人里の広場に、白い幕が張られていた。
柱には青い布が巻かれ、山の神紋が入った旗が風に揺れている。広場の中央には簡素な舞台。その横には長机が三つ並び、紙束と筆、墨壺、そして小さな木箱が置かれていた。
木箱には、こう書かれている。
**安心講 寄進箱**
上白沢慧音は、その文字を見た瞬間、少しだけ眉を動かした。
悪い言葉ではない。
安心。
講。
寄進。
どれも、単体なら人を助けるための言葉だ。
だが三つ並ぶと、妙に重い。
広場には、すでに人里の者たちが集まっていた。
抗争が続いた後の人里は、何かに備えるという言葉に弱くなっている。水が濁った時、道が消えた時、死者の名前が証文にされた時、誰もが「次は何が起きるのか」と思った。
その不安へ、守矢神社は早かった。
水害の備え。
井戸の確認。
山道の安全。
収穫祈願。
非常食の保管。
子供と老人の所在確認。
どれも必要だった。
だから人は集まった。
藤原妹紅は広場の端で腕を組んでいた。
「ずいぶん集まったな」
「不安だからだ」
慧音は低く答えた。
「不安な時ほど、人は説明を求める」
「説明だけで済めばいいけどな」
妹紅の視線は、寄進箱と名簿用の長机を見ていた。
そこへ、東風谷早苗が舞台に上がった。
いつもの明るさはある。
だが、今日は少し硬い。
彼女も、この広場に集まった視線の重さを分かっているのだろう。
「皆さん、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
早苗は深く頭を下げた。
「守矢神社では、人里の皆さんが安心して暮らせるよう、新しく安心講を始めます」
ざわめきが少し収まる。
早苗は用意していた板書を示した。
そこには、分かりやすく項目が並んでいる。
**一、水害時の避難場所**
**二、井戸と水路の確認**
**三、山道の安全祈願**
**四、収穫祈願**
**五、非常時の連絡名簿**
**六、高齢者・子供の確認**
**七、非常食と物資の備え**
人々の顔が、少しだけ緩んだ。
「これはいいな」
「前の水の騒ぎの時、どこへ逃げればいいか分からなかったからね」
「山道も最近不安定だし」
「子供の居場所を把握してくれるなら助かる」
早苗はその反応を見て、少し安心したようだった。
「何かあった時、誰がどこにいるか分からなければ助けられません。お年寄りがいる家、小さなお子さんがいる家、井戸に近い家、川に近い家。そうした情報をあらかじめ共有しておけば、次の異変や災害の時に早く動けます」
嘘はない。
早苗の言葉には、きれいごとではない実務があった。
慧音はそれを認めた。
だからこそ、簡単には否定できない。
早苗は続けた。
「もちろん、守矢神社だけで全てを行うつもりはありません。人里の皆さん、寺子屋、火消しの方々とも協力したいと思っています」
妹紅が小声で言う。
「ここまではまともだな」
「ここまではな」
慧音は長机を見ていた。
早苗が舞台を降りると、守矢の神職代わりの妖怪たちが人々を机へ案内し始めた。
「こちらでお名前を」
「家族の人数もお願いします」
「ご老人やお子さんがいる場合は丸を」
「避難時に手助けが必要な方は、こちらへ」
人々は順番に名前を書いていく。
最初はよかった。
名前。
住まい。
家族の人数。
井戸からの距離。
川からの距離。
災害時に必要な情報だ。
だが、名簿の後半に入ると、空気が変わった。
**守矢神社への祈願希望**
**収穫祈願の有無**
**山道安全祈願の有無**
**寄進予定額**
**講への継続参加希望**
**家内安全札の希望枚数**
筆を持った男が、手を止めた。
「これは……全部書くのかい?」
受付の妖怪は丁寧に答えた。
「無理にとは申しません。ただ、祈願の準備や御札の数を把握するために必要ですので」
「寄進予定額も?」
「任意です」
任意。
その言葉が、広場に小さな影を落とした。
任意という言葉は便利だ。
強制ではない。
だが、空欄にすると目立つ。
隣の家が書いている。
向かいの家が書いている。
自分の家だけ空欄にする。
それは、強制よりも厄介な圧になる。
別の女が小声で言った。
「寄進しないと、非常時に後回しにされるのかね」
「まさか」
「でも、名前は残るだろう」
「守矢様がそんなことをするはずは」
「分からないじゃないか」
早苗はその声に気づき、すぐに机へ向かった。
「寄進と避難支援は関係ありません。寄進はあくまで任意です。災害時の支援は、寄進の有無で変えません」
声は真剣だった。
だが、人々の不安は完全には消えない。
慧音は前へ出た。
「早苗」
早苗が振り返る。
「慧音さん」
慧音は名簿を一枚手に取った。
「この名簿は、助けるためのものか。信じる者を数えるためのものか」
