安寧祭は、もう一度開かれることになった。
最初の祭りは、祭りというより評定だった。
北に守矢。
南に命蓮寺。
中央に通り道。
人々は、どちらへ行くかを気にしながら歩いていた。
あの日の広場には、屋台の匂いよりも、互いの視線の方が濃かった。
誰が守矢へ行ったか。
誰が命蓮寺へ行ったか。
誰がどちらにも行かなかったか。
信仰は、目に見えないはずだった。
だが、足の向きだけは見えてしまう。
博麗信仰裁定の後、人里では数日かけて祭りのやり直しが決まった。
名目は、安寧祭の続き。
けれど、慧音の帳面にはこう記されていた。
**安寧祭、再開。
信仰裁定後の確認を兼ねる。**
それは、祭りであり、試しでもあった。
*
朝、人里の広場には、以前と同じように準備が始まっていた。
だが、配置は少し違う。
北側には、守矢神社の小さな舞台。
舞台の横には、大きな板書がある。
**防災名簿はこちら。**
**祈願・寄進の記録とは別です。**
**寄進の有無で非常時の支援は変わりません。**
早苗は、その文字を何度も確認していた。
以前のように大きな御利益札を前面に出すことはしない。
寄進箱もあるが、舞台の正面ではなく、横に置かれている。
目立たない場所。
それでも隠してはいない。
必要なものは必要だ。
しかし、それを信仰の圧にしてはならない。
早苗は、その線引きを何度も心の中で確認していた。
舞台の後ろでは、神奈子が腕を組んでいる。
「ずいぶん控えめになったな」
早苗は苦笑した。
「分かりやすくしただけです」
「昔なら、もっと堂々と御札を配っていた」
「今も配ります。ただし、防災説明の後に、希望する方だけです」
「信仰は、遠慮していては集まらない」
早苗は少しだけ黙った。
そして言った。
「遠慮ではありません。信じる余地を残すんです」
神奈子は目を細める。
「信じる余地、か」
「はい。押し込めば、信仰ではなくなります」
神奈子は答えなかった。
不満そうにも見える。
だが、拒んではいない。
諏訪子が舞台の端で笑っていた。
「早苗、言うようになったね」
「諏訪子様まで」
「いいことだよ。信仰って、押してばっかりだと逃げるし、引いてばっかりだと忘れられるし、面倒だね」
神奈子が少し眉を動かす。
「それを神が言うのか」
「神だから言うんだよ」
早苗は小さく笑った。
その笑いは、前より少し軽かった。
*
南側には、命蓮寺の灯籠が並べられている。
以前より数は少ない。
代わりに、一つ一つの間隔が広く取られていた。
灯籠の横には、白蓮が書いた案内がある。
**相談は本人の同意なく記録しません。**
**供養名は希望する場合のみ記載します。**
**寄進は相談・供養の条件ではありません。**
白蓮は、その前で手を合わせていた。
村紗が灯籠の数を数えながら言う。
「減らしたな」
「ええ」
「前は、来る者を全部受けるつもりだった」
「今も、拒むつもりはありません」
「でも、数は減らした」
白蓮は目を開けた。
「一度に受け止めすぎれば、こちらも相手も無理をします」
村紗は少しだけ驚いたように白蓮を見る。
「白蓮がそれを言うか」
「村紗に言われ続けましたから」
「私は、嫌われ役をやっただけだ」
「必要な役でした」
村紗は照れたように顔を背ける。
一輪が横で帳面を持っている。
「相談の順番は、希望者のみにします。名前を残したくない方は、印なしで対応します」
白蓮は頷いた。
「ありがとうございます」
村紗はぼそりと言った。
「寺に来た者を、寺のものみたいに扱うな、か」
白蓮は静かに返す。
「はい」
「難しいな」
「難しいです」
「でも、やるんだな」
「やります」
白蓮の声は柔らかい。
だが、揺れない。
村紗は灯籠に火を入れるための道具を整えた。
「なら、私は沈まないように見る」
「お願いします」
*
中央には、何も置かれていない。
ただ、少しだけ土が均されていた。
子供たちが走っても転ばないように。
老人が歩いても足を取られないように。
屋台へ行く者、守矢へ向かう者、命蓮寺へ向かう者、ただ通り過ぎる者。
その全員が使う場所。
中央は、やはり通り道だった。
ただし、中央の端には、小さな博麗の札が立っていた。
そこにはこう書かれている。
**通行自由。
信仰自由。
賽銭は自由。**
慧音はその札を見て、霊夢を睨んだ。
「霊夢」
