朝になっても、人里の空気は晴れなかった。
煙は消えた。
薬の匂いも薄れた。
守矢の幟も、いくつかは人々の手で外された。
だが、残ったものがある。
疑いだ。
誰が何を知っていたのか。
誰がどこまで関わっていたのか。
誰が得をしたのか。
そして、誰が最初から人里を盤面に乗せていたのか。
寺子屋の座敷には、朝から紙が広げられていた。
博麗の帳面。
守矢の名簿。
永遠亭の薬の控え。
古い倉庫街の区画図。
そして、阿求が持ち込んだ人里の古地図。
稗田阿求は、いつもより血色の悪い顔で座っていた。
隣には本居小鈴がいる。小鈴は古びた帳面を抱えており、緊張した顔で何度も表紙を撫でていた。
「この地図、やっぱりおかしいです」
阿求が言った。
慧音は地図を覗き込む。
古い人里の地図。
寺子屋、問屋、火消しの詰所、蔵、井戸、祠、古い道。
今は使われていない小道や、消えた水路まで記されている。
阿求は指で寺子屋の周辺をなぞった。
「ここ一帯は、昔から人里の中心ではありませんでした。むしろ外れです。ですが、何度も火事や移転を経て、結果的に寺子屋の周りに人が集まるようになった」
「人が集まったから、道ができた」
慧音が言う。
「はい。そして道ができたから、商いが生まれた。商いが生まれたから、問屋ができた。問屋ができたから、火消しが置かれた」
小鈴が帳面を開いた。
「これ、貸本屋に紛れていた古い土地台帳です。うちの蔵にずっとあったみたいで……たぶん祖父の代から」
妹紅が腕を組んだまま言った。
「また都合よく出てきたな」
「私だって怖いですよ。でも、見つけちゃったんです」
小鈴は頬を膨らませかけたが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「この台帳だと、今の寺子屋周辺の土地は、昔は持ち主が曖昧だったみたいです。人里の共有地、火除け地、避難場所、そういう扱いが混ざってます」
慧音は目を細めた。
「だから動かしやすい」
阿求が頷いた。
「ええ。個人の土地なら揉めます。でも共有地なら、名目さえあれば整理できる。火事、老朽化、道の拡張、結界修繕。理由はいくらでも作れます」
妹紅は区画図を叩いた。
「それで寺子屋を囲んだのか」
「寺子屋が邪魔なんだ」
慧音が静かに言った。
座敷が沈黙した。
寺子屋はただの建物ではない。
子供たちが集まる場所。
人里の親たちが出入りする場所。
噂が集まり、記録が残り、誰が何をしたのかを覚えている場所。
土地を動かすなら、まず記憶を動かさなければならない。
慧音がいる限り、簡単にはいかない。
妹紅は低く言った。
「やっぱり慧音を狙ってるな」
「私だけではない」
慧音は地図を見つめた。
「寺子屋が残れば、昔の道も、昔の約束も、昔の暮らしも残る。だから壊したい者がいる」
その時、寺子屋の外で足音がした。
戸が開く。
入ってきたのは霧雨魔理沙だった。
いつものように軽い顔をしていたが、帽子には土埃がついている。
「よう。面白いものを拾ってきたぜ」
妹紅が眉をひそめる。
「お前の拾ったものは、だいたい面倒だ」
「今回は特に面倒だ」
魔理沙はそう言って、丸めた紙を広げた。
そこには大きな題が書かれていた。
――幻想郷境界補修ならびに人里東部再整備案。
慧音の顔が変わった。
「どこで手に入れた」
「妖怪の山の河童の作業場。いや、正確には作業場の横の、誰も見てない木箱の中」
「盗んだんだな」
「拾ったって言ってるだろ」
魔理沙は平然と答えた。
妹紅は紙を覗き込んだ。
内容は細かかった。
結界の傷み。
古い道の封鎖。
倉庫街の撤去。
新しい物流路の設置。
守矢神社による信仰拠点の整備。
命蓮寺の荷運び網の再配置。
博麗神社への管理協力費。
永遠亭による仮設診療所の設置。
そして、寺子屋周辺の一時移転。
妹紅の手が紙を握り潰しかけた。
「一時移転?」
慧音は魔理沙を見た。
「これは八雲の文書か」
「名前は書いてない。でも、境界補修なんて言葉を使う奴は限られてる」
阿求が小さく呟いた。
