無縁塚には、値札のないものが集まる。
壊れた茶碗。
錆びた刀。
片方だけの下駄。
誰かの櫛。
古い仏具。
割れた鏡。
封の切られた文箱。
もう主のいない帳面。
捨てられたのか、流れ着いたのか、忘れられたのか。
ここでは、その違いにあまり意味はない。
持ち主の手を離れたものは、いつか無縁塚に来る。
魂魄妖夢は、その景色を見て、足を止めた。
空気が重い。
冥界の静けさとは違う。
白玉楼の桜の下にある静けさは、眠りに近い。
だが、無縁塚の静けさは違う。
ここにあるのは、置き去りにされた沈黙だった。
博麗霊夢は、妖夢の横を通り過ぎた。
「ぼうっとしてると置いてくわよ」
「……はい」
霧雨魔理沙は、すでに周囲を楽しそうに見回している。
「相変わらず、面白いものが転がってるな」
「拾うな」
妖夢が即座に言った。
「まだ拾ってないぜ」
「“まだ”と言いましたね」
「細かいなあ」
霊夢はため息をついた。
「今日は遊びに来たんじゃないのよ。灰帳会を探す」
「分かってるって」
魔理沙はそう言いながらも、道端に置かれた古いランプをちらりと見た。
妖夢はその視線を見逃さなかった。
「魔理沙さん」
「分かってるってば」
無縁塚の奥へ進むと、人影が増えてきた。
妖怪。
人間。
半分透けた幽霊。
商人のような者。
僧のような者。
河童らしき者。
何者ともつかない影。
彼らは、古道具を並べた布の前に座り、静かに客を待っている。
掛け声は少ない。
祭りの市とは違う。
ここでは、物が声を出しているようだった。
古い刀が、かつての戦いを。
割れた鏡が、誰かの顔を。
帳面が、消えた名前を。
櫛が、もう戻らない手を。
妖夢は歩きながら、胸が重くなるのを感じた。
白玉楼にも遺品はある。
だが、そこでは名とともに保管される。
誰のものだったか。
何のために残ったか。
どこへ返すべきか。
ここでは違う。
名が剥がれ、値打ちだけが残っている。
霊夢が露店の一つの前で足を止めた。
古い紙束が並んでいる。
契約書。
家系図。
地図。
借用書。
供養札。
どれも色褪せているが、妙に整頓されていた。
店主は痩せた老人だった。
ただし、本当に人間の老人なのかは分からない。目元が影になっていて、声だけが乾いている。
「何をお探しで」
霊夢は証文の写しを見せた。
「これと同じ紙、見たことある?」
老人は証文をちらりと見た。
表情は変わらない。
「古い証文はよくあります」
「白玉楼の印が押してある」
「冥界の品も流れてきますので」
妖夢が一歩前に出た。
「白玉楼の品が、なぜここに流れているのです」
老人は妖夢を見上げた。
「流れてきたからです」
「答えになっていません」
「無縁塚では、流れてきたものに理由を聞きません」
妖夢の手が、刀の柄へ動いた。
霊夢がそれを目で止める。
「落ち着きなさい」
「しかし」
「斬るべきものを間違えるなって言われたんでしょ」
妖夢は息を詰めた。
幽々子の言葉。
偽りだけを斬れ。
妖夢は手を下ろした。
老人はその様子を、面白くもなさそうに見ていた。
魔理沙が紙束の一つをつまみ上げる。
「これ、命蓮寺の供養札じゃないか?」
白い札。
墨で経文が書かれ、端には命蓮寺の印に似たものがある。
霊夢が見た。
「本物?」
「たぶん、古い型だな。今の命蓮寺のとは違う」
妖夢は老人を見た。
「これはどこから」
「供養を終えた家から流れたものかもしれません。寺から出たものかもしれません。誰かが写したものかもしれません」
「つまり、分からないと」
「分からないものに値がつく場所ですので」
その言葉に、妖夢は強い不快感を覚えた。
分からないから売る。
誰のものか分からないから、誰のものにしてもいい。
無縁塚の理屈。
だが、死者の名までその理屈に乗せてよいはずがない。
霊夢は老人に近づいた。
「灰帳会を知ってるわね」
老人の指が、わずかに止まった。
それだけで十分だった。
霊夢は言う。
「どこにいるの」
「存じません」
「知らない顔じゃないわね」
「灰帳会は整理屋です。この塚に流れた紙や品を帳面に移す者たち。珍しくはありません」
魔理沙が笑う。
「整理屋ねえ。ずいぶん便利な言い方だ」