「何」
「最後の一行」
「自由って書いてあるでしょ」
「結局、賽銭を入れさせる気だな」
「自由よ」
「自由という名の誘導だ」
霊夢は視線を逸らした。
魔理沙が横で笑う。
「守矢と命蓮寺に説教しておいて、自分はしっかり信仰を拾うんだな」
「博麗神社も食べていかないといけないの」
「神社は食べないぜ」
「私が食べるのよ」
慧音はため息をついた。
「皿を置いていないだけ、今回は見逃す」
「見逃される筋合いはないわ」
「なら撤去する」
「見逃して」
妹紅が笑った。
「博麗だけ妙に俗っぽいな」
霊夢は胸を張った。
「俗っぽい方が信用できるでしょ」
「時と場合による」
それでも、中央に賽銭箱はない。
小皿もない。
ただ札だけがある。
それで十分だった。
*
祭りが始まると、人々は前より自然に歩き始めた。
守矢の舞台へ向かう者がいる。
命蓮寺の灯籠へ向かう者がいる。
屋台だけを見て回る者もいる。
博麗の札を見て苦笑する者もいる。
以前と違うのは、誰かがどこへ行っても、すぐに目を伏せたりしないことだった。
もちろん、完全に何も気にしなくなったわけではない。
守矢へ向かう前に、命蓮寺側をちらりと見る者はいる。
命蓮寺の灯籠へ手を合わせた後、守矢の舞台へ行くことを少し迷う者もいる。
だが、行ける。
中央の通り道を通って。
それが大事だった。
早苗は舞台の上で説明を始めた。
「水害時の避難場所は、寺子屋と火消し詰所、そして北口の高台です。守矢神社へ直接避難する必要はありません。まず近くの安全な場所へ向かってください」
人々が頷く。
「防災名簿は、人里と共有します。信仰や寄進の記録とは別です。名簿に書くことを迷う方は、慧音さんか火消しの方へ相談してください」
慧音は広場の端でその言葉を聞いた。
早苗は続ける。
「収穫祈願や山道安全祈願を希望される方は、別の受付へどうぞ。希望されない方も、防災説明は聞いていただけます」
以前なら、守矢の話はもっと勢いがあった。
御利益。
信仰。
山の神の力。
今日は、それが少し抑えられている。
だが、その分、人々は安心して聞いているように見えた。
神奈子は舞台の後ろで黙って見ていた。
やがて、早苗が説明を終えると、神奈子が前に出た。
一瞬、人々の背筋が伸びる。
神奈子はいつものように堂々としている。
「人里の者たちよ」
声が広場に響く。
「守矢は、これからも人里の暮らしを守る。水も、道も、田畑も、備えがなければ守れない。信仰は力だ。その考えは変わらない」
早苗が少し緊張する。
神奈子は続けた。
「だが、力は脅しに使うものではない。守られたければ信じろ、などとは言わない。信じる者がいれば力になる。信じない者がいても、人里である限り守るべきものは守る」
人々の間に、静かなざわめきが起きた。
早苗は神奈子を見る。
神奈子は前を向いたままだった。
「祈りたい者は祈れ。備えたい者は備えよ。どちらも必要だ。守矢は、そのための場を用意する」
短い言葉だった。
だが、早苗にはそれだけで十分だった。
*
南側では、白蓮が灯籠の前に立った。
命蓮寺の前に集まった人々は、以前より少し落ち着いていた。
誰かに見られていることを気にする者はいる。
けれど、以前ほどではない。
白蓮は静かに語り始めた。
「ここに灯す灯は、亡き方のためであり、今を生きる方のためでもあります」
灯籠に火が入る。
小さな光が、風に揺れた。
「名前を書きたい方は書いてください。書けない方は、書かなくて構いません。相談したい方は、話してください。話せない方は、ただここにいても構いません」
白蓮は人々を見渡した。
「命蓮寺へ来たからといって、あなたが命蓮寺のものになるわけではありません。守矢へ祈った方も、博麗へ参った方も、どこにも祈れない方も、ここにいて構いません」
守矢の舞台から戻ってきた老人が、灯籠の前に立った。
少し戸惑っていたが、白蓮は何も問わなかった。
老人は手を合わせた。
それだけだった。
村紗はそれを見て、小さく息を吐いた。
「聞かないんだな」
一輪が答える。
「聞かないことも、受け入れることです」
「難しいな、本当に」
「ええ」
村紗は灯籠の火を見た。
「でも、まあ。悪くない」
白蓮は読経を始めた。
その声は、広場の北側までは届かない。
だが、中央の通り道を通る者たちの耳には、少しだけ届く。
