白玉楼の桜は、音もなく散っていた。
花びらは、風に流されるのではない。
ただ、落ちるべき時を知っているように、静かに空から離れていく。
人里の喧騒も、命蓮寺の鐘も、彼岸の帳面をめくる音も、ここには届かない。
だが、その夜の白玉楼には、生者の気配が多すぎた。
博麗霊夢。
霧雨魔理沙。
上白沢慧音。
藤原妹紅。
聖白蓮。
村紗水蜜。
小野塚小町。
四季映姫。
十六夜咲夜。
八意永琳。
東風谷早苗。
八雲紫。
そして、西行寺幽々子と魂魄妖夢。
冥界の屋敷に、幻想郷の名と記録を扱う者たちが集められていた。
白玉楼の広間には、長い机が置かれている。
その上には、今回の騒動で集められたものが並んでいた。
死者名義の証文。
白玉楼の古印。
灰帳会の灰色の帳面。
命蓮寺の偽供養札。
人里の死亡記録の写し。
彼岸で未精算扱いとなった死者の一覧。
そして、人里の倉庫で奪い返した黒い帳面。
黒い帳面は、白玉楼の裏帳面の写しだった。
妖夢は、その帳面から目を離せなかった。
自分が知らなかった白玉楼の記録。
死者の名義。
遺品。
古い借り。
封じられた証文。
生者には渡せず、彼岸にもまだ届かず、白玉楼の奥で眠らされていた名前たち。
それが写され、灰帳会に使われた。
妖夢の胸には、怒りと恥が混じっていた。
広間の奥に、西行寺幽々子が座っている。
いつものように柔らかく微笑んでいた。
だが、その微笑みの奥に、誰も踏み込めない冷たさがあった。
霊夢は腕を組んで言った。
「で、ここで裁くのね」
「ええ」
幽々子は頷いた。
「今回は、死者の話だもの。博麗ではなく、白玉楼で裁くのが筋でしょう?」
「筋は通ってるわね。面倒だけど」
魔理沙が机の上の帳面を眺める。
「しかし、よく集めたな。証文だらけじゃないか」
慧音は帳面を開き、筆を構えている。
「証文が多いほど、嘘も増える。だが、名前も増える。雑には扱えない」
妹紅は広間の柱にもたれ、灰帳会の者たちが入ってくるであろう廊下の方を見ていた。
「で、肝心の連中は来るのか」
幽々子は湯呑みを手に取った。
「来るわ」
「なぜ分かる」
「自分たちの理屈を、最後に死者の前で通したいのでしょう」
霊夢が眉をひそめる。
「死者の前って、ここにいるのは死者だらけじゃない」
「だからよ」
その時、広間の障子が静かに開いた。
灰色の羽織を着た者たちが、廊下の向こうから入ってくる。
笠をかぶった取立屋。
無縁塚の市で見た帳付たち。
人里で証文をばらまいた者。
そして、中央に灰原。
灰帳会の帳付。
彼は黒い帳面を失っても、まだ落ち着いた顔をしていた。
その後ろには、もう一人いた。
年老いた男だった。
白髪混じりの髪を後ろで束ね、灰色の着物を着ている。
片手には古い算盤。
もう片方の手には、細い筆。
灰原が一歩引いた。
「灰帳会、会主。灰村幽庵」
幽庵と呼ばれた男は、静かに頭を下げた。
「西行寺様。お招きいただき、感謝いたします」
幽々子は微笑んだ。
「招いたというより、呼び出したのよ」
「では、呼び出しに応じました」
幽庵の声は乾いていた。
老いている。
だが、弱くはない。
彼の周囲には、長い年月を紙と名と金の間で過ごした者の重さがあった。
妖夢は一歩前に出た。
「灰帳会。死者の名を使った偽証文について、説明していただきます」
幽庵は妖夢を見た。
「偽証文と呼ぶのは、そちらの立場です」
「では、何と呼ぶのですか」
「幽冥債権」
広間が静まり返る。
幽庵は続けた。
「死者が残した名義、借り、貸し、遺品、土地、未精算の約束。それらを整理し、生者に返すための債権です」
霊夢が鼻で笑った。
「綺麗な言い方ね」
「綺麗かどうかは関係ありません。必要かどうかです」
幽庵は机の上の証文を見た。
「人は死ねば終わりと思いたがる。だが、名は残る。家に、土地に、道具に、帳面に、墓に、寺に、冥界に、彼岸に。残った名義を誰かが整理しなければ、生者は困る」
慧音が静かに言った。
「整理と偽造は違う」
「では、誰が整理するのですか」
幽庵は慧音を見る。