老人は静かに答えた。
「散らかったままでは、物は腐ります。名も、紙も、借りも」
妖夢が言った。
「死者の名は、あなたたちが整理するものではありません」
老人は妖夢を見た。
「では、誰が整理するのです」
「白玉楼です」
老人は薄く笑った。
「白玉楼が、すべての死者を覚えていると?」
妖夢は言葉を失った。
老人は続ける。
「人里で忘れられた者。寺で供養されなかった者。彼岸へ渡れなかった者。家の記録からこぼれた者。白玉楼は、その全てを知っていますか」
妖夢は答えられない。
知っている、と言いたかった。
だが、それは嘘になる。
白玉楼は多くの名を預かる。
だが、全てではない。
無縁の名。
誰にも呼ばれなくなった名。
紙だけに残った名。
それらが、ここへ流れ着く。
霊夢が老人の前の紙束を一枚めくった。
「だからって、死者の名前で借金を作っていい理由にはならないわ」
「作ったとは言っておりません」
「なら、誰が作ったの」
老人は答えない。
その時、魔理沙が露店の奥に積まれた帳面を見つけた。
表紙は灰色。
端は擦り切れている。
だが、最近使われている形跡がある。
魔理沙の目が光った。
「お、いいもの見つけた」
老人が初めて慌てた。
「それは売り物ではありません」
「じゃあ、借りる」
魔理沙は帳面をつかみ、素早く後ろへ下がった。
妖夢が反射的に言う。
「魔理沙さん!」
「今回だけは褒めていいわ」
霊夢が言った。
老人が立ち上がる。
その動きに合わせて、周囲の露店からいくつもの視線が向いた。
市の空気が変わる。
今まで物のように静かだった者たちが、一斉に生き物のような気配を帯びる。
妖夢は刀に手をかけた。
霊夢は御札を出す。
魔理沙は帳面を小脇に抱えて笑った。
「やっぱり当たりか」
老人は低く言った。
「返していただきたい」
「読んでからな」
「ここでは、持ち主を失ったものにも礼儀があります」
霊夢が冷たく言う。
「死者の名前を勝手に売る連中が、礼儀を語るの?」
老人は黙った。
その沈黙の中、露店の奥から拍子木の音がした。
かん、かん、と乾いた音。
市の奥の幕が開き、一人の男が現れた。
灰色の羽織。
目深にかぶった笠。
序章で人里に証文を持ち込んだ男に似ている。
だが、同じではない。
こちらの方が、輪郭がはっきりしている。
生きている者の重さがある。
男は三人を見ると、丁寧に頭を下げた。
「ようこそ、無縁塚の市へ」
妖夢が鋭く問う。
「あなたが灰帳会ですか」
「灰帳会の帳付をしております。名を、灰原と申します」
魔理沙が小声で言った。
「そのまんまだな」
灰原は微笑んだ。
「その帳面は、当会の大切なものです。お返し願えますか」
「嫌だと言ったら?」
霊夢が聞く。
「市の秩序が乱れます」
「もう乱れてるわよ」
「乱したのはそちらです」
妖夢は一歩前に出た。
「死者の名義で証文を作ったのは、あなたたちですね」
灰原は首を傾げる。
「作った、という表現は正確ではありません。残された名義を、整理しているのです」
「整理?」
「死者の名は残ります。家に、土地に、道具に、借りに、約束に。生者がそれを使う時、誰かが形を整えなければならない」
「その結果が、人里の死者名義の借金ですか」
「借りは消えません」
「死者に新しい借りを背負わせるな!」
妖夢の声が市に響いた。
周囲の幽霊たちが揺れる。
灰原は落ち着いたままだった。
「死者は文句を言いません」
その一言で、妖夢の目が冷たくなった。
霊夢も眉をひそめる。
魔理沙の笑みが消えた。
灰原は続けた。
「生者は忘れます。家は潰れ、記録は焼け、寺の札は剥がれ、白玉楼の帳面にも載らない名がある。ならば、残った紙を使う者がいてもよいでしょう」
「死者は文句を言わないから?」
「ええ」
妖夢は刀を抜きかけた。
しかし、抜かなかった。
幽々子の言葉が胸に刺さっていた。
斬るべきものを間違えない。
今、怒りに任せて灰原を斬っても、何も戻らない。
紙は残る。
偽証文は残る。
奪われた名前は、まだ取り戻せない。
霊夢が一歩前に出た。
「白玉楼の古印はどこ」
灰原は笑みを薄くした。
「古印?」
「とぼけないで。人里の証文に押されてる」
