人里では、火事の後に必ず薬が回る。
火傷の薬。
煙を吸った者の薬。
眠れない者の薬。
子供の不安を鎮める薬。
年寄りの動悸を和らげる薬。
それ自体は珍しいことではなかった。
幻想郷で医療と薬を握っているのは、ほとんど永遠亭だ。人里の者たちは、永遠亭を恐れながらも頼っている。妖怪よりも怖い医者だと噂する者もいるが、腕だけは確かだった。
だから、守矢の講の騒ぎのあとに薬が配られたことも、最初は誰も不審に思わなかった。
怪我人がいた。
不安があった。
眠れない夜があった。
そこへ薬が来た。
人間は、苦しい時に差し出されたものを疑うほど強くはない。
寺子屋の朝は、いつもより静かだった。
子供たちは机に向かっていたが、筆の動きは鈍い。外で大人たちが小声で話しているのを、誰もが気にしていた。
慧音は教壇に立ち、いつも通り歴史を教えようとした。
だが、今日は駄目だった。
ひとりの子供が、授業の途中でぽつりと言った。
「先生、守矢の神様って悪い神様なの?」
空気が止まった。
慧音はすぐに答えなかった。
悪い神様。
良い神様。
悪い人間。
良い人間。
子供にとって世界は、そう分けた方が分かりやすい。
だが幻想郷は、その分け方で生きていけるほど単純ではなかった。
「神様にも、人間にも、妖怪にも、良いことをする時と、間違う時がある」
慧音は静かに言った。
「大事なのは、誰が何をしたのかを、ちゃんと見ることだ」
「じゃあ、火をつけたのは誰?」
別の子が聞いた。
慧音は答えられなかった。
答えを知らないからではない。
知っていることと、子供に言うべきことは違うからだ。
その時、寺子屋の入口で小さな騒ぎが起きた。
妹紅が振り返る。
彼女は昨夜から一睡もせず、門の近くに立っていた。腕を組み、壁に背を預け、眠っているようにも見えるが、近づく者の気配は逃さない。
寺子屋の手伝いの女が、青い顔で駆け込んできた。
「慧音先生」
「どうした」
「昨日の薬を飲んだ人たちが、妙なんです」
慧音の目が細くなった。
「妙、とは」
「眠りすぎている人がいます。逆に、ぼんやりして話が噛み合わない人も。怪我の痛みが引いたと言う人もいますが、何があったか思い出せないと言う人もいて」
妹紅が壁から離れた。
「薬はどこから来た」
「永遠亭の薬だと聞きました。包みに、兎の印が」
慧音は授業を中断した。
子供たちを早めに帰し、寺子屋の戸を閉める。
机の上には、守矢の名簿、博麗の帳面、八雲の区画図が並んでいた。そこへ新たに、薬の包み紙が置かれる。
白い紙。
朱色の兎の印。
見た目は永遠亭のものに似ている。
だが、慧音はそれを指先で撫でて、すぐに首を振った。
「紙が違う」
「分かるのか」
妹紅が聞いた。
「永遠亭の包み紙は、もっと質が良い。これは似せてあるだけだ」
「偽物か」
「中身まで偽物とは限らない」
慧音は包みを開いた。
中には淡い色の丸薬が数粒入っている。匂いは弱く、見ただけでは何も分からない。
「飲むなよ」
妹紅が言う。
「分かっている」
「お前はたまに、調べるためなら危ないことをする」
「お前ほどではない」
「私は死なない」
「だから危ないんだ」
妹紅は返す言葉を失い、舌打ちした。
昼前、人里の診療所代わりになっている小屋に、薬を飲んだ者たちが集められた。
大きな混乱はない。
誰かが倒れたわけでもない。
だが、人々の様子は確かにおかしかった。
火事で騒いでいたはずの者が、妙に落ち着いている。
昨日まで守矢を責めていた男が、今日は「もう済んだことだ」と繰り返す。
寺子屋の火を心配していた母親が、「大丈夫、大丈夫」と笑うだけで、理由を聞いても答えない。
怒りが消えている。
それは平和に見えた。
だが慧音には、気味が悪かった。
怒りは危険だ。
だが、怒るべき時に怒れなくなるのも危険だ。
妹紅は、薬を配ったという男を見つけた。
火事の後、手伝いとして水桶を運んでいた若い男だった。人里の者ではない。守矢の講にも顔を出していたが、信徒というほどでもない。問屋の荷運びに混じっていた者だという。
