東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

20 / 34
第五章 幽冥債権

 

 人里の空は、灰色だった。

 

 雨が降るほどではない。

 けれど、晴れる気配もない。

 

 雲は低く、空気は重く、道を歩く人々の声もいつもより小さい。

 

 博麗霊夢たちが人里へ戻った時、すでに騒ぎは始まっていた。

 

 商家の前に人が集まっている。

 畑の持ち主が怒鳴っている。

 古道具屋の主人が青い顔で証文を握っている。

 寺子屋の前には、子供を迎えに来た親たちが不安げに立っていた。

 

 死者名義の証文が、また出回っていた。

 

 しかも、今度は一枚や二枚ではない。

 

 何十枚も。

 

 霊夢は人里の通りに降り立つなり、顔をしかめた。

 

「一気に来たわね」

 

 霧雨魔理沙は箒から飛び降り、騒ぎの中心を見た。

 

「彼岸で札が増えてたのと同時か。灰帳会、動きが早いな」

 

 魂魄妖夢は何も言わなかった。

 

 彼女の手には、白玉楼の古印を納めた箱がある。

 腰には楼観剣と白楼剣。

 その目は、今までよりも静かだった。

 

 怒りはある。

 

 けれど、その怒りのまま斬ってはいけないことを、彼岸で学んだ。

 

 斬るべきものは、死者の名ではない。

 記録でもない。

 供養でもない。

 

 偽りの上書きだ。

 

 上白沢慧音は、寺子屋の前で帳面を抱えていた。

 

 周囲には、人里の商人、農家、火消し、問屋たちが集まっている。

 その誰もが、証文の写しを持っていた。

 

 慧音の隣には藤原妹紅が立っている。

 

 妹紅は腕を組み、路地の向こうを睨んでいた。

 

「遅かったな」

 

 妹紅が言う。

 

 霊夢は肩をすくめた。

 

「彼岸経由だったのよ」

 

「また面倒なところへ行ってたな」

 

「今回は全部面倒よ」

 

 慧音は妖夢を見た。

 

「彼岸はどうだった」

 

 妖夢は短く答えた。

 

「死者の名が、未精算として止められていました」

 

 周囲の人々がざわついた。

 

 未精算。

 

 その言葉は、生者にも死者にも嫌な響きを持っている。

 

 慧音は筆を握り直した。

 

「つまり、証文は人里だけの問題ではなくなった」

 

「はい」

 

 白蓮と村紗も、少し遅れて到着した。

 

 村紗は肩に碇を担ぎ、周囲の混乱を見て舌打ちする。

 

「寺の供養札まで使って、この騒ぎか」

 

 白蓮は静かに手を合わせた。

 

「まずは、名を確認しましょう」

 

 慧音は寺子屋の机を外へ出させた。

 

 そこに証文を集める。

 

 一枚ずつ、名を読み、記録と照合する。

 

 借主。

 保証人。

 担保。

 日付。

 印。

 供養札番号。

 白玉楼の古印。

 灰帳会の債権印。

 

 妖夢はその紙の山を見つめた。

 

 どの紙にも名前がある。

 

 死んだ者の名前。

 その家族の名前。

 今も人里で暮らす者の名前。

 

 名前があるだけで、人は不安になる。

 

 たとえ偽物だとしても、紙に書かれた自分の親や祖父の名前を見れば、心は揺れる。

 

 灰帳会はそれを知っている。

 

 霊夢が証文を一枚持ち上げた。

 

「これは?」

 

 慧音が確認する。

 

「借主は十年前に亡くなった米問屋。担保は今の共同倉庫の一部。保証人は、その弟。弟もすでに死亡している」

 

 魔理沙が覗き込む。

 

「死者だけで回してるな」

 

 妹紅が低く言う。

 

「死人に保証人をさせるとはな。便利な紙だ」

 

 妖夢はその言葉に胸が痛んだ。

 

 便利。

 

 死者の名が、便利な道具として使われている。

 

 慧音は別の証文を取る。

 

「こちらは、古い酒蔵を担保にしている。彼岸で止められていた加納宗助の名だ」

 

「さっきの幽霊か」

 

 霊夢が呟く。

 

 妖夢は証文を受け取り、じっと見た。

 

 加納宗助。

 

 彼岸で「息子たちを困らせないでくれ」と言った幽霊の名。

 

 その名が、今ここで酒蔵を奪うための紙にされている。

 

 妖夢は白楼剣の柄に手を置いた。

 

 慧音が言う。

 

「妖夢」

 

「はい」

 

