東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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境界通行抗争 序章:消えた道標

 

 道標が消えていた。

 

 それに最初に気づいたのは、人里の子供だった。

 

 寺子屋へ向かう途中ではない。寺子屋から家へ帰る途中でもない。

 その子は、母親に頼まれて博麗神社へ届け物を持っていく途中だった。

 

 布に包んだ握り飯。

 小さな漬物の壺。

 そして、賽銭ではなく、苦情を書いた紙。

 

 母親は言った。

 

「巫女様に渡しておいで。最近、道が変だから」

 

 子供は頷いた。

 

 人里から博麗神社へ向かう道は、別に難しくない。

 

 里の北口を出る。

 小さな石橋を渡る。

 曲がった松の木を右に見る。

 古い道標の前で左へ曲がる。

 そこから先は、石段まで一本道。

 

 だったはずだ。

 

 しかし、松の木の先にあるはずの道標がなかった。

 

 代わりに、小さな小屋が建っていた。

 

 昨日まで何もなかった場所に、木戸つきの小屋。

 前には縄が張られ、粗末な看板が立っている。

 

 看板には、黒い墨でこう書かれていた。

 

 **八雲境界通行所**

 **安全通行料 一人五文**

 

 子供は首を傾げた。

 

 博麗神社へ行くのに、金を払ったことなど一度もない。

 

 小屋の中から、灰色の羽織を着た男が出てきた。

 

 顔は笠でよく見えない。

 声だけが、妙に丁寧だった。

 

「お一人ですか」

 

「博麗神社に行くんです」

 

「では、五文です」

 

「お金は持ってません」

 

「なら、通れません」

 

 子供は困った。

 

「でも、届け物が」

 

「安全な道を通るには、札が必要です。最近は境界が乱れておりますので」

 

「境界?」

 

「八雲様の御配慮です」

 

 男は懐から一枚の札を出した。

 

 黄色がかった紙。

 紫色の細い線。

 端には、八雲の印に似たもの。

 

 子供は札を見ても、それが本物かどうかなど分からない。

 

 ただ、博麗神社へ行く道の途中で知らない大人に止められている。

 それだけで、足がすくんだ。

 

「じゃあ、帰ります」

 

「お気をつけて」

 

 男は穏やかに言った。

 

 子供は来た道を戻った。

 

 石橋を渡り、里へ戻る。

 

 はずだった。

 

 しばらく歩くと、また同じ小屋の前に出た。

 

 看板。

 縄。

 灰色の羽織の男。

 

「お戻りですか」

 

 子供は青ざめた。

 

「違う。帰ろうとしたのに」

 

「道は、札を持つ者にだけ開きます」

 

「帰れないの?」

 

「帰りたいなら、五文です」

 

 子供は泣きそうになった。

 

 その時、塀の上から声がした。

 

「なにしてるの?」

 

 橙だった。

 

 猫のように身軽に塀の上へ座り、尻尾を揺らしている。

 その後ろには、数匹の猫がいた。

 

 子供は橙を見ると、ほっとした顔になった。

 

「帰れない」

 

「どこから来たの?」

 

「里から。神社に行こうとして、帰ろうとしたら、またここに来た」

 

 橙は眉をひそめた。

 

 猫たちが低く鳴く。

 

 ここは、猫たちがよく使う道だった。

 

 人間の道から少し外れ、塀の上を渡り、藪の隙間を抜け、古い祠の裏を通る。

 猫にとっては、人里と博麗神社の近くをつなぐ細い道。

 

 その猫道の途中に、今は細い札が貼られていた。

 

 橙は塀から飛び降り、札に近づいた。

 

 男が言う。

 

「お嬢さん、勝手に触れてはいけません」

 

「これ、八雲の札?」

 

「そうです」

 

「嘘」

 

 橙は即答した。

 

 男の声が少しだけ止まった。

 

「なぜ、そう思われます」

 

「藍さまの札は、こんな匂いしない」

 

 橙は鼻をひくつかせる。

 

「紫さまの匂いでもない。古い紙と、人間の手と、変な墨の匂いがする」

 