男は最初、何も知らないと言った。
妹紅が無言で睨むと、すぐに話し始めた。
「頼まれただけです。怪我人に配れって。永遠亭の薬だから安心だと」
「誰に頼まれた」
「顔は知らない。荷だけ渡されたんです」
「どこで」
「古い倉庫街の裏で」
妹紅と慧音は目を合わせた。
また、あの場所だった。
「金は」
「もらいました。でも本当に、中身は知らなかったんです」
男は震えていた。
嘘をついているようには見えなかった。
ただ、都合よく使われただけの小物だった。
慧音は薬の包みを懐にしまった。
「永遠亭に行く」
妹紅の顔が険しくなった。
「私も行く」
「そのつもりだ」
「輝夜がいたら面倒だぞ」
「いない方が不自然だ」
「もっと面倒だ」
妹紅は空を見上げた。
竹林の向こうに、永遠亭がある。
月の者たちが隠れ住む屋敷。
病を治す場所であり、秘密を隠す場所。
そして、妹紅にとっては、腹の底に火が残る場所だった。
迷いの竹林は、昼でも薄暗い。
風が吹くたびに、竹の葉が擦れ合い、誰かが囁いているような音を立てる。道はあるようでない。まっすぐ歩いているつもりでも、同じ場所へ戻ってしまう。
だが妹紅は迷わなかった。
何度も来た場所だ。
何度も燃えた場所だ。
何度も、蓬莱山輝夜と殺し合いに似た喧嘩をした場所だ。
慧音はその後ろを歩きながら、薬の包みを取り出した。
「妹紅」
「何だ」
「永遠亭が関わっていたとしても、すぐに燃えるな」
「私は火種か」
「自覚があるなら助かる」
「相手が輝夜なら保証しない」
「永琳と話す。輝夜には乗るな」
妹紅は黙った。
やがて竹林の奥に、古い屋敷が見えてきた。
永遠亭。
入口には鈴仙・優曇華院・イナバが立っていた。耳がわずかに動いている。こちらに気づいていたのだろう。
鈴仙は二人を見て、顔を強張らせた。
「妹紅さん……慧音さん」
「永琳はいるか」
慧音が聞く。
「師匠は奥にいます。でも、今は」
「いるなら会う」
妹紅が一歩前に出る。
鈴仙は困ったように視線を逸らした。
その反応で、妹紅は分かった。
永遠亭も、何かが起きていることを知っている。
「通せ」
「師匠から、来たら通すように言われています」
鈴仙は小さく言った。
「来ることも分かっていたのか」
妹紅が吐き捨てる。
鈴仙は答えなかった。
永遠亭の廊下は、外よりも静かだった。
静かすぎる。
薬草の匂い。
古い木の匂い。
どこか月を思わせる冷たい空気。
奥の部屋で、八意永琳は待っていた。
机の上には、すでに同じ薬の包みが置かれている。
「来ると思っていたわ」
永琳はそう言った。
妹紅は眉をひそめる。
「だったら説明も用意してあるんだろうな」
「もちろん」
永琳は薬の包みを指で押さえた。
「これは永遠亭の正規の薬ではない」
慧音は包み紙を机に置いた。
「包みは似せてある。中身は?」
「一部は永遠亭の薬に近い。けれど配合が違う。火傷や痛みを抑える成分に、不安を鈍らせるものが混ぜられている」
妹紅の目が鋭くなる。
「誰が作った」
「永遠亭の外で作るのは難しいわ」
「じゃあ、永遠亭の中にいるってことか」
永琳は否定しなかった。
その沈黙が、答えだった。
鈴仙が苦しそうに口を開く。
「保管していた薬材と包み紙の一部が、数日前に消えました。師匠が調べていたんです。でも、まだ外には」
「なぜ言わなかった」
慧音の声は静かだった。
鈴仙は何も言えなかった。
代わりに永琳が答えた。
「言えば、人里は永遠亭を疑う。疑えば、必要な薬まで拒む。火事の後に薬が届かなくなれば、困るのは人里の者よ」
「便利な理屈だな」
妹紅が言う。
「黙っていれば疑われない。知らなかったふりをすれば責任も薄まる」
「責任から逃げるつもりはないわ」
「なら誰が持ち出した」
永琳は少しだけ目を細めた。
「因幡てゐが、何者かと接触していた」
鈴仙が顔を上げた。
「師匠、それはまだ」
「隠しても無駄よ」
妹紅は低く笑った。
「やっぱり兎か」
