東方無頼郷「幻想郷に善人はいない」   作:たこ焼き 龍月

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終章 歴史に残らない朝

 

 

 人里の朝は、思ったより早く戻ってきた。

 

 焼けた倉庫街には灰が残り、焦げた木の匂いはまだ消えていない。

 それでも、井戸端には水を汲む女たちが立ち、問屋の前では男たちが荷を積み直し、火消しは鳶口を磨き、子供たちは眠そうな顔で寺子屋へ向かっていた。

 

 誰もが疲れていた。

 

 だが、誰も昨日の夜を終わりにしたがっていなかった。

 少なくとも、上白沢慧音だけは。

 

 寺子屋の座敷には、紙が山のように積まれていた。

 

 偽の守矢札。

 永遠亭の薬包み。

 白玉楼を騙った証文。

 紅魔館の封印紙。

 命蓮寺の荷札。

 八雲の再整備案。

 佐伯の土地仲介控え。

 火消しの証言。

 問屋の証言。

 守矢信徒の証言。

 薬を飲んだ者の記録。

 寺子屋の子供の名が書かれた紙片。

 

 それらは一つ一つ、慧音の前に並べられていた。

 

 彼女は眠っていない。

 

 筆を持つ指は少し震えている。

 目の下には薄い影がある。

 それでも筆先は乱れなかった。

 

 藤原妹紅は、座敷の入口にもたれてそれを見ていた。

 

「休めって言ったら、怒るか」

 

「怒らない」

 

「じゃあ休め」

 

「断る」

 

「結局同じじゃないか」

 

 妹紅は呆れたように息を吐いた。

 

 慧音は顔を上げずに答える。

 

「今書かなければ、細かいことが失われる」

 

「阿求にも写しを頼んだだろ」

 

「阿求には阿求の記録がある。私には私の記録がある」

 

「違うのか」

 

「違う」

 

 慧音は筆を止めた。

 

「阿求は幻想郷の記録を残す。私は、人里の記録を残す」

 

 妹紅は黙った。

 

 幻想郷全体から見れば、昨夜の騒動は小さなものかもしれない。

 異変と呼ぶには派手さが足りない。

 月が落ちたわけでも、春が奪われたわけでも、神が山を動かしたわけでもない。

 

 ただ、人里の倉庫街が燃えかけた。

 寺子屋が狙われた。

 人々が疑い合った。

 いくつもの勢力が、少しずつ自分の都合で動いた。

 

 それだけだ。

 

 だが、人里に住む者にとっては、それだけではなかった。

 

 慧音はまた筆を動かした。

 

 妹紅は外を見る。

 

 寺子屋の庭では、小鈴が子供たちを集めて本を読ませていた。阿求は縁側で書付の写しを整理している。鈴仙は怪我人の診察を終え、薬箱を抱えて人々に頭を下げていた。

 

 早苗もいた。

 

 彼女は守矢の護符を貼っていた家を一軒ずつ回り、講の解散と名簿の破棄を説明している。謝るたびに顔を曇らせ、それでも逃げずに次の家へ向かう。

 

 その後ろでは、神奈子が腕を組んで見ていた。

 諏訪子は井戸端で子供と話している。

 

 守矢は負けたわけではない。

 だが、無傷でもない。

 

 人里で信仰を広げるには、もう一度、最初からやり直さなければならない。

 

 妹紅は低く言った。

 

「みんな帰らないな」

 

「帰れば、逃げたと思われる」

 

「面倒だな」

 

「責任とは、だいたい面倒なものだ」

 

 慧音の言葉に、妹紅は小さく笑った。

 

「お前が言うと重い」

 

「軽く言ったつもりはない」

 

 その時、寺子屋の門の外に影が立った。

 

 博麗霊夢だった。

 

 昨日と同じように眠そうな顔をしている。

 だが、袖の端には焦げた跡があった。昨夜、結局かなり動いたのだろう。

 

「入っていい?」

 

「今さら遠慮するのか」

 

 妹紅が言うと、霊夢は肩をすくめた。

 

「寺子屋だからね。神社じゃないし」

 

