東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」*休載中 作:たこ焼き 龍月
噂は、夜のうちに人里へ入った。
荷車より早く、船より軽く、札よりも薄い。
誰が言い始めたのかは分からない。
井戸端で女が聞いた。
問屋の裏で番頭が聞いた。
火消しの詰所で若い衆が聞いた。
古道具屋で魔導書の写しを売ろうとしていた男が聞いた。
命蓮寺の荷を待っていた者も、守矢の水利札を持っていた者も、同じような話を耳にした。
紅魔館が、霧の湖の荷を止めている。
紅魔館が、命蓮寺の救済物資に封をした。
紅魔館が、守矢の水利札を盗んだ。
紅魔館が、魔導書の写しを人里に流している。
紅魔館が、湖畔の通行料を取るつもりだ。
紅魔館が、地下の妹君の名で商人を脅している。
どれも、はっきりした証拠はない。
だが、どれも紅魔館ならありそうだと思わせる程度には、形を持っていた。
赤い封印紙。
黒い蝋。
湖畔倉庫。
魔導書。
吸血鬼。
地下の妹君。
真実でなくても、噂には十分だった。
*
人里の寺子屋で、上白沢慧音は朝から帳面を開いていた。
机の上には、回収された偽写本が二冊。
紅魔館封印紙の偽物が一枚。
命蓮寺の荷止めに使われた木札の写し。
そして、火消しの若い衆が持ち込んだ噂の聞き書き。
藤原妹紅は縁側に腰を下ろし、腕を組んでいる。
「増えたな」
「噂がか」
「紙もだ」
慧音は筆を置いた。
「紙は回収できる。噂は難しい」
「紅魔館がやったと思ってる奴もいるのか」
「いる」
「咲夜が聞いたら冷えそうだな」
「すでに冷えているだろう」
妹紅は苦笑した。
慧音は聞き書きに目を落とす。
紅魔館が命蓮寺を妨害した。
紅魔館が湖畔倉庫を増やした。
紅魔館が人里の商人を名指しで脅した。
紅魔館が守矢の水路へ手を出した。
どれも、紅魔館が直接やった証拠はない。
しかし、紅魔館の名は強すぎる。
強い名前は、証拠より先に人を黙らせる。
「夜霧会は分かっている」
慧音は低く言った。
「紅魔館は恐れられている。その恐れがあれば、相手は勝手に想像する」
「名前を直接使わなくても、か」
「そうだ」
妹紅は外を見る。
人里の道を、守矢の御札を持った商人が急ぎ足で歩いていく。
「守矢も巻き込まれるな」
「すでに水利札の噂が出ている」
「命蓮寺は怒ってる」
「村紗は特にな」
「博麗は?」
慧音は帳面を閉じた。
「今日、評定を開く」
「紅魔館も呼ぶのか」
「呼ばざるを得ない。呼ばなければ、噂だけで裁くことになる」
妹紅は立ち上がった。
「紅魔館が素直に来るか?」
慧音は少し黙った。
「来る」
「根拠は」
「名前を使われたからだ」
*
博麗神社には、昼前から人が集まっていた。
霊夢は賽銭箱の前に立ち、すでに面倒そうな顔をしている。
魔理沙は縁側に腰を下ろし、偽写本を一冊ぱらぱらとめくっていたが、すぐに閉じた。
「読むほど腹が立つな、これ」
「読まないでよ。変なことになったら永遠亭へ運ぶの、私なんだから」
「私はそんな粗悪品で変なことにはならないぜ」
「そういうやつが一番面倒なのよ」
霊夢はそう言って、境内に集まる者たちを見た。
人里から慧音と妹紅。
命蓮寺から白蓮、村紗、一輪。
守矢から神奈子と早苗。
永遠亭から永琳と鈴仙。
八雲から藍。
紫は来ていない。
来ていないが、どこかで見ているだろうと霊夢は思った。
神奈子は腕を組み、不機嫌そうに言った。
「守矢の水利札まで使われた。紅魔館の騒ぎで済む話ではない」
村紗がすぐに返す。
「うちは救済物資を止められた。こっちも紅魔館の都合で済ませる気はない」
早苗は困ったように二人を見る。
白蓮は静かに手を合わせている。
永琳は回収された写本を見て、冷静に言った。
「偽写本は、少なくとも紅魔館の正式な魔導書ではないわ。ただし、紅魔館を思わせる名前で売られていたことは事実」
