東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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紅霧制裁抗争編 序章:紅い封印紙

 

 

 人里の問屋街に、朝霧が残っていた。

 

 荷車の車輪が湿った土を削り、商人たちが戸板を外す音が細く響く。井戸端では水桶が並び、火消しの詰所では若い衆が眠そうに縄を巻いていた。

 

 いつもの朝だった。

 

 少なくとも、問屋の主人がその荷を見つけるまでは。

 

 荷は、店の裏口に置かれていた。

 

 大きな木箱が二つ。

 細長い包みが三つ。

 そして、黒い布で覆われた小さな箱が一つ。

 

 どれも夜のうちに運び込まれたらしい。

 

 主人は最初、命蓮寺の荷かと思った。

 

 最近は救済物資や供養道具、寺の倉庫へ回す荷が多い。湖畔を通ってくる荷もあれば、山道を避けて人里へ直に入る荷もある。

 

 だが、木箱に貼られた封印紙を見た瞬間、主人の手は止まった。

 

 赤い紙。

 黒い縁取り。

 封蝋には、紅魔館を思わせる紋。

 

 荷札には、こう書かれていた。

 

 **紅魔館湖畔倉庫扱い**

 **夜間搬入済**

 **開封無用**

 

 主人の喉が鳴った。

 

 紅魔館。

 

 その名前は、人里では便利な言葉だった。

 

 恐れられている。

 けれど、距離さえ守れば関わらずに済む。

 霧の湖の向こうに立つ、赤い館。

 吸血鬼の主。

 完全な従者。

 眠る魔女。

 門番。

 そして、地下にいる妹君。

 

 人里の商人にとって、紅魔館は取引相手である前に、下手に触れてはいけない名前だった。

 

 主人は封印紙を見つめたまま、隣の若い番頭に言った。

 

「咲夜さんを呼べ」

 

 番頭の顔色が変わる。

 

「紅魔館へ、ですか」

 

「他に誰を呼ぶ」

 

「でも、もし本物の荷なら」

 

「本物なら、なおさら確認が要る」

 

 主人は唾を飲み込んだ。

 

「偽物なら、もっと要る」

 

   *

 

 十六夜咲夜が現れたのは、それからしばらくしてのことだった。

 

 誰が走ったのか、誰が紅魔館まで知らせに行ったのか、主人には分からない。

 

 ただ、気づいた時には、店の裏口に彼女が立っていた。

 

 銀色の髪。

 整った姿勢。

 無駄のない視線。

 

 朝の問屋街には似つかわしくないほど、静かな存在感だった。

 

「こちらです」

 

 主人は頭を下げ、木箱の前へ案内する。

 

 咲夜は荷を見た。

 

 最初に封印紙。

 次に封蝋。

 次に荷札の文字。

 それから木箱の釘、縄の結び目、箱に残った泥、車輪の跡。

 

 触れもしない。

 

 ただ見る。

 

 それだけで、主人は自分が何か大きな間違いの前に立っているような気分になった。

 

「開けましたか」

 

 咲夜が問う。

 

「いえ。紅魔館の封印がありましたので」

 

「賢明です」

 

 主人はほっとしかけた。

 

 だが、咲夜の次の言葉で、その安堵は消えた。

 

「これは紅魔館の荷ではありません」

 

 主人は目を見開いた。

 

「では、偽物で」

 

「偽物です」

 

 咲夜は封印紙の端を指で軽く持ち上げた。

 

「ただし、完全な素人ではありません。紙質、封蝋、荷札の書き方。紅魔館の荷をどこかで見た者の仕事です」

 

 主人は顔を青くした。

 

「私は何も」

 

「存じています。だから、まだここに立っていらっしゃる」

 

 咲夜の声は穏やかだった。

 

 しかし、意味は冷たい。

 

 主人は黙って頭を下げた。

 

 咲夜は小さなナイフを取り出し、封印紙を破らずに封蝋の端だけを削る。

 

