東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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第六章 西行寺裁定

 

 

 白玉楼の桜は、音もなく散っていた。

 

 花びらは、風に流されるのではない。

 ただ、落ちるべき時を知っているように、静かに空から離れていく。

 

 人里の喧騒も、命蓮寺の鐘も、彼岸の帳面をめくる音も、ここには届かない。

 

 だが、その夜の白玉楼には、生者の気配が多すぎた。

 

 博麗霊夢。

 霧雨魔理沙。

 上白沢慧音。

 藤原妹紅。

 聖白蓮。

 村紗水蜜。

 小野塚小町。

 四季映姫。

 十六夜咲夜。

 八意永琳。

 東風谷早苗。

 八雲紫。

 

 そして、西行寺幽々子と魂魄妖夢。

 

 冥界の屋敷に、幻想郷の名と記録を扱う者たちが集められていた。

 

 白玉楼の広間には、長い机が置かれている。

 その上には、今回の騒動で集められたものが並んでいた。

 

 死者名義の証文。

 白玉楼の古印。

 灰帳会の灰色の帳面。

 命蓮寺の偽供養札。

 人里の死亡記録の写し。

 彼岸で未精算扱いとなった死者の一覧。

 そして、人里の倉庫で奪い返した黒い帳面。

 

 黒い帳面は、白玉楼の裏帳面の写しだった。

 

 妖夢は、その帳面から目を離せなかった。

 

 自分が知らなかった白玉楼の記録。

 死者の名義。

 遺品。

 古い借り。

 封じられた証文。

 生者には渡せず、彼岸にもまだ届かず、白玉楼の奥で眠らされていた名前たち。

 

 それが写され、灰帳会に使われた。

 

 妖夢の胸には、怒りと恥が混じっていた。

 

 広間の奥に、西行寺幽々子が座っている。

 

 いつものように柔らかく微笑んでいた。

 だが、その微笑みの奥に、誰も踏み込めない冷たさがあった。

 

 霊夢は腕を組んで言った。

 

「で、ここで裁くのね」

 

「ええ」

 

 幽々子は頷いた。

 

「今回は、死者の話だもの。博麗ではなく、白玉楼で裁くのが筋でしょう?」

 

「筋は通ってるわね。面倒だけど」

 

 魔理沙が机の上の帳面を眺める。

 

「しかし、よく集めたな。証文だらけじゃないか」

 

 慧音は帳面を開き、筆を構えている。

 

「証文が多いほど、嘘も増える。だが、名前も増える。雑には扱えない」

 

 妹紅は広間の柱にもたれ、灰帳会の者たちが入ってくるであろう廊下の方を見ていた。

 

「で、肝心の連中は来るのか」

 

 幽々子は湯呑みを手に取った。

 

「来るわ」

 

「なぜ分かる」

 

「自分たちの理屈を、最後に死者の前で通したいのでしょう」

 

 霊夢が眉をひそめる。

 

「死者の前って、ここにいるのは死者だらけじゃない」

 

「だからよ」

 

 その時、広間の障子が静かに開いた。

 

 灰色の羽織を着た者たちが、廊下の向こうから入ってくる。

 

 笠をかぶった取立屋。

 無縁塚の市で見た帳付たち。

 人里で証文をばらまいた者。

 そして、中央に灰原。

 

 灰帳会の帳付。

 

 彼は黒い帳面を失っても、まだ落ち着いた顔をしていた。

 

 その後ろには、もう一人いた。

 

 年老いた男だった。

 

 白髪混じりの髪を後ろで束ね、灰色の着物を着ている。

 片手には古い算盤。

 もう片方の手には、細い筆。

 

 灰原が一歩引いた。

 

「灰帳会、会主。灰村幽庵」

 

 幽庵と呼ばれた男は、静かに頭を下げた。

 

「西行寺様。お招きいただき、感謝いたします」

 

 幽々子は微笑んだ。

 

「招いたというより、呼び出したのよ」

 

「では、呼び出しに応じました」

 

 幽庵の声は乾いていた。

 

 老いている。

 だが、弱くはない。

 

 彼の周囲には、長い年月を紙と名と金の間で過ごした者の重さがあった。

 

 妖夢は一歩前に出た。

 

「灰帳会。死者の名を使った偽証文について、説明していただきます」

 

 幽庵は妖夢を見た。

 