 霊夢は座敷へ上がり、慧音の前に座った。

 

 慧音は筆を止めない。

 

「何の用だ」

 

「その記録、博麗にも写しを一部ちょうだい」

 

 妹紅が眉をひそめた。

 

「燃やすためか」

 

「保管するためよ」

 

「信用できるか」

 

「できないなら、写しの写しを作ればいいでしょ」

 

 霊夢は淡々と言った。

 

「どのみち、これを誰か一人が抱えるのは危ないわ。慧音だけでも、阿求だけでも、博麗だけでも駄目。散らした方がいい」

 

 慧音は顔を上げた。

 

「博麗は、この件をどう扱うつもりだ」

 

「表向きは、人里東部の火事と騒動」

 

「それだけか」

 

「幻想郷では、それくらいが一番収まりがいい」

 

 妹紅の目が鋭くなる。

 

「やっぱりなかったことにするのか」

 

「違うわよ」

 

 霊夢は面倒くさそうに妹紅を見た。

 

「表に出す名前と、残す記録は違うって話」

 

 慧音は黙って霊夢を見た。

 

 霊夢は続ける。

 

「全部を大声で言えば、人里はまた割れる。守矢が悪い、永遠亭が悪い、八雲が悪い、問屋が悪い、博麗が悪い。そうやって、また始まる」

 

「では黙れと?」

 

「違う。静かに残せって言ってるの」

 

 霊夢は座敷に積まれた紙を見た。

 

「騒ぐための記録じゃなくて、次に同じことをさせないための記録。そういうの、あんた得意でしょ」

 

 慧音は少しだけ目を伏せた。

 

 妹紅は面白くなさそうに言った。

 

「霊夢にしてはまともなことを言う」

 

「私を何だと思ってるの」

 

「面倒くさがりの巫女」

 

「間違ってないけど腹立つわね」

 

 慧音は筆を置いた。

 

「写しは渡す。ただし、博麗の責任についても削らない」

 

「いいわよ」

 

 霊夢は即答した。

 

 妹紅が意外そうに見る。

 

「いいのか」

 

「見ていて止めるのが遅れたのは事実だし」

 

 霊夢は立ち上がった。

 

「ただし、ひとつだけ書き加えて」

 

「何を」

 

「博麗は、次に寺子屋へ手を出す者がいれば、勢力を問わず対処する」

 

 慧音は少しだけ目を細めた。

 

「それは約束か」

 

「警告よ」

 

 霊夢は軽く手を振った。

 

「約束より効くでしょ」

 

 そう言って、霊夢は寺子屋を出ていった。

 

 入れ替わるように、八雲紫が庭の隅に現れた。

 

 誰も驚かなかった。

 むしろ、最初からそこにいたような顔をしていた。

 

 妹紅はすぐに立ち上がる。

 

「来たな」

 

「来たわ」

 

「殴っていいか」

 

「昨日の続き?」

 

「そうだ」

 

 紫は扇で口元を隠した。

 

「残念だけど、今日は殴られに来たわけではないの」

 

「じゃあ何しに来た」

 

「説明に」

 

 慧音が静かに言った。

 

「人里への説明か」

 

「ええ」

 

 その言葉に、妹紅は少しだけ眉を動かした。

 

 紫は続ける。

 

「寺子屋の下にある古い境界について、人里の代表に説明する。結界補修の必要性も。再整備案は一度白紙。倉庫街の整理も、土地の名義確認からやり直す」

 

「随分素直だな」

 

 妹紅が言う。

 

「素直ではないわ。面倒になっただけ」

 

 紫は慧音を見た。

 

「記録されると、面倒なのよ」

 

「なら書いた甲斐がある」

 

「そうね」

 

 紫は座敷に積まれた紙を見つめた。

 

「今回の扇動者は、境界そのものの妖怪ではないわ。名前の薄い、噂に寄生するようなもの。人間の不安や利害の隙間を渡り歩いていた」

 

「処分したのか」

 

 妹紅が聞く。

 

「拘束している。地霊殿が見張っているわ」

 

「消すなよ」

 

 慧音が言った。

 