「八雲紫……」
その名が出るだけで、部屋の空気が冷える。
小鈴は不安げに帳面を抱きしめた。
「でも、結界が傷んでいるのは本当なんですか?」
慧音は答えなかった。
魔理沙が代わりに言った。
「本当らしい。山の河童が測ってた。人里の東、古い倉庫街の裏手。境界が薄くなってるってさ」
「なら、補修は必要なのか」
妹紅が言う。
「必要だろうな」
慧音は認めた。
「だが、必要なことと、誰かの生活を勝手に動かすことは別だ」
魔理沙は紙の端を指した。
「問題はここだ」
そこには、小さくこう書かれていた。
――移転に伴う反発については、火災・薬害・信仰対立を口実に、治安上の必要性を示す。
座敷の空気が凍った。
火災。
薬害。
信仰対立。
すべて、すでに起きている。
妹紅は静かに立ち上がった。
「八雲に会う」
慧音も立った。
「私も行く」
「お前は寺子屋に残れ」
「残ったところで狙われるなら同じだ」
「だからだ」
妹紅の声が荒くなる。
「お前が出ていけば、寺子屋が空になる」
「阿求と小鈴に写しを預ける。火消しにも伝える。寺子屋には人を置く」
「それでも」
「妹紅」
慧音はまっすぐ妹紅を見た。
「これは私の仕事だ。歴史を動かそうとしている者に、記録する者が会わないわけにはいかない」
妹紅は黙った。
止めても無駄だ。
それは、何度も分かっているはずだった。
魔理沙が帽子を直した。
「私も行くぜ」
「何でだ」
「面白いから」
「帰れ」
「あと、霊夢に頼まれた」
妹紅と慧音が同時に魔理沙を見る。
魔理沙は肩をすくめた。
「『あいつらが八雲に喧嘩売りに行くなら、帰り道くらい見てきなさい』だとさ」
「霊夢は来ないのか」
妹紅が言うと、魔理沙は苦笑した。
「博麗は中立なんだと」
「便利な中立だな」
「本人もそう思ってるだろうよ」
三人は寺子屋を出た。
行き先は、人里東部の古い倉庫街。
そこがすべての線の交わる場所だった。
倉庫街は、前に来た時よりもさらに静かだった。
昼間だというのに、人の気配が薄い。
戸には板が打たれ、古い蔵には白い印がつけられていた。取り壊し予定の印に見える。
だが、誰がつけたのかは分からない。
奥へ進むと、広い空き地に出た。
そこには河童たちがいた。測量器具を持ち、地面に杭を打ち、何かを計っている。横には天狗らしき者が記録を取っていた。
その中心に、八雲藍が立っていた。
藍は三人を見ると、静かに頭を下げた。
「お待ちしていました」
妹紅は鼻を鳴らした。
「待ってたなら話が早い。紫を出せ」
「紫様はまだお越しになりません」
「逃げたか」
「必要な時に現れます」
「それを逃げたって言うんだよ」
慧音が一歩前に出る。
「藍。これはどういうことだ」
藍は答える前に、河童たちへ作業を止めるよう合図した。
「結界の補修です。人里東部の境界が不安定になっています。このまま放置すれば、外の澱みが流れ込む可能性がある」
「だから寺子屋を移すのか」
「一時的に、です」
「そのために火事を起こし、守矢を疑わせ、永遠亭の薬を流したのか」
藍の目がわずかに細くなった。
「それは八雲の指示ではありません」
「信じろと?」
妹紅が低く言う。
「信じなくても構いません。事実として、八雲の目的は結界の維持です」
「維持のためなら、人里を揺さぶってもいいのか」
慧音の声は低かった。
藍はしばらく黙っていた。
「幻想郷全体を守るために、一部を動かすことはあります」
妹紅が踏み込んだ。
「人間を荷物みたいに言うな」
「荷物とは言っていません」
「同じだ」
空気が熱を持つ。
魔理沙が横で小さく言った。
「おい、燃やすなよ。河童の道具に火がついたら面倒だ」
「黙ってろ」
慧音は藍を見つめた。
「火災、薬害、信仰対立を口実に使うという文書がある」
魔理沙が紙を見せる。
藍はそれを受け取り、目を通した。
そして、初めて明確に表情を変えた。
「これは……」
「八雲のものではないと?」
「形式は似ています。ですが、私の知らない記述がある」
「便利だな。知らないと言えば済む」
妹紅が言う。