 男は笑った。

 

「猫は鼻がよろしい」

 

「猫じゃない」

 

「では、何者で?」

 

 橙は答えず、子供の手をつかんだ。

 

「こっち」

 

 塀の上へ飛ぶ。

 

 子供は驚いたが、橙が背中を押すと、いつの間にか身体が軽くなっていた。

 猫たちが先導する。

 

 塀の上。

 屋根の端。

 藪の隙間。

 小さな祠の裏。

 

 けれど、その先にも札があった。

 

 また別の札。

 

 猫たちが一斉に止まる。

 

 橙の表情が変わった。

 

「ここも?」

 

 猫道が塞がれていた。

 

 一つではない。

 見える範囲に、三つ。

 木の枝に一枚。

 祠の裏に一枚。

 石垣の隙間に一枚。

 

 人間には道に見えないような細い通りまで、札で縫われている。

 

 橙は歯を食いしばった。

 

「道を塞ぐなら、大きな道だけにしてよ」

 

 子供が震える声で聞く。

 

「帰れる?」

 

「帰す」

 

 橙は猫たちに合図した。

 

 猫たちは散った。

 

 一匹は屋根へ。

 一匹は井戸の影へ。

 一匹は竹やぶの奥へ。

 道ではない場所から、道を探し始める。

 

 橙は子供に言った。

 

「絶対に手を離さないで」

 

 それから、札の貼られていない細い隙間へ飛び込んだ。

 

 空気がねじれた。

 

 景色が一瞬だけ白くなる。

 

 次に足が地面に触れた時、そこは人里の北口だった。

 

 子供は泣きながら走っていった。

 

 橙はそれを見送ると、すぐに札のあった方角を振り返った。

 

 灰色の小屋は、遠くにぼんやり見える。

 

 だが、次の瞬間には消えていた。

 

 道標も、小屋も、縄も、男も。

 

 何もない。

 

 ただ、曲がった松の木だけが立っている。

 

 橙は猫たちを呼んだ。

 

「藍さまに知らせるよ」

 

 猫たちは短く鳴いた。

 

 人里の外で、道が売られ始めていた。

 

   *

 

 八雲藍は、帳面を見ていた。

 

 八雲一家の屋敷の奥。

 普通の家のようでありながら、どこにも属さない場所。

 そこに置かれた長机の上に、いくつもの台帳が広げられている。

 

 境界台帳。

 

 幻想郷の道、境、裂け目、封鎖線、通行路、危険区域。

 それらを記した帳面だ。

 

 すべてが書かれているわけではない。

 

 すべてを書けば、それだけで危険になる。

 

 だが、藍はその大半を把握していた。

 

 人里から博麗神社への参道。

 命蓮寺へ向かう荷運び道。

 妖怪の山へ続く旧道。

 迷いの竹林の救急路。

 霧の湖と紅魔館周辺の領域線。

 地底へ降りる縦穴。

 白玉楼へ続く冥界道。

 無縁塚へ向かう裏道。

 

 それぞれに印があり、注意書きがあり、封鎖記録がある。

 

 藍は筆を止めた。

 

 妙だった。

 

 ここ数日、各地の小さな境界異常が多すぎる。

 

 山道で同じ場所へ戻る商人。

 竹林で見知らぬ札に誘導された患者。

 命蓮寺の荷車が半日同じ坂を上っていたという報告。

 紅魔館の門番が「門の前に来たはずの客が湖畔に出た」と怒っているという話。

 地底の縦穴近くで、知らない案内札が見つかったという連絡。

 

 一つ一つは小さい。

 

 だが、小さい異常が同時に起きている。

 

 それは、誰かが全体を見て動いている証拠だった。

 

 障子が勢いよく開いた。

 

「藍さま!」

 

 橙が飛び込んでくる。

 

 息が上がっている。

 後ろには猫が三匹、同じように興奮した様子でついてきた。

 

 藍は顔を上げた。

 

「橙。走る時は、廊下で滑らないようにと」

 

「それどころじゃない!」

 

