東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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第五章 人里抗争

 

 夜の人里は、昼間よりもよく喋る。

 

 雨戸の隙間。

 消し忘れた灯り。

 土間に置かれた草履の向き。

 誰が家にいて、誰が外へ出たか。

 誰が怯えて、誰が怒っているか。

 

 そういうものが、夜になると妙にはっきり見える。

 

 寺子屋の門前に立つ藤原妹紅は、遠くの倉庫街を見ていた。

 

 東の空が赤い。

 火ではない。

 提灯と松明の明かりだ。

 

 誰かが集まっている。

 

 いや、集められている。

 

 火消し、問屋、守矢の信徒、命蓮寺の荷役、紅魔館の関係者、白玉楼に借りのある者たち。

 皆、自分の意思で来たつもりなのだろう。

 だが、本当は違う。

 

 誰かの噂に背中を押され、誰かの借金に首を掴まれ、誰かの信仰に引き寄せられ、誰かの恐怖に動かされている。

 

 人間は、縄で縛られなくても動く。

 金、義理、恐れ、恥。

 それだけで、いくらでも歩かされる。

 

「妹紅」

 

 慧音が寺子屋から出てきた。

 

 手には帳面の写しがある。

 懐には古い巻物。

 顔は静かだったが、目だけはいつもより鋭い。

 

「中はどうだ」

 

「子供たちは小鈴が見ている。阿求は写しを整理している。鈴仙は薬を分けている。早苗は守矢の信徒を押さえている」

 

「霊夢は?」

 

「寝ている」

 

「は?」

 

 妹紅が振り返ると、縁側で博麗霊夢が本当に横になっていた。

 湯呑みを横に置き、片肘を枕にしている。

 

「おい」

 

「寝てないわよ」

 

 霊夢は目を閉じたまま言った。

 

「聞いてるだけ」

 

「起きろ」

 

「必要になったら起きる」

 

「今が必要な時だろ」

 

「まだよ」

 

 妹紅は舌打ちした。

 

 霊夢はこういう時ほど動かない。

 動かないことで、全員を見ている。

 

 その余裕が腹立たしい。

 

 寺子屋の門の外では、火消しの者たちが桶と鳶口を並べていた。問屋の若い衆は荷車を路地に置き、道を塞いでいる。早苗は守矢の信徒たちに、倉庫街へ近づかないよう必死に言い聞かせていた。

 

「神奈子と諏訪子は?」

 

 妹紅が聞く。

 

「倉庫街の外側を押さえると言っていた」

 

「信用できるのか」

 

「信用ではない。利害だ」

 

 慧音は短く答えた。

 

 守矢はこれ以上、人里で疑われるわけにはいかない。

 永遠亭も同じだ。

 博麗も、寺子屋が燃えれば無関係ではいられない。

 八雲は後始末をしなければならない。

 

 信用はない。

 

 だからこそ、今だけは同じ方向を向ける。

 

 寺子屋の庭の隅で、鈴仙が薬箱を閉じた。

 

「慧音さん、最低限の応急薬は分けました。でも、眠り薬や鎮静系のものは全部しまっています」

 

「それでいい」

 

「永琳師匠から伝言です」

 

 鈴仙は少し緊張した顔で続けた。

 

「薬を使う側にも責任がある。けれど、薬を恐れて必要な治療まで拒むな、と」

 

 妹紅は鼻を鳴らした。

 

「あいつらしい言い方だ」

 

「それと、妹紅さんには……」

 

「私に?」

 

「輝夜様からです」

 

 妹紅の眉間に皺が寄る。

 

「言わなくていい」

 

「『燃やすなら、ちゃんと意味のあるものを燃やしなさい』と」

 

「余計なお世話だ」

 

 慧音が小さく息を吐いた。

 

「ある意味、的確だ」

 

「お前まで何を言う」

 

 その時、遠くで鐘が鳴った。

 

 一度。

 二度。

 三度。

 

 火事の鐘ではない。

 集合の合図だった。

 

 倉庫街で、誰かが始めた。

 

 妹紅は門の外へ出た。

 

「行くぞ」

 

 慧音も頷く。

 

 霊夢が縁側でようやく起き上がった。

 

「私も行くわ」

 

「寝てたくせに」

 

「寝てないって言ってるでしょ」

 