「偽証文と呼ぶのは、そちらの立場です」

 

「では、何と呼ぶのですか」

 

「幽冥債権」

 

 広間が静まり返る。

 

 幽庵は続けた。

 

「死者が残した名義、借り、貸し、遺品、土地、未精算の約束。それらを整理し、生者に返すための債権です」

 

 霊夢が鼻で笑った。

 

「綺麗な言い方ね」

 

「綺麗かどうかは関係ありません。必要かどうかです」

 

 幽庵は机の上の証文を見た。

 

「人は死ねば終わりと思いたがる。だが、名は残る。家に、土地に、道具に、帳面に、墓に、寺に、冥界に、彼岸に。残った名義を誰かが整理しなければ、生者は困る」

 

 慧音が静かに言った。

 

「整理と偽造は違う」

 

「では、誰が整理するのですか」

 

 幽庵は慧音を見る。

 

「人里ですか。人里の記録は焼け、書き換わり、相続で揉める。寺ですか。供養札は流出した。白玉楼ですか。古印は盗まれ、裏帳面は写された。彼岸ですか。彼岸は死者を裁く場所であって、生者の土地を整理する場所ではない」

 

 映姫の目が鋭くなる。

 

「彼岸の名を、あなたの理屈に使わないように」

 

 幽庵は頭を下げる。

 

「失礼しました。ですが、事実でしょう」

 

 白蓮が言った。

 

「だからといって、死者の名で遺族を脅してよい理由にはなりません」

 

「脅したのではありません。支払いを求めたのです」

 

 村紗が碇を握る。

 

「死んだ奴に勝手に借金を背負わせてか」

 

「死者本人が背負ったのか、生者が忘れたのか、記録が失われたのか。誰にも分からない名義がある。灰帳会は、それを拾い上げた」

 

 魔理沙が呟く。

 

「拾ったって言葉、便利だな」

 

 霊夢が横目で見た。

 

「あんたが言うと説得力あるわ」

 

「今それ言うか?」

 

 幽庵は話を続けた。

 

「無縁塚には、忘れられた品が流れ着く。品には名が残る。名には関係が残る。その関係を金に変えることの何が悪い」

 

 妖夢が低く言った。

 

「死者は道具ではありません」

 

「道具ではありません。名義です」

 

「同じことです」

 

「違います」

 

 幽庵は妖夢を見据えた。

 

「白玉楼も、死者の名義を扱っているでしょう」

 

 妖夢は言葉を詰まらせかけた。

 

 だが、今度は黙らなかった。

 

「扱っています」

 

 広間の空気が少し揺れた。

 

 妖夢は続けた。

 

「白玉楼は死者の名を預かります。遺品を預かります。古い証文を封じることもあります。そこに責任があることも、今回知りました」

 

 幽庵の目が細くなる。

 

「ならば、灰帳会と何が違う」

 

 妖夢は白楼剣の柄に手を置いた。

 

「白玉楼は、死者の名を眠らせるために預かります。あなたたちは、起こして働かせるために使いました」

 

 幽庵は小さく笑った。

 

「言葉の違いです」

 

「いいえ」

 

 妖夢の声は強くなった。

 

「死者の名前を扱うことと、死者の名前で生者を脅すことは違います」

 

 幽々子が、わずかに微笑んだ。

 

 それは妖夢への肯定だった。

 

 幽庵は幽々子を見る。

 

「西行寺様。あなたも同じお考えで?」

 

 幽々子は湯呑みを置いた。

 

「ええ」

 

「では、白玉楼が死者の名を預かる理由をお聞かせ願いたい」

 

「忘れられないためよ」

 

 幽々子の声は柔らかい。

 

「使うためではなく、眠らせるために名前を預かるの」

 

 幽庵は黙った。

 

 幽々子は続ける。

 

「死者の名は、生者の都合で何度も起こされる。遺産、土地、恨み、借り、供養、名誉。どれも残された者にとっては大事なこと。でも、死者本人にとっては、もう休みたいことかもしれない」

 

 幽々子は机の証文へ目を向けた。

 

「あなたたちは、眠っていた名前を叩き起こした。金を払え、土地を渡せ、倉庫を開けろ、未精算だ、と」

 

 広間の空気がさらに冷えた。

 

「死んだ者まで働かせるなんて、無粋よ」

 

 幽庵は初めて、少しだけ表情を変えた。

 

