寺子屋の裏手にある古い物置が燃えたのは、丑三つ時を少し過ぎた頃だった。
幸い、火は大きくならなかった。
夜回りの火消しが早く気づき、妹紅が駆けつけた時には、すでに水桶の列ができていた。燃えたのは壁の一部と、古くなった教材を入れていた木箱だけだった。
だが、慧音はその火をただの火事だとは見なかった。
火元の近くに、濡れていない紙片が落ちていたからだ。
焦げた土の上に、白い紙が一枚。
そこには守矢神社の護符と同じ意匠が描かれていた。
妹紅はそれを拾い上げ、鼻を鳴らした。
「分かりやすすぎるな」
「分かりやすくしたい者がいる、ということだ」
慧音は物置の焼け跡を見ながら言った。
寺子屋の中では、子供たちがまだ眠っていた。
正確には、何人かは起きていた。だが、大人たちが騒がないようにしているので、子供たちも怖がる声を飲み込んでいた。
それが余計に妹紅の腹を立たせた。
「守矢に罪をかぶせたい奴か」
「あるいは、守矢の名を使えば人里が割れると知っている者だ」
慧音は焦げた壁に手を置いた。
物置は寺子屋の本棟から少し離れている。
火事を起こすだけなら、もっと燃えやすい場所はいくらでもあった。
それでもここが狙われた。
警告だった。
寺子屋に近づける。
いつでも火をつけられる。
帳面を持っていることは知っている。
そういう意味だ。
妹紅は紙片を握りつぶしかけたが、慧音がそれを止めた。
「潰すな。記録する」
「こんなもん、見れば見るほど腹が立つだけだ」
「だから記録するんだ」
慧音はそう言って、紙片を受け取った。
その横顔は、教師のものではなかった。
人里の歴史を抱え込んできた、白沢の顔だった。
妹紅は言葉を飲み込んだ。
夜明け前、寺子屋の座敷に人里自警団の主だった者たちが集められた。火消し、問屋、夜回り、寺子屋の手伝い、里の古株。皆、眠れていない顔をしていた。
畳の中央には、昨夜の帳面と、守矢の護符に似た紙片が置かれている。
慧音は静かに口を開いた。
「昨夜、博麗神社の縁日で賭場騒動があった。そこに細工された札が混じっていた。その札には守矢の紙が使われていた。そして同じ夜、寺子屋の物置が燃えた」
誰も口を挟まなかった。
「ただし、これだけで守矢が犯人だとは言えない。むしろ、そう思わせるための仕掛けと見るべきだ」
火消しの頭領が苦い顔をした。
「だが里の連中はそうは思わねえ。もう噂になってる。守矢が寺子屋に火をつけたってな」
「誰が流した」
妹紅が聞いた。
問屋の男が答える。
「分からん。朝市が始まる前から広まっていた。早すぎる」
「じゃあ、最初から噂まで用意してたってことか」
妹紅は舌打ちした。
慧音は帳面をめくった。
「問題はもう一つある。守矢神社の講だ」
その場の空気が少し変わった。
講。
最近、人里で急に広がり始めた言葉だった。
商売繁盛の講。
安産の講。
治水の講。
火除けの講。
学業成就の講。
豊作の講。
名目はいくらでもある。
守矢神社は、それぞれの願いに合わせた講を作り、人々に護符や札を渡し、寄進を集めていた。
最初は誰も気にしていなかった。
神を祀り、願いを託し、少しの金を出す。人里では昔からあることだった。
だが守矢のやり方は違った。
講に入った者が別の者を誘う。
誘えば札が増える。
札が増えれば、神徳が増すと言われる。
商人は商売のために、親は子のために、病人の家族は少しでも良くなるならと金を出した。
そして気づいた時には、人里のあちこちに守矢の札が貼られていた。
妹紅は吐き捨てるように言った。
「信仰っていうより、商売だな」
「商売ならまだいい」
慧音が言う。
「商売なら、買わない選択がある。だが信仰の形をしていると、断った者が悪者にされる」
座敷の隅で、寺子屋の手伝いをしている女がうつむいた。
「うちの子が、守矢の札を持っていないってからかわれました。神様に嫌われるぞって」
その言葉に、妹紅の目が細くなった。
「誰が言った」
「子供です。大人が言っていたのを真似したんだと思います」
慧音は目を閉じた。
子供は、大人の言葉をよく聞いている。
大人が恐れを口にすれば、子供はそれを遊びにする。
大人が誰かを見下せば、子供はそれを正義だと思う。