 霊夢は御札を袖にしまい、のんびりと草履を履いた。

 

「ただし、私は最後までなるべく殴らない」

 

「珍しいな」

 

「殴ると、話が早く終わりすぎるのよ」

 

 魔理沙が箒を担いで塀の上に現れた。

 

「じゃあ私は、早く終わらせたい時に備えてるぜ」

 

「どこにいた」

 

 妹紅が睨む。

 

「屋根の上。見張りだよ」

 

「盗み聞きだろ」

 

「似たようなもんだ」

 

 四人は人里東部へ向かった。

 

 道中、家々の戸は閉ざされていた。

 しかし、誰も眠っていない。

 

 灯りの向こうから視線だけが集まる。

 

 人々は知っている。

 今夜、自分たちの暮らしの形が変わるかもしれないことを。

 そして、それを止めるために誰かが外へ出ていることを。

 

 倉庫街に近づくにつれ、声が大きくなった。

 

「守矢が悪いんだろう!」

 

「永遠亭の薬で人を黙らせたんじゃないのか!」

 

「問屋が土地を売ったって聞いたぞ!」

 

「白玉楼の借金を返せない奴が、蔵を差し出すって話だ!」

 

「紅魔館の荷が入ってる!」

 

「命蓮寺の船で運んだんだろ!」

 

 怒号が、互いにぶつかっている。

 

 誰も全体を見ていない。

 自分の不安に、一番近い敵を見つけて叫んでいるだけだ。

 

 広場には、多くの者が集まっていた。

 

 火消しの一部。

 問屋の若い衆。

 守矢の信徒。

 命蓮寺の荷役。

 紅魔館の使いらしき者。

 白玉楼に金を借りた商人。

 そして、見慣れない顔の男たち。

 

 中央には古い蔵がある。

 扉には白い印。

 取り壊し予定の印。

 その前に、問屋頭の佐伯が立っていた。

 

 佐伯は人里で長く荷を扱ってきた男だった。

 顔は広い。

 腰は低い。

 金には細かい。

 そして、誰にも本音を見せない。

 

 慧音は彼を見て、静かに言った。

 

「やはり、あなたか」

 

 佐伯は振り返った。

 

「慧音先生。こんな夜に出歩くのは危のうございます」

 

「人里を煽っておいて、よく言う」

 

 妹紅が前へ出る。

 

 佐伯は怯えなかった。

 むしろ、少し悲しそうな顔をした。

 

「煽ったなどと。私はただ、皆様に事実を伝えただけです」

 

「事実?」

 

 慧音が言う。

 

「寺子屋は危ない。火事があった。薬も出回った。守矢の講で名簿も作られた。八雲の再整備案もある。ならば、古い倉庫街と寺子屋周辺を一度整理する。それだけの話です」

 

「そのために偽札を作ったのか」

 

「私は作っていない」

 

「薬を流したのは」

 

「私は配っていない」

 

「名簿を書き換えたのは」

 

「私は筆を取っていない」

 

 佐伯は静かに笑った。

 

「私は何もしておりません。ただ、皆が困っている時に、道を示しただけです」

 

 妹紅の拳に熱が宿る。

 

「それを黒幕って言うんだよ」

 

 佐伯の背後から、数人の男が出てきた。

 荷運び、商人、火消し崩れ。

 どれも人里の者に見えるが、目つきが違う。

 

 金で動く者。

 弱みで縛られた者。

 あるいは、何も考えずに勢いだけで来た者。

 

 慧音は一歩前に出た。

 

「佐伯。あなたは何を得るつもりだ」

 

「人里の安定です」

 

「違う」

 

 慧音は区画図を広げた。

 

「この再整備で、問屋の新しい荷捌き場ができる。古い倉庫街は一度取り壊され、土地の名義が整理される。その仲介に、あなたの名がある」

 

 佐伯は笑みを消さなかった。

 

「必要な手続きです」

 

「白玉楼に借金をしている者の土地を、安く押さえる手続きか」

 

 ざわめきが広がる。

 

 佐伯の目が少しだけ細くなった。

 

 慧音は続けた。

 

「守矢の講で集めた名簿は、誰が金に困っているかを知るため。永遠亭の薬は、証言を曖昧にするため。火事は、寺子屋周辺を危険地帯にするため。八雲の再開発は、あなたにとって都合のよい名目だった」