 紫は少し笑う。

 

「あなたにそう言われると思って、消していないわ。証言も取れる範囲で残す」

 

「八雲が証言を残すのか」

 

「信用できない?」

 

「できない」

 

「正直ね」

 

 紫は楽しそうに笑った。

 

 だが、その笑みの奥に、いつもの余裕だけではないものが見えた。

 

 疲れではない。

 後悔でもない。

 ただ、盤面を読み違えた者の沈黙だった。

 

 慧音は紫に言った。

 

「あなたは幻想郷を守ると言う」

 

「ええ」

 

「だが、幻想郷は地図や結界だけではない。人里の記憶も、暮らしも、子供たちの朝も、幻想郷の一部だ」

 

 紫は答えなかった。

 

 慧音は続けた。

 

「そこを切り捨てるなら、あなたが守っているものは幻想郷ではない。ただの仕組みだ」

 

 庭が静まった。

 

 妹紅でさえ、何も言わなかった。

 

 紫は長い間、慧音を見ていた。

 

 やがて、扇を閉じる。

 

「教師は嫌ね」

 

「よく言われる」

 

「それ、本当に言われているの?」

 

「言われたことにする」

 

 紫は小さく笑った。

 

「いいわ。今回の記録、八雲の名も残しなさい」

 

「残す」

 

「ただし、ひとつだけお願い」

 

「何だ」

 

「最後にこう書いて」

 

 紫は寺子屋の庭を見る。

 

 子供たちが小鈴の本に顔を寄せている。

 早苗が家々を回っている。

 鈴仙が薬箱を抱えて頭を下げている。

 妹紅が門に立っている。

 

 紫は静かに言った。

 

「幻想郷は、まだ壊れていない」

 

 慧音はその言葉をすぐには受け取らなかった。

 

「それを書くかどうかは、私が決める」

 

「そうだったわね」

 

 紫はそう言って、隙間の中へ消えた。

 

 昼過ぎ、人里の広場で説明の場が開かれた。

 

 集まった者たちの顔は硬い。

 

 守矢の講に入っていた者。

 薬を飲んだ者。

 火事の消火に関わった者。

 借金で土地を手放しかけていた者。

 寺子屋に子供を預ける親。

 問屋。

 火消し。

 里の古株。

 

 そこには、各勢力の代表もいた。

 

 博麗霊夢。

 八雲紫と八雲藍。

 八坂神奈子と東風谷早苗。

 鈴仙。

 咲夜。

 妖夢。

 聖白蓮。

 そして、地霊殿から古明地さとり。

 

 誰も、気楽な顔はしていない。

 

 慧音は広場の中央に立った。

 

「昨夜、人里東部において火災と騒動があった。これは単なる火事ではない。守矢の講、永遠亭の薬、八雲の再整備案、白玉楼を騙った証文、紅魔館と命蓮寺の荷の印、それらが利用された」

 

 人々は黙って聞いている。

 

「関わった者は一人ではない。責任も一つではない。誰かだけを悪者にして終わらせることはしない」

 

 ざわめきが起きる。

 だが、昨夜のような怒号ではない。

 

 慧音は続けた。

 

「守矢の講は一度解散。名簿は本人確認のないものをすべて破棄。永遠亭の薬は、当面、寺子屋と火消しを通して配布。白玉楼の貸付証文は再確認。死者の名を使ったものは無効。紅魔館と命蓮寺の荷札は管理を改める。八雲の再整備案は白紙に戻し、人里への説明からやり直す」

 

 人々の視線が、それぞれの勢力へ向く。

 

 神奈子は何も言わず頷いた。

 早苗は深く頭を下げた。

 鈴仙も同じく頭を下げる。

 咲夜は静かに礼をし、妖夢は書付を差し出し、白蓮は合掌した。

 紫は扇で顔を隠したまま、黙っていた。

 

 慧音は最後に言った。

 

「寺子屋は移さない」

 

 その言葉に、広場が静まった。

 

「ただし、結界補修が必要であることも事実だ。だから、寺子屋を残したまま補修する方法を探す。人里も協力する。ただし、人里の生活を勝手に動かすことは認めない」

 