「斬れるか」

 

 妖夢は頷いた。

 

「名は斬りません。偽りだけを斬ります」

 

 妖夢は証文を机に置いた。

 

 白楼剣を抜く。

 

 周囲の人々が息を呑んだ。

 

 妖夢は紙の上に刃を滑らせた。

 

 加納宗助の名には触れない。

 命蓮寺の供養札番号にも触れない。

 白玉楼の古印の写しにも触れない。

 

 その上に重ねられた、灰帳会の債権印だけを斬る。

 

 刃が走る。

 

 灰色の印が、紙から剥がれた。

 薄い灰となって、風に消える。

 

 証文は力を失い、ただの紙になった。

 

 周囲から小さな声が漏れた。

 

「消えた……」

 

「名前は残ってる」

 

「借金だけが消えたのか」

 

 慧音はすぐに帳面へ書き込む。

 

「加納宗助名義証文、灰帳会債権印を剥離。名は保存。債権効力なし」

 

 霊夢はそれを見て頷いた。

 

「使えるわね」

 

 魔理沙が笑う。

 

「妖夢、すっかり帳面仕事向きの剣士だな」

 

「褒めているのですか」

 

「かなり」

 

 妖夢は少しだけ困った顔をした。

 

 だが、すぐに次の証文へ向き直る。

 

 まだ山ほどある。

 

 その時、通りの奥から怒号が聞こえた。

 

「倉庫を開けろ!」

 

 妹紅が顔を上げる。

 

「来たな」

 

 慧音の表情が険しくなる。

 

「記録倉庫だ」

 

 人里東側の古い倉庫。

 

 前回の水利抗争の後、そこには各勢力の証文や記録の写し、人里の土地記録、死亡記録の控えが保管されていた。

 

 灰帳会の帳面にも、その図面が載っていた場所。

 

 そこを押さえられれば、死者名義の偽証文はいくらでも作れる。

 

 霊夢は袖から御札を出した。

 

「行くわよ」

 

 妹紅はすでに走っていた。

 

 妖夢も続く。

 

 古い倉庫の前には、灰色の羽織を着た者たちが集まっていた。

 

 笠をかぶった取立屋。

 帳面を抱えた男。

 紙束を持つ女。

 無縁塚で見た露店商のような者もいる。

 

 彼らは、倉庫の扉に証文を貼りつけていた。

 

 死者名義の証文。

 担保、共同記録倉庫。

 保証、白玉楼名義預かり。

 供養済確認、命蓮寺。

 債権管理、灰帳会。

 

 まるで、紙で倉庫を縛っているようだった。

 

 倉庫の前には、人里の火消しや問屋が立っているが、手が出せない。

 

 紙には、彼らの親や祖父の名前が書かれているからだ。

 

 妹紅が前に出た。

 

「そこをどけ」

 

 灰色の男が振り返る。

 

 序章で見た取立屋と同じような笠。

 だが、今度は数が多い。

 

「これは正当な債権回収です」

 

「死んだ奴の名前でか」

 

「死者の名義は残ります」

 

「残った名前を踏むな」

 

 妹紅の声に、周囲の空気が熱を帯びる。

 

 霊夢が妹紅の肩を軽く叩いた。

 

「燃やさないでよ」

 

「努力する」

 

「本当に努力しなさい」

 

 妖夢は倉庫の扉に貼られた証文を見た。

 

 紙の一枚に、見覚えのある名前があった。

 

 白玉楼で胸に証文の切れ端を貼られていた薄い幽霊。

 「名前を返して」と言っていた者の名。

 

 それが、倉庫を押さえるための保証人にされていた。

 

 妖夢の表情が消えた。

 

 取立屋の一人が言った。

 

「その倉庫は、古い死者名義の担保に含まれています。今後は灰帳会が整理します」

 

 慧音が遅れて到着し、強い声で言った。

 

「その倉庫は人里の共同管理だ。死者名義の個人担保にはできない」

 

「記録はありますか」

 

 帳面を抱えた男が言う。

 

 慧音は答えた。

 

「ある。この倉庫の中に」

 

「では、開けて確認しましょう」

 

「開ければ、あなたたちが記録を奪う」

 

「疑い深いですね」

 

「記録を守る者は、疑うのが仕事だ」

 

 男は薄く笑った。

 

 その笑みに、妖夢は無縁塚の灰原を思い出した。

 

 同じ種類の笑み。

 

 死者は文句を言わない。

 紙があれば、名は使える。

 記録があれば、金になる。

 

 霊夢が前に出た。

 

