八雲藍は、古い木箱を開けた。
八雲の屋敷の奥。
障子の向こうには庭があるが、その庭が本当に屋敷の外にあるのか、それとも隙間の内側に置かれた景色なのか、藍にも時々分からなくなる。
畳の上には、何冊もの台帳が並んでいた。
八雲境界台帳。
人里道筋控。
旧式境界札管理簿。
廃道封鎖記録。
外部協力者一覧。
そして、木箱の底から出てきた、紙紐で縛られた古い帳面。
表紙には薄く、こう書かれている。
**縁目会委託控**
藍は、しばらくその文字を見つめていた。
橙は隣で正座している。
ただし、じっとしているのが苦手らしく、耳だけが忙しく動いていた。
「藍さま、これ全部読むの?」
「ああ」
「今から?」
「今からだ」
「……ご飯は?」
「後だ」
橙は少ししょんぼりした。
藍はそれを見て、ため息をついた。
「読むのは私がやる。橙は、猫たちから集めた道の位置を整理してくれ」
「うん!」
橙はすぐに元気を取り戻し、小さな紙片を広げた。
そこには、猫たちが見つけた偽札の場所が書かれている。
塀の上。
祠の裏。
屋根の端。
竹やぶの抜け穴。
人里北口の古い側溝。
博麗神社の裏参道。
命蓮寺の軒下を通る小道。
人間なら道と呼ばない場所ばかりだった。
しかし、猫にとっては道だ。
藍はそれを見て、静かに頷いた。
「やはり、縁目会は小道まで押さえている」
「大きな道だけじゃないんだね」
「大きな道を封じれば、人は困る。小さな道を封じれば、情報が止まる」
「情報?」
「猫、妖精、小さな妖怪、使い走り。そういう者たちは、人間の道を通らない。だが、彼らが動けなくなると、異変の気配が届かなくなる」
橙は少し考えた。
「じゃあ、猫道って大事なんだ」
「大事だ」
藍は即答した。
橙は嬉しそうに尻尾を揺らした。
「じゃあ、ちゃんと台帳に入れてね」
「入れる」
藍は筆を取り、新しい紙に見出しを書いた。
**小通行路・猫道・緊急連絡路**
それを書いた瞬間、藍は自分でも少し驚いた。
これまでの八雲台帳には、そんな項目はなかった。
境界は、大きなものとして扱われてきた。
人里と妖怪の山。
地上と地底。
幻想郷と外。
生者と死者。
湖畔と紅魔館。
神社と人里。
だが、本当はその間にも、無数の細い線がある。
人が通らない道。
猫だけが知る塀の上。
子供だけが使う抜け道。
薬を運ぶための竹林の細道。
荷車が曲がるための小さな広場。
それらも、境界だった。
紫は大きな境界を見る。
藍は台帳を見る。
橙は小さな道を走る。
ならば、三つを重ねなければならない。
藍は古い帳面を開いた。
乾いた紙の匂いが立つ。
最初の頁には、縁目会の名簿があった。
霞堂縁吏。
灰津道玄。
細見路子。
曲戸七兵衛。
霧坂案内衆。
無縁塚見張番。
地底口封鎖役。
多くは、今どこにいるのか分からない。
一部には、赤い線で「解任」と書かれている。
一部には「行方不明」。
一部には「八雲札返却済」。
そして、いくつかには何も書かれていなかった。
藍はその空欄を見て、眉を寄せた。
「返却記録がない」
橙が覗き込む。
「何が?」
「旧式境界札だ。縁目会へ渡した仮札のうち、いくつかが戻っていない」
「それで偽物を作ったの?」
「おそらく、写しを取ったのだろう。あるいは、札そのものを使って型を残した」
藍は別の頁をめくった。
そこには、縁目会へ委託した道が一覧で記されていた。
人里北口旧参道。
博麗裏参道補助線。
命蓮寺荷車道。
竹林臨時救急路。
無縁塚裏通行。
地底縦穴旧封鎖線。
霧の湖東岸迂回線。
白玉楼冥界道仮接続。
藍の手が止まった。
橙がその顔を見る。
「藍さま?」
「多すぎる」
「多いの?」
「ああ」
藍は低く言った。
「これだけの道を知っているなら、縁目会は幻想郷の行き来をかなり握れる」
橙は尻尾を丸めた。
「だから、みんな迷わせられるの?」
「そうだ」
道を売るには、まず道を知っていなければならない。
そして、道を知るには、誰かが教えた記録がいる。
その記録が、今ここにある。
八雲一家の古い帳面として。
藍は、胸の奥に重いものを感じた。
縁目会は勝手に生まれた敵ではない。
八雲一家の過去から出てきた敵だ。
紫が隠した。
