紅魔館は、湖の向こうに立っている。
霧の湖の水面が白く煙るとき、赤い館はいつも遠くに見えた。近くにあるのに、近づけば近づくほど現実から少しずれていくような館だった。
霊夢は、その感覚が昔から嫌いではなかった。
面倒な連中が住んでいる。
偉そうで、我が強くて、騒ぎが大きい。
だが、紅魔館には紅魔館なりの筋がある。
少なくとも、姑息なことをする時も派手にやる。
だからこそ、今回のような偽の封印紙は気に入らなかった。
湖畔で壊された河童の水圧計。
そこに残されていた紅魔館に似せた封印紙。
そして湖底から見つかった博麗の偽札。
誰かが、博麗と紅魔館と河童を同時に揉めさせようとしている。
霊夢は紅魔館の門の前で、手の中の封印紙を見つめた。
赤い紙。
黒い紋。
遠目には紅魔館のものに見える。
だが、本物ではない。
咲夜は門の前で静かに頭を下げた。
「お嬢様がお待ちです」
「待たせた覚えはないけど」
「お嬢様は、待つことに慣れておりませんので」
「でしょうね」
霊夢の隣で、魔理沙が帽子を直した。
「紅魔館に入るのも久しぶりだな」
「あなたは入るたびに、何かを持って帰るでしょう」
咲夜が淡々と言う。
「誤解だぜ。持って帰るんじゃない。借りてるだけだ」
「返却された記憶がありません」
「そのうち返す」
「そのうち、という言葉を紅魔館では信用しておりません」
霊夢は二人のやり取りを無視して、門をくぐった。
紅魔館の庭は、いつもより静かだった。
霧の湖から引き込まれた水が、小さな水路を流れている。
いや、流れているというより、弱々しく滑っているだけだった。
庭園の池の水位も下がっている。
赤い花の影が、水面から少し離れた泥の上に落ちていた。
霊夢は足を止める。
「本当に水が減ってるのね」
「ええ」
咲夜は庭の奥を見た。
「館内の水道、庭園、消火用貯水、地下冷却設備、全て影響を受けています」
「地下冷却設備?」
魔理沙が反応する。
「何だそれ。面白そうだな」
「面白くありません」
咲夜は即答した。
「紅魔館には魔導書、薬品、ワイン、血液保存用の低温倉庫などがあります。水の流れが乱れると、それらの管理に支障が出ます」
霊夢は半眼になった。
「聞かなかったことにしたい単語がいくつかあったわ」
「お気になさらず」
「無理でしょ」
館の中に入ると、空気がひんやりしていた。
だが、その冷たさにも少しムラがある。廊下の片側だけ湿り、壁の燭台に水滴がついている。
パチュリー・ノーレッジの図書館へ向かう途中、何人かの妖精メイドが大きな桶を運んでいた。中身は水だ。だが、桶の底に黒っぽい沈殿物が見える。
霊夢はそれを指差した。
「それ、何」
妖精メイドがびくっとして足を止めた。
咲夜が代わりに答える。
「湖から引いた水です。濾過前のものですが、昨日から濁りが強くなっています」
「人里の井戸と似てるわね」
「そのようです」
魔理沙が桶を覗き込み、鼻を近づけた。
「匂いは薄いな。泥じゃない。金属っぽい」
「触らないでください」
咲夜が言う前に、魔理沙はすでに指先で水をすくっていた。
「うわ、少しぬるい」
「ぬるい?」
霊夢が聞く。
「ああ。湖の水にしては変だ。底から冷たいってチルノは言ってたのに、これはぬるい」
咲夜の表情が少しだけ変わった。
「館の地下でも、同じ現象が出ています。冷却水の一部がぬるくなり、別の管では異常に冷たくなる」
「水の流れが分かれてる?」
「パチュリー様が調査中です」
大図書館に入ると、紙と埃と魔力の匂いがした。
広い図書館の中央に、大きな水槽のような装置が置かれている。中には透明な水と、濁った水、そして霧のようなものが別々に浮かんでいた。
パチュリーは椅子に座り、分厚い本をめくっている。
小悪魔は横で瓶を並べていた。
レミリア・スカーレットは、さらに奥の椅子に腰掛けていた。
頬杖をつき、不機嫌そうに霊夢を見る。
「遅いわね、博麗」
「呼ばれた覚えはないけど」
「湖が荒らされたのよ。あなたが来るのは当然でしょう」
「湖はあんたの庭じゃない」
「違うわ」
レミリアは笑った。
「私の館の前にあるのだから、私の景色よ」
