東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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第三章 永遠亭の薬

 

 

 人里では、火事の後に必ず薬が回る。

 

 火傷の薬。

 煙を吸った者の薬。

 眠れない者の薬。

 子供の不安を鎮める薬。

 年寄りの動悸を和らげる薬。

 

 それ自体は珍しいことではなかった。

 幻想郷で医療と薬を握っているのは、ほとんど永遠亭だ。人里の者たちは、永遠亭を恐れながらも頼っている。妖怪よりも怖い医者だと噂する者もいるが、腕だけは確かだった。

 

 だから、守矢の講の騒ぎのあとに薬が配られたことも、最初は誰も不審に思わなかった。

 

 怪我人がいた。

 不安があった。

 眠れない夜があった。

 

 そこへ薬が来た。

 

 人間は、苦しい時に差し出されたものを疑うほど強くはない。

 

 寺子屋の朝は、いつもより静かだった。

 

 子供たちは机に向かっていたが、筆の動きは鈍い。外で大人たちが小声で話しているのを、誰もが気にしていた。

 

 慧音は教壇に立ち、いつも通り歴史を教えようとした。

 

 だが、今日は駄目だった。

 

 ひとりの子供が、授業の途中でぽつりと言った。

 

「先生、守矢の神様って悪い神様なの?」

 

 空気が止まった。

 

 慧音はすぐに答えなかった。

 

 悪い神様。

 良い神様。

 悪い人間。

 良い人間。

 

 子供にとって世界は、そう分けた方が分かりやすい。

 だが幻想郷は、その分け方で生きていけるほど単純ではなかった。

 

「神様にも、人間にも、妖怪にも、良いことをする時と、間違う時がある」

 

 慧音は静かに言った。

 

「大事なのは、誰が何をしたのかを、ちゃんと見ることだ」

 

「じゃあ、火をつけたのは誰?」

 

 別の子が聞いた。

 

 慧音は答えられなかった。

 

 答えを知らないからではない。

 知っていることと、子供に言うべきことは違うからだ。

 

 その時、寺子屋の入口で小さな騒ぎが起きた。

 

 妹紅が振り返る。

 彼女は昨夜から一睡もせず、門の近くに立っていた。腕を組み、壁に背を預け、眠っているようにも見えるが、近づく者の気配は逃さない。

 

 寺子屋の手伝いの女が、青い顔で駆け込んできた。

 

「慧音先生」

 

「どうした」

 

「昨日の薬を飲んだ人たちが、妙なんです」

 

 慧音の目が細くなった。

 

「妙、とは」

 

「眠りすぎている人がいます。逆に、ぼんやりして話が噛み合わない人も。怪我の痛みが引いたと言う人もいますが、何があったか思い出せないと言う人もいて」

 

 妹紅が壁から離れた。

 

「薬はどこから来た」

 

「永遠亭の薬だと聞きました。包みに、兎の印が」

 

 慧音は授業を中断した。

 子供たちを早めに帰し、寺子屋の戸を閉める。

 

 机の上には、守矢の名簿、博麗の帳面、八雲の区画図が並んでいた。そこへ新たに、薬の包み紙が置かれる。

 

 白い紙。

 朱色の兎の印。

 見た目は永遠亭のものに似ている。

 

 だが、慧音はそれを指先で撫でて、すぐに首を振った。

 

「紙が違う」

 

「分かるのか」

 

 妹紅が聞いた。

 

「永遠亭の包み紙は、もっと質が良い。これは似せてあるだけだ」

 

「偽物か」

 

「中身まで偽物とは限らない」

 

 慧音は包みを開いた。

 中には淡い色の丸薬が数粒入っている。匂いは弱く、見ただけでは何も分からない。

 

「飲むなよ」

 

 妹紅が言う。

 

「分かっている」

 

「お前はたまに、調べるためなら危ないことをする」

 

「お前ほどではない」

 

「私は死なない」

 

「だから危ないんだ」

 

 妹紅は返す言葉を失い、舌打ちした。

 

 昼前、人里の診療所代わりになっている小屋に、薬を飲んだ者たちが集められた。

 

 大きな混乱はない。

 誰かが倒れたわけでもない。

 だが、人々の様子は確かにおかしかった。

 

