東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」*休載中 作:たこ焼き 龍月
永遠亭の診療所に、その本は持ち込まれた。
患者は人里の若い男だった。
顔色が悪い。
手には包帯が巻かれている。
目の下には寝不足の影があり、唇は乾いていた。
鈴仙・優曇華院・イナバは、男を座らせると、水を出した。
「どこが痛みますか」
「手が、熱いんです」
男は包帯の巻かれた右手を見せた。
鈴仙がそっと包帯を外す。
掌に、細い黒い線が浮かんでいた。
傷ではない。
墨のようにも見える。
火傷の跡にも見える。
だが、皮膚の上ではなく、内側に染み込んでいるような不自然さがあった。
鈴仙の表情が変わる。
「これは、何か触りましたね」
男は目を泳がせた。
「本を」
「本?」
「魔導書の写しです。紅魔館の……地下文庫から出たものだと」
鈴仙は男の顔を見た。
「紅魔館の?」
男は慌てて懐から布包みを取り出す。
中には、薄い本が一冊入っていた。
表紙には、古びた文字でこう書かれている。
**紅館地下文庫写し**
**紫魔女旧蔵断章**
鈴仙は、それをすぐには開かなかった。
紅魔館。
地下文庫。
紫魔女。
それだけで、誰を思わせるかは分かる。
鈴仙は本を布ごと盆に乗せ、奥へ向かった。
「師匠を呼びます」
*
八意永琳は、本を見ただけで眉をひそめた。
診療所の奥、薬棚の前に置かれた机の上に、偽写本が広げられている。
鈴仙は少し離れて立っていた。
永琳は直接手で触れず、細い器具で頁をめくる。
一頁目。
二頁目。
三頁目。
紙の端から、かすかな黒い粉が落ちた。
「粗悪ね」
永琳は短く言った。
「呪いですか」
鈴仙が聞く。
「呪いというほど完成していないわ。魔術の式になり損ねたもの。薬で言えば、成分表だけ見て煎じた毒草の煮汁ね」
「危ないということですね」
「完成品ではないから安全、というわけではないのよ」
永琳は本の表紙を見る。
**紫魔女旧蔵断章**
「パチュリーが見たら怒るでしょうね」
鈴仙は男の掌に浮いた黒い線を見る。
「手の黒い線は」
「紙に塗られた魔力定着剤が、皮膚に移ったのでしょう。河童製の簡易複写墨に似ている。ただし、調合が雑。触れた者の魔力に反応して、熱を持つ」
「治りますか」
「治るわ。けれど、長く持っていたら厄介だったかもしれない」
永琳は本を閉じた。
「鈴仙。紅魔館へ知らせなさい」
「紅魔館へ、ですか」
「これは紅魔館のものではないでしょう。だからこそ知らせるの」
永琳は静かに続けた。
「紅魔館の名前で危ない紙が出回る。放っておけば、次に傷つくのは触った者だけでは済まないわ」
*
知らせを受けたパチュリー・ノーレッジは、昼過ぎに永遠亭へ来た。
珍しいことだった。
紅魔館の外へ出ることを好まない彼女が、霧の湖を越え、竹林を抜けて、わざわざ永遠亭まで来た。
付き添いは小悪魔。
咲夜も一緒だった。
永琳は二人を診療所の奥へ通した。
「来るのが早いわね」
永琳が言うと、パチュリーは椅子に座りながら答えた。
「私の本の名前を使われたと聞いたから」
「あなたの本ではないわ」
「分かっているわ。だから不愉快なの」
永琳は机の上の写本を示した。
「患者は軽い魔力熱。処置済み。命に関わるものではなかったけれど、数が出回れば面倒よ」
パチュリーは写本を手に取った。
小悪魔が慌てる。
「パチュリー様、直接触って大丈夫ですか」
「この程度なら」
パチュリーは頁をめくる。
しばらく読む。
読み進めるほど、表情が消えていく。
咲夜はその横顔を見ていた。
これは怒っている。
静かに、かなり怒っている。
パチュリーは本を閉じた。
「私の蔵書の名を使うには、紙も墨も魔力も足りないわ」
小悪魔は小さく頷く。
「内容は」
「断章と呼ぶのも嫌ね。式の順番が違う。注釈が欠けている。魔力の流し方を理解していない。誰かが古い魔術用語を拾って、それらしく並べただけ」
