東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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第二章 無縁塚の市

 

 

 無縁塚には、値札のないものが集まる。

 

 壊れた茶碗。

 錆びた刀。

 片方だけの下駄。

 誰かの櫛。

 古い仏具。

 割れた鏡。

 封の切られた文箱。

 もう主のいない帳面。

 

 捨てられたのか、流れ着いたのか、忘れられたのか。

 ここでは、その違いにあまり意味はない。

 

 持ち主の手を離れたものは、いつか無縁塚に来る。

 

 魂魄妖夢は、その景色を見て、足を止めた。

 

 空気が重い。

 

 冥界の静けさとは違う。

 白玉楼の桜の下にある静けさは、眠りに近い。

 だが、無縁塚の静けさは違う。

 

 ここにあるのは、置き去りにされた沈黙だった。

 

 博麗霊夢は、妖夢の横を通り過ぎた。

 

「ぼうっとしてると置いてくわよ」

 

「……はい」

 

 霧雨魔理沙は、すでに周囲を楽しそうに見回している。

 

「相変わらず、面白いものが転がってるな」

 

「拾うな」

 

 妖夢が即座に言った。

 

「まだ拾ってないぜ」

 

「“まだ”と言いましたね」

 

「細かいなあ」

 

 霊夢はため息をついた。

 

「今日は遊びに来たんじゃないのよ。灰帳会を探す」

 

「分かってるって」

 

 魔理沙はそう言いながらも、道端に置かれた古いランプをちらりと見た。

 

 妖夢はその視線を見逃さなかった。

 

「魔理沙さん」

 

「分かってるってば」

 

 無縁塚の奥へ進むと、人影が増えてきた。

 

 妖怪。

 人間。

 半分透けた幽霊。

 商人のような者。

 僧のような者。

 河童らしき者。

 何者ともつかない影。

 

 彼らは、古道具を並べた布の前に座り、静かに客を待っている。

 

 掛け声は少ない。

 祭りの市とは違う。

 

 ここでは、物が声を出しているようだった。

 

 古い刀が、かつての戦いを。

 割れた鏡が、誰かの顔を。

 帳面が、消えた名前を。

 櫛が、もう戻らない手を。

 

 妖夢は歩きながら、胸が重くなるのを感じた。

 

 白玉楼にも遺品はある。

 だが、そこでは名とともに保管される。

 誰のものだったか。

 何のために残ったか。

 どこへ返すべきか。

 

 ここでは違う。

 

 名が剥がれ、値打ちだけが残っている。

 

 霊夢が露店の一つの前で足を止めた。

 

 古い紙束が並んでいる。

 契約書。

 家系図。

 地図。

 借用書。

 供養札。

 どれも色褪せているが、妙に整頓されていた。

 

 店主は痩せた老人だった。

 ただし、本当に人間の老人なのかは分からない。目元が影になっていて、声だけが乾いている。

 

「何をお探しで」

 

 霊夢は証文の写しを見せた。

 

「これと同じ紙、見たことある?」

 

 老人は証文をちらりと見た。

 

 表情は変わらない。

 

「古い証文はよくあります」

 

「白玉楼の印が押してある」

 

「冥界の品も流れてきますので」

 

 妖夢が一歩前に出た。

 

「白玉楼の品が、なぜここに流れているのです」

 

 老人は妖夢を見上げた。

 

「流れてきたからです」

 

「答えになっていません」

 

「無縁塚では、流れてきたものに理由を聞きません」

 

 妖夢の手が、刀の柄へ動いた。

 

 霊夢がそれを目で止める。

 

「落ち着きなさい」

 

「しかし」

 

「斬るべきものを間違えるなって言われたんでしょ」

 

 妖夢は息を詰めた。

 

 幽々子の言葉。

 

 偽りだけを斬れ。

 

 妖夢は手を下ろした。

 

 老人はその様子を、面白くもなさそうに見ていた。

 

 魔理沙が紙束の一つをつまみ上げる。

 

「これ、命蓮寺の供養札じゃないか?」

 

 白い札。

 墨で経文が書かれ、端には命蓮寺の印に似たものがある。

 

 霊夢が見た。

 

「本物?」

 

「たぶん、古い型だな。今の命蓮寺のとは違う」

 

