東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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1万字ぐらいが読みやすいですかね?


第二章 守矢の講

 

 寺子屋の裏手にある古い物置が燃えたのは、丑三つ時を少し過ぎた頃だった。

 

 幸い、火は大きくならなかった。

 夜回りの火消しが早く気づき、妹紅が駆けつけた時には、すでに水桶の列ができていた。燃えたのは壁の一部と、古くなった教材を入れていた木箱だけだった。

 

 だが、慧音はその火をただの火事だとは見なかった。

 

 火元の近くに、濡れていない紙片が落ちていたからだ。

 

 焦げた土の上に、白い紙が一枚。

 そこには守矢神社の護符と同じ意匠が描かれていた。

 

 妹紅はそれを拾い上げ、鼻を鳴らした。

 

「分かりやすすぎるな」

 

「分かりやすくしたい者がいる、ということだ」

 

 慧音は物置の焼け跡を見ながら言った。

 

 寺子屋の中では、子供たちがまだ眠っていた。

 正確には、何人かは起きていた。だが、大人たちが騒がないようにしているので、子供たちも怖がる声を飲み込んでいた。

 

 それが余計に妹紅の腹を立たせた。

 

「守矢に罪をかぶせたい奴か」

 

「あるいは、守矢の名を使えば人里が割れると知っている者だ」

 

 慧音は焦げた壁に手を置いた。

 

 物置は寺子屋の本棟から少し離れている。

 火事を起こすだけなら、もっと燃えやすい場所はいくらでもあった。

 それでもここが狙われた。

 

 警告だった。

 

 寺子屋に近づける。

 いつでも火をつけられる。

 帳面を持っていることは知っている。

 

 そういう意味だ。

 

 妹紅は紙片を握りつぶしかけたが、慧音がそれを止めた。

 

「潰すな。記録する」

 

「こんなもん、見れば見るほど腹が立つだけだ」

 

「だから記録するんだ」

 

 慧音はそう言って、紙片を受け取った。

 

 その横顔は、教師のものではなかった。

 人里の歴史を抱え込んできた、白沢の顔だった。

 

 妹紅は言葉を飲み込んだ。

 

 夜明け前、寺子屋の座敷に人里自警団の主だった者たちが集められた。火消し、問屋、夜回り、寺子屋の手伝い、里の古株。皆、眠れていない顔をしていた。

 

 畳の中央には、昨夜の帳面と、守矢の護符に似た紙片が置かれている。

 

 慧音は静かに口を開いた。

 

「昨夜、博麗神社の縁日で賭場騒動があった。そこに細工された札が混じっていた。その札には守矢の紙が使われていた。そして同じ夜、寺子屋の物置が燃えた」

 

 誰も口を挟まなかった。

 

「ただし、これだけで守矢が犯人だとは言えない。むしろ、そう思わせるための仕掛けと見るべきだ」

 

 火消しの頭領が苦い顔をした。

 

「だが里の連中はそうは思わねえ。もう噂になってる。守矢が寺子屋に火をつけたってな」

 

「誰が流した」

 

 妹紅が聞いた。

 

 問屋の男が答える。

 

「分からん。朝市が始まる前から広まっていた。早すぎる」

 

「じゃあ、最初から噂まで用意してたってことか」

 

 妹紅は舌打ちした。

 

 慧音は帳面をめくった。

 

「問題はもう一つある。守矢神社の講だ」

 

 その場の空気が少し変わった。

 

 講。

 

 最近、人里で急に広がり始めた言葉だった。

 

 商売繁盛の講。

 安産の講。

 治水の講。

 火除けの講。

 学業成就の講。

 豊作の講。

 

 名目はいくらでもある。

 守矢神社は、それぞれの願いに合わせた講を作り、人々に護符や札を渡し、寄進を集めていた。

 

 最初は誰も気にしていなかった。

 神を祀り、願いを託し、少しの金を出す。人里では昔からあることだった。

 

 だが守矢のやり方は違った。

 

 講に入った者が別の者を誘う。

 誘えば札が増える。

 札が増えれば、神徳が増すと言われる。

 商人は商売のために、親は子のために、病人の家族は少しでも良くなるならと金を出した。

 

 そして気づいた時には、人里のあちこちに守矢の札が貼られていた。

 

 妹紅は吐き捨てるように言った。

 

「信仰っていうより、商売だな」

 