 橙は机の上に、一枚の札を置いた。

 

 黄色がかった紙。

 紫色の線。

 八雲の印に似せた墨跡。

 

 藍の表情が変わった。

 

「どこで拾った」

 

「人里の北口。博麗神社へ行く道の途中。あと、猫道にもいっぱい貼ってあった」

 

「猫道にまで?」

 

「うん。塀の上とか、祠の裏とか、枝のところとか。猫たちが通れなくなってた」

 

 藍は札を手に取った。

 

 指先で紙質を確かめる。

 墨の匂いを嗅ぐ。

 端の印を目で追う。

 

 偽物だ。

 

 だが、ただの偽物ではない。

 

 藍は帳面をめくり、古い項目を探した。

 

 旧式境界札。

 一時封鎖用。

 使用停止。

 保管場所、八雲書庫奥。

 

 札の形式が似ている。

 

 今は使っていない古い八雲札。

 

 藍の声が低くなった。

 

「これは八雲の札ではない」

 

 橙は頷いた。

 

「分かってる」

 

「だが、八雲の札を知らない者には作れない」

 

 橙の耳がぴくりと動いた。

 

「じゃあ、八雲の中に悪いやつがいるの?」

 

「そうとは限らない」

 

 藍は札を机に置いた。

 

「昔の札を見た者。写しを持つ者。あるいは、台帳の一部を知る者」

 

「そんな人、いるの?」

 

 藍はすぐには答えなかった。

 

 いた。

 

 昔、八雲一家は細かい道の監視を外部の案内人たちに任せた時期がある。

 危険な道。

 古い抜け道。

 人も妖怪も迷う境界のほつれ。

 

 藍がまだ今ほど台帳を管理していなかった頃の話だ。

 

 外部委託。

 

 台帳の端に、時折出てくる古い印。

 

 藍はその項目を開いた。

 

 そこには、薄い文字で組織名が書かれていた。

 

 **縁目会**

 

 橙が読み上げる。

 

「えんもくかい?」

 

「昔の境界案内人たちだ」

 

「案内人?」

 

「迷い道や危険な道を見張り、必要な時だけ通す者たち。八雲一家の下で動いていた」

 

「今は?」

 

「使っていない。少なくとも、私はそう聞いている」

 

 橙は不安げに藍を見る。

 

「紫さまは?」

 

 藍は帳面を閉じた。

 

「紫様に確認する」

 

 その時、部屋の空気が少し揺れた。

 

 隙間が開く。

 

 その向こうから、八雲紫が顔を出した。

 

「あら、呼んだ?」

 

 藍は静かに立ち上がった。

 

「紫様」

 

「そんな怖い顔をしないで。橙が怯えるわ」

 

 橙は紫と藍を見比べた。

 

「怯えてないもん」

 

 紫は微笑み、机の札を見た。

 

「あら。懐かしい形ね」

 

 藍の目が鋭くなった。

 

「ご存じなのですね」

 

「昔の札に似ているわね」

 

「似ているだけですか」

 

「ええ。今の八雲札ではないわ」

 

「それは分かっています」

 

 藍は札を紫の前へ滑らせた。

 

「問題は、なぜこの形式を外部の者が知っているかです」

 

 紫は札を手に取り、しばらく眺めた。

 

「上手に作ってあるわね」

 

「感心している場合ではありません」

 

「怒っているの?」

 

「はい」

 

 藍ははっきり答えた。

 

 橙が少し驚いた顔をする。

 

 藍が紫にこうまで正面から言うのは珍しい。

 

 紫はそれでも微笑んでいる。

 

「どこに貼られていたの」

 

「人里北口。博麗神社への道。猫道にも」

 

「猫道まで?」

 

 その瞬間だけ、紫の目がわずかに細くなった。

 

 藍はそれを見逃さなかった。

 

「紫様。これは、いつから分かっていたのですか」

 

 部屋が静かになる。

 

 橙は息を詰めた。

 

 紫は札を机に戻した。

 

「境界が売られ始めた時から」

 

 藍の表情が固まる。

 

「売られ始めた……?」

 

