紅魔館の夜は、外よりも静かだった。
霧の湖から流れてくる湿った風は、館の高い窓に触れ、赤いカーテンの裾をわずかに揺らす。広い廊下には、妖精メイドたちの足音だけが細く響いていた。
いつもの紅魔館なら、その足音にはもう少し気の抜けた調子が混じっている。
食器を落としそうになる音。
掃除道具を倒す音。
小声の私語。
美鈴が門で居眠りしかけて、咲夜に睨まれる気配。
だが、その夜は違った。
誰も余計なことを言わない。
紅魔館が、本気で動いているからだった。
大広間の長机には、紙が並べられていた。
紅魔館の正式荷札。
過去の湖畔取引記録。
咲夜の確認印。
封蝋の保存片。
妖精メイドの搬入日誌。
古い廃棄封印紙の束。
そして、湖畔倉庫から押さえた偽荷札と偽封印紙。
十六夜咲夜は、その中央に立っていた。
銀のナイフではなく、筆を持っている。
だが、その姿は刃物を構えている時と変わらなかった。
「まず、正式荷札から」
咲夜の声に、小悪魔が慌てて紙束を差し出す。
「こちらが過去三年分の湖畔方面の搬入記録です」
「湖畔方面?」
咲夜が少しだけ目を細める。
小悪魔はすぐに訂正した。
「正確には、霧の湖を経由した正式搬入記録です。紅魔館指定倉庫という名称はありません」
「よろしい」
小悪魔は胸を撫で下ろした。
咲夜は正式荷札を一枚取り、机の左へ置いた。
次に、偽荷札を右へ置く。
二枚は、遠目には似ていた。
赤い縁取り。
黒い文字。
封蝋の跡。
紅魔館を思わせる紋。
だが、咲夜の目には、まるで違うものに見えていた。
「文字の間隔が違います」
咲夜は淡々と言った。
「正式な荷札では、品目名と搬入時刻の間に一文字半の空きを取ります。こちらは二文字。咲夜印の位置も低い」
小悪魔が慌ててメモを取る。
「一文字半……」
「封蝋の押し方も違う。紅魔館の封は、紙の繊維を潰さない程度に押します。偽造品は強く押しすぎている」
咲夜は偽封印紙の端を持ち上げた。
「威圧感を出したかったのでしょう」
美鈴が横から覗き込む。
「強く押せば本物っぽく見えると思ったんですかね」
「紅魔館らしさを、勘違いしているのでしょう」
咲夜の声は静かだった。
「紅魔館の印は、力任せに押すものではありません」
美鈴は少し背筋を伸ばした。
咲夜はさらに紙を並べていく。
正式な封印紙。
偽の封印紙。
古い廃棄封印紙。
湖畔倉庫から見つかった帳面の切れ端。
パチュリー・ノーレッジは、少し離れた椅子に座っている。
膝の上には偽写本。
小悪魔が淹れた紅茶には、まだ手をつけていない。
「パチュリー様」
咲夜が声をかける。
「封印紙の魔力残滓は」
パチュリーは本から目を上げずに答えた。
「本物の紅魔館印に似せた残滓があるわ。でも薄い。誰かが昔の封印紙を見て、そこに残った魔力の癖だけを真似た感じね」
「館内から流れたものですか」
「可能性はある。でも、蔵書庫や正規保管庫から盗まれたものではないわ」
パチュリーは偽写本を閉じた。
「むしろ、廃棄された封印紙。燃え残りか、捨て紙か、外へ出た包み紙。そういうものから癖を拾ったのでしょうね」
咲夜は小悪魔を見る。
「廃棄記録」
「はい!」
小悪魔は別の帳面を広げた。
「古い封印紙の廃棄は、基本的に焼却です。ただし、雨の日や湖畔搬入の帰りで濡れた紙は、一時的に裏手の紙箱へまとめた記録があります」
「管理責任者は」
「妖精メイド三班です」
咲夜の目が細くなる。
大広間の端に控えていた妖精メイドたちが、一斉に震えた。
美鈴が小声で言う。
「みんな、悪気はないと思いますよ」
「悪気の有無を聞いているのではありません」
咲夜は帳面を閉じる。
「紅魔館の名を外へ持ち出したかどうかです」
妖精メイドの一人が、泣きそうな顔で手を上げた。
「あの、咲夜さん」
「何か」
「その紙箱、湖畔の荷運びのあと、外の回収屋さんが持っていったことがあります」
咲夜は動かなかった。
美鈴だけが、少し驚いた顔をした。
「回収屋?」
妖精メイドはこくこく頷く。
「古紙を引き取るって。濡れてて燃えにくいから、乾かしてから処分するって言ってて」
