人間は、道を地面に見る。
土の上に踏み固められた線。
石を並べた参道。
荷車の轍。
寺へ向かう坂道。
山へ続く登り道。
けれど、猫は違う。
猫にとっての道は、地面だけにあるものではない。
塀の上。
屋根の端。
木の枝。
祠の裏。
井戸の縁。
人の背丈では見えない草の隙間。
雨の日だけ開く軒下の細い通り。
そこには、地図に載らない道がある。
橙は、その道をよく知っていた。
人里の屋根から屋根へ跳び移り、古い土蔵の庇を抜け、寺子屋の裏庭へ降りる。そこから井戸の脇を通り、石垣を登る。塀の上には、すでに三匹の猫が待っていた。
一匹は黒。
一匹は白。
一匹は尻尾の先だけ茶色。
橙は三匹を見る。
「どこ?」
黒猫が短く鳴き、尻尾で北を示した。
白猫は屋根の方を見上げる。
茶色の尻尾の猫は、祠の裏へ走った。
橙は頷いた。
「分かった。順番に見るよ」
今日の橙の仕事は、猫道の調査だった。
藍は人里の寺子屋で、慧音や霊夢たちと共有境界台帳を作っている。
大きな道は、大人たちが見る。
博麗参道。
命蓮寺の荷車道。
竹林の救急路。
妖怪の山へ向かう信仰路。
紅魔館へ続く湖畔線。
だが、橙には橙の仕事がある。
猫道。
それは大きな道ではない。
けれど、塞がれれば困る者がいる。
猫。
小さな妖怪。
妖精。
使い走り。
子供。
人に見つかりたくない者。
大きな道を通れない者。
そういう者たちが使う道だ。
橙は塀の上を走った。
人里の屋根は、朝の光を受けて少し湿っている。
遠くでは、道迷いを知らせる鐘が鳴っていた。昨日から何度も鳴っている鐘だ。
人里の外へ出た商人が戻れない。
命蓮寺へ向かった荷車が同じ坂を回る。
永遠亭へ急ぐ者が竹林の入口で違う道に誘導される。
大人たちはその大きな異常で忙しい。
だが、橙が見ている異常は、もっと小さかった。
寺子屋の裏にある小さな祠。
普段なら、祠の後ろに猫一匹分の隙間がある。そこを抜けると、人里の北口へ早く出られる。
だが、そこに札が貼られていた。
黄色がかった紙。
紫色の線。
偽の八雲印。
橙はしゃがみ込んだ。
猫たちが後ろで不安そうに鳴く。
「またこれ」
札には小さく番号が書かれている。
**乙二号 小通行路用**
橙は顔をしかめた。
大きな関所ではない。
人間から見れば、ただの祠の裏の隙間だ。
しかし、猫にとっては道だ。
札はそこに貼られ、隙間を微妙にずらしていた。通ろうとすると、祠の前へ戻される。何度入っても同じ場所へ出る。猫たちは、それで先へ進めなくなっていた。
橙は札に触れようとして、手を止めた。
藍に言われている。
触るな。
場所を記録しろ。
札の種類を確認しろ。
無理に剥がすと、道がさらに歪む。
橙は唇を尖らせた。
「分かってるよ」
誰に言ったわけでもない。
札の位置を紙に書く。
**寺子屋裏、祠後方。乙二号。猫道遮断。**
黒猫が低く鳴いた。
「分かってる。通れないと困るよね」
橙は祠の上へ飛び、別の抜け道へ回った。
次は、古道具屋の屋根。
屋根の端には、人里の猫たちがよく昼寝する細い瓦の列がある。そこを渡ると、井戸の近くへ出られる。
だが、そこにも札があった。
**乙三号 屋根道用**
橙は歯を食いしばった。
「屋根道まで種類分けしてる」
ただ道を塞いでいるのではない。
縁目会は、小さな道を分類している。
人間用。
荷車用。
救急路用。
猫道用。
屋根道用。
まるで、道を品物のように分けている。
橙は、藍が言っていた言葉を思い出した。
小さな道を塞げば、情報が止まる。
その意味が、少しずつ分かってきた。
寺子屋の裏から北口へ抜けられない。
屋根の上から井戸へ行けない。
祠の裏を通れない。
そうすると、猫たちはいつものように人里の様子を見られない。小さな妖怪たちは、危険を知らせに走れない。子供が迷っても、近道で助けに行けない。