魔理沙が小声で言った。
「相変わらず横暴だな」
「吸血鬼に謙虚さを期待する方が悪い」
パチュリーが本から顔を上げずに言った。
霊夢はテーブルの上に、湖畔で拾った偽封印紙を置いた。
「これ、紅魔館のものじゃないわね」
レミリアはちらりと見た。
「違うわね」
「見ただけで分かるの?」
「当然よ。紅魔館の紋はもっと美しい」
霊夢は咲夜を見る。
咲夜は静かに頷いた。
「紙質も印も違います。ただし、遠目には紅魔館のものと見える程度には似せてあります」
パチュリーが瓶の一つを手に取った。
「偽装としては三流。でも、疑わせるには十分。博麗の偽札と同じね」
霊夢は眉をひそめる。
「知ってたの?」
「咲夜から聞いたわ」
「話が早いわね」
「湖の前に住んでいるから」
パチュリーは瓶を傾けた。
中の水は、薄く灰色に濁っている。
「湖の水、紅魔館の貯水槽の水、人里から持ち込まれた井戸水。それぞれ調べた。成分は完全には一致しないけれど、同じ異物が混じっている」
「異物?」
「金属粉、微細な粘土、そして薄い魔力の残渣」
「魔力?」
魔理沙が身を乗り出した。
「それ、どんな魔力だ?」
「河童の道具に使われる加工魔力に近い。でも、守矢の神力もわずかに混じっている。さらに博麗の札に似せた結界干渉の跡もある」
霊夢は目を細めた。
「混ぜすぎでしょ」
「だから偽装なのよ」
パチュリーは咳を一つした。
「一つの犯人に見せないためではなく、全員を犯人に見せるための混ぜ方」
レミリアが楽しそうに笑った。
「つまり、私たちは仲良く疑われているわけね」
「楽しそうに言わないで」
霊夢はテーブルに手をついた。
「紅魔館は湖の水を地下に引いてるのよね」
「ええ」
咲夜が答える。
「どれくらい」
「必要な分だけです」
「その言い方、信用ならない」
レミリアが肩をすくめる。
「館を維持するのに水は必要よ。霧の湖の隣に住む者として、当然の権利でしょう」
「誰に許可を取ったの」
「必要かしら?」
「必要だから聞いてるのよ」
レミリアは霊夢を見て笑った。
「博麗に許可を取れば、湖は博麗のものになるの?」
「そうじゃない」
「なら、誰のもの?」
霊夢はすぐに答えなかった。
水は誰のものか。
さっきまで考えていた問いが、紅魔館の図書館の中でまた戻ってきた。
湖の隣に住む紅魔館。
水力を考える守矢。
管を扱う河童。
水運を使う命蓮寺。
井戸を使う人里。
薬を作る永遠亭。
水脈を知る八雲。
調停する博麗。
誰のものでもないからこそ、誰もが手を伸ばす。
レミリアは続けた。
「私は湖を独り占めしたいわけではないわ。ただ、私の館の前で、誰かが勝手に水を抜くのは許せない。それだけ」
「地下貯水槽は?」
「備えよ」
霊夢はじっとレミリアを見る。
「本当に備えだけ?」
レミリアは少し笑みを深めた。
咲夜が静かに口を開く。
「一部の水は、希少な霧水として保管しています。外部に流通させたこともあります」
「やっぱり商売してたんじゃない」
魔理沙が笑う。
レミリアは不満そうに咲夜を見た。
「咲夜、そこまで正直に言う必要はあった?」
「後で博麗に見つかるより、今言った方が被害が少ないかと」
「賢いけれど、面白くないわね」
霊夢はため息をついた。
「紅魔館も白じゃない。でも今回の水位低下を起こすほどじゃない」
「そう判断してくれるの?」
「今のところはね」
レミリアは椅子から立ち上がった。
「なら、紅魔館の名を騙った者を捕まえなさい。私の名で湖を汚した者を、放ってはおけないわ」
「命令しないで」
「依頼よ」
「賽銭箱に入れてから言いなさい」
レミリアは咲夜に目配せした。
咲夜は小さな袋を取り出し、霊夢の前に置いた。
中で硬貨が重い音を立てる。
霊夢は一瞬黙った。
「……話は聞くわ」
魔理沙が吹き出した。
「霊夢、分かりやすすぎるぜ」
「うるさい」
パチュリーがテーブルの上に、金属製の管の破片を置いた。
湖畔で咲夜が見つけたものだ。
「これを詳しく調べた」
破片には青い変色と、細い刻印があった。
にとりが見れば青筒組のものだと言いそうな形。
パチュリーは指で刻印を示した。