 妖夢は老人を見た。

 

「これはどこから」

 

「供養を終えた家から流れたものかもしれません。寺から出たものかもしれません。誰かが写したものかもしれません」

 

「つまり、分からないと」

 

「分からないものに値がつく場所ですので」

 

 その言葉に、妖夢は強い不快感を覚えた。

 

 分からないから売る。

 誰のものか分からないから、誰のものにしてもいい。

 

 無縁塚の理屈。

 

 だが、死者の名までその理屈に乗せてよいはずがない。

 

 霊夢は老人に近づいた。

 

「灰帳会を知ってるわね」

 

 老人の指が、わずかに止まった。

 

 それだけで十分だった。

 

 霊夢は言う。

 

「どこにいるの」

 

「存じません」

 

「知らない顔じゃないわね」

 

「灰帳会は整理屋です。この塚に流れた紙や品を帳面に移す者たち。珍しくはありません」

 

 魔理沙が笑う。

 

「整理屋ねえ。ずいぶん便利な言い方だ」

 

 老人は静かに答えた。

 

「散らかったままでは、物は腐ります。名も、紙も、借りも」

 

 妖夢が言った。

 

「死者の名は、あなたたちが整理するものではありません」

 

 老人は妖夢を見た。

 

「では、誰が整理するのです」

 

「白玉楼です」

 

 老人は薄く笑った。

 

「白玉楼が、すべての死者を覚えていると?」

 

 妖夢は言葉を失った。

 

 老人は続ける。

 

「人里で忘れられた者。寺で供養されなかった者。彼岸へ渡れなかった者。家の記録からこぼれた者。白玉楼は、その全てを知っていますか」

 

 妖夢は答えられない。

 

 知っている、と言いたかった。

 だが、それは嘘になる。

 

 白玉楼は多くの名を預かる。

 だが、全てではない。

 

 無縁の名。

 誰にも呼ばれなくなった名。

 紙だけに残った名。

 

 それらが、ここへ流れ着く。

 

 霊夢が老人の前の紙束を一枚めくった。

 

「だからって、死者の名前で借金を作っていい理由にはならないわ」

 

「作ったとは言っておりません」

 

「なら、誰が作ったの」

 

 老人は答えない。

 

 その時、魔理沙が露店の奥に積まれた帳面を見つけた。

 

 表紙は灰色。

 端は擦り切れている。

 だが、最近使われている形跡がある。

 

 魔理沙の目が光った。

 

「お、いいもの見つけた」

 

 老人が初めて慌てた。

 

「それは売り物ではありません」

 

「じゃあ、借りる」

 

 魔理沙は帳面をつかみ、素早く後ろへ下がった。

 

 妖夢が反射的に言う。

 

「魔理沙さん!」

 

「今回だけは褒めていいわ」

 

 霊夢が言った。

 

 老人が立ち上がる。

 

 その動きに合わせて、周囲の露店からいくつもの視線が向いた。

 

 市の空気が変わる。

 

 今まで物のように静かだった者たちが、一斉に生き物のような気配を帯びる。

 

 妖夢は刀に手をかけた。

 

 霊夢は御札を出す。

 

 魔理沙は帳面を小脇に抱えて笑った。

 

「やっぱり当たりか」

 

 老人は低く言った。

 

「返していただきたい」

 

「読んでからな」

 

「ここでは、持ち主を失ったものにも礼儀があります」

 

 霊夢が冷たく言う。

 

「死者の名前を勝手に売る連中が、礼儀を語るの?」

 

 老人は黙った。

 

 その沈黙の中、露店の奥から拍子木の音がした。

 

 かん、かん、と乾いた音。

 

 市の奥の幕が開き、一人の男が現れた。

 

 灰色の羽織。

 目深にかぶった笠。

 序章で人里に証文を持ち込んだ男に似ている。

 

 だが、同じではない。

 

 こちらの方が、輪郭がはっきりしている。

 生きている者の重さがある。

 

 男は三人を見ると、丁寧に頭を下げた。

 

「ようこそ、無縁塚の市へ」

 

 妖夢が鋭く問う。

 

「あなたが灰帳会ですか」

 

「灰帳会の帳付をしております。名を、灰原と申します」

 