「てゐが全部を企んだわけではない」
永琳は言った。
「あの子は金と面白半分で動くことはある。でも、ここまで大きな盤面を作る子ではない」
「利用されたか」
「おそらく」
慧音は机の上の薬を見つめた。
「この薬を飲んだ者は、怒りや不安が弱くなる。記憶にも揺らぎが出る。そう見える」
「正確には、心の波を一時的に平らにする薬よ。正しく使えば、強い恐怖で眠れない者を助けることもできる」
「だが、今は抗争の火消しに使われている」
「火消しというより、証言の濁りね」
永琳の声は冷たかった。
「誰が何を見たか。誰が怒っていたか。誰が疑っていたか。それが曖昧になれば、記録も揺らぐ」
慧音の表情が変わった。
「私の記録を潰すためか」
「その可能性が高い」
妹紅は拳を握った。
寺子屋に火をつける。
守矢を疑わせる。
講の名簿を書き換える。
人里の土地を動かす。
そして薬で怒りと記憶を鈍らせる。
やり方が汚い。
だが、筋は通っている。
人里を正面から攻める必要はない。
人間同士を疑わせ、疲れさせ、忘れさせればいい。
永琳は続けた。
「ただし、永遠亭にも得をする者はいる」
慧音が眉を上げた。
「どういう意味だ」
「抗争が長引けば、薬は売れる。怪我人も増える。秘密を抱えた者は、正規の診療ではなく、裏の治療を求める」
妹紅は永琳を睨んだ。
「お前が言うと冗談に聞こえない」
「冗談ではないもの」
永琳は淡々と言った。
「永遠亭は中立よ。でも中立とは、誰にも味方しないという意味ではない。全員を診るという意味でもある。悪人も、善人も、嘘つきも、被害者も」
「それで全員の弱みを握る」
「医者は秘密を預かる仕事よ」
「きれいな言い方だな」
その時、襖の向こうから声がした。
「妹紅が来ているなら、私を呼ばないなんて失礼じゃない?」
蓬莱山輝夜だった。
妹紅の体が一瞬で熱を帯びる。
輝夜は優雅に部屋へ入ってきた。場違いなほど落ち着いた顔で、妹紅を見て笑う。
「久しぶりね。人里の用心棒さん」
「帰れ」
「ここは私の家よ」
「じゃあ私が帰る前に黙ってろ」
輝夜は楽しそうに袖で口元を隠した。
「随分と余裕がないのね。寺子屋が燃えかけたから? 慧音が狙われたから? それとも、永遠亭の薬が人里に出回ったから?」
妹紅が一歩踏み出した。
慧音がその腕を掴む。
「乗るな」
輝夜は慧音を見た。
「慧音も大変ね。不死身の火の番をするなんて」
「輝夜」
永琳の声が低くなった。
「遊びではない」
「分かっているわ」
輝夜の笑みが薄くなる。
「だから言っているの。これは、妹紅が燃やして済む話ではない」
その言葉に、妹紅は動きを止めた。
輝夜は机の薬を見下ろした。
「人里はもう試されている。誰を信じるか。何を忘れるか。誰の言葉を記録するか。慧音がいる限り、仕掛けた者には都合が悪い」
「知っているなら言え」
妹紅が言った。
「誰がやった」
輝夜はすぐには答えなかった。
「永遠亭の薬を動かすには、竹林を抜ける必要がある。人里に配るには、人手がいる。噂を流すには、信仰か商売の網がいる。証拠を隠すには、後始末を頼める場所がいる」
慧音が呟く。
「一つの勢力ではない」
「そう」
輝夜は妹紅を見た。
「あなたたちは抗争を見ているつもりでしょうけど、これは抗争の準備よ。まだ誰も本気では動いていない」
部屋の空気が重くなった。
まだ準備。
寺子屋の火も。
守矢の名簿も。
薬の流通も。
全部が始まりにすぎない。
永琳は机の引き出しから、一枚の荷札を出した。
「消えた薬材の一部に、これが残されていた」
荷札には、命蓮寺の物流印に似た印があった。
だが、隅には赤い封蝋の跡がある。
慧音はそれを見て言った。
「紅魔館か」
「断定はできない」
永琳は言った。
「ただ、永遠亭の薬材が、命蓮寺の荷に紛れ、紅魔館の封印紙を使って動かされた形跡がある」
妹紅は低く吐き捨てた。
「全員悪い顔ぶれだな」
「全員が悪いとは限らない」
慧音が言う。
「だが、全員が利用できる立場にいる」
永琳は頷いた。