「商売ならまだいい」

 

 慧音が言う。

 

「商売なら、買わない選択がある。だが信仰の形をしていると、断った者が悪者にされる」

 

 座敷の隅で、寺子屋の手伝いをしている女がうつむいた。

 

「うちの子が、守矢の札を持っていないってからかわれました。神様に嫌われるぞって」

 

 その言葉に、妹紅の目が細くなった。

 

「誰が言った」

 

「子供です。大人が言っていたのを真似したんだと思います」

 

 慧音は目を閉じた。

 

 子供は、大人の言葉をよく聞いている。

 大人が恐れを口にすれば、子供はそれを遊びにする。

 大人が誰かを見下せば、子供はそれを正義だと思う。

 

 寺子屋にまで、守矢の講は入り込み始めていた。

 

「妹紅」

 

 慧音が言った。

 

「昼になったら、守矢の集まりを見に行く」

 

「私も行く」

 

「そのつもりだ」

 

「殴っていいか」

 

「話を聞いてからだ」

 

「話を聞いた後ならいいのか」

 

「場合による」

 

 火消しの頭領が苦笑した。

 だが、誰も本気で笑ってはいなかった。

 

 その日の昼、人里の東端にある空き地で、守矢の講が開かれていた。

 

 元は農具置き場だった場所だ。今は簡易の祭壇が組まれ、白い布がかけられ、守矢の幟が立っている。そこに大勢の人が集まっていた。

 

 年寄り、商人、母親、若い職人。

 その中には、寺子屋の子供の親もいる。

 

 祭壇の前では、東風谷早苗が穏やかな声で話していた。

 

「信仰は、皆さんの暮らしを支える力です。山の神は、遠い存在ではありません。水を守り、畑を守り、商いを守り、家を守ります。だからこそ、皆さん一人一人の祈りが必要なのです」

 

 早苗の声はよく通った。

 

 嘘をついている声ではなかった。

 少なくとも、妹紅にはそう聞こえた。

 

 早苗は本気で人里のためになると思っている。

 だから余計に厄介だった。

 

 信じている者の言葉は、疑っている者の言葉より強い。

 

 妹紅と慧音は人混みの外側に立った。

 

「上手いな」

 

 妹紅が言う。

 

「早苗は人を安心させる声を持っている」

 

「それを誰が使ってるか、だな」

 

 早苗の後ろには、八坂神奈子が立っていた。

 

 堂々とした姿だった。

 何も隠していない。

 隠す必要がないとでも言いたげに、人里の空き地の中央に立っている。

 

 そのさらに少し離れた場所には、洩矢諏訪子がいた。

 にこにこと笑いながら、子供たちと話している。

 だが妹紅は、諏訪子の笑みが一番読めなかった。

 

 早苗の話が終わると、人々が祭壇の前に並び始めた。護符を受け取り、名前を書き、寄進を渡す。横では守矢の信徒たちが、誰が誰を連れてきたかを帳面に記している。

 

 慧音の目が鋭くなった。

 

「名簿を作っているな」

 

「ただの信徒名簿じゃないのか」

 

「家族構成、商売、紹介者、寄進額。あれは人里の地図だ」

 

 妹紅は低く唸った。

 

 誰が金を持っているか。

 誰が困っているか。

 誰が誰に影響されるか。

 誰が断れないか。

 

 それが分かれば、人里を動かせる。

 

「行くぞ」

 

 慧音が歩き出した。

 

 人混みが割れる。

 慧音の姿を見た人々が、気まずそうに目を逸らした。

 寺子屋の教師として、慧音は人里で信頼されている。

 だからこそ、守矢の講に並んでいる姿を見られた者たちは、どこか後ろめたそうな顔をした。

 

 早苗が慧音に気づき、表情を明るくした。

 

「慧音さん。妹紅さんも。来てくださったんですね」

 

「話を聞きに来た」

 

 慧音はそう言った。

 

 早苗の笑みが少し硬くなる。

 妹紅は黙って腕を組んだ。

 

 神奈子が祭壇の横から歩いてきた。

 

「ちょうどよかった。人里の代表とも話したいと思っていたところだ」

 

「私は代表ではない」

 

 慧音が答える。

 

「だが、人里の記録を持っている」

 

「なら十分だ」

 

 神奈子は笑った。

 