「河童の古い水圧管。青筒組の形式に近い。ただし、これも少し変」
「どう変なの?」
「刻印が新しい。古い管に、あとから青筒組の印を刻んでいる」
霊夢は目を細めた。
「青筒組を犯人に見せたい?」
「そうとも言えるし、青筒組がわざと雑に残したとも言える」
「厄介ね」
「厄介なのは、もう一つ」
パチュリーは小悪魔に合図した。
小悪魔が地図を広げる。
霧の湖と紅魔館、その地下の水路図だった。
湖から紅魔館へ伸びる管。
そこからさらに地下へ伸びる補助水路。
そして、赤い印がつけられた地点。
「ここで水が逆流している」
「紅魔館の地下?」
「ええ。正確には、紅魔館の地下貯水槽のさらに下。古い排水路。館を建てる前からあったもの」
「どこへ繋がってるの?」
パチュリーは地図の端を指した。
「命蓮寺の水運路の下。さらに先は、地底の古い水脈へ続く可能性がある」
魔理沙が口笛を吹いた。
「一気に話が広がったな」
咲夜が言った。
「紅魔館の水だけの問題ではありません。水が逆に流れるなら、湖の水も、人里の井戸も、別の場所へ引かれている可能性があります」
霊夢は地図を見つめた。
湖底の偽札。
紅魔館の地下水路。
逆流する貯水槽。
命蓮寺の水運路。
地底へ続く水脈。
水は勝手に繋がる。
そして、繋がった場所すべてを巻き込む。
「咲夜」
「はい」
「紅魔館の地下を見せなさい」
レミリアが少し笑った。
「博麗の巫女を地下へ招くなんて、珍しい夜になりそうね」
「昼だけど」
「紅魔館では、気分の問題よ」
紅魔館の地下は、館の華やかさとは違っていた。
石造りの階段を降りると、空気は冷たく湿っている。壁には細い水滴が流れ、遠くで水が落ちる音が響く。
地下貯水槽は広かった。
天井の高い空間に、いくつもの水槽が並んでいる。
透明な水を湛えた槽もあれば、濁った水が隔離されている槽もある。
赤い封印紙が貼られた扉、魔法陣の刻まれた管、冷却用の水路。
霊夢は呆れた。
「ずいぶん立派な備えね」
咲夜は平然と言った。
「紅魔館ですので」
「説明になってない」
魔理沙は目を輝かせていた。
「すごいな。これ、どのくらいの水を溜められるんだ?」
「秘密です」
「やっぱり後で調べるか」
「調べないでください」
貯水槽の一つに近づくと、水面が不自然に揺れていた。
流れ込む管は細い。
だが、流れ出す管の方だけが激しく震えている。
水が、どこかへ引かれている。
霊夢は管に貼られた封印紙を見た。
本物の紅魔館の封印紙だった。
しかし、その隣に薄い傷跡がある。
何か別の紙が貼られていて、剥がされた跡。
「ここにも偽札?」
咲夜が頷く。
「昨夜、発見して剥がしました。紅魔館の封印に似せたものではなく、博麗の札に似たものでした」
「なぜ私に言わなかったの」
「お嬢様が、まず内部確認を優先しろと」
レミリアは悪びれない。
「自分の館の中のことを、先に調べるのは当然でしょう」
霊夢は息を吐いた。
「で、剥がした札は?」
咲夜が小箱を差し出す。
中には、乾かされた偽の博麗札が入っていた。
霊夢はそれを見て、眉をひそめた。
湖底の札とは少し違う。
印がより正確になっている。
博麗の筆筋に近づけようとした跡がある。
「誰かが上達してる」
魔理沙が言った。
「嫌な上達ね」
霊夢は札を指先で持ち上げた。
札の端に、細い青い線が入っている。
青筒組の印と似た色。
だが、線の引き方が妙に丁寧だった。河童の機械的な加工ではない。人の手、あるいは妖怪の手で後からなぞられている。
パチュリーが言った。
「その札は、湖底のものより後に作られている可能性が高いわ」
「つまり、犯人は博麗の札の真似を続けてる」
「ええ。より本物に近づけるために」
霊夢の目が冷える。
「気に入らないわね」
その時、地下の奥から鈍い音がした。
ごぼ、と水が喉を鳴らすような音。
咲夜がすぐに振り返る。
「排水路です」
一行は奥へ向かった。
古い扉の先に、狭い水路があった。
紅魔館の設備よりさらに古い。石は黒く、ところどころ苔が生えている。水は浅いが、流れが異常に速い。
流れの方向が、おかしい。
