八雲裁定が終わった翌朝、人里の道標は戻っていた。
北口の松のそばには、古い木の道標が立っている。
左、博麗神社。
右、命蓮寺。
まっすぐ行けば畑と山道。
その奥へ進めば、迷いの竹林へ向かう道もある。
見慣れた道だった。
だが、以前とまったく同じではない。
道標の下には、新しい小さな札がかかっていた。
**この道、博麗神社へ通ず。
通行料不要。
ただし、賽銭歓迎。**
それを見た博麗霊夢は、しばらく黙っていた。
隣で魔理沙が笑いをこらえている。
「おい霊夢、なかなかいい札じゃないか」
「私じゃないわよ」
「でも、あんたっぽいぜ」
「誰が書いたのよ」
霊夢が周囲を見回すと、寺子屋の前で上白沢慧音が帳面を抱えていた。
慧音は目を合わせずに言った。
「私は知らない」
「今、絶対に知ってる顔したわ」
「道標は人里の共有物だ。誰か一人の責任ではない」
「そういう逃げ方するのね」
妹紅が門にもたれて笑っている。
「まあ、通行料よりはいいだろ」
「比べる対象が低すぎるのよ」
人里は、少しずつ元に戻っていた。
命蓮寺への荷車は動き始めた。
永遠亭への救急路には、新しい案内印が置かれた。
守矢へ向かう山道には、信徒用の札と一般通行用の札が分けられた。
紅魔館周辺の湖畔道には、咲夜が用意した簡素な注意書きが立っている。
白玉楼への冥界道は、妖夢が立会い札を確認することになった。
地霊殿への縦穴は、さとりとお燐が監視記録を出すことになった。
すべてが完全に開かれたわけではない。
危険な道は、危険なままだ。
隠すべき道もある。
閉じなければならない境界もある。
だが、閉じた理由を誰も知らない道は、減ることになった。
それが、八雲裁定の後に残った変化だった。
*
八雲の屋敷では、藍が朝から台帳を整理していた。
長机の上には、いくつもの紙束がある。
**共有境界台帳 第一分冊**
**人里生活路控**
**博麗参道補助記録**
**命蓮寺物流路照合簿**
**竹林救急路限定開示帳**
**守矢山道・信仰路区分表**
**紅魔館湖畔通行制限控**
**白玉楼冥界道立会記録**
**地底旧連絡路監視簿**
そして、少し離れたところに、橙の字で書かれた一冊の薄い帳面が置かれていた。
**猫道台帳 一号**
字は少し曲がっている。
だが、線は細かい。
塀の上。
井戸の裏。
屋根の端。
祠の後ろ。
木の根の隙間。
寺子屋裏から人里北口へ抜ける道。
子供を帰した細い道。
その一つ一つに、橙の注意書きが添えられている。
**雨の日はすべる。**
**黒猫がよく寝ている。踏まない。**
**人間は無理。妖精ならたぶん通れる。**
**通行料禁止。煮干しは可。**
**帰れない子がいたら使う。**
藍はその最後の一文を見て、少しだけ筆を止めた。
「藍さま」
橙が障子の隙間から顔を出す。
「猫道台帳、見た?」
「ああ」
「変なところある?」
「いくつか字が間違っている」
「え」
「だが、道は合っている」
橙はほっとした顔をした。
「じゃあ、台帳に入る?」
「入る」
「ほんと?」
「正式に、八雲一家の緊急連絡路台帳へ入れる」
橙の顔がぱっと明るくなった。
「やった!」
「ただし、増やす時は私に報告しろ。勝手に書き足して、後から分からなくなると困る」
「うん!」
「あと、猫たちに勝手に札を作らせるな」
「作らないよ。札は売らない」
「それでいい」
藍は猫道台帳に朱で印を入れた。
**八雲共有境界台帳、補助路として採用。
売買禁止。
緊急連絡、迷子救助、異常報告に限り使用。**
橙はその文字をじっと見ていた。
「藍さま」
「何だ」
「猫道も、境界?」
「そうだ」
「じゃあ、私も境界を守ってる?」
藍は橙を見る。
橙は冗談ではなく、本気で聞いていた。
藍は静かに頷いた。
「守っている」
橙は何も言わず、嬉しそうに尻尾を揺らした。
そこへ、八雲紫が現れた。
