西行寺裁定が終わっても、白玉楼の夜は明けなかった。
灰帳会は解体された。
灰原は拘束された。
幽庵は監視下で無縁塚の名を取り次ぐ役目に落とされた。
古印は封じられ、裏帳面は開かれた。
命蓮寺の供養札も、人里の死亡記録も、彼岸の未精算札も、これから照合される。
勝者はいない。
だが、ひとまず終わった。
そう思った者もいた。
霊夢はそう思いたかったし、魔理沙はもう団子を探していた。村紗は「船の方がまだ楽だ」とぼやき、白蓮は供養札の再発行について早くも考え込んでいた。慧音は帳面を書き続け、妹紅は縁側で眠そうに空を見ている。
妖夢も、終わったと思いたかった。
だが、白玉楼の桜は散り続けていた。
いつも散っている。
それは白玉楼では珍しいことではない。
けれど、その夜の花びらは違った。
落ちた花びらの一枚一枚に、薄く文字が浮かんでいた。
名だった。
読み取れるものもある。
読めないものもある。
かすれたもの。
途中で途切れたもの。
最初から空白のもの。
妖夢は庭に出て、その花びらを拾った。
手のひらに乗せた瞬間、文字は消える。
「幽々子様」
声をかけると、幽々子は桜の下に立っていた。
西行妖の下。
その巨大な桜は、夜の底で白く沈んでいる。
美しい。
美しすぎて、どこか不穏だった。
幽々子は、散る花を見上げていた。
「まだ、終わっていなかったみたいね」
その声は、いつもの柔らかさを持っていた。
だが妖夢には分かった。
これは、白玉楼の奥の奥に触れる声だ。
灰帳会でもない。
人里でもない。
命蓮寺でもない。
彼岸でもない。
西行寺そのものの話だった。
霊夢も縁側から庭へ降りてきた。
「何。また出たの?」
魔理沙は団子を手にしたまま言う。
「終わった直後に第二幕か。景気がいいな」
慧音が花びらを拾い、眉をひそめた。
「名前が書かれている」
映姫も近づく。
「彼岸の札ではありません。ですが、死者の名に関わるものです」
白蓮は手を合わせた。
「供養されていない名……いえ、供養されたかどうかも分からない名ですね」
幽々子は静かに言った。
「灰帳会が拾った名の中に、拾ってはいけないものが混じっていたのね」
妖夢が聞く。
「拾ってはいけないもの?」
幽々子は答えない。
代わりに、西行妖の根元へ歩いていった。
そこには、古い石の箱があった。
普段は土と苔に覆われて見えない。
だが今夜は、桜の根がわずかに持ち上がり、その箱を露わにしていた。
妖夢は息を呑んだ。
「このようなものが……」
「昔のものよ」
幽々子は言った。
「白玉楼の、さらに古い帳面」
慧音の筆が止まる。
「まだ裏帳面があったのか」
「裏帳面というより、墓標ね」
幽々子は石の箱に触れた。
箱は、何の抵抗もなく開いた。
中には、一冊の帳面があった。
紙は古い。
表紙には文字がない。
ただ、薄い桜の印が押されている。
妖夢はそれを見て、胸の奥が冷たくなった。
白玉楼の古印より、さらに古い。
西行寺家の印というより、白玉楼がまだ今の白玉楼になる前の印。
幽々子は帳面を開いた。
そこには、名が並んでいなかった。
空白だった。
ページいっぱいに、空白がある。
だが、よく見ると、消された痕跡がある。
墨を削った跡。
水で流した跡。
上から白く塗った跡。
最初から書かれなかったのではない。
書かれていた名が、消されている。
妖夢は声を失った。
慧音が低く言う。
「これは……歴史から削られた名だ」
映姫の表情が厳しくなる。
「彼岸の帳面にない名も含まれています。裁きにすら届かなかった可能性がある」
霊夢は幽々子を見る。
「あんた、知ってたの?」
幽々子は微笑まなかった。
「知らなかった、と言えば嘘になるわね」
妖夢は思わず言った。
「幽々子様」
幽々子は帳面を閉じた。
「昔、白玉楼は死者の名を預かるだけではなかった。行き場のない名を、ここに沈めたことがある」