広場が静かになった。
早苗の顔がわずかに強張る。
「助けるためのものです」
「なら、寄進予定額と祈願希望は別の紙にすべきだ」
「それは……」
早苗は名簿を見た。
防災情報と祈願情報が、一枚の紙の上に並んでいる。
作った時は、便利だと思った。
一度に書いてもらえば、人々の負担が少ない。
御札の数も分かる。
必要な支援も分かる。
だが、慧音の目で見ると違って見える。
助けるための情報と、信仰を集めるための情報が、同じ欄にある。
「……分けます」
早苗は小さく言った。
しかし、その言葉を遮るように、広場の奥から力強い声が響いた。
「分けるだけで済む話ではないわ」
八坂神奈子だった。
いつの間にか舞台の上に立っていた。
堂々としている。
人々の視線を受けても揺れない。
神奈子は広場を見渡した。
「守矢神社は、人里を守るために動いている。水害を防ぎ、道を整え、収穫を祈り、非常時に支援する。そのためには、信仰がいる」
慧音が神奈子を見る。
「信仰と防災は同じではない」
「同じではない。だが、無関係でもない」
神奈子の声はよく通った。
「神の力は、信仰によって強くなる。信仰が集まれば、できることが増える。水路も守れる。山道も整えられる。田畑にも力を回せる。人里を守る力が増す」
人々の間に、またざわめきが広がる。
神奈子の言葉は分かりやすい。
信じれば守られる。
信仰が力になる。
力が暮らしを良くする。
不安を抱えた人里にとって、それは魅力的だった。
慧音は静かに言った。
「では、信じない者はどうなる」
神奈子はすぐに答えた。
「見捨てるとは言っていない」
「だが、信仰が力になると言えば、信じない者は力を出さない者になる」
早苗の表情が揺れる。
神奈子は少しだけ目を細めた。
「慧音。言葉尻を取るな」
「言葉尻ではない。人里では、そう受け取られる」
慧音は名簿を掲げた。
「ここに名前を書く者と書かない者。寄進を書く者と書かない者。祈願を希望する者としない者。その違いが、明日には噂になる」
神奈子は黙らない。
「だからこそ、はっきり言うべきだ。信仰は力だ。信仰を集めなければ、守る力も集まらない」
その言葉は、広場に重く落ちた。
早苗は神奈子を見る。
「神奈子様」
神奈子は早苗を見ずに続けた。
「現実に水は溢れる。道は崩れる。米は実らない年もある。祈るだけでは足りない。だが、祈りを力に変える仕組みがあれば、守れるものがある。守矢はそれをやる」
妹紅が小さく言った。
「正論だな」
慧音は答えた。
「だから厄介だ」
その時、広場の端から呑気な声がした。
「ずいぶん熱心ね」
博麗霊夢だった。
肩に御幣を担ぎ、面倒そうな顔で広場へ入ってくる。後ろには魔理沙もいる。
霊夢は名簿を一枚取り、ざっと見た。
「名前、家族、井戸、避難場所。ここまでは分かる」
次に下の欄を見る。
「祈願希望、寄進予定、御札の枚数」
霊夢は神奈子を見た。
「それ、人里の不安を信仰に換えてるだけじゃないの」
神奈子は笑わなかった。
「博麗の巫女に言われるとはね」
「私は不安を名簿にしてないわ」
「賽銭箱は置いている」
「賽銭箱は名簿を取らない」
魔理沙が横で笑いかけたが、空気を読んでやめた。
神奈子は霊夢へ向き直る。
「博麗神社は、幻想郷の調停者だ。だが、人里の井戸を直すのか? 水路を整えるのか? 非常食を集めるのか? 山道を見回るのか?」
霊夢は即答しない。
神奈子は続ける。
「守るには、仕組みがいる。人がいる。物資がいる。信仰がいる。気分で異変を解決するだけでは、人里の日々は守れない」
霊夢の目が冷える。
「言うじゃない」
早苗が慌てて割って入る。
「神奈子様、霊夢さん、これは対立するための講ではありません。人里のために」
「人里のためという言葉が、一番危ない」
慧音が言った。
全員が慧音を見る。
「人里のため。救うため。守るため。どれも正しい。だが、その言葉を使えば、人里の中へどこまでも入れてしまう」
神奈子が問い返す。
「ならば、入るなと?」
「入るなら、人里の側にも帳面を持たせろと言っている」
慧音は名簿を机へ戻した。
「防災名簿は人里と共有する。避難、井戸、子供、高齢者、危険箇所。これは必要だ。だが、寄進、祈願、信仰の有無は別紙にする。さらに、防災支援とは結びつけない」
早苗はすぐに頷いた。
「はい。そうします」
神奈子は早苗を見る。
「早苗」
「必要です」
早苗は、今度ははっきり言った。
「このままでは、皆さんが不安になります。私たちは安心してほしくて来たのに、名簿で不安にさせたら意味がありません」
神奈子は黙った。
早苗は続ける。
「信仰は必要です。でも、助けることと、信じてもらうことを同じ紙に書いたら、きっと怖がる人がいます」
