霧の湖は、いつも白い。
朝でも昼でも、晴れていても、どこかに薄い霧がかかっている。水面は静かで、岸辺の草は濡れ、遠くには紅魔館の赤い影がぼんやりと浮かぶ。
だが、その日の湖は少し違っていた。
白いはずの霧が、ところどころ灰色に濁っている。
水面は低く、岸辺の泥がむき出しになっていた。
普段なら湖の中に隠れている石や根が、まるで骨のように顔を出している。
博麗霊夢は、湖畔に立って眉をひそめた。
「思ったより下がってるわね」
隣で霧雨魔理沙がしゃがみ込み、水際を指でなぞった。
「昨日見た時より、さらに下がってるな。ほら、ここに水の跡がある」
岸辺の石には、古い水位の線が残っていた。
そこから今の水面までは、子供の膝ほどの差がある。
霊夢は面倒くさそうに息を吐く。
「湖って、そんな簡単に減るものなの?」
「普通は減らない。少なくとも、一晩でこうはならない」
後ろから河城にとりが答えた。
にとりは大きな鞄を背負い、腰には工具をいくつも下げている。
普段なら商売っ気のある笑みを浮かべているが、今日は表情が硬い。
「水門でも開けたのか」
魔理沙が聞く。
「霧の湖に、そんな分かりやすい水門はないよ。古い水路や地下の抜け道はあるけどね」
「それをいじれるのが河童ってわけだ」
霊夢が言うと、にとりは少しだけ視線を逸らした。
「河童なら、全員できるわけじゃない。水脈に手を出せるのは、専門の連中だ」
「青筒組?」
「たぶんね」
にとりは湖面を見つめた。
「でも、あいつらが本気で水を止めるなら、もっと綺麗にやる。こんなふうに岸辺を荒らしたり、偽札を残したりしない」
「偽札を残したのは、誰かに見つけさせるためかもしれないわ」
霊夢は袖から、序章で魔理沙が拾った濡れた札を取り出した。
博麗の結界札に似せた偽物。
湖の底に貼られていたもの。
にとりはそれを見て、苦々しく言った。
「紙は河童製。水に強い加工もしてある。けど、印が雑だ。博麗の札をよく知らない奴が、遠目で似せた感じだね」
「よく知らないくせに、博麗の名は使うのね」
霊夢の声が少し低くなった。
その時、湖の方から甲高い声が響いた。
「おーい! あんたたち、何してんのよ!」
氷の羽を揺らしながら、チルノが飛んできた。
後ろには大妖精もいる。大妖精は不安そうに湖の方を振り返っていた。
チルノは霊夢たちの前に降り立つなり、びしっと湖を指差した。
「湖が変なのよ! 水が少ない! 氷が薄い! 魚も変なところにいる!」
「魚の心配までするのね」
霊夢が言うと、チルノは胸を張った。
「あたいは湖の最強だからね! 湖のことは分かるの!」
魔理沙がにやりと笑う。
「じゃあ、何が変なんだ?」
チルノは得意げに言いかけて、少し考えた。
「えーと……下が冷たい」
「湖は冷たいだろ」
「違うの! いつもの冷たさじゃないの! 底の方から、変な冷たさが来てるの!」
霊夢は顔を上げた。
「底?」
大妖精がおずおずと言った。
「湖の真ん中あたりで、泡が出てました。水が吸い込まれてるみたいで……チルノちゃんが近づいたら、氷が割れそうになって」
「あたいは割れてない!」
「割れそうになっただけだよ」
にとりの表情が変わった。
「吸い込みか……」
「心当たりがあるの?」
霊夢が尋ねる。
「古い地下水路が開いてるのかもしれない。霧の湖の下には、昔の河童が掘った管がいくつか残ってる。今はほとんど使われてないけど」
「それを青筒組が使ってる?」
「可能性はある」
その時、霧の向こうから規則正しい足音が聞こえた。
現れたのは十六夜咲夜だった。
銀髪を揺らし、いつものように整った姿で湖畔を歩いてくる。
彼女の後ろには、紅魔館の使いが数人いた。皆、湖の岸に沿って何かを調べている。
「博麗の巫女。お待ちしておりました」
「待たれてた覚えはないわ」
「お嬢様は大変お怒りです」
「でしょうね」
霊夢は紅魔館の方を見る。