 

「証拠は?」

 

 佐伯が言った。

 

「その帳面か? その紙切れか? それらが本物だと、誰が保証するのです」

 

 その言葉を待っていたように、群衆から声が上がる。

 

「そうだ!」

 

「慧音先生だって、守矢を庇っているんじゃないのか!」

 

「永遠亭から薬をもらっているんだろう!」

 

「寺子屋だけ特別扱いか!」

 

 妹紅が前に出ようとする。

 慧音が止めた。

 

「駄目だ」

 

「このまま言わせるのか」

 

「言わせる」

 

 慧音は群衆を見渡した。

 

「言いたいことがあるなら、今言え」

 

 その声は広場によく通った。

 

 群衆が一瞬ひるむ。

 

「寺子屋が邪魔だと思う者。守矢を憎む者。永遠亭を疑う者。博麗に不満がある者。八雲を恐れる者。問屋に借りがある者。白玉楼に金を借りた者。今、言え」

 

 誰もすぐには言わなかった。

 

 怒号は簡単に出る。

 だが、自分の名で言葉にするのは難しい。

 

 慧音は続けた。

 

「記録する。誰が何を言ったか。誰が何を望んだか。後でなかったことにはさせない」

 

 広場の空気が変わった。

 

 それを嫌がったのは、佐伯だった。

 

「先生。あなたは人里を守ると言いながら、皆を縛っている。記録、記録と。人は忘れたいこともある」

 

「ある」

 

 慧音は認めた。

 

「だが、忘れたい者と、忘れさせたい者は違う」

 

 その時、空気が裂けた。

 

 広場の端に、隙間が開く。

 八雲紫と藍が現れた。

 

 群衆がどよめく。

 

 紫は扇で口元を隠したまま、佐伯を見た。

 

「私の計画を、ずいぶん好きに使ってくれたわね」

 

 佐伯は深く頭を下げた。

 

「とんでもございません。八雲様の大きな計画に、人里として協力しようとしただけです」

 

「そういう言い方、嫌いではないわ」

 

 紫は微笑んだ。

 

「でも、下手ね」

 

 佐伯の目が揺れた。

 

 藍が一歩前に出る。

 

「佐伯。あなたの名で動いた証文と、人里東部の土地仲介の控えを確認した。白玉楼の貸付記録とも一致している」

 

 群衆がまたざわめく。

 

 佐伯はまだ崩れなかった。

 

「金を借り、土地を動かす。商いとはそういうものです。違法ではない」

 

 その時、広場の反対側から涼しい声がした。

 

「たしかに、金を貸すこと自体は悪ではありません」

 

 魂魄妖夢が立っていた。

 その後ろには、西行寺幽々子がいる。

 幽々子は夜にもかかわらず、春の庭を歩くような顔で微笑んでいた。

 

「けれど、死者の名義まで勝手に動かされるのは困るわね」

 

 幽々子の言葉に、佐伯の顔から初めて血の気が引いた。

 

 慧音が眉をひそめる。

 

「死者の名義?」

 

 妖夢が書付を出した。

 

「白玉楼の貸付を装って、人里の故人の土地権利を整理する証文が作られていました。幽々子様の印に似せたものもあります」

 

 幽々子は微笑んだまま、佐伯を見た。

 

「亡くなった者は、反論できないものね」

 

 広場が静まり返る。

 

 佐伯は唇を噛んだ。

 

 さらに、別の影が降り立った。

 

 十六夜咲夜だった。

 

 時間が止まったように、彼女は音もなく広場に現れた。

 その後ろには紅魔館の使いが数人、荷札を持っている。

 

「紅魔館の封印紙が偽造されていました」

 

 咲夜は淡々と言った。

 

「お嬢様は大変ご立腹です。もっとも、ここへ来ると余計に話が大きくなるので、私が代理で参りました」

 

 魔理沙が小声で言う。

 

「レミリアが来たら祭りどころじゃないからな」

 

 咲夜は佐伯を見る。

 

「紅魔館の名を使って荷を動かした者を、こちらで確認しています。佐伯様、あなたの蔵を一つ調べさせていただきたい」

 

「勝手なことを」

 

 佐伯が言いかけた時、空から低い読経のような声が響いた。

 