「人里ですか。人里の記録は焼け、書き換わり、相続で揉める。寺ですか。供養札は流出した。白玉楼ですか。古印は盗まれ、裏帳面は写された。彼岸ですか。彼岸は死者を裁く場所であって、生者の土地を整理する場所ではない」
映姫の目が鋭くなる。
「彼岸の名を、あなたの理屈に使わないように」
幽庵は頭を下げる。
「失礼しました。ですが、事実でしょう」
白蓮が言った。
「だからといって、死者の名で遺族を脅してよい理由にはなりません」
「脅したのではありません。支払いを求めたのです」
村紗が碇を握る。
「死んだ奴に勝手に借金を背負わせてか」
「死者本人が背負ったのか、生者が忘れたのか、記録が失われたのか。誰にも分からない名義がある。灰帳会は、それを拾い上げた」
魔理沙が呟く。
「拾ったって言葉、便利だな」
霊夢が横目で見た。
「あんたが言うと説得力あるわ」
「今それ言うか?」
幽庵は話を続けた。
「無縁塚には、忘れられた品が流れ着く。品には名が残る。名には関係が残る。その関係を金に変えることの何が悪い」
妖夢が低く言った。
「死者は道具ではありません」
「道具ではありません。名義です」
「同じことです」
「違います」
幽庵は妖夢を見据えた。
「白玉楼も、死者の名義を扱っているでしょう」
妖夢は言葉を詰まらせかけた。
だが、今度は黙らなかった。
「扱っています」
広間の空気が少し揺れた。
妖夢は続けた。
「白玉楼は死者の名を預かります。遺品を預かります。古い証文を封じることもあります。そこに責任があることも、今回知りました」
幽庵の目が細くなる。
「ならば、灰帳会と何が違う」
妖夢は白楼剣の柄に手を置いた。
「白玉楼は、死者の名を眠らせるために預かります。あなたたちは、起こして働かせるために使いました」
幽庵は小さく笑った。
「言葉の違いです」
「いいえ」
妖夢の声は強くなった。
「死者の名前を扱うことと、死者の名前で生者を脅すことは違います」
幽々子が、わずかに微笑んだ。
それは妖夢への肯定だった。
幽庵は幽々子を見る。
「西行寺様。あなたも同じお考えで?」
幽々子は湯呑みを置いた。
「ええ」
「では、白玉楼が死者の名を預かる理由をお聞かせ願いたい」
「忘れられないためよ」
幽々子の声は柔らかい。
「使うためではなく、眠らせるために名前を預かるの」
幽庵は黙った。
幽々子は続ける。
「死者の名は、生者の都合で何度も起こされる。遺産、土地、恨み、借り、供養、名誉。どれも残された者にとっては大事なこと。でも、死者本人にとっては、もう休みたいことかもしれない」
幽々子は机の証文へ目を向けた。
「あなたたちは、眠っていた名前を叩き起こした。金を払え、土地を渡せ、倉庫を開けろ、未精算だ、と」
広間の空気がさらに冷えた。
「死んだ者まで働かせるなんて、無粋よ」
幽庵は初めて、少しだけ表情を変えた。
だが、すぐに戻した。
「無粋でも、必要なことはあります」
霊夢が言った。
「なら、証文を正面から人里に出せばよかったでしょ。何で白玉楼の印や命蓮寺の札を偽造したの」
「信じさせるためです」
「それを偽造って言うのよ」
「信じるには形が必要です」
映姫が厳しく言った。
「偽りの形で信じさせる行為は、罪です」
幽庵は映姫に向き直る。
「では、彼岸はすべての偽りを裁けますか」
「裁きます」
「生者が作った偽りまで?」
「死者の裁きに関わるならば」
映姫の声は揺るがない。
幽庵は目を伏せた。
「さすが彼岸」
小町が肩をすくめる。
「映姫様相手にその言い方はやめた方がいいよ」
幽庵は構わず続けた。
「ならば、本日ここで問います」
彼は袖から、一枚の長い証文を取り出した。
普通の証文ではない。
紙が何枚も継がれ、巻物のように長い。
そこには、無数の名前が書かれていた。
死者の名。
供養札番号。
白玉楼古印の写し。
人里の土地記録。
彼岸の未精算印の写し。
それらが、絡み合うように並んでいる。
幽庵はそれを広げた。
「幽冥総証文。灰帳会が整理した、未処理の死者名義一覧です」
慧音の目が鋭くなる。
「勝手にまとめたのか」
「まとめなければ、誰も見ないからです」