霧の向こうで、赤い館が沈黙している。
沈黙しているのに、不機嫌なのが分かる。そういう館だった。
咲夜は湖面を見た。
「霧の湖は紅魔館の防衛圏であり、景観の一部でもあります。勝手に湖底を掘られるのは困ります」
にとりがすぐ反論した。
「河童が勝手に掘ったって決まったわけじゃないだろ」
「では、河童以外に湖底の管を扱える者が?」
「守矢とか、八雲とか、地底とか、色々いるだろ」
咲夜は静かににとりを見る。
「その中で、一番工具を持っているのは河童です」
「工具を持ってるだけで犯人扱いかよ」
「刃物を持っていれば料理人にもなれますし、犯人にもなれます」
魔理沙が小声で言う。
「咲夜が言うと説得力があるな」
「黙ってなさい」
霊夢が言った。
空気が少しずつ悪くなっている。
湖の水が減った。
人里の井戸が濁った。
博麗の偽札が見つかった。
河童の紙が使われている。
紅魔館の庭先が荒らされている。
それだけで、もう十分に揉める。
霊夢は咲夜へ向き直った。
「紅魔館は何か知ってるの?」
「こちらも被害者です」
「そう言う奴ほど、だいたい何か隠してるのよ」
咲夜は少しだけ微笑んだ。
「では、正直に申し上げます。紅魔館は湖の水を一部、地下貯水槽へ引いています」
にとりが目を丸くした。
「は?」
魔理沙が笑う。
「ほらな。やっぱり何かやってた」
咲夜は悪びれない。
「庭園、館内設備、防火、その他諸々のためです。湖畔に館を構える以上、当然の備えです」
「当然かどうかは知らないけど、勝手に引いてたわけね」
霊夢が言う。
「博麗に許可を取った覚えは?」
「ございません」
「堂々と言うわね」
「今まで問題になりませんでしたので」
霊夢はこめかみを押さえた。
「問題になってないんじゃなくて、私が知らなかっただけでしょ」
「同じことでは?」
「違うわよ」
咲夜は涼しい顔のまま続けた。
「ただし、今回の水位低下は紅魔館の貯水量では説明できません。むしろ、こちらの貯水槽にも異常が出ています」
「異常?」
「水の流入が細り、底に細かな金属粉のようなものが混じっていました」
咲夜は布に包まれた破片を取り出した。
金属製の管の一部だった。
水に濡れ、ところどころ青く変色している。
にとりが受け取った瞬間、顔色を変えた。
「これ……河童の管だ」
「やっぱり」
咲夜が静かに言う。
「待て、早い。これは確かに河童の管だけど、古い型だ。今のうちの工房じゃ使わない」
「青筒組は?」
霊夢が聞く。
にとりは答えに詰まった。
「……使うかもしれない」
その時、湖畔の反対側から、今度は東風谷早苗が現れた。
早苗は走ってきたらしく、少し息を切らしている。
だが、表情は真剣だった。
「霊夢さん、守矢の水路調査班が湖の北側で妙なものを見つけました」
「今度は何」
「水を測る杭が、勝手に打たれています。守矢のものではありません。でも、神紋に似た印が刻まれていて……」
早苗は言葉を切った。
霊夢は嫌な予感がした。
「似た印?」
「はい。守矢がやったように見える形です」
咲夜がにとりを見る。
「博麗の偽札に、河童の管に、守矢に似た杭ですか」
にとりは苛立ったように言った。
「分かりやすすぎるだろ。誰かが全部を揉めさせようとしてる」
「その誰かが河童ではない証拠は?」
「ないよ」
にとりの声が荒くなった。
「でも、紅魔館だって勝手に水を引いてた。守矢だって水利計画を進めてる。博麗だって偽札を使われてる。みんな無関係じゃないだろ」
早苗が一歩前に出る。
「守矢は正式に協議を申し入れています。今回は勝手には進めません」
「今回は、ね」
咲夜の声がわずかに冷える。
早苗は唇を噛んだ。
前回の守矢の講をめぐる騒動は、まだ全員の記憶に残っている。
早苗が慎重に動いているのは分かる。
だが、守矢が人里や水利に入り込もうとしている事実は変わらない。
霊夢は手を叩いた。