「博麗がこの証文を認めない」

 

 灰色の男たちがざわつく。

 

 帳面の男は静かに言った。

 

「博麗神社は、生者側の調停者です。死者名義の処理には、白玉楼の裁定が必要では?」

 

 霊夢は妖夢を見る。

 

「だってさ」

 

 妖夢は一歩前に出た。

 

「白玉楼も認めません」

 

「あなた一人の判断で?」

 

「私は魂魄妖夢。西行寺組の実働を任されています」

 

 妖夢の声は、静かだった。

 

「死者の名を回収しに来ました」

 

 取立屋たちは、少しだけ後ずさる。

 

 だが、帳面の男は笑った。

 

「なら、証文を斬りますか。そこには死者の名が書かれていますよ」

 

 妖夢は答えた。

 

「名は斬りません」

 

 白楼剣を抜く。

 

「偽りを斬ります」

 

 妖夢は駆けた。

 

 倉庫の扉に貼られた証文の前へ。

 

 取立屋たちが紙束を投げる。

 紙が空中に舞う。

 死者の名前が壁になる。

 

 妖夢は一瞬だけ目を閉じた。

 

 斬るべきものを間違えない。

 

 白楼剣が走る。

 

 名前は残す。

 供養の記録は残す。

 古印の写しも、証拠として残す。

 

 灰帳会の債権印だけを剥がす。

 

 紙片から灰が落ちる。

 

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 

 取立屋たちの表情が変わる。

 

 彼らにとって、証文は盾だった。

 死者の名を盾にすれば、生者は手を出せない。

 

 だが妖夢は、名前を傷つけずに盾だけを剥がしていく。

 

 妹紅はその隙に前へ出た。

 

 取立屋たちが退く。

 

「荒事は嫌いじゃないが」

 

 妹紅は低く言う。

 

「今回は紙の後ろに隠れる奴が相手か。やりにくいな」

 

 それでも、彼女は取立屋の行く手を塞ぐ。

 

 炎は使わない。

 

 使えば、紙も名前も燃える。

 

 だから妹紅は、素手で道を塞いだ。

 

 霊夢は倉庫の扉に本物の札を貼る。

 

「博麗封鎖。勝手に開けたら、次は人里の問題じゃなくて異変として扱うわよ」

 

 魔理沙は箒で空から紙束を散らし、灰帳会の男たちの動きを妨害する。

 

「おいおい、こんなに証文ばらまいて。紙代だけで赤字じゃないのか?」

 

 男の一人が叫ぶ。

 

「その帳面を返せ!」

 

「嫌だね。これは証拠品だ」

 

「盗人が!」

 

「借りてるだけだ!」

 

 慧音は火消したちに指示を飛ばす。

 

「倉庫の裏口を押さえろ! 証文を拾ったら燃やすな、私のところへ持ってこい! 名前を汚すな!」

 

 人里の者たちが動き始める。

 

 最初は怯えていた。

 

 だが、妖夢が偽りだけを斬り、慧音が記録し、霊夢が封鎖し、妹紅が前に立つことで、少しずつ足が戻る。

 

 灰帳会の帳面男は、舌打ちした。

 

「思ったより早い」

 

 その時、倉庫の屋根の上に、灰原が現れた。

 

 無縁塚で見た、灰帳会の帳付。

 

 魔理沙が指差す。

 

「出たな」

 

 灰原は静かに頭を下げた。

 

「皆様、お揃いで」

 

 霊夢が見上げる。

 

「降りてきなさい」

 

「遠慮します。下は少々騒がしい」

 

 妖夢は灰原を睨んだ。

 

「死者の名を使って、倉庫を奪うつもりですか」

 

「奪うのではありません。整理するのです」

 

「またそれですか」

 

「記録は、持つ者の力になります。人里が持てば人里の力に。白玉楼が持てば白玉楼の力に。命蓮寺が持てば命蓮寺の力に。なら、灰帳会が持ってもよいでしょう」

 

 慧音が強い声で言う。

 

「死者の記録は、力の道具ではない」

 

 灰原は慧音を見る。

 

「歴史もまた力でしょう。上白沢慧音」

 

 慧音の目が鋭くなる。

 

「歴史は、奪うために残すものではない」

 

「では、誰のために?」

 

「生きた者と、残された者のためだ」

 

 灰原は薄く笑う。

 

「綺麗な言葉です。命蓮寺の供養にも、白玉楼の眠りにも似ている」

 

 村紗が前に出た。

 

「その綺麗なものを汚してるのが、お前たちだろうが」

 