 その笑みには、威圧ではなく余裕があった。

 強い者が、弱い者を脅す時の顔ではない。

 大きな事業を進める者が、必要な相手に説明する時の顔だった。

 

「守矢は人里に何をするつもりだ」

 

 慧音が尋ねた。

 

「整える」

 

 神奈子は即答した。

 

「水路、道、講、商い、信仰。人間たちはよくやっているが、仕組みが古い。古い仕組みは、古い者の都合で固まる。新しい神が入れば、流れが変わる」

 

「その流れで、古い者が押し流される」

 

「それも変化だ」

 

 妹紅が口を挟んだ。

 

「ずいぶん簡単に言うな。押し流される側は生活がかかってるんだぞ」

 

 神奈子は妹紅を見る。

 

「だから講を作っている。支え合うためだ」

 

「支え合いなら、なぜ紹介者を記録する」

 

「責任の所在を明らかにするためだ」

 

「寄進額は?」

 

「規模を測るためだ」

 

「家族構成は?」

 

「必要な加護を知るためだ」

 

 妹紅は笑った。

 

「何でも言い方次第だな」

 

 早苗が一歩前に出た。

 

「妹紅さん、神奈子様は本当に人里のためを思って」

 

「早苗」

 

 慧音が静かに呼んだ。

 

「君は、寺子屋に火がついたことを知っているか」

 

 早苗の顔色が変わった。

 

「え」

 

「昨夜、物置が燃えた。近くに守矢の護符に似た紙が落ちていた」

 

「そんな……私たちは」

 

「分かっている。私は守矢がやったとは言っていない」

 

 早苗は胸に手を当てた。

 

 その反応を見て、妹紅は思った。

 やはり早苗は知らない。

 

 知らないまま、祭壇の上で人々に語っている。

 知らないまま、守矢の顔として人里に立っている。

 

 それは潔白ではあるが、無罪とは少し違う。

 

 神奈子は表情を変えなかった。

 

「誰かが守矢の名を使ったか」

 

「その可能性が高い」

 

 慧音は答えた。

 

「だが、人里ではすでに噂になっている。守矢が寺子屋に火をつけた、と」

 

 周囲の人々がざわめいた。

 

 早苗が振り返る。

 

「皆さん、違います。守矢はそんなことをしません」

 

 その声には必死さがあった。

 だからこそ、人々の不安を完全には消せなかった。

 

 神奈子は一歩前に出る。

 

「ならば、こちらも調べよう。守矢の札を偽造した者がいるなら、見逃すわけにはいかない」

 

「その前に、名簿を見せてもらう」

 

 慧音が言った。

 

 神奈子の目が細くなる。

 

「なぜだ」

 

「人里の者の情報が集められている。寺子屋の保護者も含まれている。何が書かれているのか確認する必要がある」

 

「それは守矢の信仰に関わるものだ」

 

「それは人里の生活に関わるものだ」

 

 二人の視線がぶつかった。

 

 妹紅はその横で、周囲を見ていた。

 守矢の信徒たちが少しずつ動いている。

 人混みの後ろに、見慣れない商人が二人。

 さらに奥、屋根の影に、妖怪の気配。

 

 この場は、ただの講ではない。

 誰かが見ている。

 誰かが、この対立が深まるのを待っている。

 

 その時、諏訪子がぽん、と手を打った。

 

「じゃあ、見せればいいんじゃない?」

 

 神奈子が諏訪子を見る。

 

「諏訪子」

 

「隠すから揉めるんだよ。見せて困るなら、最初から書いちゃ駄目でしょ」

 

 諏訪子は笑っていた。

 

 だが、その言葉は軽くなかった。

 

 神奈子は少し考え、信徒に合図した。

 帳面が運ばれてくる。

 

 慧音はそれを受け取り、素早く目を通した。

 

 妹紅はその顔を見て、嫌な予感を覚えた。

 

「慧音」

 

「……おかしい」

 

「何が」

 

「寺子屋の保護者の名前が多すぎる。本人が講に入っていない家まで載っている」

 

 早苗が目を見開いた。

 

「そんなはずはありません。講に入る時は必ず本人か家族に確認を」

 

 慧音は帳面を指差した。

 

「この家は父親が山仕事で不在だ。この家は母親が病で外出できない。この家は昨日、私が直接話した。守矢の講には入らないと言っていた」

 

