東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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第四章 彼岸の帳面

 

 

 彼岸へ向かう道は、白玉楼とも、命蓮寺とも違っていた。

 

 白玉楼は静かだ。

 命蓮寺は祈りの声がある。

 人里は生活の音がする。

 

 だが彼岸には、音の代わりに順番があった。

 

 列。

 札。

 帳面。

 渡し。

 裁き。

 

 死者が流れ、名が並び、過去が開かれる場所。

 

 小野塚小町の舟は、ゆっくりと水面を進んでいた。

 

 舟に乗っているのは、霊夢、魔理沙、妖夢、白蓮、村紗。

 そして、白玉楼から来た幽々子。

 

 小町は舟の先で櫂を動かしながら、珍しく口数が少なかった。

 

 霊夢は川面を見た。

 

 水は静かだ。

 だが、霧の湖の水とは違う。

 

 流れているのに、流れていないように見える。

 生者の時間から外れた水だった。

 

「相変わらず、嫌な川ね」

 

 霊夢が言うと、小町は肩をすくめた。

 

「好きで渡る場所じゃないからね」

 

 魔理沙は舟の縁から身を乗り出し、川面を覗いている。

 

「落ちたらどうなる?」

 

「説教が増える」

 

「命は?」

 

「命がある奴は、そもそもここに来るべきじゃない」

 

「じゃあ霊夢は?」

 

「何度も来てるから、半分常連だね」

 

「勝手に常連にしないで」

 

 そんな軽口の中でも、妖夢は黙っていた。

 

 膝の上には、白玉楼の古印を納めた箱。

 懐には、灰帳会の帳面から写した死者名義の一覧。

 そして手元には、命蓮寺の偽供養札。

 

 名前。

 印。

 供養。

 証文。

 

 それらが、今度は彼岸にまで届いている。

 

 死者の名前が、裁きの前で足止めされている。

 

 その事実が、妖夢の胸に重く乗っていた。

 

 白蓮も静かだった。

 

 命蓮寺の供養札が偽証文に使われた。

 それだけではなく、彼岸の帳面にまで影響している。

 供養の記録が、死者の裁きを濁らせている。

 

 村紗は腕を組み、不機嫌そうに川を見ていた。

 

「まったく。死んだ後まで紙に振り回されるとはな」

 

 幽々子が穏やかに言う。

 

「紙は軽いけれど、名前が乗ると重くなるのよ」

 

 村紗は少しだけ視線を逸らした。

 

「白玉楼の言葉は、たまに重いな」

 

「たまに?」

 

「いつもではない」

 

 幽々子は楽しそうに微笑んだ。

 

 舟が岸に着いた。

 

 そこにあったのは、裁きの場へ続く石段だった。

 

 上には、四季映姫・ヤマザナドゥが待っていた。

 

 小さな体。

 厳しい目。

 手には悔悟の棒。

 

 その背後には、巨大な帳面台がいくつも並んでいる。

 彼岸の役人たちが、死者の名を照合し、札をめくり、書きつけを確認していた。

 

 だが、今日は明らかに滞っていた。

 

 列が詰まっている。

 

 幽霊たちが不安そうに揺れている。

 中には、自分の名前を呼ばれるのを待ったまま、動けなくなっている者もいた。

 

 映姫は一同を見渡した。

 

「来ましたか」

 

 霊夢は軽く手を上げた。

 

「来たわよ。説教は短めでお願い」

 

「無理です」

 

 小町が小さく笑った。

 

「ほらね」

 

 映姫は霊夢を無視し、妖夢と白蓮、そして幽々子を見た。

 

「今回の件は、彼岸の裁きにまで影響しています。非常に重大です」

 

 妖夢は頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

 白蓮も続く。

 

「命蓮寺としても、供養札の管理不備を認めます」

 

 幽々子は静かに微笑んでいる。

 

「白玉楼も、古印を使われた責任を負うわ」

 

 映姫は頷いた。

 

「その認識があるなら、話は早い」

 

 霊夢が小声で魔理沙に言う。

 

「早いって言ったけど、絶対長いわよ」

 

「だろうな」

 

 映姫は帳面台へ向かい、一冊の大きな帳面を開いた。

 

 その頁には、いくつもの名前が並んでいる。

 

 ただし、その一部には赤い印が押されていた。

 

 **未精算。**

 

 妖夢はその文字を見て、息を呑んだ。

 

「未精算……」

 

 映姫は静かに説明した。

 

「本来、死者の裁きでは、その者の生前の行いを見ます。善行、悪行、悔い、罪、償い。そこに生者の後付けの金銭証文を混ぜることはありません」

 

 彼女は赤い印を指した。

 