 赤い蝋の表面が薄く剥がれた。

 

 その下に、わずかに黒い混ぜ物が見えた。

 

「安い蝋ですね」

 

 咲夜は淡々と言った。

 

「紅魔館の封蝋は、こんなに濁りません」

 

 次に荷札を見る。

 

 **紅魔館湖畔倉庫扱い**

 

 咲夜の目が少しだけ細くなった。

 

「湖畔倉庫」

 

 主人が小さく聞く。

 

「紅魔館には、そのような倉庫があるのですか」

 

「ありません」

 

「では、これは」

 

「存在しない倉庫の名です」

 

 咲夜は木箱の一つへ手をかけた。

 

「開けます」

 

「よろしいのですか」

 

「紅魔館の荷ではありませんから」

 

 封印紙をきれいに剥がし、釘を外す。

 

 箱の中には、布に包まれた魔道具らしきものが並んでいた。

 

 粗雑な魔力を帯びた金属片。

 古い硝子瓶。

 使い道の分からない銀の器具。

 そして、細長い包みの中には、魔導書の写しが入っていた。

 

 咲夜は一冊を手に取る。

 

 題名には、パチュリー・ノーレッジの蔵書を思わせる古い文字が使われている。

 

 だが、中を開いた瞬間、咲夜は静かに閉じた。

 

「小悪魔に見せるまでもありません」

 

 主人が恐る恐る聞く。

 

「危ないものですか」

 

「危ないほど上等ではありません」

 

 咲夜は本を木箱へ戻した。

 

「粗悪です。けれど、扱いを間違えれば火種にはなる」

 

 主人の背筋が冷えた。

 

 禁制品に近い魔道具。

 紅魔館名義の荷札。

 偽の封印紙。

 魔導書の写し。

 

 これが人里の問屋に置かれていた。

 

 もし開けていたら。

 もし誰かに売っていたら。

 もし紅魔館の名を信じて、そのまま流していたら。

 

 主人は額の汗を拭った。

 

「咲夜さん。これは一体、誰が」

 

「それをこれから調べます」

 

 咲夜は封印紙を折らずに保存紙へ挟んだ。

 

「この荷を運んだ者は」

 

「夜のうちです。番頭も見ておりません。ただ、裏の道に車輪跡が」

 

「湖畔側からですね」

 

「たぶん」

 

「たぶん、では困ります」

 

 主人は身を縮める。

 

 咲夜は振り返りもせずに言った。

 

「紅魔館の名前を使った荷が、人里に入った。あなた方が恐れたのは当然です。ですが、恐れたまま黙れば、次も同じことが起きます」

 

 主人は小さく頷いた。

 

「証言します」

 

「よろしい」

 

 咲夜は荷札の裏をめくった。

 

 そこに、小さな印があった。

 

 黒い羽根を霧で包んだような印。

 

 文字は薄い。

 

 だが読める。

 

 **夜霧会**

 

 咲夜はその名を、声には出さなかった。

 

 ただ、目だけが冷えた。

 

   *

 

 同じ頃、霧の湖の岸では、別の荷が止められていた。

 

 命蓮寺の船だった。

 

 村紗水蜜は、船縁に片足を乗せ、目の前の倉庫番を睨んでいる。

 

「もう一度言ってみろ」

 

 倉庫番は怯えながらも、紙を差し出した。

 

「この荷は、紅魔館側の確認が済むまで通せないと」

 

「誰が言った」

 

「紅魔館湖畔倉庫の」

 

「そんな倉庫、聞いたことない」

 

「ですが、封印紙が」

 

 倉庫番が掲げた紙には、赤い封印が押されていた。

 

 村紗の目が鋭くなる。

 

「紅魔館が、うちの荷を止めるって?」

 

 船には、命蓮寺の救済物資が積まれていた。

 

 布。

 米。

 供養用の紙。

 薬の補助品。

 人里へ回す予定の品。

 

