夜の人里は、昼間よりもよく喋る。
雨戸の隙間。
消し忘れた灯り。
土間に置かれた草履の向き。
誰が家にいて、誰が外へ出たか。
誰が怯えて、誰が怒っているか。
そういうものが、夜になると妙にはっきり見える。
寺子屋の門前に立つ藤原妹紅は、遠くの倉庫街を見ていた。
東の空が赤い。
火ではない。
提灯と松明の明かりだ。
誰かが集まっている。
いや、集められている。
火消し、問屋、守矢の信徒、命蓮寺の荷役、紅魔館の関係者、白玉楼に借りのある者たち。
皆、自分の意思で来たつもりなのだろう。
だが、本当は違う。
誰かの噂に背中を押され、誰かの借金に首を掴まれ、誰かの信仰に引き寄せられ、誰かの恐怖に動かされている。
人間は、縄で縛られなくても動く。
金、義理、恐れ、恥。
それだけで、いくらでも歩かされる。
「妹紅」
慧音が寺子屋から出てきた。
手には帳面の写しがある。
懐には古い巻物。
顔は静かだったが、目だけはいつもより鋭い。
「中はどうだ」
「子供たちは小鈴が見ている。阿求は写しを整理している。鈴仙は薬を分けている。早苗は守矢の信徒を押さえている」
「霊夢は?」
「寝ている」
「は?」
妹紅が振り返ると、縁側で博麗霊夢が本当に横になっていた。
湯呑みを横に置き、片肘を枕にしている。
「おい」
「寝てないわよ」
霊夢は目を閉じたまま言った。
「聞いてるだけ」
「起きろ」
「必要になったら起きる」
「今が必要な時だろ」
「まだよ」
妹紅は舌打ちした。
霊夢はこういう時ほど動かない。
動かないことで、全員を見ている。
その余裕が腹立たしい。
寺子屋の門の外では、火消しの者たちが桶と鳶口を並べていた。問屋の若い衆は荷車を路地に置き、道を塞いでいる。早苗は守矢の信徒たちに、倉庫街へ近づかないよう必死に言い聞かせていた。
「神奈子と諏訪子は?」
妹紅が聞く。
「倉庫街の外側を押さえると言っていた」
「信用できるのか」
「信用ではない。利害だ」
慧音は短く答えた。
守矢はこれ以上、人里で疑われるわけにはいかない。
永遠亭も同じだ。
博麗も、寺子屋が燃えれば無関係ではいられない。
八雲は後始末をしなければならない。
信用はない。
だからこそ、今だけは同じ方向を向ける。
寺子屋の庭の隅で、鈴仙が薬箱を閉じた。
「慧音さん、最低限の応急薬は分けました。でも、眠り薬や鎮静系のものは全部しまっています」
「それでいい」
「永琳師匠から伝言です」
鈴仙は少し緊張した顔で続けた。
「薬を使う側にも責任がある。けれど、薬を恐れて必要な治療まで拒むな、と」
妹紅は鼻を鳴らした。
「あいつらしい言い方だ」
「それと、妹紅さんには……」
「私に?」
「輝夜様からです」
妹紅の眉間に皺が寄る。
「言わなくていい」
「『燃やすなら、ちゃんと意味のあるものを燃やしなさい』と」
「余計なお世話だ」
慧音が小さく息を吐いた。
「ある意味、的確だ」
「お前まで何を言う」
その時、遠くで鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
火事の鐘ではない。
集合の合図だった。
倉庫街で、誰かが始めた。
妹紅は門の外へ出た。
「行くぞ」
慧音も頷く。
霊夢が縁側でようやく起き上がった。
「私も行くわ」
「寝てたくせに」
「寝てないって言ってるでしょ」
霊夢は御札を袖にしまい、のんびりと草履を履いた。
「ただし、私は最後までなるべく殴らない」
「珍しいな」
「殴ると、話が早く終わりすぎるのよ」
魔理沙が箒を担いで塀の上に現れた。
「じゃあ私は、早く終わらせたい時に備えてるぜ」
「どこにいた」
妹紅が睨む。
「屋根の上。見張りだよ」
「盗み聞きだろ」
「似たようなもんだ」
四人は人里東部へ向かった。
道中、家々の戸は閉ざされていた。
しかし、誰も眠っていない。