台帳から消した。
使わなくなった。
だが、道は消えなかった。
道を知る者も、消えなかった。
藍は筆を握り直した。
「橙」
「うん」
「これから言う道を、猫たちの記録と照合してくれ」
「分かった」
「人里北口旧参道」
「ある。さっき子供が迷ったところ」
「博麗裏参道補助線」
「猫道と重なってる。賽銭箱の裏に出る道」
「命蓮寺荷車道」
「猫はあんまり使わないけど、軒下の小道と近い」
「竹林臨時救急路」
「竹の匂いが強い道。猫たちは嫌がってた」
「霧の湖東岸迂回線」
「チルノが氷でふさいだことある道?」
「……それも記録しておこう」
橙は嬉しそうに紙へ書き込んだ。
藍は少しだけ口元を緩めた。
だが、その表情はすぐに戻る。
帳面の後半に、別の紙が挟まれていた。
新しいものではない。
しかし、他の頁よりも傷みが少ない。
そこには、見慣れない記号が書かれている。
**通行価値見積**
藍の目が鋭くなった。
頁をめくる。
道の一覧の横に、数字が並んでいた。
博麗参道、一日平均通行者。
命蓮寺荷車道、月間荷数。
竹林救急路、緊急時価値高。
山道信仰路、季節変動あり。
紅魔館湖畔線、警備価値高。
白玉楼冥界道、特殊需要あり。
道に値段がつけられていた。
橙が紙を見て、顔をしかめる。
「これ、なに?」
「道を商売として見た記録だ」
「道に値段?」
「そうだ」
「変なの」
橙は即座に言った。
「道は値段じゃないよ。帰れるかどうかだよ」
藍はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「その通りだ」
しかし、縁目会は違った。
道を、通行者の数で見ている。
荷の量で見ている。
危険度で見ている。
困った時にどれだけ金を払うかで見ている。
これは単なる偽札作りではない。
商売の帳面だ。
境界の商売。
藍は紙を抜き取り、別に置いた。
「これを霊夢殿と慧音殿に見せる」
「紫さまには?」
「もちろん見せる」
「怒られる?」
藍は少し考えた。
「怒られるかもしれない」
「藍さまが?」
「私が」
「なんで?」
「開けるなと言われたものまで開けているからだ」
橙は真顔で言った。
「でも、開けないと分からないよ」
藍は橙を見た。
そして、小さく笑った。
「そうだな」
*
八雲紫は、縁側で待っていた。
茶は冷めている。
それでも、紫は飲むでもなく、捨てるでもなく、湯呑みを指先で回していた。
藍が古い帳面と抜き取った紙を持って現れると、紫は顔を上げた。
「見つけたのね」
「はい」
「やはり、嫌なものが出た?」
「かなり」
藍は紫の前に、通行価値見積の紙を置いた。
紫はそれを見た。
その表情から、笑みが消えた。
「懐かしくないわね」
「ご存じでしたか」
「一部はね」
「これは、縁目会が作ったものですか」
「おそらく」
「八雲の委託中に?」
紫は答えなかった。
藍は続ける。
「道に値段をつけています。博麗参道、命蓮寺荷車道、竹林救急路、冥界道まで」
「ええ」
「縁目会は、昔から通行権を売る準備をしていた」
「最初はただの統計だった」
「道の利用頻度を調べることですか」
「危険な道から先に補修するためには、通行量が必要だった。人が多く通る道、荷が多い道、緊急時に使う道。そこを優先するのは間違っていない」
「しかし、それを値段に変えた」
「そう」
紫は短く言った。
「そこから、彼らは道を見る目を変えた」
藍は紫の前に座った。
「紫様。なぜ縁目会を完全に処理しなかったのです」
「完全に、とは?」
「台帳の回収。札の回収。関係者の確認。行方不明者の追跡。再発防止の記録」
紫は少しだけ笑った。
「藍は本当に帳面が好きね」
「好き嫌いではありません」
「分かっているわ」
紫は庭を見た。
「当時、幻想郷の境界は今より荒れていた。縁目会を切った後も、次の問題がすぐに来た。外とのほころび、山の境目、人里の拡張、無縁塚の流入、冥界道の不安定化」
「だから後回しにした」
「ええ」
「後回しにしたものが、今戻ってきています」
「そうね」
藍は、紫をまっすぐ見た。
「紫様。今回は、私に任せてください」
「もう任せているわ」
「いいえ」
藍は首を振った。