藍は静かに紙を折りたたんだ。
「済みません。ですが、本当に知らない」
慧音はその顔を見て、少しだけ眉を動かした。
藍は嘘をついていない。
少なくとも、この文書のすべてを知っていた顔ではなかった。
ならば、誰が書き足したのか。
八雲の計画を利用している者がいる。
あるいは、八雲の内側に入り込んだ者がいる。
その時、空き地の向こうに隙間が開いた。
紫色の闇。
無数の目。
その奥から、八雲紫が現れた。
扇で口元を隠し、いつものように笑っている。
「随分にぎやかね」
妹紅は即座に睨んだ。
「ようやく出てきたか」
「呼ばれたから来ただけよ」
「最初から見てただろ」
「見守っていたの」
「趣味が悪い」
「よく言われるわ」
紫は空き地を見渡した。
河童たちは作業を止め、天狗も筆を下ろしている。藍は無言で文書を差し出した。
紫はそれを読み、ほんの少しだけ目を細めた。
「なるほど。私の文書に、余計なものが混ざっているわね」
慧音が言った。
「どこまでが本物だ」
「結界補修。倉庫街の整理。古い道の封鎖。そこまでは本物」
「寺子屋の移転は」
「検討はしたわ」
妹紅の体が熱くなる。
慧音が腕で制した。
「なぜだ」
紫は扇を閉じた。
「寺子屋の下に、古い境界が通っているからよ」
その場が静まり返った。
慧音は聞き返した。
「寺子屋の下?」
「ええ。今の寺子屋が建つ前、そこは人里の外れだった。人間と妖怪の行き来を分ける、古い境目のひとつ。今は人が増え、道が変わり、記憶が上書きされて見えにくくなっているけれど」
阿求の地図と繋がる。
昔は外れ。
火除け地。
避難場所。
曖昧な土地。
そこに寺子屋が建ち、人が集まり、人里の中心になった。
慧音はゆっくりと言った。
「だから動かしたいのか」
「境界を補修するには、土地を少し空ける必要がある」
「そのために、人々の記憶まで動かすのか」
紫は答えなかった。
妹紅が言った。
「寺子屋は動かさない」
「あなたが決めることではないわ」
「いいや、決める」
妹紅の周りに熱が立つ。
「寺子屋に手を出すなら、八雲でも関係ない」
紫は妹紅を見て、少しだけ笑った。
「不死身は強気ね」
「不死身だからじゃない」
妹紅は低く言った。
「守るものがあるからだ」
紫の笑みが、わずかに薄くなった。
慧音が前に出る。
「八雲紫。結界補修が必要なら、正面から説明しろ。人里に話せ。寺子屋の下に何があるのか、なぜ補修が必要なのか、何を移し、何を残すのか」
「人里が納得すると?」
「しないかもしれない」
「なら?」
「納得しない者を、記録に残す」
紫は黙った。
慧音の声は震えていなかった。
「火事で追い出される者。薬で黙らされる者。信仰で分断される者。再開発という言葉で、生活を失う者。その名を残す」
「残せば救えるの?」
「救えないこともある」
「では意味がないわ」
「意味はある」
慧音は紫を見据えた。
「なかったことにはさせない」
風が吹いた。
竹ではなく、倉庫街の古い板壁が鳴る。
遠くで烏が鳴いた。
紫はゆっくりと扇を開いた。
「人間は不便ね。忘れた方が楽なことまで抱え込む」
「妖怪は便利だな。忘れさせれば済むと思っている」
妹紅が言う。
紫は楽しそうに目を細めた。
「あなたは人間なのかしら」
「少なくとも、お前よりは人間の側にいる」
「そう」
紫が指を鳴らした。
空き地の奥の蔵の戸が開いた。
中には大量の木箱が積まれていた。
封印紙、荷札、測量図、名簿、古い証文。
その中には、守矢の札、永遠亭の包み紙、命蓮寺の荷札、紅魔館の封蝋、白玉楼の紋に似たものまであった。
魔理沙が口笛を吹く。
「証拠市だな」
藍が顔をしかめた。
「紫様、これは」
「私も今、見つけたことにするわ」
妹紅が紫を睨む。
「ふざけるな」
「ふざけていないわ。これは、誰かがここに集めたもの。八雲の計画を隠れ蓑にして、各勢力を巻き込むために」
慧音は木箱へ近づいた。
証文の一枚を取る。
そこには、白玉楼の名で貸し付けられた金の控えがあった。人里の問屋、火消し、荷運び、何人もの名前が記されている。