寺子屋にまで、守矢の講は入り込み始めていた。
「妹紅」
慧音が言った。
「昼になったら、守矢の集まりを見に行く」
「私も行く」
「そのつもりだ」
「殴っていいか」
「話を聞いてからだ」
「話を聞いた後ならいいのか」
「場合による」
火消しの頭領が苦笑した。
だが、誰も本気で笑ってはいなかった。
その日の昼、人里の東端にある空き地で、守矢の講が開かれていた。
元は農具置き場だった場所だ。今は簡易の祭壇が組まれ、白い布がかけられ、守矢の幟が立っている。そこに大勢の人が集まっていた。
年寄り、商人、母親、若い職人。
その中には、寺子屋の子供の親もいる。
祭壇の前では、東風谷早苗が穏やかな声で話していた。
「信仰は、皆さんの暮らしを支える力です。山の神は、遠い存在ではありません。水を守り、畑を守り、商いを守り、家を守ります。だからこそ、皆さん一人一人の祈りが必要なのです」
早苗の声はよく通った。
嘘をついている声ではなかった。
少なくとも、妹紅にはそう聞こえた。
早苗は本気で人里のためになると思っている。
だから余計に厄介だった。
信じている者の言葉は、疑っている者の言葉より強い。
妹紅と慧音は人混みの外側に立った。
「上手いな」
妹紅が言う。
「早苗は人を安心させる声を持っている」
「それを誰が使ってるか、だな」
早苗の後ろには、八坂神奈子が立っていた。
堂々とした姿だった。
何も隠していない。
隠す必要がないとでも言いたげに、人里の空き地の中央に立っている。
そのさらに少し離れた場所には、洩矢諏訪子がいた。
にこにこと笑いながら、子供たちと話している。
だが妹紅は、諏訪子の笑みが一番読めなかった。
早苗の話が終わると、人々が祭壇の前に並び始めた。護符を受け取り、名前を書き、寄進を渡す。横では守矢の信徒たちが、誰が誰を連れてきたかを帳面に記している。
慧音の目が鋭くなった。
「名簿を作っているな」
「ただの信徒名簿じゃないのか」
「家族構成、商売、紹介者、寄進額。あれは人里の地図だ」
妹紅は低く唸った。
誰が金を持っているか。
誰が困っているか。
誰が誰に影響されるか。
誰が断れないか。
それが分かれば、人里を動かせる。
「行くぞ」
慧音が歩き出した。
人混みが割れる。
慧音の姿を見た人々が、気まずそうに目を逸らした。
寺子屋の教師として、慧音は人里で信頼されている。
だからこそ、守矢の講に並んでいる姿を見られた者たちは、どこか後ろめたそうな顔をした。
早苗が慧音に気づき、表情を明るくした。
「慧音さん。妹紅さんも。来てくださったんですね」
「話を聞きに来た」
慧音はそう言った。
早苗の笑みが少し硬くなる。
妹紅は黙って腕を組んだ。
神奈子が祭壇の横から歩いてきた。
「ちょうどよかった。人里の代表とも話したいと思っていたところだ」
「私は代表ではない」
慧音が答える。
「だが、人里の記録を持っている」
「なら十分だ」
神奈子は笑った。
その笑みには、威圧ではなく余裕があった。
強い者が、弱い者を脅す時の顔ではない。
大きな事業を進める者が、必要な相手に説明する時の顔だった。
「守矢は人里に何をするつもりだ」
慧音が尋ねた。
「整える」
神奈子は即答した。
「水路、道、講、商い、信仰。人間たちはよくやっているが、仕組みが古い。古い仕組みは、古い者の都合で固まる。新しい神が入れば、流れが変わる」
「その流れで、古い者が押し流される」
「それも変化だ」
妹紅が口を挟んだ。
「ずいぶん簡単に言うな。押し流される側は生活がかかってるんだぞ」
神奈子は妹紅を見る。
「だから講を作っている。支え合うためだ」
「支え合いなら、なぜ紹介者を記録する」
「責任の所在を明らかにするためだ」
「寄進額は?」
「規模を測るためだ」
「家族構成は?」
「必要な加護を知るためだ」
妹紅は笑った。
「何でも言い方次第だな」
早苗が一歩前に出た。
「妹紅さん、神奈子様は本当に人里のためを思って」
「早苗」
慧音が静かに呼んだ。
「君は、寺子屋に火がついたことを知っているか」
早苗の顔色が変わった。
「え」
「昨夜、物置が燃えた。近くに守矢の護符に似た紙が落ちていた」
「そんな……私たちは」