 火消しの頭領が声を上げた。

 

「寺子屋を守るなら、火消しも手を貸す」

 

 問屋の若い衆も言った。

 

「荷の移動は必要なら出す。ただし、佐伯の件は別だ。あいつの帳面は全部調べる」

 

 人々が頷き始める。

 

 完全な和解ではない。

 信頼が戻ったわけでもない。

 疑いは残っている。

 

 だが、それでよかった。

 

 疑いながらでも、同じ場所に立てるなら、まだ人里は壊れていない。

 

 広場の端で、妹紅はその様子を見ていた。

 

 霊夢が隣に来る。

 

「よかったじゃない」

 

「何が」

 

「寺子屋、残って」

 

「まだ分からない」

 

「素直じゃないわね」

 

「お前に言われたくない」

 

 霊夢は少し笑った。

 

「慧音、強いわね」

 

「ああ」

 

 妹紅は短く答えた。

 

「強いよ。私よりずっと」

 

「不死身なのに?」

 

「死なないのと、折れないのは違う」

 

 霊夢は何も言わなかった。

 

 広場では、慧音が人々に頭を下げていた。

 謝罪ではない。

 約束のような一礼だった。

 

 その日の夕方、寺子屋で授業が再開された。

 

 子供たちはまだ落ち着かない様子だったが、机に向かい、筆を持った。

 小鈴は貸本を片づけ、阿求は写しをまとめて稗田の屋敷へ戻る準備をしていた。

 

 早苗が寺子屋の門へ来た。

 

 妹紅は腕を組んで立っている。

 

「また謝りに来たのか」

 

「今日は違います」

 

 早苗は小さな包みを差し出した。

 

「護符ではありません。寺子屋の修繕費です。守矢からではなく、私個人から」

 

 妹紅は包みを見た。

 

「受け取れない」

 

「なぜですか」

 

「それを受け取ると、お前が楽になる」

 

 早苗は言葉を詰まらせた。

 

 妹紅は続ける。

 

「謝るのも、金を出すのも大事だ。でも、それで終わりにしたら駄目だ。お前はこれからも人里に来るんだろ」

 

「はい」

 

「なら、金より顔を出せ。講じゃなくて、人として」

 

 早苗は包みを胸に戻した。

 

「分かりました」

 

 少しして、彼女は小さく笑った。

 

「慧音さんにも同じようなことを言われました」

 

「だろうな」

 

 妹紅は空を見上げた。

 

「教師は面倒だからな」

 

 早苗は深く頭を下げ、去っていった。

 

 その背中は、昨日までより少し小さく見えた。

 だが、弱くは見えなかった。

 

 夜になった。

 

 人里は久しぶりに静かだった。

 

 寺子屋の座敷で、慧音は最後の頁を書いていた。

 

 妹紅は向かいに座り、黙ってそれを見ている。

 

「終わるのか」

 

「この件については」

 

「また始まるか」

 

「幻想郷だからな」

 

「嫌な言い方だ」

 

「事実だ」

 

 慧音は筆を置き、書いたばかりの頁を妹紅に見せた。

 

 そこには、こう記されていた。

 

 ――人里東部一連の騒動、仮称・人里抗争。

 発端は博麗縁日における賭場騒動。

 守矢の講、永遠亭の薬、八雲の再整備案、各勢力の利権が複合。

 扇動者は境界の隙を利用し、人里の分断を図った。

 佐伯は土地仲介により利益を得ようとし、複数の偽証文に関与。

 各勢力、それぞれ管理不備と利権関与あり。

 寺子屋への延焼なし。

 死者なし。

 ただし、人里の信頼に深い傷を残す。

 今後、各勢力の行動を監視し、記録を継続する。

 

 最後に、一行だけ空白があった。

 

 妹紅はそこを指した。

 

「何を書く」

 

 慧音は少しだけ迷った。

 

 そして、筆を取った。

 

 ――幻想郷は、まだ壊れていない。

 ただし、壊れなかったことを、誰かの手柄にしてはならない。

 

