東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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第一章 守矢安心講

 

 

 人里の広場に、白い幕が張られていた。

 

 柱には青い布が巻かれ、山の神紋が入った旗が風に揺れている。広場の中央には簡素な舞台。その横には長机が三つ並び、紙束と筆、墨壺、そして小さな木箱が置かれていた。

 

 木箱には、こう書かれている。

 

 **安心講 寄進箱**

 

 上白沢慧音は、その文字を見た瞬間、少しだけ眉を動かした。

 

 悪い言葉ではない。

 

 安心。

 講。

 寄進。

 

 どれも、単体なら人を助けるための言葉だ。

 

 だが三つ並ぶと、妙に重い。

 

 広場には、すでに人里の者たちが集まっていた。

 

 抗争が続いた後の人里は、何かに備えるという言葉に弱くなっている。水が濁った時、道が消えた時、死者の名前が証文にされた時、誰もが「次は何が起きるのか」と思った。

 

 その不安へ、守矢神社は早かった。

 

 水害の備え。

 井戸の確認。

 山道の安全。

 収穫祈願。

 非常食の保管。

 子供と老人の所在確認。

 

 どれも必要だった。

 

 だから人は集まった。

 

 藤原妹紅は広場の端で腕を組んでいた。

 

「ずいぶん集まったな」

 

「不安だからだ」

 

 慧音は低く答えた。

 

「不安な時ほど、人は説明を求める」

 

「説明だけで済めばいいけどな」

 

 妹紅の視線は、寄進箱と名簿用の長机を見ていた。

 

 そこへ、東風谷早苗が舞台に上がった。

 

 いつもの明るさはある。

 だが、今日は少し硬い。

 

 彼女も、この広場に集まった視線の重さを分かっているのだろう。

 

「皆さん、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」

 

 早苗は深く頭を下げた。

 

「守矢神社では、人里の皆さんが安心して暮らせるよう、新しく安心講を始めます」

 

 ざわめきが少し収まる。

 

 早苗は用意していた板書を示した。

 

 そこには、分かりやすく項目が並んでいる。

 

 **一、水害時の避難場所**

 **二、井戸と水路の確認**

 **三、山道の安全祈願**

 **四、収穫祈願**

 **五、非常時の連絡名簿**

 **六、高齢者・子供の確認**

 **七、非常食と物資の備え**

 

 人々の顔が、少しだけ緩んだ。

 

「これはいいな」

 

「前の水の騒ぎの時、どこへ逃げればいいか分からなかったからね」

 

「山道も最近不安定だし」

 

「子供の居場所を把握してくれるなら助かる」

 

 早苗はその反応を見て、少し安心したようだった。

 

「何かあった時、誰がどこにいるか分からなければ助けられません。お年寄りがいる家、小さなお子さんがいる家、井戸に近い家、川に近い家。そうした情報をあらかじめ共有しておけば、次の異変や災害の時に早く動けます」

 

 嘘はない。

 

 早苗の言葉には、きれいごとではない実務があった。

 

 慧音はそれを認めた。

 

 だからこそ、簡単には否定できない。

 

 早苗は続けた。

 

「もちろん、守矢神社だけで全てを行うつもりはありません。人里の皆さん、寺子屋、火消しの方々とも協力したいと思っています」

 

 妹紅が小声で言う。

 

「ここまではまともだな」

 

「ここまではな」

 

 慧音は長机を見ていた。

 

 早苗が舞台を降りると、守矢の神職代わりの妖怪たちが人々を机へ案内し始めた。

 

「こちらでお名前を」

 

「家族の人数もお願いします」

 

「ご老人やお子さんがいる場合は丸を」

 

「避難時に手助けが必要な方は、こちらへ」

 

 人々は順番に名前を書いていく。

 

 最初はよかった。

 

 名前。

 住まい。

 家族の人数。

 井戸からの距離。

 川からの距離。

 

 災害時に必要な情報だ。

 

 だが、名簿の後半に入ると、空気が変わった。

 

 **守矢神社への祈願希望**

 **収穫祈願の有無**

 **山道安全祈願の有無**

 **寄進予定額**

 **講への継続参加希望**

 **家内安全札の希望枚数**

 

 筆を持った男が、手を止めた。

 

「これは……全部書くのかい?」

 

 受付の妖怪は丁寧に答えた。

 