「後始末としてではなく、八雲一家の実務責任者として任せてください」
紫は目を細めた。
「藍」
「私は、紫様の隠したものを処理するだけの式ではありません」
空気が、わずかに震えた。
橙が廊下の影で、息を止めている。
藍は続けた。
「境界を守るために、隠すことは必要です。ですが、隠したものを誰も知らなければ、それは守りではなく放置になります」
紫は黙っていた。
「縁目会は、その放置された道を売っています。なら、八雲一家のやり方を変えなければなりません」
紫はようやく口を開いた。
「どう変えるの?」
「境界台帳を分けます」
「分ける?」
「八雲だけが知るべき境界と、関係勢力へ共有すべき道を分けます。人里の生活路、博麗参道、命蓮寺物流路、永遠亭救急路、守矢山道、紅魔館周辺路、白玉楼冥界道、地底連絡路。すべてを一冊に隠すのではなく、必要な範囲で共有する台帳を作ります」
「危険よ」
「承知しています」
「道は知られれば、使われる」
「知られなければ、勝手に売られます」
紫は黙った。
藍は言った。
「境界は、片側のものではありません」
紫の表情が、少しだけ変わった。
その言葉を聞くのは、二度目だった。
だが、今の藍は前よりも深く、その意味を掴んでいる。
「通る者がいる。待つ者がいる。帰る場所がある。八雲が線を引くだけでは、もう足りません」
紫は静かに扇を開いた。
「藍。あなたは、私から境界を取り上げたいの?」
「違います」
「では?」
「境界を、八雲一家だけの帳面から出したいのです」
紫はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
やがて、紫は小さく笑った。
「大きく出たわね」
「申し訳ありません」
「謝らないで。面白いわ」
「面白がることでは」
「私にとっては、面白いことよ」
紫は藍へ、もう一つの小さな鍵を投げた。
藍は受け取る。
「これは?」
「縁目会を解散させた時に封じた、旧境界札の本管理簿」
藍は目を見開く。
「まだあったのですか」
「あるわよ。私は綺麗好きではないと言ったでしょう」
「なぜ今まで」
「あなたがここまで言うのを待っていた」
藍は一瞬、言葉を失った。
「……試していたのですか」
「少しだけ」
「紫様」
「怒っていいわよ」
藍は深く息を吐いた。
「怒るのは後にします」
「そうして」
紫は柔らかく微笑んだ。
「行きなさい、藍。縁目会は、あなたを狙うわ」
「私を?」
「紫ではなく、藍が台帳を開くなら、縁目会にとって一番邪魔なのはあなたになる」
「望むところです」
「頼もしいわね」
藍は立ち上がった。
鍵を握りしめる。
「橙」
廊下の影から橙が飛び出した。
「はい!」
「猫道の整理を続ける。次は命蓮寺の荷車道と、竹林の救急路を照合する」
「分かった!」
橙は走り出しかけて、振り返った。
「紫さま」
「なあに?」
「藍さまを怒らせたらだめだよ」
紫はくすりと笑った。
「覚えておくわ」
*
人里の寺子屋には、すでに関係者が集まっていた。
霊夢、魔理沙、慧音、妹紅。
命蓮寺からは村紗が来ている。
永遠亭から鈴仙。
守矢から早苗。
紅魔館から咲夜。
それぞれが、自分たちの道の異常を持ち寄っていた。
村紗は苛立っている。
「命蓮寺の荷車が、同じ坂を三度上った。荷の米袋がひとつ破れて、寺の連中が怒ってる」
早苗は山道の札を机に置いた。
「守矢の信徒が、山の入口で通行料を求められました。神奈子様がかなり怒っています」
咲夜は静かに言った。
「紅魔館へ向かう来客が、霧の湖の北岸に出ました。お嬢様は“私の館を見世物小屋にするな”と」
鈴仙も困った顔で続ける。
「竹林の救急路に案内札が出ています。患者さんが別の竹やぶへ誘導されかけました」
妹紅が低く言う。
「それは笑えないな」
藍は全てを聞き、台帳へ書き込んだ。
「縁目会は、主要道だけでなく、用途別の札を使っています。参道用、荷車道用、救急路用、小型通行路用。おそらく、次は特殊路に来ます」
慧音が問う。
「特殊路とは」
「地底への連絡路、白玉楼への冥界道、無縁塚裏道などです」
魔理沙が言う。
「どんどん嫌な道になるな」
霊夢は藍を見た。
「で、八雲の台帳は出せるの?」
