東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

4 / 19
第四章 八雲の再開発

 

 朝になっても、人里の空気は晴れなかった。

 

 煙は消えた。

 薬の匂いも薄れた。

 守矢の幟も、いくつかは人々の手で外された。

 

 だが、残ったものがある。

 

 疑いだ。

 

 誰が何を知っていたのか。

 誰がどこまで関わっていたのか。

 誰が得をしたのか。

 そして、誰が最初から人里を盤面に乗せていたのか。

 

 寺子屋の座敷には、朝から紙が広げられていた。

 

 博麗の帳面。

 守矢の名簿。

 永遠亭の薬の控え。

 古い倉庫街の区画図。

 そして、阿求が持ち込んだ人里の古地図。

 

 稗田阿求は、いつもより血色の悪い顔で座っていた。

 隣には本居小鈴がいる。小鈴は古びた帳面を抱えており、緊張した顔で何度も表紙を撫でていた。

 

「この地図、やっぱりおかしいです」

 

 阿求が言った。

 

 慧音は地図を覗き込む。

 

 古い人里の地図。

 寺子屋、問屋、火消しの詰所、蔵、井戸、祠、古い道。

 今は使われていない小道や、消えた水路まで記されている。

 

 阿求は指で寺子屋の周辺をなぞった。

 

「ここ一帯は、昔から人里の中心ではありませんでした。むしろ外れです。ですが、何度も火事や移転を経て、結果的に寺子屋の周りに人が集まるようになった」

 

「人が集まったから、道ができた」

 

 慧音が言う。

 

「はい。そして道ができたから、商いが生まれた。商いが生まれたから、問屋ができた。問屋ができたから、火消しが置かれた」

 

 小鈴が帳面を開いた。

 

「これ、貸本屋に紛れていた古い土地台帳です。うちの蔵にずっとあったみたいで……たぶん祖父の代から」

 

 妹紅が腕を組んだまま言った。

 

「また都合よく出てきたな」

 

「私だって怖いですよ。でも、見つけちゃったんです」

 

 小鈴は頬を膨らませかけたが、すぐに真面目な顔へ戻った。

 

「この台帳だと、今の寺子屋周辺の土地は、昔は持ち主が曖昧だったみたいです。人里の共有地、火除け地、避難場所、そういう扱いが混ざってます」

 

 慧音は目を細めた。

 

「だから動かしやすい」

 

 阿求が頷いた。

 

「ええ。個人の土地なら揉めます。でも共有地なら、名目さえあれば整理できる。火事、老朽化、道の拡張、結界修繕。理由はいくらでも作れます」

 

 妹紅は区画図を叩いた。

 

「それで寺子屋を囲んだのか」

 

「寺子屋が邪魔なんだ」

 

 慧音が静かに言った。

 

 座敷が沈黙した。

 

 寺子屋はただの建物ではない。

 子供たちが集まる場所。

 人里の親たちが出入りする場所。

 噂が集まり、記録が残り、誰が何をしたのかを覚えている場所。

 

 土地を動かすなら、まず記憶を動かさなければならない。

 

 慧音がいる限り、簡単にはいかない。

 

 妹紅は低く言った。

 

「やっぱり慧音を狙ってるな」

 

「私だけではない」

 

 慧音は地図を見つめた。

 

「寺子屋が残れば、昔の道も、昔の約束も、昔の暮らしも残る。だから壊したい者がいる」

 

 その時、寺子屋の外で足音がした。

 

 戸が開く。

 

 入ってきたのは霧雨魔理沙だった。

 いつものように軽い顔をしていたが、帽子には土埃がついている。

 

「よう。面白いものを拾ってきたぜ」

 

 妹紅が眉をひそめる。

 

「お前の拾ったものは、だいたい面倒だ」

 

「今回は特に面倒だ」

 

 魔理沙はそう言って、丸めた紙を広げた。

 

 そこには大きな題が書かれていた。

 

 ――幻想郷境界補修ならびに人里東部再整備案。

 

 慧音の顔が変わった。

 

「どこで手に入れた」

 

「妖怪の山の河童の作業場。いや、正確には作業場の横の、誰も見てない木箱の中」

 

「盗んだんだな」

 

「拾ったって言ってるだろ」

 

 魔理沙は平然と答えた。

 