「通行料を取る関所がいくつか出ていたのは知っていたわ。最初は無縁塚の裏道と、地底への廃道だけだった」

 

「なぜ、すぐに共有されなかったのです」

 

「広がるかどうかを見ていたの」

 

「人里の子供が帰れなくなりました」

 

 紫は黙った。

 

 藍の声は静かだが、強かった。

 

「命蓮寺の荷が止まり、竹林の患者が迷い、猫道まで塞がれています。それでも、様子を見る段階ですか」

 

「藍」

 

「私は、処理役です。紫様が説明しないものを、後から整える役です」

 

 藍は机の台帳に手を置いた。

 

「ですが、知らされなければ処理もできません」

 

 紫の笑みが薄くなる。

 

 橙は二人の間に流れる空気を見て、耳を伏せた。

 

 藍は続けた。

 

「縁目会とは何ですか」

 

「昔の協力者よ」

 

「台帳には外部委託とあります」

 

「そうね」

 

「どこまで境界情報を渡したのですか」

 

「必要な範囲だけ」

 

「その必要な範囲が、今、人里を封じています」

 

 紫は窓の外を見た。

 

 遠く、人里の方角には薄い霧がかかっている。

 

「昔は、境界のほつれが多かった。今よりずっとね。細かい道まで私一人で見るには限界があった」

 

「だから外部に任せた」

 

「ええ」

 

「そして、切った」

 

 紫は答えなかった。

 

 藍は、それで十分だと思った。

 

 切られた者たちは、境界の知識を持ったまま無縁塚や裏道へ流れた。

 そして今、その知識を使って道を売っている。

 

 藍は深く息を吐いた。

 

「紫様。これは八雲一家の問題です」

 

「そうね」

 

「私が動きます」

 

「藍」

 

「止めないでください」

 

 紫は少しだけ笑った。

 

「止めないわ」

 

「ただし、隠し事はこれ以上しないでください」

 

 紫の目が藍を見る。

 

 長い沈黙。

 

 やがて紫は、薄く頷いた。

 

「分かったわ。少なくとも、今回に関わることは話しましょう」

 

「少なくとも、ですか」

 

「私が全部話すと、幻想郷が退屈しなくなるわよ」

 

「今は退屈している場合ではありません」

 

 橙が小さく言った。

 

「藍さま、怒ると怖い」

 

 藍は橙を見る。

 

「怒っているのではない」

 

「怒ってるよ」

 

「……少しだ」

 

 紫はくすりと笑った。

 

 藍は咳払いをし、札を懐にしまった。

 

「博麗神社へ行きます。参道にも偽札が貼られている可能性があります」

 

「霊夢は怒るでしょうね」

 

「すでに怒っていると思います」

 

 藍は橙へ向き直った。

 

「橙。猫たちに頼んで、猫道の札の位置を集めろ。触るな。位置だけでいい」

 

「うん!」

 

「それと、子供や小さな妖怪が迷っていたら、助けること」

 

「任せて」

 

 橙は猫たちと一緒に飛び出した。

 

 藍は台帳を閉じ、紫を見る。

 

「紫様」

 

「何かしら」

 

「境界は、隠せば守れるものだと、私は教わりました」

 

「ええ」

 

「ですが、隠した境界は、隠されたまま売られます」

 

 紫は何も言わなかった。

 

 藍は頭を下げた。

 

「行ってまいります」

 

 藍が出ていった後、紫は机の上に残った古い台帳を見た。

 

 縁目会。

 外部委託。

 使用停止。

 記録抹消予定。

 

 紫は指先でその文字をなぞった。

 

「消したつもりの道ほど、よく残るものね」

 

 誰に向けた言葉でもなかった。

 

   *

 

 博麗神社への参道には、やはり札が貼られていた。

 

 鳥居の少し手前。

 石段の脇。

 参道を横切る古い獣道。

 そして、賽銭箱の前にまで。

 

 霊夢はそれを見て、無言だった。

 

 無言のまま札を一枚剥がそうとしたが、札は空中でぐにゃりと歪んだ。

 手を伸ばしたはずなのに、指先は別の場所へ抜ける。

 