「勝手ではありません」

 

 命蓮寺の聖白蓮が、広場に歩いてきた。

 その後ろには村紗水蜜と、荷役たちがいる。

 

「命蓮寺の海運印も偽造されていました。人を救うための道が、荷を隠すために使われたことは看過できません」

 

 佐伯は周囲を見回した。

 

 白玉楼。

 紅魔館。

 命蓮寺。

 八雲。

 博麗。

 守矢。

 永遠亭。

 そして人里自警団。

 

 盤面に置いたつもりの駒が、すべて自分の方を向いていた。

 

 それでも佐伯は笑った。

 

「皆様、よくお集まりで。ですが、おかしくはありませんか。どの勢力も、自分たちの不正を隠すために、私一人へ押しつけようとしている」

 

 その言葉に、群衆が揺れる。

 

 佐伯は声を張った。

 

「守矢は名簿を作った! 永遠亭は薬材を流した! 八雲は寺子屋を移そうとした! 白玉楼は金を貸し、紅魔館は禁制品を運び、命蓮寺は物流を握った! 博麗はそれを見ていた! なぜ私だけが悪い!」

 

 誰もすぐには答えられなかった。

 

 佐伯の言葉は、完全な嘘ではない。

 

 だから厄介だった。

 

 妹紅は歯を食いしばる。

 

 慧音は静かに佐伯を見た。

 

「そうだな」

 

 広場がまた静まる。

 

「あなた一人だけが悪いわけではない」

 

 佐伯の表情がわずかに緩む。

 

 だが、慧音は続けた。

 

「だが、だからといって、あなたの罪が消えるわけではない」

 

 佐伯の顔が強張る。

 

「守矢には守矢の責任がある。永遠亭には永遠亭の責任がある。八雲には八雲の責任がある。博麗にも、命蓮寺にも、紅魔館にも、白玉楼にも、それぞれ後ろ暗いものがある」

 

 慧音は帳面を掲げた。

 

「全部書く」

 

 誰かが息を呑んだ。

 

「一人に押しつけて終わらせるつもりはない。誰かを正義にするつもりもない。人里に何が起きたのか、誰が何を利用し、誰が黙り、誰が得をしようとしたのか、全部残す」

 

 紫が小さく笑った。

 

「怖い教師ね」

 

 慧音は紫を見ずに答えた。

 

「怖がる者がいるなら、書く意味がある」

 

 佐伯の顔が歪んだ。

 

「記録、記録、記録……そんなものが何になる! 人は食わねばならん! 古い蔵を守っても金にはならん! 寺子屋があっても借金は減らん! 人里は変わらねばならない!」

 

「変わることを否定しているのではない」

 

 慧音は言った。

 

「燃やして、黙らせて、忘れさせて、奪うことを否定している」

 

 その時、佐伯の背後の蔵から煙が上がった。

 

 火だ。

 

 蔵の中に仕掛けられていたのか、誰かが合図で火を入れたのか。

 扉の隙間から黒い煙が漏れ、群衆が悲鳴を上げる。

 

「火だ!」

 

「離れろ!」

 

「倉庫街が燃えるぞ!」

 

 火消しが動く。

 だが、人が多すぎる。

 逃げようとする者、押し返す者、荷を守ろうとする者で、広場が乱れた。

 

 妹紅は叫んだ。

 

「慧音、下がれ!」

 

 佐伯がその混乱に紛れて逃げようとする。

 

 妹紅は追おうとした。

 だが、蔵の火が隣の建物へ移りそうになっている。

 

 寺子屋へ続く風向きだった。

 

 妹紅は一瞬だけ迷った。

 

 佐伯を追うか。

 火を止めるか。

 

 慧音が叫んだ。

 

「妹紅!」

 

 その声だけで、妹紅は火へ向かった。

 

 彼女の炎が夜に立ち上がる。

 燃やすためではない。

 火を押し返すための炎だ。

 

 熱と熱をぶつけ、風の流れを変え、火の進む先を断つ。

 炎は妹紅の体を包むが、彼女は眉ひとつ動かさない。

 

 群衆が息を呑む。

 

 不死身の怪物ではない。

 人里のために火の前へ立つ女が、そこにいた。

 

 その横で、早苗が御幣を振るった。

 

「風をこちらへ!」

 