 妹紅は紙を覗き込んだ。

 

 内容は細かかった。

 

 結界の傷み。

 古い道の封鎖。

 倉庫街の撤去。

 新しい物流路の設置。

 守矢神社による信仰拠点の整備。

 命蓮寺の荷運び網の再配置。

 博麗神社への管理協力費。

 永遠亭による仮設診療所の設置。

 

 そして、寺子屋周辺の一時移転。

 

 妹紅の手が紙を握り潰しかけた。

 

「一時移転?」

 

 慧音は魔理沙を見た。

 

「これは八雲の文書か」

 

「名前は書いてない。でも、境界補修なんて言葉を使う奴は限られてる」

 

 阿求が小さく呟いた。

 

「八雲紫……」

 

 その名が出るだけで、部屋の空気が冷える。

 

 小鈴は不安げに帳面を抱きしめた。

 

「でも、結界が傷んでいるのは本当なんですか?」

 

 慧音は答えなかった。

 

 魔理沙が代わりに言った。

 

「本当らしい。山の河童が測ってた。人里の東、古い倉庫街の裏手。境界が薄くなってるってさ」

 

「なら、補修は必要なのか」

 

 妹紅が言う。

 

「必要だろうな」

 

 慧音は認めた。

 

「だが、必要なことと、誰かの生活を勝手に動かすことは別だ」

 

 魔理沙は紙の端を指した。

 

「問題はここだ」

 

 そこには、小さくこう書かれていた。

 

 ――移転に伴う反発については、火災・薬害・信仰対立を口実に、治安上の必要性を示す。

 

 座敷の空気が凍った。

 

 火災。

 薬害。

 信仰対立。

 

 すべて、すでに起きている。

 

 妹紅は静かに立ち上がった。

 

「八雲に会う」

 

 慧音も立った。

 

「私も行く」

 

「お前は寺子屋に残れ」

 

「残ったところで狙われるなら同じだ」

 

「だからだ」

 

 妹紅の声が荒くなる。

 

「お前が出ていけば、寺子屋が空になる」

 

「阿求と小鈴に写しを預ける。火消しにも伝える。寺子屋には人を置く」

 

「それでも」

 

「妹紅」

 

 慧音はまっすぐ妹紅を見た。

 

「これは私の仕事だ。歴史を動かそうとしている者に、記録する者が会わないわけにはいかない」

 

 妹紅は黙った。

 

 止めても無駄だ。

 

 それは、何度も分かっているはずだった。

 

 魔理沙が帽子を直した。

 

「私も行くぜ」

 

「何でだ」

 

「面白いから」

 

「帰れ」

 

「あと、霊夢に頼まれた」

 

 妹紅と慧音が同時に魔理沙を見る。

 

 魔理沙は肩をすくめた。

 

「『あいつらが八雲に喧嘩売りに行くなら、帰り道くらい見てきなさい』だとさ」

 

「霊夢は来ないのか」

 

 妹紅が言うと、魔理沙は苦笑した。

 

「博麗は中立なんだと」

 

「便利な中立だな」

 

「本人もそう思ってるだろうよ」

 

 三人は寺子屋を出た。

 

 行き先は、人里東部の古い倉庫街。

 

 そこがすべての線の交わる場所だった。

 

 倉庫街は、前に来た時よりもさらに静かだった。

 

 昼間だというのに、人の気配が薄い。

 戸には板が打たれ、古い蔵には白い印がつけられていた。取り壊し予定の印に見える。

 

 だが、誰がつけたのかは分からない。

 

 奥へ進むと、広い空き地に出た。

 

 そこには河童たちがいた。測量器具を持ち、地面に杭を打ち、何かを計っている。横には天狗らしき者が記録を取っていた。

 

 その中心に、八雲藍が立っていた。

 

 藍は三人を見ると、静かに頭を下げた。

 

「お待ちしていました」

 

 妹紅は鼻を鳴らした。

 

「待ってたなら話が早い。紫を出せ」

 

「紫様はまだお越しになりません」

 

「逃げたか」

 

「必要な時に現れます」

 

「それを逃げたって言うんだよ」

 

 慧音が一歩前に出る。

 

「藍。これはどういうことだ」

 

 藍は答える前に、河童たちへ作業を止めるよう合図した。

 

