「無縁塚に流れ着くものを整理する者たち。遺品、骨董、古道具、霊具、古い帳面。誰のものか分からなくなった物を拾い、売り、時には供養に回す」
「便利屋?」
「表向きはね」
幽々子は証文を指先で叩いた。
「でも、死者の持ち物には名前が残る。名前には家があり、土地があり、借りがあり、関係がある。物を拾う者は、情報も拾うのよ」
魔理沙が感心したように言った。
「つまり、遺品屋じゃなくて、死者の情報屋か」
「そういうこと」
霊夢は腕を組んだ。
「死者の名前、古い印、人里の記録、無縁塚の市。繋がってきたわね」
妖夢は立ち上がった。
「無縁塚へ行きます」
「私も行く」
霊夢が言う。
魔理沙も笑って箒を持ち上げた。
「もちろん私もだ。闇市なら面白いものがあるかもしれない」
「盗むな」
妖夢が即座に言う。
「拾うだけだ」
「盗む気ですね」
「見つかったら借りる」
「同じです」
霊夢はため息をついた。
「その前に、幽々子。確認したいことがある」
「何かしら」
「白玉楼は、死者名義の証文を扱っていたの?」
部屋の空気が少し変わった。
妖夢が霊夢を見る。
「霊夢さん」
「大事なことよ」
霊夢は妖夢ではなく、幽々子を見ていた。
「白玉楼が死者の名を一切扱ってないなら、今回の証文は全部外からの偽造。でも、昔から死者の名義や遺品整理に関わっていたなら、灰帳会がそこにつけ込んだ可能性がある」
幽々子は静かに聞いていた。
やがて、ゆっくり頷いた。
「扱っていたわ」
妖夢が息を呑む。
「幽々子様」
「正確には、扱わざるを得なかった」
幽々子の声は、庭に落ちる花びらのように静かだった。
「死者が残すのは、思い出だけではないもの。家、道具、借り、貸し、約束、恨み、名前。生者が整理できるものもあれば、できないものもある」
霊夢は黙っている。
「白玉楼は、行き場を失った名義を預かった。誰にも引き取られなかった遺品を保管した。生者同士で争いにならないよう、古い証文を封じたこともある」
「金貸しは?」
幽々子は少し微笑んだ。
「白玉楼が表立って貸したことはないわ。ただ、死者の名で残った借りを、生者が都合よく整理したがることはあった」
「止めたの?」
「止めたこともある。見逃したこともある」
妖夢は顔を上げた。
「見逃した……?」
「妖夢」
幽々子は妖夢を見た。
「死者の名前は、綺麗な場所にだけ残るわけではないの。人が生きた証だから、時には汚れた場所にも残る」
妖夢は何も言えなかった。
白玉楼の裏の顔。
死者の名義。
遺品。
古い証文。
整理。
封印。
見逃し。
妖夢が今まで知らなかった、あるいは見ないようにしていた白玉楼の仕事が、目の前に置かれている。
霊夢は短く息を吐いた。
「分かった。白玉楼は完全な白じゃない。でも、今回の証文は白玉楼の正式なものじゃない」
「ええ」
「なら、灰帳会を探す」
幽々子は妖夢へ視線を戻した。
「妖夢。あなたが行きなさい」
「はい」
「証文を回収するだけでは駄目よ」
妖夢は少し顔を上げる。
幽々子は言った。
「名前を取り戻しなさい」
妖夢の胸が、強く締めつけられるようだった。
名前を取り戻す。
それは、紙を取り返すことではない。
印を回収することでもない。
死者の名が、誰かの金勘定の中で使われている。
その場所から、名前を引き剥がして、眠るべき場所へ戻す。
妖夢は深く頭を下げた。
「必ず」
その時、座敷の外で幽霊たちがざわついた。
妖夢が振り返る。
庭の端に、見慣れない幽霊がいた。
輪郭が薄い。
名を失いかけている霊だ。
だが、その胸元に、小さな紙片が貼りついていた。
証文の切れ端。
妖夢はすぐに駆け寄った。
「大丈夫ですか」
幽霊は震えている。
「名前が……重い……」
妖夢は紙片をそっと剥がそうとした。
だが、紙は霊の胸元に貼りついたまま離れない。
霊夢が近づき、御札を取り出す。
「普通の紙じゃないわね」
幽々子も庭へ出てきた。
彼女が指を伸ばし、紙片に触れる。
すると、紙片ははらりと落ちた。
幽霊は少しだけ輪郭を取り戻す。
「ありがとう……」
それだけ言って、庭の奥へ消えていった。
妖夢は落ちた紙片を拾った。
そこには、短い文字が書かれていた。
**名義預かり済み。灰帳会。**
霊夢の顔が険しくなる。
「人里だけじゃない。冥界の幽霊にまで貼ってるのね」
幽々子は笑っていた。
だが、その笑みは冷たかった。
「死者の名前を食べるなんて、趣味が悪いわ」
妖夢は紙片を握った。
この言葉を、今まで幽々子の軽い冗談のように聞いていた。
だが、今は違う。
幽々子は本気で怒っている。
そして、その怒りは妖夢にも移っていた。
白玉楼の門を出る前、幽々子は妖夢を呼び止めた。
「妖夢」
「はい」
「斬るべきものを間違えないでね」
妖夢は一瞬、答えに詰まった。
「証文を斬ればよいのではないのですか」
「証文を斬れば、紙は消える。でも、名前まで消えてしまうことがある」
「では、何を斬れば」
幽々子は微笑んだ。
「偽りだけよ」
妖夢は胸に手を当てた。
難しい命令だった。
敵を斬るよりも難しい。
紙を燃やすよりも難しい。
怒りに任せて動くより、ずっと難しい。
霊夢が横から言う。
「面倒な命令ね」
「死者のことは、だいたい面倒なのよ」
幽々子はそう答えた。
魔理沙は笑った。
「じゃあ、まずは無縁塚だな」
「ええ」
霊夢は妖夢を見た。
「案内できる?」
「できます」
「じゃあ行くわよ。白玉楼の印を使った奴に、話を聞きに」
妖夢は頷いた。
白玉楼の桜が散る。
花びらは美しい。
だが、その下には古い名前がいくつも眠っている。
妖夢はそのことを、今までより重く感じた。
白玉楼はただ静かな場所ではない。
死者の名を預かる場所だ。
ならば、その名を奪われた時、取り戻すのも白玉楼の役目。
妖夢は楼観剣の柄に手を置いた。
斬るべきものを間違えない。
幽々子の言葉が、胸に残る。
霊夢、魔理沙、妖夢の三人は、冥界から無縁塚へ向かった。
その道の先には、捨てられた物と、忘れられた名が集まる市がある。
そしてそのどこかに、死者の名前で金を動かす者たちがいる。
白玉楼の古印を持ち出した者。
死者の証文を作った者。
幽霊に紙片を貼った者。
妖夢は足を速めた。
背後で、幽々子の声が聞こえた気がした。
死者の名前は、眠らせるために預かるもの。
使わせるためではない。
白玉楼の桜は、静かに散り続けていた。