灯りの向こうから視線だけが集まる。
人々は知っている。
今夜、自分たちの暮らしの形が変わるかもしれないことを。
そして、それを止めるために誰かが外へ出ていることを。
倉庫街に近づくにつれ、声が大きくなった。
「守矢が悪いんだろう!」
「永遠亭の薬で人を黙らせたんじゃないのか!」
「問屋が土地を売ったって聞いたぞ!」
「白玉楼の借金を返せない奴が、蔵を差し出すって話だ!」
「紅魔館の荷が入ってる!」
「命蓮寺の船で運んだんだろ!」
怒号が、互いにぶつかっている。
誰も全体を見ていない。
自分の不安に、一番近い敵を見つけて叫んでいるだけだ。
広場には、多くの者が集まっていた。
火消しの一部。
問屋の若い衆。
守矢の信徒。
命蓮寺の荷役。
紅魔館の使いらしき者。
白玉楼に金を借りた商人。
そして、見慣れない顔の男たち。
中央には古い蔵がある。
扉には白い印。
取り壊し予定の印。
その前に、問屋頭の佐伯が立っていた。
佐伯は人里で長く荷を扱ってきた男だった。
顔は広い。
腰は低い。
金には細かい。
そして、誰にも本音を見せない。
慧音は彼を見て、静かに言った。
「やはり、あなたか」
佐伯は振り返った。
「慧音先生。こんな夜に出歩くのは危のうございます」
「人里を煽っておいて、よく言う」
妹紅が前へ出る。
佐伯は怯えなかった。
むしろ、少し悲しそうな顔をした。
「煽ったなどと。私はただ、皆様に事実を伝えただけです」
「事実?」
慧音が言う。
「寺子屋は危ない。火事があった。薬も出回った。守矢の講で名簿も作られた。八雲の再整備案もある。ならば、古い倉庫街と寺子屋周辺を一度整理する。それだけの話です」
「そのために偽札を作ったのか」
「私は作っていない」
「薬を流したのは」
「私は配っていない」
「名簿を書き換えたのは」
「私は筆を取っていない」
佐伯は静かに笑った。
「私は何もしておりません。ただ、皆が困っている時に、道を示しただけです」
妹紅の拳に熱が宿る。
「それを黒幕って言うんだよ」
佐伯の背後から、数人の男が出てきた。
荷運び、商人、火消し崩れ。
どれも人里の者に見えるが、目つきが違う。
金で動く者。
弱みで縛られた者。
あるいは、何も考えずに勢いだけで来た者。
慧音は一歩前に出た。
「佐伯。あなたは何を得るつもりだ」
「人里の安定です」
「違う」
慧音は区画図を広げた。
「この再整備で、問屋の新しい荷捌き場ができる。古い倉庫街は一度取り壊され、土地の名義が整理される。その仲介に、あなたの名がある」
佐伯は笑みを消さなかった。
「必要な手続きです」
「白玉楼に借金をしている者の土地を、安く押さえる手続きか」
ざわめきが広がる。
佐伯の目が少しだけ細くなった。
慧音は続けた。
「守矢の講で集めた名簿は、誰が金に困っているかを知るため。永遠亭の薬は、証言を曖昧にするため。火事は、寺子屋周辺を危険地帯にするため。八雲の再開発は、あなたにとって都合のよい名目だった」
「証拠は?」
佐伯が言った。
「その帳面か? その紙切れか? それらが本物だと、誰が保証するのです」
その言葉を待っていたように、群衆から声が上がる。
「そうだ!」
「慧音先生だって、守矢を庇っているんじゃないのか!」
「永遠亭から薬をもらっているんだろう!」
「寺子屋だけ特別扱いか!」
妹紅が前に出ようとする。
慧音が止めた。
「駄目だ」
「このまま言わせるのか」
「言わせる」
慧音は群衆を見渡した。
「言いたいことがあるなら、今言え」
その声は広場によく通った。
群衆が一瞬ひるむ。
「寺子屋が邪魔だと思う者。守矢を憎む者。永遠亭を疑う者。博麗に不満がある者。八雲を恐れる者。問屋に借りがある者。白玉楼に金を借りた者。今、言え」
誰もすぐには言わなかった。
怒号は簡単に出る。
だが、自分の名で言葉にするのは難しい。
