東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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第一章 白玉楼の印

 

 

 白玉楼へ向かう道は、いつも静かだった。

 

 静かすぎるほどだった。

 

 人里のざわめきも、博麗神社の風鈴の音も、命蓮寺の鐘も、ここまでは届かない。冥界へ近づくほど、音は薄くなり、足音だけがやけに大きく聞こえる。

 

 魂魄妖夢は、その道を先に歩いていた。

 

 後ろには博麗霊夢と霧雨魔理沙がいる。

 

 妖夢の歩幅はいつもより少し速い。

 霊夢はそれを見て、軽く息を吐いた。

 

「急いでるわね」

 

「急いでいます」

 

「隠さないのね」

 

「隠す理由がありません」

 

 妖夢の声は硬かった。

 

 寺子屋で確認した証文。

 死者名義の借金。

 白玉楼の古印。

 無縁塚へ逃げた取立屋。

 そして、幽々子の印箱から消えていた古い印。

 

 それらが、妖夢の背中を押していた。

 

 魔理沙は箒を肩に担ぎながら、周囲を見回す。

 

「しかし、白玉楼の印が盗まれるなんてな。冥界にも泥棒はいるんだな」

 

 妖夢が振り返った。

 

「白玉楼には泥棒など入りません」

 

「でも印は消えてるんだろ」

 

「……管理の問題です」

 

「それを泥棒って言うんじゃないのか?」

 

「魔理沙さんにだけは言われたくありません」

 

 魔理沙は笑った。

 

「正論だな」

 

 霊夢は白玉楼の門を見上げた。

 

 大きな門。

 その奥に、静かな庭と、どこまでも続くような桜がある。

 

 ここは死者の場所だ。

 

 けれど、今日の白玉楼はいつもより少し重かった。

 

 桜は咲いている。

 花びらも舞っている。

 だが、花の白さの中に、薄い灰色が混じっているように見えた。

 

 妖夢は門を開けた。

 

「幽々子様。お連れしました」

 

 奥座敷に、西行寺幽々子はいた。

 

 いつものように優雅に座り、茶を飲んでいる。

 その隣には、小さな木箱が置かれていた。

 

 箱の蓋は開いている。

 

 中は空だった。

 

 霊夢はその箱を見た瞬間、眉をひそめた。

 

「それ?」

 

「ええ」

 

 幽々子は穏やかに答えた。

 

「昔の印をしまっていた箱よ」

 

「空ね」

 

「空なの」

 

「のんびり言うことじゃないでしょ」

 

「慌てても、印は帰ってこないもの」

 

 幽々子の声は柔らかい。

 

 だが、妖夢は知っていた。

 

 これは、幽々子が怒っていない声ではない。

 怒りを奥に沈めている声だった。

 

 霊夢は座敷に上がり、寺子屋から持ってきた証文の写しを広げた。

 

「人里で出回ってる。借主は死者。保証人も死者。担保は人里の倉庫や畑。最後に白玉楼の印」

 

 幽々子は証文を手に取った。

 

 しばらく眺める。

 

 何も言わない。

 

 それがかえって、部屋を冷たくした。

 

 魔理沙が小声で言った。

 

「本物か?」

 

 幽々子は微笑んだ。

 

「今の白玉楼の印ではないわ」

 

「じゃあ偽物?」

 

「完全な偽物でもない」

 

 幽々子は空の木箱を指先で撫でた。

 

「これは、古い西行寺家の印。今は使っていないものよ。昔、死者の名義や遺された品を整理する時に使われていた」

 

 妖夢は拳を握る。

 

「幽々子様。私は、その印が今も残っていることを知りませんでした」

 

「そうね。妖夢にはまだ見せていなかった」

 

「なぜですか」

 

「使うことがないと思っていたから」

 

 幽々子は証文を畳んだ。

 

「でも、使う者が出た」

 

 霊夢は座敷の柱にもたれた。

 

「白玉楼の古印が押されてるなら、人里は信じるわよ。死者の名義なんて、普通の人間には確かめようがない」

 

「だから、白玉楼の名を使ったのでしょうね」

 

「誰が」

 

 幽々子は妖夢を見る。

 

「それを妖夢が探すの」

 

 妖夢は顔を上げた。

 

「私が」

 

「ええ」

 

 幽々子は柔らかく笑った。

 

「死者の名前を勝手に使った者を、連れてきなさい」

 

 妖夢はすぐに頭を下げた。

 

「承知しました」

 

 だが、霊夢が口を挟んだ。

 

「待ちなさい。白玉楼だけで動く気?」

 

 妖夢が霊夢を見る。

 

「白玉楼の問題です」

 

「人里に証文が出回ってる時点で、人里の問題でもある。博麗も関わる」

 

「白玉楼を疑っているのですか」

 

「疑ってるわよ」

 

 妖夢の目が鋭くなる。

 

 霊夢は平然としていた。

 