別の箱には、紅魔館の酒樽の封印。
さらに別の箱には、命蓮寺の航路図。
そこには、薬材を運ぶ経路が書かれていた。
すべてが繋がっている。
慧音は低く言った。
「これは、抗争を起こすための道具だ」
「ええ」
紫は頷いた。
「各勢力に少しずつ疑いを配る。誰も完全に無関係ではいられない。だから誰も強く否定できない」
「全員に後ろ暗いことがあるからか」
妹紅が言う。
「そういうこと」
紫の声は涼しかった。
慧音は紫を見る。
「八雲は被害者だと言うつもりか」
「いいえ」
紫はあっさり言った。
「私たちは盤面を作った。その盤面を、誰かが使った。だから無関係とは言えない」
「誰だ」
紫は答えなかった。
代わりに、空き地の地面を扇で指した。
「この下に、古い境界の継ぎ目がある。幻想郷の内と外、人里と妖怪、記憶と忘却。その重なりが弱くなっている」
「それを直すために、寺子屋をどかす」
「本来はね」
「今は違うのか」
「今、寺子屋を動かせば、仕掛けた者の思う壺よ。人里は割れる。守矢は疑われる。永遠亭は信用を失う。博麗は調停料を取る。命蓮寺は物流を握り直す。紅魔館は禁制品の流れを押さえる。白玉楼は借金を回収する」
妹紅は吐き捨てた。
「全員得するじゃないか」
「全員が得をするように見える時は、たいてい誰かが一番得をするようにできている」
紫の言葉に、慧音は目を伏せた。
一番得をする者。
それは誰か。
八雲か。
守矢か。
博麗か。
それとも、まだ表に出ていない勢力か。
その時、蔵の奥で小さな音がした。
妹紅が振り返る。
「誰だ」
影が動いた。
若い男だった。
人里の荷運びに混じっていた者の一人。守矢の名簿を書き換えた男とは違う。だが顔つきが似ている。使い捨ての駒の顔だ。
男は逃げようとした。
妹紅が踏み込む。
だが、その前に地面に黒い煙が走った。
男の足元に隙間が開く。
紫のものではない。
もっと粗く、汚れた裂け目だった。
紫の表情が変わる。
「まずい」
藍が動いた。
魔理沙が箒を構える。
妹紅が手を伸ばす。
だが男は裂け目に飲まれた。
完全に消える直前、男は一枚の紙を落とした。
慧音が拾う。
そこには短い文が書かれていた。
――人里東部、今夜。
火消し、問屋、守矢信徒、紅魔館関係者、命蓮寺荷役、白玉楼債務者。
全員集めよ。
博麗が動く前に始末する。
妹紅の顔から血の気が引いた。
「今夜だと?」
慧音は紙を握りしめた。
「人里を一気に割るつもりだ」
紫は空を見上げた。
「思ったより早いわね」
「お前が言うな」
妹紅が怒鳴る。
「最初に盤面を作ったのはお前だろうが!」
紫は反論しなかった。
ただ静かに言った。
「そうね」
その一言で、逆に妹紅は言葉を失った。
紫は藍に命じた。
「作業を止めなさい。河童と天狗を下げる。今夜、人里東部に誰も近づけないように」
「はい」
藍が動く。
慧音は紫を見た。
「八雲は協力するのか」
「協力ではないわ。後始末よ」
「違いは?」
「私の責任で動くか、あなたたちの都合で動くか」
妹紅は笑った。
「最後まで偉そうだな」
「偉いもの」
「殴るぞ」
「今夜が終わったらね」
魔理沙が紙を覗き込み、顔をしかめた。
「これ、霊夢にも知らせた方がいいな」
「博麗はもう知っているかもしれない」
慧音が言う。
「それでも知らせる。知らないふりをさせないために」
魔理沙はにやりと笑った。
「いいねえ、慧音。霊夢が嫌がりそうだ」
倉庫街を出る頃、空は夕暮れに染まっていた。
人里の方から、普段より多い人の声が聞こえる。
噂が回っている。
今夜、何かがある。
誰かが集まる。
誰かが責任を取らされる。
そういう空気が、もう流れていた。
寺子屋へ戻ると、門の前に火消しの頭領がいた。
問屋の者たちもいる。
守矢の信徒と揉めている者もいる。
永遠亭の鈴仙も薬箱を抱えて立っていた。
早苗も来ていた。
そして少し離れたところに、博麗霊夢がいた。
霊夢はいつものように面倒くさそうな顔をして、寺子屋の塀にもたれていた。
「遅い」
妹紅が言う。
霊夢は肩をすくめる。