 魔理沙が小声で言った。

 

「そのまんまだな」

 

 灰原は微笑んだ。

 

「その帳面は、当会の大切なものです。お返し願えますか」

 

「嫌だと言ったら?」

 

 霊夢が聞く。

 

「市の秩序が乱れます」

 

「もう乱れてるわよ」

 

「乱したのはそちらです」

 

 妖夢は一歩前に出た。

 

「死者の名義で証文を作ったのは、あなたたちですね」

 

 灰原は首を傾げる。

 

「作った、という表現は正確ではありません。残された名義を、整理しているのです」

 

「整理?」

 

「死者の名は残ります。家に、土地に、道具に、借りに、約束に。生者がそれを使う時、誰かが形を整えなければならない」

 

「その結果が、人里の死者名義の借金ですか」

 

「借りは消えません」

 

「死者に新しい借りを背負わせるな!」

 

 妖夢の声が市に響いた。

 

 周囲の幽霊たちが揺れる。

 

 灰原は落ち着いたままだった。

 

「死者は文句を言いません」

 

 その一言で、妖夢の目が冷たくなった。

 

 霊夢も眉をひそめる。

 

 魔理沙の笑みが消えた。

 

 灰原は続けた。

 

「生者は忘れます。家は潰れ、記録は焼け、寺の札は剥がれ、白玉楼の帳面にも載らない名がある。ならば、残った紙を使う者がいてもよいでしょう」

 

「死者は文句を言わないから?」

 

「ええ」

 

 妖夢は刀を抜きかけた。

 

 しかし、抜かなかった。

 

 幽々子の言葉が胸に刺さっていた。

 

 斬るべきものを間違えない。

 

 今、怒りに任せて灰原を斬っても、何も戻らない。

 紙は残る。

 偽証文は残る。

 奪われた名前は、まだ取り戻せない。

 

 霊夢が一歩前に出た。

 

「白玉楼の古印はどこ」

 

 灰原は笑みを薄くした。

 

「古印?」

 

「とぼけないで。人里の証文に押されてる」

 

「古い印は、古い箱から出るものです」

 

 妖夢の顔が険しくなる。

 

「白玉楼から盗んだのですか」

 

「盗んだとは限りません。捨てられたのかもしれない。流れ着いたのかもしれない。誰かが写しを売ったのかもしれない」

 

「誰が」

 

「名前のない者です」

 

 灰原の言葉は、霧のように逃げる。

 

 霊夢は魔理沙へ目を向けた。

 

「帳面、開いて」

 

「了解」

 

 魔理沙は帳面を開いた。

 

 中には、びっしりと名前が並んでいた。

 

 死者の名。

 生前の住まい。

 家族。

 遺品。

 借り。

 供養の有無。

 白玉楼記録との照合欄。

 命蓮寺供養札の番号。

 人里の倉庫や土地の情報。

 

 妖夢は息を呑んだ。

 

「これは……」

 

 灰原の声が少し低くなる。

 

「見ない方がよろしい」

 

 魔理沙はページをめくる。

 

 そこに、写しが貼られていた。

 

 白玉楼の古印。

 命蓮寺の供養札。

 守矢の古札。

 紅魔館の封印箱の印。

 永遠亭の薬代記録らしき符号。

 

 死者の名だけではない。

 

 死者に関わるあらゆる印が、整理され、写され、使える形で保存されている。

 

 霊夢が低く言った。

 

「死者の情報を売ってるのね」

 

 灰原は否定しない。

 

「情報は、忘れられた名に形を与えます」

 

「金にしてるだけでしょ」

 

「金を払う者がいるからです」

 

 魔理沙が別のページを見つけた。

 

「これ、人里の倉庫の図面だ」

 

 妖夢が見る。

 

 前回の水利抗争後、証文や記録の写しを保管していた古い共同倉庫。

 

 その位置、鍵の管理者、出入りする者の名まで書かれている。

 

 霊夢の目が鋭くなる。

 

「そこまで調べてるの」

 

 灰原は微笑んだ。

 

「人里の記録は、人里だけのものではありません」

 

「それを決めるのはあんたじゃない」

 

 妖夢は帳面を見つめた。

 

 名前が並んでいる。

 

 文字として。

 情報として。

 担保として。

 金に変えられるものとして。

 