鈴仙が続ける。
「軽い魔力熱を起こした患者が出ています。重症ではありませんが、数が増えれば問題です」
霊夢は額を押さえた。
「紅魔館、命蓮寺、守矢、永遠亭、人里。噂だけでこの人数。夜霧会ってのは、面倒なところばっかり突いてくるわね」
魔理沙が言う。
「紅魔館はまだか」
その瞬間、境内の空気が変わった。
石段の上に、十六夜咲夜が立っていた。
その後ろに紅美鈴。
さらに、小悪魔が証拠箱を抱えている。
そして最後に、レミリア・スカーレットが現れた。
小さな体。
紅い瞳。
悠然とした足取り。
昼の博麗神社に、紅魔館の主が立つ。
それだけで、境内の空気が少し冷えた。
霊夢は眉を上げる。
「本人が来たのね」
レミリアは微笑んだ。
「私の名前で商売をされたのよ。退屈しのぎにはちょうどいいわ」
村紗が低く言う。
「こっちは退屈じゃ済んでない」
レミリアは村紗を見る。
「でしょうね。寺の荷を止めたのだから、あなたが怒るのは当然よ」
村紗は少し言葉を詰まらせた。
レミリアは神奈子へ視線を移す。
「守矢の札も使われたそうね」
神奈子は答える。
「神の印も、吸血鬼の印も、商人の紙切れではない」
「同感だわ」
霊夢は咲夜を見る。
「証拠は?」
咲夜は深く一礼した。
「持参しました」
小悪魔が箱を開く。
中には、整理された紙束、封印紙、荷札、写本、封蝋片、湖畔倉庫の位置図、証言書が入っている。
咲夜は一枚目を取り出した。
「まず、紅魔館の正式封印紙と、夜霧会が使用した偽封印紙の比較です」
*
咲夜の説明は、刃物のように無駄がなかった。
「正式封印紙は黒縁二重。偽造品は一重。封蝋の押し位置が違い、蝋質も異なります。正式な紅魔館荷札には、咲夜確認印が必ず入ります。今回の偽造品には確認印がないか、位置が不正です」
咲夜は二枚の紙を並べた。
遠目には似ている。
近くで見ると違う。
それを誰もが確認できるように、咲夜は一つ一つ示した。
「次に、紅魔館湖畔倉庫という名称について。紅魔館には、そのような倉庫は存在しません」
美鈴が地図を広げる。
「湖畔に“紅魔館指定保管所”を名乗る看板が三つありました。紅魔館の正式管理地ではありません」
村紗が舌打ちする。
「あの看板でうちの荷が止められたわけか」
「はい」
咲夜は続けた。
「命蓮寺の荷を止めた倉庫番は、夜霧会の指示と証言しています。こちらが証言書です」
白蓮がそれを受け取る。
静かに読み、頷いた。
「確かに、命蓮寺の荷を紅魔館名義で止めるよう指示されたとあります」
「次に、命蓮寺の荷札」
咲夜は別の紙を出した。
「夜霧会の倉庫から、命蓮寺の正式荷札を写した紙片が見つかっています。紅魔館だけではなく、命蓮寺の信用も利用しています」
一輪の顔が曇る。
「救済物資の荷札まで」
村紗は拳を握った。
咲夜は神奈子へ向き直った。
「守矢の水利札に似せた紙片も見つかりました。ただし、実際にどこまで使われたかは調査中です」
神奈子は紙片を手に取る。
「似せてはいるが、神気が浅い」
早苗も覗き込む。
「形だけですね」
「形だけでも、知らない者は信じる」
神奈子は紙片を返した。
「夜霧会、いい度胸だ」
咲夜は最後に、偽写本を机代わりの板の上へ置いた。
「こちらが人里で回収された偽写本。紅魔館地下文庫、紫魔女、紅き魔女、湖畔貴館など、紅魔館およびパチュリー様を匂わせる表題が複数あります」
永琳が補足する。
「紙と墨、魔力定着剤は、患者に出た症状と一致します。紅魔館の正式魔導書ではありません」
魔理沙が腕を組む。
「中身もひどい。パチュリーなら絶対こんな書き方しない」
霊夢が魔理沙を見る。
「あんたが言うと妙に説得力あるわね」
「本は大事だからな」
小悪魔がパチュリーの分析記録を差し出した。
咲夜が読み上げる。