「無理にとは申しません。ただ、祈願の準備や御札の数を把握するために必要ですので」

 

「寄進予定額も?」

 

「任意です」

 

 任意。

 

 その言葉が、広場に小さな影を落とした。

 

 任意という言葉は便利だ。

 

 強制ではない。

 だが、空欄にすると目立つ。

 

 隣の家が書いている。

 向かいの家が書いている。

 自分の家だけ空欄にする。

 

 それは、強制よりも厄介な圧になる。

 

 別の女が小声で言った。

 

「寄進しないと、非常時に後回しにされるのかね」

 

「まさか」

 

「でも、名前は残るだろう」

 

「守矢様がそんなことをするはずは」

 

「分からないじゃないか」

 

 早苗はその声に気づき、すぐに机へ向かった。

 

「寄進と避難支援は関係ありません。寄進はあくまで任意です。災害時の支援は、寄進の有無で変えません」

 

 声は真剣だった。

 

 だが、人々の不安は完全には消えない。

 

 慧音は前へ出た。

 

「早苗」

 

 早苗が振り返る。

 

「慧音さん」

 

 慧音は名簿を一枚手に取った。

 

「この名簿は、助けるためのものか。信じる者を数えるためのものか」

 

 広場が静かになった。

 

 早苗の顔がわずかに強張る。

 

「助けるためのものです」

 

「なら、寄進予定額と祈願希望は別の紙にすべきだ」

 

「それは……」

 

 早苗は名簿を見た。

 

 防災情報と祈願情報が、一枚の紙の上に並んでいる。

 

 作った時は、便利だと思った。

 

 一度に書いてもらえば、人々の負担が少ない。

 御札の数も分かる。

 必要な支援も分かる。

 

 だが、慧音の目で見ると違って見える。

 

 助けるための情報と、信仰を集めるための情報が、同じ欄にある。

 

「……分けます」

 

 早苗は小さく言った。

 

 しかし、その言葉を遮るように、広場の奥から力強い声が響いた。

 

「分けるだけで済む話ではないわ」

 

 八坂神奈子だった。

 

 いつの間にか舞台の上に立っていた。

 

 堂々としている。

 人々の視線を受けても揺れない。

 

 神奈子は広場を見渡した。

 

「守矢神社は、人里を守るために動いている。水害を防ぎ、道を整え、収穫を祈り、非常時に支援する。そのためには、信仰がいる」

 

 慧音が神奈子を見る。

 

「信仰と防災は同じではない」

 

「同じではない。だが、無関係でもない」

 

 神奈子の声はよく通った。

 

「神の力は、信仰によって強くなる。信仰が集まれば、できることが増える。水路も守れる。山道も整えられる。田畑にも力を回せる。人里を守る力が増す」

 

 人々の間に、またざわめきが広がる。

 

 神奈子の言葉は分かりやすい。

 

 信じれば守られる。

 信仰が力になる。

 力が暮らしを良くする。

 

 不安を抱えた人里にとって、それは魅力的だった。

 

 慧音は静かに言った。

 

「では、信じない者はどうなる」

 

 神奈子はすぐに答えた。

 

「見捨てるとは言っていない」

 

「だが、信仰が力になると言えば、信じない者は力を出さない者になる」

 

 早苗の表情が揺れる。

 

 神奈子は少しだけ目を細めた。

 

「慧音。言葉尻を取るな」

 

「言葉尻ではない。人里では、そう受け取られる」

 

 慧音は名簿を掲げた。

 

「ここに名前を書く者と書かない者。寄進を書く者と書かない者。祈願を希望する者としない者。その違いが、明日には噂になる」

 

 神奈子は黙らない。

 

「だからこそ、はっきり言うべきだ。信仰は力だ。信仰を集めなければ、守る力も集まらない」

 

 その言葉は、広場に重く落ちた。

 

 早苗は神奈子を見る。

 

「神奈子様」

 

 神奈子は早苗を見ずに続けた。

 

「現実に水は溢れる。道は崩れる。米は実らない年もある。祈るだけでは足りない。だが、祈りを力に変える仕組みがあれば、守れるものがある。守矢はそれをやる」

 

 妹紅が小さく言った。

 

「正論だな」

 

 慧音は答えた。

 

「だから厄介だ」

 

 その時、広場の端から呑気な声がした。

 