「沈めた……?」
「どこにも返せない名。家が消えた名。人里の記録から落ちた名。供養する者がいない名。彼岸に渡る形も失った名。そういうものを、白玉楼はここへ集めた」
魔理沙が小さく言う。
「無縁塚より前の、無縁の置き場か」
幽々子は頷いた。
「そう。そして、そのうちのいくつかは、名前を残すことすらできなかった」
白蓮が悲しげに目を伏せる。
「だから、空白に」
幽々子は西行妖を見上げた。
「灰帳会は、無縁塚でこぼれた名を拾った。その中に、この空白へ繋がる名が混じっていたのでしょう。死者の名を金に変えようとしたことで、眠っていた空白まで起こした」
霊夢は舌打ちした。
「最悪の掘り起こし方ね」
その時、庭の奥から声がした。
「名前を」
全員が振り返る。
桜の下に、幽霊たちが立っていた。
一人ではない。
何十人もいる。
いや、もっと多い。
輪郭は薄い。
顔ははっきりしない。
誰かの父かもしれない。
誰かの母かもしれない。
誰かの子かもしれない。
誰にも覚えられなかった誰かかもしれない。
彼らは同じ言葉を繰り返した。
「名前を返して」
妖夢は白楼剣に手を伸ばした。
だが、抜かなかった。
斬る相手ではない。
霊夢も御札を下ろした。
「これ、どうすればいいの」
映姫は険しい顔で言った。
「裁けません。名が確定していない。善悪以前に、誰であるかが分からない」
慧音が帳面を開く。
「記録できない。呼ぶ名がない」
白蓮が手を合わせる。
「供養できません。名がなければ、祈りが届く先が定まらない」
妖夢は幽霊たちを見た。
名前がない。
それは、死んでいることよりも深い孤独に見えた。
灰帳会は死者の名を使った。
だが、ここにいる者たちは、使われる名すら持っていない。
妖夢は幽々子を見る。
「幽々子様。どうすれば」
幽々子はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「呼ぶのよ」
「名が分からないのに、ですか」
「ええ」
幽々子は妖夢へ向き直る。
「妖夢。名前とは、帳面に書かれた文字だけではないわ。誰かが呼んだ声。誰かが覚えていた癖。誰かが触れた道具。誰かが残した場所。そういうものも、名へ続く道になる」
慧音が顔を上げる。
「記録の断片を集めるのか」
「ええ」
白蓮が頷いた。
「供養札がなくとも、遺品や祈りから辿れる名があるかもしれません」
映姫も言った。
「彼岸の欠落記録と照合します。完全な名でなくとも、裁きに届く形へ戻せる可能性はあります」
霊夢はため息をついた。
「つまり、また全員で帳面仕事」
魔理沙が笑う。
「最終決戦が帳面仕事ってのも、この抗争らしいぜ」
「笑いごとじゃないわよ」
しかし、霊夢は御札をしまった。
「やるわよ。起こしちゃったものは戻すしかない」
そこから、白玉楼の庭で奇妙な作業が始まった。
慧音は人里の死亡記録を開いた。
白蓮は命蓮寺の古い供養記録を並べた。
映姫は彼岸の欠落札を照合した。
小町は渡し場で止まった名を思い出した。
魔理沙は無縁塚の市から持ち出した遺品帳を開いた。
霊夢は博麗神社に残る古い異変記録を探った。
紫は境界の隙間から、失われた家や道の痕跡を引き出した。
咲夜は紅魔館に流れた骨董の記録を出した。
永琳は古い医療記録から、人里で名を残せなかった者の手がかりを示した。
早苗は守矢へ伝わった祖霊札を照合した。
村紗は水運で運ばれた無縁の荷を思い出した。
妹紅は人里の古い火事で消えた家の場所を語った。
白玉楼の庭に、名前の断片が集まっていく。
誰かの櫛。
誰かの酒蔵。
誰かの畑。
誰かの舟。
誰かの祈り。
誰かの傷んだ帳面。
誰かの子供が呼んだ呼び名。
完全な名前ではないものも多かった。
だが、呼びかけるには十分なものがあった。
慧音が最初の一つを読み上げる。