咲夜の声が下がる。
「誰の許可で」
妖精メイドは完全に青ざめた。
「えっと、その、たぶん……臨時の荷運びさんが、紅魔館の外で処理するって」
「名前は」
「分かりません。ただ、黒い羽根の印がついた札を持っていました」
大広間が静まった。
咲夜は机の上に置かれた夜霧会の印を見る。
黒い羽根を霧が包む印。
「夜霧会」
初めて、その名をはっきり声に出した。
妖精メイドたちはさらに縮こまる。
咲夜は彼女たちを責めなかった。
だが、許したわけでもない。
「今後、紅魔館の名が入った紙片は、紙屑であっても館外へ出しません。焼却記録、立会人、灰の確認まで行います」
美鈴が思わず言った。
「灰までですか」
「灰までです」
咲夜は即答した。
「紅魔館の信用は、紙片一つから売られます」
その言葉に、妖精メイドたちは深く頭を下げた。
*
咲夜の帳面は、ただの帳面ではなかった。
日付。
時刻。
搬入者。
品目。
封印紙番号。
封蝋の色。
確認印。
搬入経路。
受け取った妖精メイドの名。
咲夜本人の確認時刻。
そこには、紅魔館の外へ出たものと、紅魔館へ入ったものが、すべて冷たく整理されている。
それは、華やかな紅魔館の裏側だった。
赤い絨毯と銀器の下にある、細い記録の束。
咲夜はその帳面を、一頁ずつめくる。
美鈴は横で腕を組みながら見ていた。
「咲夜さんって、こういうの全部覚えてるんですか」
「覚えているものもあります。覚える必要のないものは、帳面に覚えさせます」
「帳面に覚えさせる」
「記録は、忘れない従者です」
美鈴は感心したように頷いた。
「なんか咲夜さんっぽいです」
「感想は不要です。次の倉庫記録を」
「はい」
美鈴は湖畔で押さえた帳面を差し出した。
そこには、夜霧会の取引らしき記録が残っていた。
ただし、はっきり紅魔館とは書かれていない。
代わりに、曖昧な言葉が並ぶ。
**赤館扱い**
**湖畔上位筋**
**夜間確認済**
**妹君注意**
**銀従者印不要**
美鈴の顔から笑みが消えた。
「妹君注意、って」
咲夜の指が止まる。
大広間の空気が、ほんの少し変わった。
パチュリーも本から顔を上げた。
「まだお嬢様には」
「ええ」
咲夜は静かに帳面を閉じた。
「まだです」
美鈴は低く言う。
「フランドール様の名前まで使ったんですか」
「名前を直接書かずに、匂わせています」
咲夜の声は淡々としている。
「商人を黙らせるには、それで十分だったのでしょう」
美鈴の拳が、わずかに握られた。
普段の美鈴なら、少し困ったように笑う場面かもしれない。
だが、今は笑わなかった。
「門を守るっていうのは、門の外の名も守るってことですね」
咲夜は美鈴を見る。
「そうです」
「湖畔、もう一度見てきます」
「一人で?」
「逃げ道を見るだけです。潰すのは咲夜さんの仕事でしょう?」
咲夜は少しだけ目を細めた。
「門番にしては、分かっていますね」
「門番ですから」
美鈴は軽く一礼し、大広間を出て行った。
*
湖畔倉庫から押さえた帳面には、もう一つの特徴があった。
紅魔館の名を直接書かない。
だが、紅魔館を連想させる言葉を使う。
赤館。
湖畔上位筋。
夜の貴人。
銀従者。
地下の妹君。
それは、逃げ道のある書き方だった。
紅魔館とは言っていない。
スカーレットとは書いていない。
咲夜の名も、レミリアの名も出していない。
だが、読んだ者には分かる。
これは紅魔館のことだ、と。
咲夜はそれを見て、夜霧会のやり方を理解した。
彼らは紅魔館を倒したいわけではない。
紅魔館と正面から戦う気などない。
ただ、紅魔館の影を使っている。
紅魔館の名ではなく、紅魔館への恐れを売っている。
それは、ある意味では本物の封印紙より厄介だった。
「紅魔館の名前は出していない、と逃げるつもりでしょうね」
パチュリーが言った。
「ええ」
咲夜は帳面を閉じる。
「ですが、紅魔館の名前を使わずに紅魔館を使った。罪は変わりません」
パチュリーは紅茶に手を伸ばした。
「咲夜」
「何でしょう」
