東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

31 / 34
信仰抗争編 序章:信じる先

 

 

 人里の朝は、まだ静かだった。

 

 井戸端では女たちが水を汲み、寺子屋の前では子供たちが走り回っている。商人は店先の戸板を外し、火消しの若い衆は眠そうな顔で縄を巻いていた。

 

 何も起きていないように見える。

 

 だが、上白沢慧音は、その静けさがあまり好きではなかった。

 

 静けさには、二種類ある。

 

 安心して黙っている静けさ。

 言いたいことを飲み込んでいる静けさ。

 

 今の人里は、後者に近い。

 

 水が濁った。

 道が消えた。

 死者の名前が証文にされた。

 境界に通行料がつけられた。

 何度も騒動が起き、そのたびに誰かが裁定し、誰かが帳面に書き、誰かが後始末をした。

 

 それでも、人里の者たちは暮らしている。

 

 飯を炊く。

 水を汲む。

 畑へ出る。

 子供を寺子屋へ送る。

 夜になれば戸を閉める。

 

 ただ、その動作の一つ一つに、以前より少しだけ不安が混じっていた。

 

「先生」

 

 寺子屋の入口から、子供が顔を出した。

 

「どうした」

 

「これ、貼ってあった」

 

 子供が差し出したのは、二枚の札だった。

 

 一枚は、白地に緑の線。

 山の神紋に似た印が押されている。

 

 **守矢安心講**

 **水害・収穫・山道安全祈願**

 **非常時連絡名簿、受付中**

 

 もう一枚は、薄い生成りの紙。

 墨で蓮の文様が描かれている。

 

 **命蓮寺救済会**

 **供養・相談・悩みごと受付**

 **寄進なき者も拒まず**

 

 慧音は二枚を並べて見た。

 

 どちらも、悪いことは書いていない。

 

 むしろ、必要なことばかりだ。

 

 水害に備える。

 収穫を祈る。

 山道の安全を願う。

 死者を供養する。

 悩みを聞く。

 寄進できない者も拒まない。

 

 どちらも、人里に手を差し伸べている。

 

 だからこそ、慧音は眉をひそめた。

 

「どこに貼ってあった」

 

「寺子屋の門と、井戸のところと、北口の道標のところ」

 

「両方か」

 

「うん。守矢の札の隣に、命蓮寺の札。あと、命蓮寺の札の隣に、守矢の札」

 

 子供は不安そうに聞いた。

 

「先生、どっちに行けばいいの?」

 

 慧音はすぐに答えられなかった。

 

 どちらに行けばいい。

 

 子供にそんな問いをさせている時点で、もう何かが始まっていた。

 

 慧音は札を机の上に置いた。

 

「授業が終わってから、大人たちに聞いてみる。お前たちは、今日はいつも通り勉強だ」

 

「うん」

 

 子供は頷いたが、まだ不安げだった。

 

「両方行かないと、怒られる?」

 

「誰に」

 

「神様とか、お寺の人とか」

 

 慧音は首を振った。

 

「怒られない。少なくとも、寺子屋ではそう教える」

 

 子供は少しだけほっとして、教室へ入っていった。

 

 慧音は、二枚の札を見下ろした。

 

 そして、帳面を開く。

 

 筆先に墨を含ませ、短く記した。

 

 **信仰心の分岐、発生。**

 

   *

 

 人里の井戸端では、すでに札の話で持ちきりだった。

 

「守矢の安心講、入っておいた方がいいんじゃないかね」

 

「水害の時に助けてもらえるなら、名簿くらい書いてもいいだろう」

 

「でも、家族構成まで書くんだって?」

 

「非常時に必要なんだろう」

 

「寄進もいるのか?」

 

「任意だって聞いたよ」

 

「任意ってのが一番困るんだ」

 

 別の女が、命蓮寺の札を手に取った。

 

「うちは去年、身内を亡くしたからね。命蓮寺の供養には行きたい」

 

「相談も受けてくれるらしいよ」

 

「でも、寺に相談したことが広まったら嫌だね」

 

「命蓮寺はそんなことしないだろう」

 

「そうは言っても、誰が見てるか分からないじゃないか」

 

 噂は井戸の水より早く広がる。

 

 昼前には、人里のあちこちで同じ会話が繰り返されていた。

 

 守矢に行くべきか。

 命蓮寺に行くべきか。

 両方行くべきか。

 どちらにも行かないと、信心が足りないと思われるのか。

 

 まだ誰も争っていない。

 