「しかし今回、複数の死者の名に対して、死後に発生したかのような債務、名義未整理、担保処理、供養記録の不一致が付与されています」

 

 魔理沙が顔をしかめた。

 

「死んだ後に書かれた借金で、死者が止められてるってことか」

 

「正確には、帳面上の照合に異常が出て、処理が止まっているのです」

 

「役所みたいだな」

 

 小町がぼそりと言う。

 

「彼岸はかなり役所だよ」

 

 映姫が小町を見る。

 

「小町」

 

「はい、黙ります」

 

 映姫は話を続けた。

 

「問題は、証文そのものではありません。証文に付随する印です。白玉楼の古印、命蓮寺の供養札番号、人里の死亡記録、無縁塚の遺品帳。これらが組み合わさることで、彼岸の下位帳面に混乱が生じています」

 

 白蓮が顔を曇らせる。

 

「供養の記録が、裁きの妨げに」

 

「はい」

 

 映姫は厳しく言った。

 

「供養は死者の安寧のためのものです。裁きを遅らせる口実にしてはなりません」

 

 白蓮は深く頭を下げた。

 

 妖夢は帳面を見る。

 

 そこには、無縁塚で見た名前もあった。

 人里の証文に使われていた名前。

 幽霊の胸に紙片を貼られていた名前。

 命蓮寺の札番号と並べられていた名前。

 

 名前の横に、赤い未精算の文字。

 

 妖夢は静かに言った。

 

「この方々は、何もしていないのですね」

 

 映姫は妖夢を見る。

 

「死者本人の罪ではありません」

 

「では、なぜ止められているのですか」

 

「帳面が濁ったからです」

 

 映姫の声は硬い。

 

「死者を裁くには、名前と行いを正しく照らす必要があります。そこに偽りの証文が混ざれば、まず偽りを取り除かなければならない」

 

 妖夢は唇を噛んだ。

 

 名前を使われた死者は、また待たされる。

 

 生きている者の金勘定のせいで。

 

 村紗が苛立ったように言った。

 

「灰帳会の連中、死者だけじゃなく彼岸まで詰まらせてるのか」

 

「彼らは、死者の名がどこまで届くかを知っています」

 

 映姫は言った。

 

「人里の記録に届く。命蓮寺の供養に届く。白玉楼の名義に届く。彼岸の帳面に届く。だからこそ、死者の名を利用した」

 

 霊夢が腕を組む。

 

「悪知恵だけは回るわね」

 

 幽々子は帳面を見つめていた。

 

 その顔は穏やかだったが、目だけは静かに冷えている。

 

「映姫」

 

「はい」

 

「この子たちの名前は、戻せる?」

 

 映姫は即答した。

 

「戻します。そのために、あなた方を呼びました」

 

 映姫は別の帳面を開いた。

 

 そこには、灰帳会の偽証文の写しがまとめられている。

 

「照合作業を行います。白玉楼は古印の真偽を確認。命蓮寺は供養札番号の真偽を確認。人里の記録は慧音に照会します。博麗神社は生者側の混乱を押さえる。彼岸は、死者本人の裁きと後付け証文を分離します」

 

 霊夢は面倒くさそうに言う。

 

「つまり、また全員で帳面仕事?」

 

「その通りです」

 

「殴った方が早くない?」

 

「殴っても帳面は正しくなりません」

 

「正論は嫌いよ」

 

 魔理沙が笑う。

 

「霊夢の天敵だな、映姫は」

 

「あなたも他人事ではありません」

 

 映姫は魔理沙を見る。

 

「無縁塚で帳面を持ち出しましたね」

 

「借りただけだ」

 

「返却予定は?」

 

「調査が終わったら」

 

「いつ終わりますか」

 

「そのうち」

 

「その“そのうち”が積み重なって、罪になります」

 

「ほら、始まった」

 

 小町が小声で言う。

 

 映姫は咳払いした。

 

「今は本題を優先します」

 

 小町は安心したように息を吐いた。

 

 妖夢は帳面台に近づいた。

 

「私は、何をすれば」

 

「あなたは、白玉楼の古印に押された偽りを見分けなさい」

 

 映姫は一枚の証文を示した。

 

「ただし、紙を破ってはいけません。名前を消してはいけません。偽りの印だけを剥がす必要があります」

 

 妖夢は頷いた。

 

「無縁塚でもやりました」

 

「見ています」

 

 妖夢が少し驚く。

 

「見ていたのですか」

 

「彼岸の帳面に影響することですから」

 

 映姫は妖夢を見据えた。

 

「ですが、あなたはまだ迷っています」

 

 妖夢の表情が硬くなる。

 

「迷い……」

 

「白玉楼は死者の名を守っているのか。それとも囲っているのか。命蓮寺は供養しているのか。それとも札で名を管理しているのか。人里は記録しているのか。それとも名義を縛っているのか」

