命蓮寺の鐘は、昼前に鳴った。
その音は、白玉楼の桜の下で聞く風の音とは違う。
人里に近く、生者の暮らしに近い音だった。
米を炊く煙。
荷車の車輪。
子供の声。
寺へ向かう足音。
供養に来た者の小さなため息。
命蓮寺は、死者だけの場所ではない。
生きている者が、死んだ者を思い出すために来る場所だ。
魂魄妖夢は、寺の門前に立っていた。
隣には博麗霊夢。
少し後ろには霧雨魔理沙。
魔理沙の小脇には、無縁塚で奪ってきた灰帳会の帳面がある。
妖夢の手には、白玉楼から持ち出された古印の入った箱。
そしてもう一つ。
命蓮寺の供養札に似せた札。
無縁塚の市で見つかったものだ。
霊夢は寺の門を見上げた。
「また寺ね」
魔理沙が笑う。
「前の水の件でも来たしな。最近、命蓮寺も揉め事の中心だぜ」
「寺が揉め事を呼ぶんじゃない。揉め事が寺を利用するのよ」
妖夢は静かに言った。
霊夢は横目で見る。
「今の、幽々子っぽいわね」
「……そうでしょうか」
「うつってるわ」
妖夢は少し複雑な顔をした。
門の内側では、供養に来た人々が列を作っていた。
家族の名を書いた札を持つ者。
小さな包みを抱える者。
古い位牌を持つ者。
ただ手を合わせるだけの者。
命蓮寺の僧たちは、それぞれに札を渡し、名前を聞き、帳面に書きつけている。
妖夢はその様子を見て、胸の奥が重くなった。
名前が並んでいる。
だが、無縁塚で見た名前とは違う。
ここでは、名が金の担保ではなく、祈りとして扱われているように見えた。
けれど、その祈りを示す供養札が、灰帳会に使われていた。
それが許せなかった。
「妖夢」
霊夢が声をかける。
「最初から斬り込まないでよ」
「斬り込みません」
「今、ちょっと顔が斬り込む顔だった」
「……気をつけます」
寺の奥から、雲居一輪が現れた。
妖夢たちを見ると、少し驚いた顔をする。
「博麗の巫女に、白玉楼の剣士。今日は何の用だい」
霊夢は短く答えた。
「供養札の件」
一輪の表情が変わった。
それだけで、命蓮寺もすでに何かを知っていることが分かった。
「白蓮様を呼ぶよ」
通されたのは、本堂の脇にある座敷だった。
畳の上には、いくつもの帳面が積まれている。
供養の記録。
寄進の控え。
故人の名を書いた札束。
寺に預けられた古い品。
その奥に、聖白蓮が座っていた。
穏やかな顔。
けれど、目は笑っていない。
彼女の隣には村紗水蜜が立っていた。
腕を組み、妖夢を見るなり眉をひそめる。
「白玉楼が今度は寺に何の用だ」
妖夢も村紗を見る。
「命蓮寺の供養札が、死者名義の偽証文に使われています」
村紗の目が鋭くなった。
「うちがやったと言いたいのか」
「そうではありません」
「なら、言い方を選べ」
妖夢の手がわずかに刀へ動きかける。
霊夢が咳払いをした。
「はい、始まる前に止めるわよ」
白蓮が静かに言った。
「村紗」
村紗は口を閉じた。
白蓮は妖夢へ向き直る。
「供養札を見せてください」
妖夢は無縁塚で見つけた札を差し出した。
白蓮はそれを手に取り、しばらく見つめた。
そして、小さく息を吐いた。
「命蓮寺の正式な札ではありません」
妖夢の肩から少し力が抜ける。
しかし白蓮は続けた。
「ですが、古い札の型をよく写しています。紙も、墨も、経文の癖も、外の者が一目で見抜くのは難しいでしょう」
魔理沙が灰帳会の帳面を広げた。
「この中に、命蓮寺の供養札の番号が載ってる。あと、供養済みかどうかの欄もあるぜ」
白蓮の表情がさらに曇った。
村紗が帳面を覗き込み、舌打ちする。
「何で、うちの供養記録がこんな所にある」
「無縁塚の市にあった」
霊夢が言う。
「灰帳会が集めてた。死者の名前、遺品、白玉楼の印、命蓮寺の札、人里の土地情報。全部まとめてね」
白蓮は帳面のページをめくった。
そこには、寺で供養された死者の名があった。
一部は本物。
一部は存在しない名。
一部は供養済みと偽って書かれている。
その横には、こう書かれていた。