 だが、すぐに戻した。

 

「無粋でも、必要なことはあります」

 

 霊夢が言った。

 

「なら、証文を正面から人里に出せばよかったでしょ。何で白玉楼の印や命蓮寺の札を偽造したの」

 

「信じさせるためです」

 

「それを偽造って言うのよ」

 

「信じるには形が必要です」

 

 映姫が厳しく言った。

 

「偽りの形で信じさせる行為は、罪です」

 

 幽庵は映姫に向き直る。

 

「では、彼岸はすべての偽りを裁けますか」

 

「裁きます」

 

「生者が作った偽りまで?」

 

「死者の裁きに関わるならば」

 

 映姫の声は揺るがない。

 

 幽庵は目を伏せた。

 

「さすが彼岸」

 

 小町が肩をすくめる。

 

「映姫様相手にその言い方はやめた方がいいよ」

 

 幽庵は構わず続けた。

 

「ならば、本日ここで問います」

 

 彼は袖から、一枚の長い証文を取り出した。

 

 普通の証文ではない。

 

 紙が何枚も継がれ、巻物のように長い。

 そこには、無数の名前が書かれていた。

 

 死者の名。

 供養札番号。

 白玉楼古印の写し。

 人里の土地記録。

 彼岸の未精算印の写し。

 

 それらが、絡み合うように並んでいる。

 

 幽庵はそれを広げた。

 

「幽冥総証文。灰帳会が整理した、未処理の死者名義一覧です」

 

 慧音の目が鋭くなる。

 

「勝手にまとめたのか」

 

「まとめなければ、誰も見ないからです」

 

 幽庵は広間の全員を見る。

 

「この中には、本当に整理すべき名義もある。未返却の遺品もある。相続されず放置された土地もある。供養されず忘れられた名もある。白玉楼の裏帳面にも、人里の記録にも、命蓮寺の札にも、彼岸の帳面にも、それぞれ欠落がある」

 

 彼の声が強くなる。

 

「灰帳会を無効とするなら、この名を誰が引き受ける」

 

 広間が静まり返った。

 

 幽庵は悪党だった。

 

 だが、その問いは空ではない。

 

 無縁塚には、忘れられた名がある。

 白玉楼にも載らず、命蓮寺にも供養されず、人里の記録からも落ち、彼岸に渡る前に迷った名がある。

 

 灰帳会は、そこに入り込んだ。

 

 死者の名を食べた。

 だが、名がこぼれていたことも事実だった。

 

 妖夢は拳を握る。

 

 幽々子は静かに幽庵を見ていた。

 

「それを問うために、証文をばらまいたの?」

 

「問うためではありません。証明するためです」

 

「生者を脅して?」

 

「生者が困らなければ、死者の名は見られません」

 

 その瞬間、妹紅が一歩前に出た。

 

「それ以上言うな」

 

 声は低かった。

 

「人里の連中は、死んだ家族の名前を見せられて震えてた。お前らは、それを“必要”って呼ぶのか」

 

 幽庵は妹紅を見た。

 

「不死の者には、死者の名義の重さは分かりますまい」

 

 妹紅の目が一瞬、燃えた。

 

 霊夢が妹紅の前に手を出す。

 

「燃やすな」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「……努力してる」

 

 幽々子が静かに言った。

 

「灰帳会の問いは、受けるわ」

 

 全員が幽々子を見る。

 

 幽庵も目を細めた。

 

「では」

 

「でも、あなたたちのやり方は認めない」

 

 幽々子は立ち上がった。

 

 その動きだけで、広間の幽霊たちが一斉に静まった。

 

「西行寺裁定を下します」

 

 慧音が筆を構える。

 

 映姫も帳面を開いた。

 

 霊夢は腕を組み、黙って見ている。

 

 ここは博麗神社ではない。

 今回の中心は、白玉楼だ。

 

 幽々子は最初に、灰帳会を見た。

 

「一つ。灰帳会が作成した死者名義の証文は、すべて無効」

 

 灰帳会の者たちがざわつく。

 

 幽々子は続ける。

 

「死者本人の意思確認ができない名義証文を、幻想郷では認めない。生前の本物の記録がある場合は、人里、白玉楼、命蓮寺、彼岸で照合する。灰帳会単独の証文は無効」

 

 慧音が筆を走らせる。

 

 幽庵は黙っている。

 