 守矢も命蓮寺も、誰かを責めてはいない。

 

 だが、人里の者たちは勝手に線を引き始めていた。

 

 あの家は守矢へ行く。

 あの家は命蓮寺へ行く。

 あの家はどちらにも行かない。

 あの家は両方に顔を出す。

 

 信仰とは、心の奥にあるもののはずだった。

 

 それが、朝の札二枚で、表に出始めていた。

 

   *

 

 昼過ぎ、藤原妹紅が寺子屋へやって来た。

 

 手には、守矢の札と命蓮寺の札を一枚ずつ持っている。

 

「慧音」

 

「見たか」

 

「ああ。北口にも貼ってあった。畑の方にもある。火消しの詰所にもあった」

 

 妹紅は机の上に札を投げるように置いた。

 

「悪いことは書いてないな」

 

「だから厄介だ」

 

「またその言い方か」

 

「悪意があれば、話は早い。止めればいい。だが今回は、どちらも人里のために動いている」

 

 妹紅は守矢の札を指で弾いた。

 

「防災、収穫、山道安全。まあ、助かる家は多いだろうな」

 

 次に命蓮寺の札を見る。

 

「供養、相談、寄進なしでも可。こっちも助かる奴は多い」

 

「そうだ」

 

「で、どこが問題だ」

 

 慧音はしばらく黙り、窓の外を見た。

 

 子供たちが庭で遊んでいる。

 その中の一人が、守矢の札を手にしている。別の子供は命蓮寺の札を覗き込んでいた。

 

「問題は、どちらも正しいことだ」

 

 妹紅は眉をひそめた。

 

「正しいならいいだろ」

 

「正しさが二つ並ぶと、人は選ばされる」

 

「選ばなければいい」

 

「そう簡単にいかない。人は、自分がどちら側に見られているか気にする」

 

 慧音は帳面を閉じた。

 

「守矢に行けば、命蓮寺に何か思われるのではないか。命蓮寺に行けば、守矢の講に入りづらくなるのではないか。両方行けば節操がないと思われるのではないか。どちらにも行かなければ、信心が足りないと思われるのではないか」

 

 妹紅は面倒そうに頭を掻いた。

 

「信じるってのは、そんなに面倒なのか」

 

「人が集まれば、面倒になる」

 

「神社も寺も、静かにしてればいいのにな」

 

「それでは助からない者もいる」

 

「だから厄介か」

 

「そうだ」

 

 その時、寺子屋の外から声がした。

 

「失礼します!」

 

 明るい声だった。

 

 東風谷早苗が門の前に立っていた。

 

 手には、守矢安心講の案内束。

 表情は真剣で、少し緊張している。

 

 慧音は立ち上がった。

 

「早苗」

 

「慧音さん。少し、お時間よろしいですか」

 

「安心講の件か」

 

「はい」

 

 早苗は寺子屋へ入り、丁寧に頭を下げた。

 

「今回の安心講は、人里の方々を囲い込むものではありません。水害や道の異変が続いたので、いざという時の連絡網を作りたいんです。高齢の方や小さな子供がいる家、井戸の場所、避難できる場所、食料を置いておける場所。それを把握しておけば、次に何かあった時に早く動けます」

 

 言葉に嘘はない。

 

 早苗は本気だった。

 

 慧音にもそれは分かる。

 

 早苗は続けた。

 

「神奈子様も、諏訪子様も、人里の不安を減らしたいと考えています。信仰を増やしたいだけではありません」

 

 妹紅が横から言う。

 

「だけ、ではない?」

 

 早苗は少し詰まった。

 

「……信仰も、必要です」

 

 慧音は早苗を見る。

 

 早苗は目を逸らさなかった。

 

「神様は、信仰がなければ力を振るえません。人里を守るには、信仰の力も必要です」

 

「つまり、防災名簿と信仰名簿がつながる」

 

「つなげるつもりはありません」

 

「つながらない保証はあるか」

 

 早苗は黙った。

 

 慧音の声は厳しいが、責めているわけではない。

 

「早苗。助けるための名簿と、信じる者を数えるための名簿は、紙一枚で混ざる」

 

 早苗は唇を結んだ。

 

「分けます」

 

「どう分ける」

 

「それを、相談しに来ました」

 

 その答えに、慧音は少しだけ目を細めた。

 

 早苗は、まだ引き返せるところにいる。

 

 神奈子なら強く押すだろう。

 諏訪子なら笑って流すかもしれない。

 だが早苗は、人里の不安を見ている。

 