「完全に犯人だとは思ってない。でも、古印を盗まれたのか、写されたのか、使われたのか。それを白玉楼が知らなかったなら、管理責任はある」

 

 妖夢は言葉に詰まった。

 

 その通りだったからだ。

 

 幽々子は茶を一口飲んだ。

 

「霊夢の言う通りね」

 

「幽々子様」

 

「死者の名前を預かるということは、奪われた時の責任も預かるということよ」

 

 妖夢は下を向いた。

 

 白玉楼は、死者の場所だ。

 死者が静かに眠る場所。

 行き場のない幽霊が留まる場所。

 名前を失いかけた者が、最後にたどり着く場所。

 

 そう思っていた。

 

 だが、その名前を預かる場所であるなら、名前を奪われた時の責任もある。

 

 妖夢は、その重さを初めてはっきり感じた。

 

 魔理沙が証文の一枚を持ち上げた。

 

「この紙、無縁塚の匂いがするな」

 

 霊夢が見る。

 

「分かるの?」

 

「古道具屋と古紙の匂いは分かる。無縁塚の市でたまに見る紙だ。湿ってて、妙に灰っぽい」

 

 妖夢は反応した。

 

「灰帳会」

 

「それ、妹紅が拾った紙に書いてあったやつか」

 

 霊夢が頷く。

 

「無縁塚方面に逃げた取立屋が落とした」

 

 幽々子はその名前を聞いて、少しだけ目を細めた。

 

「灰帳会……」

 

「知ってるの?」

 

 霊夢が聞く。

 

「名前だけは」

 

 幽々子は庭の桜を見た。

 

「無縁塚に流れ着くものを整理する者たち。遺品、骨董、古道具、霊具、古い帳面。誰のものか分からなくなった物を拾い、売り、時には供養に回す」

 

「便利屋?」

 

「表向きはね」

 

 幽々子は証文を指先で叩いた。

 

「でも、死者の持ち物には名前が残る。名前には家があり、土地があり、借りがあり、関係がある。物を拾う者は、情報も拾うのよ」

 

 魔理沙が感心したように言った。

 

「つまり、遺品屋じゃなくて、死者の情報屋か」

 

「そういうこと」

 

 霊夢は腕を組んだ。

 

「死者の名前、古い印、人里の記録、無縁塚の市。繋がってきたわね」

 

 妖夢は立ち上がった。

 

「無縁塚へ行きます」

 

「私も行く」

 

 霊夢が言う。

 

 魔理沙も笑って箒を持ち上げた。

 

「もちろん私もだ。闇市なら面白いものがあるかもしれない」

 

「盗むな」

 

 妖夢が即座に言う。

 

「拾うだけだ」

 

「盗む気ですね」

 

「見つかったら借りる」

 

「同じです」

 

 霊夢はため息をついた。

 

「その前に、幽々子。確認したいことがある」

 

「何かしら」

 

「白玉楼は、死者名義の証文を扱っていたの?」

 

 部屋の空気が少し変わった。

 

 妖夢が霊夢を見る。

 

「霊夢さん」

 

「大事なことよ」

 

 霊夢は妖夢ではなく、幽々子を見ていた。

 

「白玉楼が死者の名を一切扱ってないなら、今回の証文は全部外からの偽造。でも、昔から死者の名義や遺品整理に関わっていたなら、灰帳会がそこにつけ込んだ可能性がある」

 

 幽々子は静かに聞いていた。

 

 やがて、ゆっくり頷いた。

 

「扱っていたわ」

 

 妖夢が息を呑む。

 

「幽々子様」

 

「正確には、扱わざるを得なかった」

 

 幽々子の声は、庭に落ちる花びらのように静かだった。

 

「死者が残すのは、思い出だけではないもの。家、道具、借り、貸し、約束、恨み、名前。生者が整理できるものもあれば、できないものもある」

 

 霊夢は黙っている。

 

「白玉楼は、行き場を失った名義を預かった。誰にも引き取られなかった遺品を保管した。生者同士で争いにならないよう、古い証文を封じたこともある」

 

「金貸しは?」

 

 幽々子は少し微笑んだ。

 

「白玉楼が表立って貸したことはないわ。ただ、死者の名で残った借りを、生者が都合よく整理したがることはあった」

 

「止めたの?」

 

「止めたこともある。見逃したこともある」

 

 妖夢は顔を上げた。

 

「見逃した……?」

 

「妖夢」

 

 幽々子は妖夢を見た。

 

「死者の名前は、綺麗な場所にだけ残るわけではないの。人が生きた証だから、時には汚れた場所にも残る」

 

 妖夢は何も言えなかった。

 

 白玉楼の裏の顔。

 

 死者の名義。

 遺品。

 古い証文。

 整理。

 封印。

 見逃し。

 

 妖夢が今まで知らなかった、あるいは見ないようにしていた白玉楼の仕事が、目の前に置かれている。

 