「二つ。白玉楼の古印は回収し、封印する」

 

 妖夢は古印の箱を抱え直した。

 

 幽々子は妖夢を見る。

 

「白玉楼は、古印を盗まれ、写された責任を負う。今後、死者名義の裏帳面は妖夢にも開示し、複数の目で管理する」

 

 妖夢は驚いた。

 

「私にも」

 

「ええ。あなたはもう、知らないままではいられないわ」

 

 妖夢は深く頭を下げた。

 

「承知しました」

 

「三つ。命蓮寺の供養札は再発行制」

 

 白蓮が頷く。

 

 幽々子は言った。

 

「古い札番号だけで、供養済みを証明しない。白玉楼、人里、命蓮寺の照合を通す。供養札が死者の名義証明として悪用されないよう、記録形式を改める」

 

 白蓮は静かに答えた。

 

「命蓮寺は受けます」

 

 村紗も不満そうではあったが、頷いた。

 

「四つ。人里の死亡記録は慧音が管理する」

 

 慧音の筆が一瞬止まる。

 

 幽々子は慧音を見た。

 

「死者名義の土地、借金、相続については、人里の記録を最優先で照合する。白玉楼も、命蓮寺も、人里の記録を飛ばして名義を動かさない」

 

 慧音は頷いた。

 

「記録する。責任も負う」

 

「五つ。彼岸の帳面を最優先」

 

 映姫が静かに頷く。

 

「死者の裁きに、生者の金銭証文を介入させない。未精算扱いとなった名は、彼岸で分離処理する」

 

 映姫は言った。

 

「彼岸は、その裁定を受け入れます」

 

 小町が小さく笑う。

 

「また仕事が増えたねえ」

 

 映姫が小町を見る。

 

「小町」

 

「はい、働きます」

 

 幽々子は次に無縁塚の名を出した。

 

「六つ。無縁塚の市は監視下に置く」

 

 魔理沙が小声で言う。

 

「げ」

 

 幽々子はにこりと笑った。

 

「遺品、帳面、印、供養札、霊具の取引は、博麗、白玉楼、人里のいずれかに報告すること。魔理沙は勝手に持ち出さないこと」

 

「名指しかよ」

 

 霊夢が言う。

 

「当然でしょ」

 

 魔理沙は不満そうに帽子を直した。

 

「借りる時は申告するぜ」

 

「借りるな」

 

 妖夢と霊夢が同時に言った。

 

 最後に、幽々子は静かに言った。

 

「七つ。西行寺組は、死者名義の裏取引を停止する」

 

 広間が静まった。

 

 妖夢は幽々子を見た。

 

 霊夢も少し眉を上げる。

 

 幽々子は自分自身を裁いていた。

 

「白玉楼は、死者の名を預かる場所。けれど、それを都合よく整理し、生者の争いを静かに収めるために、曖昧な処理をしてきたこともある」

 

 妖夢は何も言えなかった。

 

 幽々子は続ける。

 

「今後、死者名義の証文、遺品、土地、借りについては、白玉楼単独で処理しない。人里の記録、命蓮寺の供養、彼岸の帳面と照合する」

 

 霊夢が小さく笑った。

 

「あんた、自分にも厳しいのね」

 

「死者の領分を守るには、こちらも眠っていてはいけないもの」

 

 幽庵は静かに聞いていた。

 

 やがて、口を開く。

 

「立派な裁定です」

 

「ありがとう」

 

「ですが、灰帳会が拾った名はどうなります」

 

 幽々子は答えた。

 

「拾った名は、奪わずに渡しなさい」

 

「渡す?」

 

「ええ。白玉楼、人里、命蓮寺、彼岸へ。無縁の名は、無縁のまま売るのではなく、しかるべき場所へ送る」

 

 幽庵は小さく笑った。

 

「それができなかったから、無縁塚に流れたのです」

 

「今まではね」

 

 幽々子の声が冷たくなる。

 

「これからは、できなければならない」

 

 幽庵は幽々子を見つめた。

 

「灰帳会を消せば、名はまたこぼれます」

 

「消さないわ」

 

 幽々子の答えに、全員が少し驚いた。

 

 妖夢も顔を上げる。

 

 幽々子は言った。

 

「灰帳会は解体。けれど、無縁塚で名を拾う役目そのものは残す。ただし、金貸しでも証文屋でもなく、名の取次ぎとして。博麗と白玉楼の監視下で」

 