「そして、八雲はそれを見ている」
その名が出た瞬間、部屋の隅の空気がわずかに揺れた。
妹紅はすぐに振り返った。
何もない。
だが確かに、誰かが覗いていたような気配があった。
輝夜が笑う。
「覗き見ばかりね。品がないわ」
永琳は薬の包みを慧音に渡した。
「これは持っていきなさい。正規の鑑定書も書くわ。人里で配られた薬は、永遠亭の正規品ではない。ただし、永遠亭から盗まれた材料が使われた疑いがある、と」
「それは永遠亭の責任を認めることになる」
慧音が言った。
「ええ」
永琳は淡々と答えた。
「認めない方が、もっと高くつく」
妹紅は意外そうに永琳を見た。
「ずいぶん素直だな」
「医者は信用を失うと終わりよ」
「信用なんて気にしてたのか」
「必要な時だけね」
永琳は鈴仙を見る。
「鈴仙、人里に同行しなさい。薬を飲んだ者を診る。説明もする」
鈴仙は驚いたように顔を上げた。
「私が、ですか」
「あなたが人里に顔を出しなさい。逃げれば、永遠亭は隠したと思われる」
鈴仙は不安げに耳を伏せた。
だが、すぐに頷いた。
「分かりました」
妹紅は鈴仙を見た。
「変な真似をしたら燃やす」
「しませんよ!」
「妹紅」
慧音がたしなめる。
輝夜がくすくす笑った。
「相変わらず優しいのね」
「どこがだ」
「燃やす前に警告してあげるところ」
妹紅は輝夜を睨んだが、今度は乗らなかった。
永遠亭を出る頃には、竹林に夕方の光が差していた。
鈴仙は薬箱を抱え、慧音の少し後ろを歩いている。
妹紅はそのさらに後ろで、竹林の奥を警戒していた。
「慧音さん」
鈴仙が小さく言った。
「何だ」
「人里の人たちは、怒っていますか」
「怒っている者もいる。不安な者もいる。永遠亭を必要としている者もいる」
「私は、何を言えばいいんでしょう」
慧音は少し考えた。
「分からないことは分からないと言え。責任があることはあると言え。人里の者は、完璧な言い訳より、逃げない態度を見ている」
鈴仙は頷いた。
妹紅は横から言った。
「それと、輝夜の真似はするな」
「しません」
「永琳の真似もするな」
「それは少し難しいです」
慧音がわずかに笑った。
その時、竹林の奥で小さな音がした。
妹紅が即座に足を止める。
「誰だ」
返事はない。
竹の影の向こうに、小さな白い影が見えた。
因幡てゐだった。
てゐは逃げなかった。
ただ、少し困ったような顔で立っていた。
「やっぱり来たか」
妹紅が低く言う。
「てゐ」
鈴仙の声が震えた。
「あなた、薬材を持ち出したの?」
てゐは肩をすくめた。
「ちょっと包み紙と薬草を流しただけだよ。こんな大ごとになるなんて思わなかった」
「誰に渡した」
慧音が聞く。
てゐは慧音を見た。
「言ったら、私が困る」
「言わなければ、人里が困る」
「人里はいつも困ってるじゃん」
妹紅が一歩踏み出した。
てゐは慌てて両手を上げる。
「分かった、分かったよ。名前は知らない。でも、変な女だった。商人みたいな格好をしてたけど、人間じゃない。話してると、どこか境目がずれる感じがした」
慧音と妹紅は顔を見合わせた。
「八雲の関係者か」
「かもしれない。でも、そいつはこう言ってた」
てゐの声が少し低くなる。
「人里の怒りを鎮めたい者は多い。薬は売れる。忘れたい者は、もっと買う」
鈴仙が息を呑んだ。
妹紅は奥歯を噛んだ。
「まだ配る気か」
「私じゃないよ」
てゐは珍しく笑わなかった。
「もう荷は動いてる。人里だけじゃない。紅魔館にも、命蓮寺にも、白玉楼にも。みんな自分は使う側だと思ってる。でも、たぶん違う」
「全員が使われている」
慧音が言った。
てゐは頷いた。
「そういうこと」
「なぜ今それを言う」
妹紅が聞く。
てゐは視線を逸らした。
「寺子屋は、ちょっとやりすぎだと思っただけ」
「ちょっと、か」
「うん。ちょっと」
妹紅はてゐを睨んだが、それ以上は何も言わなかった。
てゐは竹林の奥へ消える前に、小さな紙片を投げた。
慧音が受け取る。
それは荷の控えだった。