館の外へ出るはずの水が、逆に奥へ吸われている。
魔理沙が身をかがめた。
「こりゃ自然じゃないな」
パチュリーが小さく頷く。
「この先は、命蓮寺の水運路の下を通っている可能性がある。今は使われていないはずだけれど」
「使われていない水路ほど、悪いことに使われる」
咲夜が言った。
その口調が妙に実感を帯びていたので、霊夢は横目で見た。
「紅魔館でも使ってたの?」
「非常用に把握していただけです」
「また便利な言い方」
その時、流れの奥から何かが流れてきた。
小さな木片。
いや、荷札だった。
咲夜が素早く拾い上げる。
濡れているが、文字は読める。
そこには、命蓮寺の印に似たものがあった。
魔理沙が苦笑する。
「さっき私が言った通りになったな。次は命蓮寺の荷札だ」
霊夢は荷札を受け取った。
これも偽物だ。
だが、今までのものより少し出来が良い。
命蓮寺の印を知っている者が作ったのか、それとも本物から写したのか。
「水は命蓮寺へ繋がってる」
「あるいは、命蓮寺へ疑いを向けたい」
パチュリーが言った。
レミリアは退屈そうに見えて、目だけは鋭かった。
「博麗。これで分かったでしょう」
「何が」
「湖は、もうただの湖ではない。誰かが水を使って、幻想郷の勢力図を描き直そうとしている」
霊夢は答えなかった。
レミリアは続ける。
「紅魔館は名を使われた。博麗も使われた。次は命蓮寺。おそらく永遠亭も守矢も使われる。最後に、全員が水を欲しがる」
「その時、誰が水を売るか」
「そう」
レミリアは笑った。
「水を止めた者が、水の価値を決める」
霊夢は水路を見つめた。
流れは暗い奥へ吸い込まれている。
どこかで誰かが水を止め、引き、濁らせ、名前をつけようとしている。
その名前に、博麗を使っている。
それだけは許せなかった。
霊夢は本物の札を取り出し、水路の壁に貼った。
水の流れが一瞬だけ揺らぐ。
逆流が弱まり、奥へ吸われる力が少し緩んだ。
パチュリーが目を細める。
「応急処置ね」
「本格的に直すのは面倒だから」
「放置すれば、また吸われるわ」
「分かってる」
霊夢は振り返った。
「次は命蓮寺に行く」
魔理沙が帽子を直した。
「第三章は守矢じゃなかったか?」
「予定なんて水みたいなものでしょ。流れるのよ」
「うまいこと言ったつもりか?」
「黙りなさい」
咲夜が命蓮寺の偽荷札を封筒に入れた。
「紅魔館からも同行者を出します」
「咲夜?」
「はい。紅魔館の名を騙った件、命蓮寺の荷札との接点を確認する必要があります」
レミリアが不満そうに言う。
「咲夜を貸すの?」
「貸すわけではありません。必要な調査です」
「なら仕方ないわね」
レミリアは霊夢を見る。
「博麗。忘れないで。湖は私の景色よ」
「まだ言うの」
「だから、勝手に濁らせた者には相応の報いを」
「分かってるわよ」
霊夢は階段へ向かった。
地下の水音が、背中にまとわりつく。
紅魔館は被害者だった。
だが、水を囲っていた側でもあった。
湖を守ると言いながら、自分の館へ引き入れていた。
それを当然だと思っている。
守矢も同じだろう。
河童も、命蓮寺も、永遠亭も、人里も、博麗でさえも。
誰も水を独り占めしているつもりはない。
ただ、自分の分だけは当然だと思っている。
その当然の隙間に、青い筒が差し込まれている。
館を出る頃には、霧の湖の霧がさらに濃くなっていた。
湖面の水位は、また少し下がっているように見えた。
遠くでチルノの声がする。怒っているのか、怖がっているのか分からない。
咲夜は紅魔館の門の前で霊夢に並んだ。
「命蓮寺へ向かいますか」
「その前に、守矢にも顔を出す」
魔理沙が言う。
「忙しいな」
「忙しくしたのは、偽札を貼った奴よ」
霊夢は袖の中の偽札を握った。
博麗に似せた札。
紅魔館に似せた封印紙。
命蓮寺に似せた荷札。
次に出てくるのは、守矢の神紋か、永遠亭の薬包みか。
それとも、八雲の境界か。
霊夢は霧の向こうを見た。
「水を止めた奴に、水は任せない」
その言葉は、湖の霧に吸われていった。
けれど、水はまだ流れている。
細く、濁って、曲げられながらも。
だからまだ、取り返せる。