彼岸へ向かう道は、白玉楼とも、命蓮寺とも違っていた。
白玉楼は静かだ。
命蓮寺は祈りの声がある。
人里は生活の音がする。
だが彼岸には、音の代わりに順番があった。
列。
札。
帳面。
渡し。
裁き。
死者が流れ、名が並び、過去が開かれる場所。
小野塚小町の舟は、ゆっくりと水面を進んでいた。
舟に乗っているのは、霊夢、魔理沙、妖夢、白蓮、村紗。
そして、白玉楼から来た幽々子。
小町は舟の先で櫂を動かしながら、珍しく口数が少なかった。
霊夢は川面を見た。
水は静かだ。
だが、霧の湖の水とは違う。
流れているのに、流れていないように見える。
生者の時間から外れた水だった。
「相変わらず、嫌な川ね」
霊夢が言うと、小町は肩をすくめた。
「好きで渡る場所じゃないからね」
魔理沙は舟の縁から身を乗り出し、川面を覗いている。
「落ちたらどうなる?」
「説教が増える」
「命は?」
「命がある奴は、そもそもここに来るべきじゃない」
「じゃあ霊夢は?」
「何度も来てるから、半分常連だね」
「勝手に常連にしないで」
そんな軽口の中でも、妖夢は黙っていた。
膝の上には、白玉楼の古印を納めた箱。
懐には、灰帳会の帳面から写した死者名義の一覧。
そして手元には、命蓮寺の偽供養札。
名前。
印。
供養。
証文。
それらが、今度は彼岸にまで届いている。
死者の名前が、裁きの前で足止めされている。
その事実が、妖夢の胸に重く乗っていた。
白蓮も静かだった。
命蓮寺の供養札が偽証文に使われた。
それだけではなく、彼岸の帳面にまで影響している。
供養の記録が、死者の裁きを濁らせている。
村紗は腕を組み、不機嫌そうに川を見ていた。
「まったく。死んだ後まで紙に振り回されるとはな」
幽々子が穏やかに言う。
「紙は軽いけれど、名前が乗ると重くなるのよ」
村紗は少しだけ視線を逸らした。
「白玉楼の言葉は、たまに重いな」
「たまに?」
「いつもではない」
幽々子は楽しそうに微笑んだ。
舟が岸に着いた。
そこにあったのは、裁きの場へ続く石段だった。
上には、四季映姫・ヤマザナドゥが待っていた。
小さな体。
厳しい目。
手には悔悟の棒。
その背後には、巨大な帳面台がいくつも並んでいる。
彼岸の役人たちが、死者の名を照合し、札をめくり、書きつけを確認していた。
だが、今日は明らかに滞っていた。
列が詰まっている。
幽霊たちが不安そうに揺れている。
中には、自分の名前を呼ばれるのを待ったまま、動けなくなっている者もいた。
映姫は一同を見渡した。
「来ましたか」
霊夢は軽く手を上げた。
「来たわよ。説教は短めでお願い」
「無理です」
小町が小さく笑った。
「ほらね」
映姫は霊夢を無視し、妖夢と白蓮、そして幽々子を見た。
「今回の件は、彼岸の裁きにまで影響しています。非常に重大です」
妖夢は頭を下げた。
「申し訳ありません」
白蓮も続く。
「命蓮寺としても、供養札の管理不備を認めます」
幽々子は静かに微笑んでいる。
「白玉楼も、古印を使われた責任を負うわ」
映姫は頷いた。
「その認識があるなら、話は早い」
霊夢が小声で魔理沙に言う。
「早いって言ったけど、絶対長いわよ」
「だろうな」
映姫は帳面台へ向かい、一冊の大きな帳面を開いた。
その頁には、いくつもの名前が並んでいる。
ただし、その一部には赤い印が押されていた。
**未精算。**
妖夢はその文字を見て、息を呑んだ。
「未精算……」
映姫は静かに説明した。
「本来、死者の裁きでは、その者の生前の行いを見ます。善行、悪行、悔い、罪、償い。そこに生者の後付けの金銭証文を混ぜることはありません」
彼女は赤い印を指した。
「しかし今回、複数の死者の名に対して、死後に発生したかのような債務、名義未整理、担保処理、供養記録の不一致が付与されています」