「結界の補修です。人里東部の境界が不安定になっています。このまま放置すれば、外の澱みが流れ込む可能性がある」

 

「だから寺子屋を移すのか」

 

「一時的に、です」

 

「そのために火事を起こし、守矢を疑わせ、永遠亭の薬を流したのか」

 

 藍の目がわずかに細くなった。

 

「それは八雲の指示ではありません」

 

「信じろと?」

 

 妹紅が低く言う。

 

「信じなくても構いません。事実として、八雲の目的は結界の維持です」

 

「維持のためなら、人里を揺さぶってもいいのか」

 

 慧音の声は低かった。

 

 藍はしばらく黙っていた。

 

「幻想郷全体を守るために、一部を動かすことはあります」

 

 妹紅が踏み込んだ。

 

「人間を荷物みたいに言うな」

 

「荷物とは言っていません」

 

「同じだ」

 

 空気が熱を持つ。

 

 魔理沙が横で小さく言った。

 

「おい、燃やすなよ。河童の道具に火がついたら面倒だ」

 

「黙ってろ」

 

 慧音は藍を見つめた。

 

「火災、薬害、信仰対立を口実に使うという文書がある」

 

 魔理沙が紙を見せる。

 

 藍はそれを受け取り、目を通した。

 

 そして、初めて明確に表情を変えた。

 

「これは……」

 

「八雲のものではないと?」

 

「形式は似ています。ですが、私の知らない記述がある」

 

「便利だな。知らないと言えば済む」

 

 妹紅が言う。

 

 藍は静かに紙を折りたたんだ。

 

「済みません。ですが、本当に知らない」

 

 慧音はその顔を見て、少しだけ眉を動かした。

 

 藍は嘘をついていない。

 少なくとも、この文書のすべてを知っていた顔ではなかった。

 

 ならば、誰が書き足したのか。

 

 八雲の計画を利用している者がいる。

 あるいは、八雲の内側に入り込んだ者がいる。

 

 その時、空き地の向こうに隙間が開いた。

 

 紫色の闇。

 無数の目。

 その奥から、八雲紫が現れた。

 

 扇で口元を隠し、いつものように笑っている。

 

「随分にぎやかね」

 

 妹紅は即座に睨んだ。

 

「ようやく出てきたか」

 

「呼ばれたから来ただけよ」

 

「最初から見てただろ」

 

「見守っていたの」

 

「趣味が悪い」

 

「よく言われるわ」

 

 紫は空き地を見渡した。

 

 河童たちは作業を止め、天狗も筆を下ろしている。藍は無言で文書を差し出した。

 

 紫はそれを読み、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「なるほど。私の文書に、余計なものが混ざっているわね」

 

 慧音が言った。

 

「どこまでが本物だ」

 

「結界補修。倉庫街の整理。古い道の封鎖。そこまでは本物」

 

「寺子屋の移転は」

 

「検討はしたわ」

 

 妹紅の体が熱くなる。

 

 慧音が腕で制した。

 

「なぜだ」

 

 紫は扇を閉じた。

 

「寺子屋の下に、古い境界が通っているからよ」

 

 その場が静まり返った。

 

 慧音は聞き返した。

 

「寺子屋の下?」

 

「ええ。今の寺子屋が建つ前、そこは人里の外れだった。人間と妖怪の行き来を分ける、古い境目のひとつ。今は人が増え、道が変わり、記憶が上書きされて見えにくくなっているけれど」

 

 阿求の地図と繋がる。

 

 昔は外れ。

 火除け地。

 避難場所。

 曖昧な土地。

 

 そこに寺子屋が建ち、人が集まり、人里の中心になった。

 

 慧音はゆっくりと言った。

 

「だから動かしたいのか」

 

「境界を補修するには、土地を少し空ける必要がある」

 

「そのために、人々の記憶まで動かすのか」

 

 紫は答えなかった。

 

 妹紅が言った。

 

「寺子屋は動かさない」

 

「あなたが決めることではないわ」

 

「いいや、決める」

 

 妹紅の周りに熱が立つ。

 

「寺子屋に手を出すなら、八雲でも関係ない」

 

 紫は妹紅を見て、少しだけ笑った。

 

「不死身は強気ね」

 

「不死身だからじゃない」

 