**命蓮寺供養済。白玉楼名義預かり。債権整理可。**
妖夢はその一文を見て、声を低くした。
「これは、どういう意味ですか」
白蓮は答えなかった。
代わりに、村紗が吐き捨てるように言った。
「供養された死者だから、名義は整理済み。白玉楼が預かっているから、死者の証文を動かしてもいい。そういう理屈にしたんだろう」
「そんな理屈が通るのですか」
「通らない」
村紗は強く言った。
「でも、札と印と帳面が揃えば、信じる奴はいる」
霊夢が頷く。
「人里の商人には十分ね。死者の名義なんて、普通は確かめようがない」
妖夢は白蓮を見た。
「命蓮寺は、供養札をどう管理しているのですか」
その声は、問いではあったが、責めにも聞こえた。
村紗が一歩前に出る。
「おい」
「村紗」
白蓮が再び止める。
白蓮は妖夢の問いを受け止めた。
「供養札は、供養を終えた証として渡します。遺族が持ち帰るものもあれば、寺で保管するものもあります。古いものは焼納することもあります」
「焼納したはずの札が、無縁塚に流れていました」
「そのようですね」
「管理が甘かったのではありませんか」
座敷の空気が硬くなった。
村紗の目に怒りが宿る。
「白玉楼こそどうなんだ。古印を持ち出されておいて、寺の札だけ責めるのか」
妖夢は言い返す。
「白玉楼の管理に問題があったことは認めます」
「なら、命蓮寺だけを責めるな」
「死者を救うと言いながら、名義を守れなかったのではないですか」
「死者を囲ってる白玉楼に言われたくないね」
妖夢の表情が変わった。
「囲っている?」
「冥界にいるから、死者の名は全部自分たちのものだと思ってるんじゃないのか」
「そのようなことはありません」
「本当に?」
村紗の声は鋭い。
「白玉楼は死者を預かる。命蓮寺は供養する。彼岸は裁く。人里は記録する。みんな、自分の役目を言う。だが、死者本人はどこにいる?」
妖夢は答えられなかった。
その問いは、灰原の言葉と重なった。
白玉楼が、すべての死者を覚えていると?
妖夢の胸の奥に、迷いが生まれる。
白蓮が静かに口を開いた。
「村紗、それ以上はやめなさい」
村紗は不満そうだったが、引いた。
白蓮は妖夢を見た。
「妖夢さん。あなたの怒りは正しいと思います。ですが、命蓮寺の供養もまた、生きている者と死んだ者の間にあるものです」
白蓮は帳面に手を置いた。
「供養には祈りが必要です。ですが、それだけでは成り立ちません。札を作る紙、墨、僧の手、記録の管理、遺族への説明。そこには人手も物資も必要です」
霊夢が小さく言う。
「つまり金もいる」
白蓮は頷いた。
「はい。そこを隠して、ただ綺麗なことだけを言えば、また誰かにつけ込まれます」
妖夢は何も言わなかった。
供養は清らかなものだと思っていた。
だが、清らかなものを支えるためにも、帳面と金と管理がいる。
その現実を灰帳会は利用した。
白蓮は札を見つめる。
「この偽札は、命蓮寺の弱さを突いています」
「弱さ?」
「供養を受けた者の名を、遺族が安心のために持ち帰る。古い札を焼納する。記録を寺に残す。その流れのどこかで、札の型や番号が外に出たのでしょう」
魔理沙が帳面をめくる。
「ここに“札番抜き”って書いてあるな」
白蓮の眉が動く。
「札番抜き?」
「供養札の番号だけを抜き出して、別の死者名義に合わせる。そうすれば、実在する供養記録に見える」
霊夢が呆れたように言う。
「死者の名義を偽造するために、供養の記録まで使ってるのね」
妖夢は拳を握った。
怒りだけではない。
恥ずかしさもあった。
白玉楼だけが死者を守っていると思いかけていた。
だが、命蓮寺にも守っているものがある。
そして、その守り方にも穴があった。
穴があるのは、白玉楼も同じだった。
その時、本堂の外が騒がしくなった。
一輪が戸を開ける。
「白蓮様、人里から人が来ています。供養札の件で」
入ってきたのは、中年の女だった。
顔色が悪い。