慧音は続けた。
「記録する。誰が何を言ったか。誰が何を望んだか。後でなかったことにはさせない」
広場の空気が変わった。
それを嫌がったのは、佐伯だった。
「先生。あなたは人里を守ると言いながら、皆を縛っている。記録、記録と。人は忘れたいこともある」
「ある」
慧音は認めた。
「だが、忘れたい者と、忘れさせたい者は違う」
その時、空気が裂けた。
広場の端に、隙間が開く。
八雲紫と藍が現れた。
群衆がどよめく。
紫は扇で口元を隠したまま、佐伯を見た。
「私の計画を、ずいぶん好きに使ってくれたわね」
佐伯は深く頭を下げた。
「とんでもございません。八雲様の大きな計画に、人里として協力しようとしただけです」
「そういう言い方、嫌いではないわ」
紫は微笑んだ。
「でも、下手ね」
佐伯の目が揺れた。
藍が一歩前に出る。
「佐伯。あなたの名で動いた証文と、人里東部の土地仲介の控えを確認した。白玉楼の貸付記録とも一致している」
群衆がまたざわめく。
佐伯はまだ崩れなかった。
「金を借り、土地を動かす。商いとはそういうものです。違法ではない」
その時、広場の反対側から涼しい声がした。
「たしかに、金を貸すこと自体は悪ではありません」
魂魄妖夢が立っていた。
その後ろには、西行寺幽々子がいる。
幽々子は夜にもかかわらず、春の庭を歩くような顔で微笑んでいた。
「けれど、死者の名義まで勝手に動かされるのは困るわね」
幽々子の言葉に、佐伯の顔から初めて血の気が引いた。
慧音が眉をひそめる。
「死者の名義?」
妖夢が書付を出した。
「白玉楼の貸付を装って、人里の故人の土地権利を整理する証文が作られていました。幽々子様の印に似せたものもあります」
幽々子は微笑んだまま、佐伯を見た。
「亡くなった者は、反論できないものね」
広場が静まり返る。
佐伯は唇を噛んだ。
さらに、別の影が降り立った。
十六夜咲夜だった。
時間が止まったように、彼女は音もなく広場に現れた。
その後ろには紅魔館の使いが数人、荷札を持っている。
「紅魔館の封印紙が偽造されていました」
咲夜は淡々と言った。
「お嬢様は大変ご立腹です。もっとも、ここへ来ると余計に話が大きくなるので、私が代理で参りました」
魔理沙が小声で言う。
「レミリアが来たら祭りどころじゃないからな」
咲夜は佐伯を見る。
「紅魔館の名を使って荷を動かした者を、こちらで確認しています。佐伯様、あなたの蔵を一つ調べさせていただきたい」
「勝手なことを」
佐伯が言いかけた時、空から低い読経のような声が響いた。
「勝手ではありません」
命蓮寺の聖白蓮が、広場に歩いてきた。
その後ろには村紗水蜜と、荷役たちがいる。
「命蓮寺の海運印も偽造されていました。人を救うための道が、荷を隠すために使われたことは看過できません」
佐伯は周囲を見回した。
白玉楼。
紅魔館。
命蓮寺。
八雲。
博麗。
守矢。
永遠亭。
そして人里自警団。
盤面に置いたつもりの駒が、すべて自分の方を向いていた。
それでも佐伯は笑った。
「皆様、よくお集まりで。ですが、おかしくはありませんか。どの勢力も、自分たちの不正を隠すために、私一人へ押しつけようとしている」
その言葉に、群衆が揺れる。
佐伯は声を張った。
「守矢は名簿を作った! 永遠亭は薬材を流した! 八雲は寺子屋を移そうとした! 白玉楼は金を貸し、紅魔館は禁制品を運び、命蓮寺は物流を握った! 博麗はそれを見ていた! なぜ私だけが悪い!」
誰もすぐには答えられなかった。
佐伯の言葉は、完全な嘘ではない。
だから厄介だった。
妹紅は歯を食いしばる。
慧音は静かに佐伯を見た。
「そうだな」
広場がまた静まる。
「あなた一人だけが悪いわけではない」
佐伯の表情がわずかに緩む。
だが、慧音は続けた。
「だが、だからといって、あなたの罪が消えるわけではない」