 妹紅はそれを見て、笑った。

 

「紫の言葉、そのまま使わなかったな」

 

「当然だ」

 

「慧音らしい」

 

 慧音は帳面を閉じた。

 

 その音は、思ったより軽かった。

 

 すべてが終わったわけではない。

 だが、一つの夜は閉じられた。

 

 妹紅は立ち上がり、寺子屋の戸を開けた。

 

 外には月が出ている。

 竹林の方角に、薄い雲が流れていた。

 どこかで妖怪が笑っているかもしれない。

 どこかでまた、新しい利権の話が始まっているかもしれない。

 

 それでも、寺子屋の中では明日の授業の準備がされている。

 

 墨があり、筆があり、子供たちの机が並んでいる。

 

「慧音」

 

「何だ」

 

「明日も授業か」

 

「もちろんだ」

 

「寝てないのに?」

 

「歴史は待ってくれない」

 

「子供は待ってくれるだろ」

 

 慧音は少しだけ笑った。

 

「それもそうだな」

 

 妹紅は珍しく目を丸くした。

 

「休むのか」

 

「一刻だけな」

 

「一刻かよ」

 

「十分だ」

 

「全然足りない」

 

 妹紅は呆れながらも、座敷の灯りを少し落とした。

 

 慧音は帳面に布をかけ、静かに横になった。

 眠りに落ちる直前、彼女は小さく呟いた。

 

「妹紅」

 

「何だ」

 

「寺子屋は、残ったな」

 

「ああ」

 

「よかった」

 

 それだけ言って、慧音は目を閉じた。

 

 妹紅はしばらく、その寝顔を見ていた。

 

 不死身の自分は、いつまでも生きる。

 だが、人里は違う。

 寺子屋も、子供たちも、慧音でさえ、いつかは変わる。

 

 だから守りたいのだと思った。

 

 永遠に残るからではない。

 いつか消えるものだから、今、守る意味がある。

 

 妹紅は寺子屋の門へ出た。

 

 夜風が頬を撫でる。

 焼けた倉庫街の匂いは、もうほとんどしなかった。

 

 代わりに、墨と木と土の匂いがする。

 

 人里の匂いだ。

 

 妹紅は門にもたれ、空を見上げた。

 

 遠く、博麗神社の方で小さな灯りが見える。

 山の方には守矢の灯。

 竹林の奥には永遠亭。

 紅魔館は霧の向こう。

 白玉楼は死者の彼岸。

 命蓮寺は夜の中で静かに鐘を抱え、地霊殿は地の底で灰を分けている。

 八雲はどこかの境界で、きっとまた笑っている。

 

 どいつもこいつも、善人ではない。

 

 だが、それでも朝は来る。

 

 翌日、寺子屋の鐘はいつも通り鳴った。

 

 子供たちは眠そうに席につき、慧音は少しだけ顔色の悪いまま教壇に立った。

 妹紅は門の外で腕を組み、あくびを噛み殺している。

 

 慧音は黒板代わりの板に、今日の題を書いた。

 

 ――歴史とは何か。

 

 子供の一人が手を挙げた。

 

「先生、歴史って、昔のこと?」

 

 慧音は少し考えた。

 

「昔のことでもある」

 

「じゃあ、昨日のことは?」

 

「それも歴史だ」

 

「昨日の火事も?」

 

「そうだ」

 

「怖かったことも?」

 

 慧音は頷いた。

 

「怖かったことも、間違えたことも、誰かが守ったことも、全部だ」

 

 子供たちは黙って聞いていた。

 

 慧音は続ける。

 

「歴史は、偉い人だけのものではない。神様や妖怪だけのものでもない。ここにいる一人一人が、昨日を覚えている。それが歴史になる」

 

 外で聞いていた妹紅は、少しだけ目を細めた。

 

 教室の中から、子供の声がする。

 

「じゃあ、忘れたらどうなるの?」

 

 慧音は静かに答えた。

 

「忘れてもいいことはある。忘れた方が生きやすいこともある。だが、誰かに勝手に消されてはいけない」

 

 その言葉は、子供たちにどこまで伝わったか分からない。

 

