東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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第五章 人里封鎖

 

 

 朝になっても、人里の門は開かなかった。

 

 門そのものは開いている。

 

 木戸は外され、見張りの火消しも立っている。

 誰かが縄を張ったわけでもない。

 柵が増えたわけでもない。

 道を塞ぐ岩もない。

 

 だが、出られない。

 

 北口から外へ出ようとした商人は、十歩進んだところで寺子屋の裏へ戻ってきた。

 命蓮寺へ米を運ぶ荷車は、坂道を下ったはずなのに人里の井戸前へ出た。

 博麗神社へ向かった老人は、三度同じ豆腐屋の前を通った。

 妖怪の山へ行く信徒は、鳥居どころか人里の南口へ回された。

 

 道が、人里の外へ続かない。

 

 正確には、続いているように見える。

 見えるだけだ。

 

 上白沢慧音は、寺子屋の前で古い道の帳面を開いていた。

 

 机の上には、人里周辺の地図が何枚も重ねられている。

 北口。

 南口。

 博麗参道。

 命蓮寺荷車道。

 竹林救急路。

 妖怪の山へ続く旧道。

 畑へ抜ける細道。

 火除け道。

 猫道。

 

 そのすべてに、赤い印が増えていた。

 

 縁目会の偽札が貼られた場所だ。

 

 藤原妹紅は、寺子屋の門にもたれて外を見ていた。

 

「また戻ってきたぞ」

 

 妹紅の視線の先で、荷車を押す男たちが青い顔をしていた。

 

「命蓮寺に行くはずだったんだ。北の坂を出て、川沿いに曲がって……」

 

 男は震える手で道を指した。

 

「気がついたら、ここに戻ってた」

 

 慧音は筆を走らせる。

 

「命蓮寺荷車道、再度失敗。戻り地点、寺子屋前。通行者三名、荷一台。偽札視認あり」

 

 妹紅が低く言う。

 

「記録してどうにかなるのか」

 

「どうにかするために記録する」

 

「それは分かってるが」

 

「道は、分からなくなった時が一番危ない。どこで戻されたのか、誰が通れたのか、何を持っていたのか。全部いる」

 

 妹紅は小さく息を吐いた。

 

「帳面仕事は苦手だ」

 

「お前には別の仕事がある」

 

「関所破りか」

 

「今は破るな。壊すと、別の道が閉じる」

 

 妹紅は顔をしかめた。

 

「厄介だな」

 

「縁目会は、道を壊していない。正しい道を札で隠している」

 

 慧音は地図に線を引いた。

 

「通れる者には通れる。通れない者は戻される。だから、完全な封鎖より性質が悪い」

 

 その時、人里の北口から声が響いた。

 

「安全通行札をお求めください!」

 

 灰色の羽織を着た男が、北口の脇に小さな台を出していた。

 

 台には札束。

 看板には、墨でこう書かれている。

 

 **八雲境界通行所**

 **人里外出安全札 一人五文**

 **荷車一台 十文**

 **急ぎ道 別料金**

 

 人々がざわつく。

 

「本当に通れるのか」

 

「金を払えば神社へ行けるのか」

 

「命蓮寺へ荷を出さないと困る」

 

「永遠亭へ行きたい者もいるんだぞ」

 

 灰色の男は、穏やかに頭を下げた。

 

「縁目会は、皆様の安全な通行を保証いたします。境界は現在、大変不安定です。無理に外へ出ると、同じ道を回り続ける危険がございます」

 

 妹紅が一歩前に出る。

 

「その危険を作ったのは誰だ」

 

 男は妹紅を見た。

 

「道は元々不安定です」

 

「またそれか」

 

「我々は、正しい道を案内しているだけです」

 

 妹紅の手に熱が宿りかけた。

 

 慧音が後ろから声をかける。

 

「燃やすな」

 

「分かってる」

 

「札も、台も、人もだ」

 

「分かってる」

 

 男は微笑んだ。

 

「通行札をお求めになりますか」

 

 妹紅は低く答えた。

 

「お前を買う気はない」

 

 周囲の空気が少し張り詰める。

 

 男が一歩退いた。

 

 その時、空から御札が落ちた。

 

 博麗霊夢が北口の門柱に降り立つ。

 

「人里の門前で商売するな」

 

 その後ろから、霧雨魔理沙が箒で降りてくる。

 

「大繁盛じゃないか。嫌な商売ほどよく客が来るな」

 

 男は霊夢へ深く頭を下げた。

 