「偽写本の方も、同じ癖があるわ」
パチュリーは本を開き、表題を示す。
そこには、パチュリーの蔵書名そのものではなく、似たような文言が書かれている。
**紅館地下文庫写し**
**紫魔女旧蔵断章**
**湖畔貴館秘本**
小悪魔が顔をしかめる。
「悪質ですね」
「悪質というより、臆病ね」
パチュリーは言った。
「本物の名を出せば責任が生じる。だから似せる。匂わせる。買う側の想像に任せる」
咲夜は頷く。
「商売の逃げ道ですね」
「ええ。粗悪だけど、手口としては分かっている」
パチュリーは写本を閉じた。
「だから余計に不愉快」
*
夜が深くなる頃、紅魔館の小会議室に関係者が集められた。
咲夜。
パチュリー。
美鈴。
小悪魔。
妖精メイドの班長たち。
机の上には、証拠が分類されている。
一、偽封印紙。
二、偽荷札。
三、廃棄紙流出記録。
四、湖畔倉庫帳面。
五、偽写本。
六、命蓮寺の荷止め記録。
七、人里問屋の証言。
咲夜は一つずつ確認していく。
「まず、偽封印紙は紅魔館の古い廃棄紙を元に作られた可能性があります」
妖精メイドたちが身を小さくする。
「責任追及は後です。今は再発防止。今後、館外廃棄は禁止。焼却は二名以上の立会い。灰の確認まで記録します」
班長たちは一斉に頷く。
「次に、偽荷札。正式な紅魔館荷札と似ていますが、咲夜印の位置、文字間隔、封蝋圧、紙質が異なります。判別表を作ります」
小悪魔が紙を広げた。
「作成します」
「命蓮寺と人里にも配布します」
美鈴が聞く。
「博麗神社にも?」
「当然です。紅魔館がやっていないことを、霊夢に紙で殴りつける必要があります」
「紙で殴る」
美鈴が苦笑する。
咲夜は表情を変えない。
「言葉では足りません」
パチュリーが低く言った。
「言葉は噂に負ける。紙は、燃やされない限り残る」
咲夜は頷いた。
「その通りです」
次に、美鈴が湖畔の報告を出した。
「存在しない紅魔館指定倉庫の看板、三つ確認しました。どれも湖畔から少し離れた場所です。紅魔館の門からは見えないけど、人里や命蓮寺の船からは見える位置です」
「逃走路は」
「小舟の通れる細い水路が二本。山側へ抜ける道が一本。あと、使われていない古い桟橋が一つ」
「夜霧会の人員は」
「倉庫番だけなら少数です。でも、荷運びと船頭を入れると結構います」
咲夜は帳面に記す。
「正面から潰すには広いですね」
「時間を止めます?」
美鈴が冗談めかして言った。
咲夜は淡々と返す。
「必要なら」
美鈴は笑うのをやめた。
「本気ですね」
「本気です」
咲夜は机の上の偽荷札を見た。
「紅魔館の信用を盗まれました。品物を盗まれた方が、まだ簡単でした」
*
その言葉を、レミリアは扉の外で聞いていた。
誰も気づかなかったわけではない。
咲夜は気づいていた。
パチュリーも気づいていた。
だが、誰も振り返らなかった。
レミリア・スカーレットは扉を開け、会議室へ入った。
小さな体。
紅い瞳。
幼く見える顔。
しかし、部屋にいる全員が姿勢を正す。
レミリアは机の上の証拠を見た。
「随分と並んだわね」
咲夜が頭を下げる。
「まだ途中です」
「途中でこれなら、最後は退屈しなさそう」
レミリアは偽封印紙を一枚手に取った。
端を軽く指で撫でる。
「安い紙」
次に封蝋を見る。
「安い蝋」
荷札を見る。
「安い字」
そして、夜霧会の帳面にある言葉を見る。
**妹君注意**
レミリアの指が止まった。
部屋の空気が凍る。
咲夜は静かに言った。
「まだ、フランドール様には知らせておりません」
「でしょうね」
レミリアの声は穏やかだった。
「知らせたら、面倒だもの」
美鈴が少しだけ緊張する。
パチュリーは紅茶を置いた。
レミリアは帳面を閉じた。
「夜霧会は、紅魔館の名前を直接使っていないつもりなのでしょう」
「はい」
咲夜が答える。
「赤館、湖畔上位筋、銀従者、妹君。逃げ道を残す書き方です」
レミリアは小さく笑った。
「逃げ道を残す者ほど、逃げ道を塞がれると弱いわ」
咲夜は一礼する。