「来ただけ偉いでしょ」
「知ってたのか」
「だいたいは」
「だったらもっと早く動け」
「博麗が早く動くと、全員が博麗のせいにするのよ」
「今さらだろ」
「それもそうね」
霊夢は慧音を見た。
「で、どうするの」
慧音は寺子屋の庭に集まった者たちを見た。
火消し。
問屋。
守矢。
永遠亭。
博麗。
里の者。
どの顔にも不安がある。
怒りがある。
疑いがある。
ここで誰かが一言間違えれば、人里は割れる。
慧音は深く息を吸った。
「今夜、人里東部に集まる者がいる。抗争を起こすためだ」
ざわめきが広がる。
「火事、守矢の講、永遠亭の薬、倉庫街の区画整理。すべてが利用されている。誰かが人里を割り、土地と人を動かそうとしている」
問屋の男が叫んだ。
「誰かって誰だ!」
「まだ分からない」
「分からないで済むか!」
妹紅が一歩前に出ようとしたが、慧音が手で制した。
「分からないから、今夜は誰も勝手に動くな」
火消しの頭領が腕を組む。
「向こうが火をつけたらどうする」
「消す」
「殴り込んできたら」
「止める」
「話が通じなかったら」
妹紅が低く言った。
「私が前に出る」
庭が静まり返る。
慧音は続けた。
「寺子屋は避難所にする。子供と老人を集める。火消しは寺子屋周辺を守る。問屋は荷を動かすな。守矢は信徒を押さえろ。永遠亭は薬を配るな。必要な者はここで診る。博麗は」
慧音は霊夢を見た。
「博麗は、中立なら中立らしく、全員を止めろ」
霊夢は少しだけ目を丸くした。
そして、面倒くさそうに笑った。
「偉くなったわね、慧音」
「教師だからな」
「関係ある?」
「ある」
霊夢はため息をついた。
「分かったわよ。今夜、寺子屋に手を出す奴は、博麗が相手する」
その言葉で、庭の空気が変わった。
博麗が動く。
それは幻想郷では、かなり重い意味を持つ。
早苗が一歩前に出る。
「守矢も、信徒を抑えます。これ以上、人里を不安にさせません」
鈴仙が続いた。
「永遠亭は診療を寺子屋に限定します。薬は慧音さんの確認を通して出します」
火消しの頭領が頷く。
「火消しは寺子屋を囲む。誰も勝手に蔵へ近づけねえ」
問屋の男は不満そうだったが、やがて渋々頷いた。
「荷は止める。今夜だけだぞ」
妹紅は全員を見回した。
敵も味方もない。
信用もできない。
だが、今だけは同じ場所に立たせるしかない。
夜が近づいていた。
寺子屋の中に、子供たちと老人が集められた。
小鈴は貸本を持ち込み、子供たちに読ませている。
阿求は奥の部屋で記録の写しを整理している。
鈴仙は怪我人用の薬を並べている。
早苗は庭で信徒たちに指示を出している。
霊夢は縁側に座り、湯呑みを持っていた。
妹紅は門の前に立つ。
慧音が隣に来た。
「始まるな」
「ああ」
「怖いか」
妹紅は少し考えた。
「私が怖いのは、死ぬことじゃない」
「知っている」
「寺子屋が燃えることでもない。燃えたら建て直せばいい」
慧音は妹紅を見る。
妹紅は夜の人里を見つめたまま言った。
「怖いのは、燃えた後で、誰も覚えていないことだ」
慧音は黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「なら、私が覚える」
「忘れさせられたら?」
「書く」
「書いたものを燃やされたら?」
「また書く」
「しつこいな」
「教師だからな」
妹紅は笑った。
遠くで鐘が鳴った。
火消しの鐘ではない。
人を集める鐘でもない。
もっと低く、もっと嫌な音だった。
人里東部の倉庫街。
そこから、ざわめきが上がる。
誰かが今夜、始めるつもりだ。
妹紅は拳を握った。
慧音は筆ではなく、古い巻物を懐に入れた。
霊夢は湯呑みを置いた。
早苗は御幣を握り直した。
鈴仙は耳を伏せ、薬箱を抱えた。
そして、寺子屋の門の前に、境界の裂け目がひとつ開いた。
そこから紫の声がした。
「さあ」
八雲紫は姿を見せず、声だけで笑った。
「再開発の時間よ」
妹紅は低く答えた。
「違う」
彼女の周囲に、静かな熱が灯った。
「ここから先は、人里の抗争だ」