人里の朝は、まだ静かだった。
井戸端では女たちが水を汲み、寺子屋の前では子供たちが走り回っている。商人は店先の戸板を外し、火消しの若い衆は眠そうな顔で縄を巻いていた。
何も起きていないように見える。
だが、上白沢慧音は、その静けさがあまり好きではなかった。
静けさには、二種類ある。
安心して黙っている静けさ。
言いたいことを飲み込んでいる静けさ。
今の人里は、後者に近い。
水が濁った。
道が消えた。
死者の名前が証文にされた。
境界に通行料がつけられた。
何度も騒動が起き、そのたびに誰かが裁定し、誰かが帳面に書き、誰かが後始末をした。
それでも、人里の者たちは暮らしている。
飯を炊く。
水を汲む。
畑へ出る。
子供を寺子屋へ送る。
夜になれば戸を閉める。
ただ、その動作の一つ一つに、以前より少しだけ不安が混じっていた。
「先生」
寺子屋の入口から、子供が顔を出した。
「どうした」
「これ、貼ってあった」
子供が差し出したのは、二枚の札だった。
一枚は、白地に緑の線。
山の神紋に似た印が押されている。
**守矢安心講**
**水害・収穫・山道安全祈願**
**非常時連絡名簿、受付中**
もう一枚は、薄い生成りの紙。
墨で蓮の文様が描かれている。
**命蓮寺救済会**
**供養・相談・悩みごと受付**
**寄進なき者も拒まず**
慧音は二枚を並べて見た。
どちらも、悪いことは書いていない。
むしろ、必要なことばかりだ。
水害に備える。
収穫を祈る。
山道の安全を願う。
死者を供養する。
悩みを聞く。
寄進できない者も拒まない。
どちらも、人里に手を差し伸べている。
だからこそ、慧音は眉をひそめた。
「どこに貼ってあった」
「寺子屋の門と、井戸のところと、北口の道標のところ」
「両方か」
「うん。守矢の札の隣に、命蓮寺の札。あと、命蓮寺の札の隣に、守矢の札」
子供は不安そうに聞いた。
「先生、どっちに行けばいいの?」
慧音はすぐに答えられなかった。
どちらに行けばいい。
子供にそんな問いをさせている時点で、もう何かが始まっていた。
慧音は札を机の上に置いた。
「授業が終わってから、大人たちに聞いてみる。お前たちは、今日はいつも通り勉強だ」
「うん」
子供は頷いたが、まだ不安げだった。
「両方行かないと、怒られる?」
「誰に」
「神様とか、お寺の人とか」
慧音は首を振った。
「怒られない。少なくとも、寺子屋ではそう教える」
子供は少しだけほっとして、教室へ入っていった。
慧音は、二枚の札を見下ろした。
そして、帳面を開く。
筆先に墨を含ませ、短く記した。
**信仰心の分岐、発生。**
*
人里の井戸端では、すでに札の話で持ちきりだった。
「守矢の安心講、入っておいた方がいいんじゃないかね」
「水害の時に助けてもらえるなら、名簿くらい書いてもいいだろう」
「でも、家族構成まで書くんだって?」
「非常時に必要なんだろう」
「寄進もいるのか?」
「任意だって聞いたよ」
「任意ってのが一番困るんだ」
別の女が、命蓮寺の札を手に取った。
「うちは去年、身内を亡くしたからね。命蓮寺の供養には行きたい」
「相談も受けてくれるらしいよ」
「でも、寺に相談したことが広まったら嫌だね」
「命蓮寺はそんなことしないだろう」
「そうは言っても、誰が見てるか分からないじゃないか」
噂は井戸の水より早く広がる。
昼前には、人里のあちこちで同じ会話が繰り返されていた。
守矢に行くべきか。
命蓮寺に行くべきか。
両方行くべきか。
どちらにも行かないと、信心が足りないと思われるのか。
まだ誰も争っていない。