大きな道だけではない。
小さな道も、幻想郷を動かしている。
橙は屋根の上で立ち上がった。
「次」
白猫が走り出す。
橙も続いた。
*
昼過ぎには、橙の紙は札の位置でいっぱいになっていた。
祠の裏。
寺子屋の塀。
古井戸の脇。
人里北口の石垣。
畑へ抜ける獣道。
命蓮寺の参道裏の軒下。
博麗神社へ向かう旧道の木の根元。
どれも、普通の地図には載らない。
けれど、猫たちは知っている道だった。
橙は紙を見ながら、鼻をひくつかせた。
「同じ匂いがする」
黒猫が鳴いた。
「うん。札を貼った人、同じじゃないかも。でも、墨が同じ」
墨には独特の匂いがあった。
古い紙。
湿った土。
無縁塚の埃。
そして、薄く境界の匂い。
八雲のものではない。
だが、八雲を真似た匂い。
橙は、その匂いを追った。
人里の北側から、古い土塀沿いへ。
土塀の先には、使われなくなった小さな門がある。
昔は畑へ出る道だったらしい。今は草が伸びて、人間はほとんど通らない。
だが、猫は通る。
橙が門の上へ飛び乗ると、下に小さな看板が立っていた。
**縁目案内所**
**小道安全札 一枚二文**
橙の尻尾が逆立った。
小道安全札。
猫道にまで値段をつけている。
看板の横には、灰色の羽織を着た若い男が座っていた。男は小さな札束を並べ、妖精や小さな妖怪たちへ声をかけている。
「迷わず帰れる札だよ。屋根の上でも、祠の裏でも、塀の隙間でも使える。今なら一枚二文」
小さな妖精が札を覗き込んでいた。
「これ持ってたら、寺子屋の裏に出られる?」
「出られるとも」
「ほんと?」
「縁目会の札だからね」
橙は門の上から飛び降りた。
「買っちゃだめ!」
妖精がびくっとする。
灰色の羽織の男は、橙を見て穏やかに笑った。
「これはこれは。八雲の猫のお嬢さん」
「猫じゃない」
「では、八雲の式のお嬢さん」
「橙」
「失礼。橙さん」
男は丁寧に頭を下げた。
橙は妖精を後ろに下がらせる。
「その札、偽物でしょ」
「偽物とは心外ですね。安全に通るための札です」
「通れなくしてるのは、そっちじゃない」
「道が乱れているのです。我々は、それを整えているだけ」
「嘘」
橙は即答した。
男は笑みを崩さない。
「なぜ、そう思います」
「猫道は昨日まで通れた。今日、札が貼られて通れなくなった。だから、貼った人が悪い」
「単純ですね」
「単純でいい」
橙は睨んだ。
「道は、帰るためにあるんだよ。売るためじゃない」
男は少しだけ目を細めた。
「帰るための道だから、値がつくのです」
橙は一瞬、言葉に詰まった。
男は続けた。
「大きな道だけが道ではありません。小さな道も、塞げば値がつく。猫の道、妖精の道、子供の抜け道。通れなくなって困る者がいるなら、それは価値ある道です」
橙は拳を握った。
「困らせてるのは、そっち」
「困っている者に道を売っているだけです」
「先に困らせてから売るのは、ずるい」
「世の中には、そういう商売もあります」
「そんな商売、いらない」
男は小さく笑った。
「あなたはまだ幼い」
橙の目が鋭くなった。
「幼くても、分かるよ」
後ろで猫たちが集まり始めていた。
黒猫。
白猫。
尻尾の茶色い猫。
屋根の上から三匹。
井戸の脇から二匹。
畑の草むらから、さらに数匹。
妖精たちも、少しずつ橙の後ろへ下がる。
男は周囲を見た。
「猫を集めたところで、境界札は剥がせませんよ」
「剥がさない」
橙は紙を取り出した。
そこには、猫道の札の位置がびっしり書かれている。
「全部、藍さまに渡す」
男の笑みが、ほんの少しだけ薄れた。
「八雲藍に?」
「うん」
「それは困りますね」
男の袖から、小さな札が滑り落ちた。
乙二号ではない。