「分かっている。私は守矢がやったとは言っていない」
早苗は胸に手を当てた。
その反応を見て、妹紅は思った。
やはり早苗は知らない。
知らないまま、祭壇の上で人々に語っている。
知らないまま、守矢の顔として人里に立っている。
それは潔白ではあるが、無罪とは少し違う。
神奈子は表情を変えなかった。
「誰かが守矢の名を使ったか」
「その可能性が高い」
慧音は答えた。
「だが、人里ではすでに噂になっている。守矢が寺子屋に火をつけた、と」
周囲の人々がざわめいた。
早苗が振り返る。
「皆さん、違います。守矢はそんなことをしません」
その声には必死さがあった。
だからこそ、人々の不安を完全には消せなかった。
神奈子は一歩前に出る。
「ならば、こちらも調べよう。守矢の札を偽造した者がいるなら、見逃すわけにはいかない」
「その前に、名簿を見せてもらう」
慧音が言った。
神奈子の目が細くなる。
「なぜだ」
「人里の者の情報が集められている。寺子屋の保護者も含まれている。何が書かれているのか確認する必要がある」
「それは守矢の信仰に関わるものだ」
「それは人里の生活に関わるものだ」
二人の視線がぶつかった。
妹紅はその横で、周囲を見ていた。
守矢の信徒たちが少しずつ動いている。
人混みの後ろに、見慣れない商人が二人。
さらに奥、屋根の影に、妖怪の気配。
この場は、ただの講ではない。
誰かが見ている。
誰かが、この対立が深まるのを待っている。
その時、諏訪子がぽん、と手を打った。
「じゃあ、見せればいいんじゃない?」
神奈子が諏訪子を見る。
「諏訪子」
「隠すから揉めるんだよ。見せて困るなら、最初から書いちゃ駄目でしょ」
諏訪子は笑っていた。
だが、その言葉は軽くなかった。
神奈子は少し考え、信徒に合図した。
帳面が運ばれてくる。
慧音はそれを受け取り、素早く目を通した。
妹紅はその顔を見て、嫌な予感を覚えた。
「慧音」
「……おかしい」
「何が」
「寺子屋の保護者の名前が多すぎる。本人が講に入っていない家まで載っている」
早苗が目を見開いた。
「そんなはずはありません。講に入る時は必ず本人か家族に確認を」
慧音は帳面を指差した。
「この家は父親が山仕事で不在だ。この家は母親が病で外出できない。この家は昨日、私が直接話した。守矢の講には入らないと言っていた」
妹紅は神奈子を見た。
「誰が書いた」
神奈子の表情から、初めて余裕が消えた。
「この帳面を管理している者を呼べ」
信徒たちが顔を見合わせる。
そのうちの一人が、青い顔で答えた。
「先ほどまで、ここにいたのですが」
「誰だ」
「山から来た商人です。守矢の講に協力したいと……」
妹紅は即座に動いた。
人混みを抜け、空き地の裏手へ走る。
見慣れない商人二人は、すでに姿を消していた。
だが、荷車の跡が残っている。
東ではない。
人里の中心でもない。
古い倉庫街の方角だった。
妹紅は歯を食いしばった。
「八雲の再開発予定地か」
背後から慧音が追いついてくる。
「追うぞ」
「分かってる」
その時、早苗も走ってきた。
「私も行きます」
「来るなと言っただろ」
「でも、守矢の名が使われています。私には責任があります」
妹紅は早苗を睨んだ。
早苗は引かなかった。
昨夜の賭場で見せた困惑ではない。
今は、自分の信じているものを汚された怒りがある。
慧音が言った。
「来るなら、守矢としてではなく、東風谷早苗として来い」
早苗は一瞬だけ迷い、それから頷いた。
「はい」
三人は古い倉庫街へ向かった。
人里の東にある倉庫街は、昔は問屋の荷で賑わっていた場所だった。
だが今は古びた蔵が並び、使われていない建物も多い。八雲の帳面にあった区画整理の候補地でもある。
昼なのに、そこだけ空気が暗かった。
妹紅は足を止めた。
「いるな」
慧音が頷く。
「人の気配が二つ。いや、三つ」
早苗が御幣を握る。
蔵の奥から、男の声がした。
「まさかこんなに早く来るとはな」
山の商人だった。
だが、その顔は先ほどのものよりずっと冷えていた。
その横にはもう一人。
さらに奥に、小さな木箱が積まれている。
妹紅は前に出た。
「守矢の名簿を書き換えたのはお前らか」
「書き換えた? 人聞きが悪いな。足りないところを補っただけだ」