佐伯の顔が強張る。
「守矢には守矢の責任がある。永遠亭には永遠亭の責任がある。八雲には八雲の責任がある。博麗にも、命蓮寺にも、紅魔館にも、白玉楼にも、それぞれ後ろ暗いものがある」
慧音は帳面を掲げた。
「全部書く」
誰かが息を呑んだ。
「一人に押しつけて終わらせるつもりはない。誰かを正義にするつもりもない。人里に何が起きたのか、誰が何を利用し、誰が黙り、誰が得をしようとしたのか、全部残す」
紫が小さく笑った。
「怖い教師ね」
慧音は紫を見ずに答えた。
「怖がる者がいるなら、書く意味がある」
佐伯の顔が歪んだ。
「記録、記録、記録……そんなものが何になる! 人は食わねばならん! 古い蔵を守っても金にはならん! 寺子屋があっても借金は減らん! 人里は変わらねばならない!」
「変わることを否定しているのではない」
慧音は言った。
「燃やして、黙らせて、忘れさせて、奪うことを否定している」
その時、佐伯の背後の蔵から煙が上がった。
火だ。
蔵の中に仕掛けられていたのか、誰かが合図で火を入れたのか。
扉の隙間から黒い煙が漏れ、群衆が悲鳴を上げる。
「火だ!」
「離れろ!」
「倉庫街が燃えるぞ!」
火消しが動く。
だが、人が多すぎる。
逃げようとする者、押し返す者、荷を守ろうとする者で、広場が乱れた。
妹紅は叫んだ。
「慧音、下がれ!」
佐伯がその混乱に紛れて逃げようとする。
妹紅は追おうとした。
だが、蔵の火が隣の建物へ移りそうになっている。
寺子屋へ続く風向きだった。
妹紅は一瞬だけ迷った。
佐伯を追うか。
火を止めるか。
慧音が叫んだ。
「妹紅!」
その声だけで、妹紅は火へ向かった。
彼女の炎が夜に立ち上がる。
燃やすためではない。
火を押し返すための炎だ。
熱と熱をぶつけ、風の流れを変え、火の進む先を断つ。
炎は妹紅の体を包むが、彼女は眉ひとつ動かさない。
群衆が息を呑む。
不死身の怪物ではない。
人里のために火の前へ立つ女が、そこにいた。
その横で、早苗が御幣を振るった。
「風をこちらへ!」
風が向きを変える。
火消しの水桶が届く。
鈴仙は煙を吸った者を下がらせる。
咲夜は混乱する人々の間をすり抜け、子供や老人を安全な場所へ誘導する。
妖夢は倒れかけた梁を支え、命蓮寺の荷役たちは水桶の列を作る。
神奈子は空から地面の流れを押さえ、諏訪子は井戸水を引き出す。
霊夢はまだ動かない。
ただ、佐伯の逃げ道の先に立っていた。
佐伯は足を止めた。
「博麗……」
「どこ行くの」
霊夢は淡々と言った。
「私は何も」
「言い訳は後で聞くわ」
「あなたは中立でしょう」
「そうよ」
霊夢は御札を一枚取り出した。
「だから、逃げる奴も、追う奴も、燃やす奴も、まとめて止める」
佐伯は後ずさる。
その背後に、隙間が開いた。
八雲紫の隙間ではない。
また、あの粗く汚れた裂け目。
佐伯はそこへ飛び込もうとした。
だが、その前に霊夢の御札が裂け目へ貼りついた。
「雑ね」
霊夢が言った。
裂け目が歪み、閉じる。
その瞬間、広場の奥から別の声が響いた。
「やれやれ。せっかくここまで育てた火種を」
誰もいないはずの蔵の屋根に、女が立っていた。
商人のような格好。
人間にも妖怪にも見える曖昧な気配。
顔は薄い布で隠れている。
てゐが言っていた女だ。
慧音がその姿を見上げた。
「あなたが、薬材を買った者か」
女は笑った。
「買った? 違うわ。流れに少し手を添えただけ」
紫が扇を閉じた。
「あなた、境界の真似事をしていたのね」
「真似事ではありません。あなた方が作った境目の隙を使わせてもらっただけです」
女の声は軽かった。
「神と人。妖怪と人。寺と神社。医者と患者。貸す者と借りる者。記録する者と忘れたい者。境目なんて、どこにでもありますもの」
妹紅は火を押さえながら叫ぶ。
「誰だ、お前!」