「博麗の巫女様。こちらは人里外出の安全案内です」

 

「その“安全”を人質にしてる時点で却下」

 

 霊夢は御札を構える。

 

 男はすぐに台の下へ手を伸ばした。

 

 そこには、細長い札が貼られている。

 

 藍が言っていた。

 

 台や看板を壊せば、道の歪みが別の場所へ移る可能性がある。

 

 霊夢は一瞬だけ止まった。

 

 その一瞬で、男は笑う。

 

「壊せませんね」

 

 霊夢の目が冷える。

 

「壊せないんじゃない。壊す順番を考えてるだけ」

 

 魔理沙が横で言う。

 

「霊夢が考えてる。珍しい」

 

「うるさい」

 

 北口の空気が震えた。

 

 道が二重に見える。

 

 一つは外へ続く道。

 一つは寺子屋へ戻る道。

 そしてもう一つ、通行札を持った者だけが通る細い道。

 

 人里は完全に閉じられていない。

 

 ただし、正解の道に値段がついている。

 

 そこへ、八雲藍が現れた。

 

 橙と猫たちを連れている。

 藍の手には、共有境界台帳。

 橙の手には、猫道の地図。

 

 藍は北口の札を見た。

 

「丙一号。広域出入口用」

 

 橙が周囲を見回す。

 

「猫道にも貼ってある。北口の塀、井戸の裏、土蔵の屋根」

 

 藍はすぐに台帳へ書き込む。

 

「人里北口、主要出入口封鎖。猫道補助線も遮断。縁目会、広域封鎖段階へ移行」

 

 霊夢が聞く。

 

「直せる?」

 

「直します。ただし、一箇所ずつ剥がしても駄目です」

 

「どういうこと」

 

「これは人里の外周全体で一つの仕掛けになっています。北口だけを戻せば、南口が閉じる。荷車道だけを開ければ、救急路が歪む。小道を戻せば、参道に負荷が移る」

 

 魔理沙が顔をしかめた。

 

「厄介な網だな」

 

 藍は頷いた。

 

「縁目会は、人里を道の網で囲っています」

 

 灰色の男は拍手をした。

 

「さすが八雲藍様。理解が早い」

 

 藍は男を見た。

 

「霞堂縁吏はどこです」

 

「お会いになりたいなら、正式な交渉の場を用意いたします」

 

「要求は何ですか」

 

 男は懐から巻紙を出した。

 

「縁目会より、八雲一家および博麗神社へ」

 

 霊夢が横から言う。

 

「読み上げるな。見せなさい」

 

 男は丁寧に巻紙を差し出した。

 

 霊夢が受け取る前に、藍が取った。

 

 そこには、きれいな文字で書かれていた。

 

 **縁目会要求書**

 

 一、八雲一家は、境界通行権の一部を縁目会に認めること。

 二、博麗神社は、縁目会の安全通行札を暫定的に有効と認めること。

 三、人里外周、命蓮寺物流路、竹林救急路、妖怪の山信仰路について、縁目会管理区間を設定すること。

 四、通行料の一部を、境界維持費として八雲一家へ納めること。

 五、以上を拒否する場合、人里外周の通行不安定化は継続する。

 

 藍は無言で読み終えた。

 

 霊夢が横から覗き込む。

 

「ふざけてるわね」

 

 妹紅が言う。

 

「通行料の一部を八雲へ納める? 賄賂か」

 

 慧音は筆を走らせた。

 

「人里封鎖を交渉材料として、境界通行権を要求。脅迫として記録する」

 

 灰色の男は穏やかに言った。

 

「脅迫ではありません。交渉です」

 

 藍は静かに巻紙を畳んだ。

 

「返答します」

 

 男は少し笑った。

 

「この場で?」

 

「はい」

 

 藍は巻紙を男へ返した。

 

「八雲一家は、縁目会の境界通行権を認めません」

 

 霊夢が続けた。

 

「博麗も認めない」

 

 慧音も言う。

 

「人里も認めない」

 

 妹紅が付け足す。

 

「払う奴がいたら、止める」

 

 男の笑みが少しだけ薄れた。

 

「では、人里の通行不安定化は続きます」

 

 藍は男を見据えた。

 

「続けさせません」

 

 男は軽く一礼した。

 

「では、ご健闘を」

 

 足元の影が揺れる。

 

 男は台ごと、道の歪みに沈むように消えた。

 

 霊夢が御札を投げる。

 

 だが、遅い。

 

 台も札束も、看板も消える。

 