「寺子屋に火をつけたのもか」
「火なんて、ほんの挨拶だろう」
妹紅の拳が震えた。
慧音が静かに言った。
「誰に頼まれた」
男は笑った。
「知らない方がいい。あんたたち人里の者は、ただ巻き込まれていればいいんだよ。博麗、守矢、八雲、山、寺、紅魔館。大きいところが勝手に揉めて、最後に土地と人が動く」
「土地と人?」
早苗が呟く。
男は早苗を見た。
「守矢は便利だったよ。新しい神様、新しい講、新しい名簿。人里を整理するにはちょうどいい」
「あなたたちは、守矢を利用して」
「利用される方が悪い」
早苗の顔が白くなった。
妹紅は一歩前に出た。
「慧音、目を閉じてろ」
「駄目だ」
「じゃあ見てろ」
男が懐から札を出した。
その札は守矢の護符に似ていたが、どこか歪んでいる。信仰の形だけを真似た偽物だった。
妹紅が踏み込む。
男は札を投げた。
小さな火花が散り、蔵の中の乾いた藁に燃え移る。
炎が走った。
早苗が叫ぶ。
「危ない!」
妹紅は炎の中に突っ込んだ。
火は彼女を止めない。
熱も煙も、妹紅にとっては恐怖ではない。
だが蔵が燃えれば、人里に延焼する。
妹紅は男の襟を掴み、そのまま外へ引きずり出した。
もう一人の男が逃げようとする。
早苗が御幣を振るい、風で進路を塞いだ。
「止まりなさい!」
その声には、先ほどまでの巫女らしい柔らかさはなかった。
慧音は木箱の一つを開けた。
中には、守矢の偽札が大量に入っていた。
それだけではない。
博麗の賭場札に似せた札。
命蓮寺の印を真似た荷札。
紅魔館の酒樽に使われる封印紙。
いくつもの勢力の名を騙るための道具が揃っていた。
慧音は低く言った。
「最初から、全部を揉めさせるつもりだったのか」
男は妹紅に押さえつけられながら、笑った。
「揉める方が悪いんだよ。火種なんて、どこにでもある。俺たちは火をつけやすくしただけだ」
妹紅は男の顔を地面に押しつけた。
「その火で寺子屋を試したのか」
「さあな」
「答えろ」
「不死身の女が寺子屋に張りつけば、他が手薄になる。慧音が帳面を抱えれば、人里は疑心暗鬼になる。守矢は弁明に追われる。博麗は面倒を嫌って距離を置く。そうなれば、土地は動く」
慧音は息を呑んだ。
土地は動く。
神奈子の言葉と似ていた。
だが、意味はまったく違っていた。
守矢は整えると言った。
この男たちは、壊して空けるつもりだった。
その先にいるのは誰か。
妹紅は男の胸ぐらを掴み上げた。
「八雲か」
男は答えなかった。
代わりに、蔵の奥の空間が歪んだ。
ほんの一瞬。
紫色の隙間が開き、そこから何かが引き抜かれた。
木箱の一つ。
帳面らしきもの。
慧音が叫ぶ。
「待て!」
隙間はすぐに閉じた。
妹紅は男を放り出し、奥へ走った。
だがもう何もない。
燃え残った偽札と、空になった木箱だけがある。
早苗が呆然と呟いた。
「八雲……」
慧音は燃えかけた木箱から紙を拾い上げた。
そこには人里の区画図が描かれていた。
寺子屋、問屋、倉庫街、火消しの詰所、守矢の講所。
そして、赤い線で囲まれた場所。
寺子屋を中心にした一帯だった。
妹紅は無言でそれを見た。
「慧音」
「分かっている」
慧音の声は硬かった。
「これはもう、守矢だけの問題ではない」
背後から、神奈子の声がした。
「その通りだ」
振り返ると、神奈子と諏訪子が立っていた。
神奈子は燃え残った偽札を見下ろし、静かに言った。
「守矢の名を騙った者は、こちらで処理する」
「処理?」
妹紅が睨む。
「言い方が悪かったな。責任を取らせる」
「責任を取るのは守矢も同じだ」
慧音が言った。
神奈子は慧音を見る。
「分かっている。講の名簿は一度すべて開示する。本人確認のないものは破棄する。寺子屋の保護者には、早苗が直接説明に行く」
早苗が神奈子を見た。
「神奈子様」
「お前が始めた講だ。お前の言葉で謝れ」
早苗は強く頷いた。
「はい」
諏訪子が妹紅の横に並んだ。
「でもね、これで終わりじゃないよ」
「分かってる」
「うん。分かってる顔だ」
諏訪子は燃えた蔵を見上げた。
「土地を動かすには、まず記憶を動かす。ここはもう古い、危ない、燃えやすい、いらない。そう思わせれば、人は自分から出ていく」