「偽写本は湖畔第三倉庫にて製造された可能性高し。紙、墨、湿気、魔力残滓、すべて一致。パチュリー・ノーレッジの蔵書との直接関係なし。ただし、名を利用した悪質な偽装と判断」
境内は静かになった。
紅魔館を疑うための材料が、紅魔館の持ち込んだ証拠で、一つずつ別の方向へ向いていく。
霊夢は咲夜を見る。
「つまり、紅魔館はやってない」
咲夜は答える。
「はい」
「命蓮寺の荷も止めていない」
「止めていません」
「魔導書も流していない」
「流していません」
「守矢の水利札も盗んでいない」
「少なくとも紅魔館は関与していません」
霊夢は今度、レミリアを見る。
「やってないと言える証拠は?」
レミリアは椅子もないのに、まるで玉座にいるように立っていた。
そして微笑む。
「証拠なら咲夜が持ってきたわ。私は、それまでこの場で退屈しているだけ」
霊夢は少しだけ呆れた顔をした。
「本当に退屈そうね」
「だって、私が直接説明するより、咲夜の帳面の方が怖いもの」
咲夜は静かに一礼した。
*
しかし、全員がすぐ納得したわけではない。
村紗は腕を組んだまま言った。
「紅魔館がやってない証拠は見た。でも、紅魔館の名前が使われたのは事実だ」
「その通りです」
咲夜は即答した。
「だから紅魔館が回収します」
「回収?」
「偽封印紙、偽荷札、偽写本、偽倉庫、噂の流通経路。すべてです」
美鈴が静かに言う。
「湖畔の逃げ道も見ています。夜霧会が船で逃げても、山側へ抜けても、追えます」
神奈子が問う。
「守矢の水利札の偽造元も押さえるのか」
「もちろんです」
咲夜は答えた。
「夜霧会が使った印は、紅魔館だけの問題ではなくなっています」
永琳が言う。
「偽写本で患者が出た以上、永遠亭としても放置できないわ」
白蓮も頷いた。
「命蓮寺の救済物資を止めた責任も問います」
霊夢は全員を見回した。
「夜霧会がやったことは分かった。でも、ここで各勢力が勝手に動いたら、また抗争になる」
村紗は不満そうにする。
「じゃあどうする」
霊夢は咲夜を見る。
「紅魔館が主導するの?」
咲夜は答える前に、レミリアを見た。
レミリアが小さく頷く。
咲夜は霊夢へ向き直る。
「紅魔館が主導します。ただし、博麗神社、人里、命蓮寺、守矢、永遠亭へ証拠を共有します。夜霧会の各倉庫を押さえる際は、関係する印が使われた勢力に立会いを求めます」
慧音が筆を走らせる。
「証拠保全は」
「小悪魔と妖精メイドが目録を作ります。人里関係の証言は慧音様に写しを渡します。永遠亭関係の写本被害は永琳様へ。命蓮寺の荷止め記録は白蓮様へ。守矢の水利札は神奈子様へ」
霊夢は少し感心したように言う。
「準備がいいわね」
「紅魔館ですので」
魔理沙が笑う。
「咲夜の“紅魔館ですので”は、だいたい怖いな」
咲夜は無視した。
*
その時、境内の端に一人の商人が駆け込んできた。
人里の問屋筋の男だった。
息を切らし、顔色が悪い。
「博麗様、慧音様!」
慧音が立ち上がる。
「どうした」
「また紙が……夜のうちに店に」
男は震える手で紙を差し出した。
赤い紙。
紅魔館の封印紙に似せたものではない。
今度は、噂札だった。
そこには、こう書かれていた。
**紅魔館評定出席中。
湖畔倉庫閉鎖前に荷を移せ。
妹君注意。**
境内の空気が、一瞬で変わった。
美鈴の表情が消える。
咲夜の目が冷える。
レミリアは微笑んだまま動かない。
白蓮が小さく息を呑む。
神奈子は目を細めた。
霊夢は紙を見て、低く言った。
「評定中に動かしてるわね」
咲夜は紙を受け取り、見る。
「湖畔倉庫閉鎖前に荷を移せ」
美鈴がすぐに地図を見る。
「第三倉庫から、古い桟橋へ抜ける道があります」
咲夜は懐中時計を開いた。
「動き出しましたね」
レミリアがようやく口を開いた。
「咲夜」
「はい」
「退屈が終わったわ」
咲夜は静かに一礼する。