 

 映姫の声は厳しい。

 

「その迷い自体は悪ではありません。しかし、迷ったまま刃を振るえば、斬るべきものを間違えます」

 

 妖夢は言葉を失った。

 

 幽々子の言葉と同じだった。

 

 斬るべきものを間違えない。

 

 映姫は続ける。

 

「あなたが斬るべきものは、死者の名前ではありません。記録でもありません。供養でもありません。偽りの上書きです」

 

「偽りの上書き……」

 

「そうです。死者の名に、生者が勝手に貼りつけた金銭、担保、債務、名義処理。それを切り離すのです」

 

 妖夢は白楼剣の柄に手を置いた。

 

「分かりました」

 

 映姫は白蓮へ向いた。

 

「命蓮寺」

 

「はい」

 

「供養札の再発行制度を検討しなさい。古い札番号が流出している以上、現在の札と過去の札を区別できるようにする必要があります」

 

 白蓮は頷く。

 

「命蓮寺は受け入れます」

 

「寄進記録も見直しなさい」

 

 村紗が顔をしかめる。

 

「そこまで?」

 

 映姫は村紗を見る。

 

「供養札が金銭と結びついた記録を持つ以上、灰帳会はそこを利用しました。寄進額、供養日、札番号、故人名。これらが外部に流れれば、偽証文に使われます」

 

 白蓮は静かに言った。

 

「村紗、必要なことです」

 

 村紗は渋々頷いた。

 

「分かったよ。ただ、寺の者たちに説明はいる」

 

「説明しなさい」

 

 映姫は容赦がない。

 

 次に幽々子を見た。

 

「白玉楼」

 

 幽々子は微笑む。

 

「はい」

 

「古印の管理不備について、白玉楼は責任を負います」

 

「ええ」

 

「死者の名義を扱う裏帳面も、必要な範囲で照合に出しなさい」

 

 妖夢が幽々子を見る。

 

「裏帳面……」

 

 幽々子は困ったように笑った。

 

「隠していたわけではないのよ。ただ、妖夢にはまだ早いと思っていたの」

 

 霊夢が言う。

 

「そういうの、だいたい問題になるのよ」

 

「そうね。今回は問題になったわ」

 

 映姫は厳しく言う。

 

「死者の名を守るための帳面ならば、守る仕組みが必要です。誰も知らない帳面は、盗まれた時に誰も気づけません」

 

 幽々子はゆっくり頷いた。

 

「覚えておくわ」

 

 その時、帳面台の奥で役人の一人が声を上げた。

 

「映姫様、また一件です」

 

 映姫が振り返る。

 

「名前は」

 

 役人が札を差し出す。

 

「人里の元酒屋、加納宗助。死亡記録あり。命蓮寺供養済。白玉楼名義預かり。ですが、債務未精算として差し戻しが」

 

 妖夢は灰帳会の帳面をめくった。

 

「あります。人里東の酒蔵を担保にした証文です」

 

 霊夢が眉をひそめる。

 

「酒蔵?」

 

 魔理沙が言った。

 

「人里の古い倉庫に近いな」

 

 映姫は死者の札を見た。

 

 その瞬間、彼岸の端に一人の幽霊が現れた。

 

 薄い体。

 困惑した顔。

 自分がなぜ止められているのか分かっていない。

 

 妖夢はその幽霊を見た。

 

「この方が……」

 

 幽霊は小さく言った。

 

「わしは、何か残したのか」

 

 誰もすぐには答えられなかった。

 

 幽霊は続ける。

 

「酒蔵は息子に譲った。借りは、生きているうちに返した。寺にも行った。なぜ、まだ呼ばれる」

 

 その声は、怒りではない。

 

 ただ、疲れていた。

 

 死んだ後まで呼び戻されることに、疲れている声だった。

 

 妖夢は胸が痛くなった。

 

 映姫は静かに言った。

 

「あなたの罪ではありません。生者が、あなたの名に偽りを貼りました」

 

 幽霊は困ったように笑った。

 

「死んでも、名前は残るのだな」

 

 幽々子が一歩進んだ。

 

「残るわ。でも、働かなくていいの」

 

 幽霊は幽々子を見る。

 

「白玉楼の方か」

 

「ええ」

 

「なら、頼む。もう、息子たちを困らせないでやってくれ」

 

 妖夢はその言葉で、何かが胸に落ちた。

 

 死者は文句を言わない。

 

 灰原はそう言った。

 

 だが違う。

 

 死者は文句を言わないのではない。

 言えないまま、残された者を案じていることがある。

 

 その沈黙を利用しているのが、灰帳会だった。

 