 妹紅は低く言った。

 

「守るものがあるからだ」

 

 紫の笑みが、わずかに薄くなった。

 

 慧音が前に出る。

 

「八雲紫。結界補修が必要なら、正面から説明しろ。人里に話せ。寺子屋の下に何があるのか、なぜ補修が必要なのか、何を移し、何を残すのか」

 

「人里が納得すると?」

 

「しないかもしれない」

 

「なら?」

 

「納得しない者を、記録に残す」

 

 紫は黙った。

 

 慧音の声は震えていなかった。

 

「火事で追い出される者。薬で黙らされる者。信仰で分断される者。再開発という言葉で、生活を失う者。その名を残す」

 

「残せば救えるの?」

 

「救えないこともある」

 

「では意味がないわ」

 

「意味はある」

 

 慧音は紫を見据えた。

 

「なかったことにはさせない」

 

 風が吹いた。

 

 竹ではなく、倉庫街の古い板壁が鳴る。

 遠くで烏が鳴いた。

 

 紫はゆっくりと扇を開いた。

 

「人間は不便ね。忘れた方が楽なことまで抱え込む」

 

「妖怪は便利だな。忘れさせれば済むと思っている」

 

 妹紅が言う。

 

 紫は楽しそうに目を細めた。

 

「あなたは人間なのかしら」

 

「少なくとも、お前よりは人間の側にいる」

 

「そう」

 

 紫が指を鳴らした。

 

 空き地の奥の蔵の戸が開いた。

 

 中には大量の木箱が積まれていた。

 封印紙、荷札、測量図、名簿、古い証文。

 その中には、守矢の札、永遠亭の包み紙、命蓮寺の荷札、紅魔館の封蝋、白玉楼の紋に似たものまであった。

 

 魔理沙が口笛を吹く。

 

「証拠市だな」

 

 藍が顔をしかめた。

 

「紫様、これは」

 

「私も今、見つけたことにするわ」

 

 妹紅が紫を睨む。

 

「ふざけるな」

 

「ふざけていないわ。これは、誰かがここに集めたもの。八雲の計画を隠れ蓑にして、各勢力を巻き込むために」

 

 慧音は木箱へ近づいた。

 

 証文の一枚を取る。

 そこには、白玉楼の名で貸し付けられた金の控えがあった。人里の問屋、火消し、荷運び、何人もの名前が記されている。

 

 別の箱には、紅魔館の酒樽の封印。

 さらに別の箱には、命蓮寺の航路図。

 そこには、薬材を運ぶ経路が書かれていた。

 

 すべてが繋がっている。

 

 慧音は低く言った。

 

「これは、抗争を起こすための道具だ」

 

「ええ」

 

 紫は頷いた。

 

「各勢力に少しずつ疑いを配る。誰も完全に無関係ではいられない。だから誰も強く否定できない」

 

「全員に後ろ暗いことがあるからか」

 

 妹紅が言う。

 

「そういうこと」

 

 紫の声は涼しかった。

 

 慧音は紫を見る。

 

「八雲は被害者だと言うつもりか」

 

「いいえ」

 

 紫はあっさり言った。

 

「私たちは盤面を作った。その盤面を、誰かが使った。だから無関係とは言えない」

 

「誰だ」

 

 紫は答えなかった。

 

 代わりに、空き地の地面を扇で指した。

 

「この下に、古い境界の継ぎ目がある。幻想郷の内と外、人里と妖怪、記憶と忘却。その重なりが弱くなっている」

 

「それを直すために、寺子屋をどかす」

 

「本来はね」

 

「今は違うのか」

 

「今、寺子屋を動かせば、仕掛けた者の思う壺よ。人里は割れる。守矢は疑われる。永遠亭は信用を失う。博麗は調停料を取る。命蓮寺は物流を握り直す。紅魔館は禁制品の流れを押さえる。白玉楼は借金を回収する」

 

 妹紅は吐き捨てた。

 

「全員得するじゃないか」

 

「全員が得をするように見える時は、たいてい誰かが一番得をするようにできている」

 

 紫の言葉に、慧音は目を伏せた。

 

 一番得をする者。

 

 それは誰か。

 八雲か。

 守矢か。

 博麗か。

 それとも、まだ表に出ていない勢力か。

 