手には古い供養札と、灰色の証文を持っている。
女は座敷に入るなり、白蓮に頭を下げた。
「この札は、本当に供養済みの証なのですか」
白蓮は穏やかに言った。
「見せてください」
女は札と証文を差し出した。
証文には、亡くなった夫の名が書かれていた。
借主として。
担保には、小さな畑。
そして末尾には、白玉楼の古印に似た印と、命蓮寺の供養札番号。
女は震える声で言った。
「夫は、ちゃんと供養してもらいました。借金など、聞いていません。でも、これを持った男が来て、供養済みの名義だから、白玉楼を通じて整理すると……」
妖夢は証文を見た。
また、死者の名が使われている。
白蓮は供養札を確認した。
「この札は、本物です」
女の顔が青ざめる。
「では、証文も……」
「いいえ」
白蓮の声ははっきりしていた。
「札は本物ですが、証文は偽物です」
霊夢が横から言う。
「本物の供養札を、偽の借金に貼りつけたのよ」
女は膝から崩れそうになった。
妖夢が支える。
「大丈夫です。この名義は、必ず正します」
女は妖夢を見た。
「でも、あの人の名前が……」
妖夢は言葉に詰まった。
名前を汚された者の家族。
その不安は、紙を偽物だと証明するだけでは消えない。
白蓮が女の前に座った。
「命蓮寺は、この供養札の記録を再確認します。あなたの夫の名が、借金に使われることはありません」
妖夢も言った。
「白玉楼も、その名義を認めません」
霊夢は証文を手に取った。
「博麗も、この証文を無効として扱う」
女は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
女が去った後、座敷はしばらく静かだった。
村紗が低く言う。
「灰帳会は、遺族の不安まで使っている」
「死者は文句を言わない」
妖夢が呟いた。
「だから、生者を脅す」
霊夢は証文を見た。
「やり口が見えてきたわね」
魔理沙が帳面を指差す。
「まず無縁塚で死者の情報を拾う。人里の死亡記録、遺品、家系、土地情報。次に命蓮寺の供養札番号を合わせる。白玉楼の古印を押す。これで、死者名義の証文がそれっぽくなる」
「そして遺族や現在の土地使用者に取り立てる」
白蓮が言う。
「供養された死者だから、名義は整理済み。白玉楼が預かっている。そう言われれば、普通の人は反論できません」
村紗が拳を握る。
「胸糞悪い」
妖夢は白蓮を見る。
「命蓮寺は、供養札の全記録を確認できますか」
「できます。ただし時間がかかります」
「白玉楼の記録と照合します」
白蓮は頷いた。
「お願いします」
その言葉に、妖夢は少し驚いた。
命蓮寺と白玉楼。
供養する者と、死者を預かる者。
互いに疑い合えば、灰帳会の思う壺だ。
白蓮はそれを分かっている。
霊夢が言った。
「慧音も入れなさい」
「人里の死亡記録ですね」
白蓮が言う。
「ええ。寺と白玉楼だけで照合したら、人里が疑う。人里の記録も合わせる」
魔理沙が笑った。
「また慧音の帳面が分厚くなるな」
「最初から分厚いわよ」
霊夢は立ち上がった。
「とにかく、命蓮寺は偽札と本物の供養札の区別をつけて。灰帳会に流れた番号も洗い出す」
白蓮は頷いた。
「命蓮寺として協力します」
村紗も渋々頷く。
「水の次は札か。寺も暇じゃないんだがな」
霊夢が返す。
「暇な勢力なんてないわよ。暇そうに見えるのは白玉楼くらい」
妖夢が少し睨む。
「白玉楼も暇ではありません」
「幽々子は暇そうだけど」
「幽々子様は……」
妖夢は言いかけて、止まった。
その時、座敷の空気がふっと冷えた。
桜の花びらが一枚、畳の上に落ちた。
命蓮寺の中であるにもかかわらず。
白蓮が顔を上げる。
戸口に、西行寺幽々子が立っていた。
いつの間に来たのか、誰にも分からなかった。
幽々子は穏やかに微笑んでいる。
「あら。暇そうって聞こえた気がしたわ」
霊夢は露骨に嫌そうな顔をした。
「来たのね」
「ええ。死者の話だもの」
妖夢が立ち上がる。