 霊夢が嫌そうな顔をした。

 

「また私も入るの?」

 

「博麗が入らないと、生者側が納得しないでしょう?」

 

「面倒ね」

 

「ええ。面倒なの」

 

 幽庵は沈黙した。

 

 彼の理屈は、半分だけ受け入れられた。

 

 灰帳会のやり方は否定された。

 だが、無縁塚にこぼれる名の問題は認められた。

 

 それが、幽々子の裁定だった。

 

 幽庵はゆっくり頭を下げた。

 

「西行寺裁定、承りました」

 

 妖夢はわずかに警戒を緩めた。

 

 だが、その瞬間だった。

 

 灰原が動いた。

 

 彼は袖から火打石ではなく、小さな灰色の札束を取り出した。

 

 その札には、証文の写しが重ねられている。

 

 人里でばらまかれた証文。

 彼岸で未精算となった名。

 白玉楼裏帳面の写し。

 命蓮寺の札番号。

 

 灰原は叫んだ。

 

「ならば、証文は残さない」

 

 札束が宙に舞う。

 

 同時に、灰帳会の者たちが一斉に紙片を散らした。

 

 紙が、桜の花びらと混じって舞い上がる。

 

 魔理沙が叫ぶ。

 

「証拠隠滅か!」

 

 灰原は笑った。

 

「証文が消えれば、灰帳会だけが悪いとは証明できない。死者の名も、再び無縁へ戻る」

 

 妖夢は息を呑んだ。

 

 証文が燃えるわけではない。

 だが、紙片には灰色の術がかかっていた。

 

 このまま放てば、証文に書かれた名が散り、どの記録にも戻れなくなる。

 

 名前そのものが、また無縁になる。

 

 幽庵が灰原を見る。

 

「灰原、やめなさい」

 

「会主。裁定を受ければ、灰帳会は終わりです」

 

「終わるべきなのだ」

 

「いいえ。死者の名は、拾った者のものです」

 

 灰原の顔から、帳付の丁寧な仮面が消えていた。

 

 彼は叫ぶ。

 

「死者は文句を言わない。ならば、拾った者が使う。それが無縁塚の掟だ!」

 

 妖夢の中で、何かが静かに定まった。

 

 怒りではない。

 

 迷いでもない。

 

 刃の行き先が、はっきりした。

 

 妖夢は白楼剣を抜いた。

 

 霊夢が御札を放ち、紙片の動きを止める。

 白蓮が経を唱え、供養札の偽りを鎮める。

 映姫が悔悟の棒で彼岸の未精算印を押さえる。

 慧音が名前を読み上げる。

 幽々子が桜を舞わせ、散りかけた名を一箇所へ集める。

 

 そして妖夢が走った。

 

 紙片の中を。

 

 名前は斬らない。

 証拠も斬らない。

 供養も、記録も、彼岸の印も斬らない。

 

 斬るのは、灰原が最後に貼りつけた無縁化の術。

 

 白楼剣が光る。

 

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 

 灰色の術だけが剥がれ、証文は力を失って畳の上に落ちる。

 

 灰原はさらに紙片を投げる。

 

 妖夢は止まらない。

 

 楼観剣ではない。

 大きく斬り伏せる剣ではない。

 

 迷いを断つ白楼剣で、偽りだけを断つ。

 

 灰原が後ずさる。

 

「なぜ斬れる」

 

 妖夢は答えた。

 

「これは、名前ではないからです」

 

 最後の紙片が舞う。

 

 そこには、妖夢自身の名前が書かれていた。

 

 以前、無縁塚で見た偽証文の写し。

 

 借主、魂魄妖夢。

 担保、白玉楼への忠義。

 保証、西行寺幽々子。

 

 灰原は叫ぶ。

 

「お前の名も、紙に書けば縛れる!」

 

 妖夢は、その紙を見た。

 

 もう揺れなかった。

 

「私の名前は、私のものです」

 

 白楼剣が走る。

 

 灰帳会の印だけが、静かに灰になった。

 

 紙には、妖夢の名だけが残る。

 

 それはもう証文ではない。

 

 ただの名前だった。

 

 妖夢は刃を収めた。

 

「そして、死者の名前は、死者のものです」

 

 灰原は膝をついた。

 

 霊夢の御札が彼を封じる。

 