 妹紅は神奈子を見た。

 

「誰が書いた」

 

 神奈子の表情から、初めて余裕が消えた。

 

「この帳面を管理している者を呼べ」

 

 信徒たちが顔を見合わせる。

 

 そのうちの一人が、青い顔で答えた。

 

「先ほどまで、ここにいたのですが」

 

「誰だ」

 

「山から来た商人です。守矢の講に協力したいと……」

 

 妹紅は即座に動いた。

 

 人混みを抜け、空き地の裏手へ走る。

 見慣れない商人二人は、すでに姿を消していた。

 だが、荷車の跡が残っている。

 東ではない。

 人里の中心でもない。

 

 古い倉庫街の方角だった。

 

 妹紅は歯を食いしばった。

 

「八雲の再開発予定地か」

 

 背後から慧音が追いついてくる。

 

「追うぞ」

 

「分かってる」

 

 その時、早苗も走ってきた。

 

「私も行きます」

 

「来るなと言っただろ」

 

「でも、守矢の名が使われています。私には責任があります」

 

 妹紅は早苗を睨んだ。

 

 早苗は引かなかった。

 

 昨夜の賭場で見せた困惑ではない。

 今は、自分の信じているものを汚された怒りがある。

 

 慧音が言った。

 

「来るなら、守矢としてではなく、東風谷早苗として来い」

 

 早苗は一瞬だけ迷い、それから頷いた。

 

「はい」

 

 三人は古い倉庫街へ向かった。

 

 人里の東にある倉庫街は、昔は問屋の荷で賑わっていた場所だった。

 だが今は古びた蔵が並び、使われていない建物も多い。八雲の帳面にあった区画整理の候補地でもある。

 

 昼なのに、そこだけ空気が暗かった。

 

 妹紅は足を止めた。

 

「いるな」

 

 慧音が頷く。

 

「人の気配が二つ。いや、三つ」

 

 早苗が御幣を握る。

 

 蔵の奥から、男の声がした。

 

「まさかこんなに早く来るとはな」

 

 山の商人だった。

 だが、その顔は先ほどのものよりずっと冷えていた。

 

 その横にはもう一人。

 さらに奥に、小さな木箱が積まれている。

 

 妹紅は前に出た。

 

「守矢の名簿を書き換えたのはお前らか」

 

「書き換えた? 人聞きが悪いな。足りないところを補っただけだ」

 

「寺子屋に火をつけたのもか」

 

「火なんて、ほんの挨拶だろう」

 

 妹紅の拳が震えた。

 

 慧音が静かに言った。

 

「誰に頼まれた」

 

 男は笑った。

 

「知らない方がいい。あんたたち人里の者は、ただ巻き込まれていればいいんだよ。博麗、守矢、八雲、山、寺、紅魔館。大きいところが勝手に揉めて、最後に土地と人が動く」

 

「土地と人?」

 

 早苗が呟く。

 

 男は早苗を見た。

 

「守矢は便利だったよ。新しい神様、新しい講、新しい名簿。人里を整理するにはちょうどいい」

 

「あなたたちは、守矢を利用して」

 

「利用される方が悪い」

 

 早苗の顔が白くなった。

 

 妹紅は一歩前に出た。

 

「慧音、目を閉じてろ」

 

「駄目だ」

 

「じゃあ見てろ」

 

 男が懐から札を出した。

 その札は守矢の護符に似ていたが、どこか歪んでいる。信仰の形だけを真似た偽物だった。

 

 妹紅が踏み込む。

 

 男は札を投げた。

 小さな火花が散り、蔵の中の乾いた藁に燃え移る。

 

 炎が走った。

 

 早苗が叫ぶ。

 

「危ない!」

 

 妹紅は炎の中に突っ込んだ。

 

 火は彼女を止めない。

 熱も煙も、妹紅にとっては恐怖ではない。

 だが蔵が燃えれば、人里に延焼する。

 

 妹紅は男の襟を掴み、そのまま外へ引きずり出した。

 

 もう一人の男が逃げようとする。

 早苗が御幣を振るい、風で進路を塞いだ。

 

「止まりなさい!」

 

 その声には、先ほどまでの巫女らしい柔らかさはなかった。

 

 慧音は木箱の一つを開けた。

 

