# 序章 濁る井戸
水が濁った。
最初に気づいたのは、寺子屋の子供だった。
朝の授業が始まる前、井戸から汲んだ水で墨をすろうとした子供が、首をかしげた。
「先生、水が変」
上白沢慧音は、子供の手元を見た。
小さな硯の中で、水が薄く濁っていた。泥水というほどではない。だが、いつもの井戸水ではなかった。底に細かな砂のようなものが沈み、表面にはかすかに油膜のような光が浮いている。
慧音は硯を取り上げ、指先で水をすくった。
匂いはない。
だが、嫌な感じがした。
「飲んだ者はいるか」
子供たちは首を振った。
慧音はすぐに寺子屋の手伝いに声をかけた。
「今日の水は使うな。井戸を閉める。子供たちには、昨日汲んでおいた水を出してくれ」
その声に、寺子屋の空気が少しざわついた。
水が濁る。
人里では、それだけで十分な騒ぎになる。
火事なら火消しが来る。
怪我なら永遠亭を呼ぶ。
妖怪なら博麗へ走る。
だが水は違う。
水は、朝飯にも、茶にも、墨にも、畑にも、薬にも、酒にもいる。
誰か一人の問題ではない。人里全体の喉元を、静かに掴む。
慧音が井戸の蓋を閉めようとした時、門の前に藤原妹紅が現れた。
いつものように眠そうな顔をしている。
だが、目だけはすでに鋭かった。
「井戸か」
「ああ」
妹紅は井戸の中を覗き込んだ。
暗い水面が、わずかに揺れている。
そこに映る空は、妙に歪んで見えた。
「昨日の夜は何もなかった」
「誰かが何かを投げ入れた様子は?」
「ない。見張ってた」
「なら、井戸そのものではなく、水脈か」
慧音の声が低くなる。
妹紅は顔を上げた。
「また面倒なことになりそうだな」
「前から面倒だった」
「土地の次は水か」
妹紅は井戸から離れ、腕を組んだ。
「人里を試すにも程がある」
同じ頃、博麗神社では、博麗霊夢が賽銭箱の前で渋い顔をしていた。
賽銭箱の中身は、いつも通り軽い。
それだけならまだいい。
今日は、賽銭の代わりに苦情が入っていた。
人里の井戸が濁った。
霧の湖の水位が下がった。
酒造りの水が使えない。
畑の用水路が詰まった。
命蓮寺の船が止まった。
永遠亭の薬用水に異常がある。
紅魔館が湖を荒らされたと怒っている。
守矢神社が治水の許可を求めている。
霊夢は、賽銭箱の底に溜まった紙をつまみ上げ、深くため息をついた。
「銭は入れないくせに、苦情だけはよく入れるわね」
縁側では、霧雨魔理沙が団子を食べていた。
「繁盛してるじゃないか。賽銭じゃなくて相談所として」
「全然うれしくない」
「水の異変か?」
「異変って呼ぶには地味すぎるわ。井戸が濁っただけでしょ」
「霧の湖も変だぜ」
魔理沙の声が、少しだけ真面目になる。
霊夢は横目で見た。
「見てきたの?」
「見てきた。湖の水位が下がってる。チルノが大騒ぎしてた」
「チルノはいつも騒いでるでしょ」
「今回は本気で騒いでた。氷が作りにくいってさ」
「それは本人にとって大事件ね」
霊夢は紙束を膝の上に置いた。
霧の湖。
紅魔館の近くにある湖。
妖精が騒ぎ、妖怪が潜み、紅魔館が勝手に庭の一部のような顔をしている場所。
だが、ただの湖ではない。
人里の地下水脈とも、妖怪の山から流れる水とも、地底へ続く古い水道とも、どこかで繋がっている。
水が狂えば、意外な場所まで揺れる。
霊夢はそれを知っていた。
知っていたからこそ、面倒だった。
「水くらい勝手に流れなさいよ」
「無茶言うな」
魔理沙は団子を食べ終えると、懐から濡れた布包みを出した。
「で、これを拾った」
「また拾ったのね」
「拾ったんだよ。湖の浅瀬でな」
魔理沙は布を開いた。
中に入っていたのは、札だった。
濡れてふやけているが、形はまだ残っている。
白い紙に、赤い印。
博麗神社の結界札に似ていた。