 その時、蔵の奥で小さな音がした。

 

 妹紅が振り返る。

 

「誰だ」

 

 影が動いた。

 

 若い男だった。

 人里の荷運びに混じっていた者の一人。守矢の名簿を書き換えた男とは違う。だが顔つきが似ている。使い捨ての駒の顔だ。

 

 男は逃げようとした。

 

 妹紅が踏み込む。

 だが、その前に地面に黒い煙が走った。

 

 男の足元に隙間が開く。

 

 紫のものではない。

 もっと粗く、汚れた裂け目だった。

 

 紫の表情が変わる。

 

「まずい」

 

 藍が動いた。

 魔理沙が箒を構える。

 妹紅が手を伸ばす。

 

 だが男は裂け目に飲まれた。

 

 完全に消える直前、男は一枚の紙を落とした。

 

 慧音が拾う。

 

 そこには短い文が書かれていた。

 

 ――人里東部、今夜。

 火消し、問屋、守矢信徒、紅魔館関係者、命蓮寺荷役、白玉楼債務者。

 全員集めよ。

 博麗が動く前に始末する。

 

 妹紅の顔から血の気が引いた。

 

「今夜だと?」

 

 慧音は紙を握りしめた。

 

「人里を一気に割るつもりだ」

 

 紫は空を見上げた。

 

「思ったより早いわね」

 

「お前が言うな」

 

 妹紅が怒鳴る。

 

「最初に盤面を作ったのはお前だろうが!」

 

 紫は反論しなかった。

 

 ただ静かに言った。

 

「そうね」

 

 その一言で、逆に妹紅は言葉を失った。

 

 紫は藍に命じた。

 

「作業を止めなさい。河童と天狗を下げる。今夜、人里東部に誰も近づけないように」

 

「はい」

 

 藍が動く。

 

 慧音は紫を見た。

 

「八雲は協力するのか」

 

「協力ではないわ。後始末よ」

 

「違いは?」

 

「私の責任で動くか、あなたたちの都合で動くか」

 

 妹紅は笑った。

 

「最後まで偉そうだな」

 

「偉いもの」

 

「殴るぞ」

 

「今夜が終わったらね」

 

 魔理沙が紙を覗き込み、顔をしかめた。

 

「これ、霊夢にも知らせた方がいいな」

 

「博麗はもう知っているかもしれない」

 

 慧音が言う。

 

「それでも知らせる。知らないふりをさせないために」

 

 魔理沙はにやりと笑った。

 

「いいねえ、慧音。霊夢が嫌がりそうだ」

 

 倉庫街を出る頃、空は夕暮れに染まっていた。

 

 人里の方から、普段より多い人の声が聞こえる。

 噂が回っている。

 今夜、何かがある。

 誰かが集まる。

 誰かが責任を取らされる。

 

 そういう空気が、もう流れていた。

 

 寺子屋へ戻ると、門の前に火消しの頭領がいた。

 問屋の者たちもいる。

 守矢の信徒と揉めている者もいる。

 永遠亭の鈴仙も薬箱を抱えて立っていた。

 

 早苗も来ていた。

 

 そして少し離れたところに、博麗霊夢がいた。

 

 霊夢はいつものように面倒くさそうな顔をして、寺子屋の塀にもたれていた。

 

「遅い」

 

 妹紅が言う。

 

 霊夢は肩をすくめる。

 

「来ただけ偉いでしょ」

 

「知ってたのか」

 

「だいたいは」

 

「だったらもっと早く動け」

 

「博麗が早く動くと、全員が博麗のせいにするのよ」

 

「今さらだろ」

 

「それもそうね」

 

 霊夢は慧音を見た。

 

「で、どうするの」

 

 慧音は寺子屋の庭に集まった者たちを見た。

 

 火消し。

 問屋。

 守矢。

 永遠亭。

 博麗。

 里の者。

 どの顔にも不安がある。

 怒りがある。

 疑いがある。

 

 ここで誰かが一言間違えれば、人里は割れる。

 

 慧音は深く息を吸った。

 

「今夜、人里東部に集まる者がいる。抗争を起こすためだ」

 

 ざわめきが広がる。

 

「火事、守矢の講、永遠亭の薬、倉庫街の区画整理。すべてが利用されている。誰かが人里を割り、土地と人を動かそうとしている」

 