「古い印は、古い箱から出るものです」
妖夢の顔が険しくなる。
「白玉楼から盗んだのですか」
「盗んだとは限りません。捨てられたのかもしれない。流れ着いたのかもしれない。誰かが写しを売ったのかもしれない」
「誰が」
「名前のない者です」
灰原の言葉は、霧のように逃げる。
霊夢は魔理沙へ目を向けた。
「帳面、開いて」
「了解」
魔理沙は帳面を開いた。
中には、びっしりと名前が並んでいた。
死者の名。
生前の住まい。
家族。
遺品。
借り。
供養の有無。
白玉楼記録との照合欄。
命蓮寺供養札の番号。
人里の倉庫や土地の情報。
妖夢は息を呑んだ。
「これは……」
灰原の声が少し低くなる。
「見ない方がよろしい」
魔理沙はページをめくる。
そこに、写しが貼られていた。
白玉楼の古印。
命蓮寺の供養札。
守矢の古札。
紅魔館の封印箱の印。
永遠亭の薬代記録らしき符号。
死者の名だけではない。
死者に関わるあらゆる印が、整理され、写され、使える形で保存されている。
霊夢が低く言った。
「死者の情報を売ってるのね」
灰原は否定しない。
「情報は、忘れられた名に形を与えます」
「金にしてるだけでしょ」
「金を払う者がいるからです」
魔理沙が別のページを見つけた。
「これ、人里の倉庫の図面だ」
妖夢が見る。
前回の水利抗争後、証文や記録の写しを保管していた古い共同倉庫。
その位置、鍵の管理者、出入りする者の名まで書かれている。
霊夢の目が鋭くなる。
「そこまで調べてるの」
灰原は微笑んだ。
「人里の記録は、人里だけのものではありません」
「それを決めるのはあんたじゃない」
妖夢は帳面を見つめた。
名前が並んでいる。
文字として。
情報として。
担保として。
金に変えられるものとして。
その中には、白玉楼へ来た幽霊の名もあった。
胸に証文の切れ端を貼られていた、あの薄い幽霊。
「名前を返して」と言った霊の名も。
妖夢の手が震えた。
「この名前は、誰のものですか」
灰原は答えた。
「記録に残った者のものです」
「違います」
妖夢ははっきり言った。
「名前は、その者のものです」
灰原は初めて、少しだけ不快そうな顔をした。
「死者はもう使いません」
「だから、あなたが使うのですか」
「使われなければ、忘れられるだけです」
「忘れられないために使うのではありません」
妖夢の声が、低くなる。
「眠らせるために、名前は残すのです」
灰原は黙った。
霊夢が小さく言う。
「幽々子の受け売り?」
「……はい」
「いいんじゃない」
魔理沙は帳面を閉じた。
「これ、持って帰るぜ」
灰原が手を上げた。
その瞬間、周囲の露店から灰色の紙片が舞い上がった。
証文の切れ端。
供養札の写し。
古い名札。
それらが風もないのに舞い、霊夢たちの周囲を囲む。
紙片には名前が書かれていた。
死者の名。
忘れられた名。
誰かの親。
誰かの子。
誰かの師。
誰かの敵。
その名が、壁のように立ち塞がる。
妖夢は刀を抜いた。
しかし斬れない。
名前が書かれているからだ。
霊夢も舌打ちした。
「嫌な盾を使うわね」
灰原は言った。
「死者の名は重いでしょう」
「重くしたのはあんたたちよ」
霊夢が御札を構える。
魔理沙は帳面を抱えたまま後ろへ下がる。
「どうする? 斬れないぞ」
妖夢は紙片を見た。
幽々子の言葉。
偽りだけを斬れ。
妖夢は深く息を吸った。
そして、白楼剣を抜いた。
楼観剣ではない。
斬るための大きな刃ではなく、迷いを断つ短い刃。
紙片の一枚が、妖夢の前に舞う。
そこには名が書かれている。
その下に、灰帳会の印が重ねられていた。
妖夢は名を斬らなかった。
印だけを斬った。
紙片が二つに割れたわけではない。
ただ、灰帳会の印だけが薄く剥がれ、灰になって落ちた。
紙に残った名前は、そのまま静かに床へ降りる。
霊夢が目を細めた。
「器用なことするわね」
妖夢は次の紙片へ向かった。
名ではなく、偽の印を。
記録ではなく、上書きされた借りを。
死者ではなく、死者に貼りついた欲を。
一枚。
二枚。
三枚。
妖夢は紙片の間を駆けた。
白楼剣が光るたび、灰帳会の印が剥がれ落ちる。
死者の名は床に残り、ふわりと薄い光を帯びる。