 その中には、白玉楼へ来た幽霊の名もあった。

 

 胸に証文の切れ端を貼られていた、あの薄い幽霊。

 「名前を返して」と言った霊の名も。

 

 妖夢の手が震えた。

 

「この名前は、誰のものですか」

 

 灰原は答えた。

 

「記録に残った者のものです」

 

「違います」

 

 妖夢ははっきり言った。

 

「名前は、その者のものです」

 

 灰原は初めて、少しだけ不快そうな顔をした。

 

「死者はもう使いません」

 

「だから、あなたが使うのですか」

 

「使われなければ、忘れられるだけです」

 

「忘れられないために使うのではありません」

 

 妖夢の声が、低くなる。

 

「眠らせるために、名前は残すのです」

 

 灰原は黙った。

 

 霊夢が小さく言う。

 

「幽々子の受け売り?」

 

「……はい」

 

「いいんじゃない」

 

 魔理沙は帳面を閉じた。

 

「これ、持って帰るぜ」

 

 灰原が手を上げた。

 

 その瞬間、周囲の露店から灰色の紙片が舞い上がった。

 

 証文の切れ端。

 供養札の写し。

 古い名札。

 それらが風もないのに舞い、霊夢たちの周囲を囲む。

 

 紙片には名前が書かれていた。

 

 死者の名。

 忘れられた名。

 誰かの親。

 誰かの子。

 誰かの師。

 誰かの敵。

 

 その名が、壁のように立ち塞がる。

 

 妖夢は刀を抜いた。

 

 しかし斬れない。

 

 名前が書かれているからだ。

 

 霊夢も舌打ちした。

 

「嫌な盾を使うわね」

 

 灰原は言った。

 

「死者の名は重いでしょう」

 

「重くしたのはあんたたちよ」

 

 霊夢が御札を構える。

 

 魔理沙は帳面を抱えたまま後ろへ下がる。

 

「どうする? 斬れないぞ」

 

 妖夢は紙片を見た。

 

 幽々子の言葉。

 

 偽りだけを斬れ。

 

 妖夢は深く息を吸った。

 

 そして、白楼剣を抜いた。

 

 楼観剣ではない。

 斬るための大きな刃ではなく、迷いを断つ短い刃。

 

 紙片の一枚が、妖夢の前に舞う。

 

 そこには名が書かれている。

 その下に、灰帳会の印が重ねられていた。

 

 妖夢は名を斬らなかった。

 

 印だけを斬った。

 

 紙片が二つに割れたわけではない。

 ただ、灰帳会の印だけが薄く剥がれ、灰になって落ちた。

 

 紙に残った名前は、そのまま静かに床へ降りる。

 

 霊夢が目を細めた。

 

「器用なことするわね」

 

 妖夢は次の紙片へ向かった。

 

 名ではなく、偽の印を。

 記録ではなく、上書きされた借りを。

 死者ではなく、死者に貼りついた欲を。

 

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 

 妖夢は紙片の間を駆けた。

 

 白楼剣が光るたび、灰帳会の印が剥がれ落ちる。

 死者の名は床に残り、ふわりと薄い光を帯びる。

 

 周囲の幽霊たちが、少しずつざわめきを止めた。

 

 霊夢はその隙に御札を放ち、紙片の流れを固定する。

 

「魔理沙!」

 

「分かってる!」

 

 魔理沙が光を放ち、灰帳会の露店の裏に置かれた箱を吹き飛ばした。

 

 中から、さらに証文の束が散らばる。

 

 そして、その奥に小さな印箱が見えた。

 

 妖夢の目が鋭くなる。

 

「あれは」

 

 白玉楼のものと同じ形の古い印箱。

 

 妖夢が駆け出す。

 

 灰原がそれを止めようとした。

 

「それに触れるな」

 

 霊夢が立ちはだかる。

 

「触られたくないなら、最初から盗むな」

 

 灰原は袖から証文を取り出した。

 

 そこには、妖夢の名が書かれていた。

 

 妖夢自身の名。

 

 霊夢の顔色が変わる。

 

「妖夢!」

 

 灰原は低く言った。

 

「死者だけが名を奪われるわけではありません。半人半霊なら、なおさら境目は曖昧でしょう」

 