「では、紅魔館の反撃を開始します」
霊夢が声を挟む。
「待ちなさい。ここは博麗神社よ」
レミリアは霊夢を見る。
「止める?」
「止めない。ただ、勝手に幻想郷中を荒らされると困る」
レミリアは小さく笑った。
「荒らさないわ。片づけるだけ」
霊夢は咲夜を見た。
「証拠は保全。関係勢力に立会い。人里へ被害を出さない。命蓮寺の荷は優先して通す。偽写本は回収。守矢札も押さえる」
「承知しています」
「それと」
霊夢はレミリアを見る。
「フランドールは出すな」
境内が静かになる。
レミリアはしばらく霊夢を見ていた。
そして、にっこり笑った。
「出さないわ。まだ」
霊夢は嫌そうな顔をする。
「その“まだ”が一番嫌なのよ」
レミリアは答えない。
*
咲夜の指示は早かった。
「美鈴。湖畔第三倉庫から古い桟橋までの道を封じて」
「はい」
「小悪魔。偽写本と封印紙の証拠箱を博麗と慧音様へ一時保管。写しを命蓮寺と守矢へ」
「はい」
「妖精メイド隊は、湖畔倉庫の目録作成班、船便確認班、紙片回収班に分けます」
美鈴が門番らしからぬ鋭い顔で頷く。
「逃げ道は任せてください」
村紗が前へ出た。
「船便は私も行く」
咲夜は一瞬だけ村紗を見る。
「命蓮寺の船を使えますか」
「夜霧会の船を逃がすくらいならな」
「助かります」
神奈子は早苗に言う。
「守矢の札を使われた倉庫を確認しろ。早苗、あなたも行きなさい」
「はい」
永琳は鈴仙へ向く。
「偽写本で具合の悪くなった者がいないか、人里を回って確認」
「はい」
慧音は帳面を閉じた。
「私は人里へ戻る。噂札がどの店に届いたか確認する」
妹紅が言う。
「私も行く。妙な連中がいたら足止めする」
霊夢は御幣を担いだ。
「私はここから全体を見る」
魔理沙がにやりとする。
「私は第三倉庫を見に行くぜ」
「盗むなよ」
「失礼だな。見るだけだ」
「見るだけで済んだ試しがない」
咲夜は懐中時計を閉じた。
銀の音が鳴る。
「時間を区切ります。日没までに証拠を押さえ、夜霧会の荷移しを止める。黒羽霧重本人は、まだ泳がせます」
村紗が不満そうに聞く。
「なぜだ」
「頭を押さえるには、本人が自分の荷へ戻る時を待つ方が確実です」
美鈴が言う。
「逃げ道を塞いでから、ですね」
「ええ」
咲夜はレミリアを見る。
レミリアは満足そうに微笑んだ。
「いいわ。逃げ道を全部消してから、私の前に連れてきなさい」
咲夜は深く頭を下げた。
*
評定はそこで終わった。
いや、正確には、評定が作戦会議へ変わった。
紅魔館を疑うために集まった者たちは、気づけば紅魔館の証拠を手に、夜霧会を追う側になっていた。
霊夢は境内に残り、ため息をついた。
「結局、紅魔館主導じゃない」
藍が静かに言った。
「ただし、今回は証拠が共有されています」
「そこが救いね」
霊夢は賽銭箱に寄りかかる。
「紅魔館が本気で怒ってる時点で、もう半分終わってるわね」
藍は湖畔の方を見る。
「残り半分は?」
霊夢は短く答えた。
「咲夜が終わらせる」
*
人里では、慧音と妹紅が噂札を集めていた。
届いた店は七つ。
すべて湖畔と取引のある問屋。
すべて、夜のうちに裏口へ差し込まれていた。
文面は少しずつ違う。
**紅魔館評定中。荷を移せ。**
**湖畔倉庫、今夜閉鎖。赤館筋注意。**
**妹君注意。紙は燃やせ。**
**命蓮寺荷、別便へ回せ。**
慧音は一枚ずつ写した。
ただし、商人の名前は伏せる。
妹紅が聞く。
「名前は書かないのか」
「書けば、夜霧会に脅された商人として残る」
「じゃあ、どうする」
「店の位置と紙の文面だけ記録する。証言者名は別封で保管する」
「細かいな」
「細かくしないと、人は紙で傷つく」
妹紅は何も言わなかった。
外では、湖畔の方へ向かう美鈴と村紗の姿が遠くに見えた。
「紅魔館と命蓮寺が一緒に動いてるぞ」
妹紅が少し笑った。