 それが、紅魔館の名で止められている。

 

 村紗は低く笑った。

 

「いい度胸じゃないか」

 

 白蓮が後ろから声をかける。

 

「村紗」

 

「白蓮。これは黙ってられない」

 

「分かっています。ですが、まず確認を」

 

「確認? 紅魔館の紙が貼ってある」

 

「本物かどうか分かりません」

 

 村紗は舌打ちした。

 

「紅魔館ならやりかねないだろ。湖畔を自分の庭だと思ってる連中だ」

 

「だからこそ、確認が必要です」

 

 白蓮は封印紙を見る。

 

 赤い紙。

 黒い縁取り。

 紅魔館らしい印。

 

 だが、白蓮の表情は曇った。

 

「妙ですね」

 

「何が」

 

「咲夜さんなら、こんな雑な止め方はしないでしょう」

 

 村紗は少し黙った。

 

 それは確かに、そうだった。

 

 十六夜咲夜なら、もっと静かに、もっと正確に、もっと逃げ道のない形で止める。

 

 こんな半端な倉庫番を使って、紙一枚で止めるような真似をするだろうか。

 

 村紗は舌打ちした。

 

「だったら誰だ」

 

 白蓮は封印紙の端にある小さな印を見る。

 

 黒い羽根と霧。

 

「誰かが、紅魔館の名を使っています」

 

 村紗の目がさらに険しくなる。

 

「それはそれで腹が立つな」

 

「ええ」

 

 白蓮は静かに言った。

 

「救済を妨げる者は、命蓮寺も見過ごせません」

 

   *

 

 紅魔館の大広間は、昼でも薄暗かった。

 

 赤い絨毯。

 高い天井。

 重いカーテン。

 磨かれた銀器。

 壁にかかる古い絵。

 

 いつもと変わらない優雅な空間。

 

 だが、その日は空気が違っていた。

 

 咲夜が持ち帰った偽封印紙と荷札が、長い机の上に並べられている。

 

 横には、問屋から回収した魔道具の一部と、魔導書の粗悪な写し。

 

 パチュリー・ノーレッジは椅子に深く座り、写本を開いていた。

 

 一頁。

 二頁。

 三頁。

 

 読み進めるほどに、顔から感情が消えていく。

 

 小悪魔が少し怯えたように立っている。

 

「パチュリー様」

 

「ひどいわね」

 

 パチュリーは本を閉じた。

 

「内容がですか」

 

「紙も墨も構成も魔力の扱いも、全部」

 

 小悪魔は何も言えない。

 

 パチュリーは写本を机に置く。

 

「私の蔵書の名を使うなら、せめて読めるものを作りなさい」

 

 声は静かだった。

 

 だが、小悪魔は分かった。

 

 これは怒っている。

 

 かなり怒っている。

 

 紅美鈴は机の端で封印紙を見ていた。

 

「これ、ぱっと見だと本物っぽいですね」

 

 咲夜は答える。

 

「遠目には、ね」

 

「近くで見ると?」

 

「三流です」

 

「三流」

 

「紅魔館の印は、飾りではありません」

 

 咲夜は封蝋を小瓶に入れた。

 

「紙質は外部のもの。蝋は安物。印の角度が違う。文字の間隔も違う。けれど、過去の紅魔館の荷札を見た者でなければ、この形にはできません」

 

 美鈴の表情が真面目になる。

 

「内部から?」

 

「まだ分かりません」

 

「うちの妖精メイドが?」

 

 咲夜は一瞬だけ美鈴を見る。

 

「可能性は全て洗います」

 

 美鈴は背筋を伸ばした。

 

「門の外も見ます」

 

「お願いします。湖畔倉庫という存在しない名を使っている以上、湖の周辺に拠点があります」

 

 パチュリーが写本の紙片を指で押さえる。

 