幽庵は広間の全員を見る。
「この中には、本当に整理すべき名義もある。未返却の遺品もある。相続されず放置された土地もある。供養されず忘れられた名もある。白玉楼の裏帳面にも、人里の記録にも、命蓮寺の札にも、彼岸の帳面にも、それぞれ欠落がある」
彼の声が強くなる。
「灰帳会を無効とするなら、この名を誰が引き受ける」
広間が静まり返った。
幽庵は悪党だった。
だが、その問いは空ではない。
無縁塚には、忘れられた名がある。
白玉楼にも載らず、命蓮寺にも供養されず、人里の記録からも落ち、彼岸に渡る前に迷った名がある。
灰帳会は、そこに入り込んだ。
死者の名を食べた。
だが、名がこぼれていたことも事実だった。
妖夢は拳を握る。
幽々子は静かに幽庵を見ていた。
「それを問うために、証文をばらまいたの?」
「問うためではありません。証明するためです」
「生者を脅して?」
「生者が困らなければ、死者の名は見られません」
その瞬間、妹紅が一歩前に出た。
「それ以上言うな」
声は低かった。
「人里の連中は、死んだ家族の名前を見せられて震えてた。お前らは、それを“必要”って呼ぶのか」
幽庵は妹紅を見た。
「不死の者には、死者の名義の重さは分かりますまい」
妹紅の目が一瞬、燃えた。
霊夢が妹紅の前に手を出す。
「燃やすな」
「分かってる」
「本当に?」
「……努力してる」
幽々子が静かに言った。
「灰帳会の問いは、受けるわ」
全員が幽々子を見る。
幽庵も目を細めた。
「では」
「でも、あなたたちのやり方は認めない」
幽々子は立ち上がった。
その動きだけで、広間の幽霊たちが一斉に静まった。
「西行寺裁定を下します」
慧音が筆を構える。
映姫も帳面を開いた。
霊夢は腕を組み、黙って見ている。
ここは博麗神社ではない。
今回の中心は、白玉楼だ。
幽々子は最初に、灰帳会を見た。
「一つ。灰帳会が作成した死者名義の証文は、すべて無効」
灰帳会の者たちがざわつく。
幽々子は続ける。
「死者本人の意思確認ができない名義証文を、幻想郷では認めない。生前の本物の記録がある場合は、人里、白玉楼、命蓮寺、彼岸で照合する。灰帳会単独の証文は無効」
慧音が筆を走らせる。
幽庵は黙っている。
「二つ。白玉楼の古印は回収し、封印する」
妖夢は古印の箱を抱え直した。
幽々子は妖夢を見る。
「白玉楼は、古印を盗まれ、写された責任を負う。今後、死者名義の裏帳面は妖夢にも開示し、複数の目で管理する」
妖夢は驚いた。
「私にも」
「ええ。あなたはもう、知らないままではいられないわ」
妖夢は深く頭を下げた。
「承知しました」
「三つ。命蓮寺の供養札は再発行制」
白蓮が頷く。
幽々子は言った。
「古い札番号だけで、供養済みを証明しない。白玉楼、人里、命蓮寺の照合を通す。供養札が死者の名義証明として悪用されないよう、記録形式を改める」
白蓮は静かに答えた。
「命蓮寺は受けます」
村紗も不満そうではあったが、頷いた。
「四つ。人里の死亡記録は慧音が管理する」
慧音の筆が一瞬止まる。
幽々子は慧音を見た。
「死者名義の土地、借金、相続については、人里の記録を最優先で照合する。白玉楼も、命蓮寺も、人里の記録を飛ばして名義を動かさない」
慧音は頷いた。
「記録する。責任も負う」
「五つ。彼岸の帳面を最優先」
映姫が静かに頷く。
「死者の裁きに、生者の金銭証文を介入させない。未精算扱いとなった名は、彼岸で分離処理する」
映姫は言った。
「彼岸は、その裁定を受け入れます」
小町が小さく笑う。
「また仕事が増えたねえ」
映姫が小町を見る。
「小町」
「はい、働きます」
幽々子は次に無縁塚の名を出した。
「六つ。無縁塚の市は監視下に置く」
魔理沙が小声で言う。
「げ」
幽々子はにこりと笑った。
「遺品、帳面、印、供養札、霊具の取引は、博麗、白玉楼、人里のいずれかに報告すること。魔理沙は勝手に持ち出さないこと」
「名指しかよ」
霊夢が言う。
「当然でしょ」
魔理沙は不満そうに帽子を直した。
「借りる時は申告するぜ」
「借りるな」
妖夢と霊夢が同時に言った。