女は答えない。
代わりに、懐から大量の紙を撒いた。
証文。
名簿。
薬の控え。
偽札。
荷札。
人々の名前。
紙は火の粉に照らされながら、広場へ舞い落ちる。
群衆がそれを見て混乱する。
「あれは俺の名前だ!」
「この借金はもう返したはずだ!」
「うちの子の名前がある!」
「誰がこんなものを!」
女は楽しそうに笑った。
「ほら。人里は、少し揺らすだけで自分から割れる」
慧音の顔が厳しくなる。
女の狙いは佐伯を逃がすことではない。
証拠を撒き、怒りを一気に爆発させることだ。
人々は紙に群がり始めた。
押し合いになり、火消しの列が崩れる。
慧音は前へ出た。
「拾うな!」
だが声が届かない。
その時、寺子屋の方角から子供の声がした。
「先生!」
振り返ると、小鈴と阿求が子供たちを連れてきていた。
寺子屋に避難していた子供たちだ。
妹紅が目を見開く。
「小鈴! 何してる!」
小鈴は震えながらも叫んだ。
「寺子屋に変な紙が投げ込まれたんです! 子供たちの名前が書いてあって……ここにいる方が危ないって」
女の狙いは、寺子屋の中にまで届いていた。
妹紅の中で何かが切れかけた。
だが、慧音が先に動いた。
彼女は懐から古い巻物を取り出した。
白沢の力を帯びた、歴史を留めるための巻物。
「全員、聞け!」
慧音の声が、広場を打った。
それは怒号よりも大きく、火の音よりも澄んでいた。
「今ここで紙を奪い合えば、仕掛けた者の思う壺だ! 名前を見て怒るなとは言わない。疑うなとも言わない。だが、今は火を消せ! 人を逃がせ! 子供を守れ!」
誰かが動きを止めた。
慧音は続ける。
「その紙は全部記録する。誰の名があり、誰の印があり、誰の嘘があるか、後で必ず調べる。だから今は、目の前の火を消せ!」
火消しの頭領が最初に動いた。
「聞いたか! 紙なんぞ後だ! 水を回せ!」
問屋の若い衆が桶を持つ。
守矢の信徒がそれを受け取る。
命蓮寺の荷役が列をつなぐ。
紅魔館の使いが人を下がらせる。
白玉楼の債務者たちも、紙を拾う手を止め、水桶を掴んだ。
人里が、割れる寸前でつながった。
女の笑みが消える。
「つまらない」
その一言に、妹紅の怒りが爆ぜた。
彼女は火の前から飛び出し、屋根へ向かった。
女は裂け目を開く。
妹紅の拳は空を切った。
だが、裂け目の向こうには、すでに霊夢の御札が待っていた。
「だから雑だって言ったでしょ」
裂け目が弾かれる。
女が体勢を崩した瞬間、紫の隙間が背後に開いた。
「私の領分で、あまり好き勝手しないでくれる?」
紫の声は笑っていたが、目は笑っていなかった。
女は逃げようとした。
そこへ魔理沙の光が走る。
「逃げ道、照らしてやるぜ!」
眩い光が夜を裂き、女の姿がはっきり浮かび上がる。
人間ではない。
妖怪とも少し違う。
境目に棲みついた、名前の薄い存在。
噂、借金、薬、火事、信仰。
そういう曖昧なものの隙間に潜り込む影。
慧音が巻物を広げた。
「名を記す」
女が初めて明確に怯えた。
「やめなさい」
「名がないなら、行いを記す」
慧音は筆を取った。
「人里東部騒動における扇動者。偽札、偽薬、偽証文を用い、各勢力の不正と不安を利用。寺子屋を標的にし、人里の分断を図った者」
女の姿が揺らぐ。
慧音の記録は、ただの文字ではない。
曖昧なものに形を与える。
なかったことにさせない。
女は叫んだ。
「人間は忘れるものよ! 忘れるから暮らしていける! 全部覚えていたら、誰も前に進めない!」
慧音は筆を止めなかった。
「忘れることと、消されることは違う」
妹紅が屋根に降り立つ。
女は後ずさった。
「不死身の化け物が、人間のふりをして」
妹紅は静かに言った。
「私は人間のふりなんかしていない」
炎が拳に宿る。
「人里の側に立っているだけだ」
女は最後の裂け目を開いた。
だが、その裂け目の先に、さとりが立っていた。