 だが、妹紅には分かった。

 

 昨夜のことは、きっと大きな歴史にはならない。

 幻想郷縁起の中でも、小さな記述で終わるかもしれない。

 博麗の巫女は面倒な火事を片づけたと言い、八雲は結界補修の調整だったと言い、守矢は講を見直したと言い、永遠亭は薬材管理を改めたと言うだろう。

 

 誰も、自分が悪党だったとは言わない。

 

 だから慧音が書く。

 

 人里が揺れたこと。

 寺子屋が狙われたこと。

 子供たちが怖がったこと。

 火消しが水を回したこと。

 早苗が謝ったこと。

 鈴仙が逃げなかったこと。

 霊夢が最後に止めたこと。

 紫が責任を認めきらなかったこと。

 妹紅が火の前に立ったこと。

 

 勝者はいない。

 完全な正義もいない。

 ただ、残ったものがある。

 

 寺子屋。

 人里。

 記録。

 朝。

 

 授業が終わると、子供たちが外へ飛び出してきた。

 

 一人が妹紅に声をかける。

 

「妹紅、昨日火を消したんでしょ」

 

「まあな」

 

「すごいね」

 

「すごくない」

 

「なんで?」

 

 妹紅は少し困った。

 

 そして、寺子屋の中の慧音を見る。

 

「火は消すもんだからだ」

 

 子供はよく分からない顔をしたが、すぐに別の子と走っていった。

 

 妹紅は小さく笑った。

 

 その時、寺子屋の塀の上に一枚の札が置かれていることに気づいた。

 

 博麗の札だった。

 そこには短く書かれている。

 

 ――また縁日をやる。警備よろしく。

 

 妹紅は顔をしかめた。

 

「ふざけやがって」

 

 後ろから慧音が来る。

 

「何だ」

 

「霊夢からだ」

 

 慧音は札を読み、少しだけ笑った。

 

「日常が戻った証拠だな」

 

「日常ってのは面倒だな」

 

「そうだ」

 

 慧音は寺子屋の庭を見た。

 

「だが、悪くない」

 

 妹紅は札を握りしめ、空を見上げた。

 

 幻想郷に、善人はいない。

 

 それはたぶん、本当だ。

 

 けれど、悪党ばかりの世界でも、誰かが火を消し、誰かが記録し、誰かが子供に昨日のことを教えるなら、まだ終わりではない。

 

 人里の風が吹いた。

 

 寺子屋の鐘が、昼を告げる。

 

 その音は、焼け残った倉庫街にも、博麗神社にも、竹林にも、山にも、霧の湖にも、冥界にも、地底にも、ゆっくりと広がっていった。

 

 異変ではない。

 抗争でもない。

 歴史に残らないかもしれない、ただの朝。

 

 それでも慧音の帳面には、確かに一行が残っている。

 

 ――寺子屋、存続。

 

 妹紅は門の前に立ち、今日も人里を見張っていた。

 




最後まで読んでくださってありがとうございます。
設定として下記に置いておきます。こんな感じでストーリー作ってます。

勢力設定
勢力: 表の顔 :裏のシノギ・役割

博麗神社: 異変解決・結界管理: 賭場、テキ屋、用心棒、調停屋
八雲一家: 境界管理・妖怪社会の調整役: ゼネコン、産廃、密輸、地上げ
永遠亭: 医療・薬師・月の技術: 闇医療、薬品流通、違法治療ルート
紅魔館: 洋館の貴族勢力: 闇オークション、禁制品、人材取引疑惑
白玉楼/西行寺組: 冥界の名家: 金貸し、武器商、死者ルートの管理
守矢神社: 新興信仰・技術導入: 新興宗教ビジネス、マルチ、資金集め
地霊殿: 地底管理: 掃除屋、証拠隠し、後始末
命蓮寺: 寺院・救済組織: 海運、物流、港湾利権、宗派ネットワーク
神霊廟: 仙人・道教系勢力: 政治工作、古い権威、神道勢力との対立
人里自警団: 治安維持: 問屋、火消し、人材派遣、情報屋

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