「夜霧会、本当に喧嘩を売る相手を間違えたな」
慧音は静かに答えた。
「間違えたのではない。利用できると思った」
「どっちにしても終わりだ」
*
日が傾く頃、霧の湖の上には、静かな包囲網が広がっていた。
命蓮寺の船が水路を押さえる。
美鈴が湖畔の道を塞ぐ。
妖精メイド隊が倉庫の周囲を記録して回る。
早苗が守矢札の偽物を見つけ、神奈子へ報告を送る。
魔理沙は第三倉庫の屋根から中を覗き、偽写本の束を確認した。
咲夜は、時間を刻みながらすべての報告を一本の線へまとめていく。
夜霧会は、紅魔館を包囲したつもりだった。
噂で囲み、偽札で縛り、評定に引きずり出し、その隙に荷を逃がすつもりだった。
だが、実際に包囲されていたのは夜霧会の方だった。
咲夜は湖畔の小高い場所に立ち、懐中時計を開いた。
美鈴が近づく。
「第三倉庫、荷の移動を始めました」
「船は」
「村紗さんが水路を押さえています」
「山道は」
「私が見ています」
「偽写本は」
「魔理沙さんが“見つけた”そうです」
咲夜は少しだけ目を細めた。
「盗ってはいませんね」
「たぶん」
「たぶん、では困ります」
美鈴は苦笑した。
咲夜は湖畔第三倉庫を見た。
霧の中、黒い影が動いている。
夜霧会の者たちは、まだ自分たちが逃げられると思っている。
咲夜は懐中時計を閉じた。
「では、始めます」
「制圧ですか」
「まだです」
咲夜は静かに言った。
「今は、最後の逃げ道を確認する時間です」
美鈴は頷いた。
「咲夜さん、こういう時、本当に怖いですね」
「紅魔館の従者ですので」
霧の湖に、夕闇が落ちていく。
紅魔館包囲網。
夜霧会がそう呼んだ噂は、逆に自分たちを縛る網になった。
紅魔館は疑われた。
だが、疑いの場に証拠を持ち込み、疑いを刃に変えた。
次に来るのは、制裁だった。
*
その夜、紅魔館の大広間で、レミリアは咲夜から報告を受けた。
湖畔第三倉庫の位置。
偽写本の束。
夜霧会の船便。
守矢札の偽造紙片。
命蓮寺荷札の写し。
人里への噂札。
黒羽霧重の側近の出入り。
すべてが揃いつつあった。
レミリアは静かに聞いていた。
そして最後に言った。
「明日ね」
咲夜は頷く。
「はい。夜霧会が第三倉庫から主荷を動かす時に、全拠点を同時に押さえます」
「美鈴は」
「逃走路を封鎖」
「パチェは」
「偽写本の魔力追跡を継続」
「命蓮寺は」
「船便を押さえます」
「守矢は」
「水利札偽造の倉庫へ立会い」
「博麗は」
「全体の立会い」
「人里は」
「証言保全」
レミリアは満足そうに微笑んだ。
「いいわ」
咲夜は一礼する。
その時、大広間の扉の向こうから、軽い足音が聞こえた。
フランドールだった。
咲夜の表情が一瞬だけ固まる。
レミリアは振り返らない。
扉の向こうで、フランドールの声がした。
「お姉様」
「何かしら」
「私の名前、まだ使われてる?」
大広間の空気が静まる。
レミリアは少しだけ笑った。
「ええ。まだね」
「ふうん」
フランドールの声は明るい。
それが逆に、部屋の者たちを黙らせた。
「じゃあ、明日は私も見る」
咲夜が言いかける。
「妹様、それは」
レミリアが手で制した。
「いいわ」
咲夜は驚いてレミリアを見る。
レミリアは静かに言った。
「出すとは言っていない。見るだけよ」
扉の向こうで、フランドールが笑った。
「見るだけ」
その声を聞いて、レミリアは窓の外を見た。
霧の湖は暗い。
その向こうに、夜霧会がいる。
紅魔館の恐怖を勝手に売った者たち。
紅魔館の名前で他者を黙らせた者たち。
紅魔館の妹の名まで紙にした者たち。
レミリアは静かに言った。
「明日で終わらせるわ」
咲夜は深く頭を下げた。
「承知しました」
紅魔館を包囲したつもりの夜霧会は、知らない。
紅魔館は、包囲された時こそ強い。
館の門は閉じている。
だが、その影はもう湖畔全体へ伸びていた。