守矢も命蓮寺も、誰かを責めてはいない。
だが、人里の者たちは勝手に線を引き始めていた。
あの家は守矢へ行く。
あの家は命蓮寺へ行く。
あの家はどちらにも行かない。
あの家は両方に顔を出す。
信仰とは、心の奥にあるもののはずだった。
それが、朝の札二枚で、表に出始めていた。
*
昼過ぎ、藤原妹紅が寺子屋へやって来た。
手には、守矢の札と命蓮寺の札を一枚ずつ持っている。
「慧音」
「見たか」
「ああ。北口にも貼ってあった。畑の方にもある。火消しの詰所にもあった」
妹紅は机の上に札を投げるように置いた。
「悪いことは書いてないな」
「だから厄介だ」
「またその言い方か」
「悪意があれば、話は早い。止めればいい。だが今回は、どちらも人里のために動いている」
妹紅は守矢の札を指で弾いた。
「防災、収穫、山道安全。まあ、助かる家は多いだろうな」
次に命蓮寺の札を見る。
「供養、相談、寄進なしでも可。こっちも助かる奴は多い」
「そうだ」
「で、どこが問題だ」
慧音はしばらく黙り、窓の外を見た。
子供たちが庭で遊んでいる。
その中の一人が、守矢の札を手にしている。別の子供は命蓮寺の札を覗き込んでいた。
「問題は、どちらも正しいことだ」
妹紅は眉をひそめた。
「正しいならいいだろ」
「正しさが二つ並ぶと、人は選ばされる」
「選ばなければいい」
「そう簡単にいかない。人は、自分がどちら側に見られているか気にする」
慧音は帳面を閉じた。
「守矢に行けば、命蓮寺に何か思われるのではないか。命蓮寺に行けば、守矢の講に入りづらくなるのではないか。両方行けば節操がないと思われるのではないか。どちらにも行かなければ、信心が足りないと思われるのではないか」
妹紅は面倒そうに頭を掻いた。
「信じるってのは、そんなに面倒なのか」
「人が集まれば、面倒になる」
「神社も寺も、静かにしてればいいのにな」
「それでは助からない者もいる」
「だから厄介か」
「そうだ」
その時、寺子屋の外から声がした。
「失礼します!」
明るい声だった。
東風谷早苗が門の前に立っていた。
手には、守矢安心講の案内束。
表情は真剣で、少し緊張している。
慧音は立ち上がった。
「早苗」
「慧音さん。少し、お時間よろしいですか」
「安心講の件か」
「はい」
早苗は寺子屋へ入り、丁寧に頭を下げた。
「今回の安心講は、人里の方々を囲い込むものではありません。水害や道の異変が続いたので、いざという時の連絡網を作りたいんです。高齢の方や小さな子供がいる家、井戸の場所、避難できる場所、食料を置いておける場所。それを把握しておけば、次に何かあった時に早く動けます」
言葉に嘘はない。
早苗は本気だった。
慧音にもそれは分かる。
早苗は続けた。
「神奈子様も、諏訪子様も、人里の不安を減らしたいと考えています。信仰を増やしたいだけではありません」
妹紅が横から言う。
「だけ、ではない?」
早苗は少し詰まった。
「……信仰も、必要です」
慧音は早苗を見る。
早苗は目を逸らさなかった。
「神様は、信仰がなければ力を振るえません。人里を守るには、信仰の力も必要です」
「つまり、防災名簿と信仰名簿がつながる」
「つなげるつもりはありません」
「つながらない保証はあるか」
早苗は黙った。
慧音の声は厳しいが、責めているわけではない。
「早苗。助けるための名簿と、信じる者を数えるための名簿は、紙一枚で混ざる」
早苗は唇を結んだ。
「分けます」
「どう分ける」
「それを、相談しに来ました」
その答えに、慧音は少しだけ目を細めた。
早苗は、まだ引き返せるところにいる。