いつものように隙間からではない。
廊下を歩いてきた。
それだけで、藍は少し驚いた。
「紫様」
「今日は普通に来たのよ」
「珍しいですね」
「境界ばかり使うと、藍に怒られそうだから」
橙が小さく笑った。
紫は長机の上の台帳を眺めた。
「ずいぶん増えたわね」
「必要な分です」
「これを全部管理するの?」
「管理します」
「大変ね」
「紫様の昔の隠し事を整理するよりは、楽です」
紫は扇で口元を隠した。
「藍、少し意地悪になった?」
「実務です」
「便利な言葉ね」
紫は猫道台帳を手に取った。
橙が少し緊張する。
紫は頁をめくり、木の根の隙間の記録で指を止めた。
「ここ、私も知らないわ」
藍が顔を上げる。
「紫様が?」
「ええ。知らない」
橙は目を丸くした。
「紫さまも知らない道があるの?」
「あるわよ」
「全部知ってると思ってた」
紫は少し笑った。
「私が全部知っていたら、幻想郷はもっとつまらないわ」
藍はその言葉を、以前なら紫らしい冗談として聞き流したかもしれない。
だが、今は違った。
「知らない道を、なかったことにしない」
藍が言う。
紫は藍を見る。
「それが、これからの八雲一家の仕事です」
紫はしばらく黙った。
そして、ゆっくり頷いた。
「そうね」
それは短い返事だった。
だが、藍には十分だった。
*
その日の昼、縁目会の残党整理が行われた。
場所は人里の外れ、かつて火除け道の終点だった古い辻。
縁目会が人里封鎖の中心に使った場所だ。
今は偽札が剥がされ、地面には薄い円形の跡だけが残っている。
霞堂縁吏は、そこに立っていた。
両手を縛られてはいない。
だが、霊夢の札、藍の境界符、慧音の記録札が周囲を囲んでいる。逃げ道はない。
彼の後ろには、縁目会の者たちが並んでいた。
全員が罪人というわけではない。
札を売った者。
偽札を作った者。
道を狂わせた者。
ただ案内だけをしていた者。
昔の道を知っていただけの者。
藍は一人ずつ名前を確認した。
慧音が記録する。
「曲戸路平」
小道係だった男が一歩前に出た。
橙が少しだけ睨む。
曲戸は気まずそうに目を逸らした。
藍は言った。
「猫道、小通行路、子供の抜け道に対する通行料徴収を確認しています」
「はい」
「今後、小通行路の売買を禁じます」
「はい」
「ただし、小道の知識は必要です。監視下で、小通行路異常の報告係として再登録を認めます」
曲戸は顔を上げた。
「よろしいのですか」
「売らなければ」
橙が横から言った。
「猫道に値段つけたら、今度こそ怒るから」
曲戸は深く頭を下げた。
「承知しました」
次に、荷車道を扱っていた者。
竹林救急路を売ろうとした者。
山道札を作った者。
それぞれに処分が下る。
札の作成禁止。
通行料徴収禁止。
関係勢力監視下での再登録。
悪質な者は博麗預かり。
危険路をわざと狂わせた者は、彼岸ではなく、まず人里と八雲の帳面で責任を確定させる。
霊夢は横で退屈そうにしていた。
「こういうの、地味ね」
慧音が言う。
「地味な処理を怠ると、また抗争になる」
「分かってるわよ」
魔理沙が札束を覗き込む。
「この偽札、研究用に一枚くらい」
「駄目だ」
慧音、藍、霊夢が同時に言った。
魔理沙は帽子を押さえた。
「三方向から来たな」
最後に、霞堂縁吏の番になった。
霞堂は静かに藍を見ていた。
「私の処分は?」
藍は台帳を開いた。
「縁目会の通行権販売を主導。偽八雲札の流通。人里封鎖。境界市場の開設。主要道および小通行路の商材化」
「よく記録されていますね」
「記録します」
「でしょうね」
霞堂は薄く笑った。
「では、私はどうなりますか。博麗に引き渡されるか。八雲に封じられるか。それとも無縁塚に戻されるか」
藍は静かに言った。
「あなたには、道を戻す仕事をしてもらいます」
霞堂の表情がわずかに動いた。
「仕事?」