 火事で騒いでいたはずの者が、妙に落ち着いている。

 昨日まで守矢を責めていた男が、今日は「もう済んだことだ」と繰り返す。

 寺子屋の火を心配していた母親が、「大丈夫、大丈夫」と笑うだけで、理由を聞いても答えない。

 

 怒りが消えている。

 

 それは平和に見えた。

 だが慧音には、気味が悪かった。

 

 怒りは危険だ。

 だが、怒るべき時に怒れなくなるのも危険だ。

 

 妹紅は、薬を配ったという男を見つけた。

 

 火事の後、手伝いとして水桶を運んでいた若い男だった。人里の者ではない。守矢の講にも顔を出していたが、信徒というほどでもない。問屋の荷運びに混じっていた者だという。

 

 男は最初、何も知らないと言った。

 

 妹紅が無言で睨むと、すぐに話し始めた。

 

「頼まれただけです。怪我人に配れって。永遠亭の薬だから安心だと」

 

「誰に頼まれた」

 

「顔は知らない。荷だけ渡されたんです」

 

「どこで」

 

「古い倉庫街の裏で」

 

 妹紅と慧音は目を合わせた。

 

 また、あの場所だった。

 

「金は」

 

「もらいました。でも本当に、中身は知らなかったんです」

 

 男は震えていた。

 嘘をついているようには見えなかった。

 ただ、都合よく使われただけの小物だった。

 

 慧音は薬の包みを懐にしまった。

 

「永遠亭に行く」

 

 妹紅の顔が険しくなった。

 

「私も行く」

 

「そのつもりだ」

 

「輝夜がいたら面倒だぞ」

 

「いない方が不自然だ」

 

「もっと面倒だ」

 

 妹紅は空を見上げた。

 

 竹林の向こうに、永遠亭がある。

 月の者たちが隠れ住む屋敷。

 病を治す場所であり、秘密を隠す場所。

 

 そして、妹紅にとっては、腹の底に火が残る場所だった。

 

 迷いの竹林は、昼でも薄暗い。

 

 風が吹くたびに、竹の葉が擦れ合い、誰かが囁いているような音を立てる。道はあるようでない。まっすぐ歩いているつもりでも、同じ場所へ戻ってしまう。

 

 だが妹紅は迷わなかった。

 

 何度も来た場所だ。

 何度も燃えた場所だ。

 何度も、蓬莱山輝夜と殺し合いに似た喧嘩をした場所だ。

 

 慧音はその後ろを歩きながら、薬の包みを取り出した。

 

「妹紅」

 

「何だ」

 

「永遠亭が関わっていたとしても、すぐに燃えるな」

 

「私は火種か」

 

「自覚があるなら助かる」

 

「相手が輝夜なら保証しない」

 

「永琳と話す。輝夜には乗るな」

 

 妹紅は黙った。

 

 やがて竹林の奥に、古い屋敷が見えてきた。

 永遠亭。

 

 入口には鈴仙・優曇華院・イナバが立っていた。耳がわずかに動いている。こちらに気づいていたのだろう。

 

 鈴仙は二人を見て、顔を強張らせた。

 

「妹紅さん……慧音さん」

 

「永琳はいるか」

 

 慧音が聞く。

 

「師匠は奥にいます。でも、今は」

 

「いるなら会う」

 

 妹紅が一歩前に出る。

 

 鈴仙は困ったように視線を逸らした。

 

 その反応で、妹紅は分かった。

 永遠亭も、何かが起きていることを知っている。

 

「通せ」

 

「師匠から、来たら通すように言われています」

 

 鈴仙は小さく言った。

 

「来ることも分かっていたのか」

 

 妹紅が吐き捨てる。

 

 鈴仙は答えなかった。

 

 永遠亭の廊下は、外よりも静かだった。

 静かすぎる。

 

 薬草の匂い。

 古い木の匂い。

 どこか月を思わせる冷たい空気。

 

 奥の部屋で、八意永琳は待っていた。

 

 机の上には、すでに同じ薬の包みが置かれている。

 

「来ると思っていたわ」

 

 永琳はそう言った。

 

 妹紅は眉をひそめる。

 

「だったら説明も用意してあるんだろうな」

 

「もちろん」

 

 永琳は薬の包みを指で押さえた。

 