魔理沙が顔をしかめた。
「死んだ後に書かれた借金で、死者が止められてるってことか」
「正確には、帳面上の照合に異常が出て、処理が止まっているのです」
「役所みたいだな」
小町がぼそりと言う。
「彼岸はかなり役所だよ」
映姫が小町を見る。
「小町」
「はい、黙ります」
映姫は話を続けた。
「問題は、証文そのものではありません。証文に付随する印です。白玉楼の古印、命蓮寺の供養札番号、人里の死亡記録、無縁塚の遺品帳。これらが組み合わさることで、彼岸の下位帳面に混乱が生じています」
白蓮が顔を曇らせる。
「供養の記録が、裁きの妨げに」
「はい」
映姫は厳しく言った。
「供養は死者の安寧のためのものです。裁きを遅らせる口実にしてはなりません」
白蓮は深く頭を下げた。
妖夢は帳面を見る。
そこには、無縁塚で見た名前もあった。
人里の証文に使われていた名前。
幽霊の胸に紙片を貼られていた名前。
命蓮寺の札番号と並べられていた名前。
名前の横に、赤い未精算の文字。
妖夢は静かに言った。
「この方々は、何もしていないのですね」
映姫は妖夢を見る。
「死者本人の罪ではありません」
「では、なぜ止められているのですか」
「帳面が濁ったからです」
映姫の声は硬い。
「死者を裁くには、名前と行いを正しく照らす必要があります。そこに偽りの証文が混ざれば、まず偽りを取り除かなければならない」
妖夢は唇を噛んだ。
名前を使われた死者は、また待たされる。
生きている者の金勘定のせいで。
村紗が苛立ったように言った。
「灰帳会の連中、死者だけじゃなく彼岸まで詰まらせてるのか」
「彼らは、死者の名がどこまで届くかを知っています」
映姫は言った。
「人里の記録に届く。命蓮寺の供養に届く。白玉楼の名義に届く。彼岸の帳面に届く。だからこそ、死者の名を利用した」
霊夢が腕を組む。
「悪知恵だけは回るわね」
幽々子は帳面を見つめていた。
その顔は穏やかだったが、目だけは静かに冷えている。
「映姫」
「はい」
「この子たちの名前は、戻せる?」
映姫は即答した。
「戻します。そのために、あなた方を呼びました」
映姫は別の帳面を開いた。
そこには、灰帳会の偽証文の写しがまとめられている。
「照合作業を行います。白玉楼は古印の真偽を確認。命蓮寺は供養札番号の真偽を確認。人里の記録は慧音に照会します。博麗神社は生者側の混乱を押さえる。彼岸は、死者本人の裁きと後付け証文を分離します」
霊夢は面倒くさそうに言う。
「つまり、また全員で帳面仕事?」
「その通りです」
「殴った方が早くない?」
「殴っても帳面は正しくなりません」
「正論は嫌いよ」
魔理沙が笑う。
「霊夢の天敵だな、映姫は」
「あなたも他人事ではありません」
映姫は魔理沙を見る。
「無縁塚で帳面を持ち出しましたね」
「借りただけだ」
「返却予定は?」
「調査が終わったら」
「いつ終わりますか」
「そのうち」
「その“そのうち”が積み重なって、罪になります」
「ほら、始まった」
小町が小声で言う。
映姫は咳払いした。
「今は本題を優先します」
小町は安心したように息を吐いた。
妖夢は帳面台に近づいた。
「私は、何をすれば」
「あなたは、白玉楼の古印に押された偽りを見分けなさい」
映姫は一枚の証文を示した。
「ただし、紙を破ってはいけません。名前を消してはいけません。偽りの印だけを剥がす必要があります」
妖夢は頷いた。
「無縁塚でもやりました」
「見ています」
妖夢が少し驚く。
「見ていたのですか」
「彼岸の帳面に影響することですから」
映姫は妖夢を見据えた。
「ですが、あなたはまだ迷っています」
妖夢の表情が硬くなる。
「迷い……」