 霊夢は短く息を吐いた。

 

「分かった。白玉楼は完全な白じゃない。でも、今回の証文は白玉楼の正式なものじゃない」

 

「ええ」

 

「なら、灰帳会を探す」

 

 幽々子は妖夢へ視線を戻した。

 

「妖夢。あなたが行きなさい」

 

「はい」

 

「証文を回収するだけでは駄目よ」

 

 妖夢は少し顔を上げる。

 

 幽々子は言った。

 

「名前を取り戻しなさい」

 

 妖夢の胸が、強く締めつけられるようだった。

 

 名前を取り戻す。

 

 それは、紙を取り返すことではない。

 印を回収することでもない。

 

 死者の名が、誰かの金勘定の中で使われている。

 その場所から、名前を引き剥がして、眠るべき場所へ戻す。

 

 妖夢は深く頭を下げた。

 

「必ず」

 

 その時、座敷の外で幽霊たちがざわついた。

 

 妖夢が振り返る。

 

 庭の端に、見慣れない幽霊がいた。

 

 輪郭が薄い。

 名を失いかけている霊だ。

 

 だが、その胸元に、小さな紙片が貼りついていた。

 

 証文の切れ端。

 

 妖夢はすぐに駆け寄った。

 

「大丈夫ですか」

 

 幽霊は震えている。

 

「名前が……重い……」

 

 妖夢は紙片をそっと剥がそうとした。

 

 だが、紙は霊の胸元に貼りついたまま離れない。

 

 霊夢が近づき、御札を取り出す。

 

「普通の紙じゃないわね」

 

 幽々子も庭へ出てきた。

 

 彼女が指を伸ばし、紙片に触れる。

 

 すると、紙片ははらりと落ちた。

 

 幽霊は少しだけ輪郭を取り戻す。

 

「ありがとう……」

 

 それだけ言って、庭の奥へ消えていった。

 

 妖夢は落ちた紙片を拾った。

 

 そこには、短い文字が書かれていた。

 

 **名義預かり済み。灰帳会。**

 

 霊夢の顔が険しくなる。

 

「人里だけじゃない。冥界の幽霊にまで貼ってるのね」

 

 幽々子は笑っていた。

 

 だが、その笑みは冷たかった。

 

「死者の名前を食べるなんて、趣味が悪いわ」

 

 妖夢は紙片を握った。

 

 この言葉を、今まで幽々子の軽い冗談のように聞いていた。

 

 だが、今は違う。

 

 幽々子は本気で怒っている。

 

 そして、その怒りは妖夢にも移っていた。

 

 白玉楼の門を出る前、幽々子は妖夢を呼び止めた。

 

「妖夢」

 

「はい」

 

「斬るべきものを間違えないでね」

 

 妖夢は一瞬、答えに詰まった。

 

「証文を斬ればよいのではないのですか」

 

「証文を斬れば、紙は消える。でも、名前まで消えてしまうことがある」

 

「では、何を斬れば」

 

 幽々子は微笑んだ。

 

「偽りだけよ」

 

 妖夢は胸に手を当てた。

 

 難しい命令だった。

 

 敵を斬るよりも難しい。

 紙を燃やすよりも難しい。

 怒りに任せて動くより、ずっと難しい。

 

 霊夢が横から言う。

 

「面倒な命令ね」

 

「死者のことは、だいたい面倒なのよ」

 

 幽々子はそう答えた。

 

 魔理沙は笑った。

 

「じゃあ、まずは無縁塚だな」

 

「ええ」

 

 霊夢は妖夢を見た。

 

「案内できる?」

 

「できます」

 

「じゃあ行くわよ。白玉楼の印を使った奴に、話を聞きに」

 

 妖夢は頷いた。

 

 白玉楼の桜が散る。

 

 花びらは美しい。

 だが、その下には古い名前がいくつも眠っている。

 

 妖夢はそのことを、今までより重く感じた。

 

 白玉楼はただ静かな場所ではない。

 死者の名を預かる場所だ。

 

 ならば、その名を奪われた時、取り戻すのも白玉楼の役目。

 

 妖夢は楼観剣の柄に手を置いた。

 

 斬るべきものを間違えない。

 

 幽々子の言葉が、胸に残る。

 

 霊夢、魔理沙、妖夢の三人は、冥界から無縁塚へ向かった。

 

 その道の先には、捨てられた物と、忘れられた名が集まる市がある。

 

 そしてそのどこかに、死者の名前で金を動かす者たちがいる。

 

 白玉楼の古印を持ち出した者。

 死者の証文を作った者。

 幽霊に紙片を貼った者。

 

 妖夢は足を速めた。

 

 背後で、幽々子の声が聞こえた気がした。

 

 死者の名前は、眠らせるために預かるもの。

 

 使わせるためではない。

 

 白玉楼の桜は、静かに散り続けていた。

 

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