神奈子なら強く押すだろう。
諏訪子なら笑って流すかもしれない。
だが早苗は、人里の不安を見ている。
妹紅は腕を組んだ。
「相談に来ただけ、前よりましか」
「前より?」
「守矢は前にも名簿で揉めただろ」
早苗は顔を赤くした。
「……反省しています」
慧音は札を机に置いた。
「なら、安心講の名簿は私も見る。人里側で必要な情報と、信仰に関わる情報を分ける」
「お願いします」
早苗は頭を下げた。
その時、外で別の足音がした。
今度は静かな足音だった。
聖白蓮が寺子屋の門前に立っていた。
後ろには村紗水蜜と雲居一輪。
白蓮は柔らかく微笑み、しかし目は真剣だった。
「慧音さん。お邪魔してもよろしいでしょうか」
早苗が振り返る。
その表情が、一瞬だけ固くなった。
白蓮の手には、命蓮寺救済会の案内札がある。
守矢の札と、命蓮寺の札。
寺子屋の机の上に、二つの信仰が並ぶ。
*
白蓮は、ゆっくりと頭を下げた。
「人里の方々が、不安を抱えていると聞きました」
慧音は頷いた。
「抱えている」
「命蓮寺では、供養と相談の場を設けます。寄進できるかどうか、信仰があるかどうかは問いません。話すだけでも構いません」
早苗が少しだけ口を開く。
「それは、守矢の講に入れない方を集めるということですか」
白蓮は早苗を見る。
「入れない方も、入らない方も、迷っている方も、来てよいということです」
早苗の表情が揺れた。
「私たちは、誰かを除け者にするつもりはありません」
「ええ。そうでしょう」
白蓮の声は穏やかだった。
「ですが、名簿に名前を書くことが怖い方もいます。寄進できないことで肩身の狭さを感じる方もいます。神に祈る前に、まず誰かに話を聞いてほしい方もいます」
村紗が横で言った。
「そういう奴らを、うちは追い返さない」
妹紅が村紗を見る。
「言い方が荒いな」
「荒くても本当だ」
早苗は村紗の言葉に少し傷ついた顔をした。
「守矢が追い返すように聞こえます」
村紗は肩をすくめる。
「そう聞こえたなら悪かった。でも、名簿だ寄進だって言われたら、逃げる奴もいる」
「逃げ場として命蓮寺がある、ということですか」
早苗の声が少し硬くなる。
白蓮が静かに言う。
「逃げ場は必要です」
早苗は返す。
「逃げ場だけでは、災害は防げません」
白蓮は頷いた。
「その通りです」
早苗は少し驚いた。
白蓮は続ける。
「水害を防ぐこと。避難路を整えること。食料を備えること。それらは守矢神社が得意とすることでしょう。命蓮寺にはできないこともあります」
「なら」
「ですが、仕組みに入れない者もいます。信じる先を決められない者もいます。そういう者が零れた時、寺はそこにありたい」
早苗は黙った。
慧音は二人を見ていた。
悪意はない。
早苗も白蓮も、人里を救おうとしている。
だが、言葉の端に線が見える。
仕組みに入る者。
仕組みから零れる者。
神に祈る者。
寺へすがる者。
線を引くつもりがなくても、言葉が線を作る。
妹紅が低く言った。
「もう始まってるな」
慧音は頷いた。
「始まっている」
早苗と白蓮が同時に慧音を見る。
慧音は机の上の二枚の札を指した。
「守矢の安心講。命蓮寺の救済会。どちらも必要だ。だが、このまま進めば人里は選ばされる」
早苗が言う。
「選ばせるつもりは」
「つもりの問題ではない」
慧音の声が強くなる。
「札が並んだ時点で、人は比べる。名簿ができれば、入った者と入らない者が生まれる。相談会ができれば、相談した者としない者が生まれる。寄進箱が置かれれば、入れた者と入れない者が生まれる」
白蓮は目を伏せる。