 中には、守矢の偽札が大量に入っていた。

 それだけではない。

 博麗の賭場札に似せた札。

 命蓮寺の印を真似た荷札。

 紅魔館の酒樽に使われる封印紙。

 いくつもの勢力の名を騙るための道具が揃っていた。

 

 慧音は低く言った。

 

「最初から、全部を揉めさせるつもりだったのか」

 

 男は妹紅に押さえつけられながら、笑った。

 

「揉める方が悪いんだよ。火種なんて、どこにでもある。俺たちは火をつけやすくしただけだ」

 

 妹紅は男の顔を地面に押しつけた。

 

「その火で寺子屋を試したのか」

 

「さあな」

 

「答えろ」

 

「不死身の女が寺子屋に張りつけば、他が手薄になる。慧音が帳面を抱えれば、人里は疑心暗鬼になる。守矢は弁明に追われる。博麗は面倒を嫌って距離を置く。そうなれば、土地は動く」

 

 慧音は息を呑んだ。

 

 土地は動く。

 

 神奈子の言葉と似ていた。

 だが、意味はまったく違っていた。

 

 守矢は整えると言った。

 この男たちは、壊して空けるつもりだった。

 

 その先にいるのは誰か。

 

 妹紅は男の胸ぐらを掴み上げた。

 

「八雲か」

 

 男は答えなかった。

 

 代わりに、蔵の奥の空間が歪んだ。

 

 ほんの一瞬。

 紫色の隙間が開き、そこから何かが引き抜かれた。

 

 木箱の一つ。

 帳面らしきもの。

 

 慧音が叫ぶ。

 

「待て!」

 

 隙間はすぐに閉じた。

 

 妹紅は男を放り出し、奥へ走った。

 だがもう何もない。

 燃え残った偽札と、空になった木箱だけがある。

 

 早苗が呆然と呟いた。

 

「八雲……」

 

 慧音は燃えかけた木箱から紙を拾い上げた。

 そこには人里の区画図が描かれていた。

 寺子屋、問屋、倉庫街、火消しの詰所、守矢の講所。

 そして、赤い線で囲まれた場所。

 

 寺子屋を中心にした一帯だった。

 

 妹紅は無言でそれを見た。

 

「慧音」

 

「分かっている」

 

 慧音の声は硬かった。

 

「これはもう、守矢だけの問題ではない」

 

 背後から、神奈子の声がした。

 

「その通りだ」

 

 振り返ると、神奈子と諏訪子が立っていた。

 

 神奈子は燃え残った偽札を見下ろし、静かに言った。

 

「守矢の名を騙った者は、こちらで処理する」

 

「処理?」

 

 妹紅が睨む。

 

「言い方が悪かったな。責任を取らせる」

 

「責任を取るのは守矢も同じだ」

 

 慧音が言った。

 

 神奈子は慧音を見る。

 

「分かっている。講の名簿は一度すべて開示する。本人確認のないものは破棄する。寺子屋の保護者には、早苗が直接説明に行く」

 

 早苗が神奈子を見た。

 

「神奈子様」

 

「お前が始めた講だ。お前の言葉で謝れ」

 

 早苗は強く頷いた。

 

「はい」

 

 諏訪子が妹紅の横に並んだ。

 

「でもね、これで終わりじゃないよ」

 

「分かってる」

 

「うん。分かってる顔だ」

 

 諏訪子は燃えた蔵を見上げた。

 

「土地を動かすには、まず記憶を動かす。ここはもう古い、危ない、燃えやすい、いらない。そう思わせれば、人は自分から出ていく」

 

 慧音の手が、区画図を握りしめる。

 

「歴史を奪うやり方だな」

 

「だから、あなたが邪魔なんだよ。慧音」

 

 諏訪子は笑って言った。

 

 その笑みは、子供と遊んでいた時と同じだった。

 だが今の言葉は、笑って聞き流せるものではなかった。

 

 夕方、寺子屋の庭に人が集まった。

 

 守矢の講に入った者。

 入っていないのに名簿に載っていた者。

 噂を聞いて不安になった者。

 火事を心配して来た者。

 

 早苗はその前に立ち、深く頭を下げた。

 

「守矢神社の講に関して、不確かな名簿が作られ、人里の皆さんに不安を与えました。守矢の名を騙る者がいたとはいえ、私たちの管理が甘かったことは事実です。申し訳ありませんでした」

 

 人々はざわめいた。

 