部屋の空気が一瞬止まった。
藍は懐から新しい紙束を出した。
「全ては出せません」
霊夢の目が細くなる。
「またそれ?」
「全てを出せば、逆に危険です。ですが、関係する生活路、物流路、救急路、参道、連絡路については共有します」
慧音が頷いた。
「十分だ。まずはそれで照合する」
村紗が腕を組む。
「命蓮寺の荷車道も入るんだな」
「入ります」
早苗が聞く。
「山道も?」
「入ります。ただし、守矢側の信仰路についても申告してください」
早苗は少しだけ困った顔をした。
「神奈子様に確認します」
咲夜が言う。
「紅魔館周辺は、すべて出すわけにはいきません」
「必要な範囲で構いません。通行制限がある場所、迷い込みが危険な場所、湖畔へ誤誘導されると困る場所だけでよい」
咲夜は頷いた。
「その範囲なら」
鈴仙も続ける。
「竹林の救急路は、永琳様の許可を取ります。ただ、患者用の道なので急ぎます」
藍はすべてを書き留めた。
慧音はそれを見て、静かに言った。
「八雲の台帳が、ようやく人里の机に乗ったな」
藍は頭を下げた。
「遅すぎたかもしれません」
「遅い記録でも、無いよりはましだ」
霊夢が言う。
「で、縁目会はどう出ると思う?」
藍は地図を見た。
札の位置を線で結ぶ。
人里北口。
博麗参道。
命蓮寺荷車道。
竹林救急路。
山道入口。
霧の湖東岸。
線は、人里を囲むように配置されていた。
藍の手が止まる。
「人里を閉じるつもりです」
全員が黙った。
妹紅が低く言った。
「閉じる?」
「完全にではありません。出られないわけではない。だが、正しい道を通るには札が必要な状態にする」
霊夢が言った。
「人里全体を料金所にする気?」
「おそらく、最初の大きな取引材料です。人里の出入りを不安定にし、八雲一家へ境界通行権の一部を認めさせる」
村紗が吐き捨てる。
「道を人質か」
鈴仙が青ざめる。
「患者さんが出たら」
早苗も表情を硬くする。
「山の信徒も動けません」
咲夜は静かにナイフを取り出しかけ、すぐにしまった。
「お嬢様へ急ぎ伝える必要がありますね」
慧音は筆を置いた。
「人里の古い道をすべて開く。公式の道だけでは足りない」
橙が手を上げる。
「猫道も使えるよ!」
妹紅は橙を見る。
「人間が通れるのか?」
「がんばれば」
「がんばる道は道なのか?」
「猫には道だよ」
藍は言った。
「橙の猫道は、緊急連絡に使います。人間用ではなく、情報用です」
橙は胸を張った。
「任せて!」
霊夢は立ち上がった。
「じゃあ、やることは決まりね。縁目会が人里を閉じる前に、こっちで道を開ける」
魔理沙が箒を担ぐ。
「道の開け合いか。地味だけど派手になりそうだな」
藍は台帳を閉じた。
だが、すぐにまた開いた。
そこに新しい頁を作る。
見出しを書く。
**共有境界台帳 仮**
その一行を見て、紫の言葉が頭をよぎった。
道は知られれば、使われる。
その通りだ。
だが、道は知られなければ守れない。
藍は筆を進めた。
博麗参道。
人里北口。
命蓮寺荷車道。
竹林救急路。
守矢山道。
紅魔館湖畔線。
猫道緊急連絡路。
そこに、各勢力の名前を添える。
八雲だけの台帳ではない。
幻想郷の道を、複数の目で見るための台帳。
慧音がそれを見て言った。
「これは残るぞ」
藍は頷いた。
「残します」
「紫が嫌がっても?」
藍は少しだけ笑った。
「その時は、説得します」
霊夢が言う。
「説得で済む?」
「済ませます」
魔理沙が笑う。
「藍、強くなったな」
藍は返事をしなかった。
外で、また道迷いの鐘が鳴った。
今度は近い。
人里のどこかで、縁目会の新しい札が貼られたのだ。
藍は立ち上がった。
「行きます」
橙が猫たちを呼ぶ。
「みんな、道を探すよ!」
猫たちは一斉に鳴いた。
寺子屋の戸が開く。
外の道は、薄く揺れていた。
だが、今の藍には線が見える。
八雲の線。
人里の線。
猫の線。
荷車の線。
祈りの線。
救急の線。
それらを重ねれば、縁目会が売ろうとしている道の裏側が見えるはずだった。
藍は静かに呟いた。
「境界は、片側のものではない」
その言葉は、もはやただの理屈ではなかった。
新しい台帳の、最初の一文だった。