「人里南通り、元桶職人。名は宗八。火事で家を失い、記録が途切れている」
幽霊の一人が、わずかに揺れた。
白蓮が手を合わせる。
「宗八殿」
映姫が帳面に記す。
「名、復帰」
その幽霊の輪郭が少し濃くなった。
彼は深く頭を下げ、静かに列へ戻った。
次に、村紗が言った。
「湖沿いの小舟に、同じ櫛が積まれてた。持ち主は、おりんって呼ばれてた女だ」
お燐が反応して振り返る。
「私じゃないよ?」
「分かってる」
慧音が記録を探す。
「人里北の機織り、織乃。供養記録なし。彼岸未到達」
白蓮が呼ぶ。
「織乃殿」
また一人、幽霊の輪郭が戻る。
そうやって、夜は進んだ。
名を呼ぶたび、桜が一枚散る。
散るたび、空白の帳面に薄い文字が戻っていく。
妖夢はその中心で、白楼剣を抜いていた。
ただし、誰も斬らない。
名前に絡みついた灰帳会の残滓。
古い空白に沈められた忘却。
名を金に変えようとした最後の汚れ。
それだけを、静かに斬っていく。
ある幽霊には、名が戻らなかった。
断片が足りない。
記録もない。
誰も覚えていない。
その霊は、妖夢の前で揺れていた。
妖夢は言葉を失う。
幽々子が隣に立った。
「すべての名が戻るわけではないわ」
「では、この方は」
「名が戻らなくても、眠ることはできる」
幽々子はその幽霊へ手を伸ばした。
「あなたの名を、私たちは取り戻せなかった。でも、あなたがいたことは、ここに残すわ」
慧音が帳面に書いた。
**名、不詳。
白玉楼西庭にて確認。
灰帳会により空白から起こされた者。
名は戻らず。
ただし、存在を記録する。**
白蓮が手を合わせる。
「名を知らずとも、祈ります」
映姫が頷いた。
「名不詳として、彼岸の欠落記録に受け入れます」
その幽霊は、ほんの少しだけ明るくなった。
名前ではない。
だが、消えなかった。
妖夢は胸の奥が熱くなるのを感じた。
名前を守るとは、すべてを完全に戻すことではないのかもしれない。
使わせないこと。
消さないこと。
忘れたままにしないこと。
分からないなら、分からないと記録すること。
それもまた、守ることだった。
夜明け前。
最後の空白が残った。
帳面の最後の頁。
そこには、名ではなく、ただ一つの印があった。
西行寺の古い桜の印。
妖夢はそれを見た瞬間、胸騒ぎを覚えた。
「幽々子様。これは」
幽々子はしばらく黙っていた。
霊夢も口を開かない。
紫でさえ、扇を閉じている。
幽々子は静かに言った。
「西行寺家が、最後まで自分のものにしようとした空白ね」
「自分のものに?」
「誰の名か分からない。どこへ返すべきか分からない。ならば、西行寺のものとして眠らせる。そういう処理をしたのでしょう」
慧音が眉をひそめる。
「それは、守ったことになるのか」
「半分はね」
幽々子は微笑んだ。
「半分は、囲ったことになる」
妖夢は息を呑む。
守ることと、囲うこと。
この抗争の間、ずっと付きまとっていた問い。
それが最後に、白玉楼自身へ返ってきた。
幽々子は妖夢から古印の箱を受け取った。
そして、西行妖の根元へ置いた。
「西行寺裁定、最後の一つ」
誰も動かなかった。
幽々子は言った。
「白玉楼は、名の分からぬ死者を西行寺のものとしない」
桜が止まった。
ほんの一瞬、花びらが空中で止まったように見えた。
「名が戻る者は、戻す。供養されるべき者は、命蓮寺へ。裁かれるべき者は、彼岸へ。人里に記録が残る者は、人里へ。どこにも戻れぬ者は、白玉楼に留める。ただし、西行寺の名で覆わない」
幽々子は古印を手に取った。
「この印は、預かるためのもの。奪うためのものではない」
妖夢は幽々子を見る。
幽々子は妖夢へ古印を差し出した。
「斬りなさい」
妖夢は動けなかった。
「私が……これを?」
「ええ」
「白玉楼の印です」
「だからよ」
幽々子の声は優しかった。