「縁目会が狂わせた道の残滓を、八雲、博麗、人里立会いのもとで修正する。あなたは道を知りすぎています。その知識を、売るためではなく戻すために使ってもらう」
「罰ですか」
「罰であり、責任です」
霞堂は笑った。
「道を売った者に、道を戻させる」
「はい」
「実務的ですね」
「実務です」
霞堂は目を伏せた。
「あなたは、紫様とは違う」
「違います」
「紫様なら、私をもっと綺麗に消したでしょう」
藍は答えなかった。
その代わり、紫が後ろから言った。
「昔の私ならね」
霞堂が紫を見る。
「紫様」
「久しぶりね、霞堂」
「お久しぶりです」
その声には、皮肉とも敬意ともつかない響きがあった。
紫は藍の横に立った。
「昔、あなたたちを切った時、私は道を消したつもりだった」
霞堂は静かに言う。
「消えていませんでした」
「ええ。消えていなかった。だから、藍が記録することにした」
「記録されれば、また誰かが使います」
紫は微笑む。
「使うでしょうね」
霞堂の目が細くなる。
「それでも?」
「使わせ方を、これから考えるのよ」
霞堂は黙った。
藍が言う。
「道は、誰か一人が完全に管理できるものではありません。だから、照合する。立ち会う。記録する。戻す」
霞堂は小さく笑った。
「面倒な仕組みです」
「ええ」
「縁目会の札の方が、ずっと早い」
「早い道が、正しい道とは限りません」
霞堂はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
そして、深く頭を下げた。
「八雲裁定、受け入れます」
慧音が筆を走らせる。
その音が、古い辻に響いた。
*
夕方、人里に新しい道標が立てられた。
大きなものではない。
昔からあった道標の横に、小さな札が増えただけだ。
**博麗神社方面**
**命蓮寺方面**
**永遠亭救急路 通常通行不可**
**守矢山道 天候注意**
**紅魔館湖畔 夜間立入注意**
**猫道 人間通行不可**
最後の一行を見て、橙はふくれた。
「人間通行不可って書くと、なんか偉そう」
藍は言った。
「実際、人間は通れない」
「でも、妖精は通れるよ」
「では、後で“妖精要相談”と追記しよう」
「ほんと?」
「必要なら」
霊夢が道標を見上げる。
「ずいぶん説明が増えたわね」
慧音は頷く。
「道標は、ただ方向を示すだけでは足りなくなった」
「面倒な幻想郷ね」
「元からだ」
魔理沙は道標の下に、こっそり小さな札を貼ろうとしていた。
**魔理沙の近道案内 相談無料**
霊夢が即座に剥がした。
「便乗するな」
「無料だぜ」
「無料でも駄目」
村紗が命蓮寺方面の札を確認し、早苗が山道の注意書きを見て神奈子へ報告すると言い、咲夜は紅魔館湖畔の表記を少し修正した。鈴仙は永遠亭救急路の札を確認し、「急患の場合は寺子屋か博麗神社経由で連絡」と追記した。
白蓮は手を合わせた。
「道が戻ると、人も戻りますね」
幽々子は微笑む。
「死者も、道を間違えずに済むわ」
妖夢が真面目に頷いた。
「冥界道の札は、私が確認します」
さとりは遠くから道標を見ていた。
「心の道標も、これくらい分かりやすければいいのですが」
お燐が笑う。
「そりゃ無理だね」
人里の子供たちが、橙の周りに集まっていた。
「橙ちゃん、猫道って本当にあるの?」
「あるよ」
「見たい!」
「人間は通れない」
「えー」
橙は少し考えた。
「でも、迷ったら迎えに行く」
子供たちは嬉しそうに笑った。
その言葉を、藍は少し離れた場所で聞いていた。
道は、売るためにあるのではない。
帰るためにある。
迎えに行くためにある。
橙の言葉は、今回の抗争の中で何度も繰り返された。
今では、それが八雲一家の新しい台帳の中心になっている。
*
夜、八雲の屋敷。
藍は最後の記録を書いていた。
紫は縁側で月を見ている。
橙は猫たちと一緒に、煮干しを分けていた。
机の上には、共有境界台帳が開かれている。
藍は筆を取り、最後の頁に記す。