「ずいぶん熱心ね」

 

 博麗霊夢だった。

 

 肩に御幣を担ぎ、面倒そうな顔で広場へ入ってくる。後ろには魔理沙もいる。

 

 霊夢は名簿を一枚取り、ざっと見た。

 

「名前、家族、井戸、避難場所。ここまでは分かる」

 

 次に下の欄を見る。

 

「祈願希望、寄進予定、御札の枚数」

 

 霊夢は神奈子を見た。

 

「それ、人里の不安を信仰に換えてるだけじゃないの」

 

 神奈子は笑わなかった。

 

「博麗の巫女に言われるとはね」

 

「私は不安を名簿にしてないわ」

 

「賽銭箱は置いている」

 

「賽銭箱は名簿を取らない」

 

 魔理沙が横で笑いかけたが、空気を読んでやめた。

 

 神奈子は霊夢へ向き直る。

 

「博麗神社は、幻想郷の調停者だ。だが、人里の井戸を直すのか? 水路を整えるのか? 非常食を集めるのか? 山道を見回るのか?」

 

 霊夢は即答しない。

 

 神奈子は続ける。

 

「守るには、仕組みがいる。人がいる。物資がいる。信仰がいる。気分で異変を解決するだけでは、人里の日々は守れない」

 

 霊夢の目が冷える。

 

「言うじゃない」

 

 早苗が慌てて割って入る。

 

「神奈子様、霊夢さん、これは対立するための講ではありません。人里のために」

 

「人里のためという言葉が、一番危ない」

 

 慧音が言った。

 

 全員が慧音を見る。

 

「人里のため。救うため。守るため。どれも正しい。だが、その言葉を使えば、人里の中へどこまでも入れてしまう」

 

 神奈子が問い返す。

 

「ならば、入るなと?」

 

「入るなら、人里の側にも帳面を持たせろと言っている」

 

 慧音は名簿を机へ戻した。

 

「防災名簿は人里と共有する。避難、井戸、子供、高齢者、危険箇所。これは必要だ。だが、寄進、祈願、信仰の有無は別紙にする。さらに、防災支援とは結びつけない」

 

 早苗はすぐに頷いた。

 

「はい。そうします」

 

 神奈子は早苗を見る。

 

「早苗」

 

「必要です」

 

 早苗は、今度ははっきり言った。

 

「このままでは、皆さんが不安になります。私たちは安心してほしくて来たのに、名簿で不安にさせたら意味がありません」

 

 神奈子は黙った。

 

 早苗は続ける。

 

「信仰は必要です。でも、助けることと、信じてもらうことを同じ紙に書いたら、きっと怖がる人がいます」

 

 広場の人々が、静かに早苗を見ていた。

 

 早苗の声は少し震えていた。

 だが、逃げなかった。

 

「私は、信じてほしかったんじゃありません。安心してほしかったんです」

 

 その言葉に、神奈子は目を細めた。

 

 怒りではない。

 

 どこか、考えるような目だった。

 

 諏訪子が舞台の端に腰かけていた。

 

 今まで黙っていたが、そこでぽつりと言った。

 

「じゃあ、紙を分ければいいんじゃない?」

 

 神奈子が諏訪子を見る。

 

「簡単に言うな」

 

「簡単なところから直さないと、面倒なところは直らないよ」

 

 諏訪子は人々の方を見る。

 

「防災は防災。信仰は信仰。御札は御札。寄進は寄進。混ぜたら怖いなら、混ぜなきゃいい」

 

 霊夢が少しだけ笑った。

 

「一番まともなこと言ったわね」

 

 諏訪子はにこりと笑う。

 

「神様だからね」

 

 神奈子は小さく息を吐いた。

 

「分かった」

 

 早苗が顔を上げる。

 

 神奈子は人々へ向き直った。

 

「安心講の名簿を分ける。防災に必要な名簿は人里と共有する。寄進や祈願の記録とは別に扱う。寄進の有無で非常時の支援を変えることはない」

 

 ざわめきが広がる。

 

 今度は、不安ではなく、少しだけ安堵に近いざわめきだった。

 

 慧音は頷いた。

 

「その内容を、私の帳面にも記録する」

 

 神奈子は慧音を見る。

 

「好きにしなさい」

 

「好き嫌いではない」

 

「分かっている」

 