永琳が言う。
「危険性は」
「読んで理解しようとすれば危険。理解できなければ、触っただけで少し痛い程度。でも、半端に魔力のある者が扱えば事故になる」
咲夜の目が冷える。
「人里へ出回らせるには十分、ということですね」
「ええ」
パチュリーは表紙を指で叩いた。
「これは魔導書ではない。紅魔館の名前を使った不良品よ」
永琳は紙片を一枚取り出した。
「紙に無縁塚由来の古紙が混ざっている。墨は河童製の簡易複写機に近い。さらに、霧の湖周辺の湿気を吸っている」
小悪魔が言う。
「前に紅魔館で見た偽写本と同じですね」
咲夜は頷いた。
「夜霧会」
パチュリーは静かに言った。
「湖畔の商人が、私の地下文庫を騙ったわけね」
咲夜は写本を布で包み直した。
「これで、夜霧会の偽装は三つです。紅魔館封印紙。命蓮寺荷札。そして魔導書の偽写本」
永琳が椅子に腰かける。
「守矢の水利札も出ていると聞いたわ」
「紙片は見つかっています。まだ使われた場所は調査中です」
「なら、相手は湖畔物流だけではないわね」
永琳の声は落ち着いている。
「紅魔館の恐怖、命蓮寺の救済物流、守矢の水利、そして魔導書の知識。それぞれの勢力の“信用される印”を集めて、商売に変えている」
咲夜は静かに答えた。
「ええ。夜霧会は、荷を運んでいるのではありません」
「何を運んでいるの」
永琳が聞く。
咲夜は少しも迷わなかった。
「名前です」
*
人里では、その偽写本がすでに噂になっていた。
紅魔館の地下文庫から流れたらしい。
パチュリーの蔵書の写しらしい。
持っていれば魔法が使えるらしい。
高く売れるらしい。
紅魔館の関係者が裏で流しているらしい。
噂は、真実より軽い。
だからよく飛ぶ。
魔理沙は、人里の古道具屋でその噂を聞いた。
「紅魔館の魔導書だって?」
店主は小声で言う。
「写しだそうで」
「誰が売ってる」
「それは知りませんよ。ただ、湖畔の方から来た商人が」
「いくらだ」
「高いですよ」
「高いかどうかは中身次第だ」
魔理沙は笑った。
店主は慌てて奥から一冊を出した。
布に包まれた薄い写本。
表紙には、こう書かれている。
**湖畔貴館秘本**
**紅き魔女の夜学**
魔理沙はそれを開いた。
一頁目を見た瞬間、眉を寄せる。
二頁目で顔をしかめる。
三頁目で閉じた。
「ひでえな」
店主が怯える。
「危ないものですか」
「危ない以前に、雑だ。パチュリーの本を騙るなら、もっと読ませるものを書け」
「買いますか」
「買わない」
魔理沙は本を布に包み直した。
「これは紅魔館へ渡す」
「えっ」
「売ったら怒られるぜ。紅魔館に」
店主は顔を青くした。
魔理沙は写本を持ち上げる。
「それに、私もこういう粗悪品は嫌いなんでね」
店を出た魔理沙は、その足で博麗神社へ向かった。
霊夢は縁側で茶を飲んでいた。
「何よ、また拾い物?」
「拾ったんじゃない。買わずに回収した」
「つまり盗ったの?」
「人里を守ったと言ってくれ」
霊夢は呆れた顔をする。
魔理沙は写本を差し出した。
「紅魔館の偽写本だ。かなり出回ってるかもしれない」
霊夢は表紙を見て顔をしかめた。
「また紅魔館?」
「紅魔館の名前を使った何か、だな」
霊夢は写本を開きかけて、すぐに閉じた。
「嫌な感じ」
「だろ」
「パチュリーに渡す?」
「咲夜が来ると思うぜ」
魔理沙の言葉通り、数瞬後、咲夜が神社の境内に立っていた。
霊夢は驚かなかった。
「早いわね」
「魔導書の偽写本が人里へ流れていると聞きました」
魔理沙が写本を掲げる。
「これだ」
咲夜は受け取る。
表紙を見た瞬間、表情が冷たくなった。
「紅き魔女の夜学」
霊夢が聞く。
「本物?」
「本物なら、魔理沙が黙って持ってきません」
魔理沙が笑う。
「よく分かってるな」
「分かっています」
咲夜は写本を箱に収めた。