 白蓮も到着していた。

 

 彼女は灰原を見上げる。

 

「灰帳会。命蓮寺の供養札を使った証文は、すべて無効です」

 

 灰原は少しだけ首を傾げた。

 

「無効と言えば、無効になるのですか」

 

 幽々子の声がした。

 

「ええ。なるわ」

 

 その場の空気が冷えた。

 

 倉庫の前、桜の花びらが一枚落ちる。

 

 人里の空に桜はない。

 

 それでも花びらは落ちた。

 

 西行寺幽々子が、路地の奥から歩いてきた。

 

 いつものように柔らかく微笑んでいる。

 

 しかし、灰帳会の者たちは一斉に黙った。

 

 幽々子は妖夢の横に立った。

 

「白玉楼も、その証文を認めないわ」

 

 灰原は屋根の上から幽々子を見る。

 

「西行寺様。死者の名義を白玉楼だけが預かる理由はありません」

 

「そうね」

 

 幽々子はあっさり頷いた。

 

 灰原の表情がわずかに動く。

 

「では」

 

「でも、あなたたちが預かる理由はもっとないわ」

 

 幽々子の声は静かだった。

 

「死者の名前を食べる者に、死者は預けられない」

 

 灰原は黙った。

 

 幽々子は続ける。

 

「白玉楼も、命蓮寺も、人里も、彼岸も、完全ではない。名前をこぼすこともある。忘れることもある。間違えることもある」

 

 妖夢は幽々子を見た。

 

「だから、照合するのよ。だから、記録するのよ。だから、供養するのよ。だから、裁くのよ」

 

 幽々子の目が、灰原を捉える。

 

「あなたたちは、こぼれた名前を拾ったのではない。拾った名前を売った」

 

 灰原の顔から笑みが消えた。

 

 霊夢が御札を構える。

 

「そろそろ終わりにしなさい」

 

 灰原は少しだけ息を吐いた。

 

「終わりではありません」

 

 彼は懐から一冊の黒い帳面を取り出した。

 

 灰色ではない。

 

 黒い帳面。

 

 それを見た瞬間、幽々子の目が細くなった。

 

「それは」

 

 妖夢も感じた。

 

 その帳面から、白玉楼の古い空気がする。

 

 灰原は言った。

 

「西行寺家の裏帳面の写しです」

 

 妖夢は息を呑んだ。

 

「なぜ、それを」

 

 幽々子は静かに言う。

 

「灰帳会。あなたたち、本当に深くまで手を伸ばしたのね」

 

 灰原は帳面を掲げた。

 

「白玉楼も死者の名義を扱っていた。命蓮寺も供養で名を管理していた。人里も記録で死者を縛っていた。彼岸も帳面で裁いている。ならば、我々だけが悪だと言えるのですか」

 

 その声は、倉庫前に集まった人々へ向けられていた。

 

 生者の不安を煽る声。

 

「死者の名を扱う者は、みな同じです」

 

 妖夢は拳を握った。

 

 その問いは、ずっと胸にあった。

 

 守ることと、囲うことは違うのか。

 預かることと、使うことは違うのか。

 

 灰原はそこを突いてくる。

 

 だが、今の妖夢は無縁塚にいた時とは違った。

 

 彼岸で、疲れた幽霊の声を聞いた。

 

 命蓮寺で、遺族の震える声を聞いた。

 

 人里で、不安に揺れる人々を見た。

 

 妖夢は一歩前に出た。

 

「違います」

 

 灰原が見る。

 

「死者の名を扱うことと、死者の名で生者を脅すことは違います」

 

 幽々子が少し微笑む。

 

 霊夢も黙って見ている。

 

 妖夢は続けた。

 

「白玉楼にも責任はあります。命蓮寺にも。人里にも。彼岸にも。だからこそ、それぞれが照合し、記録し、正すのです」

 

 白楼剣を構える。

 

「あなたたちは正さない。売るだけです」

 

 灰原の目が冷える。

 

「なら、その違いを証明してみせなさい」

 

 彼は黒い帳面を開いた。

 

 そこから無数の紙片が舞い上がる。

 

 今までの証文よりも古い。

 白玉楼の裏帳面に由来する死者名義の断片。

 

 古い借り。

 古い約束。

 古い遺品。

 古い恨み。

 

 それらが、倉庫の周囲に渦を作る。

 

 妖夢は走った。

 

 白楼剣が光る。

 

 名前は斬らない。

 記録は斬らない。

 古い約束も斬らない。

 

 斬るのは、灰帳会がその上に貼りつけた債権印。

 