慧音の手が、区画図を握りしめる。
「歴史を奪うやり方だな」
「だから、あなたが邪魔なんだよ。慧音」
諏訪子は笑って言った。
その笑みは、子供と遊んでいた時と同じだった。
だが今の言葉は、笑って聞き流せるものではなかった。
夕方、寺子屋の庭に人が集まった。
守矢の講に入った者。
入っていないのに名簿に載っていた者。
噂を聞いて不安になった者。
火事を心配して来た者。
早苗はその前に立ち、深く頭を下げた。
「守矢神社の講に関して、不確かな名簿が作られ、人里の皆さんに不安を与えました。守矢の名を騙る者がいたとはいえ、私たちの管理が甘かったことは事実です。申し訳ありませんでした」
人々はざわめいた。
怒る者もいた。
安心した者もいた。
まだ疑う者もいた。
神奈子は少し離れた場所で見ていた。
諏訪子は寺子屋の塀の上に座っていた。
妹紅は門の横に立ち、腕を組んでいる。
慧音は早苗の隣に立った。
「寺子屋は、どの神社にも、どの寺にも、どの組にも売らない」
その声で、庭が静かになった。
「子供たちは、博麗の子でも、守矢の子でも、命蓮寺の子でもない。人里の子だ。信仰を持つことは自由だ。だが、信仰を持たないことも自由でなければならない」
早苗は黙って聞いていた。
慧音は続けた。
「今後、寺子屋の中で護符や札を理由に誰かをからかうことを禁じる。親の信仰で子供を分けることも禁じる。人里自警団は、寺子屋周辺の見回りを増やす」
火消しの頭領が頷いた。
問屋の男も頷いた。
人々の不安は消えない。
だが、少なくとも立つ場所は示された。
早苗は慧音に小さく言った。
「私は、人里のためになると思っていました」
「それは嘘ではないだろう」
「でも、利用されました」
「利用されるのは、善意がある者だ」
早苗は顔を伏せた。
「善意だけでは、足りないんですね」
「幻想郷ではな」
慧音の声は優しくも厳しくもなかった。
ただ、事実を告げていた。
夜になって、人々が帰った後、寺子屋には妹紅と慧音だけが残った。
机の上には、博麗の帳面、守矢の名簿の写し、倉庫街で見つけた区画図が並べられている。
妹紅は区画図を指で叩いた。
「寺子屋を中心に囲ってやがる」
「この一帯を整理するつもりだったのだろう」
「整理って便利な言葉だな」
「壊す、追い出す、奪う。それをきれいに言い換える時に使われる」
慧音は筆を取った。
「記録するのか」
「ああ」
「残せるのか」
「残す」
慧音は迷わなかった。
妹紅は少しだけ笑った。
「霊夢なら燃やせって言うぞ」
「だから私が書く」
寺子屋の外で、夜風が鳴った。
妹紅は戸口を見る。
誰かがいる気配はない。
だが、見られている感覚はあった。
八雲か。
それとも別の誰かか。
分からない。
ただ一つ分かるのは、もう人里は盤面に乗せられているということだった。
慧音は紙の最初に、静かに筆を下ろした。
――守矢の講に関する騒動。
名簿の改竄あり。
偽造札、多数。
寺子屋周辺の区画図を発見。
八雲の関与、疑い濃厚。
守矢神社、利用された可能性あり。
ただし、責任なしとは言えず。
妹紅はそれを横から見ていた。
「慧音」
「何だ」
「これ、どこまで行くと思う」
慧音は筆を止めなかった。
「人里だけでは済まない」
「だよな」
「次は、薬だ」
妹紅の表情が変わった。
「永遠亭か」
慧音は頷いた。
「火事の後、怪我人に配られた薬がある。守矢の講に紛れて、誰かが配っていたらしい」
妹紅の目が暗くなる。
永遠亭。
薬。
そして、蓬莱山輝夜。
妹紅にとって、その名はいつでも火種だった。
「面倒なことになってきたな」
「最初から面倒だった」
「違いない」
寺子屋の灯りが、夜の中に小さく浮かんでいた。
外では、守矢の札を剥がす者がいる。
逆に、まだ信じて貼り直す者もいる。
人里はもう、一枚岩ではなかった。
それでも寺子屋だけは、いつも通り朝を迎えなければならない。
子供たちが来る。
読み書きを習う。
歴史を学ぶ。
親の不安も、神の都合も、妖怪の企みも知らずに、墨をすり、筆を持つ。
慧音はそれを守るために記録する。
妹紅はそれを守るために門に立つ。
だが、幻想郷の夜は長い。
そして、火種はまだ消えていなかった。