 問屋の男が叫んだ。

 

「誰かって誰だ!」

 

「まだ分からない」

 

「分からないで済むか!」

 

 妹紅が一歩前に出ようとしたが、慧音が手で制した。

 

「分からないから、今夜は誰も勝手に動くな」

 

 火消しの頭領が腕を組む。

 

「向こうが火をつけたらどうする」

 

「消す」

 

「殴り込んできたら」

 

「止める」

 

「話が通じなかったら」

 

 妹紅が低く言った。

 

「私が前に出る」

 

 庭が静まり返る。

 

 慧音は続けた。

 

「寺子屋は避難所にする。子供と老人を集める。火消しは寺子屋周辺を守る。問屋は荷を動かすな。守矢は信徒を押さえろ。永遠亭は薬を配るな。必要な者はここで診る。博麗は」

 

 慧音は霊夢を見た。

 

「博麗は、中立なら中立らしく、全員を止めろ」

 

 霊夢は少しだけ目を丸くした。

 

 そして、面倒くさそうに笑った。

 

「偉くなったわね、慧音」

 

「教師だからな」

 

「関係ある?」

 

「ある」

 

 霊夢はため息をついた。

 

「分かったわよ。今夜、寺子屋に手を出す奴は、博麗が相手する」

 

 その言葉で、庭の空気が変わった。

 

 博麗が動く。

 それは幻想郷では、かなり重い意味を持つ。

 

 早苗が一歩前に出る。

 

「守矢も、信徒を抑えます。これ以上、人里を不安にさせません」

 

 鈴仙が続いた。

 

「永遠亭は診療を寺子屋に限定します。薬は慧音さんの確認を通して出します」

 

 火消しの頭領が頷く。

 

「火消しは寺子屋を囲む。誰も勝手に蔵へ近づけねえ」

 

 問屋の男は不満そうだったが、やがて渋々頷いた。

 

「荷は止める。今夜だけだぞ」

 

 妹紅は全員を見回した。

 

 敵も味方もない。

 信用もできない。

 だが、今だけは同じ場所に立たせるしかない。

 

 夜が近づいていた。

 

 寺子屋の中に、子供たちと老人が集められた。

 小鈴は貸本を持ち込み、子供たちに読ませている。

 阿求は奥の部屋で記録の写しを整理している。

 鈴仙は怪我人用の薬を並べている。

 早苗は庭で信徒たちに指示を出している。

 

 霊夢は縁側に座り、湯呑みを持っていた。

 

 妹紅は門の前に立つ。

 

 慧音が隣に来た。

 

「始まるな」

 

「ああ」

 

「怖いか」

 

 妹紅は少し考えた。

 

「私が怖いのは、死ぬことじゃない」

 

「知っている」

 

「寺子屋が燃えることでもない。燃えたら建て直せばいい」

 

 慧音は妹紅を見る。

 

 妹紅は夜の人里を見つめたまま言った。

 

「怖いのは、燃えた後で、誰も覚えていないことだ」

 

 慧音は黙っていた。

 

 やがて、静かに答えた。

 

「なら、私が覚える」

 

「忘れさせられたら?」

 

「書く」

 

「書いたものを燃やされたら?」

 

「また書く」

 

「しつこいな」

 

「教師だからな」

 

 妹紅は笑った。

 

 遠くで鐘が鳴った。

 

 火消しの鐘ではない。

 人を集める鐘でもない。

 

 もっと低く、もっと嫌な音だった。

 

 人里東部の倉庫街。

 そこから、ざわめきが上がる。

 

 誰かが今夜、始めるつもりだ。

 

 妹紅は拳を握った。

 慧音は筆ではなく、古い巻物を懐に入れた。

 霊夢は湯呑みを置いた。

 早苗は御幣を握り直した。

 鈴仙は耳を伏せ、薬箱を抱えた。

 

 そして、寺子屋の門の前に、境界の裂け目がひとつ開いた。

 

 そこから紫の声がした。

 

「さあ」

 

 八雲紫は姿を見せず、声だけで笑った。

 

「再開発の時間よ」

 

 妹紅は低く答えた。

 

「違う」

 

 彼女の周囲に、静かな熱が灯った。

 

「ここから先は、人里の抗争だ」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。