 残ったのは、人里北口に貼られた数枚の偽札だけだった。

 

 そして、道はまだ歪んでいる。

 

   *

 

 寺子屋は、臨時の作戦場になった。

 

 机の上には、地図が重ねられている。

 

 藍の共有境界台帳。

 慧音の人里道筋控。

 橙の猫道地図。

 魔理沙が境界市場から持ち帰った通行図。

 命蓮寺、守矢、紅魔館、永遠亭からの連絡札。

 

 村紗が飛び込んできた。

 

「命蓮寺の荷が止まった。寺の前まであと少しのところで、人里の井戸に戻される」

 

 早苗も来た。

 

「山道が三つに分かれています。正しい道には通行札が必要と書かれていました。神奈子様が自力で札を剥がそうとして、別の坂に飛ばされました」

 

 咲夜は静かに現れた。

 

「紅魔館から人里への使者が、何度やっても湖畔へ戻されます。お嬢様は“館を袋小路にするな”と」

 

 鈴仙も息を切らして入ってきた。

 

「竹林の救急路が危険です。案内札に従うと、永遠亭の裏ではなく、竹林の奥へ回されます」

 

 慧音は一つずつ記録する。

 

「命蓮寺物流路、封鎖。守矢信仰路、分岐偽装。紅魔館湖畔線、回帰。竹林救急路、誤誘導」

 

 魔理沙が地図を見て言った。

 

「全部、人里から外へ出る道だな」

 

 藍は頷いた。

 

「人里を中心に、外へ伸びる道を押さえています」

 

 霊夢は腕を組んだ。

 

「人里を人質にして、全勢力を交渉の席に引っ張る気ね」

 

「はい」

 

 橙が猫道地図を広げる。

 

「でも、まだ細い道があるよ。猫道一号、二号、三号。小さい妖怪なら抜けられる」

 

 妹紅が言う。

 

「人間は?」

 

「無理」

 

「そうか」

 

 橙は少し悔しそうにする。

 

 藍は橙の地図を見た。

 

「人間が通れなくても、情報は通せる」

 

 慧音が頷く。

 

「情報が通れば、道を開く準備ができる。命蓮寺、守矢、紅魔館、永遠亭へそれぞれ連絡を送る必要がある」

 

 霊夢が言った。

 

「橙、頼める?」

 

 藍がすぐに口を開く。

 

「危険です」

 

 橙は藍を見る。

 

「行けるよ」

 

「縁目会は猫道も狙っている」

 

「だから、私が知ってる道を使う」

 

 藍は黙った。

 

 橙は言った。

 

「帰れない子がいるなら、迎えに行く道がいる。藍さまが言った」

 

「私が言ったのではない。お前が言った」

 

「じゃあ、私が行く」

 

 藍はしばらく橙を見つめた。

 

 その目には、心配と信頼が混じっていた。

 

「一人では行くな。猫たちと行け。危ない札を見つけたら迂回しろ。霞堂に近づくな」

 

「うん」

 

「無理をするな」

 

「うん」

 

「本当にだ」

 

「うん!」

 

 霊夢が横で言う。

 

「藍、過保護ね」

 

「当然です」

 

 橙は胸を張った。

 

 猫たちが寺子屋の窓辺に集まる。

 

 黒猫、白猫、茶尻尾の猫。

 さらに屋根の上から数匹。

 

 橙は紙片を三つに分けた。

 

 命蓮寺へ。

 永遠亭へ。

 紅魔館へ。

 

 守矢へは早苗が直接飛ぶことになった。

 ただし、山道の歪みを避けるため、橙の猫道情報が必要だった。

 

 藍は各紙片に、本物の八雲符を小さく添えた。

 

「これは通行札ではない。戻り道を固定するための目印だ。売るためではなく、帰るための札」

 

 橙は頷く。

 

「売らない」

 

「当然だ」

 

 橙は窓から飛び出した。

 

 猫たちが続く。

 

 屋根の上へ。

 塀の上へ。

 井戸の影へ。

 人間の道が閉じられた人里で、小さな道が動き始めた。

 

   *

 

 人里の外周には、見えない壁があった。

 

 橙はそれを、壁としてではなく、匂いの変化として感じた。

 

 外の風が、途中で丸く戻ってくる。

 草の匂いが同じ場所を回る。

 土の上にあるはずの足跡が、寺子屋の方向へ曲げられている。

 

 縁目会の札が、あちこちに貼られていた。

 