地霊殿の古明地さとり。
いつの間に現れたのか、静かな目で女を見ている。
「逃げたい。忘れさせたい。誰かのせいにしたい。あなたの心は、とても分かりやすい」
女が息を呑む。
さとりの背後には、お燐とお空の姿もある。
地底の後始末屋たち。
さとりは紫を見た。
「掃除の依頼がありましたので」
紫は微笑む。
「ええ。後始末は得意でしょう?」
「ただし、寺子屋の周りでは勝手な処理をしない約束です」
慧音がすぐに言った。
さとりは小さく頷いた。
「承知しています。証拠は消しません。燃え残りも、紙も、灰も、すべて分けて保管します」
妹紅は少し驚いた顔をした。
「地霊殿が、証拠を残すのか」
「消すものを選ぶには、まず何があったかを知らなければなりません」
さとりは淡々と答えた。
女は完全に逃げ場を失った。
その瞬間、佐伯が叫んだ。
「全部そいつがやった! 私は利用されただけだ!」
群衆の視線が佐伯へ戻る。
佐伯は必死だった。
「私は人里のために、整理を」
霊夢が近づく。
「もういいわ」
その声は静かだった。
「言い訳は、慧音の前で全部しなさい。嘘をついたら、たぶん全部書かれるわよ」
佐伯は膝をついた。
火は少しずつ収まり始めていた。
蔵の一部は焼けた。
だが、倉庫街全体には広がらなかった。
寺子屋へ続く道も守られた。
火消しの鐘が、ようやく本来の音に戻る。
水を回せ。
人を下げろ。
煙を吸った者を診ろ。
子供を寺子屋へ戻せ。
怒号ではなく、指示の声が広場を満たしていく。
慧音は巻物を閉じた。
妹紅が屋根から降りてくる。
「終わったか」
「火はな」
慧音は広場を見る。
「だが、ここからが始まりだ」
佐伯は火消しと問屋の者たちに囲まれている。
女は紫とさとりの間に押さえられ、逃げられない。
各勢力の者たちは、互いに気まずい顔で立っている。
誰も勝っていない。
それが、この夜の結末だった。
しばらくして、神奈子が慧音の前に来た。
「守矢の名簿は、すべて人里に開示する。講は一度解散する」
早苗が深く頭を下げる。
「寺子屋に入り込ませたこと、改めて謝ります」
慧音は頷いた。
「謝罪は受け取る。だが、記録には残す」
「はい」
永琳の代わりに来ていた鈴仙も言った。
「永遠亭は、薬材の管理を見直します。人里への薬は、しばらく寺子屋と火消しを通します」
「それも記録する」
「はい」
咲夜が静かに礼をした。
「紅魔館の封印紙に関する管理不備も、こちらで調査いたします」
聖白蓮も続けた。
「命蓮寺の物流も同じく。人を救う道が、人を惑わす道になったことは、私たちの責任です」
幽々子は柔らかく笑った。
「白玉楼の貸付についても、死者の名を使ったものは無効にしましょう。生きている者の借りは……相談ね」
妖夢が小さく頭を下げた。
紫は最後に慧音を見た。
「八雲の再開発計画は凍結するわ」
妹紅が眉をひそめる。
「中止じゃないのか」
「結界補修は必要だもの」
「また寺子屋を動かす気か」
「正面から話すわ。今度はね」
慧音は紫を見つめた。
「説明会を開け。人里の者が分かる言葉で」
「面倒ね」
「面倒なことを避けた結果が今夜だ」
紫は楽しそうに笑った。
「本当に怖い教師」
霊夢が横から言った。
「紫。やりすぎたら、次は私が最初に殴るから」
「中立では?」
「中立よ」
霊夢は眠そうに答えた。
「だから全部殴れる」
紫は扇で口元を隠し、何も言わなかった。
夜明け前、寺子屋に人々が戻った。
子供たちは疲れて眠っている。
小鈴は貸本を抱えたまま、壁にもたれて寝ていた。
阿求はまだ起きており、震える手で写しを整理していた。
「阿求、休め」
慧音が言う。
「休めません。これ、残さないと」
「残す。だが、倒れては意味がない」
阿求は少しだけ笑った。
「慧音先生に言われると説得力がありません」
妹紅が横で頷く。