 妖夢は証文の写しを取った。

 

 白楼剣を抜く。

 

 幽霊の名が書かれた部分は斬らない。

 命蓮寺の供養記録も斬らない。

 白玉楼の古印の写しも、記録としては残す。

 

 斬るのは、その上に押された灰帳会の債権印。

 

 妖夢は刃を走らせた。

 

 灰色の印が、音もなく剥がれた。

 

 赤い未精算の文字が、彼岸の帳面から薄れていく。

 

 映姫が札を確認する。

 

「処理再開。債務記録は死者本人のものではないと分離します」

 

 幽霊の表情が少し穏やかになった。

 

「助かる」

 

 そして、その姿は彼岸の列へ戻っていった。

 

 妖夢は刃を収める。

 

 手が震えていた。

 

 恐ろしさではない。

 

 名前を斬らずに偽りだけを斬ることの重さを、初めて本当の意味で知った。

 

 白蓮が静かに手を合わせる。

 

 村紗も、何も言わずに頭を下げた。

 

 霊夢は小さく呟いた。

 

「生きてる奴の都合で、死んだ奴を働かせるな、ってことね」

 

 映姫は頷いた。

 

「その通りです」

 

 魔理沙が言う。

 

「霊夢にしては、説教っぽいな」

 

「殴るわよ」

 

「それはいつも通りだ」

 

 その時、小町が彼岸の奥を見て顔をしかめた。

 

「まずいね」

 

 霊夢が聞く。

 

「何」

 

「未精算の札が増えてる」

 

 映姫の表情が険しくなる。

 

 帳面台の上に、赤い札が次々と積まれていく。

 

 一件。

 二件。

 五件。

 十件。

 

 白蓮が息を呑む。

 

「こんなに」

 

 魔理沙が灰帳会の帳面を開く。

 

「こっちにもある。人里の古倉庫、酒蔵、薬問屋、古道具屋、農地。灰帳会、証文を一気にばらまいたんだ」

 

 霊夢が目を細める。

 

「次の狙いは人里ね」

 

 妖夢が言う。

 

「人里の記録倉庫では」

 

 魔理沙が頷く。

 

「前の水利抗争の後、証文や記録の写しを保管した倉庫。灰帳会の帳面にも図面があった」

 

 映姫は厳しい声で言った。

 

「そこを押さえられれば、人里の死亡記録、相続記録、土地名義がさらに利用されます」

 

 白蓮も立ち上がる。

 

「命蓮寺の供養記録と照合されれば、偽証文を大量に作れる」

 

 幽々子は静かに言った。

 

「灰帳会は、証文をばらまいて混乱させている間に、人里の記録を奪うつもりね」

 

 村紗が碇を肩に担いだ。

 

「なら、急ぐしかない」

 

 霊夢は小町を見る。

 

「小町、舟」

 

「はいはい。今日はよく働く日だね」

 

 映姫が言った。

 

「小町」

 

「分かってますよ。さぼりません」

 

「今回は本当に急ぎなさい」

 

「本当に分かってますって」

 

 妖夢は映姫へ頭を下げた。

 

「彼岸の帳面は」

 

「こちらで修正を続けます。あなた方は人里の記録を守りなさい」

 

 映姫は妖夢をまっすぐ見た。

 

「忘れてはなりません。裁かれるべきは死者ではありません。死者を利用した生者です」

 

 妖夢は深く頷いた。

 

「はい」

 

 幽々子が映姫へ微笑む。

 

「彼岸も大変ね」

 

「冥界も他人事ではありません」

 

「ええ。よく分かったわ」

 

 霊夢は舟へ向かいながら言った。

 

「次は人里の倉庫。灰帳会より先に着くわよ」

 

 魔理沙が箒を持ち上げる。

 

「空を飛んだ方が早いな」

 

 小町が言う。

 

「彼岸から地上へ戻るなら、まず舟だよ」

 

「融通が利かないな」

 

「ここはそういう場所だ」

 

 妖夢は最後に、彼岸の帳面を振り返った。

 

 赤い未精算の札は、まだ積まれている。

 

 だが、その中のいくつかは、少しずつ剥がされ始めていた。

 

 死者の名が、金勘定から切り離されていく。

 

 まだ終わってはいない。

 

 むしろ、これから人里で大きな混乱が起きる。

 

 けれど妖夢は、少しだけ自分の刃の意味を理解した。

 

 斬るのは、死者ではない。

 記録でもない。

 供養でもない。

 

 死者の名前に貼りついた、偽りだけを斬る。

 

 舟が彼岸を離れる。

 

 川面は静かだった。

 

 その向こうで、人里の方角に灰色の雲が広がっている。

 

 灰帳会が、次の証文をばらまこうとしていた。

 

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