「博麗神社にもお願いがあります」
霊夢が嫌そうな顔をする。
「面倒なお願い?」
「人里へ通達を。紅魔館名義、または紅魔館地下文庫名義の魔導書写本は、紅魔館と博麗立会いなしに売買しないように」
「紅魔館が直接言えば?」
「紅魔館が言うと、恐れて隠されます。博麗が言えば、まだ表へ出ます」
霊夢は少し黙った。
「それ、紅魔館が恐れられてる自覚はあるのね」
「当然です」
「その恐れを夜霧会に使われた」
「ええ」
咲夜の声が低くなる。
「ですから、回収します」
霊夢は茶を置いた。
「本だけじゃなくて?」
「噂ごと」
*
その日の夕方、寺子屋にも写本が持ち込まれた。
慧音は机の上に置かれた三冊の偽写本を見て、深くため息をついた。
持ってきたのは妹紅だった。
「人里の外れで見つけた。若い連中が面白半分に回してたぞ」
「触った者は」
「一人、手が熱いと言って永遠亭へ行かせた。命に関わるような感じではなかったが」
慧音は写本を開く。
中身は読めない。
専門的な魔術式の形をしているが、どこか歪んでいる。
知識がない者には本物に見える。
少し知識がある者には怪しい。
よく知る者には粗悪。
そういう本だった。
つまり、騙す相手を選んでいる。
「悪質だな」
慧音は言った。
「本物を知らない者に、本物の名で売る」
妹紅は腕を組む。
「紅魔館の名前で脅すのと同じか」
「同じだ。信頼と恐れを、別の者が使っている」
そこへ、咲夜とパチュリーが現れた。
妹紅が少し驚く。
「また急に来るな」
咲夜は一礼する。
「失礼します。偽写本の回収に参りました」
パチュリーは机の上の本を見る。
「増えているわね」
慧音は問う。
「人里にはどの程度出回っている」
咲夜は答える。
「現在確認できているだけで八冊。永遠亭へ一冊、博麗へ一冊、寺子屋へ三冊。残りは湖畔の古物商から回収中です」
パチュリーが本を一冊開く。
「同じ版ではないわね。表題を変えている。紅館地下文庫、紫魔女旧蔵、紅き魔女、湖畔貴館。どれも、私の名を直接出さずに匂わせている」
慧音は帳面を開いた。
「逃げ道を残すためか」
「ええ」
パチュリーは不愉快そうに言った。
「臆病な偽造ね」
妹紅が写本を指す。
「これ、危険なのか」
パチュリーは少し考えた。
「普通の人間が読んでも、ほとんど意味はない。ただし、魔力を持つ者が半端に使うと事故になる」
「事故?」
「火が出る、幻覚を見る、手が熱を持つ、物が少し動く。大きなことは起きないけれど、小さな騒ぎには十分」
咲夜が続ける。
「小さな騒ぎが起これば、紅魔館の魔導書が危険だという噂が広がります」
慧音は頷いた。
「紅魔館を疑わせるためか」
「あるいは、紅魔館の名で高く売るためです」
咲夜は机に夜霧会の帳面の写しを置いた。
そこには、品目の一覧がある。
**赤館封紙**
**寺荷止め用札**
**山水利写し**
**地下文庫断章**
**妹君噂札**
慧音の目が鋭くなった。
「妹君噂札」
咲夜は少しだけ声を低くする。
「はい」
妹紅も黙った。
パチュリーは本を閉じる。
「夜霧会は、紅魔館の名、命蓮寺の荷、守矢の水利、そしてフランドールの噂まで商品にしている」
慧音は筆を止めた。
「これは、単なる偽写本ではないな」
「ええ」
咲夜は静かに答えた。
「夜霧会は、幻想郷の勢力名を商品棚に並べています」
*
その夜、紅魔館の図書館は明かりが消えなかった。
パチュリーは偽写本を机に広げ、紙片を分類している。
小悪魔が横で記録を取る。
「こちらが永遠亭からの写本。こちらが博麗神社。こちらが寺子屋。こちらが湖畔古物商」
「表題は違うけれど、版の癖は同じね」
パチュリーは頁の端を指す。
「ここ。複写時の墨のにじみが同じ形をしている。簡易複写機の板に傷がある」
小悪魔が顔を上げる。
「つまり、同じ機械で刷られた?」
「おそらく」
「河童製ですか」