「本当にな」
慧音は苦笑しなかった。
座敷には、焼け残った紙、証文、名簿、薬の包み、偽札が並べられていく。
地霊殿の者たちが灰を分け、火消しが焼け跡を確認し、鈴仙が負傷者を診ている。
誰も死ななかった。
だが、無傷でもなかった。
信用は焼けた。
嘘は露わになった。
人里の中にあった亀裂は、誰の目にも見えるようになった。
慧音は机に向かい、筆を取った。
妹紅は戸口に立つ。
「また書くのか」
「書く」
「長くなるぞ」
「なら、長く書く」
慧音は紙の一行目に筆を置いた。
――人里東部倉庫街における抗争未遂。
火災発生。
寺子屋への延焼は防止。
佐伯による土地仲介、偽証文、名簿利用の疑い。
各勢力の管理不備、利権関与、責任あり。
扇動者、境界の隙を利用した存在。八雲および地霊殿により拘束。
博麗、守矢、永遠亭、命蓮寺、紅魔館、白玉楼、人里自警団、全て関与。
勝者なし。
ただし、寺子屋は残る。
妹紅は最後の一文を見て、少しだけ目を細めた。
「そこ、大事か」
「大事だ」
慧音は筆を置いた。
「寺子屋が残る限り、人里はまだ終わっていない」
外では、夜が少しずつ薄くなっていた。
東の空が白む。
焼けた倉庫街から、細い煙が上がっている。
人々は疲れ果てているが、それでも水桶を片づけ、道を掃き、子供たちの朝飯を用意し始めている。
人里は、壊れきらなかった。
妹紅は寺子屋の門へ歩いた。
そこには、焦げた紙片が一枚落ちていた。
拾い上げると、そこには誰かの名前が途中まで書かれていた。火で半分消えている。
妹紅はそれを慧音へ渡した。
「これも記録するのか」
「する」
「読めないぞ」
「読めるところまで書く。読めないところは、読めないと書く」
妹紅は笑った。
「律儀だな」
「歴史とは、そういうものだ」
その時、霊夢が門の横を通り過ぎた。
「じゃ、私は帰るわ」
「もう帰るのか」
妹紅が言う。
「賽銭箱が心配だから」
「誰も入れないだろ」
「だから心配なのよ」
魔理沙が箒にまたがりながら笑った。
「霊夢らしいぜ」
慧音が霊夢を呼び止めた。
「博麗」
「何」
「今夜のことも、記録に残す」
「好きにしなさい」
「博麗が見ていて、止めるのが遅れたことも」
霊夢は少しだけ振り返った。
そして、面倒くさそうに笑った。
「本当に怖い教師ね」
「よく言われた」
「言われてないだろ」
妹紅が突っ込む。
霊夢は手を振って去っていった。
魔理沙もその後を追うように飛び立つ。
紫はすでに姿を消していた。
神奈子と早苗は信徒たちを連れて山へ戻り、鈴仙は永遠亭への報告に向かった。
咲夜、妖夢、白蓮たちも、それぞれの責任を持ち帰った。
広場には灰が残った。
寺子屋には記録が残った。
人里には疑いと疲労が残った。
だが、朝も残った。
子供の一人が、寺子屋の中から顔を出した。
「先生、今日、授業あるの?」
慧音はその子を見て、少しだけ目を細めた。
「ある」
「ええー」
「寝不足でも、歴史は進む」
妹紅が横で笑った。
「厳しい先生だな」
「当たり前だ」
慧音は焼け跡の方を見た。
「昨日のことを、今日教えられるわけではない。だが、いつか教えなければならない」
「何て教えるんだ」
慧音は少し考えた。
「人里が、悪党たちに囲まれた夜」
「ひどいな」
「違うか」
妹紅は答えなかった。
代わりに、寺子屋の門にもたれた。
「いや」
朝日が、焼けた倉庫街と寺子屋の屋根を照らし始める。
「たぶん、合ってる」
幻想郷に、善人はいない。
けれど、悪党ばかりの夜にも、守らなければならないものはある。
その朝、寺子屋の鐘はいつも通り鳴った。
子供たちは眠そうな顔で席につき、慧音は教壇に立った。
妹紅は門の外に立ち、あくびを噛み殺した。
人里抗争は、終わった。
だが、終わったことにできるほど、幻想郷は甘くない。
慧音の帳面には、まだ空白の頁が残っていた。