「これは永遠亭の正規の薬ではない」

 

 慧音は包み紙を机に置いた。

 

「包みは似せてある。中身は?」

 

「一部は永遠亭の薬に近い。けれど配合が違う。火傷や痛みを抑える成分に、不安を鈍らせるものが混ぜられている」

 

 妹紅の目が鋭くなる。

 

「誰が作った」

 

「永遠亭の外で作るのは難しいわ」

 

「じゃあ、永遠亭の中にいるってことか」

 

 永琳は否定しなかった。

 

 その沈黙が、答えだった。

 

 鈴仙が苦しそうに口を開く。

 

「保管していた薬材と包み紙の一部が、数日前に消えました。師匠が調べていたんです。でも、まだ外には」

 

「なぜ言わなかった」

 

 慧音の声は静かだった。

 

 鈴仙は何も言えなかった。

 

 代わりに永琳が答えた。

 

「言えば、人里は永遠亭を疑う。疑えば、必要な薬まで拒む。火事の後に薬が届かなくなれば、困るのは人里の者よ」

 

「便利な理屈だな」

 

 妹紅が言う。

 

「黙っていれば疑われない。知らなかったふりをすれば責任も薄まる」

 

「責任から逃げるつもりはないわ」

 

「なら誰が持ち出した」

 

 永琳は少しだけ目を細めた。

 

「因幡てゐが、何者かと接触していた」

 

 鈴仙が顔を上げた。

 

「師匠、それはまだ」

 

「隠しても無駄よ」

 

 妹紅は低く笑った。

 

「やっぱり兎か」

 

「てゐが全部を企んだわけではない」

 

 永琳は言った。

 

「あの子は金と面白半分で動くことはある。でも、ここまで大きな盤面を作る子ではない」

 

「利用されたか」

 

「おそらく」

 

 慧音は机の上の薬を見つめた。

 

「この薬を飲んだ者は、怒りや不安が弱くなる。記憶にも揺らぎが出る。そう見える」

 

「正確には、心の波を一時的に平らにする薬よ。正しく使えば、強い恐怖で眠れない者を助けることもできる」

 

「だが、今は抗争の火消しに使われている」

 

「火消しというより、証言の濁りね」

 

 永琳の声は冷たかった。

 

「誰が何を見たか。誰が怒っていたか。誰が疑っていたか。それが曖昧になれば、記録も揺らぐ」

 

 慧音の表情が変わった。

 

「私の記録を潰すためか」

 

「その可能性が高い」

 

 妹紅は拳を握った。

 

 寺子屋に火をつける。

 守矢を疑わせる。

 講の名簿を書き換える。

 人里の土地を動かす。

 そして薬で怒りと記憶を鈍らせる。

 

 やり方が汚い。

 だが、筋は通っている。

 

 人里を正面から攻める必要はない。

 人間同士を疑わせ、疲れさせ、忘れさせればいい。

 

 永琳は続けた。

 

「ただし、永遠亭にも得をする者はいる」

 

 慧音が眉を上げた。

 

「どういう意味だ」

 

「抗争が長引けば、薬は売れる。怪我人も増える。秘密を抱えた者は、正規の診療ではなく、裏の治療を求める」

 

 妹紅は永琳を睨んだ。

 

「お前が言うと冗談に聞こえない」

 

「冗談ではないもの」

 

 永琳は淡々と言った。

 

「永遠亭は中立よ。でも中立とは、誰にも味方しないという意味ではない。全員を診るという意味でもある。悪人も、善人も、嘘つきも、被害者も」

 

「それで全員の弱みを握る」

 

「医者は秘密を預かる仕事よ」

 

「きれいな言い方だな」

 

 その時、襖の向こうから声がした。

 

「妹紅が来ているなら、私を呼ばないなんて失礼じゃない?」

 

 蓬莱山輝夜だった。

 

 妹紅の体が一瞬で熱を帯びる。

 

 輝夜は優雅に部屋へ入ってきた。場違いなほど落ち着いた顔で、妹紅を見て笑う。

 

「久しぶりね。人里の用心棒さん」

 

「帰れ」

 

「ここは私の家よ」

 

「じゃあ私が帰る前に黙ってろ」

 

 輝夜は楽しそうに袖で口元を隠した。

 