 風が向きを変える。

 火消しの水桶が届く。

 

 鈴仙は煙を吸った者を下がらせる。

 咲夜は混乱する人々の間をすり抜け、子供や老人を安全な場所へ誘導する。

 妖夢は倒れかけた梁を支え、命蓮寺の荷役たちは水桶の列を作る。

 神奈子は空から地面の流れを押さえ、諏訪子は井戸水を引き出す。

 

 霊夢はまだ動かない。

 

 ただ、佐伯の逃げ道の先に立っていた。

 

 佐伯は足を止めた。

 

「博麗……」

 

「どこ行くの」

 

 霊夢は淡々と言った。

 

「私は何も」

 

「言い訳は後で聞くわ」

 

「あなたは中立でしょう」

 

「そうよ」

 

 霊夢は御札を一枚取り出した。

 

「だから、逃げる奴も、追う奴も、燃やす奴も、まとめて止める」

 

 佐伯は後ずさる。

 

 その背後に、隙間が開いた。

 

 八雲紫の隙間ではない。

 また、あの粗く汚れた裂け目。

 

 佐伯はそこへ飛び込もうとした。

 

 だが、その前に霊夢の御札が裂け目へ貼りついた。

 

「雑ね」

 

 霊夢が言った。

 

 裂け目が歪み、閉じる。

 

 その瞬間、広場の奥から別の声が響いた。

 

「やれやれ。せっかくここまで育てた火種を」

 

 誰もいないはずの蔵の屋根に、女が立っていた。

 

 商人のような格好。

 人間にも妖怪にも見える曖昧な気配。

 顔は薄い布で隠れている。

 

 てゐが言っていた女だ。

 

 慧音がその姿を見上げた。

 

「あなたが、薬材を買った者か」

 

 女は笑った。

 

「買った? 違うわ。流れに少し手を添えただけ」

 

 紫が扇を閉じた。

 

「あなた、境界の真似事をしていたのね」

 

「真似事ではありません。あなた方が作った境目の隙を使わせてもらっただけです」

 

 女の声は軽かった。

 

「神と人。妖怪と人。寺と神社。医者と患者。貸す者と借りる者。記録する者と忘れたい者。境目なんて、どこにでもありますもの」

 

 妹紅は火を押さえながら叫ぶ。

 

「誰だ、お前!」

 

 女は答えない。

 

 代わりに、懐から大量の紙を撒いた。

 

 証文。

 名簿。

 薬の控え。

 偽札。

 荷札。

 人々の名前。

 

 紙は火の粉に照らされながら、広場へ舞い落ちる。

 

 群衆がそれを見て混乱する。

 

「あれは俺の名前だ!」

 

「この借金はもう返したはずだ!」

 

「うちの子の名前がある!」

 

「誰がこんなものを!」

 

 女は楽しそうに笑った。

 

「ほら。人里は、少し揺らすだけで自分から割れる」

 

 慧音の顔が厳しくなる。

 

 女の狙いは佐伯を逃がすことではない。

 証拠を撒き、怒りを一気に爆発させることだ。

 

 人々は紙に群がり始めた。

 押し合いになり、火消しの列が崩れる。

 

 慧音は前へ出た。

 

「拾うな!」

 

 だが声が届かない。

 

 その時、寺子屋の方角から子供の声がした。

 

「先生!」

 

 振り返ると、小鈴と阿求が子供たちを連れてきていた。

 寺子屋に避難していた子供たちだ。

 

 妹紅が目を見開く。

 

「小鈴! 何してる!」

 

 小鈴は震えながらも叫んだ。

 

「寺子屋に変な紙が投げ込まれたんです! 子供たちの名前が書いてあって……ここにいる方が危ないって」

 

 女の狙いは、寺子屋の中にまで届いていた。

 

 妹紅の中で何かが切れかけた。

 

 だが、慧音が先に動いた。

 

 彼女は懐から古い巻物を取り出した。

 白沢の力を帯びた、歴史を留めるための巻物。

 

「全員、聞け!」

 

 慧音の声が、広場を打った。

 

 それは怒号よりも大きく、火の音よりも澄んでいた。

 

「今ここで紙を奪い合えば、仕掛けた者の思う壺だ! 名前を見て怒るなとは言わない。疑うなとも言わない。だが、今は火を消せ! 人を逃がせ! 子供を守れ!」

 