 魔理沙が隣で笑う。

 

「おいおい、賽銭箱にまで通行料か?」

 

 霊夢は札を睨んだ。

 

「人の神社の参道に、勝手に料金所を置くな」

 

「怒ってるな」

 

「怒ってないように見える?」

 

「見えない」

 

 そこへ藍が現れた。

 

 霊夢は振り返るなり言った。

 

「八雲」

 

「申し訳ありません」

 

 藍は即座に頭を下げた。

 

 霊夢は少しだけ拍子抜けした顔をした。

 

「早いわね、謝るの」

 

「八雲の名を使われています。責任はあります」

 

「紫は?」

 

「後ほど説明します」

 

「また後ほど?」

 

 霊夢の目が細くなる。

 

 藍は顔を上げた。

 

「今回は、私が先に動きます」

 

 魔理沙が帽子を直した。

 

「藍が主体か。珍しいな」

 

「珍しがることではない」

 

「いや、紫が後ろで黙ってる時は、だいたい厄介だぜ」

 

「分かっている」

 

 藍は参道の札を確認した。

 

 やはり橙が持ってきたものと同じ形式。

 旧式八雲札に似せた偽札。

 

 ただし、貼り方が巧妙だった。

 

 札そのものが道を塞いでいるのではない。

 道の「通れる」と「通れない」の境目を少しだけずらしている。

 

 藍は低く言った。

 

「剥がすだけでは戻らない」

 

 霊夢が聞く。

 

「どういうこと」

 

「この札は、道を完全に閉じていません。通れない状態と、通れる状態を重ねている。通行料を払うと、通れる側へ誘導される仕組みでしょう」

 

 魔理沙が顔をしかめる。

 

「道を二重にして、金を払った奴だけ正解へ通すってことか」

 

「そうです」

 

 霊夢の目がさらに冷たくなる。

 

「せこいわね」

 

「ですが、技術は八雲の旧式に近い」

 

「つまり、八雲の後始末」

 

 藍は否定しなかった。

 

「はい」

 

 霊夢は腕を組む。

 

「で、誰がやってるの」

 

「縁目会」

 

「知らないわね」

 

「昔、八雲一家が境界の監視を外部に任せた組織です。現在は使っていません」

 

「使ってないのに、向こうは使ってるわけね。八雲の名前を」

 

「その通りです」

 

 魔理沙が笑う。

 

「使い捨てた道具が戻ってきたって感じだな」

 

 藍は少しだけ目を伏せた。

 

「否定できない」

 

 霊夢は藍を見た。

 

「紫は知ってたの?」

 

「一部は」

 

「でしょうね」

 

 霊夢はため息をついた。

 

「まあいいわ。今回はあんたが動くなら、話を聞く」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし」

 

 霊夢は賽銭箱の前の札を指差した。

 

「これを貼った奴は、私が殴る」

 

「できれば、生け捕りで」

 

「努力する」

 

 魔理沙が笑う。

 

「その返事、妹紅みたいだな」

 

 その時、参道の下から声がした。

 

「通行料をお支払いください」

 

 灰色の羽織を着た男が、石段の途中に立っていた。

 

 手には札束。

 腰には小さな帳面。

 

 男は丁寧に頭を下げた。

 

「八雲境界通行所です。博麗神社への安全参拝は、一人五文となっております」

 

 霊夢の空気が変わった。

 

 藍が一歩前に出る。

 

「その札は偽物です。八雲の名を使うことを禁じます」

 

 男は藍を見た。

 

「八雲の方ですか」

 

「八雲藍です」

 

「では、なおさらお聞きしたい」

 

 男は穏やかに言った。

 

「八雲が管理しない道を、誰が管理するのですか」

 

 藍は男を見る。

 

「道を狂わせて料金を取る者が、管理を語るな」

 

「狂っている道を、通れるようにしているだけです」

 

「狂わせたのは誰だ」

 

 男は笑った。

 

「道は、最初から狂っています。八雲がそれを隠していただけです」

 