「白玉楼は死者の名を守っているのか。それとも囲っているのか。命蓮寺は供養しているのか。それとも札で名を管理しているのか。人里は記録しているのか。それとも名義を縛っているのか」
映姫の声は厳しい。
「その迷い自体は悪ではありません。しかし、迷ったまま刃を振るえば、斬るべきものを間違えます」
妖夢は言葉を失った。
幽々子の言葉と同じだった。
斬るべきものを間違えない。
映姫は続ける。
「あなたが斬るべきものは、死者の名前ではありません。記録でもありません。供養でもありません。偽りの上書きです」
「偽りの上書き……」
「そうです。死者の名に、生者が勝手に貼りつけた金銭、担保、債務、名義処理。それを切り離すのです」
妖夢は白楼剣の柄に手を置いた。
「分かりました」
映姫は白蓮へ向いた。
「命蓮寺」
「はい」
「供養札の再発行制度を検討しなさい。古い札番号が流出している以上、現在の札と過去の札を区別できるようにする必要があります」
白蓮は頷く。
「命蓮寺は受け入れます」
「寄進記録も見直しなさい」
村紗が顔をしかめる。
「そこまで?」
映姫は村紗を見る。
「供養札が金銭と結びついた記録を持つ以上、灰帳会はそこを利用しました。寄進額、供養日、札番号、故人名。これらが外部に流れれば、偽証文に使われます」
白蓮は静かに言った。
「村紗、必要なことです」
村紗は渋々頷いた。
「分かったよ。ただ、寺の者たちに説明はいる」
「説明しなさい」
映姫は容赦がない。
次に幽々子を見た。
「白玉楼」
幽々子は微笑む。
「はい」
「古印の管理不備について、白玉楼は責任を負います」
「ええ」
「死者の名義を扱う裏帳面も、必要な範囲で照合に出しなさい」
妖夢が幽々子を見る。
「裏帳面……」
幽々子は困ったように笑った。
「隠していたわけではないのよ。ただ、妖夢にはまだ早いと思っていたの」
霊夢が言う。
「そういうの、だいたい問題になるのよ」
「そうね。今回は問題になったわ」
映姫は厳しく言う。
「死者の名を守るための帳面ならば、守る仕組みが必要です。誰も知らない帳面は、盗まれた時に誰も気づけません」
幽々子はゆっくり頷いた。
「覚えておくわ」
その時、帳面台の奥で役人の一人が声を上げた。
「映姫様、また一件です」
映姫が振り返る。
「名前は」
役人が札を差し出す。
「人里の元酒屋、加納宗助。死亡記録あり。命蓮寺供養済。白玉楼名義預かり。ですが、債務未精算として差し戻しが」
妖夢は灰帳会の帳面をめくった。
「あります。人里東の酒蔵を担保にした証文です」
霊夢が眉をひそめる。
「酒蔵?」
魔理沙が言った。
「人里の古い倉庫に近いな」
映姫は死者の札を見た。
その瞬間、彼岸の端に一人の幽霊が現れた。
薄い体。
困惑した顔。
自分がなぜ止められているのか分かっていない。
妖夢はその幽霊を見た。
「この方が……」
幽霊は小さく言った。
「わしは、何か残したのか」
誰もすぐには答えられなかった。
幽霊は続ける。
「酒蔵は息子に譲った。借りは、生きているうちに返した。寺にも行った。なぜ、まだ呼ばれる」
その声は、怒りではない。
ただ、疲れていた。
死んだ後まで呼び戻されることに、疲れている声だった。
妖夢は胸が痛くなった。
映姫は静かに言った。
「あなたの罪ではありません。生者が、あなたの名に偽りを貼りました」
幽霊は困ったように笑った。
「死んでも、名前は残るのだな」
幽々子が一歩進んだ。
「残るわ。でも、働かなくていいの」
幽霊は幽々子を見る。
「白玉楼の方か」
「ええ」
「なら、頼む。もう、息子たちを困らせないでやってくれ」
妖夢はその言葉で、何かが胸に落ちた。
死者は文句を言わない。
灰原はそう言った。
だが違う。