広場の人々が、静かに早苗を見ていた。
早苗の声は少し震えていた。
だが、逃げなかった。
「私は、信じてほしかったんじゃありません。安心してほしかったんです」
その言葉に、神奈子は目を細めた。
怒りではない。
どこか、考えるような目だった。
諏訪子が舞台の端に腰かけていた。
今まで黙っていたが、そこでぽつりと言った。
「じゃあ、紙を分ければいいんじゃない?」
神奈子が諏訪子を見る。
「簡単に言うな」
「簡単なところから直さないと、面倒なところは直らないよ」
諏訪子は人々の方を見る。
「防災は防災。信仰は信仰。御札は御札。寄進は寄進。混ぜたら怖いなら、混ぜなきゃいい」
霊夢が少しだけ笑った。
「一番まともなこと言ったわね」
諏訪子はにこりと笑う。
「神様だからね」
神奈子は小さく息を吐いた。
「分かった」
早苗が顔を上げる。
神奈子は人々へ向き直った。
「安心講の名簿を分ける。防災に必要な名簿は人里と共有する。寄進や祈願の記録とは別に扱う。寄進の有無で非常時の支援を変えることはない」
ざわめきが広がる。
今度は、不安ではなく、少しだけ安堵に近いざわめきだった。
慧音は頷いた。
「その内容を、私の帳面にも記録する」
神奈子は慧音を見る。
「好きにしなさい」
「好き嫌いではない」
「分かっている」
霊夢は名簿を机に戻した。
「とりあえず今日はこれで収まったわね」
魔理沙が横で言う。
「とりあえず、な」
「何よ」
「命蓮寺が黙って見てると思うか?」
霊夢は広場の向こうを見た。
そこには、命蓮寺の案内札を手にした人里の者が何人か立っていた。
守矢の安心講に来たはずなのに、命蓮寺の札も持っている。
そのうちの一人が、小声で言った。
「防災は守矢でいいとして、供養は命蓮寺へ行くべきかね」
別の者が答える。
「でも、守矢に名簿を書いた後で命蓮寺に行ったら、どう思われるか」
早苗はその声を聞いて、表情を曇らせた。
慧音も聞いていた。
紙を分けても、人の心の線はすぐには消えない。
安心講は、人里に必要だった。
だが同時に、守矢へ行く者と行かない者を生んだ。
それが悪意でないことは、誰もが分かっている。
だから、余計に厄介だった。
*
夕方、広場の片づけが始まった。
防災名簿と信仰名簿は、別々の箱に分けられた。
片方には、
**防災・避難用**
もう片方には、
**祈願・寄進用**
と書かれている。
慧音はそれを確認し、自分の帳面に写しを取った。
早苗は疲れた顔で長机を片づけていた。
霊夢が近づく。
「大変ね、現人神」
「はい」
「やめたくなった?」
「いいえ」
早苗は首を振った。
「でも、少し怖くなりました」
「何が」
「助けたいと思って作ったものが、人を不安にさせることです」
霊夢は少しだけ黙った。
そして、面倒そうに言った。
「慣れなさい」
「慣れるんですか」
「慣れないとやってられないわよ。神様も巫女も、だいたい余計なお世話から始まるんだから」
早苗は苦笑した。
「霊夢さんらしいです」
「褒めてないでしょ」
「少しだけ、安心しました」
「そういう信仰はやめなさい」
早苗は小さく笑った。
だが、その目にはまだ迷いが残っている。
遠くで神奈子が人里の者と話している。
諏訪子は子供たちに囲まれ、蛙の話をしている。
守矢神社は、今日、人里へ深く入った。
防災のため。
水利のため。
収穫のため。
安心のため。
それは必要だった。
だが、必要なものほど、人の心に近づく。
慧音は帳面の最後にこう記した。
**守矢安心講、初日。
防災、避難、井戸、山道、収穫祈願を名目に人里へ入る。
名簿に防災情報と信仰・寄進情報が混在。
人里側より懸念。
早苗、分離を受け入れる。
神奈子、信仰の力を主張。
博麗、警戒。
命蓮寺救済会への関心、同時に高まる。**
筆を止めた時、広場には夕日が差していた。
寄進箱は空ではなかった。
防災名簿にも、多くの名が書かれていた。
人里の者たちは、少し安心した顔で帰っていく。
だが、その背中には、もう一つの迷いが残っていた。
明日は命蓮寺へ行くべきか。
守矢だけでよいのか。
命蓮寺にも顔を出すべきか。
どちらにも行くことは、節操がないのか。
どちらかを選ぶことは、もう片方を拒むことなのか。
妹紅が慧音の横に立った。
「今日は収まったな」
「今日はな」
「次は寺か」
「おそらく」
慧音は広場の端に残された命蓮寺の札を見た。
**救済会
供養・相談・悩みごと受付**
守矢の安心講は、生活を守る。
命蓮寺の救済会は、心を受け入れる。
人里には、どちらも必要だ。
だが、必要なものが二つある時、人はその間に立たされる。
夕暮れの風が、二枚の札を揺らした。
片方は守矢。
片方は命蓮寺。
人里の信仰心は、静かに線を引かれ始めていた。