周囲の幽霊たちが、少しずつざわめきを止めた。
霊夢はその隙に御札を放ち、紙片の流れを固定する。
「魔理沙!」
「分かってる!」
魔理沙が光を放ち、灰帳会の露店の裏に置かれた箱を吹き飛ばした。
中から、さらに証文の束が散らばる。
そして、その奥に小さな印箱が見えた。
妖夢の目が鋭くなる。
「あれは」
白玉楼のものと同じ形の古い印箱。
妖夢が駆け出す。
灰原がそれを止めようとした。
「それに触れるな」
霊夢が立ちはだかる。
「触られたくないなら、最初から盗むな」
灰原は袖から証文を取り出した。
そこには、妖夢の名が書かれていた。
妖夢自身の名。
霊夢の顔色が変わる。
「妖夢!」
灰原は低く言った。
「死者だけが名を奪われるわけではありません。半人半霊なら、なおさら境目は曖昧でしょう」
妖夢の足が止まった。
自分の名が書かれた証文。
借主、魂魄妖夢。
担保、白玉楼への忠義。
保証、西行寺幽々子。
一目で偽物と分かる。
それでも、名を書かれた瞬間、胸の奥に冷たいものが触れた。
灰原は言う。
「名前は、書けば縛れる」
妖夢は証文を見つめた。
怒りが湧く。
だが、それ以上に、はっきり分かった。
これは偽りだ。
自分の名を借りた、ただの紙だ。
妖夢は白楼剣を構えた。
「私の名前は、あなたのものではありません」
刃が走った。
証文の名前は残る。
だが、その下に押された灰帳会の印だけが、灰になって崩れた。
証文は力を失い、ただの紙として落ちた。
灰原の顔から笑みが消えた。
その隙に、魔理沙が印箱を拾い上げた。
「取ったぜ!」
妖夢が駆け寄り、箱を受け取る。
中には、印が入っていた。
薄墨色の桜の印。
白玉楼の古印。
妖夢はそれを両手で持った。
重かった。
ただの印とは思えないほどに。
そこには、長い時間と、多くの名と、白玉楼の責任が染み込んでいるようだった。
霊夢は灰原へ向き直る。
「これで終わり?」
灰原はゆっくり後ろへ下がった。
「終わりではありません。印は一つではない。写しは残る。証文も、帳面も、市の奥にまだある」
「なら全部回収する」
「無縁塚にある名前を、すべて持ち帰れると?」
霊夢は答えない。
灰原は笑みを戻した。
「白玉楼にも、博麗にも、命蓮寺にも、人里にも、全ての名は守れません。だから我々がいる」
「死者の名で金を取るために?」
「忘れられた名に価値を与えるために」
妖夢は印箱を抱えたまま言った。
「価値と値段は違います」
灰原は妖夢を見た。
「その違いを、白玉楼が本当に守れるのですか」
妖夢はすぐには答えられなかった。
灰原はその沈黙を見て、満足したように一礼した。
「では、また」
霧のように灰色の紙片が舞い上がる。
霊夢が御札を投げた時には、灰原の姿はもう薄れていた。
残ったのは、露店。
散らばった証文。
取り戻した古印。
そして、魔理沙が抱えた灰帳会の帳面。
無縁塚の市は、何事もなかったように少しずつ音を取り戻した。
だが、妖夢には分かっていた。
ここは、ただの市ではない。
死者の名前が、品物の横に並べられる場所。
忘れられたことを理由に、誰かが値をつける場所。
妖夢は印箱を胸に抱いた。
重い。
白玉楼へ戻れば、幽々子はきっと微笑むだろう。
だが、妖夢はもう、ただ「取り戻しました」とは言えない。
なぜなら、取り戻したのは印だけだからだ。
名前は、まだ市の奥に残っている。
霊夢が帳面を見た。
「これ、慧音に見せるわよ」
魔理沙が頷く。
「人里の死亡記録と照合だな」
妖夢は言った。
「命蓮寺の供養札もありました」
「次は命蓮寺ね」
霊夢は面倒くさそうに息を吐いた。
「供養まで絡むと、ますます厄介になるわ」
妖夢は無縁塚の奥を振り返った。
灰原の姿はない。
だが、声だけがまだ耳に残っている。
死者は文句を言わない。
妖夢は静かに答えた。
「言わないからこそ、守る者が必要なのです」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
けれど、無縁塚の隅で揺れていた幽霊が、一瞬だけこちらを見たような気がした。
白玉楼の古印は戻った。
だが、幽冥証文抗争は、ここからが本番だった。