「確かに」
村紗は不満そうに言う。
「じゃあ、何もするなってことか」
「違う」
慧音は即答した。
「するなら、線を引いた責任を持てと言っている」
早苗は小さく息を呑んだ。
白蓮も静かに頷いた。
その時、寺子屋の外で、聞き慣れた声がした。
「何よ、寺子屋で神仏会議?」
博麗霊夢だった。
いつもの赤白の姿で、門にもたれている。
横には魔理沙もいる。
霊夢は机の上の札を見て、顔をしかめた。
「うわ。見事に面倒な札が並んでる」
魔理沙が笑う。
「守矢の御利益と命蓮寺の救済。二枚セットで持てば無敵じゃないか」
「無敵じゃなくて面倒なのよ」
霊夢は寺子屋に入り、早苗と白蓮を順に見た。
「で、人里の弱った心に札を貼りに来たのはどっち?」
早苗が言葉を詰まらせる。
白蓮は静かに言う。
「そのようなつもりはありません」
「でしょうね」
霊夢はあっさり言った。
「つもりがないから厄介なのよ。悪党なら殴れば済むけど、善意で来られると面倒くさい」
妹紅が笑う。
「霊夢らしいな」
霊夢は守矢の札を手に取る。
「防災、収穫、山道安全。悪くない」
次に命蓮寺の札を取る。
「供養、相談、寄進なしでも可。これも悪くない」
そして、二枚を机に戻した。
「悪くない札が二枚並ぶと、ろくなことにならない」
早苗が小さく言う。
「どうすればいいんですか」
「知らないわよ」
「え」
「だから、これから考えるの。人里と一緒に」
霊夢は慧音を見る。
「安寧祭の話、聞いてる?」
慧音の眉が動いた。
「安寧祭?」
「抗争続きで人里が疲れてるから、祭りでもやって落ち着かせようって話。今朝、里の年寄りから来た」
魔理沙が補足する。
「で、守矢も命蓮寺も呼びたいってさ」
早苗と白蓮が顔を見合わせる。
慧音は嫌な予感を覚えた。
「祭りの中心を、どちらが持つかで揉めるな」
霊夢は頷いた。
「絶対揉めるわね」
村紗が言う。
「うちは供養をやる。抗争で不安になった奴らには必要だ」
早苗が返す。
「守矢も、防災祈願と豊作祈願を行います。今後の安心のために必要です」
霊夢が天井を仰いだ。
「ほら、もう始まった」
白蓮は村紗を制し、早苗も言葉を飲み込んだ。
だが、一度出かけた線は消えない。
御利益か。
救済か。
生きるための仕組みか。
苦しむ者の逃げ場か。
人里は、その両方を必要としている。
だからこそ、二つの勢力はぶつかる。
慧音は帳面を開き、続けて記した。
**守矢安心講、命蓮寺救済会、同時に人里へ入る。
双方、悪意なし。
ただし、信仰心の受け皿をめぐり、緊張発生。
安寧祭、火種となる可能性あり。**
筆を置いた時、外では夕方の鐘が鳴った。
寺子屋の庭にいた子供たちが、家へ帰り始める。
そのうちの一人が、守矢の札を持っていた。
別の子供は、命蓮寺の札を持っていた。
どちらも持っていない子もいた。
三人は、少しだけ気まずそうに顔を見合わせた。
そして、何も言わずに別々の道へ歩いていった。
慧音はその背中を見て、胸の奥が重くなるのを感じた。
まだ抗争は起きていない。
誰も怒鳴っていない。
誰も札を破っていない。
誰も神を罵っていない。
誰も寺を拒んでいない。
けれど、人里の中に細い線が引かれた。
信じる先。
それは、本来なら誰にも強いられないはずのものだった。
霊夢はぽつりと言った。
「神も仏も、面倒ね」
白蓮は静かに目を伏せた。
早苗は唇を結んだ。
慧音は帳面を閉じた。
人里の夕暮れに、二枚の札が風で揺れていた。
守矢安心講。
命蓮寺救済会。
どちらも、人を救うための札だった。
そして、その二枚が並んだ時から、信仰抗争は静かに始まっていた。