「はい、そこまで」
全員が黙る。
霊夢は湖面を見た。
「紅魔館は勝手に水を引いていた。河童は湖底の管に心当たりがある。守矢は水利計画を持ってきた。博麗の偽札は湖底に貼られていた」
霊夢は全員を見回す。
「つまり、全員怪しい」
魔理沙がにやりと笑った。
「公平だな」
「公平じゃないわ。面倒なだけよ」
その時、湖の中心で水面が揺れた。
小さな泡が、ぽつぽつと浮かぶ。
最初は数えるほどだった。
だが次第に泡は増え、水面が渦のように沈み始めた。
チルノが叫ぶ。
「ほら! あれ! あれだよ!」
にとりが鞄から小さな測定器を取り出す。
「水が吸われてる。湖底のどこかが開いてるんだ」
「閉じられる?」
霊夢が聞く。
「近くまで行かないと分からない。でも、危ない。流れに巻き込まれたら」
「行くわよ」
霊夢は即答した。
魔理沙が箒にまたがる。
「だと思ったぜ」
咲夜は紅魔館の使いたちに下がるよう合図した。
「湖面の移動なら、私も同行します」
早苗も御幣を握った。
「私も行きます。守矢の杭が関係しているなら、確認しなければなりません」
にとりは渋い顔をしながらも、鞄から小型の水中探査具を取り出した。
「分かったよ。私が案内する。ただし、水に落ちても知らないからね」
「落ちても魔理沙が拾うでしょ」
「私かよ」
魔理沙が言う。
一行は湖面へ向かった。
霊夢と魔理沙は空を飛び、咲夜は水面近くを器用に渡る。早苗は風を使って後を追い、にとりは奇妙な浮き具を湖に浮かべて進んだ。
湖の中心に近づくほど、霧は濃くなった。
水面の渦は小さい。
だが、近づくと底の方から引かれるような力がある。
にとりの測定器が甲高い音を立てた。
「ここだ。真下に穴がある」
霊夢は水面を覗き込んだ。
濁った水の向こうに、何かが見える。
鉄の輪。
古い管。
それに貼りついた白い札。
博麗の偽札だった。
しかも一枚ではない。
何枚もの札が、管の周囲に貼られている。
札が水の流れを歪め、管の奥へ水を引き込んでいるように見えた。
「本当に、うちの札の真似で水を動かしてる」
霊夢の声が低くなる。
早苗が顔をこわばらせた。
「こんなことができるんですか」
「博麗の札なら、境界や流れに干渉できる。でもこれは偽物。だから無理やり水の通り道をねじ曲げてる」
にとりが言った。
「だから濁ってるんだ。流れを綺麗に変えてるんじゃない。壊しながら吸ってる」
咲夜が目を細める。
「行き先は?」
「地下水路。どこへ繋がってるかは、図面がないと分からない」
魔理沙が言った。
「図面なら、青筒組が持ってそうだな」
「でしょうね」
霊夢は袖から本物の博麗札を取り出した。
「偽札を剥がす」
にとりが慌てる。
「待て待て! いきなり剥がしたら水流が跳ねるかもしれない」
「じゃあ、どうするの」
「先に管の圧を抜く。それから順番に札を外す」
「どれくらいかかる?」
「道具があれば半刻。なければもっと」
霊夢は湖底を睨んだ。
「面倒ね」
「水は面倒なんだよ」
にとりが言う。
「流れを止めるのは簡単だけど、戻すのは難しい。無理に戻せば、別のところが壊れる」
その言葉は、水だけの話ではなかった。
霊夢は一瞬、前回の人里抗争を思い出した。
土地。
寺子屋。
記録。
隠蔽。
何かを壊してから戻すのは、いつだって難しい。
その時だった。
湖畔の方から爆発音がした。
水鳥が一斉に飛び立つ。
霧が揺れる。
咲夜がすぐに振り返った。
「紅魔館側です」
にとりの測定器が別の反応を示す。
「岸の設備が壊された!」
「設備?」
霊夢が聞く。
「湖底調査用に置いてあった仮設の水圧計だよ。さっきまで無事だったのに」
魔理沙が箒を反転させる。
「戻るぞ」
一行が湖畔へ戻ると、そこには壊れた機械があった。
河童の測定器らしい装置が、無残に壊されている。
煙が上がり、金属片が岸辺に散らばっていた。
紅魔館の使いたちは警戒している。