**境界通行抗争。
縁目会、八雲旧式境界札および外部委託記録を悪用。
博麗参道、人里外周、命蓮寺物流路、竹林救急路、守矢山道、紅魔館湖畔線、白玉楼冥界道、地底連絡路、猫道に偽札を展開。
人里封鎖をもって境界通行権承認を要求。
八雲裁定により、縁目会の通行権販売を無効。
偽八雲札回収。旧式境界札廃止。
共有境界台帳を設置。
主要生活路、物流路、救急路、参道、連絡路は関係勢力と照合。
猫道を緊急連絡路として認定。
八雲一家、過去の外部委託記録を提出。
境界は、片側のものではない。**
藍は筆を置いた。
しばらく、その文字を見ていた。
紫が声をかける。
「満足?」
「満足するには早いです」
「そうね。これからが面倒だもの」
「はい」
藍は帳面を閉じた。
「ですが、これで隠したままにはなりません」
紫は月を見たまま言う。
「隠して守るだけでは、もう足りないのね」
「はい」
紫は少し笑った。
「あなたにそう言われると、よく分かるわ」
藍は紫の隣へ座った。
庭の向こうには、いくつもの見えない道がある。
人里へ。
神社へ。
寺へ。
山へ。
湖へ。
竹林へ。
地底へ。
冥界へ。
そして、藍も紫も知らない、小さな道がまだある。
猫だけが知る道。
子供だけが通る道。
誰かが帰るために必要になる道。
橙が煮干しを持ってやって来た。
「藍さま、紫さま、猫たちからお礼」
紫は煮干しを見て、少し困った顔をした。
「私も?」
「うん」
藍は真面目に受け取った。
「礼を言う」
紫も一本受け取る。
「ありがとう」
橙は満足そうに笑った。
「猫道台帳、二号も作るね」
「もう二号か」
「うん。まだ知らない道、いっぱいある」
紫が橙を見る。
「私が知らない道も?」
「あるよ」
橙は当然のように言った。
「紫さまが知らなくても、道はあるよ」
紫は一瞬だけ驚き、それから静かに笑った。
「そうね」
藍はその言葉を、台帳には書かなかった。
書かなくても、覚えておくべき言葉だった。
*
翌朝、博麗神社へ向かう道はまっすぐだった。
霊夢は石段を上がり、鳥居をくぐり、賽銭箱の前に立つ。
賽銭箱の前に、料金所はない。
偽札もない。
縄もない。
灰色の羽織の男もいない。
ただ、道がある。
霊夢は少しだけ満足げに頷いた。
そこへ魔理沙がやって来る。
「お、今日はちゃんと神社に着いたな」
「当たり前でしょ」
「いや、当たり前ってのはありがたいもんだぜ」
霊夢は賽銭箱を見る。
「ありがたいと思うなら入れなさい」
「それとこれとは別だ」
「別じゃない」
鳥居の外では、橙が猫たちと塀の上を走っていた。
その後ろで、藍が新しい台帳を抱えている。
紫は少し離れた場所で、扇を開いて眺めていた。
霊夢はそれを見て、声をかけた。
「八雲」
藍が振り返る。
「はい」
「道、戻ったわね」
「はい」
「次に料金所が出たら?」
「出させません」
「頼もしいじゃない」
藍は少しだけ頭を下げた。
紫が横から言う。
「霊夢、賽銭箱の札は残してもよかったのではなくて?」
「何の札よ」
「通行料不要。ただし賽銭歓迎」
「やっぱりあんたが書いたの?」
紫は笑って答えない。
霊夢が睨む。
魔理沙が笑う。
橙が猫たちと屋根の上を走る。
藍は台帳に新しい道を書き足す。
幻想郷の道は、今日もどこかで揺れている。
完全に安定することはない。
境界とは、そういうものだから。
けれど、揺れた時に誰かが気づく。
誰かが記録する。
誰かが迎えに行く。
それなら、道はまだ帰るためにある。
八雲藍は、参道の端に立ち、遠く人里を見た。
そして、静かに呟いた。
「知らない道を、なかったことにしない」
それが、八雲一家の新しい仕事だった。
境界は、片側のものではない。
道は、値段をつけるためにあるのではない。
誰かが帰るためにある。
朝の風が吹く。
塀の上で猫が鳴いた。
その声は、小さな道を通って、人里の方へ抜けていった。