「随分と余裕がないのね。寺子屋が燃えかけたから? 慧音が狙われたから? それとも、永遠亭の薬が人里に出回ったから?」

 

 妹紅が一歩踏み出した。

 

 慧音がその腕を掴む。

 

「乗るな」

 

 輝夜は慧音を見た。

 

「慧音も大変ね。不死身の火の番をするなんて」

 

「輝夜」

 

 永琳の声が低くなった。

 

「遊びではない」

 

「分かっているわ」

 

 輝夜の笑みが薄くなる。

 

「だから言っているの。これは、妹紅が燃やして済む話ではない」

 

 その言葉に、妹紅は動きを止めた。

 

 輝夜は机の薬を見下ろした。

 

「人里はもう試されている。誰を信じるか。何を忘れるか。誰の言葉を記録するか。慧音がいる限り、仕掛けた者には都合が悪い」

 

「知っているなら言え」

 

 妹紅が言った。

 

「誰がやった」

 

 輝夜はすぐには答えなかった。

 

「永遠亭の薬を動かすには、竹林を抜ける必要がある。人里に配るには、人手がいる。噂を流すには、信仰か商売の網がいる。証拠を隠すには、後始末を頼める場所がいる」

 

 慧音が呟く。

 

「一つの勢力ではない」

 

「そう」

 

 輝夜は妹紅を見た。

 

「あなたたちは抗争を見ているつもりでしょうけど、これは抗争の準備よ。まだ誰も本気では動いていない」

 

 部屋の空気が重くなった。

 

 まだ準備。

 寺子屋の火も。

 守矢の名簿も。

 薬の流通も。

 

 全部が始まりにすぎない。

 

 永琳は机の引き出しから、一枚の荷札を出した。

 

「消えた薬材の一部に、これが残されていた」

 

 荷札には、命蓮寺の物流印に似た印があった。

 だが、隅には赤い封蝋の跡がある。

 

 慧音はそれを見て言った。

 

「紅魔館か」

 

「断定はできない」

 

 永琳は言った。

 

「ただ、永遠亭の薬材が、命蓮寺の荷に紛れ、紅魔館の封印紙を使って動かされた形跡がある」

 

 妹紅は低く吐き捨てた。

 

「全員悪い顔ぶれだな」

 

「全員が悪いとは限らない」

 

 慧音が言う。

 

「だが、全員が利用できる立場にいる」

 

 永琳は頷いた。

 

「そして、八雲はそれを見ている」

 

 その名が出た瞬間、部屋の隅の空気がわずかに揺れた。

 

 妹紅はすぐに振り返った。

 何もない。

 だが確かに、誰かが覗いていたような気配があった。

 

 輝夜が笑う。

 

「覗き見ばかりね。品がないわ」

 

 永琳は薬の包みを慧音に渡した。

 

「これは持っていきなさい。正規の鑑定書も書くわ。人里で配られた薬は、永遠亭の正規品ではない。ただし、永遠亭から盗まれた材料が使われた疑いがある、と」

 

「それは永遠亭の責任を認めることになる」

 

 慧音が言った。

 

「ええ」

 

 永琳は淡々と答えた。

 

「認めない方が、もっと高くつく」

 

 妹紅は意外そうに永琳を見た。

 

「ずいぶん素直だな」

 

「医者は信用を失うと終わりよ」

 

「信用なんて気にしてたのか」

 

「必要な時だけね」

 

 永琳は鈴仙を見る。

 

「鈴仙、人里に同行しなさい。薬を飲んだ者を診る。説明もする」

 

 鈴仙は驚いたように顔を上げた。

 

「私が、ですか」

 

「あなたが人里に顔を出しなさい。逃げれば、永遠亭は隠したと思われる」

 

 鈴仙は不安げに耳を伏せた。

 だが、すぐに頷いた。

 

「分かりました」

 

 妹紅は鈴仙を見た。

 

「変な真似をしたら燃やす」

 

「しませんよ!」

 

「妹紅」

 

 慧音がたしなめる。

 

 輝夜がくすくす笑った。

 

「相変わらず優しいのね」

 

「どこがだ」

 

「燃やす前に警告してあげるところ」

 

 妹紅は輝夜を睨んだが、今度は乗らなかった。

 