 **丙一号 広域出入口用**

 **丙二号 荷車回帰用**

 **丙三号 救急路誤導用**

 **乙五号 小通行路遮断**

 

 橙は札には触れない。

 

 藍に言われた通り、位置だけを見る。

 

 猫たちが先を走る。

 

 人里北口の土塀の下。

 古井戸の裏。

 柿の木の根元。

 倒れた石灯籠の影。

 

 そこに、まだ細い道が残っていた。

 

 橙はまず命蓮寺への紙片を黒猫に渡した。

 

「村紗さんに渡して。荷車道は使わないで、寺の裏の軒下から」

 

 黒猫は鳴き、屋根を飛んでいく。

 

 次に、白猫へ永遠亭宛ての紙片。

 

「竹林の入口はだめ。古い水路跡から入って。鈴仙さんか、てゐさんを見つけて」

 

 白猫は尻尾を振って走った。

 

 茶尻尾の猫には、紅魔館への紙片。

 

「湖畔の道は戻されるから、霧の低いところを通って。咲夜さんに渡すんだよ」

 

 茶尻尾の猫は、少し不満そうに鳴いた。

 紅魔館は遠い。

 でも、走った。

 

 橙は残った猫たちと、守矢への山道を見に行く。

 

 その途中だった。

 

 道の先に、小さな影が見えた。

 

 子供だった。

 

 寺子屋の子だ。

 

 手には、守矢の信徒から預かった小さな包みを持っている。

 たぶん、山へ届けるはずだったのだろう。

 

 子供は同じ場所を何度も歩いていた。

 

 北へ行ったはずなのに、また同じ木の前へ戻る。

 泣きそうな顔で、包みを抱えている。

 

 橙はすぐに走った。

 

「こっち!」

 

 子供が振り返る。

 

「あ、橙ちゃん……」

 

「手を出して」

 

 子供は震える手を伸ばす。

 

 橙はその手を掴んだ。

 

「目を閉じて。私がいいって言うまで開けないで」

 

「うん」

 

 橙は足元を見る。

 

 人間用の道は塞がれている。

 でも、木の根の横に細い道がある。

 

 子供には狭い。

 

 だけど、少しだけ境界を滑らせれば通れる。

 

 藍ならもっと綺麗にやる。

 紫なら一瞬で開く。

 

 橙は、そんなふうにはできない。

 

 でも、猫道なら分かる。

 

「こっち」

 

 橙は子供の手を引き、木の根と石の間を抜けた。

 

 景色がぐにゃりと歪む。

 

 子供が怖がって手を強く握る。

 

「大丈夫。帰れる道だから」

 

 次の瞬間、二人は寺子屋の裏に出た。

 

 子供は目を開け、泣きそうな顔で笑った。

 

「帰れた」

 

「うん。もう一人で外に行っちゃだめ」

 

「うん」

 

 橙は子供を寺子屋へ押し込む。

 

 慧音がすぐに出てきて、子供を受け取った。

 

 慧音は橙を見る。

 

「助かった」

 

「まだ行く」

 

「気をつけろ」

 

「うん」

 

 橙は再び屋根へ飛んだ。

 

 その後ろで、子供が小さく言った。

 

「ありがとう」

 

 橙は振り返らずに手を振った。

 

   *

 

 寺子屋では、藍が台帳の上に札を並べていた。

 

 橙と猫たちから戻ってくる情報が、次々に追加される。

 

 命蓮寺裏軒下、通行可。

 永遠亭古水路跡、通行可。

 紅魔館霧低路、要注意だが通行可。

 人里北口木根道、子供救出成功。

 山道表参道、不可。旧獣道、要確認。

 

 慧音は人里側の古道記録を重ねる。

 

 霊夢は博麗札で北口の一部を固定している。

 妹紅は戻ってくる人々を整理し、混乱を抑えている。

 魔理沙は、縁目会の市場地図と照合しながら位置を割り出す。

 

「見えたぜ」

 

 魔理沙が地図の中央を指した。

 

「人里を囲む札、全部が同じ中心に繋がってる」

 

 霊夢が覗く。

 

「どこ」

 

「人里の外れ、昔の火除け道の終点。今は使われてない辻だ」

 

 慧音が顔を上げる。

 

「古い辻か。そこは昔、博麗参道、命蓮寺荷車道、山道、竹林道が交わっていた場所だ」

 

 藍は地図を確認する。

 

「縁目会は、そこを中心に人里外周の道を束ねている」

 

 妹紅が言う。

 