守矢の説明と、命蓮寺の読経。
二つの声は混ざらない。
しかし、ぶつかりもしなかった。
*
昼頃、霊夢は中央の通り道に立っていた。
人々が行き交う。
守矢の御札を持つ者。
命蓮寺の灯籠へ向かう者。
屋台の団子を持つ子供。
何も持たず、ただ歩く者。
霊夢はそれを眺めて、ぼそりと言った。
「信仰って、案外そのくらいでいいんじゃないの」
隣にいた魔理沙が聞き返す。
「どのくらいだ」
「行きたい方へ行く。行きたくなければ行かない。両方行きたいなら両方行く。屋台だけでもいい」
「雑だな」
「雑なくらいがちょうどいいのよ。神も寺も、真面目にやりすぎると人を数え始める」
魔理沙は笑った。
「博麗は賽銭を数えるけどな」
「それは必要経費」
「便利な言葉だ」
霊夢は中央の通り道を見た。
そこに、子供たちが走ってきた。
一人は守矢の小さな御札を持っている。
一人は命蓮寺の紙花を持っている。
一人は団子だけを持っている。
「どこ行くの?」
霊夢が聞く。
子供たちは同時に答えた。
「屋台!」
霊夢は少しだけ笑った。
「それでいいのよ」
*
午後、広場の端で神奈子と白蓮が向かい合った。
以前のような口論ではない。
だが、完全な和解でもない。
互いに相手のやり方を、今でも危ういと思っている。
神奈子は言った。
「救いだけでは、人里は守れない」
白蓮は頷いた。
「御利益だけでは、人の心は救われません」
「その言葉、何度も聞いた」
「私も、神奈子さんの言葉を何度も聞きました」
「なら、結局どちらも要るということか」
「ええ」
白蓮は静かに答えた。
「ただし、どちらかが人の心を所有してはならない」
神奈子は人々の流れを見る。
守矢へ向かう者。
命蓮寺へ向かう者。
中央を通る者。
「信仰は力だ」
「はい」
「力が集まれば、使い道を決める者が必要になる」
「だからこそ、記録と説明が必要なのでしょう」
「寺の救済も同じだな」
「ええ。救済にも、説明と限界が必要です」
神奈子は少しだけ笑った。
「仏が限界を認めるとは」
「神も説明を受け入れました」
「お互い、らしくないことをしているな」
「らしくないことをしなければ、人里はまた割れます」
神奈子は黙った。
そして、短く言った。
「次の水害訓練には、命蓮寺も来るか」
白蓮は少し驚いた。
「よろしいのですか」
「救済会に来る者の中には、避難訓練へ行きづらい者もいるだろう。寺から声をかければ来るかもしれない」
白蓮は静かに微笑んだ。
「では、次の供養会には守矢も」
「神が供養に口を出す気はない」
「口を出さず、場にいるだけでも意味があります」
神奈子は少し嫌そうな顔をした。
「場にいるだけ、か」
「ええ」
「退屈そうだ」
「信仰には、退屈な時間も必要です」
神奈子は苦笑した。
「やはり寺は面倒だ」
「神社も十分に」
二人は互いに一礼した。
それは同盟ではない。
だが、次にぶつかる前に、話す余地ができた。
*
夕方になると、安寧祭の灯りが一つずつともされた。
守矢の舞台では、最後に山道安全の祈願が行われた。
命蓮寺の灯籠には、静かに火が揺れている。
博麗の札は、中央の端で風に揺れていた。
人々は広場を歩く。
誰もが完全に迷いをなくしたわけではない。
守矢へ行くことにまだ少し後ろめたさを覚える者もいる。
命蓮寺へ相談することを誰にも知られたくない者もいる。
どちらにも行けないまま、屋台の影で祭りを眺める者もいる。
それでも、中央の通り道は開いていた。
誰かがどちらへ行っても、戻ってこられる。
それが、今回の祭りで守られたものだった。
慧音は広場の隅で帳面を開いた。
書くべきことだけを書く。
書きすぎてはいけないことは、書かない。
**安寧祭、再開。
守矢神社、防災名簿と信仰記録を分離し、安心講を継続。
命蓮寺、相談記録と所属意識を分離し、救済会を継続。
博麗神社、人里中央の通り道を管理。
人里、信仰先による座席区分を設けず。
守矢と命蓮寺、互いの必要性を認めるも、信仰観の相違は残る。
信仰心は、神の所有物にあらず。
寺の所有物にもあらず。
人里の帳面にも、記録しすぎてはならず。**
慧音は筆を止めた。
妹紅が隣に立つ。
「終わったか」
「一応は」
「一応か」
「信仰は、終わらない」
「面倒だな」
「人が不安でいる限り、神も寺も必要になる」
「で、必要だから揉める」
「そうだ」