 霊夢は名簿を机に戻した。

 

「とりあえず今日はこれで収まったわね」

 

 魔理沙が横で言う。

 

「とりあえず、な」

 

「何よ」

 

「命蓮寺が黙って見てると思うか?」

 

 霊夢は広場の向こうを見た。

 

 そこには、命蓮寺の案内札を手にした人里の者が何人か立っていた。

 

 守矢の安心講に来たはずなのに、命蓮寺の札も持っている。

 

 そのうちの一人が、小声で言った。

 

「防災は守矢でいいとして、供養は命蓮寺へ行くべきかね」

 

 別の者が答える。

 

「でも、守矢に名簿を書いた後で命蓮寺に行ったら、どう思われるか」

 

 早苗はその声を聞いて、表情を曇らせた。

 

 慧音も聞いていた。

 

 紙を分けても、人の心の線はすぐには消えない。

 

 安心講は、人里に必要だった。

 

 だが同時に、守矢へ行く者と行かない者を生んだ。

 

 それが悪意でないことは、誰もが分かっている。

 

 だから、余計に厄介だった。

 

   *

 

 夕方、広場の片づけが始まった。

 

 防災名簿と信仰名簿は、別々の箱に分けられた。

 

 片方には、

 

 **防災・避難用**

 

 もう片方には、

 

 **祈願・寄進用**

 

 と書かれている。

 

 慧音はそれを確認し、自分の帳面に写しを取った。

 

 早苗は疲れた顔で長机を片づけていた。

 

 霊夢が近づく。

 

「大変ね、現人神」

 

「はい」

 

「やめたくなった?」

 

「いいえ」

 

 早苗は首を振った。

 

「でも、少し怖くなりました」

 

「何が」

 

「助けたいと思って作ったものが、人を不安にさせることです」

 

 霊夢は少しだけ黙った。

 

 そして、面倒そうに言った。

 

「慣れなさい」

 

「慣れるんですか」

 

「慣れないとやってられないわよ。神様も巫女も、だいたい余計なお世話から始まるんだから」

 

 早苗は苦笑した。

 

「霊夢さんらしいです」

 

「褒めてないでしょ」

 

「少しだけ、安心しました」

 

「そういう信仰はやめなさい」

 

 早苗は小さく笑った。

 

 だが、その目にはまだ迷いが残っている。

 

 遠くで神奈子が人里の者と話している。

 諏訪子は子供たちに囲まれ、蛙の話をしている。

 

 守矢神社は、今日、人里へ深く入った。

 

 防災のため。

 水利のため。

 収穫のため。

 安心のため。

 

 それは必要だった。

 

 だが、必要なものほど、人の心に近づく。

 

 慧音は帳面の最後にこう記した。

 

 **守矢安心講、初日。

 防災、避難、井戸、山道、収穫祈願を名目に人里へ入る。

 名簿に防災情報と信仰・寄進情報が混在。

 人里側より懸念。

 早苗、分離を受け入れる。

 神奈子、信仰の力を主張。

 博麗、警戒。

 命蓮寺救済会への関心、同時に高まる。**

 

 筆を止めた時、広場には夕日が差していた。

 

 寄進箱は空ではなかった。

 

 防災名簿にも、多くの名が書かれていた。

 

 人里の者たちは、少し安心した顔で帰っていく。

 

 だが、その背中には、もう一つの迷いが残っていた。

 

 明日は命蓮寺へ行くべきか。

 

 守矢だけでよいのか。

 命蓮寺にも顔を出すべきか。

 どちらにも行くことは、節操がないのか。

 どちらかを選ぶことは、もう片方を拒むことなのか。

 

 妹紅が慧音の横に立った。

 

「今日は収まったな」

 

「今日はな」

 

「次は寺か」

 

「おそらく」

 

 慧音は広場の端に残された命蓮寺の札を見た。

 

 **救済会

 供養・相談・悩みごと受付**

 

 守矢の安心講は、生活を守る。

 

 命蓮寺の救済会は、心を受け入れる。

 

 人里には、どちらも必要だ。

 

 だが、必要なものが二つある時、人はその間に立たされる。

 

 夕暮れの風が、二枚の札を揺らした。

 

 片方は守矢。

 片方は命蓮寺。

 

 人里の信仰心は、静かに線を引かれ始めていた。

 

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