チルノは大妖精と一緒に少し離れたところから見ていた。
にとりが駆け寄る。
「ひどいな……これ、内部まで壊されてる。水圧計だけじゃない。記録も抜かれてる」
咲夜が地面に落ちていた紙片を拾った。
赤い封印紙。
紅魔館の紋に似た印が押されている。
咲夜の表情が冷えた。
「これは」
霊夢が近づく。
「紅魔館の封印紙?」
「似ています。ですが、正規のものではありません」
「また偽物か」
魔理沙が呆れたように言う。
「博麗の札、守矢の杭、紅魔館の封印紙。次は何だ? 命蓮寺の荷札か、永遠亭の薬包みか?」
霊夢は紙片を咲夜から受け取った。
紅魔館の封印紙に似せた偽物。
だが、紙質はさきほどの博麗偽札と同じ系統だった。
河童製。
水に強い。
印は雑。
だが、疑わせるには十分。
咲夜が静かに言った。
「これは紅魔館への挑発です」
「河童への挑発でもある」
にとりが言う。
「守矢も巻き込まれてます」
早苗も言った。
霊夢は、濡れた紙片を握った。
これで三つ。
博麗の偽札。
守矢に似せた測量杭。
紅魔館の偽封印紙。
誰かが、霧の湖をめぐる全勢力に火種を置いている。
水を止めるだけではない。
水をめぐって、互いに疑わせるためだ。
霊夢は湖を見た。
水面は低く、霧は濁っている。
湖の底では、偽の博麗札がまだ水を吸い込ませている。
そこへ、紅魔館の方角から強い気配が近づいてきた。
レミリア・スカーレットだった。
小さな体に似合わない威圧感をまとい、霧を割るように歩いてくる。
後ろにはパチュリーもいる。小悪魔が本を抱えてついてきていた。
レミリアは壊れた装置と偽の封印紙を見て、静かに笑った。
「なるほど。うちの名を使ったのね」
その声は軽い。
だが、湖畔の空気が冷えた。
「お嬢様」
咲夜が一礼する。
「説明は後でいいわ」
レミリアは霊夢を見た。
「博麗。これはどう裁くの?」
霊夢はすぐには答えなかった。
レミリアは続ける。
「湖は荒らされ、紅魔館の名は使われ、河童は疑われ、守矢は水利を狙い、人里の井戸は濁った。放っておけば、誰かが勝手に水の王を名乗るわよ」
「水の王なんて趣味悪いわね」
「幻想郷では、趣味の悪い者ほど先に動くものよ」
霊夢は偽封印紙を袖にしまった。
「裁く前に、犯人を引きずり出す」
「遅いわね」
「急いで間違えるよりマシでしょ」
レミリアは笑った。
「博麗が慎重になるなんて。前の件で懲りた?」
「うるさい」
魔理沙が横で笑いをこらえた。
霊夢はにとりを見る。
「湖底の管を止める準備をして。魔理沙、あんたは青筒組の工房を探しなさい」
「任せろ。拾い物が増えそうだ」
「咲夜は紅魔館の封印紙の出どころを調べて。早苗は守矢の杭を全部確認。勝手に工事した河童がいないかも」
早苗は頷いた。
「分かりました」
にとりは不安そうに言った。
「青筒組が本当に絡んでたら、河童だけで止めるのは難しいよ」
「だから博麗が出るのよ」
霊夢は湖を見る。
「水を止めた奴に、水は任せない」
その言葉に、湖畔の空気が一瞬だけ静まった。
紅魔館も、守矢も、河童も、魔理沙も、何も言わなかった。
霧の湖の水面は、まだ低い。
湖底のどこかで、水は無理やり吸い込まれ続けている。
そして、壊された測定器の下から、にとりがもう一つの破片を見つけた。
小さな青い筒。
金属製の筒に、古い河童文字が刻まれている。
にとりの顔が青ざめた。
「青筒組の印だ」
魔理沙が覗き込む。
「じゃあ決まりか?」
にとりは首を振った。
「分からない。これも偽物かもしれない。でも……」
「でも?」
「本物なら、あいつらはもう隠れる気がない」
霊夢は青い筒を受け取った。
冷たい金属の感触が、手の中に残る。
霧の湖の縄張りは、もう静かな水辺ではなくなっていた。
誰の水か。
誰が流すのか。
誰が止めるのか。
水に名前をつけようとする者たちが、霧の向こうで動き始めていた。