もっと細い札。
**乙零号 迷走誘導**
橙が身構える。
男は札を地面へ貼った。
瞬間、橙の足元の道が歪む。
土塀。
門。
看板。
猫たち。
妖精たち。
全部が遠くなる。
橙は走ろうとした。
だが、足が同じ場所へ戻る。
「橙!」
妖精の声が遠く聞こえる。
男の声も聞こえた。
「小さな道は、簡単に迷路になります。猫の足でも抜けられませんよ」
橙は歯を食いしばった。
道が回っている。
右へ走っても門に戻る。
左へ飛んでも看板の前。
塀に登っても、また同じ土の上。
同じ場所を走らされる。
子供が泣いていた道と同じだ。
橙は目を閉じた。
藍なら、台帳を見る。
紫なら、境界を裂く。
霊夢なら、札ごと壊す。
でも、橙には橙の道がある。
猫道は、目で見るものではない。
匂い。
足裏の感触。
風の抜け方。
屋根の温度。
石の湿り気。
猫たちが残した爪の跡。
橙は地面に手をついた。
土の下に、細い流れがある。
人間が道と呼ばない道。
門の下の隙間。
土塀の影。
草の根の間。
猫一匹が体をねじ込めるだけの、ほんの細い抜け道。
札はそこまで完全には塞いでいない。
「見つけた」
橙は小さく呟いた。
そして、体を低くした。
猫のように。
いや、猫よりも速く。
地面すれすれを走り、門の下の影へ滑り込む。
景色が一瞬だけ裂けた。
次の瞬間、橙は男の背後に出ていた。
男が驚いて振り返る。
「なっ」
橙は男の手元の札束を蹴り上げた。
札が宙に舞う。
猫たちが一斉に飛びかかった。
札を咥え、爪で押さえ、屋根の上へ運ぶ。
妖精たちは慌てて逃げる。
橙は男の前に着地した。
「猫道をなめないで」
男は後ろへ下がった。
だが、すぐに笑みを戻す。
「面白い。やはり、小道にも価値がありますね」
「まだ言うの?」
「ええ。今日のところは、良い勉強になりました」
男は袖から別の札を出す。
そこには、縁目会の印があった。
「霞堂様へ報告しておきます。八雲の小さな式は、猫道を守る、と」
「逃げる気?」
「案内人は、退路を持つものです」
男の足元に細い裂け目が開く。
八雲の隙間ではない。
道の傷を無理に広げた、粗い穴。
橙は飛びかかった。
だが、男はその裂け目へ滑り込んだ。
残ったのは、一枚の札だけ。
橙はそれを拾う。
札の裏には、細い文字が書かれていた。
**縁目会小道係 曲戸路平**
橙はその名を紙に書き留めた。
*
夕方、橙は寺子屋へ戻った。
藍たちはまだ地図を広げていた。
慧音が人里の古道を読み上げ、藍が共有境界台帳に書き込み、霊夢が偽札の回収場所を記録している。魔理沙は横で退屈そうにしていたが、時々役に立つ情報を口にしていた。
橙は戸を開けるなり叫んだ。
「藍さま!」
藍が顔を上げた。
「橙。無事か」
「うん。でも、見つけた!」
橙は机の上に紙を広げた。
札の位置。
種類。
猫道の迂回路。
縁目会の小道係の名。
看板の場所。
小道安全札の値段。
藍はそれを見て、表情を引き締めた。
「よく調べた」
橙は少し胸を張る。
「猫たちもがんばった」
「あとで礼をする」
「煮干し?」
「用意する」
橙は満足そうに頷いた。
慧音が紙を見て言った。
「これは重要だ。人間用の地図では見えない封鎖線が分かる」
霊夢も覗き込む。
「縁目会、小道まで商売にしてるのね」
魔理沙が言う。
「一枚二文か。子供や妖精なら払えそうな額にしてるのが嫌らしいな」
橙は拳を握った。
「困ってる子たちに売ってた」
藍は静かに問う。
「そいつは何と言っていた」
「大きな道だけが道じゃない。小さな道も、塞げば値がつくって」
部屋の空気が沈んだ。
妹紅が低く言う。
「本当に腐ってるな」
慧音は筆を走らせた。
「小道封鎖確認。縁目会、小型通行路を商材化。被害、猫、小妖怪、妖精、子供の移動に及ぶ」