 怒る者もいた。

 安心した者もいた。

 まだ疑う者もいた。

 

 神奈子は少し離れた場所で見ていた。

 諏訪子は寺子屋の塀の上に座っていた。

 妹紅は門の横に立ち、腕を組んでいる。

 

 慧音は早苗の隣に立った。

 

「寺子屋は、どの神社にも、どの寺にも、どの組にも売らない」

 

 その声で、庭が静かになった。

 

「子供たちは、博麗の子でも、守矢の子でも、命蓮寺の子でもない。人里の子だ。信仰を持つことは自由だ。だが、信仰を持たないことも自由でなければならない」

 

 早苗は黙って聞いていた。

 

 慧音は続けた。

 

「今後、寺子屋の中で護符や札を理由に誰かをからかうことを禁じる。親の信仰で子供を分けることも禁じる。人里自警団は、寺子屋周辺の見回りを増やす」

 

 火消しの頭領が頷いた。

 問屋の男も頷いた。

 人々の不安は消えない。

 だが、少なくとも立つ場所は示された。

 

 早苗は慧音に小さく言った。

 

「私は、人里のためになると思っていました」

 

「それは嘘ではないだろう」

 

「でも、利用されました」

 

「利用されるのは、善意がある者だ」

 

 早苗は顔を伏せた。

 

「善意だけでは、足りないんですね」

 

「幻想郷ではな」

 

 慧音の声は優しくも厳しくもなかった。

 ただ、事実を告げていた。

 

 夜になって、人々が帰った後、寺子屋には妹紅と慧音だけが残った。

 

 机の上には、博麗の帳面、守矢の名簿の写し、倉庫街で見つけた区画図が並べられている。

 

 妹紅は区画図を指で叩いた。

 

「寺子屋を中心に囲ってやがる」

 

「この一帯を整理するつもりだったのだろう」

 

「整理って便利な言葉だな」

 

「壊す、追い出す、奪う。それをきれいに言い換える時に使われる」

 

 慧音は筆を取った。

 

「記録するのか」

 

「ああ」

 

「残せるのか」

 

「残す」

 

 慧音は迷わなかった。

 

 妹紅は少しだけ笑った。

 

「霊夢なら燃やせって言うぞ」

 

「だから私が書く」

 

 寺子屋の外で、夜風が鳴った。

 

 妹紅は戸口を見る。

 誰かがいる気配はない。

 だが、見られている感覚はあった。

 

 八雲か。

 それとも別の誰かか。

 

 分からない。

 

 ただ一つ分かるのは、もう人里は盤面に乗せられているということだった。

 

 慧音は紙の最初に、静かに筆を下ろした。

 

 ――守矢の講に関する騒動。

 名簿の改竄あり。

 偽造札、多数。

 寺子屋周辺の区画図を発見。

 八雲の関与、疑い濃厚。

 守矢神社、利用された可能性あり。

 ただし、責任なしとは言えず。

 

 妹紅はそれを横から見ていた。

 

「慧音」

 

「何だ」

 

「これ、どこまで行くと思う」

 

 慧音は筆を止めなかった。

 

「人里だけでは済まない」

 

「だよな」

 

「次は、薬だ」

 

 妹紅の表情が変わった。

 

「永遠亭か」

 

 慧音は頷いた。

 

「火事の後、怪我人に配られた薬がある。守矢の講に紛れて、誰かが配っていたらしい」

 

 妹紅の目が暗くなる。

 

 永遠亭。

 薬。

 そして、蓬莱山輝夜。

 

 妹紅にとって、その名はいつでも火種だった。

 

「面倒なことになってきたな」

 

「最初から面倒だった」

 

「違いない」

 

 寺子屋の灯りが、夜の中に小さく浮かんでいた。

 

 外では、守矢の札を剥がす者がいる。

 逆に、まだ信じて貼り直す者もいる。

 人里はもう、一枚岩ではなかった。

 

 それでも寺子屋だけは、いつも通り朝を迎えなければならない。

 

 子供たちが来る。

 読み書きを習う。

 歴史を学ぶ。

 親の不安も、神の都合も、妖怪の企みも知らずに、墨をすり、筆を持つ。

 

 慧音はそれを守るために記録する。

 妹紅はそれを守るために門に立つ。

 

 だが、幻想郷の夜は長い。

 

 そして、火種はまだ消えていなかった。

 

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