妹紅は広場を見た。
守矢の舞台から、早苗が子供に避難場所を教えている。
命蓮寺の灯籠の前で、白蓮が老人と静かに話している。
霊夢は中央で賽銭札を直そうとして、魔理沙にからかわれている。
妹紅は少しだけ笑った。
「悪くない祭りだ」
慧音も頷いた。
「不格好だがな」
「不格好なくらいが、人里らしい」
*
夜。
祭りが終わり、人々が家へ帰った後も、広場には少しだけ灯りが残っていた。
北側の舞台は片づけられた。
南側の灯籠は、最後の火が静かに揺れている。
中央の通り道には、誰もいない。
早苗は、守矢の荷をまとめていた。
そこへ白蓮が近づく。
「早苗さん」
「白蓮さん」
二人は、中央の通り道で向かい合った。
昼間と同じ場所。
だが、今は人々の視線はない。
早苗は言った。
「今日は、少しだけ安心してもらえたでしょうか」
「少しは」
白蓮は答えた。
「でも、少しでよいのだと思います」
「少しで?」
「一度で全部救おうとすれば、また抱え込みます」
早苗は頷いた。
「一度で全部守ろうとすれば、また囲い込みますね」
二人は少しだけ笑った。
早苗は空を見上げた。
「私は、守矢の信仰が人里を守る力になると信じています」
「私は、命蓮寺の救済が人の心を支えると信じています」
「それは、これからも変わりません」
「私もです」
二人は互いに見つめ合う。
敵ではない。
だが、同じではない。
同じでないから、またぶつかるかもしれない。
それでも、今日のように通り道を残せるなら、完全に分かれることはない。
早苗は深く頭を下げた。
「次の水害訓練、命蓮寺にも案内を出します」
白蓮も頭を下げた。
「次の供養会、守矢にも知らせます」
それは小さな約束だった。
だが、小さな約束ほど、次の日を支える。
*
博麗神社へ戻る道で、霊夢は大きく伸びをした。
「疲れた」
魔理沙が箒を担いで歩いている。
「今日は大して戦ってないだろ」
「戦わない方が疲れるのよ」
「正論ばっかりだったしな」
「そう。どっちも正しい。だから面倒」
魔理沙は笑った。
「でも、珍しくちゃんと裁いたな」
「珍しくって何よ」
「いつもなら、面倒だからまとめて吹っ飛ばすところだ」
「今回は吹っ飛ばす相手がいなかったのよ」
霊夢は少しだけ黙った。
そして言う。
「神も寺も、人里を助けようとしてた。それが一番面倒だった」
「悪党がいない抗争か」
「いるわよ」
「どこに」
霊夢は少し考えた。
「全員、少しずつ」
魔理沙は笑った。
「いつもの幻想郷だな」
「そうね」
*
寺子屋では、慧音が最後の記録を書いていた。
妹紅は縁側で眠そうにしている。
外は静かだ。
慧音は帳面の最後に、ゆっくりと筆を置いた。
**信仰抗争。
守矢神社は、安心講を通じて人里の生活防衛を進めた。
命蓮寺は、救済会を通じて人里の心の受け皿となった。
双方の善意は、人里の信仰心を分ける線となり、安寧祭をめぐって対立した。
博麗信仰裁定により、防災、寄進、相談、救済、供養の記録を分離。
守矢と命蓮寺は、互いの必要性を認めるも、信仰観の相違は残る。
人里は、信仰先による座席区分を設けず、中央を通り道として残す。
信仰心は、神の所有物にあらず。
また、寺の所有物にもあらず。**
そこで一度、筆を止める。
そして、最後にもう一文を加えた。
**人は、神に祈ってもいい。
寺にすがってもいい。
どちらも選ばなくてもいい。
信じる心だけは、最後までその者自身のものだった。**
慧音は帳面を閉じた。
その音で、妹紅が目を開ける。
「終わったか」
「終わった」
「今度こそ?」
「この帳面ではな」
妹紅は苦笑した。
「次は何で揉めるんだろうな」
「言うな」
「考えてる顔だぞ」
「教師は、先の火種を考えるものだ」
妹紅は立ち上がり、寺子屋の外を見た。
遠くの広場には、まだ灯籠の残り火が一つだけ見えた。
それは風に揺れて、やがて静かに消えた。
朝になれば、広場はただの広場に戻る。
子供が走り、商人が荷を置き、井戸へ向かう者が通る。
北には守矢へ向かう道がある。
南には命蓮寺へ向かう道がある。
そして中央には、誰のものでもない通り道が残る。
信仰は、人を支える。
時に、人を分ける。
だから、人は何度でも道を作り直さなければならない。
神へ向かう道。
寺へ向かう道。
どちらにも向かわず、家へ帰る道。
そのすべてが、人里の道だった。