 妹紅は腕を組んだ。

 

「相談に来ただけ、前よりましか」

 

「前より?」

 

「守矢は前にも名簿で揉めただろ」

 

 早苗は顔を赤くした。

 

「……反省しています」

 

 慧音は札を机に置いた。

 

「なら、安心講の名簿は私も見る。人里側で必要な情報と、信仰に関わる情報を分ける」

 

「お願いします」

 

 早苗は頭を下げた。

 

 その時、外で別の足音がした。

 

 今度は静かな足音だった。

 

 聖白蓮が寺子屋の門前に立っていた。

 

 後ろには村紗水蜜と雲居一輪。

 

 白蓮は柔らかく微笑み、しかし目は真剣だった。

 

「慧音さん。お邪魔してもよろしいでしょうか」

 

 早苗が振り返る。

 

 その表情が、一瞬だけ固くなった。

 

 白蓮の手には、命蓮寺救済会の案内札がある。

 

 守矢の札と、命蓮寺の札。

 

 寺子屋の机の上に、二つの信仰が並ぶ。

 

   *

 

 白蓮は、ゆっくりと頭を下げた。

 

「人里の方々が、不安を抱えていると聞きました」

 

 慧音は頷いた。

 

「抱えている」

 

「命蓮寺では、供養と相談の場を設けます。寄進できるかどうか、信仰があるかどうかは問いません。話すだけでも構いません」

 

 早苗が少しだけ口を開く。

 

「それは、守矢の講に入れない方を集めるということですか」

 

 白蓮は早苗を見る。

 

「入れない方も、入らない方も、迷っている方も、来てよいということです」

 

 早苗の表情が揺れた。

 

「私たちは、誰かを除け者にするつもりはありません」

 

「ええ。そうでしょう」

 

 白蓮の声は穏やかだった。

 

「ですが、名簿に名前を書くことが怖い方もいます。寄進できないことで肩身の狭さを感じる方もいます。神に祈る前に、まず誰かに話を聞いてほしい方もいます」

 

 村紗が横で言った。

 

「そういう奴らを、うちは追い返さない」

 

 妹紅が村紗を見る。

 

「言い方が荒いな」

 

「荒くても本当だ」

 

 早苗は村紗の言葉に少し傷ついた顔をした。

 

「守矢が追い返すように聞こえます」

 

 村紗は肩をすくめる。

 

「そう聞こえたなら悪かった。でも、名簿だ寄進だって言われたら、逃げる奴もいる」

 

「逃げ場として命蓮寺がある、ということですか」

 

 早苗の声が少し硬くなる。

 

 白蓮が静かに言う。

 

「逃げ場は必要です」

 

 早苗は返す。

 

「逃げ場だけでは、災害は防げません」

 

 白蓮は頷いた。

 

「その通りです」

 

 早苗は少し驚いた。

 

 白蓮は続ける。

 

「水害を防ぐこと。避難路を整えること。食料を備えること。それらは守矢神社が得意とすることでしょう。命蓮寺にはできないこともあります」

 

「なら」

 

「ですが、仕組みに入れない者もいます。信じる先を決められない者もいます。そういう者が零れた時、寺はそこにありたい」

 

 早苗は黙った。

 

 慧音は二人を見ていた。

 

 悪意はない。

 

 早苗も白蓮も、人里を救おうとしている。

 

 だが、言葉の端に線が見える。

 

 仕組みに入る者。

 仕組みから零れる者。

 神に祈る者。

 寺へすがる者。

 

 線を引くつもりがなくても、言葉が線を作る。

 

 妹紅が低く言った。

 

「もう始まってるな」

 

 慧音は頷いた。

 

「始まっている」

 

 早苗と白蓮が同時に慧音を見る。

 

 慧音は机の上の二枚の札を指した。

 

「守矢の安心講。命蓮寺の救済会。どちらも必要だ。だが、このまま進めば人里は選ばされる」

 

 早苗が言う。

 

「選ばせるつもりは」

 

「つもりの問題ではない」

 

 慧音の声が強くなる。

 

「札が並んだ時点で、人は比べる。名簿ができれば、入った者と入らない者が生まれる。相談会ができれば、相談した者としない者が生まれる。寄進箱が置かれれば、入れた者と入れない者が生まれる」

 

 白蓮は目を伏せる。

 

「確かに」

 

 村紗は不満そうに言う。

 

「じゃあ、何もするなってことか」

 

「違う」

 

 慧音は即答した。

 

「するなら、線を引いた責任を持てと言っている」

 