似ていた、というより、似せていた。
霊夢の顔から、面倒くさそうな色が消えた。
彼女は札を取り上げ、光に透かした。
「うちの札じゃない」
「だろうな」
「でも、うちに似せてる」
「ああ」
魔理沙の声も低くなる。
「湖底に何枚か貼られてた。水の流れを塞ぐみたいにな」
霊夢は黙った。
博麗の札は、ただの紙ではない。
幻想郷では、博麗の名そのものに意味がある。
博麗が封じた。
博麗が許した。
博麗が裁いた。
そう見えれば、多くの者は一度足を止める。
だからこそ、博麗の札を偽造することは、ただの嫌がらせでは済まない。
博麗神社の名で、水が止められている。
それは、霊夢に喧嘩を売っているのと同じだった。
魔理沙は帽子を直した。
「河童の仕業か?」
「河童なら、こんな雑な札を使わないわ。管や水門でやる」
「守矢は?」
「やりそうだけど、こんな下手な真似はしない。神奈子なら正面から許可を取りに来るか、取ったことにして工事する」
「紅魔館は?」
「札なんて貼らずに、咲夜が黙って水を運ぶ」
「永遠亭」
「水に薬を混ぜるならともかく、止めはしないでしょ」
「命蓮寺」
「船が止まって困ってる側」
「八雲」
霊夢は答えなかった。
その沈黙だけで、魔理沙は分かった。
霊夢は八雲を完全には外していない。
そこへ、境内の石段を上る足音がした。
最初に来たのは上白沢慧音だった。
その後ろに妹紅がいる。
慧音は霊夢の前に立つと、挨拶もそこそこに言った。
「人里の井戸が濁った」
「知ってる」
「寺子屋の水も使えない」
「それも知ってる」
「知っていて座っていたのか」
「今、立とうとしてたところよ」
霊夢は濡れた札を慧音に見せた。
慧音の表情が険しくなる。
「博麗の札か」
「偽物」
「どこで」
「霧の湖」
妹紅が低く言った。
「湖と人里の井戸が同時か」
「同時とは限らないけど、繋がってはいるでしょうね」
霊夢は札を振った。
「誰かが水の流れに、博麗の名を貼ってる」
慧音は札を受け取り、慎重に見た。
「紙は河童の工房で使われるものに近い。だが印は博麗に似せている。墨は水に強い。普通の墨ではない」
「分かるの?」
「寺子屋では、子供が水をこぼしても読める墨を使うことがある。これはそれより強い」
妹紅は眉をひそめる。
「用意がいいな」
「最初から水中で使うための札だ」
その時、境内の端に白い霧が流れ込んだ。
霧の中から、十六夜咲夜が現れる。
彼女はいつものように静かな顔で一礼した。
「お嬢様より伝言です」
霊夢は嫌そうな顔をした。
「今度は紅魔館?」
「霧の湖の水位低下について、博麗神社に説明を求める、とのことです」
「何で私が説明するのよ」
「湖底に博麗の札があったと聞きましたので」
咲夜の視線が、慧音の手元の札に向く。
魔理沙が小さく口笛を吹いた。
「噂が早いな」
咲夜は淡々と答える。
「湖は紅魔館の目の前です。異変があれば、すぐ分かります」
「湖はあんたたちの所有物じゃないでしょ」
霊夢が言うと、咲夜は微笑んだ。
「少なくとも、お嬢様はそう思っておりません」
「面倒な吸血鬼ね」
「否定はいたしません」
さらに、石段の下から別の声がした。
「霊夢さーん!」
東風谷早苗だった。
息を切らせて上ってくる。
その後ろには、守矢神社の幟を持った信徒ではなく、河童の工具箱を担いだ者が二人いた。
早苗は境内に入るなり、深く頭を下げた。
「霧の湖と人里の水路について、守矢から正式に協議をお願いに来ました」
霊夢はじっと早苗を見た。
「今回は先に来たのね」
早苗は少しだけ顔をこわばらせた。
前回の件を思い出しているのだろう。
「はい。今回は、博麗を通さずには進めません」
霊夢は何も言わなかった。
少しだけ、早苗の評価を改める。
だが、後ろにいる河童の工具箱を見て、その評価はすぐ保留になった。