 妖夢の足が止まった。

 

 自分の名が書かれた証文。

 

 借主、魂魄妖夢。

 担保、白玉楼への忠義。

 保証、西行寺幽々子。

 

 一目で偽物と分かる。

 

 それでも、名を書かれた瞬間、胸の奥に冷たいものが触れた。

 

 灰原は言う。

 

「名前は、書けば縛れる」

 

 妖夢は証文を見つめた。

 

 怒りが湧く。

 だが、それ以上に、はっきり分かった。

 

 これは偽りだ。

 

 自分の名を借りた、ただの紙だ。

 

 妖夢は白楼剣を構えた。

 

「私の名前は、あなたのものではありません」

 

 刃が走った。

 

 証文の名前は残る。

 だが、その下に押された灰帳会の印だけが、灰になって崩れた。

 

 証文は力を失い、ただの紙として落ちた。

 

 灰原の顔から笑みが消えた。

 

 その隙に、魔理沙が印箱を拾い上げた。

 

「取ったぜ!」

 

 妖夢が駆け寄り、箱を受け取る。

 

 中には、印が入っていた。

 

 薄墨色の桜の印。

 白玉楼の古印。

 

 妖夢はそれを両手で持った。

 

 重かった。

 

 ただの印とは思えないほどに。

 

 そこには、長い時間と、多くの名と、白玉楼の責任が染み込んでいるようだった。

 

 霊夢は灰原へ向き直る。

 

「これで終わり?」

 

 灰原はゆっくり後ろへ下がった。

 

「終わりではありません。印は一つではない。写しは残る。証文も、帳面も、市の奥にまだある」

 

「なら全部回収する」

 

「無縁塚にある名前を、すべて持ち帰れると?」

 

 霊夢は答えない。

 

 灰原は笑みを戻した。

 

「白玉楼にも、博麗にも、命蓮寺にも、人里にも、全ての名は守れません。だから我々がいる」

 

「死者の名で金を取るために?」

 

「忘れられた名に価値を与えるために」

 

 妖夢は印箱を抱えたまま言った。

 

「価値と値段は違います」

 

 灰原は妖夢を見た。

 

「その違いを、白玉楼が本当に守れるのですか」

 

 妖夢はすぐには答えられなかった。

 

 灰原はその沈黙を見て、満足したように一礼した。

 

「では、また」

 

 霧のように灰色の紙片が舞い上がる。

 

 霊夢が御札を投げた時には、灰原の姿はもう薄れていた。

 

 残ったのは、露店。

 散らばった証文。

 取り戻した古印。

 そして、魔理沙が抱えた灰帳会の帳面。

 

 無縁塚の市は、何事もなかったように少しずつ音を取り戻した。

 

 だが、妖夢には分かっていた。

 

 ここは、ただの市ではない。

 

 死者の名前が、品物の横に並べられる場所。

 忘れられたことを理由に、誰かが値をつける場所。

 

 妖夢は印箱を胸に抱いた。

 

 重い。

 

 白玉楼へ戻れば、幽々子はきっと微笑むだろう。

 だが、妖夢はもう、ただ「取り戻しました」とは言えない。

 

 なぜなら、取り戻したのは印だけだからだ。

 

 名前は、まだ市の奥に残っている。

 

 霊夢が帳面を見た。

 

「これ、慧音に見せるわよ」

 

 魔理沙が頷く。

 

「人里の死亡記録と照合だな」

 

 妖夢は言った。

 

「命蓮寺の供養札もありました」

 

「次は命蓮寺ね」

 

 霊夢は面倒くさそうに息を吐いた。

 

「供養まで絡むと、ますます厄介になるわ」

 

 妖夢は無縁塚の奥を振り返った。

 

 灰原の姿はない。

 

 だが、声だけがまだ耳に残っている。

 

 死者は文句を言わない。

 

 妖夢は静かに答えた。

 

「言わないからこそ、守る者が必要なのです」

 

 その言葉は、誰に向けたものでもない。

 

 けれど、無縁塚の隅で揺れていた幽霊が、一瞬だけこちらを見たような気がした。

 

 白玉楼の古印は戻った。

 

 だが、幽冥証文抗争は、ここからが本番だった。

 

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