 妹紅が灰帳会の者たちの退路を塞ぐ。

 小町が彼岸行きの舟札を突きつける。

 咲夜が逃げようとした数人の袖を止める。

 永琳は散らばった証文を分類し、早苗は外へ逃げた紙片を風で戻す。

 紫は隙間を閉じ、無縁塚へ繋がる逃げ道を切った。

 

 広間に、静けさが戻った。

 

 証文は床に落ちている。

 名前は残っている。

 偽りだけが、灰になっていた。

 

 幽々子は灰原を見下ろした。

 

「死者の名前を食べる者は、最後には自分の名前も失うのよ」

 

 灰原は何も言わなかった。

 

 幽庵は深く頭を下げた。

 

「灰帳会会主として、裁定を受けます」

 

 映姫が厳しく言う。

 

「彼岸でも、あなた方の行いを確認します」

 

「承知しております」

 

 霊夢は息を吐いた。

 

「ようやく片づいた?」

 

 慧音が床の証文を見た。

 

「片づいてはいない。これから照合だ」

 

 霊夢は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「また帳面仕事?」

 

「そうだ」

 

 魔理沙が笑う。

 

「今回は殴って終わりじゃないな」

 

「分かってるわよ」

 

 妖夢は床に落ちた証文を一枚拾った。

 

 そこには、彼岸で会った酒屋の男の名前があった。

 

 加納宗助。

 

 灰帳会の印はもうない。

 名前だけが残っている。

 

 妖夢はそれを慧音に渡した。

 

「お願いします」

 

 慧音は受け取り、頷く。

 

「記録する。正しく」

 

 白蓮も供養札を集める。

 

「命蓮寺で照合します」

 

 映姫は未精算の札を確認する。

 

「彼岸でも分離処理を進めます」

 

 幽々子は妖夢を見た。

 

「妖夢」

 

「はい」

 

「よく斬れたわね」

 

 妖夢は少しだけ目を伏せた。

 

「まだ、斬るべきものを完全に見分けられたとは思いません」

 

「それでいいのよ」

 

 幽々子は微笑む。

 

「迷わない者は、名を雑に扱うから」

 

 妖夢は深く頭を下げた。

 

 その夜、白玉楼の桜は遅くまで散り続けた。

 

 だが、散った花びらの下で、死者の名はもう証文に縛られていなかった。

 

 西行寺裁定は下された。

 

 灰帳会は解体。

 灰原は拘束。

 幽庵は監視下で無縁塚の名の取次ぎを続ける。

 白玉楼は古印を封印し、裏帳面を開示する。

 命蓮寺は供養札を改める。

 人里は死亡記録を照合する。

 彼岸は未精算を正す。

 

 誰か一人が勝ったわけではない。

 

 ただ、死者の名前が少しだけ眠りに戻った。

 

 慧音の帳面には、こう記された。

 

 **西行寺裁定。

 灰帳会の死者名義証文、すべて無効。

 白玉楼、古印および裏帳面管理の責を認める。

 命蓮寺、供養札再発行制へ。

 人里、死亡記録照合を継続。

 彼岸、未精算札を分離。

 死者の名は担保にあらず。**

 

 筆を置く音が、広間に響いた。

 

 幽々子は桜の庭を見た。

 

「さて」

 

 霊夢が警戒する。

 

「何」

 

「お腹が空いたわ」

 

 広間の空気が、一瞬だけゆるんだ。

 

 魔理沙が笑う。

 

「裁定の後にそれか」

 

 妖夢はため息をついた。

 

「幽々子様、まだ証文の整理が残っています」

 

「食べながらやりましょう」

 

「できません」

 

「では、食べてからやりましょう」

 

「それも違います」

 

 霊夢は呆れたように笑った。

 

「白玉楼らしいわね」

 

 桜は散り続ける。

 

 死者の名は、紙の上に残る。

 帳面に残る。

 供養に残る。

 記憶に残る。

 

 けれど、それは金のためではない。

 

 眠らせるために。

 忘れきらないために。

 生者が勝手に使わないために。

 

 妖夢は、床に残った最後の証文を拾った。

 

 名を確かめる。

 偽りが残っていないかを見る。

 そして、そっと机の上に置いた。

 

 白玉楼の夜は深い。

 

 だが、その夜は少しだけ、死者の眠りに近い静けさを取り戻していた。

 

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