「なら、そこを叩けば」

 

「いえ」

 

 藍は首を振った。

 

「叩けば、道の歪みが一斉に暴れます」

 

 霊夢が聞く。

 

「じゃあどうするの」

 

 藍は台帳を見た。

 

「周囲から固定します。博麗札で参道を、人里記録で古道を、猫道で小通行路を、命蓮寺と永遠亭から戻り道を固定する。その上で中心の札を剥がす」

 

 慧音が頷く。

 

「外側から囲み返すのか」

 

「はい。縁目会が人里を囲むなら、こちらは道の記録で囲み返す」

 

 霊夢が笑った。

 

「帳面で包囲戦ね」

 

 魔理沙が言う。

 

「地味だが燃えるな」

 

 妹紅が横目で見る。

 

「燃やすなよ」

 

「比喩だ」

 

 その時、橙が戻ってきた。

 

 息が上がっている。

 だが、目は輝いていた。

 

「藍さま! 山道の裏、まだ通れる! でも細い。早苗さんなら飛べるけど、人は無理」

 

 早苗が立ち上がる。

 

「十分です。守矢へ伝えます」

 

 藍は橙の頭に手を置いた。

 

「よくやった」

 

 橙は嬉しそうに笑う。

 

「子供も帰した」

 

「聞いた。よくやった」

 

 藍の声は、少しだけ柔らかかった。

 

 しかし、次の瞬間、寺子屋の外で鐘が激しく鳴った。

 

 今までよりも大きい。

 

 道迷いの鐘ではない。

 

 封鎖の鐘だ。

 

 慧音が立ち上がる。

 

「北口だけではない。南口も閉じた」

 

 人里全体が揺れた。

 

 地面ではなく、道が揺れている。

 

 窓の外を見ると、遠くの道が霧に沈み、曲がり角が一つずつ消えていく。

 

 人里の外周すべてに、縁目会の札が光っていた。

 

 霞堂縁吏の声が、どこからともなく響く。

 

「八雲一家へ。博麗神社へ。人里へ」

 

 声は穏やかだった。

 

 だが、人里全体に届いている。

 

「縁目会は、境界通行権の承認を再度求めます」

 

 霊夢が外へ出る。

 

 藍も続いた。

 

 空には、薄い線が浮かんでいる。

 

 人里を囲む境界線。

 

 霞堂の声は続く。

 

「道は誰かが管理しなければならない。八雲が隠すなら、我々が開く。博麗が裁くだけなら、我々が通す。人里が使うだけなら、我々が値をつける」

 

 藍は拳を握った。

 

「通れる道には、値がつくものです」

 

 その言葉を最後に、声は消えた。

 

 人里は、完全に閉じられたわけではない。

 

 だが、外へ出る正しい道は、すべて縁目会の札の向こうへ隠された。

 

 霊夢は低く言った。

 

「上等じゃない」

 

 慧音は帳面を開く。

 

「人里封鎖、発生。縁目会、境界通行権の承認を要求。人里外周全域に偽札展開」

 

 妹紅が道の先を見た。

 

「次はどうする」

 

 藍は共有境界台帳を開いた。

 

 そこには、今日集めた線がすべてある。

 

 人里の古道。

 博麗参道。

 命蓮寺物流路。

 竹林救急路。

 山道。

 紅魔館連絡路。

 猫道。

 

 八雲だけでは足りない。

 

 だが、八雲だけではない台帳が、ここにある。

 

 藍は静かに言った。

 

「全ての道を重ねます」

 

 橙が横に立つ。

 

「猫道も」

 

「もちろんだ」

 

 霊夢が御札を構える。

 

「じゃあ、縁目会の囲いを破るわよ」

 

 藍は首を振った。

 

「破るのではありません」

 

「じゃあ何」

 

「正しい道を、全員で思い出させます」

 

 人里の空に、偽の境界線が光っている。

 

 その下で、藍は台帳の最初の頁を開いた。

 

 紫が一人で隠してきた境界ではない。

 

 幻想郷の者たちが、それぞれ知っている道を重ねた台帳。

 

 その台帳で、人里を取り戻す。

 

 道は売るためにあるのではない。

 

 帰るためにある。

 

 藍はその言葉を胸の内で繰り返した。

 

 次に来るのは、縁目会との正面からの裁定だ。

 

 人里を囲む線の向こうで、霞堂縁吏は待っている。

 

 八雲一家が、境界をどう扱うのか。

 

 その答えを、引きずり出すために。

 

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