「その河童は?」
「水路調査の協力者です。河城にとりさんの工房から」
河童の一人が帽子を押さえ、へらりと笑った。
「どうも。水のことなら河童にお任せってね」
妹紅がその河童を睨む。
「お任せした結果、井戸が濁ったんじゃないのか」
「いやいや、あれはうちじゃないよ。少なくとも、うちの組じゃない」
慧音が眉を上げた。
「うちの組?」
河童はしまった、という顔をした。
霊夢は見逃さなかった。
「河童にも組があるのね」
「いや、その、工房とか組合とか、そういう言い方で」
「名前は」
河童は目を泳がせた。
早苗も困った顔をする。
「詳しくは私もまだ」
その時、境内に低い声が響いた。
「青筒組だ」
全員が振り返る。
石段の途中に、河城にとりが立っていた。
背中には大きな鞄。顔はいつもの軽さを少し失っている。
「霧の湖の古い水路をいじれる河童の組合。水門、管、冷却、排水。そういう面倒なところを請け負ってる」
霊夢は札をにとりへ投げた。
にとりは受け取り、顔をしかめる。
「これ、湖の底にあったのか」
「そうよ」
「紙は河童製だ。でも、うちの工房じゃない。たぶん青筒の方だ」
「何者なの」
にとりは少し黙った。
「水を流す連中だよ」
「それだけ?」
「逆もできる」
霊夢の目が細くなる。
にとりは帽子を深くかぶり直した。
「水はさ、流れてる時は誰のものでもない。でも、止めた瞬間に値段がつくんだ」
境内が静まり返った。
慧音はその言葉を記憶するように、ゆっくりと目を伏せた。
妹紅は低く言う。
「つまり、誰かが値段をつけるために水を止めた」
にとりは否定しなかった。
咲夜が静かに口を開く。
「紅魔館の貯水槽にも異常があります。湖から引いた水の流れが細くなっている」
早苗も続ける。
「妖怪の山の水路でも、通常と違う逆流が出ています」
慧音が言った。
「人里の井戸は濁った」
魔理沙が加える。
「霧の湖は水位が下がった」
霊夢は全員を見回した。
紅魔館。
守矢。
河童。
人里。
博麗。
たった一つの水の異常で、これだけの顔が神社に集まっている。
水は厄介だ。
誰のものでもない顔をして、全員の喉を掴んでいる。
霊夢は濡れた偽札を指先でつまみ、賽銭箱の上に置いた。
「分かった」
その声で、境内の空気が変わった。
霊夢が面倒くさそうにしている時と、面倒を片づけると決めた時では、周囲の温度が違う。
「まず霧の湖へ行く。湖底の札を全部剥がす。河童は案内。守矢は勝手に工事しない。紅魔館は怒鳴り込まない。人里は井戸を封鎖して、飲み水は昨日までの蓄えを使う」
妹紅が聞いた。
「寺子屋は?」
「博麗の札を一枚渡す。偽物じゃないやつ。井戸に貼っておきなさい」
慧音は霊夢を見た。
「記録は?」
霊夢は少し嫌そうな顔をした。
前回の抗争以降、慧音は何かあるたびにそれを聞く。
記録するのか。
隠すのか。
残すのか。
消すのか。
霊夢はため息をついた。
「好きに書けば」
「博麗の名で水が止められていることも?」
「書きなさい」
霊夢は札を睨んだ。
「その代わり、犯人の名前も書くことになるわよ」
慧音は頷いた。
「望むところだ」
魔理沙が箒を肩に担いだ。
「じゃあ、湖へ行くか」
霊夢は賽銭箱に残った苦情の紙束を見た。
水が濁る。
水が止まる。
水が売られる。
土地と違って、水は境界を選ばない。
神社も、寺も、館も、人里も、妖怪の山も、地底も、勝手に繋いでしまう。
だからこそ、止めた者が力を持つ。
霊夢は立ち上がった。
「水を止めた奴に、水は任せない」
その言葉は、誰に向けたものでもあり、誰に向けたものでもなかった。
霧の湖の方角から、冷たい風が吹いた。
その風には、いつもの霧の匂いではなく、濁った水の匂いが混じっていた。