 誰かが動きを止めた。

 

 慧音は続ける。

 

「その紙は全部記録する。誰の名があり、誰の印があり、誰の嘘があるか、後で必ず調べる。だから今は、目の前の火を消せ!」

 

 火消しの頭領が最初に動いた。

 

「聞いたか! 紙なんぞ後だ! 水を回せ!」

 

 問屋の若い衆が桶を持つ。

 守矢の信徒がそれを受け取る。

 命蓮寺の荷役が列をつなぐ。

 紅魔館の使いが人を下がらせる。

 白玉楼の債務者たちも、紙を拾う手を止め、水桶を掴んだ。

 

 人里が、割れる寸前でつながった。

 

 女の笑みが消える。

 

「つまらない」

 

 その一言に、妹紅の怒りが爆ぜた。

 

 彼女は火の前から飛び出し、屋根へ向かった。

 

 女は裂け目を開く。

 妹紅の拳は空を切った。

 

 だが、裂け目の向こうには、すでに霊夢の御札が待っていた。

 

「だから雑だって言ったでしょ」

 

 裂け目が弾かれる。

 

 女が体勢を崩した瞬間、紫の隙間が背後に開いた。

 

「私の領分で、あまり好き勝手しないでくれる?」

 

 紫の声は笑っていたが、目は笑っていなかった。

 

 女は逃げようとした。

 

 そこへ魔理沙の光が走る。

 

「逃げ道、照らしてやるぜ!」

 

 眩い光が夜を裂き、女の姿がはっきり浮かび上がる。

 

 人間ではない。

 妖怪とも少し違う。

 境目に棲みついた、名前の薄い存在。

 噂、借金、薬、火事、信仰。

 そういう曖昧なものの隙間に潜り込む影。

 

 慧音が巻物を広げた。

 

「名を記す」

 

 女が初めて明確に怯えた。

 

「やめなさい」

 

「名がないなら、行いを記す」

 

 慧音は筆を取った。

 

「人里東部騒動における扇動者。偽札、偽薬、偽証文を用い、各勢力の不正と不安を利用。寺子屋を標的にし、人里の分断を図った者」

 

 女の姿が揺らぐ。

 

 慧音の記録は、ただの文字ではない。

 曖昧なものに形を与える。

 なかったことにさせない。

 

 女は叫んだ。

 

「人間は忘れるものよ! 忘れるから暮らしていける! 全部覚えていたら、誰も前に進めない!」

 

 慧音は筆を止めなかった。

 

「忘れることと、消されることは違う」

 

 妹紅が屋根に降り立つ。

 

 女は後ずさった。

 

「不死身の化け物が、人間のふりをして」

 

 妹紅は静かに言った。

 

「私は人間のふりなんかしていない」

 

 炎が拳に宿る。

 

「人里の側に立っているだけだ」

 

 女は最後の裂け目を開いた。

 

 だが、その裂け目の先に、さとりが立っていた。

 

 地霊殿の古明地さとり。

 いつの間に現れたのか、静かな目で女を見ている。

 

「逃げたい。忘れさせたい。誰かのせいにしたい。あなたの心は、とても分かりやすい」

 

 女が息を呑む。

 

 さとりの背後には、お燐とお空の姿もある。

 地底の後始末屋たち。

 

 さとりは紫を見た。

 

「掃除の依頼がありましたので」

 

 紫は微笑む。

 

「ええ。後始末は得意でしょう?」

 

「ただし、寺子屋の周りでは勝手な処理をしない約束です」

 

 慧音がすぐに言った。

 

 さとりは小さく頷いた。

 

「承知しています。証拠は消しません。燃え残りも、紙も、灰も、すべて分けて保管します」

 

 妹紅は少し驚いた顔をした。

 

「地霊殿が、証拠を残すのか」

 

「消すものを選ぶには、まず何があったかを知らなければなりません」

 

 さとりは淡々と答えた。

 

 女は完全に逃げ場を失った。

 

 その瞬間、佐伯が叫んだ。

 

「全部そいつがやった! 私は利用されただけだ!」

 

 群衆の視線が佐伯へ戻る。

 

 佐伯は必死だった。

 

「私は人里のために、整理を」

 