「河童製の安物を改造したものね。正規の工房なら、もう少し精度が出る」
パチュリーは紙の匂いを嗅ぐ。
「霧の湖の湿気。無縁塚の古紙。河童の墨。命蓮寺の荷札由来の繊維。紅魔館の廃棄封印紙由来の魔力残滓」
小悪魔はぞっとした。
「いろいろ混ざっていますね」
「寄せ集めの商売よ」
パチュリーは写本を閉じる。
「本物を持たない者が、本物の影だけを集めている」
そこへ咲夜が入ってきた。
「製造元は割れそうですか」
「湖畔の古い倉庫。湿度と紙の劣化から見て、水際ではなく少し内側。窓が少なく、火を使える場所。複写機を隠せる広さが必要」
咲夜は美鈴の地図を広げる。
湖畔に点が打たれている。
逃走路。
古い桟橋。
夜霧会の看板倉庫。
紅魔館指定を騙った偽倉庫。
パチュリーはそのうちの一つを指した。
「ここ」
咲夜の目が細くなる。
「第三倉庫」
「紙の湿り方が合う」
咲夜は頷いた。
「美鈴が確認した逃走路からも近い」
「押さえるの?」
「まだです」
咲夜は地図を畳む。
「今押さえれば、黒羽霧重が逃げます。先に写本の流通先をすべて回収し、博麗と人里に通達。命蓮寺にも共有します。その上で、第三倉庫を見張ります」
パチュリーは少しだけ感心したように言った。
「丁寧ね」
「紅魔館の制裁ですから」
「派手に壊さないの?」
「逃げ道を消してからで十分です」
パチュリーは小さく笑った。
「咲夜らしい」
*
翌日、人里には通達が出された。
博麗神社、人里寺子屋、紅魔館の連名だった。
**紅魔館名義、紅魔館地下文庫名義、またはそれを匂わせる魔導書写本について。**
**正式な確認印なきものは偽物と見なす。**
**売買、貸借、書写を禁ず。**
**所持者は博麗神社、寺子屋、紅魔館使者のいずれかへ届け出ること。**
**触れて異常が出た場合、永遠亭へ相談のこと。**
人里の者たちは、それを見てざわついた。
「やっぱり偽物だったのか」
「紅魔館の本じゃなかったんだな」
「持っているだけで怒られるのか」
「いや、届け出ればいいらしい」
「紅魔館に届けるのは怖い」
「なら寺子屋へ持っていけ」
慧音は寺子屋で回収箱を用意した。
妹紅はその横に立つ。
「本を入れる箱にしては厳重だな」
「半端な魔力がある。普通の箱では危ない」
「紅魔館に任せればいいのに」
「人里の者は紅魔館へ持っていくのを怖がる」
「それも紅魔館の信用ってやつか」
「恐れも信用の一部だ」
慧音は言った。
「だから、使われた」
その日のうちに、さらに四冊が集まった。
どれも表題が違う。
だが、どれも紅魔館を匂わせている。
夜には、咲夜がそれを受け取りに来た。
慧音は写本を渡しながら言う。
「人里では、紅魔館が本当に魔導書を流していると思った者もいた」
「でしょうね」
「怒らないのか」
「怒っています」
咲夜は静かに答えた。
「だから、こうして一冊ずつ回収しています」
慧音は帳面を開いた。
「夜霧会は、人の恐れと憧れを使っている」
「紅魔館への恐れ。魔導書への憧れ。命蓮寺の荷への信頼。守矢の札への信用」
咲夜は続けた。
「すべてを紙にして売っている」
「紙は軽いが、名は重い」
「ええ」
咲夜は写本の入った箱を持ち上げた。
「その重さを、思い知らせます」
*
紅魔館の大広間に、回収された偽写本が積まれた。
数は十五冊。
題名はすべて違う。
だが、どれも同じ場所から生まれていた。
レミリアは、それを退屈そうに眺めている。
「ずいぶん増えたわね」
パチュリーが不機嫌に答える。
「粗悪品の山よ」
「売れていたの?」
咲夜が答える。
「高値で買った者もいます。紅魔館の地下文庫、パチュリー様の蔵書、そうした噂を信じて」
レミリアは小さく笑った。
「紅魔館の名は高いのね」
「勝手に値をつけられました」
「許せないわね」
声は軽い。
だが、目は冷たい。
咲夜は地図を広げた。