「白玉楼が間違えたものは、白玉楼が断たなければならない。あなたは、そのための刃でしょう」
妖夢は古印を見た。
重い。
これまで死者の名義を預かってきた印。
守った名もある。
囲った名もある。
眠らせた名もある。
消してしまった名もあるかもしれない。
斬っていいのか。
妖夢は迷った。
幽々子は言った。
「迷っていいわ」
妖夢は目を閉じた。
幽々子の言葉。
映姫の言葉。
慧音の記録。
白蓮の祈り。
霊夢の裁定。
人里の者たちが死者の名を呼んだ声。
名前は、誰のものか。
死者の名前は、死者のものだ。
妖夢は白楼剣を構えた。
「白玉楼は、死者の名を預かります」
刃が静かに光る。
「ですが、死者の名を所有しません」
妖夢は古印を斬った。
音はなかった。
印は真っ二つには割れない。
ただ、印に染みついていた古い縛りだけが、桜の花びらのように剥がれた。
印そのものは残った。
だが、もう名を囲う力はない。
ただ、預かるための印になった。
西行妖が大きく揺れた。
散っていた花びらが、逆に空へ舞い上がる。
空白の帳面に、いくつもの名が戻っていく。
戻らない名の横には、存在を記す印が残る。
幽霊たちが、静かに薄れていった。
消えるのではない。
行くべき場所へ戻っていく。
彼岸へ。
命蓮寺へ。
人里の記録へ。
白玉楼の静かな庭へ。
名を持つ者も。
名を持てなかった者も。
朝が来た。
白玉楼の空が、薄く青くなる。
桜は、いつものように咲いていた。
けれど、昨夜より少しだけ軽く見えた。
霊夢は大きく伸びをした。
「今度こそ終わり?」
映姫が帳面を閉じる。
「処理は続きますが、異常は収まりました」
「それ、終わってないって意味じゃない」
「責任とは、終わらないものです」
「説教で締めないで」
魔理沙は空白の帳面を覗き込んだ。
「でもまあ、いい終わり方じゃないか。殴り合いじゃなくて、名前を呼んで終わるなんて」
妹紅が言う。
「この抗争らしいな。陰気だけど」
慧音は筆を置いた。
「陰気ではない。静かなだけだ」
村紗が笑う。
「似たようなもんだろ」
白蓮は桜を見上げた。
「静けさを取り戻すための抗争でしたね」
幽々子は微笑んだ。
「死者の話だもの。騒がしく終わるより、その方がいいわ」
妖夢は斬った古印を箱へ戻した。
もう重さは変わっていた。
責任は残っている。
だが、そこに所有の鎖はない。
幽々子は妖夢に言った。
「これから忙しくなるわよ」
「はい。裏帳面の整理、無縁塚の名の取次ぎ、人里との照合、命蓮寺との供養札確認、彼岸との欠落記録の修正……」
「それと朝ご飯」
「幽々子様」
「大事よ」
霊夢が呆れたように笑う。
「最後までそれね」
幽々子は桜の下で、いつものように微笑んだ。
だが妖夢には分かる。
その微笑みは、昨日までと少し違っていた。
白玉楼は死者の名を預かる。
でも、所有しない。
その一線を越えないために、これから妖夢は帳面を開く。
剣を振るうだけではない。
名を読む。
名を照らす。
名が戻らない時は、戻らなかったことを残す。
それが、白玉楼の新しい役目になる。
慧音は帳面の最後に、こう記した。
**最終章、名を呼ぶ桜。
西行寺裁定後、白玉楼旧帳面より空白の名が顕在化。
灰帳会の一件は、死者名義の悪用に留まらず、白玉楼が古くより抱えていた無縁の名の問題を露わにした。
白玉楼、古印の所有的効力を破棄。
死者の名を預かるが、所有せず。
名が戻る者は戻し、戻らぬ者は存在を記録する。
死者の名は、死者のもの。
ただし、忘れぬ責任は、生者と死者の間に残る。**
桜が一枚、帳面の上に落ちた。
そこにはもう、名前は書かれていなかった。
ただの花びらだった。
妖夢はそれを見て、静かに息を吐いた。
ようやく、ただ散ることを許された花びら。
白玉楼の朝は、静かだった。
死者のための静けさだった。