「魔導書の紙は無縁塚由来の古紙が混ざっている。墨は河童製の簡易複写機に使われるものに近い。魔力は薄いけれど、湖畔の湿気を含んでいる」

 

 美鈴が困った顔をする。

 

「つまり?」

 

 パチュリーは短く言った。

 

「湖畔で作っている。少なくとも、保管はしている」

 

 咲夜は頷いた。

 

「夜霧会」

 

 その名を口にした瞬間、大広間の空気がさらに冷えた。

 

 美鈴が聞く。

 

「知っているんですか」

 

「名前だけは」

 

 咲夜は机に置いた荷札を見た。

 

「霧の湖周辺で夜間の荷運びをしている商人たち。紅魔館と取引があるように見せていましたが、正式な出入り記録はありません」

 

「じゃあ、勝手にうちの名前を」

 

「ええ」

 

 咲夜の声は淡々としている。

 

「紅魔館の恐怖を、勝手に商売へ使った」

 

   *

 

 大広間の奥、レミリア・スカーレットは椅子に座っていた。

 

 背もたれに体を預け、片手で紅茶のカップを持っている。

 

 表情は穏やかだった。

 

 怒鳴らない。

 慌てない。

 机を叩くこともない。

 

 ただ、目だけが笑っていなかった。

 

 咲夜は一歩前に出る。

 

「お嬢様。人里の問屋に、紅魔館名義の偽荷が入りました。命蓮寺の荷も同じ封印紙で止められています。湖畔に存在しない紅魔館倉庫の名が使われています」

 

 レミリアは紅茶を一口飲んだ。

 

「命蓮寺は?」

 

「紅魔館の関与を疑っています。ただし白蓮は偽装の可能性も見ています」

 

「村紗は怒っているでしょうね」

 

「ええ。沈める気配でした」

 

 レミリアは少しだけ笑った。

 

「元気で結構」

 

 咲夜は続ける。

 

「魔導書の偽写本も出回っています。パチュリー様の蔵書を装ったものです」

 

 レミリアはパチュリーを見る。

 

「それで、パチェ。どう?」

 

「不愉快」

 

 パチュリーは一言で答えた。

 

「偽物としても出来が悪い。出来の悪い偽物ほど迷惑なものはないわ」

 

「なるほど」

 

 レミリアはカップを置いた。

 

 その音は小さい。

 

 しかし、大広間にいる全員が聞いた。

 

「美鈴」

 

「はい」

 

「門の外を見なさい。湖畔にある紅魔館名義の倉庫、看板、噂、全部拾って」

 

「はい」

 

「パチェ」

 

「紙と墨と魔力の跡を追うわ」

 

「小悪魔」

 

「は、はい」

 

「蔵書目録と過去の廃棄紙の記録を出して。妖精メイドにも手伝わせなさい」

 

「かしこまりました」

 

「咲夜」

 

 咲夜は姿勢を正す。

 

「はい」

 

「紅魔館の正式荷札、封蝋、倉庫記録、取引記録、全部照合。命蓮寺と人里にも証拠を見せなさい。紅魔館がやったのではないと、言葉ではなく紙で分からせるの」

 

「承知しました」

 

 レミリアは立ち上がった。

 

 その瞬間、大広間の空気が変わる。

 

 紅い館の主が、ようやく動いた。

 

「紅魔館は恐れられて構わない」

 

 レミリアは静かに言った。

 

「けれど、紅魔館でない者がその恐怖を売ることは許さない」

 

 咲夜は深く頭を下げる。

 

 美鈴も、パチュリーも、小悪魔も、それぞれに動き出す準備をする。

 

 レミリアは窓の外、霧の湖の方角を見た。

 

「私の名前で商売をしたのね」

 

 声は穏やかだった。

 

 だが、その場にいた誰もが理解した。

 

 これは、裁定ではない。

 

 交渉でもない。

 

 紅魔館の制裁が始まる。

 

 レミリアは最後に、一言だけ命じた。

 

「潰しなさい」

 

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