「偽写本の製造元は、湖畔第三倉庫と推定。パチュリー様の分析、美鈴の逃走路調査、人里での流通経路が一致しています」
「黒羽霧重は?」
「まだ姿を見せていません。ただし、第三倉庫に出入りする船便の中に、黒羽の側近がいます」
「つまり、そこを押さえれば喉元に届く」
「はい」
レミリアは立ち上がった。
「まだ潰さないの?」
咲夜は深く頭を下げる。
「明日、博麗神社で一時評定があります。夜霧会は紅魔館の噂をさらに流すでしょう。各勢力の前で証拠を示し、紅魔館への疑いを完全に払ってから動きます」
レミリアは少し不満そうに目を細めた。
「退屈ね」
「必要な退屈です」
パチュリーが横で言う。
「珍しく咲夜に同意するわ。中途半端に潰せば、夜霧会は“紅魔館が証拠を消した”と噂を流す」
レミリアは二人を見た。
そして、ため息をつく。
「いいわ。証拠を揃えなさい」
咲夜は頷く。
「すでに揃いつつあります」
「なら、次は評定ね」
レミリアは窓の外を見る。
霧の湖は、夜に沈んでいる。
「紅魔館が疑われる場に、私が出る」
小悪魔が少し驚く。
「お嬢様自ら?」
レミリアは笑った。
「私の名前で商売されたのよ。私が退屈して何が悪いの」
咲夜は一礼する。
「では、準備を」
「ええ」
レミリアは偽写本の山を見た。
「夜霧会は、紅魔館の影で商売をした。命蓮寺の荷を止め、パチェの本を汚し、人里を怯えさせた」
声が少し低くなる。
「次は、紅魔館本人が表に出る番ね」
*
その夜、パチュリーは図書館で最後の分析記録を書いていた。
小悪魔が横で偽写本を束ねる。
外では、妖精メイドたちが走り回っている。
咲夜は評定に持ち込む証拠を整えている。
美鈴は湖畔第三倉庫の見張りについた。
レミリアは、明日の評定に出るため、珍しく早めに支度をしている。
小悪魔がぽつりと言った。
「パチュリー様」
「何」
「魔導書って、怖いものなんですね」
パチュリーは少しだけ顔を上げる。
「本は怖いわよ」
「中身が、ですか」
「中身も。名前も」
パチュリーは偽写本の表紙を指で押した。
「本物の本には、読む者を変える力がある。だから、本物の名を借りた偽物も人を動かす。中身が空でも、名前だけで人は触ってしまう」
小悪魔は静かに頷いた。
パチュリーは本を閉じる。
「夜霧会は、知識を売っているのではない。知識への憧れを売っている」
「紅魔館の恐れと同じですね」
「ええ」
パチュリーは窓のない図書館の奥を見た。
「恐れも、憧れも、名前があるから生まれる。だから、名前を使われたら潰さなければならない」
小悪魔は少しだけ身を正した。
「紅魔館として」
「図書館としても」
パチュリーは筆を置いた。
分析記録の最後には、こう書かれていた。
**偽写本、湖畔第三倉庫にて製造された可能性高し。
紙、墨、湿気、魔力残滓、すべて一致。
パチュリー・ノーレッジの蔵書との直接関係なし。
ただし、名を利用した悪質な偽装と判断。**
パチュリーは小悪魔に命じた。
「これを咲夜へ」
「はい」
「それから」
「はい」
「明日の評定、私は行かない」
小悪魔が驚く。
「えっ」
「代わりに、これを持っていけば十分よ。私は本物の図書館を守る」
小悪魔は分析記録を受け取った。
「分かりました」
パチュリーは椅子に深く座り直した。
その目は静かだったが、怒りは消えていない。
粗悪な偽写本は、図書館の隅に積まれている。
それは本ではない。
紅魔館の名を貼られた、ただの紙束だ。
けれど、その紙束が人里を騒がせ、永遠亭に患者を出し、博麗を動かし、紅魔館の評定を呼んだ。
紙は軽い。
だが、名は重い。
そして夜霧会は、その重さをまだ知らない。
翌日、博麗神社で紅魔館は疑われることになる。
だが、咲夜の帳面はすでに揃っていた。
封印紙。
荷札。
写本。
証言。
倉庫。
紙と墨。
すべては湖畔第三倉庫へ伸びている。
紅魔館の制裁は、もう霧の向こうまで届いていた。