 霊夢が近づく。

 

「もういいわ」

 

 その声は静かだった。

 

「言い訳は、慧音の前で全部しなさい。嘘をついたら、たぶん全部書かれるわよ」

 

 佐伯は膝をついた。

 

 火は少しずつ収まり始めていた。

 

 蔵の一部は焼けた。

 だが、倉庫街全体には広がらなかった。

 寺子屋へ続く道も守られた。

 

 火消しの鐘が、ようやく本来の音に戻る。

 

 水を回せ。

 人を下げろ。

 煙を吸った者を診ろ。

 子供を寺子屋へ戻せ。

 

 怒号ではなく、指示の声が広場を満たしていく。

 

 慧音は巻物を閉じた。

 

 妹紅が屋根から降りてくる。

 

「終わったか」

 

「火はな」

 

 慧音は広場を見る。

 

「だが、ここからが始まりだ」

 

 佐伯は火消しと問屋の者たちに囲まれている。

 女は紫とさとりの間に押さえられ、逃げられない。

 各勢力の者たちは、互いに気まずい顔で立っている。

 

 誰も勝っていない。

 

 それが、この夜の結末だった。

 

 しばらくして、神奈子が慧音の前に来た。

 

「守矢の名簿は、すべて人里に開示する。講は一度解散する」

 

 早苗が深く頭を下げる。

 

「寺子屋に入り込ませたこと、改めて謝ります」

 

 慧音は頷いた。

 

「謝罪は受け取る。だが、記録には残す」

 

「はい」

 

 永琳の代わりに来ていた鈴仙も言った。

 

「永遠亭は、薬材の管理を見直します。人里への薬は、しばらく寺子屋と火消しを通します」

 

「それも記録する」

 

「はい」

 

 咲夜が静かに礼をした。

 

「紅魔館の封印紙に関する管理不備も、こちらで調査いたします」

 

 聖白蓮も続けた。

 

「命蓮寺の物流も同じく。人を救う道が、人を惑わす道になったことは、私たちの責任です」

 

 幽々子は柔らかく笑った。

 

「白玉楼の貸付についても、死者の名を使ったものは無効にしましょう。生きている者の借りは……相談ね」

 

 妖夢が小さく頭を下げた。

 

 紫は最後に慧音を見た。

 

「八雲の再開発計画は凍結するわ」

 

 妹紅が眉をひそめる。

 

「中止じゃないのか」

 

「結界補修は必要だもの」

 

「また寺子屋を動かす気か」

 

「正面から話すわ。今度はね」

 

 慧音は紫を見つめた。

 

「説明会を開け。人里の者が分かる言葉で」

 

「面倒ね」

 

「面倒なことを避けた結果が今夜だ」

 

 紫は楽しそうに笑った。

 

「本当に怖い教師」

 

 霊夢が横から言った。

 

「紫。やりすぎたら、次は私が最初に殴るから」

 

「中立では?」

 

「中立よ」

 

 霊夢は眠そうに答えた。

 

「だから全部殴れる」

 

 紫は扇で口元を隠し、何も言わなかった。

 

 夜明け前、寺子屋に人々が戻った。

 

 子供たちは疲れて眠っている。

 小鈴は貸本を抱えたまま、壁にもたれて寝ていた。

 阿求はまだ起きており、震える手で写しを整理していた。

 

「阿求、休め」

 

 慧音が言う。

 

「休めません。これ、残さないと」

 

「残す。だが、倒れては意味がない」

 

 阿求は少しだけ笑った。

 

「慧音先生に言われると説得力がありません」

 

 妹紅が横で頷く。

 

「本当にな」

 

 慧音は苦笑しなかった。

 

 座敷には、焼け残った紙、証文、名簿、薬の包み、偽札が並べられていく。

 地霊殿の者たちが灰を分け、火消しが焼け跡を確認し、鈴仙が負傷者を診ている。

 

 誰も死ななかった。

 

 だが、無傷でもなかった。

 

 信用は焼けた。

 嘘は露わになった。

 人里の中にあった亀裂は、誰の目にも見えるようになった。

 

 慧音は机に向かい、筆を取った。

 

 妹紅は戸口に立つ。

 

「また書くのか」

 

「書く」

 

「長くなるぞ」

 

「なら、長く書く」

 