最後に、幽々子は静かに言った。
「七つ。西行寺組は、死者名義の裏取引を停止する」
広間が静まった。
妖夢は幽々子を見た。
霊夢も少し眉を上げる。
幽々子は自分自身を裁いていた。
「白玉楼は、死者の名を預かる場所。けれど、それを都合よく整理し、生者の争いを静かに収めるために、曖昧な処理をしてきたこともある」
妖夢は何も言えなかった。
幽々子は続ける。
「今後、死者名義の証文、遺品、土地、借りについては、白玉楼単独で処理しない。人里の記録、命蓮寺の供養、彼岸の帳面と照合する」
霊夢が小さく笑った。
「あんた、自分にも厳しいのね」
「死者の領分を守るには、こちらも眠っていてはいけないもの」
幽庵は静かに聞いていた。
やがて、口を開く。
「立派な裁定です」
「ありがとう」
「ですが、灰帳会が拾った名はどうなります」
幽々子は答えた。
「拾った名は、奪わずに渡しなさい」
「渡す?」
「ええ。白玉楼、人里、命蓮寺、彼岸へ。無縁の名は、無縁のまま売るのではなく、しかるべき場所へ送る」
幽庵は小さく笑った。
「それができなかったから、無縁塚に流れたのです」
「今まではね」
幽々子の声が冷たくなる。
「これからは、できなければならない」
幽庵は幽々子を見つめた。
「灰帳会を消せば、名はまたこぼれます」
「消さないわ」
幽々子の答えに、全員が少し驚いた。
妖夢も顔を上げる。
幽々子は言った。
「灰帳会は解体。けれど、無縁塚で名を拾う役目そのものは残す。ただし、金貸しでも証文屋でもなく、名の取次ぎとして。博麗と白玉楼の監視下で」
霊夢が嫌そうな顔をした。
「また私も入るの?」
「博麗が入らないと、生者側が納得しないでしょう?」
「面倒ね」
「ええ。面倒なの」
幽庵は沈黙した。
彼の理屈は、半分だけ受け入れられた。
灰帳会のやり方は否定された。
だが、無縁塚にこぼれる名の問題は認められた。
それが、幽々子の裁定だった。
幽庵はゆっくり頭を下げた。
「西行寺裁定、承りました」
妖夢はわずかに警戒を緩めた。
だが、その瞬間だった。
灰原が動いた。
彼は袖から火打石ではなく、小さな灰色の札束を取り出した。
その札には、証文の写しが重ねられている。
人里でばらまかれた証文。
彼岸で未精算となった名。
白玉楼裏帳面の写し。
命蓮寺の札番号。
灰原は叫んだ。
「ならば、証文は残さない」
札束が宙に舞う。
同時に、灰帳会の者たちが一斉に紙片を散らした。
紙が、桜の花びらと混じって舞い上がる。
魔理沙が叫ぶ。
「証拠隠滅か!」
灰原は笑った。
「証文が消えれば、灰帳会だけが悪いとは証明できない。死者の名も、再び無縁へ戻る」
妖夢は息を呑んだ。
証文が燃えるわけではない。
だが、紙片には灰色の術がかかっていた。
このまま放てば、証文に書かれた名が散り、どの記録にも戻れなくなる。
名前そのものが、また無縁になる。
幽庵が灰原を見る。
「灰原、やめなさい」
「会主。裁定を受ければ、灰帳会は終わりです」
「終わるべきなのだ」
「いいえ。死者の名は、拾った者のものです」
灰原の顔から、帳付の丁寧な仮面が消えていた。
彼は叫ぶ。
「死者は文句を言わない。ならば、拾った者が使う。それが無縁塚の掟だ!」
妖夢の中で、何かが静かに定まった。
怒りではない。
迷いでもない。
刃の行き先が、はっきりした。
妖夢は白楼剣を抜いた。
霊夢が御札を放ち、紙片の動きを止める。
白蓮が経を唱え、供養札の偽りを鎮める。
映姫が悔悟の棒で彼岸の未精算印を押さえる。
慧音が名前を読み上げる。
幽々子が桜を舞わせ、散りかけた名を一箇所へ集める。
そして妖夢が走った。
紙片の中を。
名前は斬らない。
証拠も斬らない。
供養も、記録も、彼岸の印も斬らない。
斬るのは、灰原が最後に貼りつけた無縁化の術。
白楼剣が光る。
一枚。
二枚。
三枚。
灰色の術だけが剥がれ、証文は力を失って畳の上に落ちる。
灰原はさらに紙片を投げる。
妖夢は止まらない。
楼観剣ではない。
大きく斬り伏せる剣ではない。
迷いを断つ白楼剣で、偽りだけを断つ。
灰原が後ずさる。