「すでに湖畔の逃走路は美鈴が確認しています。パチュリー様が魔力残滓を追跡中。小悪魔が蔵書および廃棄紙記録を整理しています」
「命蓮寺は」
「偽装の可能性を理解しつつあります。ただ、村紗はまだ紅魔館に怒っています」
「怒らせておきなさい。怒りは、向きを変えれば使える」
レミリアは椅子に座った。
「博麗は?」
「証拠を持っていくまでは、様子見でしょう」
「霊夢らしい」
レミリアは咲夜を見る。
「咲夜」
「はい」
「帳面を完成させなさい。紅魔館がやっていない証拠では足りない。夜霧会がやった証拠を揃えるの」
「承知しました」
「それから」
レミリアは偽封印紙を机に戻した。
「紅魔館の名を使う者に、次はないと分からせる」
咲夜は深く頭を下げた。
「はい」
レミリアは窓の外を見る。
霧の湖は、夜の中に沈んでいる。
そのどこかに、夜霧会の倉庫がある。
紅魔館の影を勝手に売る者たちがいる。
レミリアは穏やかに言った。
「紅魔館は、恐怖を貸し出していない」
*
深夜、咲夜は一人で帳面を清書していた。
大広間は静かだった。
妖精メイドたちは記録の整理を続けている。
小悪魔は図書館へ戻り、パチュリーの指示で紙と墨の分析をしている。
美鈴は湖畔へ再び出た。
レミリアは自室へ戻った。
咲夜の前には、一冊の新しい帳面が開かれている。
表紙には、まだ題名がない。
咲夜は筆を取り、最初の頁に書いた。
**夜霧会偽装記録**
少し考え、続ける。
**紅魔館名義偽造事件**
さらに筆を止める。
その題では足りない。
これは単なる偽造ではない。
品物ではない。
紙でもない。
封蝋でもない。
盗まれたのは、紅魔館の名だ。
紅魔館を恐れる心だ。
紅魔館が長く保ってきた距離と秩序だ。
咲夜は新しい一行を書いた。
**盗まれたのは品物ではない。紅魔館の信用である。**
筆を置く。
その時、廊下の奥から小さな足音がした。
咲夜は振り返らない。
足音は軽く、少し不規則だった。
「咲夜」
声がした。
フランドール・スカーレットだった。
咲夜は静かに立ち上がる。
「妹様。まだお休みの時間です」
「みんな、起きてる」
「少し仕事がありまして」
「私の名前、出てた?」
咲夜は一瞬だけ沈黙した。
フランドールは首を傾げる。
「ねえ、出てた?」
咲夜は微笑んだ。
「まだ、妹様のお手を煩わせる段階ではございません」
フランドールはじっと咲夜を見る。
それから、机の上の帳面へ視線を落とした。
そこに書かれた文字を、ゆっくり読む。
**紅魔館の信用**
フランドールは少しだけ笑った。
「信用って、壊れるの?」
咲夜は答える。
「壊れます」
「壊れたら、直すの?」
「直します」
「誰が?」
咲夜は深く一礼した。
「私どもが」
フランドールはしばらく咲夜を見ていた。
そして、無邪気な声で言った。
「じゃあ、壊した人は?」
咲夜は顔を上げる。
その目は静かだった。
「お嬢様が、代金を払わせるとお決めになりました」
フランドールは笑った。
「ふうん」
それだけ言って、廊下の奥へ戻っていく。
咲夜はその背中を見送った。
まだ、フランドールの出番ではない。
だが、夜霧会がその名を使った以上、いずれ避けては通れない。
咲夜は再び帳面へ向かった。
夜は深い。
だが、紅魔館の夜は眠らない。
紙一枚。
封蝋一つ。
荷札の一文字。
帳面の隅に書かれた曖昧な言葉。
それらを咲夜は一つずつ拾い、並べ、逃げ道を消していく。
紅魔館の制裁は、怒号で始まらない。
まず、帳面から始まる。
咲夜は最後に、次の頁へ一行を書いた。
**夜霧会、湖畔倉庫、命蓮寺荷止め、偽写本、人里問屋。
すべて同一線上にあり。
紅魔館の名を用いた者、逃亡経路を調査中。**
筆を置いた。
窓の外では、霧の湖が静かに眠っている。
その霧の向こうで、誰かがまだ紅魔館の影を金に換えている。
咲夜は懐中時計を閉じた。
銀の音が、静かな大広間に響く。
「では」
誰に言うでもなく、咲夜は呟いた。
「時間を揃えましょう」
紅魔館の帳面が閉じられる。
次に開かれる時、夜霧会の逃げ道は、一つ減っている。