日付、数量、行き先。
すべて暗号めいた符丁で書かれているが、慧音にはいくつか読み取れた。
紅魔館。
命蓮寺。
白玉楼。
そして、博麗。
妹紅が覗き込む。
「博麗にも?」
「薬そのものか、情報かは分からない」
慧音は紙片をしまった。
「だが、霊夢にも確認が必要だ」
「またあいつか」
妹紅はうんざりした顔をした。
人里に戻ると、永遠亭への不信はすでに広がっていた。
寺子屋の庭に集められた人々の前で、鈴仙は頭を下げた。
逃げずに、永遠亭の薬材が持ち出されたこと、偽の包みが使われたこと、飲んだ者を診ることを説明した。
怒号は飛ばなかった。
だが、冷たい視線はあった。
鈴仙はそれを受け止めた。
震えていたが、逃げなかった。
慧音はその横で、鑑定書を読み上げた。
「人里で配られた薬は、永遠亭の正規品ではない。成分の一部に、永遠亭由来のものが使われた疑いがある。服用した者には、今後こちらで確認を行う」
妹紅は門の横に立ち、集まった者たちを見ていた。
怒りが戻り始めている。
それは危うい。
だが、生きている証拠でもあった。
怒りを忘れた人里より、怒っている人里の方がまだ信用できる。
夜になって、寺子屋の座敷に三つの帳面が並んだ。
博麗の賭場。
守矢の講。
永遠亭の薬。
慧音は新しい紙を広げ、筆を取った。
妹紅はその前に座る。
「書くのか」
「書く」
「誰かが消しに来るぞ」
「だから写しを増やす」
「誰に預ける」
「阿求と小鈴。それから、火消しの頭領にも一部を隠してもらう」
「霊夢は?」
慧音は少し黙った。
「霊夢には見せる。ただし、預けない」
妹紅は頷いた。
「正解だ」
外では、鈴仙が怪我人の診察をしていた。
人々はまだ永遠亭を完全には信じていない。
だが、薬箱を持つ鈴仙の前に、少しずつ列ができている。
信じるしかない者もいる。
疑いながら頼る者もいる。
それが人里だった。
慧音は筆を下ろした。
――永遠亭の薬に関する騒動。
正規品ではない薬が人里に流通。
服用者に記憶と感情の鈍りあり。
永遠亭より薬材および包材の流出確認。
因幡てゐ、外部との接触を認める。
命蓮寺、紅魔館、白玉楼方面への流通の疑いあり。
博麗への関与、不明。
八雲の影、依然として濃い。
妹紅はその文字を見つめた。
「なあ、慧音」
「何だ」
「これ、もう異変じゃないのか」
慧音は筆を止めた。
しばらくして、首を振る。
「まだだ」
「なぜ」
「誰も、そう呼びたがっていない」
その答えに、妹紅は苦く笑った。
「名前をつけなきゃ、なかったことになるってか」
「幻想郷では、よくあることだ」
寺子屋の灯りが揺れた。
その時、窓の外に一羽の黒い蝶が止まった。
季節外れの蝶だった。
慧音がそれに気づく。
蝶はしばらく羽を揺らし、やがて夜へ消えた。
妹紅は低く言った。
「白玉楼か」
「次は、死者の金かもしれない」
「薬の次は金貸しか。分かりやすく汚くなってきたな」
慧音は帳面を閉じた。
「分かりやすい汚さは、まだましだ」
「じゃあ、厄介なのは?」
「きれいな顔をした汚さだ」
妹紅は外を見る。
人里は眠っていない。
どこかの家で、まだ灯りがついている。
誰かが不安で起きている。
誰かが噂をしている。
誰かが次の取引をしている。
その上を、夜が覆っていた。
竹林の奥では、永遠亭が静かに月を見上げている。
山では守矢が信仰を立て直そうとしている。
博麗神社では霊夢が面倒くさそうに賽銭箱を眺めているだろう。
そして、どこかの境界で八雲紫が笑っている。
妹紅は立ち上がった。
「見回りに行ってくる」
「休め」
「眠れると思うか」
「思わない」
「なら言うな」
慧音は少しだけ笑った。
「妹紅」
「何だ」
「燃やすなよ」
「相手による」
妹紅は戸を開け、夜の人里へ出た。
寺子屋の前には、まだ薬の匂いがわずかに残っていた。
それは人を助ける匂いでもあり、人を黙らせる匂いでもあった。
幻想郷では、毒と薬の境目はいつも薄い。
そしてその境目を、誰かが静かに動かしている。