 早苗は小さく息を呑んだ。

 

 白蓮も静かに頷いた。

 

 その時、寺子屋の外で、聞き慣れた声がした。

 

「何よ、寺子屋で神仏会議?」

 

 博麗霊夢だった。

 

 いつもの赤白の姿で、門にもたれている。

 横には魔理沙もいる。

 

 霊夢は机の上の札を見て、顔をしかめた。

 

「うわ。見事に面倒な札が並んでる」

 

 魔理沙が笑う。

 

「守矢の御利益と命蓮寺の救済。二枚セットで持てば無敵じゃないか」

 

「無敵じゃなくて面倒なのよ」

 

 霊夢は寺子屋に入り、早苗と白蓮を順に見た。

 

「で、人里の弱った心に札を貼りに来たのはどっち?」

 

 早苗が言葉を詰まらせる。

 

 白蓮は静かに言う。

 

「そのようなつもりはありません」

 

「でしょうね」

 

 霊夢はあっさり言った。

 

「つもりがないから厄介なのよ。悪党なら殴れば済むけど、善意で来られると面倒くさい」

 

 妹紅が笑う。

 

「霊夢らしいな」

 

 霊夢は守矢の札を手に取る。

 

「防災、収穫、山道安全。悪くない」

 

 次に命蓮寺の札を取る。

 

「供養、相談、寄進なしでも可。これも悪くない」

 

 そして、二枚を机に戻した。

 

「悪くない札が二枚並ぶと、ろくなことにならない」

 

 早苗が小さく言う。

 

「どうすればいいんですか」

 

「知らないわよ」

 

「え」

 

「だから、これから考えるの。人里と一緒に」

 

 霊夢は慧音を見る。

 

「安寧祭の話、聞いてる?」

 

 慧音の眉が動いた。

 

「安寧祭?」

 

「抗争続きで人里が疲れてるから、祭りでもやって落ち着かせようって話。今朝、里の年寄りから来た」

 

 魔理沙が補足する。

 

「で、守矢も命蓮寺も呼びたいってさ」

 

 早苗と白蓮が顔を見合わせる。

 

 慧音は嫌な予感を覚えた。

 

「祭りの中心を、どちらが持つかで揉めるな」

 

 霊夢は頷いた。

 

「絶対揉めるわね」

 

 村紗が言う。

 

「うちは供養をやる。抗争で不安になった奴らには必要だ」

 

 早苗が返す。

 

「守矢も、防災祈願と豊作祈願を行います。今後の安心のために必要です」

 

 霊夢が天井を仰いだ。

 

「ほら、もう始まった」

 

 白蓮は村紗を制し、早苗も言葉を飲み込んだ。

 

 だが、一度出かけた線は消えない。

 

 御利益か。

 救済か。

 生きるための仕組みか。

 苦しむ者の逃げ場か。

 

 人里は、その両方を必要としている。

 

 だからこそ、二つの勢力はぶつかる。

 

 慧音は帳面を開き、続けて記した。

 

 **守矢安心講、命蓮寺救済会、同時に人里へ入る。

 双方、悪意なし。

 ただし、信仰心の受け皿をめぐり、緊張発生。

 安寧祭、火種となる可能性あり。**

 

 筆を置いた時、外では夕方の鐘が鳴った。

 

 寺子屋の庭にいた子供たちが、家へ帰り始める。

 

 そのうちの一人が、守矢の札を持っていた。

 別の子供は、命蓮寺の札を持っていた。

 どちらも持っていない子もいた。

 

 三人は、少しだけ気まずそうに顔を見合わせた。

 

 そして、何も言わずに別々の道へ歩いていった。

 

 慧音はその背中を見て、胸の奥が重くなるのを感じた。

 

 まだ抗争は起きていない。

 

 誰も怒鳴っていない。

 誰も札を破っていない。

 誰も神を罵っていない。

 誰も寺を拒んでいない。

 

 けれど、人里の中に細い線が引かれた。

 

 信じる先。

 

 それは、本来なら誰にも強いられないはずのものだった。

 

 霊夢はぽつりと言った。

 

「神も仏も、面倒ね」

 

 白蓮は静かに目を伏せた。

 早苗は唇を結んだ。

 慧音は帳面を閉じた。

 

 人里の夕暮れに、二枚の札が風で揺れていた。

 

 守矢安心講。

 命蓮寺救済会。

 

 どちらも、人を救うための札だった。

 

 そして、その二枚が並んだ時から、信仰抗争は静かに始まっていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。