 永遠亭を出る頃には、竹林に夕方の光が差していた。

 

 鈴仙は薬箱を抱え、慧音の少し後ろを歩いている。

 妹紅はそのさらに後ろで、竹林の奥を警戒していた。

 

「慧音さん」

 

 鈴仙が小さく言った。

 

「何だ」

 

「人里の人たちは、怒っていますか」

 

「怒っている者もいる。不安な者もいる。永遠亭を必要としている者もいる」

 

「私は、何を言えばいいんでしょう」

 

 慧音は少し考えた。

 

「分からないことは分からないと言え。責任があることはあると言え。人里の者は、完璧な言い訳より、逃げない態度を見ている」

 

 鈴仙は頷いた。

 

 妹紅は横から言った。

 

「それと、輝夜の真似はするな」

 

「しません」

 

「永琳の真似もするな」

 

「それは少し難しいです」

 

 慧音がわずかに笑った。

 

 その時、竹林の奥で小さな音がした。

 

 妹紅が即座に足を止める。

 

「誰だ」

 

 返事はない。

 

 竹の影の向こうに、小さな白い影が見えた。

 因幡てゐだった。

 

 てゐは逃げなかった。

 ただ、少し困ったような顔で立っていた。

 

「やっぱり来たか」

 

 妹紅が低く言う。

 

「てゐ」

 

 鈴仙の声が震えた。

 

「あなた、薬材を持ち出したの?」

 

 てゐは肩をすくめた。

 

「ちょっと包み紙と薬草を流しただけだよ。こんな大ごとになるなんて思わなかった」

 

「誰に渡した」

 

 慧音が聞く。

 

 てゐは慧音を見た。

 

「言ったら、私が困る」

 

「言わなければ、人里が困る」

 

「人里はいつも困ってるじゃん」

 

 妹紅が一歩踏み出した。

 

 てゐは慌てて両手を上げる。

 

「分かった、分かったよ。名前は知らない。でも、変な女だった。商人みたいな格好をしてたけど、人間じゃない。話してると、どこか境目がずれる感じがした」

 

 慧音と妹紅は顔を見合わせた。

 

「八雲の関係者か」

 

「かもしれない。でも、そいつはこう言ってた」

 

 てゐの声が少し低くなる。

 

「人里の怒りを鎮めたい者は多い。薬は売れる。忘れたい者は、もっと買う」

 

 鈴仙が息を呑んだ。

 

 妹紅は奥歯を噛んだ。

 

「まだ配る気か」

 

「私じゃないよ」

 

 てゐは珍しく笑わなかった。

 

「もう荷は動いてる。人里だけじゃない。紅魔館にも、命蓮寺にも、白玉楼にも。みんな自分は使う側だと思ってる。でも、たぶん違う」

 

「全員が使われている」

 

 慧音が言った。

 

 てゐは頷いた。

 

「そういうこと」

 

「なぜ今それを言う」

 

 妹紅が聞く。

 

 てゐは視線を逸らした。

 

「寺子屋は、ちょっとやりすぎだと思っただけ」

 

「ちょっと、か」

 

「うん。ちょっと」

 

 妹紅はてゐを睨んだが、それ以上は何も言わなかった。

 

 てゐは竹林の奥へ消える前に、小さな紙片を投げた。

 

 慧音が受け取る。

 

 それは荷の控えだった。

 日付、数量、行き先。

 すべて暗号めいた符丁で書かれているが、慧音にはいくつか読み取れた。

 

 紅魔館。

 命蓮寺。

 白玉楼。

 そして、博麗。

 

 妹紅が覗き込む。

 

「博麗にも?」

 

「薬そのものか、情報かは分からない」

 

 慧音は紙片をしまった。

 

「だが、霊夢にも確認が必要だ」

 

「またあいつか」

 

 妹紅はうんざりした顔をした。

 

 人里に戻ると、永遠亭への不信はすでに広がっていた。

 

 寺子屋の庭に集められた人々の前で、鈴仙は頭を下げた。

 逃げずに、永遠亭の薬材が持ち出されたこと、偽の包みが使われたこと、飲んだ者を診ることを説明した。

 

 怒号は飛ばなかった。

 だが、冷たい視線はあった。

 