「なぜ斬れる」
妖夢は答えた。
「これは、名前ではないからです」
最後の紙片が舞う。
そこには、妖夢自身の名前が書かれていた。
以前、無縁塚で見た偽証文の写し。
借主、魂魄妖夢。
担保、白玉楼への忠義。
保証、西行寺幽々子。
灰原は叫ぶ。
「お前の名も、紙に書けば縛れる!」
妖夢は、その紙を見た。
もう揺れなかった。
「私の名前は、私のものです」
白楼剣が走る。
灰帳会の印だけが、静かに灰になった。
紙には、妖夢の名だけが残る。
それはもう証文ではない。
ただの名前だった。
妖夢は刃を収めた。
「そして、死者の名前は、死者のものです」
灰原は膝をついた。
霊夢の御札が彼を封じる。
妹紅が灰帳会の者たちの退路を塞ぐ。
小町が彼岸行きの舟札を突きつける。
咲夜が逃げようとした数人の袖を止める。
永琳は散らばった証文を分類し、早苗は外へ逃げた紙片を風で戻す。
紫は隙間を閉じ、無縁塚へ繋がる逃げ道を切った。
広間に、静けさが戻った。
証文は床に落ちている。
名前は残っている。
偽りだけが、灰になっていた。
幽々子は灰原を見下ろした。
「死者の名前を食べる者は、最後には自分の名前も失うのよ」
灰原は何も言わなかった。
幽庵は深く頭を下げた。
「灰帳会会主として、裁定を受けます」
映姫が厳しく言う。
「彼岸でも、あなた方の行いを確認します」
「承知しております」
霊夢は息を吐いた。
「ようやく片づいた?」
慧音が床の証文を見た。
「片づいてはいない。これから照合だ」
霊夢は露骨に嫌そうな顔をした。
「また帳面仕事?」
「そうだ」
魔理沙が笑う。
「今回は殴って終わりじゃないな」
「分かってるわよ」
妖夢は床に落ちた証文を一枚拾った。
そこには、彼岸で会った酒屋の男の名前があった。
加納宗助。
灰帳会の印はもうない。
名前だけが残っている。
妖夢はそれを慧音に渡した。
「お願いします」
慧音は受け取り、頷く。
「記録する。正しく」
白蓮も供養札を集める。
「命蓮寺で照合します」
映姫は未精算の札を確認する。
「彼岸でも分離処理を進めます」
幽々子は妖夢を見た。
「妖夢」
「はい」
「よく斬れたわね」
妖夢は少しだけ目を伏せた。
「まだ、斬るべきものを完全に見分けられたとは思いません」
「それでいいのよ」
幽々子は微笑む。
「迷わない者は、名を雑に扱うから」
妖夢は深く頭を下げた。
その夜、白玉楼の桜は遅くまで散り続けた。
だが、散った花びらの下で、死者の名はもう証文に縛られていなかった。
西行寺裁定は下された。
灰帳会は解体。
灰原は拘束。
幽庵は監視下で無縁塚の名の取次ぎを続ける。
白玉楼は古印を封印し、裏帳面を開示する。
命蓮寺は供養札を改める。
人里は死亡記録を照合する。
彼岸は未精算を正す。
誰か一人が勝ったわけではない。
ただ、死者の名前が少しだけ眠りに戻った。
慧音の帳面には、こう記された。
**西行寺裁定。
灰帳会の死者名義証文、すべて無効。
白玉楼、古印および裏帳面管理の責を認める。
命蓮寺、供養札再発行制へ。
人里、死亡記録照合を継続。
彼岸、未精算札を分離。
死者の名は担保にあらず。**
筆を置く音が、広間に響いた。
幽々子は桜の庭を見た。
「さて」
霊夢が警戒する。
「何」
「お腹が空いたわ」
広間の空気が、一瞬だけゆるんだ。
魔理沙が笑う。
「裁定の後にそれか」
妖夢はため息をついた。
「幽々子様、まだ証文の整理が残っています」
「食べながらやりましょう」
「できません」
「では、食べてからやりましょう」
「それも違います」
霊夢は呆れたように笑った。
「白玉楼らしいわね」
桜は散り続ける。
死者の名は、紙の上に残る。
帳面に残る。
供養に残る。
記憶に残る。
けれど、それは金のためではない。
眠らせるために。
忘れきらないために。
生者が勝手に使わないために。
妖夢は、床に残った最後の証文を拾った。
名を確かめる。
偽りが残っていないかを見る。
そして、そっと机の上に置いた。
白玉楼の夜は深い。
だが、その夜は少しだけ、死者の眠りに近い静けさを取り戻していた。