死者は文句を言わないのではない。
言えないまま、残された者を案じていることがある。
その沈黙を利用しているのが、灰帳会だった。
妖夢は証文の写しを取った。
白楼剣を抜く。
幽霊の名が書かれた部分は斬らない。
命蓮寺の供養記録も斬らない。
白玉楼の古印の写しも、記録としては残す。
斬るのは、その上に押された灰帳会の債権印。
妖夢は刃を走らせた。
灰色の印が、音もなく剥がれた。
赤い未精算の文字が、彼岸の帳面から薄れていく。
映姫が札を確認する。
「処理再開。債務記録は死者本人のものではないと分離します」
幽霊の表情が少し穏やかになった。
「助かる」
そして、その姿は彼岸の列へ戻っていった。
妖夢は刃を収める。
手が震えていた。
恐ろしさではない。
名前を斬らずに偽りだけを斬ることの重さを、初めて本当の意味で知った。
白蓮が静かに手を合わせる。
村紗も、何も言わずに頭を下げた。
霊夢は小さく呟いた。
「生きてる奴の都合で、死んだ奴を働かせるな、ってことね」
映姫は頷いた。
「その通りです」
魔理沙が言う。
「霊夢にしては、説教っぽいな」
「殴るわよ」
「それはいつも通りだ」
その時、小町が彼岸の奥を見て顔をしかめた。
「まずいね」
霊夢が聞く。
「何」
「未精算の札が増えてる」
映姫の表情が険しくなる。
帳面台の上に、赤い札が次々と積まれていく。
一件。
二件。
五件。
十件。
白蓮が息を呑む。
「こんなに」
魔理沙が灰帳会の帳面を開く。
「こっちにもある。人里の古倉庫、酒蔵、薬問屋、古道具屋、農地。灰帳会、証文を一気にばらまいたんだ」
霊夢が目を細める。
「次の狙いは人里ね」
妖夢が言う。
「人里の記録倉庫では」
魔理沙が頷く。
「前の水利抗争の後、証文や記録の写しを保管した倉庫。灰帳会の帳面にも図面があった」
映姫は厳しい声で言った。
「そこを押さえられれば、人里の死亡記録、相続記録、土地名義がさらに利用されます」
白蓮も立ち上がる。
「命蓮寺の供養記録と照合されれば、偽証文を大量に作れる」
幽々子は静かに言った。
「灰帳会は、証文をばらまいて混乱させている間に、人里の記録を奪うつもりね」
村紗が碇を肩に担いだ。
「なら、急ぐしかない」
霊夢は小町を見る。
「小町、舟」
「はいはい。今日はよく働く日だね」
映姫が言った。
「小町」
「分かってますよ。さぼりません」
「今回は本当に急ぎなさい」
「本当に分かってますって」
妖夢は映姫へ頭を下げた。
「彼岸の帳面は」
「こちらで修正を続けます。あなた方は人里の記録を守りなさい」
映姫は妖夢をまっすぐ見た。
「忘れてはなりません。裁かれるべきは死者ではありません。死者を利用した生者です」
妖夢は深く頷いた。
「はい」
幽々子が映姫へ微笑む。
「彼岸も大変ね」
「冥界も他人事ではありません」
「ええ。よく分かったわ」
霊夢は舟へ向かいながら言った。
「次は人里の倉庫。灰帳会より先に着くわよ」
魔理沙が箒を持ち上げる。
「空を飛んだ方が早いな」
小町が言う。
「彼岸から地上へ戻るなら、まず舟だよ」
「融通が利かないな」
「ここはそういう場所だ」
妖夢は最後に、彼岸の帳面を振り返った。
赤い未精算の札は、まだ積まれている。
だが、その中のいくつかは、少しずつ剥がされ始めていた。
死者の名が、金勘定から切り離されていく。
まだ終わってはいない。
むしろ、これから人里で大きな混乱が起きる。
けれど妖夢は、少しだけ自分の刃の意味を理解した。
斬るのは、死者ではない。
記録でもない。
供養でもない。
死者の名前に貼りついた、偽りだけを斬る。
舟が彼岸を離れる。
川面は静かだった。
その向こうで、人里の方角に灰色の雲が広がっている。
灰帳会が、次の証文をばらまこうとしていた。