 慧音は紙の一行目に筆を置いた。

 

 ――人里東部倉庫街における抗争未遂。

 火災発生。

 寺子屋への延焼は防止。

 佐伯による土地仲介、偽証文、名簿利用の疑い。

 各勢力の管理不備、利権関与、責任あり。

 扇動者、境界の隙を利用した存在。八雲および地霊殿により拘束。

 博麗、守矢、永遠亭、命蓮寺、紅魔館、白玉楼、人里自警団、全て関与。

 勝者なし。

 ただし、寺子屋は残る。

 

 妹紅は最後の一文を見て、少しだけ目を細めた。

 

「そこ、大事か」

 

「大事だ」

 

 慧音は筆を置いた。

 

「寺子屋が残る限り、人里はまだ終わっていない」

 

 外では、夜が少しずつ薄くなっていた。

 

 東の空が白む。

 焼けた倉庫街から、細い煙が上がっている。

 人々は疲れ果てているが、それでも水桶を片づけ、道を掃き、子供たちの朝飯を用意し始めている。

 

 人里は、壊れきらなかった。

 

 妹紅は寺子屋の門へ歩いた。

 

 そこには、焦げた紙片が一枚落ちていた。

 拾い上げると、そこには誰かの名前が途中まで書かれていた。火で半分消えている。

 

 妹紅はそれを慧音へ渡した。

 

「これも記録するのか」

 

「する」

 

「読めないぞ」

 

「読めるところまで書く。読めないところは、読めないと書く」

 

 妹紅は笑った。

 

「律儀だな」

 

「歴史とは、そういうものだ」

 

 その時、霊夢が門の横を通り過ぎた。

 

「じゃ、私は帰るわ」

 

「もう帰るのか」

 

 妹紅が言う。

 

「賽銭箱が心配だから」

 

「誰も入れないだろ」

 

「だから心配なのよ」

 

 魔理沙が箒にまたがりながら笑った。

 

「霊夢らしいぜ」

 

 慧音が霊夢を呼び止めた。

 

「博麗」

 

「何」

 

「今夜のことも、記録に残す」

 

「好きにしなさい」

 

「博麗が見ていて、止めるのが遅れたことも」

 

 霊夢は少しだけ振り返った。

 

 そして、面倒くさそうに笑った。

 

「本当に怖い教師ね」

 

「よく言われた」

 

「言われてないだろ」

 

 妹紅が突っ込む。

 

 霊夢は手を振って去っていった。

 魔理沙もその後を追うように飛び立つ。

 

 紫はすでに姿を消していた。

 神奈子と早苗は信徒たちを連れて山へ戻り、鈴仙は永遠亭への報告に向かった。

 咲夜、妖夢、白蓮たちも、それぞれの責任を持ち帰った。

 

 広場には灰が残った。

 寺子屋には記録が残った。

 人里には疑いと疲労が残った。

 

 だが、朝も残った。

 

 子供の一人が、寺子屋の中から顔を出した。

 

「先生、今日、授業あるの?」

 

 慧音はその子を見て、少しだけ目を細めた。

 

「ある」

 

「ええー」

 

「寝不足でも、歴史は進む」

 

 妹紅が横で笑った。

 

「厳しい先生だな」

 

「当たり前だ」

 

 慧音は焼け跡の方を見た。

 

「昨日のことを、今日教えられるわけではない。だが、いつか教えなければならない」

 

「何て教えるんだ」

 

 慧音は少し考えた。

 

「人里が、悪党たちに囲まれた夜」

 

「ひどいな」

 

「違うか」

 

 妹紅は答えなかった。

 

 代わりに、寺子屋の門にもたれた。

 

「いや」

 

 朝日が、焼けた倉庫街と寺子屋の屋根を照らし始める。

 

「たぶん、合ってる」

 

 幻想郷に、善人はいない。

 

 けれど、悪党ばかりの夜にも、守らなければならないものはある。

 

 その朝、寺子屋の鐘はいつも通り鳴った。

 子供たちは眠そうな顔で席につき、慧音は教壇に立った。

 妹紅は門の外に立ち、あくびを噛み殺した。

 

 人里抗争は、終わった。

 

 だが、終わったことにできるほど、幻想郷は甘くない。

 

 慧音の帳面には、まだ空白の頁が残っていた。

 

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