藍は橙の紙を共有境界台帳に重ねた。
大きな道の地図の上に、猫道が細く走る。
すると、奇妙なことが分かった。
縁目会が貼った小道札は、人里を囲む主要札の隙間を埋めるように配置されている。
大きな道を閉じる。
小さな道も閉じる。
そうすれば、人里は完全ではないにせよ、外と繋がりにくくなる。
藍は低く言った。
「縁目会は、本気で人里を囲むつもりだ」
霊夢が顔をしかめる。
「逃げ道まで塞ぐために猫道を売ってたのね」
「はい」
橙が言う。
「でも、全部は塞げてないよ」
藍が見る。
橙は紙の端を指差した。
「ここ。門の下の細いところ。あと、古井戸の裏。人間は無理だけど、猫なら通れる。妖精もたぶん通れる。あと、私も」
「緊急連絡路として使える」
藍はすぐに書き込んだ。
**猫道一号、寺子屋裏—人里北口。緊急連絡路。売買禁止。縁目会札未完全。**
橙が嬉しそうに言った。
「一号!」
「これから増える」
藍は橙を見た。
「橙。猫道の地図を作る。お前が中心だ」
「私が?」
「そうだ」
橙は目を丸くした。
藍は真剣だった。
「八雲の台帳には、大きな境界しか載っていなかった。だが、今回分かった。小さな道が塞がれれば、幻想郷の声が止まる」
橙は少し照れたように耳を動かした。
「猫道も、ちゃんと道?」
「ああ」
藍は頷いた。
「ちゃんと道だ」
霊夢が言った。
「じゃあ、その猫道で縁目会の裏を取れるかもね」
魔理沙が笑う。
「大通りは料金所。なら、裏道から店主を叩くってわけだ」
慧音は地図を見た。
「縁目会の小道札は、人里の外周に沿っている。だが、猫道一号と二号が残っているなら、外へ連絡を出せる」
妹紅が言った。
「それで命蓮寺や永遠亭へ知らせられるか」
橙は頷いた。
「猫たちなら行ける。私も行ける」
藍は少し迷った。
「危険だ」
橙はまっすぐ藍を見る。
「でも、道は帰るためにあるんでしょ」
藍は黙った。
橙は続けた。
「帰れない子がいたら、迎えに行く道もいるよ」
藍はその言葉を受け止めた。
そして、静かに頷く。
「分かった。ただし、一人で深追いはするな。必ず猫たちと動け。偽札を見つけても、無理に剥がすな。場所と種類を記録する」
「うん!」
霊夢が横から言う。
「あと、変な料金所を見つけたら私に言いなさい」
橙が聞く。
「どうするの?」
「壊す」
藍がすぐに言う。
「できれば生け捕りで」
「努力する」
魔理沙が笑った。
「最近そればっかだな」
*
夜、人里の屋根の上に猫たちが集まった。
橙はその真ん中に立っていた。
手には、小さな地図。
藍が作ってくれた、猫道用の白紙台帳だった。
猫たちは、それぞれ自分の知っている道を鳴き声と尻尾で示す。
あの塀は通れる。
あの屋根は滑る。
あの祠の裏は札がある。
あの井戸の影はまだ抜けられる。
あの竹やぶは匂いがおかしい。
あの蔵の裏は、昨日まで道だったのに、今日は戻される。
橙は一つずつ書いた。
字は藍ほど綺麗ではない。
でも、道は確かにそこにある。
屋根の上から見る人里は、昼とは違って見えた。
大きな道は暗い。
けれど、小さな道が生きている。
猫の目には、細い線がいくつも見える。
帰るための線。
知らせるための線。
迎えに行くための線。
遠く、人里の外れで、偽の関所の灯りが揺れていた。
縁目会は道を売っている。
でも、まだ売れない道がある。
猫たちが知っている道。
橙が走る道。
藍がこれから台帳に入れる道。
橙は地図の端に、少し大きな字で書いた。
**猫道。
売り物じゃない。
帰るための道。**
そして、顔を上げた。
夜風が吹く。
猫たちが一斉に鳴いた。
その声は小さかったが、人里の屋根から屋根へ伝わっていった。
大きな道が閉じられようとしている夜に、
小さな道は、まだ生きていた。