 藍の目が細くなる。

 

 男は続けた。

 

「我々は、隠された道に値をつけただけです。通れる道には、値がつくものです」

 

 霊夢が一歩前に出た。

 

「じゃあ、通れなくなる前に帰りなさい。今なら無料よ」

 

 男は深く一礼した。

 

「本日はご挨拶まで」

 

 その足元に、薄い隙間が開いた。

 

 八雲の隙間ではない。

 粗く、汚い。

 道のほつれを無理に広げたような裂け目。

 

 藍が動く。

 

 しかし、男はその中へ滑り込んだ。

 

 残ったのは一枚の札だけ。

 

 札の裏には、墨で名が書かれていた。

 

 **縁目会 霞堂縁吏**

 

 藍はそれを拾った。

 

 霊夢が覗き込む。

 

「頭目?」

 

「おそらく」

 

「いい度胸ね。博麗神社の前で商売するなんて」

 

 魔理沙が札を見て言った。

 

「でも、向こうの言い分も少しだけ見えたな」

 

 霊夢が睨む。

 

「何が」

 

「八雲が隠した道を売ってる。つまり、隠してた道があるってことだ」

 

 藍は札を握りしめた。

 

「その責任も含めて、こちらで処理します」

 

 霊夢は藍をしばらく見た。

 

「藍」

 

「はい」

 

「紫の代わりに謝るだけなら、いらないわよ」

 

 藍は黙った。

 

「今回は、あんたがどう裁くか見せなさい」

 

 藍はゆっくり頷いた。

 

「承知しました」

 

 参道の偽札は、まだ揺れている。

 

 剥がせば、道は一時的に歪む。

 放置すれば、誰かがまた通行料を取られる。

 

 藍は境界台帳を開いた。

 

 だが、その台帳だけでは足りない。

 

 橙の猫道。

 人里の古い道。

 博麗の参道。

 命蓮寺の物流路。

 竹林の救急路。

 山道。

 冥界道。

 地底路。

 

 八雲だけが知る道では、もう足りない。

 

 藍は初めて、そのことをはっきり理解した。

 

 境界は、片側のものではない。

 

 通る者がいる。

 待つ者がいる。

 帰る場所がある。

 

 そのすべてを見なければ、道は守れない。

 

 遠く、人里の方角でまた鐘が鳴った。

 

 道に迷った者を知らせる鐘だった。

 

 藍は札を懐にしまった。

 

「橙が集めた猫道の情報と、人里の記録を照合します」

 

 霊夢が言った。

 

「慧音のところね」

 

「はい」

 

「行くわよ」

 

 魔理沙が箒に乗る。

 

「今度は道の抗争か。水の次は道、名前の次は線。幻想郷ってのは、売れるものが多いな」

 

 霊夢は石段を降りながら言った。

 

「売る奴が悪いのよ」

 

 藍は参道を見た。

 

 消えた道標。

 偽の八雲札。

 勝手な通行所。

 通れなくなった猫道。

 

 これはただのいたずらではない。

 

 幻想郷の行き来そのものを握ろうとする抗争だ。

 

 藍は静かに呟いた。

 

「通れる道には値がつく、か」

 

 その言葉を噛みしめる。

 

 そして、すぐに否定した。

 

「道は、値をつけるためにあるのではない」

 

 誰かが帰るためにある。

 

 その時、塀の上から橙の声がした。

 

「藍さま!」

 

 橙が猫たちとともに戻ってきた。

 

 手には、小さな紙片の束。

 

「猫道、いっぱい塞がれてた! でも、まだ抜け道あるよ!」

 

 藍は橙を見た。

 

「よくやった」

 

 橙は嬉しそうに笑った。

 

「道は、帰るためにあるんだよね」

 

 藍は少しだけ驚き、それから頷いた。

 

「ああ。その通りだ」

 

 人里へ向かう道は、まだ不安定に揺れていた。

 

 しかし、完全には閉じていない。

 

 猫が通れるほどの細い道が、まだ残っている。

 

 八雲一家は、その小さな道から抗争を始めることになった。

 

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