 鈴仙はそれを受け止めた。

 震えていたが、逃げなかった。

 

 慧音はその横で、鑑定書を読み上げた。

 

「人里で配られた薬は、永遠亭の正規品ではない。成分の一部に、永遠亭由来のものが使われた疑いがある。服用した者には、今後こちらで確認を行う」

 

 妹紅は門の横に立ち、集まった者たちを見ていた。

 

 怒りが戻り始めている。

 それは危うい。

 だが、生きている証拠でもあった。

 

 怒りを忘れた人里より、怒っている人里の方がまだ信用できる。

 

 夜になって、寺子屋の座敷に三つの帳面が並んだ。

 

 博麗の賭場。

 守矢の講。

 永遠亭の薬。

 

 慧音は新しい紙を広げ、筆を取った。

 

 妹紅はその前に座る。

 

「書くのか」

 

「書く」

 

「誰かが消しに来るぞ」

 

「だから写しを増やす」

 

「誰に預ける」

 

「阿求と小鈴。それから、火消しの頭領にも一部を隠してもらう」

 

「霊夢は?」

 

 慧音は少し黙った。

 

「霊夢には見せる。ただし、預けない」

 

 妹紅は頷いた。

 

「正解だ」

 

 外では、鈴仙が怪我人の診察をしていた。

 人々はまだ永遠亭を完全には信じていない。

 だが、薬箱を持つ鈴仙の前に、少しずつ列ができている。

 

 信じるしかない者もいる。

 疑いながら頼る者もいる。

 

 それが人里だった。

 

 慧音は筆を下ろした。

 

 ――永遠亭の薬に関する騒動。

 正規品ではない薬が人里に流通。

 服用者に記憶と感情の鈍りあり。

 永遠亭より薬材および包材の流出確認。

 因幡てゐ、外部との接触を認める。

 命蓮寺、紅魔館、白玉楼方面への流通の疑いあり。

 博麗への関与、不明。

 八雲の影、依然として濃い。

 

 妹紅はその文字を見つめた。

 

「なあ、慧音」

 

「何だ」

 

「これ、もう異変じゃないのか」

 

 慧音は筆を止めた。

 

 しばらくして、首を振る。

 

「まだだ」

 

「なぜ」

 

「誰も、そう呼びたがっていない」

 

 その答えに、妹紅は苦く笑った。

 

「名前をつけなきゃ、なかったことになるってか」

 

「幻想郷では、よくあることだ」

 

 寺子屋の灯りが揺れた。

 

 その時、窓の外に一羽の黒い蝶が止まった。

 季節外れの蝶だった。

 

 慧音がそれに気づく。

 

 蝶はしばらく羽を揺らし、やがて夜へ消えた。

 

 妹紅は低く言った。

 

「白玉楼か」

 

「次は、死者の金かもしれない」

 

「薬の次は金貸しか。分かりやすく汚くなってきたな」

 

 慧音は帳面を閉じた。

 

「分かりやすい汚さは、まだましだ」

 

「じゃあ、厄介なのは?」

 

「きれいな顔をした汚さだ」

 

 妹紅は外を見る。

 

 人里は眠っていない。

 どこかの家で、まだ灯りがついている。

 誰かが不安で起きている。

 誰かが噂をしている。

 誰かが次の取引をしている。

 

 その上を、夜が覆っていた。

 

 竹林の奥では、永遠亭が静かに月を見上げている。

 山では守矢が信仰を立て直そうとしている。

 博麗神社では霊夢が面倒くさそうに賽銭箱を眺めているだろう。

 そして、どこかの境界で八雲紫が笑っている。

 

 妹紅は立ち上がった。

 

「見回りに行ってくる」

 

「休め」

 

「眠れると思うか」

 

「思わない」

 

「なら言うな」

 

 慧音は少しだけ笑った。

 

「妹紅」

 

「何だ」

 

「燃やすなよ」

 

「相手による」

 

 妹紅は戸を開け、夜の人里へ出た。

 

 寺子屋の前には、まだ薬の匂いがわずかに残っていた。

 それは人を助ける匂いでもあり、人を黙らせる匂いでもあった。

 

 幻想郷では、毒と薬の境目はいつも薄い。

 

 そしてその境目を、誰かが静かに動かしている。

 

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