 しかし、数が多い。

 

 妖夢の刃が追いつかない。

 

 紙片の一部が人々の方へ飛ぶ。

 

 慧音が帳面を掲げ、声を張る。

 

「名前を呼べ!」

 

 人々が戸惑う。

 

 慧音は叫ぶ。

 

「知っている名があるなら、呼べ! それは紙のものではない。お前たちの記憶のものだ!」

 

 古道具屋の主人が、震えながら声を上げた。

 

「佐吉さん!」

 

 酒屋の息子が叫ぶ。

 

「宗助、親父!」

 

 別の者が、祖母の名を呼ぶ。

 誰かが、師匠の名を呼ぶ。

 誰かが、亡くなった子の名を呼ぶ。

 

 名前が、人の声で呼ばれる。

 

 紙に縛られていた名が、少しずつ軽くなる。

 

 灰帳会の印が浮き上がる。

 

 妖夢はその印だけを斬る。

 

 妹紅は飛んできた紙片を燃やさず、手で叩き落とす。

 

「紙は燃やすな! 名がある!」

 

 村紗が碇で風を起こし、紙片の流れを変える。

 

 白蓮が経を唱え、供養札の偽りを鎮める。

 

 霊夢が御札を放ち、倉庫そのものを守る。

 

 魔理沙は灰原の持つ黒い帳面を狙い、光を放った。

 

 灰原は後ろへ下がる。

 

 その瞬間、幽々子が静かに手を伸ばした。

 

 桜の花びらが舞う。

 

 黒い帳面の頁が、勝手にめくられる。

 

 灰原の手が止まる。

 

「これは……」

 

 幽々子は微笑んだ。

 

「それは白玉楼の帳面の写しでしょう。なら、少しはこちらの言うことも聞くわ」

 

 黒い帳面から、灰色の印だけが浮かび上がる。

 

 妖夢は飛んだ。

 

 刃が走る。

 

 灰帳会の印が、帳面から切り離された。

 

 黒い帳面は力を失い、灰原の手から落ちる。

 

 魔理沙がそれを受け取った。

 

「今度こそ借りるぜ」

 

 灰原は後ろへ飛び退いた。

 

 霊夢が御札を投げる。

 

 だが、灰原は路地の影へ滑り込んだ。

 

「逃がすか!」

 

 妹紅が追おうとする。

 

 幽々子が止めた。

 

「追わなくていいわ」

 

「なぜ」

 

「彼は白玉楼へ来る」

 

 妖夢が振り返る。

 

「幽々子様」

 

「ここまで来たら、最後は死者の領分で決着をつけたいでしょう」

 

 霊夢はため息をついた。

 

「白玉楼ね」

 

 魔理沙が黒い帳面を抱えながら笑う。

 

「舞台としては派手だな」

 

 慧音は倉庫の扉の前で、散らばった証文を集めていた。

 

「まだ終わっていない」

 

「分かってるわよ」

 

 霊夢は倉庫を見る。

 

 守られた。

 だが、被害がなかったわけではない。

 

 人々の不安は残った。

 死者の名は傷ついた。

 白玉楼の裏帳面の写しまで流出していた。

 

 妖夢は人里の人々を見た。

 

 誰もが、自分の死者の名を抱えている。

 

 白玉楼だけでは守れない。

 

 それでも、白玉楼が逃げていい理由にはならない。

 

 妖夢は幽々子に向かって頭を下げた。

 

「幽々子様。白玉楼で裁定を」

 

 幽々子はにこりと笑った。

 

「ええ。そろそろ、死者の名前を食べた者に、お仕置きしないと」

 

 その声は、いつも通り柔らかかった。

 

 だが、その場にいた者は全員、同じことを思った。

 

 白玉楼での裁定は、博麗の裁定とは違う。

 

 それは騒ぎを収めるためのものではない。

 

 死者の静けさを取り戻すためのものだ。

 

 慧音は帳面に書き込んだ。

 

 **幽冥債権。

 灰帳会、人里記録倉庫を狙う。

 死者名義の証文を大量散布。

 白玉楼古印、命蓮寺供養札、人里死亡記録、彼岸未精算処理を悪用。

 倉庫は守られる。

 ただし、白玉楼裏帳面の写し流出を確認。

 次、白玉楼にて裁定。**

 

 空はまだ灰色だった。

 

 だが、人里の通りには少しずつ声が戻っていた。

 

 死者の名を呼ぶ声が。

 それを記録する筆の音が。

 そして、偽りを斬る刃の音が。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。