「幽々子様。古印は取り戻しました」
「よくやったわ、妖夢」
幽々子はそう言ってから、白蓮へ向き直った。
「白蓮。供養札を使われたそうね」
白蓮は静かに頷いた。
「命蓮寺の責任です」
「白玉楼の古印も使われたわ」
「はい」
「どちらも、死者の名を守るためのものだったはず」
幽々子は座敷に入り、畳に落ちた桜の花びらを拾った。
「供養は、死者を眠らせるためのもの。名前を起こすためのものではないわ」
白蓮はその言葉を受け止めた。
「その通りです」
「でも、眠らせるには、誰かが名前を覚えていなければならない」
「はい」
「覚えるには、札も帳面も必要。綺麗な祈りだけでは足りない」
白蓮は少し目を伏せる。
「だからこそ、そこを悪用されました」
幽々子は微笑んだ。
「ええ。白玉楼も同じよ」
妖夢は幽々子を見た。
幽々子は続ける。
「死者の名前は、ただ美しいものではないわ。残された借りも、恨みも、道具も、土地も、全部まとわりつく。私たちは、それを静かにほどくために名を預かる」
村紗が言った。
「灰帳会は、それを結び直して金にした」
「そうね」
幽々子の笑みが、わずかに冷たくなる。
「とても無粋だわ」
白蓮は幽々子を見た。
「命蓮寺は、供養札の再確認を行います。白玉楼、人里、博麗と照合します」
「助かるわ」
幽々子は妖夢へ視線を向けた。
「妖夢」
「はい」
「命蓮寺と共に動きなさい。死者の名は、白玉楼だけで守るものではないと覚えておくの」
妖夢は少しだけ驚いた。
「白玉楼だけではない……」
「そうよ。白玉楼は眠る場所。命蓮寺は祈る場所。人里は覚える場所。彼岸は裁く場所。どれか一つだけでは、名前は守れない」
妖夢は深く頭を下げた。
「承知しました」
その時、寺の門の方から、慌ただしい足音が響いた。
一輪が再び駆け込んでくる。
「白蓮様! 外に、小野塚小町が」
霊夢が眉をひそめる。
「小町?」
白蓮の表情が変わる。
幽々子は、少しだけ目を細めた。
「彼岸が動いたのね」
門前に出ると、小野塚小町が鎌を肩に担いで立っていた。
いつものような気だるげな顔ではない。
珍しく、真面目な表情をしている。
「よお。揃ってるね」
霊夢が聞く。
「何しに来たの」
「仕事だよ。珍しくね」
小町は懐から一枚の紙を出した。
彼岸の帳面の写し。
「死んだ奴の名前が、彼岸で詰まり始めてる」
妖夢の顔が強張る。
「詰まる?」
「渡るはずの魂が、“未精算”扱いで止められてる。借りが残ってる、名義が整理されてない、供養記録と白玉楼記録が食い違ってる。そんな理由でね」
白蓮が息を呑む。
幽々子は静かに言った。
「生者の証文が、彼岸にまで届いたのね」
小町は頷いた。
「映姫様が怒ってる。かなり」
霊夢は空を見た。
「面倒な相手が増えたわね」
「映姫様は言ってたよ」
小町は紙を開いた。
「死者の裁きに、生者の金勘定を混ぜるな、ってさ」
その言葉に、全員が黙った。
供養札。
白玉楼の古印。
灰帳会の帳面。
死者名義の証文。
そして彼岸の帳面。
死者の名前を使った抗争は、もう人里や白玉楼だけの話ではなくなっていた。
妖夢は、握っていた印箱に力を込めた。
取り戻すべき名前は、まだ増えている。
幽々子は小町を見て、静かに言った。
「では、彼岸へ行きましょうか」
霊夢がため息をつく。
「次は彼岸ね」
魔理沙が肩をすくめた。
「死者の名前ってのは、どこまでも流れるんだな」
妖夢は答えた。
「だから、止めなければなりません」
白蓮が頷く。
「命蓮寺も同行します」
村紗は碇を肩に担いだ。
「供養札を使われたままじゃ、腹の虫が収まらない」
小町は苦笑した。
「彼岸で暴れないでくれよ。映姫様の説教が長くなる」
霊夢は言った。
「説教は短くしてもらいなさい」
「無理だね」
小町は即答した。
命蓮寺の鐘が、夕方を告げた。
その音は、まだ少し重かった。
だが、妖夢には分かった。
これは終わりの鐘ではない。
次の帳面が開かれる音だった。